日本近現代文学と四国巡礼――井伏鱒二「へんろう宿」の場合

沼田 真里*

“Modern Japanese literature and Shikoku pilgrimage”

— Masuji Ibuse’s pilgrimage novel “Henrou Yado”

Mari NUMATA*

The purpose of this paper is to focus on modern Japanese novels and essays in which the Shikoku Pilgrimage appears, and to examine the characteristics of their expression and the nature of their works. It can be assumed that works of novels and essays can be classified into two groups. These are works of fiction and works of non-fiction. By analyzing these two aspects, we will analyze how pilgrimage has been imaged
and received in modern Japanese literature. We will also examine what literary scholars gained from the experience of the Shikoku Pilgrimage and how they expressed it, and evaluate the role and significance of the Shikoku Pilgrimage. This time, as a starting point, I will analyze Masuji Ibuse’s “Henrou Yado.”

目次

はじめに

 四国巡礼は 1200 年の歴史を有し、今もなお国内外から巡礼を目的とした旅人が後を絶たないほどの人気を博している。お遍路といえば、白衣にすげ笠、金剛杖の姿で歩いて巡礼する姿がイメージされるだろう。現代では歩き遍路のほかに、自家用車やバスツアーでの遍路、バイクや自転車の遍路もあれば、服装も人それぞれ、目的もそれぞれとなっている。初心者向けの本やサイトでは、本来の修行の一環としてのお遍路のマナーや作法、心構えも説かれているが、方法やスタイル、その目的も多様になっている。一方で、地元民の「お接待文化」は変わらずあり、お遍路さんへのお接待という文化が現代でも残る点では、全国的にみても珍しいという。近年では、世界遺産登録へ向けての動きもあり、愛媛大学でも「愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター」を設立するなど、研究面からのアプローチも広がっている。そこで、本稿でも着目したいのが、日本近現代文学における〈お遍路〉というテーマである。先行研究としては、愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センターの活動に多くの示唆を得ることが出来る。2017年3月発行の研究紀要「四国遍路と世界の巡礼」第2号において、小嶋博巳「演劇・文学と巡礼―河合眞澄氏の講演によせて―」では特に、河合眞澄氏の講演「歌舞伎の中の巡礼」(1)の内容から発展し、近世以降の表象としての巡礼者として、近現代の文学における四国巡礼や巡礼者の描かれ方について分析がある。また青木亮人氏は「俳句・文学から見る近現代の四国遍路」(2)や、「北条の「へんろ」の墓と俳人高浜虚子」「近代短歌や俳句に見る岩手寺の香煙、塔」(3)を発表している。青木氏の論では、俳句の表現における四国巡礼が中心となっており、小説作品や文学者の体験記への示唆はあるものの、散文作品の詳細な分析や評価は少ない。また同大学の中根隆行氏のエッセイ「お四国なさる―旅と遍路の近代」(4)では、高群逸枝、荻原井泉水、下村千秋をあげ、大正期の四国巡礼の近代化と観光旅行の一般化を指摘し「ただ、人伝に聞くだけでなく、活字から四国遍路に触れ、旅行者としてお遍路さんに出会う時代が到来していたことは確かである」と言及されている。

 これらの先行研究を参考にし、論者は特に散文作品をとりあげ、日本近現代文学において四国巡礼やお遍路が描かれた作品を調査するとともに、その表象の特徴や作品の性質を分析したい。また本稿ではその一歩として、井伏鱒二「へんろう宿」「虎松日記」を取り上げる。この二作品は、日本近現代文学に描かれたお遍路の表象を考察するためには最適な事例と考えるからである。


令和5年11 月15日受付(Received November 15, 2023)

新居浜工業高等専門学校一般教養科
(Faculty of General Education, National Institute of Technology(KOSEN), Niihama College, Niihama 792-8580, Japan)

四国巡礼が登場する作品について

まず四国巡礼の描かれ方を考える上で、近現代の文学作品を以下の二つの系統に分けられるだろう。①フィクション作品(小説や映画といった創作作品) ②ノンフィクション作品(文学者による体験記、随筆)である。①に関しては、作品中に表象としての四国巡礼・お遍路が描かれ、そこに象徴されている意味や意図を分析することで、近現代の日本文学の中でお遍路がどのようにイメージされ受容されてきたかを評価することが可能である。そこでは、地元住民や四国巡礼経験者が思い描くお遍路像とは異なる、想像で作られたイメージも多く含まれると考えられる。この点については、前述の小嶋博巳氏の論に、「四国遍路という巡礼がもつ(とみなされた)高い非日常性が、創作上、有効であるからにほかならない。(略)四国遍路が、近現代日本の巡礼のなかでも特異な視線を向けられていた巡礼であったことに、あらためて気づかされる。と同時に、近現代の社会が巡礼をどのようなものとしてみようとしていたのかを、このことは教えてくれるのである。創作に登場する巡礼は、そこに向けられた社会の眼差しを反映している」とある(5)。つまり、近現代の文学作品における四国巡礼者には、社会がイメージしていたお遍路像が反映されているのである。しかも、西国三十三か所などの他の巡礼と比較しても、それが顕著であるとの指摘もある(6)。

 また、小説や映画に四国巡礼やお遍路が登場することで、イメージがさらに形成される側面もあり、文学者の想像によるイメージ像が、一般の読者、一般市民へ与えた影響も検討する必要があるだろう。今回、論者がこのテーマに興味をもった理由には、小説や映画で描かれるお遍路像が、作者によってかなり脚色されているのではないかと感じる場合が多々あったからである。端的な例として、坂東眞砂子『死国』においてモチーフとして使われた四国巡礼の「逆打ち」をあげよう。映画の中では、逆打ちは死者を蘇らせる魔術的儀式として使われ、札所から砂をとってくる行為や、札所の御朱印が部屋中の襖に貼られている場面など、禍々しさの演出として極端な様子で用いられている。これをみて論者は、初心者とはいえお遍路を経験した人間として、もはや笑っていいのか怒っていいのかわからないという感想をもった。ホラー映画ゆえの脚色とはいえ、あまりにも過剰な演出に、本来の逆打ちのイメージがかなり歪められていると感じた。加えて、気になったのは、「死国」がジャパニーズホラー映画ブームが起こった90年代に映画化され、ある程度の世間的認知をえた作品だったという点だ。逆打ちは本来、四国巡礼の元祖ともいわれている衛門三郎の伝説に由来し、逆打ちをした衛門三郎が弘法大師に会えたのが閏年ということから、閏年に逆打ちをすると功徳が三倍になるとされる。また、遍路道での道標や案内版は順打ちの経路で設置されており、道標や案内板も逆さになり道に迷いやすいなど、逆打ちは難易度が高く、それだけの志や想いがあって選ぶ巡礼とも受け止められる。つまり、実際の逆打ちとは、難易度は高いが、通常より数倍の功徳がつめる、ありたがい巡礼方法なのだ。ほかにも、「死国」には石鎚山の修験道者が出てくる場面もあり、「死国」の原作者・坂東眞砂子は高知出身の作家だけあって、四国の民俗学的知識は豊富だったとわかる。ただ、いずれもホラーを描くための演出が強く、脚色が強い。故に、四国の地元の人からは、もはや全くの別物として扱われ、不問にされてきたのではないだろうか。ただ四国県外の一般市民にはどのように受け止められたかは不明である。以上のように、「死国」はあまりに極端な例だとして、モチーフとしての四国巡礼や巡礼者は、作家の想像力を豊かに刺激してきたことは確かなのだ。

 一方、②のノンフィクション作品で書かれるのは、実際に四国巡礼をし、筆者が自己の体験から書いたお遍路像となる。個々の体験は多種多様であるとはいえ、四国巡礼に何を求め、その経験からなにを得て、それをどう表現したのかを分析することで、日本の近現代の文学者にとっての四国遍路の役割や意義を評価することが可能だろう。また視野を広げれば、②のお遍路体験記や手記は、ひろく多種多様な立場や属性の人たちが書き、書籍として出版されている。最近では、海外からの巡礼者も増え、外国人のお遍路体験記も出版される国際化しつつある。それらを広く考察することも大変意義あることで、体験記の研究も進みつつある。しかし、あくまで論者は日本近現代文学におけるフィクション作品、もしくはノンフィクション作品に対象を限定することで、そこから特徴と傾向を分析したい。小嶋氏の論であげられている作品(小説、映画、ドラマ)を参考に(7)、作品群を検討すると、現状では次のように考えられる。

  • 高群逸枝「娘巡礼記」(1918 年)
  • 下村千秋「遍路行」(1939 年)
  • 種田山頭火「四国遍路日記」(1939 年)
  • 井伏鱒二「へんろう宿」(1940 年)
  • 田宮虎彦「足摺岬」(1949 年)
  • 松本清張「砂の器」(1960~1961 年。映画化は 1974 年)
  • 素九鬼子「旅の重さ」(1972 年)
  • 野坂昭如「花のお遍路」(1975 年)
  • 早坂暁「花へんろ」(1986 年。ドラマは 1985~1988 年)
  • 澤田ふじ子「遍照の海」(1992 年)
  • 坂東眞砂子「死国」(1993 年。映画化は 1999 年)
  • 車谷長吉「四国八十八ヶ所感情巡礼」(2008 年)
  • 石井光太「蛍の光」(2016 年)
  • 黛まどか「奇跡の四国遍路」(2017 年)
  • 天童荒太「巡礼の家」(2019 年)

井伏鱒二「へんろう宿」試論

井伏鱒二「へんろう宿」は、1940 年に『オール読物』発表された作品だ。井伏作品の中でも、名作短編として大学の教科書教材にもしばしばとりあげられる。従来の研究では、作者=私という「私小説」的な読み方や、〈異界〉や幻想小説という評価、またテクスト論やフィクションとしての分析も進んでおり、様々に言及されてきた作品である。作品創作の背景は、井伏自身のエッセイ等にもたびたび書かれている。その要点を整理すると、

  • 恩人である田中貢太郎や、その同人「博浪抄」との交流で、井伏は高知へ何度も訪問している。
  • 田中貢太郎が胃潰瘍で倒れた際に、井伏が高知県安芸市に見舞った際に思いつき、短い期間で書かれた作品である。

となる。このような背景から、読者は自然と視点人物である「私」に作者自身を重ねつつ、高知県安芸市周辺を舞台にしたこの物語をフィクションとして読む。また同時に、「へんろう宿」というタイトルとその内容から、四国巡礼という風土や風習を前提に、読者は読み進めることとなる。原稿用紙13枚ほどの短編において、「へんろう」つまり〈お遍路〉が小説の根幹といえるだろう。従来の研究でも、「四国巡礼」という設定から、様々な分析や考察がなされてきた。たしかに、もし本作から高知県安芸市という設定や、遍路宿という設定を取り除いたら、お婆さんたちの物語も、小説全体も、まったく別物の作品になってしまう。それくらいに、「四国巡礼」が重要な素材になっている。

 視点人物であり語り手である「わたし」が、狂言回しのように話を描写する。また、「わたし」が偶然聞いてしまった、へんろう宿・波濤館やお婆さんたちの生い立ちの物語。そして波濤館の五人の女性の姿。それらが揃うことで、作品の存在感や深みが成立している。読者は誰しもお婆さんたちの数奇な人生と、その殊勝な生き様に驚き感動する。そしてまたこう感じるのではないだろうか。果たして、本当にそのような宿が存在するのだろうか。そんなことがありうるのだろうか、と。論者も、まるで日本昔話に登場するふしぎな物語を聴くかのような素朴な疑問を抱きつつも、美しい物語としてこの名作を受け止めてきた。しかし、ふとしたご縁から、初心ながらも四国巡礼をした後に、再び本作を読み返してみると、また違った角度からいくつかの疑問が浮かんだ。そこで、あらためて本稿では、実際の四国巡礼の風習や四国の歴史を参考にしながら、井伏鱒二の名作「へんろう宿」の再検討を試みる。そうすることで、「へんろう宿」のもつ力を、より明確に分析できると考えるからだ。

宿としての波濤館の再検討

波濤館の住所は「遍路岬村字黄岬」とされ、看板には「へんろう宿 波濤館」と書かれている。一説には、モデルは大山岬(高知県安芸市下山)だという。実在の大山岬の近くには27番札所・神峯寺(高知県安芸郡安田町唐浜 2594)がある。「へんろう岬」が大山岬周辺だとすると、波濤館という遍路宿は、神峯寺に参拝する巡礼者が泊まる宿と想定できる。

 四国巡礼のなかでも、高知は「修行の道場」といわれ、札所と札所の距離が最も離れている寺もあり、過酷な区間とされる。たしかに、四国巡礼のルートのなかでも高知県は、徳島の県境から始まり愛媛の県境まで太平洋を望む海岸線を回るように札所が点在し、徳島県の23番札所・薬王寺から考えると、総距離で259kmに及ぶ。高知は、室戸岬にある24番札所・最御埼寺から25番札所・津照寺、26番札所・金剛頂寺と続くが、室戸岬から安芸市までは、札所同士が割合に離れている。また神峯寺から、次の 28 番札所・大日寺(高知県香美市)までも、38kmと離れている。室戸岬方面から来たお遍路が、高知市や香美市といった県の中心部までたどり着けない場合、その手前の神峯寺周辺で宿をとると推察すれば、辺鄙な場所にあるものの、波濤館は旅人にはありがたい宿といえる。

 さて、題名に「へんろう宿」とあり、作中でも四国巡礼者向けらしき宿が舞台となっている本作だが、そもそも遍路宿とは何なのか。一般の人はほとんど知識はなく、ただ巡礼者が泊まる宿なのだろうと想像するのではないだろうか。

 井伏は「へんろう宿(私の描いた四国)」(1959 年 12 月 1日、「旅」)で、「高知から安芸町へ行く途中にも、小じんまりした町や、港町などに『へんろう宿』と書いた看板をかけた貧相な宿がある。戦争前から戦争中にかけての話だが」と書いており、当時も「へんろう宿」が周辺にあったと推測される。田中貢太郎「四国巡礼記」(8)にもお遍路宿の説明があり、お遍路専門の宿だが木賃をとっており、木賃宿と同じ形態と考えられる記事が登場する。よって当時の高知も「へんろう宿」と看板に掲げている宿が複数あったと推測される。波濤館に宿泊している人物は、商人風の男と「わたし」のみであることから、波濤館は一般客とお遍路が同宿する宿と考えられる。

 このように、敢えて書くには理由がある。遍路宿には、様々な形態があるからなのだ。例えば、巡礼者用の宿泊場所として、寺内にあったとされる遍路屋や通夜堂、善根宿といった無料宿泊所がある。これらはお接待文化の一つとして度々挙げられ、四国巡礼の特殊な伝統といえる。これらの巡礼者向けの宿は、はじめは遍路屋が寺内に存在し、貧困や病気の遍路を泊まらせたことが始まりで、そのほかに宿を請われた地元民が善意で泊まらせる、もしくは御利益や善行を積むために泊まらせたのが善根宿だという。とはいえ、善根宿が沢山あるわけではなく、旅籠や木賃宿、寺内の通夜堂など、旅人の経済状況によって泊まる場所が異なっていた。普通の木賃宿でも、遍路の場合は、食事抜きの木賃形式で泊まることが多く、近世中期以降は比較的宿泊できる場所も増え、巡礼者は宿には困らなかったいう(9)。

 うがった見方かもしれないが、作品設定として、お遍路ではない人間が同じ宿に泊まるためには、宿がお遍路専用の無料宿泊所であっては不都合といえる。この点も、視点人物があくまでただの旅人で、外部から観察した〈へんろう(お遍路)〉を描写するためともいえる。また、戦前戦中は、戦時下に娯楽としての四国巡礼をするのはもってのほかで、「ぜいたくをせずに質素に、そして国家の勝利を祈願する巡礼が好ましい」とされる風潮になっており、「昭和 10 年代になると巡礼者は激減し、一九三五年を一〇〇%とすると、一九四三年には三四%」だったという指摘もある(10)。井伏が高知を旅した当時(昭和 15 年、1940 年)も、巡礼者は減少傾向の時期であり、彼が滞在中にみたお遍路は戦中にあって巡礼をしていた貴重な人々、もしくは事情があって生活のために遍路をしていた人々という可能性がある。よって、現実に即して読むならば、当時の波濤館も、巡礼者の利用が減り、一般客の利用が中心になっていた時期とも推察できる。

 以上のように、巡礼の経路上の立地や、巡礼者向けの宿泊施設として検討し直すと、波濤館への印象が少々異なってくる。タイトルの「へんろう宿」からくるインパクトが大変強いのだが、実際はより一般的な木賃宿に近い、田舎の漁師屋風の宿だったと考えられる。それでも、まず「へんろう」と題したネーミングの妙が大きいとわかる。このように、史実と照らし合わせることで、井伏が高知の景色からインスピレーションで作り上げた空想の宿だということがより明確になる。

子捨て宿としての波濤館
――子連れ遍路、乞食遍路について

短編「へんろう宿」における最大のドラマは、従業員は五人の女性のみであり、彼女たちはみな波濤館に泊まった客の捨て子で、十年ごとに子どもが捨てられ、なおかつ捨て子が捨て子を育てる宿だったという点だろう。

 信仰や信心としての四国巡礼から考えると、子捨てという罰当たりともいえる行為が可能かどうか。やむにやまれぬ理由からの子捨てだとしても、継続的に習慣的にお遍路が子捨てをするという場所があるとするならば、その村や集落は本当にそれを受け入れたのだろうかなど、さまざまな疑問が浮かぶ。

 しかし、四国巡礼の歴史と照らし合わせた時、奇しくも、本作がその歴史的な背景に大きく下支えされているとわかる。3-1 でもわかるように短期間に書かれており、本作を執筆した際、井伏鱒二自身はそれほど四国巡礼の知識は少なかったかもしれない。しかし、はからずも歴史的事実の暗部と重なっている点が、この〈子捨て宿〉という要素なのだ。

 まず、子連れ遍路については、先行研究にいくつか指摘があり、実際に江戸期から子連れで遍路した例が複数確認できることから、子連れ遍路、家族での遍路は実際にあったと考えうる。例えば、「哥吉回国物語」では、天保 5 年(1838)年~同 8 年にかけての苦難に満ちた少年の四国遍路・日本回国の物語が記録されている。哥吉は土佐の貧農の子に生まれ、養父母に育てられ、義母と義弟と三人で四国巡礼に出るが、「村に居たのでは食っていけなかった」から「巡礼の名前を借りた乞食参拝者と」となり、巡礼中に、義母も義弟も病死している(11)。また後述するが、両親と子供たちで乞食遍路をしていた一家を助けたことから孤児院を創立した人物など、貧困の為、親子や母子、父子で連れだって四国巡礼をしている事例が複数確認できる(12)。このように、貧困のために国元を離れ、巡礼の名を借りた乞食遍路をする子連れも多くみられた。その結果、旅路の途中で親や子が死ぬという記録も見られる。

 さて、以上の背景をふまえ、本作の分析に戻ろう。「はて、誰がそんなに捨て児していくのやろ。儂らは、その親の料簡が知れん」という男性客に対して、オクラ婆さんはこう語る。

「けんど、わたしは五十年もまえに捨てられた嬰児で、親の料簡がわかるわけはありませんきに。きっと、この遍
路岬に道中して来る途中、嬰児をもてあましているうちに、誰ぞこの宿屋の風習を習いましつろう。たいがい十年ごっといに、この家には嬰児が放ったくられて来ましたきに」

 本作においても、波濤館に捨て子をした親は、子連れ遍路だといえる。しかも、嬰児を連れての旅となるとさらに特殊であり過酷だっただろう。嬰児を連れて国元から出てきたのか、巡礼の途中で生まれた嬰児なのか。いずれにせよ、〈子供を捨てる〉という行為を親の立場から想像するに、経済的に豊かであり健康であれば、子供を捨てる理由は考えられない。親の側に、貧困や病気など、嬰児をそのまま連れて歩けない何らかの事情があったと推察される。この貧困の問題に関しては、〈乞食遍路〉といわれ、〈病気遍路〉〈行き倒れ遍路〉と共に、四国巡礼の歴史の暗部といわれてきた(13)。

 平安時代から始まったとされる四国巡礼も、普及するにつれ、当初の宗教者の修行的側面に加え、伊勢詣や熊野詣のような庶民の観光的な側面も出始める。江戸後期になると飢饉や重税の生活苦から、四国巡礼のお接待文化をたよりに、日本各地から貧困民や居場所を失った民が流れ着いてきた。やがて職業遍路や、犯罪者まがいの与太者もあらわれ、困りかねた四国各藩がお遍路への厳しい処置をするといった歴史もあり、「へんど」という蔑称も存在した。その上でも、住民たちは、行き倒れの遍路を、村々を取り次いで国元まで送り届けたり、死んだ場合は墓を立てるなどした。村によっては、行き倒れや病人を助ける必要がでた場合のお遍路専用の小屋もあったという(14)。ただ、助けはするが、決して定住することを良しとするわけではなかった。巡礼という名の停留・定住をされると困るので、本当に遍路がどうかの確認を取る政策も取られた。様々な変遷がありつつ、お遍路への取り締まりは、明治期まで続いた(15)。

 田中貢太郎「我が身の素性を探りに」(16)には、お遍路が捨てていった子供を、高知の農民が育てた実話が紹介されている。その事例では、遍路の捨て子であることは周知の事実で、出自にまつわる差別意識が長年本人を苦しめたということが書かれている。また、親子連れの行き倒れお遍路を助けたことから、岡山で孤児院を設立した善行者がいたそうで、『岡山孤児院』という書籍も刊行され、数年後に婦人雑誌で記事にもなっている(17)。ただ、そのような捨て子を定住させるまでの文化が四国にあったかどうかは不明である。

 また、四国四県が特別豊かであったわけでもなく、土佐でも間引きが行われていた歴史も確認できる(18)。本作では、捨て子に対して、自分の親については何も告げないという設定がある。そのような特殊な場所があると喧伝された場合、お遍路の子だけではなく、地元民の子供も混ざる可能性もあるのではないだろうか。また貧困ゆえの子捨てという行為に、地元住民に同情があったと考えられないだろうか。もともと自分たちも決して生活が豊かではないのに、お遍路に接待をする人たちである。お遍路によって捨てられた子供を、見殺しにすることはしなかっただろう。

 ただ、以上のような仮説を立てたとしても、そのような特殊な場所が四国に存在したかどうか、確認はできない。そもそも井伏鱒二自身も、「あれ(「へんろう宿」)は空想だ」だと語っており、「土佐の人が『ああいう宿はない』と言って(来た)」と語ったというインタビューの記録もあり、フィクションであることは確かなようだ(19)。しかし、フィクションであるという点が薄れてしまうほど、本作のリアリティが強いのはなぜか。それは、以上のような歴史的背景の重み――子連れ遍路、乞食遍路といった貧困者たちの存在――が、奇しくも「へんろう宿」の子捨て宿と合致したからではないだろうか。長年積み重ねられてきた四国巡礼の歴史と重なるからこそ、本作の柱である〈お遍路の子捨て宿〉という設定は、ここまでの奥深さや力を持ちえたのではないだろうか。

捨て子の恩返しの連鎖と循環

作品初出時の1940年時点から、五人の女性たちの年齢と出生を単純計算すると、次のように推察される。

  • 80 歳位のオカネばあさん 1860 年生まれ前後
  • 60 歳位のオギンばあさん 1880 年生まれ前後
  • 50 歳位のオクラばあさん 1890 年生まれ前後
  • 15 歳の少女 オシチ 1925 年生まれ前後
  • 12 歳の少女 オクメ 1928 年生まれ前後

 作品初出時の1940年時点から計算して仮定すると、一番年長のオカネばあさんは、万延~慶応生まれの可能性が出てくる。「その前のお婆さんも捨て子だった」という台詞があることから、オカネばあさん以前にも、捨て子の女性従業員がいたということが分かる。ということは、江戸末期からすでに捨て子のへんろう宿・波濤館は存在していたのだ。この伝聞により、古くはどこまで遡れるか不明だが、歴史の深さと時の長さを感じさせる効果が出てくる。前述したように、貧困者のお遍路が増加した江戸後期と、〈お遍路の子捨て宿〉である波濤館の歴史も重なっている。また、およそ 10 年おきに捨て子が来ると語られることで、年少の少女たちが15 歳、12 歳であることから、そろそろ子供が捨てられてもおかしくない時期ともいえ、未来の連鎖をも予感させる構図なのだ。

 「へんろう宿」が読者を感動させ、驚嘆させる点の一つに、お遍路の捨て子たちがご恩返しとして、一生独身のまま宿の従業員として生きていくという設定がある。江戸時代からあったと推察される波濤館だが、捨て子たちはみな女の子で、成長しても結婚せず、一生独身を通して波濤館で働く点は、まるで尼寺のような女性集団なのだ。捨て子という不遇の身だった遍路の子が、波濤館に拾われて育てられた結果、また新たな捨て子を引き受けて育てるという、ご恩返しの連鎖と循環の構図である。

 前述したとおり、本作はあくまでフィクションなのだが、風土風習や地名など、実際に存在するものをモデルとし、視点人物も作者を思わせる男性にすることでリアリティが担保される。前述のインタビューで井伏は、田中貢太郎が胃潰瘍で療養していた宿・小松屋旅館の女性たちをモデルに、波濤館の女性たちを作ったとも語ってもいる(20)。高知に実在する地名が使われ、モデルとなった人物や宿があったものの、このご恩返しの連鎖と循環の設定も非常に特殊で、実際にはありえない話だろう。「哥吉回国物語」や他の事例でも分かるように、現実の四国巡礼の歴史の中では、子どもの巡礼者は、大人と共に悲惨な最期を遂げた例や、他の大人と旅を続ける例などがある。田中貢太郎の聞き書きのように、地元の人の手で育てられ成長した場合は、かなり奇特で幸運な事例だったといえるだろう。

 けれども、「へんろう宿」では、波濤館をご恩返しの連鎖と循環の場にすることにより、土佐に根付いた遍路の子供たちを描く結果になった。現実に即したならば、悲惨で残酷な世界を、美しい物語に昇華している。本作は、現実の四国巡礼の悲惨さから離れ、遍路の捨て子をけなげな人々として昇華したことで、四国巡礼者の肯定的な像を提供した点で貢献していると評価できよう。

もう一つの遍路小説・「虎松日記」

 「へんろう宿」が名作短編として愛され論じられてきた一方、看過されてきたもう一つの遍路作品がある。それが井伏鱒二の「虎松日記」である。「へんろう宿」から9年後の 1949年 1 月 1 日『苦楽』に発表された作品で、井伏が知人の案内で備後神石郡小畠村の代官所を見学し、その古文書のなかから見つけた日記を作品化したものだ(「小畠村の話」)(21)。内容は、「備後小畠代官支配二森村で死亡した四国遍路虎松の記録」だ。虎松は、土佐・伊予を廻っており、備後小畠村で行き倒れとなって代官所で検視を受けたことで、小畠村に記録
が残っていた。

 筆者は、実在の古文書の文章をそのまま引用しながら、虎松の顛末について描くわけだが、本作の興味深い点は、地の文で、寛政期の農民の状況と、彼らが四国巡礼に行った背景を史実に即して説明している点である。前述してきたように「へんろう宿」が空想で書いた小説であり、井伏鱒二が高知の思い出から作り上げた美しい物語だとしたら、まさに「虎松日記」は実際の一お遍路がたどった人生の断片をそのまま提示している作品なのだ。例えば、虎松が四国遍路へ出た背景に、当時の百姓の苛烈な年貢納めの苦悩が書かれる。

「去る寛政七卯年には、冬ぢゆうの大雪と夏の旱魃と秋の大風で、安芸守の領分の大田村一帯の地は大変な不作であつた。しかし参観中のお殿様は、江戸でのおつきあひその他のため失費が嵩張るので、領内の百姓たちから苛烈に年貢を取り立てた。(略)貧農の内には、一家ぢゆう打ちそろつて夜逃げするものものあつた。乞食となつて他国を放浪するのである。大田村の或る一つの部落では前年の極月までに、そこの部落全体の百姓が夜逃げをした。しかし他国に出てもめぼしいことにありつけるわけがない。(略)そこで、少しでも信用のあるものは地主から立てかへてもらつて御年貢を納めた後、冬の農閑期に他国を歩きまはつて一時しのぎをする(以下略)」。

 日記によると、虎松も他の百姓同様に、地主に年貢を立て替えてもらい、若六という年下の村人とともに、二人連れで四国遍路に旅立っている。「私ども、お四国は今治より高松を経て、児島に渡る順路に御座候」とあり、虎松たちの予定は、「彼らは莫江から今治に渡り、四国の北岸伝ひに高松に出て、そこから船で児島半島に渡つて帰国する予定」だった。この頃から四国巡礼を「お四国」と呼んでいた点も興味深く、回国といっても伊予から讃岐にかけての一部の地域であり、生活苦からの一時しのぎが明確だ。道中も「乞食」をしながら歩き、「十日路内外の道程」を「三十日あまりも費やし」、札所の巡礼が目的ではないとわかる。「物乞ひ」も、幼い頃そこで育った土地である尾道ではためらい、莫江にいって初めて物乞いをするなど、やむにやまれぬ事情で「お四国」となった百姓の心理が直截に描かれる。若六の看病、旅の途中での若六の突然の行方不明などのアクシデントにより、虎松は約束だった二か月半後に国元に戻ることが叶わなくなる。

 そして、本作のもっとも見事なところは、末尾の「虎松は確かに帳外の人間になつてゐたのである。」の一行である。それまで記録として客観的な描写が続くが、ここにきて、書き手の井伏のまなざしや、ここで筆を止めるという意思が強く感じられる。厳しい年貢に苦しめられ、一時しのぎのお四国に出た百姓が、想定外の出来事が続き、不幸にも国元に帰る機を失い、見知らぬ土地で苦労して暮らしながら、しまいには行き倒れとなる。そして、行き倒れとなってやっと村継ぎで国元に戻れるかと思い、太田村に身元照会がいくわけだが、その大田村ですらすでに「帳外」の者として、虎松の籍が抹消されていた。この結末が、感情ではなく客観的な事実が書かれることで、かえってその残酷な現実が読者に提示される。死んでも故郷に戻ることが叶わない、故郷の戸籍さえ消されている、一貧農のあわれな最期だ。

 このように、「虎松日記」には、日記という実在の古文書をそのまま用い、文章自体も引用することで、フィクションでは生み出せない凄みや味わいを出している。井伏は地の文で情報を補足しながらも、虎松日記自体がもつ妙味を崩さないよう、巧みに文章を紡いでいく。そして、これこそ本当のお遍路作品といっても過言ではない、リアルなお遍路物語と評価できる作品となっている。

 地の文の説明に、江戸期の四国巡礼者の情報量も多いことから、この際には井伏は四国巡礼の歴史の調査もしたと推察される。なぜ、井伏は「へんろう宿」という名作短編を書きながら、また九年後にこの「虎松日記」を書いたか。「へんろう宿」は、井伏鱒二が高知でみた遍路宿や遍路道、そして地元の人々の温かく素朴な様子から生まれた四国巡礼への空想――幾分ノスタルジーも混ざる――だった。また、空想によって短期間に結実した物語であった。その9年後に、偶然に発見した江戸期の古文書の中で、井伏は四国巡礼と再会することとなる。そこには、想像の世界だけでは作り出せない、生々しいお遍路の実人生があった。その物語に井伏も衝撃をうけたのではないだろうか。井伏はこのほかにも小畠村の古文書を題材にした記録小説を複数残している(22)。市井の人の一生を描くことに定評がある井伏が、「虎松日記」を史実に即して記録として書き綴ったところに、四国巡礼への特別な思い入れを感じる。「へんろう宿」のような空想ではなく、史実に即した記録として描いた点に、四国巡礼者を描いた作品としての本作の個性や意義があると評価できるだろう。

おわりに

 「へんろう宿」と「虎松日記」。井伏が残した二つの四国巡礼の作品を並べることで、創作としての四国巡礼と、記録としての四国巡礼と、両方の特質を見ることができる。同じ作家であっても、描き方によってこれほどに作品内容は変化する。「へんろう宿」で井伏は、四国巡礼というモチーフを最大限用いた結果、空想の美しい物語の創造に成功している。一方、「虎松日記」では、四国巡礼の歴史を丁寧に淡々と書いた。そこには決して美しさだけで表現できない市井の人の四国巡礼があり、貧困、みじめさ、哀れさ、あてどない放浪の旅と行き倒れの人生があった。そのような虎松の一生すら光をあてて、味わい深く読ませるように「虎松日記」は構成されている。

 また、創作と記録という二種類を提示しながら、実はどちらの作品も、井伏文学の特徴を十分に備えているのも興味深い。勝又浩『山椒魚の忍耐――井伏鱒二の文学』(23)によると、井伏文学のモチーフに〈閉じ込められる・幽閉〉と〈流される・漂流〉が交互にあるいは並行して存在したという指摘がある。前者は『山椒魚』『へんろう宿』、後者は『さざなみ軍記』『ジョン万次郎漂流記』とされ、次の分析が続く。

 「(前略)漂流や漂泊といっても井伏文学のそれは、例えば西行や芭蕉の旅――自分の意思で修業や風雅を求めてする旅などとは性格がまったく違う。それは『さざなみ軍記』の初題が「逃げていく記録」や「逃亡記」であったように、あるいはそのものすばりである『ジョン万次郎漂流記』のように、戦乱や災害、つまり本人の意思を超えた何者かのによって仕方なくさせられる旅、言ってみれば、旅の中に閉じ込められているのだ。そうしてそうだとすれば、井伏鱒二の幽閉と漂流は、結局は一つのことであって、対立した現象でも背反する観念でもなかったのだろうと想像できる。(中略)つまりは、〈閉じ込められる〉と〈流される〉と言う一種の極限状況なのだ。」この分析を参考にすれば、「へんろう宿」は〈幽閉〉、「虎松日記」は〈漂流〉と分類できる。これらから、四国巡礼者や彼らを受け入れる風土は、井伏鱒二と非常に相性が良かったとわかる。四国巡礼の場合も、西行や芭蕉のような修業や風雅の旅ではない。宗教家の修行から始まり、貧困や病い、何か理由あっての逃亡など、生存するために旅を迫られた庶民も多い。虎松は、まさに意図せずして旅に閉じ込められた男の一生である。一方、「へんろう宿」は、流れ着いた場所で生きるという、運命を享受した者たちの物語ともいえる。流浪の民としての巡礼者たちに、人の一生や運命を考えさせられる。このようなところに、井伏鱒二が求めた人間像もあったのではないか。この二作品は、井伏自身の作家としてのテーマと、四国巡礼との奇跡的な出会いから生まれたのだ。

 さらに、以上のことから、日本近代文学における四国巡礼を読み解くカギが明確になった。それは、四国巡礼という素材と、作家自身のテーマとが出会ったときに起こる相互作用である。この相互作用は、四国巡礼の描かれ方の〈現実/空想〉、〈実在/架空〉を問う分析に終始したら、取りこぼしてしまう質のものだ。史実を踏まえて作品を丁寧に検証しながらも、四国巡礼がいかに作家を刺激し、創造の源となり、作家の主題を豊かにさせたかを評価することが、本テーマのカギとなるだろう。

(1)愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター編「四国遍路と世界の巡礼」第 2 号、2017 年 3 月発行の研究紀要

(2)『四国遍路の世界』ちくま新書、2020 年4月

(3)『四国巡礼と世界の巡礼 上』風ブックス、2022 年 7 月

(4)中根隆行「お四国なさる―旅と遍路の近代」(愛媛大学法文学部日本文学科教室のブログ、2022 年 3 月 14 日)http://jllab.ll.ehimeu.ac.jp/essay/%E4%B8%AD%E6%A0%B9%E9%9A%86%E8%A1%8C%EF%BC%9A%E3%81%8A%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E3%81%AA%E3%81%95%E3%82%8B%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%85%E3%81%A8%E9%81%8D%E8%B7%AF%E3%81%AE%E8%BF%91%E4%BB%A3/
を参照

(5)注(1)参照

(6)小嶋博巳「演劇・文学と巡礼―河合眞澄氏の講演によせて―」(書誌は注(1)と同じ)

(7)注(1)参照

(8)『奇談全集 歴史篇』(1929 年、改造社)。後に、『天狗の面』(1940 年、春陽堂)にも収録。

(9)参考文献に挙げた、宮崎忍勝『四国遍路 歴史とこころ』、山本和加子『四国遍路の民衆史』、頼富本宏『四国遍路とはなにか』、森正人『四国巡礼』『四国遍路のあゆみ(平成12 年度遍路文化の学術整理報告書)』に詳しい。

(10)森正人『四国巡礼』2014 年 12 月、中央公論新社

(11)『四国遍路のあゆみ(平成 12 年度遍路文化の学術整理報告書)』愛媛県生涯学習センター、平成 13 年 3 月

(12)孤児院に関しては、石田祐安『岡山孤児院』明治 28年 3 月。雑誌記事は、「社会」欄に「岡山孤児院」という記事が、「家庭雑誌」115 号(74~77 頁、1898 年 4 月、家庭雑誌社)。親子、母子の巡礼については、宮崎忍勝『四国遍路 歴史とこころ』、山本和加子『四国遍路の民衆史』に確認できる。

(13)宮崎忍勝・『四国遍路 歴史とこころ』(同)、山本和加子『四国遍路の民衆史』(同)を参照

(14)森正人『四国巡礼』(注(10)参照)

(15)注(9)参照

(16)田中貢太郎『天狗の面』(1940 年、春陽堂)

(17)注(12)参照

(18)坂本正夫「子育て習俗の今昔」(「高知県高等学校教育研究会倫理部会 研究紀要」第27集、平成2年。https://www.kochinet.ed.jp/korinri/pdf_data/%8Eq%88%E7%82%C4 を参照。2023.11.9)。これによると、土佐の間引きは明治期まであったとされる。

(19)沼田卓爾「井伏さんの録音テープ」三(『井伏鱒二全集』月報十七〈第十五巻付録〉平成十年三月)

(20)注(19)参照

(21)『心』1954 年 10 月 1 日

(22)「小畠代官所」(1957 年 10 月『サンデー毎日特別号』)、「東油木村の東八」(1964 年 4 月『オール読物』)。

(23)勝又浩『山椒魚の忍耐――井伏鱒二の文学』(2018年 10 月、水声社)pp.203~104

参考文献

【井伏鱒二関連】

[1]高知県立文学館編『「井伏鱒二と中・四国路」展 図録』平成 20 年 4 月、高知県立文学館

[2]前田貞昭「井伏鱒二の土佐行き(昭和十五年・十六年・十八年)について――井伏鱒二年譜のために――」、『兵庫教育大学研究紀要』第 30 号、2007 年 2 月、pp,1~14

【四国巡礼関連】

[1] 宮崎忍勝『四国遍路 歴史とこころ』朱鷺書房、昭和 60年 4 月

[2] 山本和加子『四国遍路の民衆史』新人物往来社、平成 7年 12 月

[3] 『四国遍路のあゆみ(平成 12 年度遍路文化の学術整理報告書)』愛媛県生涯学習センター、平成 13 年 3 月

[4] 森正人『四国遍路の近現代 「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』2005 年 9 月、創元社

[5] 頼富本宏『四国遍路とはなにか』角川学芸出版、平成 21年 11 月

[6]森正人『四国巡礼』中央公論新社、2014 年 12 月

【付記】本文引用は、「へんろう宿」については、新潮文庫(昭和 23 年 1 月発行)を使用した。「虎松日記」は、『井伏鱒二全集』13 巻(筑摩書房、1998 年)を使用した。また、本稿は、令和 5 年 10 月 28 日に神奈川県近代文学館・記念講座で行われた、勝又浩「井伏鱒二――山椒魚の忍耐」から多くの示唆を得た。ここに記して謝したい。

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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