1 非生産的存在/〈働かない〉という抵抗
短編「ニート」は「i feel」二〇〇五年夏号に、その続編「2+1」は「野性時代」二〇〇五年八月号に発表された。後に短編集『ニート』に収録されたこの二作の発表時期は、興味深いことに、芥川賞を受賞した「沖で待つ」(「文学界」二〇〇五年九月号)と同時期だ。「沖で待つ」の主題は、〈仕事〉〈労働〉の気持良さや、男女の性別を超え、〈仕事〉を通じて芽生える「同期」の友情だった。彼らは〈労働〉を通じて、社会の中で〈居場所〉、何かしらのものを得られた人たちだった。
一方、「沖で待つ」のような〈労働〉の気持良さを描きながらも、絲山作品の多くが〈働かない〉〈働けない〉人たちのあり方を様々な形でみせている。デビュー作「イッツ・オンリー・トーク」(「群像」二〇〇四年二月)の優子は元社会部の新聞記者で、精神病院に一年入院し、今は薬を飲みながら絵を描いて暮らす。優子の周囲には、四十代でフリーターの従兄、EDの議員や鬱病のヤクザなど、ちょっとズレた人々が集まる。「勤労感謝の日」(「文学界」二〇〇四年五月)の恭子は、交通事故で入院し失職した三十代の元総合職で、失業保険を貰いながら母親の家で暮らす。義理でした見合いの相手が「僕って会社大好き人間なんですよねえ」と語る商社マンで、堪らず逃げ出した恭子は、居酒屋に昔の職場の後輩を呼び出し、〈女性総合職〉の不毛を語る。かつて社会システムのコードに乗り、その中心で意欲的に働いていた人が、不意に中心から外れる。そして〈周縁〉から、〈中心〉を見つめる。絲山作品にはそんな構造が頻出する。作者自身の体験も原点にはあるようだが 、〈中心/周縁〉〈働く人/働かない人〉の境界線は、絲山作品では互いを脅かしながら、絶えず問われている。精神病院から脱走した鬱病患者たちが主人公の『逃亡くそたわけ』(二〇〇五年二月、中央公論新社)では、元サラリーマンのなごやんが、以前所属した会社の前を通り、悲鳴を上げる。
「俺の会社。鹿児島支店」/「びびんない?そういうの。みんな普通に働いてるんだぜ。俺達がこんな……」/(略)なごやんはもういいよ、とむくれて、しかし明らかに元気をなくしていた。あたしも鹿児島大学の前を通りかかった時、見なければいいのにキャンパスと学生を目で追って、嫌な気分になった。みんなガッコ行ってるんだ。それで恋愛とバイトの話ばっかりしてるんだ。
「普通に働いてる」「ガッコに行ってる」人たちを外から眺め、「悲鳴を上げ」「嫌な気分」を味わう。彼らにとって一般社会は〈むこう側〉に覗くもので、目前なのに遠くにあり、圧迫感や焦燥感を起させる存在だ。それも、彼らは働かず、学校に通ってもいないからだ。二人の逃亡生活は単なる精神病院からの逃走ではなく、〈むこう側〉からの逃走でもあった。
〈ニート〉は九〇年代から社会問題となり、〈フリーター〉〈ひきこもり〉と共に漂流する若者の象徴として定着し、負のイメージで彩られてきた。しかし、二〇〇六年には「ユリイカ」でニート特集が組まれるなど、〈ニート〉〈フリーター〉〈ひきもこり〉といった若者をめぐる現象を、〈ニート文学〉の視座から捉えなおす試みも見られる。ただ、絲山作品を広く読みなおす時、それだけでは終わらない印象も受ける。端的に云えば、〈ニート〉だけが、特別ではないのだ。〈ニート〉はあくまで、絲山が描いてきた〈社会の中心から外れた人たち〉――働けない、働かない、無職、定職につかない――〈周縁〉の人たちの一種なのだ。杉田俊介が「「内なる正規会社人間思想」――障害者運動で言う「内なる優性思想」の転移」と指摘するように 、〈ニート〉は単なる若者の一社会現象が起こした若者バッシングに留まるのではなく、根本には「労働イコール存在」(杉田)という画一的な価値観、社会において〈労働〉が影響を与えるアイデンティティの問題だ。さらには、それが無意識にも〈個人〉に強要されることで起こる、摩擦や抵抗なのだ。これらの〈労働〉と〈社会〉と〈個人〉をめぐる画一的な価値観への懐疑が、絲山作品の〈周縁〉の人たちの背景には覗く。
「2+1」で、「私」は「キミの子供」を妊娠したらと想像し、「キミ」を養うのは出来るかもしれないが、「子供」までは無理だと思い、「働かなければいけない」理由について憤る。
せめてキミが働いていれば?/でもどうして働かなければいけないんだろう。例えば家のことをまるでやらない主婦だって存在するし、ごく軽い労働や管理だけで生きているひとはいくらでもいる。「労働は国民の義務」なんて言われても、なぜキミが働かなければいけないのか私にはわからない。
〈子供を持つ〉ことも、〈家族〉〈家庭〉という名の〈再生産〉活動であり、それに伴い〈労働〉の必要性や意味も強化され、「結婚し家庭を持てば一人前」ではないが、その有無で社会の構成員としての価値が変化しもする。〈労働〉にしろ〈家庭〉にしろ、公私共に〈生産〉活動に様々な意味が与えられ、〈制度〉が支えられ強化される。平易な文体に不意に差し込まれる「労働は国民の義務」の一行に、常に〈個人〉を回収しようとする〈制度〉への苛立ちが感じられる。そして〈ニート〉は絶えず、社会の〈生産〉の逆を行く存在だ。〈労働〉もしなければ、おそらく〈家庭〉を持つこともない。「ニート」「2+1」でよく使われる「無駄」という語や、「この世の中本当に何もかもどうでもいいわけで」という「キミの思想」は、社会が求める〈労働〉や〈生産〉の意味や理由をも、すべて無に帰す。「キミ」は万事において極端に受動的で無力でありながら、「働きたくない」という意志だけは持ち続け、非生産的存在でありつづける。そんな「キミ」のありよう自体が、社会に対するアンチテーゼなのだ。外向的に能動的に戦うことだけが、抵抗ではない。外部接触をネットだけにし社会から消える「ひきこもり」の形をとり、「キミ」は内向的に潜伏しながら一人抵抗しているのだ。人によってはただの怠惰というかもしれないし、「キミ」自身も他人に対し明瞭な説明をできず、その意思すら持たないかもしれないが。
2 〈ニート〉を語る構造/関係性としての〈ニート〉
短編「ニート」「2+1」は、「私」の視点で「キミ」が描写される構造だ。「昔の自分に金を貸したい、みたいな気分なんだよ」とあるように、「私」は「キミ」に昔の自分自身を投影して同情的に動き、ニートである「キミ」の状況や心理を繊細に汲みとる語り手だ。作中、一貫して「キミ」は受動的な存在で、「私」により描写される対象であり、主体性はない。社会の中で〈声〉を奪われ、受動的な性質から自ら語りもしない〈ニート〉の状況を表す構造ともいえる。逆に、本人の視点よりも、「私」という外部から描写されることで、かえって「キミ」の孤立や救われのなさは浮き彫りになる。「キミ」は「本当は他人の金なんか借りたくなくて、親の金でさえ借りるのが不本意で、けれど働くのはもっと嫌だから、そんなことをずっと繰り返して」おり「頭の中を憂鬱と罪悪感と屁理屈でいっぱいにしながら明日も明後日もひとりぼっちで生きていかなければならない」。そして、「自分がどんな無駄な生活をしているかよくわかっているし、でも、強い気持ちで、何もしたくない」のであり、「私」は「何もしたくない健康な人間の居場所」、と考え、頭が痛くなるという。「キミ」は、経済的に精神的にギリギリまで追い詰められており、成人年齢に達した健康な人間が「働きたくない」意思を持ち、そう生きることの後ろめたさと罪悪感、その結果の孤立が如実だ。そしてさらに救いがないのが、昔の「私」は「夢」を持っていたが、「キミ」にはないという点だ。
せめて夢でもあれば世間は大目に見てくれたかもしれない。少なくとも、私は物書きになりたいという夢だけで、世間にはずいぶん許してもらっていた。世間だけじゃない。自分で自分のことを大目に見ることだってできた。けれど夢なんて言おうものならキミはせせら笑うに違いない。
「私」は「物書きになりたいという夢」を持つことで、無職でニートの状況に対し、世間にも「許してもらって」、「自分で自分のことを大目に見る」ことができた。その後実際に小説家になった「私」は、ニートという状況を一つの通過点として、自己実現を果たせたことになる。定職につかない若者と〈夢〉〈自己実現〉は、〈自分探し〉〈モラトリアム〉という用語と共に若者の物語として受容された。一方、「夢」もない「キミ」は、〈自己実現〉や〈自分探し〉の物語が終わってしまった後の人であり、目的も理由もなければ、終着点もない。昔の「私」よりも更に、本質的に救われのない〈ニート〉として、「キミ」は浮かび上がる。
「金」を渡す行為は、〈支払い〉の身振りでもある。支払って何らかのものを受け取れば交換関係が成立し、〈契約〉となる。「金」が絡まれば、関係性には何らかの意味や理由が求められる。それは自由で対等なはずの人間関係においても、例外ではない。「私」と「キミ」の友情や共感でとどまった作品が「ニート」ならば、二人の関係性自体に揺らぎが生まれるのが「2+1」だ。一見「対等」な二人の関係性も、継続的な援助により、理由や因果関係が問われ始めるのだ。
「2+1」では、再び生活の困窮に陥った「キミ」を、「私」がアパートに招く。最初「キミ」は目前の窮乏を凌ぐことが第一で、食事と寝場所を提供され、客分として遇されても何も感じない。しかし時間が経過し生活が安定してくると、二人の関係性への疑問が生じ始める。つまり何故「私」が一方的に与え、提供し、「キミ」が一方的に与えられ、受容するのか。〈与える/受け取る〉関係の不均衡が際立ち、「キミ」は「負い目」を感じざるを得なくなる。実際に生活を共にすることで、二人の立場の違いも明確になる。無職でニートの「キミ」に比べ、「私」は「物書き」の仕事を持ち、自立している。昼間は執筆をし、家事をし、時には電話で編集者とやり取りし、対談やインタビューのために外出する「私」と、常にアパートにいて眠るかネットをするか、「私」と食事をし、セックスをする「キミ」。男女性役割が逆転しただけといえば形がつくかもしれないが、「キミ」も「私」も「愛しているわけではない」ので、〈恋愛〉や〈婚姻〉も理由にはならない。そして「キミ」は「なぜだなぜだと煩悶しつづけ」、〈与える/受け取る〉行為への理由を探し続ける。理由がなければないで、与えられた「寄付」への対価はますます膨らみ、「キミ」はおよそ返済しきれない経済的・精神的な負債を感じ始める。そんな関係を、「キミは仲間を求めていて、けれども私は金を貸したり、セックスを迫ったりする隣の大国みたいな脅威」と、「私」は喩える。
社会から駆逐されかけた人間にまだ理由が必要なのか?キミは貧乏とかネットとかで、感覚がすっかりやられてしまっているけれど、私と一緒に毎日飯を食い、今までと逆転して朝起きて夜寝る生活をしていたら、多分あとで何らかの痛みを感じるはずだ。それはキミのプライドや、キミの自己と関わるもので、どうしたって私のものではない。
「キミのプライド」「キミの自己」は、「キミ」の問題で、「私」は関与できない。しかし「私」との関係がかえって「キミ」を「ダメ」にさせてもいるのも事実だ。「愛していない」と何度も繰り返すように、「私」は恋愛感情や愛情ではなく、「ひとりぼっち」が淋しいから「キミ」を招き入れている。そしておそらく「キミ」が「私」を拒否できず受け入れるとわかってもいる。「キミ」が代償を払っているとしたら、「キミのプライド」「キミの自己」と呼ばれるものだ。わかりやすい〈交換〉や〈契約〉ではなく、無償で無条件で提供される「寄付」に対し、「キミ」は唯一残っていた、自分の精神的なものを少しずつ明け渡すしかない。「社会から駆逐されかけた人間」に最後に残るものは、おそらく精神の自由であり、それすら失うとしたら「キミ」に何が残るのだろう。「この世の中本当に何もかもどうでもいい」思想の「キミ」が、「私」との関係では「なぜだなぜだ」と思い「負い目」を感じ続けたのは、最後の砦である「キミのプライド」「キミの自己」が問われていたからではなかろうか。「私」の援助行為に潜む暴力性を、齋藤環は「「キミ」に保護を強要する自分の存在が、一種の暴力である可能性にすら自覚的だ。これは要するに、「キミ」も「私」も同程度にニート的なのである」と指摘する 。さらに、「同程度にニート的」にもかかわらず、「私」がする援助行為は、同類が同類を「保護」の形でスポイルする暴力性を孕む面も、本稿では指摘したい。結局そこにも、暗に同類がさらに弱い同類から精神的な搾取をしてしまう構図も見え、行き場のない二人の関係だけに痛々しい。どこまでいっても「金」が絡む以上、上下関係はつきまとい、「キミ」は行き場がないということなのかもしれない。
3 世を呪祖するニート/「愛なんかいらねー」
「人間を使い捨てる時代」に「出口を失った人々」が増える昨今、「『ニート』に出てくる人間たちはみな、この出口を失った人々」と、金子勝は指摘する 。若年層の非正規雇用問題や就労意欲が云々される時勢に、大胆にも「ニート」と銘打ち、世間の注目を集めつつ、その期待を裏切る。これが『ニート』の戦略であり意図だった。『ニート』は、「ニート」「2+1」でニート的な感性や価値観、関係性が描写され、最終的に「愛なんかいらねー」(「新潮」二〇〇五年二月号)で幕を閉じる。一読すると関連性がないような三編だが、「愛なんかいらねー」に登場する乾は破壊的エネルギーをもつニートであり、受け身で非力なニートだった「キミ」と、奇妙なコントラストを見せる。乾は指導教授に将来を期待され、留学までした前途有望な院生だったが、留学先で事件を起こし、今やアウトローの道に片足を突っ込み、かつての道から完全に逸れた人生を歩む。刑務所帰りで行くあてもなく、大学教授の「彼女」の家に居つき、「因果関係が嫌なんだよ」「どこに行ってもそこにいる理由がない」と語る乾は、スカトロというグロテスクな性愛関係により、「彼女」を〈中心〉から〈周縁〉へ引きずり降ろし、かつて自分が属していた世界のヒエラルヒーを覆し、破壊する。スカトロに興じながら、乾が呟く「呪え」という声は世の中への呪詛そのものだ。ここには、「キミ」に焦点化されたような、社会から〈外れ〉た人たちの孤立や救われなさ、閉塞的で画一的な社会への苛立ち、怒り、呪詛が込められている。内向的で無力な〈ニート〉の世界が反転し、抑圧されたエネルギーが爆発している。その題名から、世間での〈ニート〉像を期待して本書を手に取り、「ニート」「2+1」と読み進め、「愛なんかいらねー」の暗い怒りに触れた時、読者は戸惑わざるを得ないだろう。目を背けずに彼らと向き合うことができるかどうか。それは読者一人一人に委ねられる。
註
- 渡部直己、絲山秋子「面談文芸時評」(「新潮」二〇〇六年一月)、星野智幸、絲山秋子「ニートが作家になるとき ただなるのではなく続けていくために必要なもの」(「ユリイカ」二〇〇六年二月号)。
- 杉田俊介「ニート/バートルビー 生まれてこなかったことを夢みるイエス」(「ユリイカ」同右掲)
- 斎藤環「「ニート」など存在しない」(同右)
- 金子勝「絲山秋子「ニート」 出口を失った人々を愛せるか」(「文学界」二〇〇六年二月号)


