田村俊子『彼女の生活』論――〈生活〉と〈愛〉と女と男

沼田真里

目次

はじめに

 田村俊子『彼女の生活』(一九一五・七「中央公論」)は、長谷川啓「解題」(一九八八・八、『田村俊子作品集 第二巻』オリジン出版センター)による評価――優子の「愛の信仰」は「自己欺瞞・自己暗示」であり、「風刺の利いた結婚生活の告発」である――が起点となり、以降女主人公優子の「愛の信仰」や〈愛〉をどう評価するかが論点となってきた。鈴木正和「田村俊子『彼女の生活』再考―生き続けていく優子―」(一九九八・九「葦の葉(近代部会紙)」)では、優子の発想は「自己欺瞞・自己暗示」ではなく、一九一五年当時の《いま》を生きる女性だからこその優子の生き方・姿勢であり、現代人の視点で「批判」的に読むのではなく、むしろ当時懸命に生きる優子の意志を汲むべきだとする。又、瀬崎圭二は「田村俊子『彼女の生活』論―〈愛〉の行方―」(二〇〇二・十二『同志社国文学』)において、優子の〈愛〉は「戦術」とし、「〈妻〉〈母〉〈女〉のいずれにもアイデンティファイしようとしない戦術は、〈男〉に対して〈女〉を対峙させるという一元的戦術に絡み取られないという意味において、男性権力システムに対する一定の強度を示している」と、積極的に優子の「愛」の意義と狙いを評価する。他に、優子の結婚生活の理想と現実に婚姻制度の陥穽と女性の自己欺瞞を読む論に、山崎眞紀子「田村俊子『彼女の生活』論――結婚生活の〈陥穽〉」(一九九〇・一〇「文研論集」)や、「恋愛相手の説得に負け結婚をした結果、次々と襲ってくる難問を乗り越えていくない様を持つ。いわば結婚シュミレーションの書」とする、同「「彼女の生活」とその周辺」(二〇〇五・七「国文学解釈と鑑賞別冊 今という時代の田村俊子――俊子新論」)もある。

 以上の研究動向もふまえつつ、本稿では、新田と優子の〈生活〉と〈愛〉という視点を中心に分析したい。鈴木氏のいうように当時の時代性を反映させ優子の生き方を同情的に読むにしろ、瀬崎氏のように「〈愛〉を戦略」と読むにしろ、『彼女の生活』における〈生活〉と〈愛〉はあまりに矛盾を孕んでいる。もし当時の時代性を反映させたとしたら、作者田村俊子の刺激的な視点・主張が汲み取れず、「〈愛〉が戦略」だとすれば、なぜ優子は事あるごとに悩むのかという疑問が残る。長谷川氏が指摘したように、本作の根本は男女の内外の性差別意識の構造が恋愛から結婚生活の段階をへて解明されており、〈生活〉と〈愛〉が結託して、男女を「夫」と「妻」へと変えていく性の構造・システムがテーマとして横たわっている。新しい意識を持った男女にすら、潜在的に身体化されている性役割や性の力関係・精神構造があり、婚姻制度という枠に入ることでさらに、新田も優子もそれをなぞってしまっているに過ぎないのではないか。従来の研究では優子の葛藤とその克服が中心に分析されてきたが、私は男性ジェンダーに囚われた新田という視点も意識しつつ、『彼女の生活』における〈生活〉と〈愛〉の関係性に焦点を当て、流れに沿って分析したい。

新しい女から見た、「結婚」と既婚女性の「生活」

 一章の冒頭で、独身時代の優子の結婚観が「世間」の「夫婦生活」や「(結婚した)女の生活」と比べながら述べられる。

女たちは純真な愛などと云ふことを思索的に教義的に考へてゐる暇などなかつた。犬や猫が自分の産んだ子を可愛がると同じやうな下司な本能的愛情で単に子供たちの上にある注意を忙しく向けるといふことの外には何も知らなかつた。女たちは又その家庭の上に責任と云ふことを考へる暇もなかつた。/斯うして女たちは責任といふ最大な意味を、自分たちの生活の上に見出すことさへ疲れ果ててゐた。/優子はそういふ女の生活を考へる時に戦慄した。自分はどんな事があつてもそういふ女の生活の道を追ふことは厭だと思つた。

 「自己と云ふものを考へることの出来る聡明な現代の若い女」である優子には、以上のように結婚が女性を家政や育児に縛りつけ、「純真な愛」を考える暇も与えず、「家庭」や「自分たちの生活」に対する「責任」を考え見出す暇も与えないものだという認識が当初からあった。結婚前、優子は明確に、女性にとっての婚姻関係と「愛」「生活」「責任」というものを分けて認識しているのだ。優子は世間の女性たちの婚姻関係における「愛」と「責任」と「生活」の混濁した現状を自覚し、批評している。この冒頭の婚姻制度への分析は、新しい女・優子の「世間」への批評として独立して読むことも出来る。また、後に続く二~六章の優子の「生活」への一批評として、そのまま作品全体に響き続ける伏線でもある。

 そんな優子が、恋人・新田との結婚を拒絶して述べるには、

「私はどうかして自由に生きたい。私の恋も自由に自然にさせておきたい。私たちは結婚をしなくてはならないと云ふ愛の義務を持ちたくありません。結婚なぞと云ふことを避けて永久に恋の自由にお互い生きてゆくことは出来ないものでせうか。」

 優子は「恋」に対する「結婚」を、「愛の義務」と評する。恋愛の終着点が結婚であるという固定的な恋愛幻想からも抜け、結婚を「愛の義務」とする。優子にとって「恋」と「結婚」もまた別なのだ。それは恋愛と結婚では適する相手が違うといったものではなく、「恋」と「結婚」を分ける、自己の恋や性に自由に生きる女性独特の捉え方でもある。自己の恋や性の自由を生きる意識は、優子の拒絶の対象が男に肉体を許すことではなく、結婚によって「自分の生涯を男の手によつて閉ざされること」という点にも表れる。優子は自分の貞操を問題にしているわけではない。自由に生きたい優子は、自分の恋と性を自由にしたい。が、姦通罪のあった当時では、人妻が自由に恋に生きれば罰せられてしまう。結婚により、夫によって妻の恋と性とが占有される事を、優子は十分自覚しているのだ。

 優子の「生活」「愛」「恋」「結婚」「自由」に関する意識がいかに「世間」の価値観を解体しているのかが、冒頭部分だけでも読み取れる。

新しい男・新田との結婚生活

 これほどまでに「結婚」「婚姻関係」の仕組みに自覚的だった優子が、何故新田と結婚したのか。それは「新しい人」である新田の説得による。

「あなたは私を普通の世間の男と同じに見てゐるのではないか。私はもう少し女と云ふものに対して新しい理解を持つている筈だ。私は決してあなたを私より劣つたものだとは思つてゐない。何処までも私と同権者の地位に居るべきだと思つてゐる。私はあなたのその独立の意志を尊重してゐる。無論私たちは世間普通の夫婦関係のやうなものを作つてはいけない。どこまでもあなたは私の伴侶であり、私はあなたの友達である。私は今までよりももつとあなたの自由を認め、あなたの進もうとする道を開いて上げる。あなたを自由に生かすことは、自分をも自由に生かすことである。私はあなたを単に家政の女として求めてゐるのではない。あなたを妻とすると同時にあなたを霊魂を持つ女性として尊敬しようとする点に私の結婚の理想があるのである。それが真の結婚だと思ふ。」

 以上が新田の「新しい人」らしい説得である。作中、優子の「幸福」という表現は三度しか出てこない。最初の一つが、この新田の説得に対して「この新しい人の新しい理解によつて生きる自分は、女の中でももつとも幸福なものだと優子は信じた」という部分である。新田の説得で分かるように、優子に必要だったのは新しい結婚・新しい婚姻の形であり、結果的に男女が人生の伴侶を得る婚姻そのものを否定していたわけではない。優子の求めるものは、男女両性の自由と平等であり、互いが自立することに協力的な男性であった。この説得により、新田はそれを可能にする男性となった。新田本人も、自分は「普通の世間の男」ではなく「新しい理解」を持った新しい男だという意識があったと思われる。

 しかし、現実はどうであろうか。新しい男も新しい女も実際の共同生活になると、頭の中の理想・理念ではなく、むしろ無意識のうちに身体化されている性役割分担・性差意識を表面化させていくこととなる。互いに家政を分担し手伝いあったり、下女を置いたりと、様々な努力の末に、新田にとっての「生活」が何物なのかが具体的になる。

新田も優子と同じやうに家政の仕事にあずかつてゐた。新田は努めて女の雑務を助けるやうにしてゐた。自分の本務の時間はどれだけ斯うした無意味な雑用の時間に潰されるか知れないのであつた。(略)然うして新田は知らずしらず家政の仕事を怠ける様になつた。殊に自分には二人の生活といふ重い責任があつた。生計の始に、新田は今までよりも働かなくてはならない境遇であつた。さうして毎日の生活の事実が、新田の自身に社会に対する新な男の責任と義務を強いずにはゐなかつた。――新田は其れを意識するほど、いかにも自然的に、自分の仕事は重く大きく、自分のシャツを洗ったり煮物の手伝いをするやうな家政の仕事は極く軽いものとして自分の行為に現れてきた。

 新田にとって「生活」は「重い責任」であり、「毎日の生活の事実が」「社会に対する新な男の責任と義務を強いずにはゐなかった」。新田にはたらいている意識はおそらく、社会や世間に対する家長としての「責任」「義務」であり、「生計」を立てなければいけない責任感だ。新田の「生活」は「家」を支えることであり、家長として生計を立てること、「社会に対する新な男の責任と義務」を背負うことなのだ。その意識は、家内だけに留まり収入に繋がらない家政よりも、社会的にも認められ収入にもなる「仕事」こそ優先する考え方に繋がる。しかし厳密に考えれば、互いに家で「仕事」をしている新田と優子にとって、仕事の時間と家政の時間は平等に持っており、「仕事」への思いも同様に持っている筈なのだ。仕事を良しとし家政を些細なこととして怠慢する新田の行為そのものが、優子よりも、自分や自分の仕事を重要とする無意識の差別を露呈する。優子の仕事に対する侮辱であり、そもそも自分が「極く軽いもの」とする家政を優子に任せる行為自体も侮辱的といえる。新しい男の理想を語りながらも、新田の中に身体化されていた性差別・性役割意識が表面化してくる。

 一方で、少しずつ増えていく家政の負担に混乱しながらも、優子はその状況に彼女なりの理解と努力で適応しようとする。そして結婚後初めて、作中に「愛」という表現が登場する。「男の仕事に対する愛と理解が優子をじっとさせて置かなかった。少しでも男を快い気分に浸らせたいと云ふ望が、優子の気を引き立てて励まして優子自身を働かせた」のだ。優子は、新田の仕事に対する愛と理解故に、「男を快い気分に浸らせたい」という「好意」故に、さらに働く。優子の仕事に対する新田からの愛や理解は問われないままに、優子の〈愛〉が「家政」と共に語られ始めるのだ。そして外出がちな新田とは対照的に、家に閉じこもりがちになり、優子自身のことといえば、「まるで神経的に、優子は家政の仕事を処理し始末し、さうして一時間でも多く自分自身の勉強の時間を得ようとすることばかりに心が凝った。」と、家政が完全に生活の中心となり、自分のための時間を取るために苦労するという逆転が起こる。こうして初めて彼女の「生活」への反省が始まるのだ。

優子は全く自分の勉強が手に付かなかつた。優子は自分の室に籠つて自分の現在の生活を考へた。ある時は夫婦の愛までが彼女に重苦しいものを与へるような気がした。知らず知らず自分自身と云ふものを必ず新田の感覚の中から見出そうとしている自分の感情の卑屈さにも、優子は自ら厭悪を感じないではゐられなかつた。自分の生活は何うしても男に従属してゐるものであつた。それは何う拒むことも出来ない二人の生活の事実であつた。

 「生活」への反省は、「夫婦の愛」への反省にも直結する。優子が「夫婦の愛」と呼ぶものは本来、新田への理解と好意であった。それは優子が家政を担っていく過程で、やがて妻としての役割や働きとしてすり替えられ、習慣化し、優子の中に身体化されてしまった。一章の冒頭部分であれほど明確に周囲や自己に対して新しい女の自覚を持ち、自分を大切にしていた優子が、知らぬ間に「新田の感覚の中から」「自分自身を」「見出そうとしている」のだ。常識に囚われない自由な夫婦関係を約束し結婚したものの、実際の生活の中では役割が分担され、知らぬ間に「夫」中心に物事をとらえ、「夫」の感覚の中から自分を見出すようにまでなる性役割の仕組み。人は結婚した直後から「妻」「夫」になるのではなく、生活において互いの主張や理解や妥協があり、性役割的なものを分担していく中で「夫」と「妻」になっていく。役割があり生活習慣があり、そこに愛情や感覚といった精神的なものさえも組み込まれ、「夫婦」を説明し、夫婦関係を補強する要素となっていく。優子は「自分の生活は何うしても男に従属しているものであった。それは何う拒むとも出来ない二人の生活の事実」というまでになる。優子にとって「生活」は、自分のものではない。夫・新田に従属し、さらに「夫婦の愛」といった漠然とした抽象的なものに組み込まれ、彼女の実際的な「生活」も「愛」といった精神面も、夫婦関係に集約されてしまう。

 

二人の〈生活〉と〈愛〉のゆくえ

 日常生活の習慣により、〈妻〉の役割が身体化されていく優子。もはや〈生活〉も〈愛〉も彼女の手から離れ、新田との関係の中で別の姿へと形を変えていく。優子にとってそれだけで独立して考えられる〈生活〉も〈愛〉もなく、新田と家政と仕事抜きには語れない「二人の生活の事実」だけが横たわる。ここでもう一度、新田と優子夫妻にとっての〈愛〉とはどのようなものだったのかを考えたい。まず新田が感じる「愛」とは、

自分の為に好意と同情とを尽くしてくれる妻を自分の傍に見出す時、新田はどんなにか幸福であつた。自分の書斎に籠つて自身の仕事に没頭している時の優子を見るよりも、新田には妻らしい感情を持つて自分に接してくれる時の優子の方に一層深い愛を感じるのであつた。この愛感を犠牲にしてまでも、妻の優子が書斎に籠る時間の多いことを願つているということは、新田には寂寥で又苦痛なことであつた。けれども新田はそれを優子に打ち明けはしなかつた。それは自分の思想上の友達に対して侮辱的な考えだと思つて新田は恥じていた。そうして優子に向かつてそういう感情を求めることは卑屈だと新田は自身を責めた。それでも、妻らしい優しさと気忙しさと細かな注意とで家事に働いている時の優子が、非常に美しく愛らしく見えることの事実の感じは、どうしても新田には打ち消すことができなかった。

 「妻らしい」という語が幾度も重なるこの部分で、新田の感じる愛がすでに優子に「妻らしさ」を求めていることが分かる。それが「侮辱的な考えだと思って」「恥じていた」としても、そのような感覚を打ち消すことが出来ない新田。感覚は何よりもその人の心に素直であり、いくら思想を理解していても、感覚までを統御することは出来ない。おそらく新田には、女らしさや「妻らしさ」といった固定的な女性ジェンダーに「愛感」を感じる感性が潜在的にあったと思われる。それが、夫婦関係という形を得て性役割が習慣となっていく過程で、新田自身もその役割の「愛」に自らの心を託すようになる。〈生活〉と〈愛〉の狭間で、身体化されていく「夫婦」や「愛」といったものに違和感を持ちつづける優子とは対照的に、性役割の中で自分が優先させられる心地よさに身を委ねていくのが新田だ。やがてその感覚は「利己的な愛」となり、優子の交友関係にまで「醜い無知な嫉妬」や「不快」を露にし「私は間違つている。けれども何うする事も出来ない」と開き直り、優子を家内に閉じ込めるエゴにまで成長する。

 優子はそのような新田の心を「全て感知つて」いながら、依然と「夫婦」や「愛」といったものに違和感を持ち、「自分の生活」をもう一度「正しく解釈し真実に理解してみよう」と思いたつ。「一人の生活に戻る」ことすら考えるけれども、「半年でも一緒になったものが離れるということは大変な苦痛」でもあり、「愛の信仰」を編み出すにいたる。

「お前の現在の生活の全体は愛である。愛より外にはない。その愛の儘に濶く大きく生きることがお前の現在の生活の自然である。」斯う云ふ新たな意義が、彼女の頭脳いつぱいになつた時、優子は目が覚めたやうに自分の生活上に正しい信仰をはつきりと掴むことが出来たと思つた。愛の生活は美しく、愛の生活は純潔で幸福であると、彼女はそれを今更のやうに心で繰り返した。彼女はその信仰を逃してはならないと思つて堅く自分の魂で掴もうとした。自分のこれからの生活の意義は、すべてこの愛の中心として割り出すことに努めようとした。/家政の仕事を完全に滞りなく運ばせて行つて、その上にも自分は自分の生きてゆく道を開いてゆくのである。一方には妻の務めを尽し、一方には霊魂を持つ女として生きてゆく道を怠らず求めるのである。それは決して矛盾したものを自分の生活の上に齎しはしない。自分の愛の充実はその二た筋の平行線をある調和を持つて進んで行くことが出来る筈である。――優子は然う考へた。

 散々の煩悶の末に編み出した「愛の信仰」は、優子自らが〈愛〉と〈生活〉を一体化させ、「愛の生活」としたところに生まれた。結婚前の優子にとって〈愛〉と〈生活〉とは個別のものであり、結婚後も明確な形で関係し合うことはなかった二つの要素だった。優子にとって〈生活〉は常に、家政と仕事の闘いであり、新田との間での自己主張と妥協の連続だったからだ。そんな「二人の生活の事実」を前に、〈生活〉と〈愛〉とは別にあるかのようだった。しかし優子は、家政や妻の務めと、「自分の生きてゆく道」「霊魂を持つ女として生きてゆく道」の二つを、大きく束ねるものを「愛」とした。突如、優子の「愛」は全ての問題を解消する免罪符のように働き、個々の問題を優子一人の努力で乗り越えることが、彼女の自己実現の道かのような印象をもたらし、彼女を違和感から救い出す。

 前述したように、この優子の「愛の信仰」については賛否両論があるのだが、私は「愛の信仰」は新しい女の編み出した思想・戦術と言うよりも、「夫婦」や「生活」や「家政」といったものと同様に、やはり制度の範囲内から生まれものだと思う。むしろ〈愛〉と〈生活〉を結ぶ「愛の信仰」こそ、性差構造の最も底流に流れる女性支配の仕組みなのだ。優子が「愛の信仰」といって全てを飲み込んだ上で〈自己実現〉を志したように、「愛」を免罪符に女性に様々な理不尽を受け入れさせ、女性により多くの負担を課して「愛」という抽象的な概念に化けさせてきた歴史こそ、制度であり、女性の歴史でもある。自己を打ち立てるにも、女性は独立して自己実現するのではなく、あくまで性役割や性差を受け入れた上でなくては許されない。夫や子供といった家庭を介した役割を果たした上での、自己実現だ。このように女性自身が「愛」という制度を使い自らに役を課すことにより、新しい女性の生き方も再び制度の中へと還流する。冒頭で優子が語ったように「純真な愛などというものを思索的に教義」するにも、「愛の信仰」の前には不可能に近い。制度から自由になった女性の求める、新しい〈生活〉も新しい〈愛〉も、『彼女の生活』中には描かれていないのだ。たとえそれが当時の新しい女性の精一杯の生き方だったにせよ、優子の「愛の信仰」は制度への妥協にちがいない。優子が「愛の信仰」を得た後、「二人は夫婦のやうに愛し合うことがだんだん楽しまれ」て、「良人の力に抱擁される妻の感情」「良人としての男の愛」に魅せられるようになり、夫婦円満となるのも、また象徴的だ。夫婦としての「愛」の形に溶け込んだ新田と優子の関係が感じられる。

 また優子はしばらく経って「愛の信仰」の矛盾に気づき、「「自分の生活」をもう一度取り戻す」ために、「結婚について囚はれたる婦人の生活」を評論に書き、小さな社会復帰を果たす。それにより「優子の生活は輝いて」「家政を見ることさへ彼女にはかつて覚えのないような誇りを感じさせ」るようになる。そして優子が見出した誇りと新たな理屈とは、

「女が一方に家政を整頓しながら、片方では男と同じ歩調で社会の上に立つて行こうとする事は、確かに男よりも二倍の仕事をすることになる。力の差は兎に角、その量の上では女の方が男より優越する。」斯う云う誇りが優子のその活動の力を一層増加させた。

 優子は「男よりも二倍の仕事をすること」に「誇り」を見出しているが、「家政」は「仕事」のうちに数えられていない社会だからこそ、女が二倍働かざるを得ない事実には気づいていない。すでに彼女の発想には、女性は犠牲的に働いてこそ認められるという意識が根深くある。それがまた「誇り」になり、彼女の自己実現になっているのだ。その後、妊娠と出産という出来事にも、彼女は彼女の認識と理屈で子供を受け入れていく。そして冒頭部分では「自己と云ふものを考へることの出来る聡明な現代の若い女」であった優子が、結婚し、出産し、最終的に「愛の権化」となる。

それは真に不思議な生活の力ではないか。彼女は自分の二重三重の生活を等分し、調和し、区分し、隔絶し、調整することが出来るのである。傍から彼女の生活を観る時は、それは随分悲惨であつた。彼女はそれだけの家政の仕事を負担しながら、以前よりも却つて多くの創作を発表したり評論を書いたりしてゐた。彼女は必然の女の運命に対して、其れを逆に切り抜けて行かうとする努力と意地ばかりでその禁縛の中で悶掻いてゐるように見えた。見惨めな生活、哀れむべき生活――然し彼女自身ではそう感じていなかつた。子に対する母の誇り、良人に対する妻の権利、それから又、自身に対する芸術の誇り――彼女は又その誇りを誇りと解釈することを避けようとした。それは誇りではなくつて愛と名付くべきものであつた。子に対する愛、良人に対する愛、そうして自分自身に対する愛であつた。すべてが愛であつた。自分の生活が愛であつた。自分の生活の力は愛の力である、と彼女は考へてゐた。/彼女は自分の愛の感得が、如何にも広大無辺であるかのように考へられてゐた。かつて自分の考えた愛の信仰とは違つて、今度は自分自身が愛の権化であるやうに解釈されてきた。彼女は歓びに輝きながら、自分の世界を創造することにも怠らなかつた。

 ここで語られる「誇り」も「愛」も、彼女の人生における〈自己実現〉〈自己表現〉だった。ただ「誇り」となると自分自身に対するより積極的な評価となり、独力で果たした自己達成の感が強くなる。よって、優子は進んで「誇り」と解釈する事を避ける。あくまで「愛」とすることで、自分の努力や犠牲は人のために捧げるものであり、自分のためだけのものではないことを示すのだ。良人に対する妻としての役、家政と仕事の両立、出産・育児を乗り越え、やがて「愛」は優子のそのものとなる。「愛の権化」は完全に制度が身体化されなんら自己との違和もなく、かえって制度の中に自己を見出している優子の姿なのだ。それが惨めな哀れむべき苦闘であれ、なにより優子は自分に満足しているように思われる。

おわりに

 人間がこの世で生き暮していく以上は〈生活〉のない人生などなく、概念だけの〈愛〉も実際的には成り立たないだろう。生活なくしては生きていけない。かといって愛のない生活に、なんの意味があるのだろう。生活と愛 は、人間にとって切っても切り離せない、常に隣り合わせのものだ。

 そして私が『彼女の生活』を読んで最も疑問に思った点は、本作で提出されている「生活」と「愛」とはどんなものかということだった。先行研究では「愛の信仰」が議論の的となっており、端的に言えば優子の「愛」が後退か前進かという評価で分かれていた。しかし、ここで書かれている「愛」は愛ではなく「生活」に過ぎないのではないか、という疑問が私にはたえず浮んだ。実際テキストを細かく読むと、優子が使う「愛」という言葉は、直接的に新田に対して使われるよりも、概念的な説明や彼女の生活の動機付けの際に使われていることのほうが多い。新田との関係の中で何か犠牲を強いられる時、妥協しなければならない時、彼女は「愛」を持ち出してその行為に意味づけをし、自分を納得させるのだ。元々は、自然の感情の発露であった好意や理解としての〈愛〉も、性役割の中での「愛」へと翻訳されていく。そしてその「愛」の内容の大半は家政や育児といった〈妻〉や〈母〉の務め、家庭に入った〈女〉の仕事であり、家庭を維持するための家庭内労働だった。

 この〈愛〉と〈生活〉の問題は、こと女性に関しては未だに〈自己実現〉と重ね併せて語られることも多い。優子の物語は、未だ現代に通じる問題を提示しているのだ。山崎眞紀子氏が「いわば結婚シュミレーションの書」と評したとおり、『彼女の生活』は、性役割や性差から自由であった新しい男女を、婚姻制度という枠に放り込んだ時、どのような生活を送りどのように関係性が変化するのかをシュミレーションした、一つの実験的な小説なのだ。その結果は、日常生活の習慣の手強い性質をあぶり出し、生活基盤から身体化されていく性役割の構造の強さが明確になり、何重にも人を取り込んでいく制度の仕組みの怖しさを明らかにした。      

 生活の威力は強く、生活から生まれる習慣や思考の威力も強い。そして、どのように〈愛〉を語るべきか、〈生活〉と結び付けうるのかも、未だに答えは見つかっていないのではないか。私たちはまだ『彼女たちの生活』の中にいるのかもしれない。

  • ※本文引用は、『田村俊子作品集 第二巻』一九八八・八、オリジン出版センターによる。旧字は新字にし、引用した。

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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