原爆文学とアメリカ――林京子の場合――

沼田真里

目次

はじめに

 林京子(一九三〇~)は一九四五年八月九日、長崎市内の軍需工場で被爆した。当時十四歳だった少女は、それから三〇年後に被爆体験を描いた作品「祭りの場」※1で文壇デビュー、一九七五年六月に同作で芥川賞を受賞する。以降現在に到るまで、自らの原爆体験や被爆者の生活・人生をテーマに創作活動をつづけてきた。林京子は、幼少期から被爆する直前の一九四五年二月までの一五年間を旧植民地・上海で育った体験から、「ミッシェルの口紅」※2「上海」※3も書いており、また一九八五年~八八年の三年間、家族の出張に付き添う形でアメリカ滞在をはたし、アメリカでの体験もエッセイや作品に多く残している。自身も長崎の被爆者であり〈原爆〉を創作活動のテーマとしながら、非常に国際色ある作風と多様性のある視点を併せ持つのが、作家林京子の興味深い特徴でもある。

 本稿では、アメリカ(人)やアメリカ人に嫁いだ日本人女性が登場する作品、林京子のアメリカ体験をもとに描かれた作品に注目し、林京子作品におけるアメリカ(人)観の変化と特徴を分析する。アメリカ(人)の描かれ方やそこに象徴された思想を分析しながら、一方で林京子が長年格闘し続けた「原爆」というテーマを併せて考え、林京子が戦後六〇年をかけて歩んだ「原爆」「被爆者」の道がどんなものであったのかを考察したい。

「無きが如き」のアメリカ

○「無きが如き」――「原爆」を語るとは?「女」と「私」――

 「無きが如き」※4は、戦後から現在にいたるまでの過去の回想を「私」の一人称で語る一方で、昭和五四(一九七九)年の現在を生きる「女」(現在の「私」)を視点人物に、昭和五四年八月八日長崎市内の春子宅における人々の会話を中心とした小説だ。同時代評では、原爆がテーマなのに被爆時の原爆体験そのものが登場しないことが批判的に評価された※5。が、本作の目的は、一九七九年当時における「現在」の原爆の意味を問い直す意図であったため、それまでの原爆文学で書かれてきた原爆の恐怖、投下直後の被爆者の惨状などを詳細に書く必要はなかったと思われる。既に林京子自身も「祭りの場」、「ギヤマン・ビードロ」※6などで投下直後の長崎の様子や、自身の被爆体験を書いていた。

 本稿で「無きが如き」をとりあげる理由は、林京子作品において初めて具体的な一人物としてアメリカ人が登場する点にある。「私」の長崎女学校時代の同窓生・春子の夫、アメリカ人獣医バァブだ。

 「現在」である春子の家では、米国人獣医バァブ、八月九日に被爆した医者の老紳士と老女、戦中は東京におり空襲を経験している中年の女、そして被爆者である「女」によって、現在における原爆・核の問題、被爆者の現状が議論される。被爆二世の医療費助成制度の議員の発言、被爆者と賠償の問題、原爆症の被害調査、スリーマイル島の原子力発電所の事故、長崎への原子力船「むつ」の入港、第五福竜丸の被曝事件等々、長崎の原爆や被爆者だけに留まらず、世界の核の問題、現代に生きる人類全体の問題として広く議論はなされる。この様々な過去を持つ人々の議論から、すでに「原爆」は被爆者の手から離れ、被爆者だけが語ることのできる問題ではなく、社会的・政治的な流れの中で様々な立場の人によって語られ、社会的・政治的な意味を持つものへと変化していると分かる。年月と共に生じた「原爆」の「風化」問題やナナハンに乗った「若者の熱気」も、語る人によっていくらでも形を変えうる、現在の「原爆」の一例だ。「女」は、原爆・核の多様な意味や語られ方に冷静さを示しながら、「現在」を生きる被爆者として原爆を捉えようとする。

 では「無きが如き」で「私」によって語られる過去は、どのような意味があるのか。現在の原爆・核の現状を批評するならば、春子の家での人々の議論だけでもよかったともいえる。昭和五四年の「女」たちによって議論されている「現在」を、戦後三〇年でより大きく社会に向かって広がった「原爆」とするならば、「私」によって語られる「過去」は個人のもの、原爆体験者一人一人によって生きられた原爆だ。「無きが如き」では現在の「反核・反原爆」として社会的意味を持ちつつある「原爆」と、生きられてきた個人の情念・人生としての「原爆」が、二つの視点・二つの時間軸を通り接近させられていく。

○描かれた「過去」――「春子」と「私」の意味・戦後三〇年間の日本――

 本作で描かれた「過去」の中心人物は長崎のN女学校時代の友人「私」・春子・花子の三人であり、彼女たちの人生が語られる中で、他の同窓生たちのその後も添えられる。長崎の女学校の同窓生たちの人生は、そのまま敗戦後の日本女性たちの歩みを表している。

「ハブの解毒剤に譬えて君の不快をかったようですが、地獄をみてきたのでしょう、君は。(略)心は相当に強い人のようだけれど、潮風に吹かれている君をみて、も一つの、敗戦が産み出した日本の女性をみた気がしました。化粧気のない、血の気すらない顔、寒さのせいばかりではなかったと思います。唇を真紅に塗って生きるか、あるいは君のように表情を引きつらせて生きるか、敗戦国の、特に若い女たちの生き方はどっちかだろうね、しかし僕はほっとしました、まだ日本にもこんな顔つきをした娘たちがいる、白い塗り薬の下から、傷口の脂じみた液が盛り上がっていた耳たぶは、戦争が娘たちに残した傷跡として、忘れられない情景でした。その意味でなら、僕はむやみに進駐軍の相手になっている日本の娘たちを責めるが、あれも娘たちの深い疵なのだね。国破レテ山河在リ、淋しい眺めだ。」※7

 これは一九八六年六月に発表された林京子の短編「谷間」※8の一節であるが、「無きが如き」の「私」たちのような被爆少女も、GIと腕を組んで歩く娘たちも、「敗戦が産み出した日本の女性」の姿として読める。「私」や花子の悲痛な人生が敗戦後の被爆少女たちの歩みを象徴しているならば、米国人バァブと結ばれた春子の人生は、アメリカ受容とそこから生まれた新たな価値観をもう一つの戦後として象徴しているのだ。

 では、春子とはどんな女性だったのか。春子は、同級生がみな被爆している中、体調不良のために軍需工場の勤務を休んでいたため、偶然被爆しなかった非被爆者だ。とはいえ、N女学校の同級生はほとんどが被爆しており、非被爆者であることが、かえって彼女に自己呵責を感じさせるようになる。

春子が九日に工場を休んだことは、同級生に対して致命的な引け目になっている。夏風邪をひいて寝ていたのだが、なまけて休んでいた、と批判的な友人もいる。うちの娘はお国のために一生懸命でしたけん、と被爆死した同級生の母親にいわれたこともある。休んだことを、誰からも責められるいわれはないが、幾人かに責められた。いるはずの場所に偶然いなかっただけで、被爆者ではない人たちまでが、春子を責める。責められている、と感じてしまうのかもしれない。その点、バァブは、原爆を落とした国の人である。春子にとって一方的に加害者になり得る。だから九日を思い出さずに済む。※9

 直接的に被爆せずとも、長崎や被爆者に関わっている春子も間接的な原爆体験者といえる。が、被爆者の友を多く持つ春子は、かえって非被爆者・健常者である自己呵責から逃げるため、「日本人から離れたいから」、加害者であるアメリカに向かうという心理をみせるのだ。健康的にたくましく生きる春子は、敗戦後の貧しい時代に佐世保のPXで働き、GIだったバァブと出会い、恋仲となる。昭和二五年の秋、朝鮮戦争が勃発していた頃、春子はPXに務めながらこう話す、

アルバイト学生の死体処理(朝鮮の戦場から送り込まれてくるGIの遺体の補整作業を日本人学生がしていた――引用者注)とPX勤めは、職種が違うだけで、戦争をしているGIたちに養ってもらっているようなものだ。考えれば気が滅入るが、撃ちあって、春子やアルバイト学生の生活を支えてくれているGIたちは、底抜けに明るい。うちたちは、学徒出陣の学生を見送ったつらさを知っとるやろう、あんなんたちも本国を発つときには、日本の学生と変らん見送りを受けたとやろうね、そいけん身にほださるっとさ、と春子がいった。※10

 身近にGIたちと接し生活している春子の視点は自ずから、敵国人=アメリカ人から、国家・民族間の被害・加害意識ではなく、戦争に駆り出され振り回される若者同士の共感、個人対個人の融和的な共感となる。実際のアメリカ人に触れることで、一個人対一個人としての共感を持ちえている。「生活やもんね」というように生活のための必然もあり、春子の感覚は、目の前の現実にたくましく適応していく敗戦後の人々の感覚とも読める。そしてバァブとの同棲後に春子は子供を産むが、折り悪くバァブにも朝鮮の戦地への召集令状が来てしまう。ここでもまた、春子とバァブの新しさを象徴する出来事が起こる。召集先へ向う途中の船から、バァブは脱兵してくるのだ。

所属する部隊の全滅を知ったバァブは、花子が考えているように、自分がとった行動を正解だと思っているだろうか。兵隊たちは、国の名において、アメリカ全土から召集された者たちである。兵隊たちの生死に、バァブが責任を感じる必要はない。バァブの脱走を承知で、衣服を貸し与える者がいるくらいの国がらである。アメリカ人の、個人の意志尊重は徹底しているのだろう。だから徴兵忌避も、恥じなく、堂々と行われるのだろう※11

 このバァブの脱兵にみられる「個人」の感覚は、「八月九日に工場を休んでいただけで」「苦しんでいる」春子や、他の仲間を残しての脱兵にやましさを感じる花子や「私」には想像できないものだった。バァブは、他の同胞たちに対して脱兵を恥じるよりも、春子と生まれたばかりの我が子の傍にいることを選ぶ。大義に生きるよりも、自分の意志を、「個人」を選ぶ。またそんなバァブの脱兵を助けた同胞もいたのだ。非常にアメリカ的な「個人」の意識が見られる。バァブの脱兵を春子が「いっちょん恥じとらんよ」と花子が言い、「アメリカ人の戦争だもの、日本人のあの人が恥じる必要はないでしょう」と「私」は言いそえ、花子と「私」自身の考え方に苦笑する※12。春子はバァブとの結婚を通じ、戦前の日本人的な義理や恥の感覚から自由になり、アメリカ人的な「個人」「自由」を自然と身につけ始めている。そして、「終戦から八年間が過ぎている。戦争中、国の形式に従って行動した自分から自分を解放して、身心ともに個人を中心に、自由を願って生きてきたつもりでいる。しかし、自由も自主も自分にあてはまるだけで、他人ごとになると、規則とか、恥じとか日本人とか、八年前の形式に従った思考に戻って、辛辣になった」※13と、「自由」とは何かを「私」も思い返すのだ。春子を通じて、春子と繋がったバァブを通して、「私」や花子は生身のアメリカに、「個人」「自由」といった民主的な価値観・生き方に触れる。またこの他にもアメリカ式と日本式を混ぜた合理的な生活文化、日米両方の血をひく亨の誕生など、春子はバァブと結婚し生活していったことで、戦後日本の新たな可能性を体現している。「無きが如き」における春子は、本来ならば加害者としてすぐには受け容れがたいアメリカを国際結婚により受け入れ、敗戦を克服し、新たな時代を生きる女性であり、戦後日本の新たな可能性を見せているのだ。戦後の日本のアメリカ受容の一側面を、民主的な価値観の渡来と発展、西洋的なアメリカ文化の生活面での受け入れなどを象徴的に見せている。

 一方「私」と花子の二人はどう読めばいいのだろうか。それはまず、戦後を克服できなかった存在でもある。原爆症の闘病生活という肉体的な側面と、被爆による精神的な傷を背負い続けた面も大きい。花子や「私」は、いつ死ぬとも分からない健康の不安を抱えながら、子供を産むにも遺伝的な障害を恐れ、出産によって自身の病の重度が判明する事も恐れる。父親の分からない子供を一人で産み育てた花子の、自暴自棄にもみえる生き方。多くは語られないものの、妊娠・出産に恐怖を覚え、二十年の結婚生活を夫の「被爆者」の一言で一蹴された「私」。二人の原爆による傷は、身体的な側面から生じるものだけではなく、就職時の雇用差別や被爆者健康手帳や賠償の不条理、「女」の夫の言動からも分かるように、社会や世間・周囲の人々によって、更に精神的に刻まれていく。生きることで、新たに刻まれた傷も無数あるのだ。傷を刻まれながら精一杯生きるも、時間の経過による「風化」により被爆者の存在も忘れられていく時代となり、属や下田、花子…と仲間が死にゆく中で、「私」は生き残った者として「現在」の原爆を考えるようになる。

 春子と、現在の「私」である「女」。一九七九年の八月八日、長崎の丘に佇む二人。彼女たちは戦後を克服してきた日本と、依然と戦後の傷を背負う日本。彼女達の人生は戦後を克服してきた日本の歴史と、戦後の傷を負ってきた日本の歴史と重ねられる。「過去」を生きてきて「現在」に佇む二人は、この二者――戦後の克服と、戦後の傷――によって今ある日本、を表しているのではないか。つまりどちらか片一方だけでもなく、両者があっての「現在」なのだ。「無きが如き」ではどちらを否定するわけでも、肯定するわけでもない。生きられた時間と共に、共存してきた事実として立っている。単に「過去」を描いて、被爆者の回想や原爆の悲惨さの報告、反原爆の主張だけで終わるのではなく、そのように戦後の克服/戦後の傷が共存する、連続した時間認識・歴史認識を提示するのが「私」と「女」であり、本作の特徴といえよう。現代的な反核や原爆問題へと社会的な意味を持ち始めた「現代」の「原爆」と、「過去」との連続性の上にある「個人」の「原爆」との絡まりあいで、今がある。同時代評では過去と現在を同時に描く方法や構造の失敗が指摘されていたが、「無きが如き」の挑戦は「現在」から「過去」を再認識する上での一応の効果をあげているのではないだろうか。過去と現在がアンバランスな均衡を保ちつつ同時に描かれている、それが「無きが如き」の構造だった。

「輪舞」――アメリカを歩く「私」の〈被爆〉〈日本〉〈アメリカ〉――

 「無きが如き」から九年後、一九八九年二月に発刊された短編集「輪舞」は、林京子のアメリカ滞在期間中に書かれた短編五編からなる。「さいたさいた」※14、「周期」※15、「眠る人びと」※16、「ティキ・ルーム」※17、「ナンシーの居間」※18だ。実際にアメリカに暮らしアメリカを歩いた体験は、林京子に大きな影響を与えたようだ。短編五編には多くのエピソードが書かれているが、被爆者でもある「私」(作品によっては「わたし」)が体験の一つ一つを通し、〈日本〉〈アメリカ〉〈被爆者〉〈原爆〉に対する捉え方や想いを再考する様子がみられる。それは、今までの「私」を苦しめてきた固定観念や重圧の解体でもあり、「私」自身の中でアメリカ体験を通しても変らないものの再確認ともなっている。

 例えば、「眠る人びと」では、「わたし」が渡米を決めた際に国内の知人にアメリカへの転居を知らせるところから、「わたし」の新たな体験が始まっている。「三年ばかりアメリカで生活してきます、と言う簡単な印刷の文面に、一筆書き添えようと、ペンをとった。しかし書き添える文面が浮んでこない。いって参ります、だけでは済まされない引っかかりがありながら、何処からその思いが湧いているのか、わからなかった」「行き先がアメリカだったから、釈明がいると思ったのだ。考えたすえ、何も書かずに投函した」と、女学校時代の恩師への挨拶状をどのように書くか、で既に「わたし」は戸惑いを感じる※19。そのように出した挨拶状への返信に寄せられた、恩師からの一言に「わたし」は複雑な想いを味わう。

折り返し、師から返事が来た。白内障で視力が衰えている師の手紙は、マジックペンで書いてあった。そのなかの、敵国、の二字がわたしの目についた。かつて敵国であったことを決して忘れないよう、あなたのクラスメートたちが被爆死したことも忘れるな、と書いてあった。手紙を読みながら、やっぱり行ってはならない国だったのか、とわたしは呟いていた。やっぱり、と師の心を受け入れる以上、わたしの気持にも、アメリカという国へのこだわりがあったのだろう。死んだ友人たちを裏切るような後ろめたい思いが、わたしの内には確かにあった。/わたしにも、アメリカが敵国であった時代があった。憎しみが凝り固まらなかったのは、そんなことより我が身の生死の問題が、切実だったからである。そして結婚して子供が生まれた。被爆の恐怖が我が子にまで及んだとき、国はさらに薄れ、原子爆弾とヒトが残った。「生存するための動員」というグループ名に共鳴し、国は問題ではなかった。/心が静まってくると、未だに国にこだわっている師を、狭量だと思った。恨みっこは大人気ないですよ、仇討ちですか、と不遜に呟いたりした※20

 恩師の忠告にアメリカへの抵抗感を投げかけられ「やっぱり」と確認し、自分自身の中にもあった徒米への気負い、「アメリカという国へのこだわり」や「死んだ友人たちを裏切るような後ろめたい思い」が潜んでいた事を認める。それでも「わたし」は、そんな「国」へのこだわりを「狭量」だと思う。おそらく恩師の感覚は、従来の被爆者・日本の被爆者たちの想いを反映してもいる。そんな従来の「国」へのこだわりから脱し「原子爆弾とヒト」として受け止めていくのが「わたし」自身の方向性、渡米の決心でもあるのだ。

 とはいえ、恩師の忠告は意図せずして、「私」のアメリカ生活のうちに顔をのぞかせることとなる。とりとめのないアメリカの観光地・景勝地の様子や、アメリカ人の生活文化、風俗が描かれていく一方で、〈被爆者〉〈日本人〉〈アメリカ〉が明確に意識される出来事も描かれているのだ。知人と共に数人のアメリカ婦人とポトマック河を遊覧した際のエピソードが、それだ。雑談のうちにさりげなく「私」が長崎の被爆者であった事実が明かされた折、アメリカ婦人がしめした反応は「私」に強い印象を残した。

スペイン系らしい婦人は、おう、と大きな黒い目をむいて驚き、ゆっくり、あなたたち日本人は決して原子爆弾を落とされた日のことを、忘れてはならない、といった。もちろんです、とわたしは答えた。婦人は答えに頷き、バット、と言葉を切って、ディス・イズ・アメリカといってほほえんだ。のりのいいルージュの唇をみて、おうむ返しに、イエス・ディス・イズ・アメリカ、とわたしはいって、ポトマックの河岸に目を移した。/(略)舟遊びの船上で聞いた言葉と、師の太文字の敵国は、それ以来消化されない生の状態で、ときどきアメリカ生活のなかで、顔を出した※21

被爆者という言葉は、アメリカ人もよく知っている。婦人は、おお、と口をおおった。/さらに日本婦人が、その後、お体の調子は、と聞いた。アメリカ婦人の顔が硬張っていくのをみて、快調です、と私は答え、そのお話は後ほどゆっくり、と打ち切った。/私はアメリカ人が聞かない限り、自分が被爆者であることを、話さないようにしている。雑談でけりがつく問題ではなく、被爆をたてに同情を得るのも、相手を捩じ伏せる強者になるのも、厭だからだ。/表情を強張らせていた婦人は、あなた方日本人は原子爆弾が落とされた日のことを、決して忘れてはいけない、しかしここはアメリカ、と塗りのいいルージュの唇を綻ばせていった。私はええ、と答え、しかしここはアメリカですね、といった※22

 このアメリカ婦人とのエピソードは、「周期」「眠る人びと」の二作で書かれている。日本を発つ際に、長崎女学校時代の恩師から「あなたのクラスメートが被爆死したことを忘れるな」と忠告され、その「国」意識に「狭量さ」を感じ、「原子爆弾とヒト」の意識のもとにアメリカへ渡ってきた「私」であった。それがまたアメリカでは、長崎で被爆した事実を語ることで〈被爆者〉〈日本人〉の自分を再確認させられる。アメリカ婦人に「しかしここはアメリカ」と言われ、もう一つの「国」意識を再び突きつけられたのだ。アメリカでは、日本国内のように長い年月をかけて〈輿論〉〈世論〉で作り上げられてきた「被爆」観や被爆者観はない。よって、被爆者としてのアイデンティティから自由になれるといえるかもしれない。しかしその半面、原爆は悲惨であり、原爆投下を忘れるべきではないという意識は共有できても、被爆者の感情・情念への共通理解は薄い。原爆症の知識も浅く、実際に戦後を生きてきた被爆者への理解も、おそらく日本より希薄なのだろう。ゆえに「しかしここはアメリカ」という一言で割り切れ、他は不問になってしまう。それ以上の議論、反論の余地もない。「しかしここはアメリカ」の一言の中に、どんな意味が含まれているかは作中では詳しく分析はされていないが、原爆投下をした国・アメリカなのだから、そんなことを云々しても誰もきいてくれない、誰も気にとめないというニュアンスだろうか。また、一個人としてであれ、そう言いきれてしまうアメリカ婦人の姿に、アメリカ的な合理主義も感じられる。「私」が、剥き出しのアメリカにぶつかった瞬間ともいえる。

 またアメリカにおいて「私」が〈アメリカ〉〈日本〉〈原爆〉をあらためて意識させられるのは、そのようなかつての「敵国」・原爆を投下した国アメリカの一側面との遭遇だけではなく、かつてのフィリピン・バターン戦で捕虜となり生還した米兵との出会いや、アメリカ在住の韓国人二世の女子大生との出会いにもよる。

 バターン戦から生還したボブの人生は、彼の日本人妻ゆうこによって「わたし」に伝えられる。ゆうこは敗戦後、闇市、進駐軍の将校クラブのウェートレス、アメリカ人家庭でハウスメイドとして働いた後、カナダ・モントリオールに移民してボブと出会い、結婚した日本人女性だ。アメリカ滞在中にゆうこと知り合った「わたし」は、ゆうこからボブの話を聞く。

コレヒドール島の戦闘について、ボブが話したがらないのは、ゆうこが日本人だからだろうか。/あるかもしれないね、さっきあなたは被爆者だってこと、アメリカ人に話さないことにしているっていったでしょう、個人的に恨んでも仕方ないけれど、「死の行進」だって、ボブの友だちが大勢死んでいるし、平静に話せないと思うよ、聞かされる私だって、日本軍にも事情があっただろうと、成りゆき上敵味方に分かれちゃうじゃない、とゆうこはいった。それからわたしの顔をのぞいて、一度もアメリカ人に被爆者だって話したことない、と聞いた。わたしの口からは全く、聞かれれば勿論話すけれど、とわたしはいった※23

 「死の行進」で有名なバターン戦の生還者ボブの話を知り、もう一つの〈日本〉と〈アメリカ〉に「わたし」は出会う。第二次世界大戦を「被爆」という〈被害〉の視点だけで捉えるのではなく、日本の〈加害〉の側面・日本の被害者でもあるアメリカ人の存在が浮かび上がるのだ。被爆者である日本人の「わたし」と、原爆投下の国「アメリカ人」との関係。「死の行進」で友達を多く失い、佐渡で捕虜になっていた米兵ボブと、敵国の捕虜に酷い扱いをした「日本人」の関係。この二者の関係において、起きた出来事の内容と質は全く異なり、よってその悲惨さや被害の度合いを比較することも不可能であり、同一線上に語る事は避けるべきことだろう。ただ、被爆者である「わたし」とバターン戦の生還者・ボブの人生の交差により、単純に〈被害〉〈加害〉で読み解けない〈アメリカ〉〈日本〉の関係、重層的な視点も加えられる。「ナンシーの居間」における、韓国二世の女子学生との対話でも、同様のことがいえる。アメリカの大学で被爆体験についての講演を終え、教室で一休みしている「私」のもとへ女子学生はやってきた。

女学生は笑顔で、わたしの両親は日本語が話せます、わたしは駄目です、しかし両親は決して日本語を話さない、といった。両親を紹介した韓国女学生の短い言葉は、余す処なく、彼らが置かれていた時代と今日の感情を、言い表していた※24

 女学生の真直ぐな問いかけの前に、「私」は緊張と共に精一杯の返答をこころみる。「日本人のなかに組み込まれ、先祖代々の姓名を日本流に改名させられて、母国語さえ封じられて皇国民という名のもとに、戦場に駆り出されたのですから、憎まれるのは当たり前と思います」と語り、また警官に「朝鮮人はほっとけ」と脅されながら「私」の母が被爆した朝鮮人の少女を看護した話を語る※25。ここで「私」が自然と果しているのは、植民地時代の加害者である日本人としての謝罪と、国の体制や民族差別に関係なく人間の善意の行為がなされる事実を、伝えることだった。「私」の語りに女学生は納得し、感動の涙を見せて教室を去る。が、「私」はかえって「女学生の涙をみて、私はいい気分になっていた。そして、自分の話に私自身が酔っている不快感が、胸に広がっていた」と感じてしまう※26。どのように語ろうとも代替不可能な体験があることを知っているからこそ、「私」の胸に後悔が起こるのだ。「親御さんが受けられた身心の苦痛を、この些細な人情で許してくれとはいいません」と、「私」がいうとおり、母がみせた善意の行動によって、日本の植民地支配による韓国の人々の被害を帳消しにできるわけではない。この後「私」は、同じ大学の公演中にあった、別の印象深い体験を思い出す。被爆者と遺伝子の無関係説を主張するアメリカ人の女性科学者から「被爆しても何らその者の遺伝子に影響がないことも、知っているか、知っているとしたら、あなたはそれに対してどう思うか」と質問された時のことだ。

遺伝子無関係説が事実なら、これほど被爆者にとって幸福なことはない。しかし遺伝子と無関係であったとしても、八月六日、九日と原子爆弾、核兵器が無罪放免になるわけではない。私は女性化学者に対して、だったらどうなのですか、と問いたい気持に駆られていた。遺伝子奇形化の重圧から救われたとしても、玲子が話したように、それはそれ、これはこれなのだ。またそして、母たちが朝鮮の少女を看護したことも、それはそれ、これはこれ。女学生の両親や、その他の韓国の人たちに与えた、日本国と日本人の罪は消えない。得々と私が女学生に話した事柄を女学生の両親に話したら、彼らも私のように、だったらどうなのか、と問うだろう※27

 ある出来事が遠い過去となり時間が経過していく中で、後になって様々な分析や考察が加えられ、解釈がなされていく。しかし、科学的な分析・立証や政治的な言説がどのようになされたとしても、過去の傷を背負って生きてきた当事者の感情や情念に代わることはできない。人々の生きてきた時間とその間の苦悩を、無にすることはできない。「それはそれ、これはこれ」なのだ。ボブの捕虜体験も、韓国系女学生の両親の憎しみも、「私」の被爆体験も、一つ一つが代替不可能な経験として横たわっている。

 このように「輪舞」では複数の短編によって、アメリカ(人)と直接触れることで「私」が〈被爆〉に集中していた「国」意識から自由になるだけでなく、ボブや韓国女学生の存在など、戦時中の日本の〈加害〉の視点も汲み、〈アメリカ〉〈日本〉〈加害〉〈被害〉〈被爆〉の固定的な構図を壊している。〈加害〉〈被害〉が必ずしも一元化して語れない、重層的な構図となる。そしてボブや韓国女学生の存在により、「国」同士の政治的な関係や歴史に影響されながらも、個々人の中にそれぞれ代替不可能な体験があり、人々の痛みがあることも描かれる。彼らとの接触を通し、「私」も自分自身の体験の代替不可能性を再確認しているのだ。それは、アメリカ滞在を果たし「国」から解放されても、変ることのない「私」の核でもあった。一方で、被爆者である「私」に「でも、ここはアメリカですから」とほほえむアメリカ婦人や、「遺伝子に影響はない」というアメリカ人科学者も登場する。彼女たちにより、アメリカに依然とある「原爆」「被爆」への無理解、科学的な根拠によって妥当性を主張し、当事者の実際的な痛みを無視してしまう傲慢さも感じとられる。これらは、林京子作品において主人公である「私」が、初めて直接ぶつかったアメリカともいえる。このように様々なアメリカ人を描くことで、被爆者である「私」の憎むべきものも〈アメリカ(人)〉自体に集約されるのではなく、そんな人々の中にある「原爆」「被爆」への無理解さ、科学を過信する人間の傲慢さへと絞られていく。

「トリニティからトリニティへ」――沈黙する大地と「私」――

 「原爆」をどのように語りつげばよいのか。「無きが如き」では結局様々な方法や構造を試みても、語ることによる「風化」を解決できなかった。どのように語るべきかも体現されなかった。過去の回想で描かれる被爆者たちの人生と、現在の春子の家でなされた議論、過去と現在の原爆が多角的に並べられはするも、原爆の未来を託すべき若者は「女」のもとに現れず、「風化」の解決は先送りされた。それから二〇年後、二〇〇〇年九月に「群像」で発表された「トリニティからトリニティへ」でも、「風化」は消えているようには思われない。「風化」への抵抗や焦燥自体はむしろ薄まっている。ただ「トリニティからトリニティへ」で林京子は「語り部」として最終的な境地に達している。語ることをやめた林京子が、声を静め、沈黙に自己を溶け込ませ、原爆文学における一つの到達点を見せているのだ。

 たとえばアメリカ人に対する想いは、集中せず、拡散していく。

 すでに「無きが如き」でもアメリカ人と結婚した春子の存在やバァブなど、アメリカ人やアメリカ人を家族に持つ日本人が登場しており、林京子作品の多様性を形作っていた。被爆者としての「アメリカ」に対する想いは複雑だが、林京子は一九八五~八八年の三年間アメリカに滞在し、前項でとりあげた「眠る人びと」「ナンシーの居間」などアメリカ滞在から題材を得ていくつかの作品も書いている。実際にアメリカ本土に触れて「個人」の思想の強さに魅力を認め、合理的な価値観に感心したことはエッセイにも書かれている。小説作品にも、アメリカ人と結婚しアメリカに住む日本人妻を多くとりあげている。実際にアメリカに生活することで、作品内の表現も、必ずしもアメリカ(人)が一つの絵では表せないさまが、ますます明らかになっていく。もはやアメリカ人=加害者=憎むべき悪者というイメージに単一化されず、アメリカ人像もいくつもの差異をはらむバリエーションとなって表れる。その変化の導入が、林京子作品に度々登場する日本人妻であり、「トリニティからトリニティへ」では、アメリカに帰化して「わたしはアメリカ人でも日本人でもないんだなあ」「半分アメリカ人」と語る月子となっている。月子は「無きが如き」の春子の延長線上に位置し、アメリカ人と結婚し、戦後日本を生きてきた非被爆者の女性の象徴ともいえるのではないだろうか。「無きが如き」で春子は戦後アメリカと共存して生きた女性の一つの思想を体現していたが、月子はさらにアメリカ国籍も取得し、正真正銘のアメリカ人でもある。そんな彼女が、「私」の最後の旅の同伴者となる。

トリニティは、私の八月九日の出発点である。被爆者としての、終着の地でもある。トリニティからトリニティへ――。/ひと巡りすれば、その間にはさまっている八月九日を、私の人生の円環に組み込める。縁が切れないのなら、呑み込んで終わらせよう。私は、トリニティいきを実行に移した。一九九九年、秋である※28

 世界で初めて原子爆弾の実験が行われた「トリニティいき」は、被爆者である「私」の一つの終着点であり、戦後の傷が癒されないまま人生を歩きつづけた女性の最後の旅でもある。そこに月子のような女性を同伴させる事は「アメリカ」への許しの表れの一つともいえるのではないか。一方で、ナショナル・アトミック・ミュージアムや科学博物館で居合わせたアメリカ人たち、案内人や見物客たちの反応、原爆や原爆を発明した科学者たちを「成功」「英雄」とする描写もある。かといって、彼らの反応に反撥するわけでもなく、「私」は「被爆者である自分」を意識させられつつ、過ぎていく。

 では「私」にとっての〈加害者〉、傷つける者は、どこへ行ったのか。

「いかなる白人文化も栄えることの出来ない荒野」と見捨てられた大地は、皮肉なことに侵略者たちの血の争いと、欲望によって拓けていくのである※29

 「私」が次第にニューメキシコの大地に自分を重ねていくように、人類未踏の大地を征服しようとした探検家や開拓者や、史上初の実験を試みようとした科学者たちへと〈加害者〉はスライドされていく。自然を超越・超克しようとする人間たちの欲望自体に、焦点が移るのだ。「八月九日」の事実や、実際の戦争の記憶や従来の「国」意識によって固定化されていた被害意識が昇華され、「開拓」「発見」「進歩」に象徴される人間の飽くなき欲望という、本質的な問題となる。三年間のアメリカ体験と実際のアメリカ人との交流を経て、最終的にニューメキシコの大地に立つことで、「私」は「加害者アメリカ(人)」という固定観念からも解放される。作中に挿入される『世界探検歴史地図』でのニューメキシコの歴史でも、〈アメリカ〉という国の土地自体が本来はネイティブアメリカンのものであった歴史や、その大地が誰のものでもない前人未到の自然であったことが明かされ、さらなるアメリカ観の解体が進む。

 また、ニューメキシコの大地は「私」自身の解放ももたらす。旅の途中、雄大なニューメキシコの荒野が、「私」の眼により鮮やかに描写される。オキーフの描いた絵画を引きながら、「私」も明らかに自然に自分を重ねている。

オキーフが描くニューメキシコの自然に、私は孤独と、女の肉体を感じるのである。直接人の形を描いた絵は、私の知る範囲では片手に満たないが、オキーフが好んで描く花、山などの自然のなかに、少女や熟した女の肉体がみえてくるのである。それが、彼女が求めた究極の生命なのかもしれない。/少女の乳房のように滑らかに連なる桃色の砂山。女の性器を連想させる渓谷。茜色に染まった砂地と空は、繁殖を了えた初老の女だろうか。/自然は肉体を写し、肉体は自然と混りあって、山や花の蜜に姿を変えて命を得る。めぐりめぐるそのなかに、オキーフは自らの骨をまかせた。再生だろうか。/(略)影を負った黒い十字架。オキーフが好んで描く題材である。荒野に立つ十字架を、同じ構図で幾枚か描いているが、キャンバスにあるのは画面一杯に立った木の十字架と、ニューメキシコの空間である。空間は夜、夜明けの空、と時を刻んで描き分けてあるが、どの絵も太陽はキャンパスの裏にある。どの十字架も、黒ぐろと塗り潰されていた。太陽とオキーフの間に立てられた、影に沈んだ十字架にどんな思いを込めたのだろう。/私は目を閉じた。荒野の太陽は赤みを加えて、刻々と時を移していた※30

 ここで「私」が見ているオキーフの描いた荒野、大地、自然は、そのまま「私」自身と重ねられ、太陽に焼かれて傷を負いながら生きてきた肉体、女性としての一生として読める。荒野は、「少女」「熟した女の肉体」「初老の女」に喩えられ、「自然は肉体を写し、肉体は自然と混ざりあって、山や花の蜜に姿を変えて命を得る。めぐりめぐるそのなかに、オキーフは自らの骨をまかせた。再生だろうか。」と移り変わる表情に生命の死と再生を見、一個の女性の季節、死と再生が描かれる。厳しい環境の中にありながら、死と再生のサイクルを経て、なお生きつづける生命に、独特の美しさが見出されている。後半部分で引用される、黒い十字架とキャンパスの裏にある太陽も、まさに林京子の心象風景といえるのではないだろうか。光や太陽は、林京子作品でも度々原爆投下時の閃光の隠喩として登場する。林京子も、人生というキャンパスの裏に太陽を感じながら、黒い十字架を描き続けてきた。

 そしていよいよトリニティのグラウンド・ゼロ訪問の場面で、大地は「私」を激しく打ちのめす。トリニティの大地が、無意識の底に隠していた「私」の姿を思い出させるのだ。

五十余年前の七月、原子爆弾の閃光はこの一点から、曠野の四方へ走ったのである。実験の日は朝から、ニューメキシコには珍しい大雨が降っていたという。実験は豪雨のなかをついて、行われた。閃光は降りしきる雨を煮えたぎらせ、白く泡立ちながら荒野を走り、無防備に立つ山肌を焼き、空に舞い上がったのである。その後の静寂。攻撃の姿勢をとる間もなく沈黙を強いられた、荒野のものたち。/大地の底から、赤い山肌をさらした遠い山脈から、褐色の荒野から、ひたひたと無音の波が寄せてきて、私は身を縮めた。どんなにか熱かっただろう――。/「トリニティ・サイト」に立つこの時まで、私は、地上で最初の核の被害を受けたのは、私たち人間だと思っていた。そうではなかった。被爆者の先輩が、ここにいた。泣くことも叫ぶこともできないで、ここにいた。/私の目に涙があふれた。/(略)思い返してみると、八月九日に私は一滴の涙も流していない。手や足や、顔の形をとどめない人の群に混って逃げながら、涙は流さなかった。/私が無事であるのを知ると、生きてたのね、といって母は胸に抱きしめて泣いた。それでも私は涙を流さなかった。八月九日に流さなかった涙を、私は人としてはじめて流したのかもしれない。もの言わぬ大地に立ったとき私は、大地の痛みに震えた。今日まで生きてきた日日も、身心に刺さる非情な痛みだった。しかしそれは、九日から派生した表皮の痛みだったのかもしれない。私は、自分が被爆者であることを忘れていたが、沈黙を続ける大地のなかに、年月をかけて心の奥に沈めてきた逃げた日の光景を、みていたのだろう。決定的な日の私を※31

 沈黙する大地に、「私」は、六十年間自覚できずにいた沈黙の自己、無意識の底においやっていた自分を思い出す。八月九日の「決定的な日の私」は、言葉も失い、涙も失っていた「私」だ。長い間、それは語ることすらできない、語る以前の、自覚できていない深い領域の痛みであった。「無きが如き」では、「謙虚に苦しみに耐えてきた、と話す医者や老女のなかでは、三十数年が過ぎたいまでも、九日はふつふつとたぎっている」と沈黙し耐えている被爆者たちこそ八月九日が風化せず、自分自身は「語ることで」「逆に風化しはじめている」と書かれていた※32。「トリニティからトリニティへ」のグランド・ゼロの体験は、そんな「私」すらも、医者や老女と同じ沈黙の中へ一瞬のうちに引き戻した。だからこそ、語ってきた今までの日々を「九日から派生した表皮の痛み」とすら思ったのだろう。

 林京子は「私」という視点とテーマ「原爆」にこだわりつづけ、ついに「トリニティからトリニティへ」では語らずに語ることに成功する。「無きが如き」での「八月九日の語り部」が最後にたどり着いた場所は、社会性のあるメッセージを主張するために方法や構造で作り出した普遍的な視点が語る〈ゲンバク〉ではなく、「私」という「個人」の感性が開かれ、ニューメキシコの自然とグランド・ゼロの傷ついた大地の沈黙に一体化することで訪れた解放だった。戦いからの解放、被害意識で固まり身動きができない「日本」の「被爆者」から、誰を責めるわけでもなく、沈黙のうちに「被爆」「原爆」の痛みを感じつくす心に戻ったのだ。こうして考えると、被爆作家林京子の創作活動における〈アメリカ〉との接触は、アメリカ人や日本の非被爆者など、被爆者にとっての〈他者〉に対する理解と受容の問題であり、最終的に受け入れることで自分自身の苦しみから解放され、自己救済となっているのではないだろうか。許しと救済にむかっての紆余曲折の六十年であり、『トリニティからトリニティ』が生まれたのだ。

おわりに

 「無きが如き」、短編集「輪舞」、「トリニティからトリニティへ」をとりあげ、林京子作品における〈アメリカ〉を分析した。

 「無きが如き」では、米国人バァブと日本人妻春子に、戦後のアメリカ受容と共存の思想とがみられた。被爆者である「私」の人生と共に、国際結婚をした春子の人生が描かれることで、春子バァブ夫妻を通して、「個人」「自由」といった民主的な価値観・生き方も書かれる。またアメリカ式と日本式を混ぜた合理的な生活文化、日米両方の血をひく亨の誕生なども、新たな可能性を体現している。本来ならば「敵国」「加害者」としてすぐには受け容れがたい「アメリカ」を国際結婚により受け入れ、敗戦を克服し、新たな時代を生きる女性・春子。彼女の生き方は、戦後日本の新たな可能性――アメリカ受容と共存――を見せていた。戦後の日本のアメリカ受容の一側面である民主的な価値観の渡来と発展、西洋的なアメリカ文化の生活面での受け入れなどが象徴的に描かれていた。

 また短編集「輪舞」では、作者林京子の実際のアメリカ体験を題材に、「私」が直に触れた「アメリカ」が描かれていた。渡米により〈被爆〉に集中していた「国」意識から自由になると同時に、バターン戦の生還者ボブや韓国二世の女学生の存在など、戦時中の日本の〈加害〉も汲んでいる。〈アメリカ〉〈日本〉〈加害〉〈被害〉〈被爆〉の固定的な構図を壊し、〈加害〉〈被害〉が必ずしも一元化されない、重層的な構図となってくる。そして大きな「国」同士の政治的な関係や歴史に影響されながらも、個々人の中にそれぞれ代替不可能な体験があり、人々の痛みがあることも描かれる。そのような体験の一方で、「でも、ここはアメリカですから」とほほえむアメリカ婦人や、「遺伝子に影響はない」というアメリカ人科学者も登場する。彼女たちにより、アメリカに依然とある「原爆」「被爆」への無理解、科学的な根拠によって妥当性を主張し、当事者の実際的な痛みを無視する傲慢さが浮かび上がる。このように様々なアメリカ人を描くことで、「私」の憎むべきものも〈アメリカ(人)〉自体に集約されるのではなく、そんな人々の中にある「原爆」「被爆」への無理解さ、科学を過信する人間の傲慢さへと明確になっていった。

 そして「トリニティからトリニティへ」では、アメリカに長年住み「わたしはアメリカ人でも日本人でもないんだなあ」「半分アメリカ人」と語る月子が登場する。月子は、アメリカ国籍を持つ、日本人女性だ。彼女を同伴して、「私」は世界で初めて核実験が行われたグラウンド・ゼロを訪れる。ナショナル・アトミック・ミュージアムや科学博物館で居合わせたアメリカ人たち、案内人や見物客たちの反応、原爆や原爆を発明した科学者たちを「成功」「英雄」とする描写も淡々と書きつつ、「私」はニューメキシコの大地に自分を重ねる。〈加害者〉はというと、人類未踏の大地を征服しようとした探検家や開拓者や、史上初の実験を試みようとした科学者たちへとスライドされていく。自然を超越・超克しようとする人間たちの欲望自体に、焦点が移るのだ。そして最終的に「私」は、ニューメキシコの自然とグランド・ゼロの傷ついた大地の沈黙に一体化することで、長年の戦い――「原爆」「被爆」をいかに語るか、被爆者の痛みをどう伝えるか――から解放された。

 本稿では一九八〇年から一九九九年の間に、ほぼ一〇年置きに書かれた作品をとりあげた。こうして各作品の分析を並べてみると、林京子作品の中のアメリカ(人)観を探ることで、各時代において〈アメリカ〉〈日本〉がどのような意味を持っていたかを、時間と共に確認できる。「被爆者」という複雑な想いを抱えつつも、林京子作品では「アメリカ」を描くことで、〈アメリカ〉〈日本〉の関係を重層的なものにさせ、二者の歴史観や関係性を幅広く掬い上げることに成功している。それは「原爆」「被爆」のテーマにも多大な影響を及ぼし、被爆者の痛みの主張だけにとどまる〈原爆文学〉ではなく、時代にそった国際性や「国」意識を超えた理解を持つ〈原爆文学〉にさせていた。単に「アメリカ」をかつての「敵国」「加害者」とするのではなく、直接にアメリカ人に触れ、アメリカ人と結婚し共生している日本人に触れることで、政治的歴史的な視点だけにとらわれない人間同士の共感や理解も表れている。端的にいえば、重層的な国際意識と、「個人」を基にする人間理解だ。そのテーマも描かれ方も時代にふさわしく、現代の〈原爆文学〉といえる。戦後が終わり、「風化」の危機も忘れられてしまったような現代において、林京子によって書き継がれてきた〈原爆〉〈被爆〉は、未だに有効だと論者は思う。六〇年間書き継がれてきた活動を単に実績ととらえていうのではない。その内容が十分に現代の私たちに意味を持つと思うからだ。


  1. 一九七五年六月「群像」
  2. 一九七九年一月~一一月「海」隔月連載
  3. 一九八二年六月~八三年三月「海」連載
  4. 一九八〇年一月~一二月「群像」
  5. 「読書鼎談 小田実・松本健一・三田誠広」一九八一年九月「文芸」
  6. 一九七七年三月~七八年二月「群像」
  7. 『谷間』一九八八年一月、講談社、三五~三六頁
  8. 一九八六年一月「群像」
  9. 『無きが如き』一九八九年七月、講談社文芸文庫、九六~九七頁
  10. 同右、九八頁
  11. 同右、一二一~一二二頁
  12. 同右、一二四頁
  13. 同右、一二四頁
  14. 一九八七年四月「新潮」
  15. 一九八七年「三田文学」秋季号
  16. 一九八八年四月「群像」
  17. 一九八八年四月号「新潮」
  18. 一九八八年八月「婦人公論」臨時増刊号
  19. 「眠る人びと」所収『輪舞』(一九八九年二月、新潮社)一四二頁
  20. 同右、一四二~一四三頁
  21. 同右、一四四~一四五頁
  22. 「周期」所収『輪舞』(前掲)一〇六~一〇七頁
  23. 「眠る人びと」、前掲書、一四一頁
  24. 「ナンシーの居間」、前掲書、二一四~二一五頁
  25. 同右、二一六~二一八頁
  26. 同右、二一九頁
  27. 同右、二二四頁
  28. 「トリニティからトリニティへ」所収『長い時間をかけた人間の経験』(二〇〇五年六月、講談社文芸文庫)一三一頁
  29. 同右、一四三頁
  30. 同右、一四六~一四七頁
  31. 同右、一六四~一六六頁
  32. 『無きが如き』一九八九年七月、講談社文芸文庫、七七頁

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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