沼田真里
2024年10月3日、松山市正岡子規記念博物館を訪れ、「森盲天外生誕160周年記念ロビー展」を鑑賞する機会に恵まれました。この展示は2024年9月25日から10月3日までの短い期間でしたが、森盲天外の生誕160周年を記念して企画された特別な展示です。博物館で森盲天外がとりあげられる非常に貴重な機会だったので、本デジタルミュージアムの記事としても、ぜひこの展示内容を記録として残したいと思い、筆を執りました。
展示内容


1階ロビーでの展示は、森盲天外の生涯を紹介するパネル展示を中心に構成されていました。また、当時に出版された書籍も展示されていました。特に注目すべき点は、森盲天外が「三木堂孤鶴」という俳号で活動していた時期、「俳人『孤鶴・盲天外』」の貴重な資料が展示されていたことです。当時の『海南新聞』に、明治24(1891)年7月2日付けの記事で、「俳諧は卑野なるものにはあらず実に文学の神髄なり」と書いた、孤鶴時代の俳論が紹介されていました。
この孤鶴の俳論は、子規記念博物館館長・竹田美喜氏の研究により明らかになった内容です。この展示に、あらためて、郷土史や俳句史研究の奥深さと魅力を実感しました。一般的に俳諧改革といえば正岡子規の名前が挙げられることが多いでしょう。しかし、実は愛媛では、子規以前にすでにその思想の萌芽があったということなのです。その萌芽は、三樹堂孤鶴こと森恒太郎、のちの森盲天外の俳論にすでにあったという事実に、驚かされます。 今回の展示を通じて私があらためて興味を持った点は、森盲天外(三木堂孤鶴)が愛媛の俳壇で活躍した時期が、正岡子規よりも早く、明治24年にすでに俳諧雑誌『はせを影』を創刊し、『南海新聞』で「俳句は文学である」という俳諧改革の思想を書いていたという事実を、どう評価していくべきかということでした(正岡子規の『俳諧大要』が書かれたのは、明治28(1895)年10月)。
感想
盲天外デジタルミュージアムを運営する研究者として、このような地域に根差した文学史の再検討は非常に意義深いと感じました。特に、全国的な知名度は高くなくとも、文学史において重要な役割を果たした人物に光を当てる取り組みは、愛媛の郷土資料が豊富な子規記念博物館しかできない展示でもあります。地域の文化の再発見により、あらたな文学の観点が発掘されるという面白さを再確認しました。
おわりに
森盲天外の存在は、障害者福祉について発信した文学者という側面だけにとどまらず、日本の近代文学史、俳句革新の流れを捉え直す上でも、非常に新しい視野を提示してくれる俳人でもあります。本デジタルミュージアムにおいても、このような「隠れた先駆者」としての森盲天外に焦点を当て、様々な企画を検討していきたいと思いました。今回の訪問は、今後の研究活動に大きな示唆を与えてくれる貴重な機会となりました。


