特集小論 大正期の「私」を読む 水野仙子『四十余日』

過去に様々なご縁から雑誌等で執筆させて頂いたものです。

 明治二十一年十二月、水野仙子は福島県で享保年間から続く呉服商・服部家に生まれた。長兄は後に国文学者、次姉は東京の女子医専を卒業するなど、生活に不自由のない中流家庭に育つ。十五歳で裁縫専修学校に入学すると同時に投稿し始め、「女子文壇」「文章世界」への六年間の投稿時代を経、明治四十二年二月「文章世界」に発表した「徒労」が田山花袋の激賞をうけた。同年四月から上京し田山花袋に弟子入りした。仙子は当時多くいたと言われる、投稿家を経て地方から上京してくる文学少女そのものだった。「蒲団」のモデル岡田美知代とも相弟子で、交流もあった。しかし彼女はただの投稿家・文学少女に留まらず、多くの作品を残した。田山花袋は「インキ壺」(「文章世界」明治四十二・五)で、仙子が「徒労」を書き得たのは、「その心が真摯」だからであり、「虚栄虚飾」がある女には「あの大胆な描写は出来」ないとし、「私は其の真摯な、まことな心を永久に失はざらんことを勧めた」と語った。実際仙子は自らの体験を題材に、当時の女性が抱えていた問題と真摯に向き合い、大胆に作品化してみせた。実姉の難産死産を描いた「徒労」、更に女性の妊娠出産と家の関係性を掘り下げた「四十余日」はそんな彼女の初期代表作だ。

 「四十余日」では少女時代の仙子自身とも言える、裁縫学校に通う十九歳のお芳が主人公。ある商家を舞台に、二度目の死産で健康を害し臥している姉、老父母、入り婿の義兄が書かれる。跡取娘である姉は、命を危険に晒しながらも児を産もうとし続ける。

 早くどうか快くなりたい!妊つても妊つても辛い苦しい思の形見ばかり残つて、二十九の今だに一人の子もない心細さ、神を怨んでも見たが、今はもうそれは思ふまい!盲目の父、かうして横つてつくづく見れば、今初めて白髪に驚かれる母、二人の妹、とそれらが重く重く自分の肩に頼りかゝつてゐた。(略)あゝ、あゝ糞!生きなければならぬ!……

 死産の悲しみと苦痛の中、病床にあってなお自分より家業や家族を思いやる姉。肉体的にも精神的にも〈家〉にどこまでも縛られる女性の姿を、お芳は姉に見る。一方で姉に代わってする家業や家事を通し、自分も同じ道を辿るのではないかという不安に襲われる。

 女といふものが思はれ、子といふものが思はれ、続いてさまざまな家庭といふものが思はれた。(略)今までの姉の立場が抉り出したやうにはつきりとわかつたやうな気がした。いづれは、この自分までがそんな渦の中にはひるべき運命を持つているのかと思つた。

 大人の世界を垣間見ながらも、友達の新しい着物を羨ましがり、歌留多取りができないと嘆くお芳はまだまだ幼い。それでいて「ものを書くことを知つて、それを雑誌などに投書することを覚え、高じては常にその道に憧れ」て、上京し作家になりたいと願う。その夢もお芳には「女といふ名に縛られて、所詮許されさうもない望」だ。若い娘が文学少女として新しい夢を抱くも「女という名」にどこか縛られ、姉の姿に家に縛られた〈女〉の人生を見て悲嘆する。少女が少しずつ〈女〉を知り、夢と現実の間で揺れる。それが「四十余日」だった。「四十余日」は明治四十三年五月「趣味」に発表され、この翌年「青鞜」が創刊される。仙子は「青鞜」に先駆けて文壇に現れ、実体験を基にこのような作品を発表していた。仙子の魅力は時代を先取る感性の鋭さ、常識に囚われず自らの問いを作品化する大胆さだ。又、当時の女性が小説を書く時、自分の体験を題材に「女性と家」「新しい女性の感性」をテーマに選んだ背景には、すでに潜在的に高まりつつあった「女性と家」の問題意識と、〈新しい女〉誕生の土壌があったためとも言える。

 仙子はその後「自然主義からの脱出と新しい文学を求めての放浪の時代」尾形明子「水野仙子解説」、『短編女性文学~近代・続』おうふう、平成十四・九)を送る。そして大正五年、二十八歳の折、結核発病をきっかけに再び私小説を書き始める。これらの作品は主に病院が舞台。死など微塵も関係ないかのような隣室の若い患者が、見舞客と共に、踏切の飛込み自殺について興がって語るのを聞く「輝ける朝」(「中外」大正七・二)や、死んだ赤子を生き返らせられないかと訴える農夫と、死んだものは無理だと断る医者を描いた「嘘をつく日」(「文章世界」大正七・二)がある。いずれも病院で出会った様々な人々を捉えながら、私自身の命をもう一度省みている。また、ある人妻が病床で従姉宛て書いたという遺書の形を借り、「私」の語りをみせた「響」(「女学世界」大正八・一)では、死や運命について逝く者・残る者どちらの心も汲みながら書いた。

 初期作品では仙子と思われる登場人物の名前も変えられ、視点も固定されていなかったが、晩年は「私」という一人称で書き、視点を「私」に固定する。「私」が語ることはそのまま仙子の語りと思わせる構造だ。これは当時盛んになっていた私小説を摂取しようという、仙子の時代を読む感性とも、結核・死という受け容れがたい現実に「私」自身で対峙しようとする、仙子のひた向きさともいえる。どちらにせよ、自らの体験に真摯に向き合おうとする彼女の精神は残り続けていたようだ。

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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