常設展

〜森恒太郎(盲天外)とは
About


 森盲天外(本名・森恒太郎、1864~1934)は、元治元年(1864年)から明治44年(1911年)にかけて活躍した愛媛県の地方政治家であり、20代で失明した中途視覚障がい者でありながら数々の功績を残した、日本初の盲人村長。

 伊予郡余土村町長在任時に実践した「余土村是」が、万国博覧会で一等賞となり全国の模範村になり、のちに道後湯之町長として財政難を改革するなど、政治家としての手腕を発揮した。

〜森恒太郎(盲天外)の魅力
About


・世界初の盲人村長という奇跡の実績
盲天外(森恒太郎)は、33歳で失明しながらも、
日本で初めて盲人として村長に就任した人物です。
当時の社会状況を考えれば、これは奇跡に近い出来事でした。
彼は「見えない」ことを理由に何一つ諦めず、
むしろ視覚を失ったことで、
人の声を聴き、土地を覚え、村の未来を“心の目”で見通す力を得ていきます。

・村を救った改革者としての顔
盲天外は、村長として次々と改革を実行しました。
・荒れた田畑の復興
・水利の改善
・産業の再建
・教育・福祉の整備
・村民の生活改善
これらの改革は、単なる行政施策ではなく、
調和・勤勉・幸福・円満といった人生観に根ざした“人間中心の政治”でした。

・ “一粒の米”から世界を悟った思想家
失明後、絶望の中で手にした一粒の米。
その重さ、温かさ、命の気配を感じた瞬間、
盲天外は世界の見え方を根底から変えました。
この気づきから、
農業・教育・政治・福祉・宗教を貫く独自の思想が生まれます。

・ 文学者・作家・俳人としての表現者
盲人でありながら数多くの著作を出版し、俳諧雑誌『ホトトギス』にも作品が掲載された“言葉の人”でもありました。
失明後、彼は世界を“心の目”で捉えるようになり、
その鋭い感受性は、俳句・評伝・啓蒙書といった多彩な表現へと結晶していきます。

・驚異的な能力~記憶力と空間把握能力と嗅覚
失明後に驚異的な能力を発揮しています。
・村の地形を“触覚と記憶”だけで完全に把握
・行政文書を正確に把握
・嗅覚だけで列車の等級を判別
・会った人の名前を一度で覚える

・ 教育者としての情熱 ― 盲学校設立の推進と実現
盲天外は、自身の経験から
「障害があっても学べる社会」を求めました。
その結果、
私費を使って盲学校の設立や教育制度の整備に深く関わり、
多くの子どもたちの未来を切り開きました。

・晩年は全国を巡る“講演家”としての啓蒙活動
晩年の盲天外は、全国講演を続けました。
・村政改革の実体験
・勤勉、労働の尊さ
・教育の大切さ
・自然、社会とともに生きる心
その語りは、聴く人の人生観を変えるほどの力を持っていたと記録されています。

・盲天外の魅力を一言で言うなら
「絶望を力に変え、村を救い、人を導き、思想を残した人」
その生涯は、
現代の私たちが抱える課題――
地域再生、教育、福祉、働き方、心の在り方――
すべてに通じるヒントを与えてくれます。

“ずたぶくろの村長”象徴写真が語るもの〜
About


盲天外を象徴する写真の一つが、肩から「ずたぶくろ(頭陀袋)」をかけた姿の写真である。

※「ずたぶくろ(頭陀袋)」とは
1. もともと仏教の修行法である頭陀行(ずだぎょう)に由来します。頭陀行の語源は、サンスクリット語・パーリ語のdhūta(ドゥータ)=“払い清める・煩悩を振り払う”という言葉です。
この語が中国で「頭陀(ずだ)」と音写され、日本に伝わりました。
頭陀袋とは修行僧が食べ物や数珠、経典など、最低限の持ち物だけを入れて歩くための袋のことです。
「必要最小限で生きる」「質素を貫く」という精神が込められています。

2. 「ずだ」→「ずた」への音変化
本来は「ずだぶくろ」でしたが、江戸時代以降に自然な音便化が起こり、ずたぶくろと発音が変化しました。

3. 庶民の生活道具として広がった「ずたぶくろ」
やがて庶民の生活にも取り入れられ、現代で言えば、エコバッグやトートバッグの原型のような存在です。木綿や麻などの布で作られた素朴な袋で肩から斜めにかけて使うタイプが多く、丈夫で、何でも入れられる万能袋です。

 1. 写真に刻まれた「盲天外の思想」
盲天外の写真に見える布袋──通称「頭陀袋(ずたぶくろ)」。
これは単なる持ち物ではなく、盲天外が改革の象徴として村民と共に背負い続けた「小作保護積立米の袋」である。
この袋には、農家が収穫した米の一部を積み立て、
凶作や生活困窮時に互いを救済する共同基金として活用する仕組みが込められていた。
盲天外は、この共同袋を象徴に「村民が互いを支え合う社会づくり」を自ら先頭に立って推進したのである。

 2. “ずたぶくろ”誕生の背景──盲天外が見た村の現実
盲天外が村長に就任した明治31年、余土村は貧困と農業不振に悩む地域だった。
その中で盲天外は、徹底した現状調査のもと「余土村是」を作成し、生活改善と農業改革を進めている。
盲天外は、村民の生活不安を前にこう考えた。
収穫に波がある以上、個々の農家だけでは対処しきれない年もある。
だが村全体なら助け合える。だからこそ、「共同の袋」で救う仕組みが必要だ。
この思想の象徴が、写真に写る頭陀袋である

3. 一粒の米が盲天外を救った──写真の奥にある精神的原点
盲天外は失明後、深い絶望の中で「一粒の米」に救われた逸話がある。膝の上に落ちた米粒を手探りで拾った瞬間、そこに「生命が形を変えて人を支える奇跡」を見出し、彼は再び立ち上がった。この体験は後年の著書『一粒米』へと結実し、村政・教育・福祉の根幹を支える哲学となっていく。そうした精神的原点を持つ盲天外が、肩に「頭陀袋(ずたぶくろ)」をさげ、村々を歩いて米の積み立てを訴え続けた姿は、まさに“一粒の米に救われた人が、一粒の米で人を救う”という彼の人生そのものを象徴しているかのようである。

 4. 反感から共感へ──盲天外が賛同を広げた軌跡
盲天外が余土村長に就いた当初、最大の障壁は「盲目であること」そのものだった。県当局は盲目を理由に当選認可を渋り、就任後も村内には偏見や反発が根強く残っていた。さらに、彼が提唱した「小作保護積立米」の制度に対しても、「収穫米を取られる」という心理的抵抗が大きく、既存の商慣行や地主・小作の力関係にも波紋が広がった。
盲天外の肩にかかる頭陀袋は、理念の象徴であると同時に、当初は批判の矢面に立たされた改革者の象徴でもあった。それでも盲天外は退かなかった。徹底した全戸調査のうえで「余土村是」を掲げ、肥料の共同購入、耕地改良、副業の奨励、青少年教育など、生活向上に直結する施策を一つずつ実行していった。
盲天外は村の道を自ら歩き、一軒一軒に説明を重ねた。机上ではなく、まさに「歩く村政」である。こうした地道な対話は、「やってみると確かに楽になる」という実感を村民にもたらし、疑念は少しずつ理解へと変わっていった。
転機となったのは、不作や急な出費に直面した農家が、実際に積立米の仕組みによって救われる事例が増えたことである。この共同袋=頭陀袋の制度が徐々に賛同者を集め、「自助と共助」の理念が成功体験として共有され始めた。
一時は、子どもが学校で「お前の父さんは物乞いをしている」と揶揄されるほどのつらい時期もあった。しかし盲天外は一軒一軒に丁寧な説明を続け、反感は薄れ、共感が広がり、やがて「小作保護積立米」の制度は確立された。そして余土村は「模範村」「伊豫のデンマーク」と呼ばれ、全国から注目される存在へと成長した。
重要だったのは盲天外の姿勢である。目が見えないことを理由とした偏見に対して、彼は「現場に立ち、人々と膝を突き合わせて話す」ことで応え続けた。制度設計・説明・実施・改善の循環を自ら回し続けたことで、村人は“言うだけではない”盲天外の姿から、「一緒にやれば本当に変わる」という確信を得ていった。こうして、当初の反感や嫌がらせは、持続的な賛同と積極的な参加へと姿を変えていったのである。

5. 村を歩き、声を聞き、袋を背負った──行動者としての盲天外
盲天外は机上の改革者ではなかった。
盲目でありながらも村内を巡り、直接声を聞き、制度の意味や未来像を語った
その姿勢はやがて村民の強い信頼を生み、余土村は全国的な“モデル村”として知られるようになった。
“ずたぶくろ写真”は、まさにその活動の最中を切り取った一枚であり、
盲天外の実践と思索が凝縮された貴重な歴史資料である。

〜森恒太郎(盲天外)年譜〜
History


8月13日父謙蔵、母くらの長男として「西余戸村」の庄屋に生まれる。

  • 父が大庄屋になったため生後3か月で庄屋職になる。(後見人北川原の庄屋:栗田弥次郎)

恒太郎は森家の後継ぎとして、大事に育てられ、何不自由なく伸び伸びと暮らし、近所の石手川の土手を遊びまわっていた。

天分の優れた才能ともいえる頭脳明晰・記憶力・判断力・思考力など豊かな感性が備わっていたとされる。明治2年(1869年)旧松山藩の寺子屋で横田万次郎に学ぶ。(6歳)

父の謙蔵が39歳で死去。7歳にして大庄屋を継ぐことになる。(7歳)

7歳という年齢で大庄屋を継いだことが、その後の人格形成に大きな影響を与えたと思われる。庄屋職が廃止になるまでの3年程度の期間である。

庄屋とは、江戸時代の村役人である地方三役の一つ、郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長である。日常業務を自宅で行い、庄屋宅には組頭等の村役人が集まり、年貢・村入用の割当てをしたり、領主から命ぜられる諸帳簿や、村より領主への願書類等の作成に当ったとされる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

母くらの膝に抱かれ、または暖かい寝床において常にその見聞を聴き、幼い恒太郎の心に刻み込まれた。恒太郎自身も幼少時に庄屋職が務まったのは、母くらと祖先という強い力の存在を見出さずにはいられないと語っていた。

森家の大黒柱である父が39歳の若さで死去したが、母のくらは武家の出であり、しっかりもので恒太郎を育てるために一生懸命働いた。

このような時期に『家事事件』が起き、母の倉は村人の備蓄貯蓄の大切さを説いたとされる。

叔父源六の存在。
幼少であっても庄屋の交際もあり、他村に行かねばならなく、叔父源六が手を引いて同行した。源六は道すがら、何くれとなく村の事や、出合の渡し船の掟・村芝居の話(娯楽の必要性)・飛脚や渡し舟等の交通制度や昔ながらの公共制度が行き届いていたかを話して聞かせた。こうしたなかに、幼い恒太郎の心の中に社会の仕組みや公共制度や公民思想などが培われていくこととなる。

『義農作兵衛』との出会い。
叔父源六は松前村の庄屋大政に行った帰り道、『義農作兵衛』の墓に連れて行った。作兵衛が、昔享保の飢饉に義を守って、麦種子の苞(草の名。あぶらがや。むしろぐさ。草履やむしろを作るのに用いる。)を枕にして死んだ終始を話して聞かせた。

隠居の安造は、幼少の恒太郎に五公五民の租税制度や徳米の算出方など手を取って教えた。

庄屋職廃止。『学制』公布。(9歳)

余戸村曙小学校に入学。(10歳)

勝山高等小学校に入学。(12歳)

愛媛県変則中学北予学校に入学。(13歳)

  • 校長の草間時福(自由民権運動・慶應義塾出身)に影響を受ける。

草間 時福(くさま ときよし)、明治期の官吏、教育者、自由民権運動家、政治家、旧制松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)初代校長。夏目漱石や正岡子規に影響を与えたことでよく知られている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

草間から福沢諭吉の自由民権思想(自由・平等・人権の尊重)を学ぶ。

青年期の恒太郎にとって自由民権思想は多大な影響を与えたと思われ、上京や入学先などの行動を鑑みると、まさに草間時福は人生を変える契機となる『運命的な出会い』であった。

草間時福が任期を終えて帰京。遊学の志を固める。

上京。(18歳)

  • 中村敬宇の私塾「同人社」に入塾。

草間時福も慶應義塾に入る前に同人社で学び、中村敬宇の『西国立志編』から影響を受けていた。その影響もあり、同人社を選んだと思われる。

中村敬宇の思想を学んだことの『実践』が後の盲天外の行動そのものであるともいえる。『盲天外は実践の人である』と一粒米の会、今岡弘さん談話。

中村敬宇(中村正直)は明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理(校長)、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を、『西国立志編』(別訳名『自助論』)の邦題で出版し100万部以上を売り上げ、福澤諭吉『学問のすすめ』と並ぶ大ベスト・ロングセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳した。 ジョン・スチュアート・ミル『On Liberty』を、『自由之理』で訳し、「最大多数の最大幸福」という功利主義思想を主張し、個人の人格の尊厳や個性と自由の重要性を強調した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中村敬宇は高潔にして女子教育の普及に尽くすとともに、教育の機会に恵まれない盲人の学校である訓盲院(明治9年創立)に尽力した。
この女子教育の思想は盲天外進出資料の『優填王経』(うてんおうきょう)にその片鱗が伺える。後に自らも盲人となり愛媛盲唖学校の設立に奔走する盲天外を考えると運命的である。

9月に帰省。 (23歳)

  • 私立中学南溟義塾の英文、数学担任教授となる。
  • 石手川が氾濫し、対策に奔走する。
  • 南予鉄道(郡中線)創立発起人となる。

庄屋魂としての政治的手腕を振るった『人生を踏み出す決定的な一歩』となる石手川氾濫。
初秋、ふるさとの余土村に帰省して部屋に閉じこもり読書に耽っていた、恒太郎の家も土塀が17間、7間にわたってどっと流され床上まで浸水した。上流の和泉部落の堤防200間が決壊して大量の水が『保免村』『余土村』『針田村』に流れ込み海のようになったのである。
家具、家屋、馬の屍、人の死体が余土、針田方面に流され甚大な被害を受け、田畑も農作物も水や泥に埋まった。
恒太郎は夜が明けるや役場に行き、被害状況を確認してその対策に奔走した。
その後、決壊した和泉部落の堤防200間の『仮止め工事』を県が行うことになったが、余土村も4か所決壊しており、同時着工せねば次の出水でさらなる甚大な被害を被ることから、代表を選出して県と交渉することになった。
余土村の代表の1人に若干23歳の恒太郎が選ばれたのである。
県と交渉の末、同時着工する運びとなった。恒太郎の『公の初仕事』である。

村の中に身を置き、村人とともに活動する恒太郎に村人は大きな信頼を寄せる。

同志と「余戸村農談会」を設立。(後の農会)(24歳)

愛媛県で最初の自主的な農民団体である余土村農談会
村内の有志(鶴本房五郎・二神精一・森忠太郎等)を自宅に招き設立。
被害の復旧対策、今後の農地改良(米を中心とした農作物の品質向上)について協議した。
『作毛品評会』『産米品評会』を実施し、農具その他寮を与えて奨励。その費用は恒太郎が負担した。その成果により1市6郡に『農会』が設立された。やがて『農群会』・『県農会』が誘起されていった為、先駆的な活動であったことが伺える。

伊予椰町村連合会、学事会の余戸村代表に選ばれる。(25歳)

  • 県下の有志と「改進党系」の政治結社「予讃倶楽部」を結成する。
  • 党勢拡張のため県下を遊説する。(県議の7割が加入)機関紙『予讃新報』創刊。

村民運動の担い手から県政や国政を動かす活動家に成長しつつあった時期
余土村民は恒太郎の懸命に活動する姿勢を評価して代表として送り出した。明治23年から実施の町村制に先立ち、伊予郡24村の共有田処理を巡り分配論と非分配論に分かれ一大争議が勃発。恒太郎は村民の総意を代表して分配論の先頭に立ち勝利を得たが、裁判にて売却論が勝利。
盲天外曰く『新制度の下に立った公民としての職分を負担することに足を踏み入れたものである』『私の活動は、わが村の活動であると思うています』『村や群の会議における私に経験から成長した政治思想は、深さと広さをもってきました』

予讃新報改め『愛媛新報』とする。(26歳)

  • 伊予肥料会社の創立発起人となる。

大同団結により、「愛媛合同倶楽部」結成に参加。自由党に転じる。

  • 温泉郡より県議会議員に選出さる。(明治27年3月まで)
  • 松山紡績(株)創立の発起人となる。(27歳)

俳諧誌『はせを影』を創刊。俳諧革新を目指す。

  • 俳号を「三樹堂孤鶴」(みきどうこかく)、2号に子規の紀行文「山路の秋」を掲戴。
    『水打った 芭蕉にやどれ なつの月』

県会の4つの常置委員会委員となる。(29歳)

  • 5月より「海南新聞」の編集にあたる。
  • 高浜線延長計画に参画し大活躍する。

余土村村議会議員。(30歳)

  • 政治に幻滅し政界引退を決意。
  • 実業界転向を発表。
  • 三番町に「三樹堂」薬店を開店。

「放蕩」の余土村村会議員時代
明治23年から25年の放蕩はすさまじく、70町歩あった資産のほとんどを失い、自宅と自作の4反余だけとなっていた。
松山花柳界で嬌名高きお信との艶福を唄われた(『伊予人物語』曽我正道)
11月には妻らと離別している。

「三樹堂」薬店時代。
自宅を松山市内に移し、母くら、子供2人と同居、お信を未婚の妻としている。薬店は海南新聞の1面に広告を出す等繁盛し、このまま順調にいけば三菱の岩崎弥太郎になると言われた(石田傅吉氏の著書より)

9月15日県民代表として、天皇奉迎で広島に行く。(31歳)

  • 翌朝左眼に異常をきたす。
  • 「松風会」に入会。
  • 東京に目の治療に上京。

松山日赤病院の紹介で東京帝国大学河本博士の治療を受ける為に、お信と上京した。
治療するも、視力回復せず。

帰省中、右目に異常をきたし、再び上京する。(32歳)

左目は回復不可能と告げられ、松山で待っている母と子供2人に土産を買って帰省。
途中京都で開催中の内国勧業博覧会を2度にわたり見学。

正岡子規帰省中の愚陀仏庵での句会に参加している。

両目失明。3度自殺を考える。(33歳)

俳号を盲天外とした時期。
33歳で両目失明。政治はもちろん、実業界への道も断たれる。
帰省。故あって献身的に尽くしたお信と離縁。人生に絶望し、石手川での入水自殺を考えるも家族の事で止まる。ある夜決意をして短刀で自殺をしようとしたが母が目を覚ましたため思いとどまる。
俳号を盲天外とする。子規派(新俳句)の俳句に夢中。『ほととぎす』『承露盤』『新俳句』などに投稿し掲載される。

俳号は子規が与えた?
正岡子規が与えたとされる俳号である『天外』に盲をつけて盲天外とした説には夢がある。しかし『天外』の俳句が恒太郎(孤鶴)のものとは言えない事や年代的にも社会的活動においても子規の方が後輩である為、当時の風潮からしてあり得ないと思われる(子規博物館 竹田美喜総館長 一粒米の講演参照)。

「一粒米の悟り」(心眼を開く)、比叡山で修行する。(34歳)

『一粒米』の悟り。
食事のことであった。予は膳に向って食せんとする時、一粒の飯がたまたま箸を離れて膝の上に落ちた。我が指頭に粘じて居ると「豁然として忽ち悟る処があった。」それは僅かに粘じ得られる「一粒の飯」にも殆ど量るべからず重さのある事を知ったのである。』

この悟りの心境を大燈禅師の言葉でこの峠の意を写さんと擬せば、『雲一渓に閉ざして 水せんせんと』と言っている。

悟りを開いた盲天外は、比叡山に登り参禅して修行したとされる。南禅寺でも参禅。『求むれば 我が身世にふる 道もがな 唯一粒の 米の中にも』明治30年(1897) 余土村村長の要請を受ける。(34歳)

秋、盟友鶴本房五郎が京都の恒太郎自宅を訪れる。再三辞退する盲天外に『これはもう、村の有志の総意である。見えない書類は他のものが読み書きするから、あなたはそれを聞いて判断すれば良い』と説得するが、辞退。松山市に帰宅した恒太郎宅に、12名の村議会議員、前村長が数回にわたって説得。失明した恒太郎を暖かく迎えてくれるという「愛の包容力」の強さに感動し、ついに承諾の決意をする。(『我が村』より)

余土村議会では満場一致で『余土村2代目村長』に就任。(36歳)

  • 村役場が県当局に村長の認可申講が不認可。
  • 恒太郎、篠崎知事に直談判し認可となる。

日本初の盲人村長誕生の道のり。
村役場は森村長当選の件の承認を受ける為、県当局に申請書類をあげた。わずか5㎞しか離れていない愛媛県庁からは、10日経っても、20日経っても認可の通知書が送付されて来ない。県庁内部では盲目の身では、村行政の事務を円滑に行使することが可能か否かで論議が続けられた結果、就任を認めない方針だという情報が届いた。
これを聞いた恒太郎は、恐怖感に襲われたと同時に「これは私一人の問題ではない。全国の盲人から公的生活・人格をうばう暴挙ではないかという怒りが込み上げてきた。ただちに、篠崎五郎愛媛県知事を訪ね、自分の意見を披露した。知事は、私の意見を聴取して、同情の涙を目に湛え、心配なさるなと力ある一言を与えられた」2日後に認可が余土村役場に届いた。
自分の為ではなく、世の盲人の人権蹂躙の為に動いたことがうかがえる。

余土村は昔から「難しい村」であった。村民は村という公共体を、自分との利害関係はなしとして、それぞれがそれぞれの都合、利益のためにいろいろな事をする「真にむつかしい村」であると評判になっていた。

明治23年町村制実施に伴う、青木小学校・保泉小学校・曙小学校統合、校舎新設をする場所をめぐる問題で大混乱になっていた。

小作争議。
地主と小作人の関係が難しい村、全国の農村も同様の課題を抱えていた。明治10年には大きな小作争議があった。

『余土村村是』を策定、実行に移す。(37歳)

  • 「村を治めんとするには、その対象たる村の研究に出発せねばならない。」との考えから村民の協力(調査委員5人)で『余土村村是調査資料』(32年10月~33年4月)を完成。

「小作人保護会」を設け、自ら頭陀袋をかけて地主より、保護米を集める

  • 。(1反につき米1升)12月より小作人のために無利息肥料購入資金貸与を始める。

有名な頭陀袋姿の写真。
小作人保護の為、自ら頭陀袋をかけて戸別訪問し、一反につき米一升の譲出を地主に依頼してまわった。地主と小作人双方の相互扶助・共存共栄をはかるために行った。
当初は誹謗中傷を受けたが、熱意と誠意が伝わり、賛同者が増えていった。

村長時代の単身自炊生活。
当初より強い決心で単身生活をすることを覚悟していたので、掃除・寝床の片づけ・炊事も自分自身で行うように心がけていた。最初に困ったのは火を燃やすことであり、燃え移っているのかがわからない。ご飯は3・4日分を一度に焚いて、葉は漬物や味噌を常食とした。衣類は柱の釘に引っ掛けて、幾日となくぶらさげておく。たたむことが面倒なので1枚とした。このような次第であるからご近所は言うまでもなく村全体の人から暖かい贈り物やご馳走を頂くこととなる。『実に私をして村中の家庭に座するの思いあらしめた。』(『我が村』)

  • 明治18年以降未解決の「宝井堰」紛争を解決し、隣村垣生村との親睦を回復する。(38歳)

明治18年来の宝井堰をめぐる水利権問題を解決。
負傷者が出るほどの紛争が度々起こっていたが、恒太郎は村長というよりも公平な第三者という立場を前提として、垣生村の説得にあたり、三昼夜にわたるは鳩首会議を重ねて、ついに了解点に達し、覚書を交わし、10数年来の水争いに終止符を打つ事が出来た。

村会に諮り貯金を奨励することを決定し、456戸の村に加入者630人を得る。後の余土村産業組合の母体。(39歳)

『余土村是』を第5回内国勧業博覧会に出品し、見事1等賞牌を受賞し、余土村は一躍全国に名を馳せ、視察者が来村した。(40歳)

  • 伊予肥料会社創立を図る。

盲唖学校の設立を提唱し、東奔西走し、知事を始め広く有識者を動かし、愛媛盲唖学校(今の県立盲学校の前身)を設立させ10月16日に開校した。

  • 12月10日に村長を引退する。余土村会及び水利組合が多年村治に尽した労に対して金1千円を贈る。これを盲唖学校に寄附した。(44歳)

上京、『一粒米』出版。(45歳)

  • 序文は新渡戸稲造、8版を重ねベストセラーになる。
  • 3月より内務省・各府県の地方改良(自治・民育)嘱託、各地で講演を行う。

『義農作兵衛』、『町村是調査指針』出版。(46歳)

『貯金道話』出版。(47歳)

『農業道徳』出版。(48歳)

  • 年譜記載にあたり一粒米の会 講演・講話資料<第一章>より
    森二郎会長の[『森盲天外の障害とその功績』を<年譜>でたどり考える]
    より参照して一部転載させて頂きました。