森盲天外の『貯金道話』は、単なる金銭管理の指南書ではありません。これは、人生の根本にある「蓄える」という行為を、道徳・勤労・精神修養の観点からその思想をわかりやすく講和形式に説いた、明治の叡智が息づく珠玉の一冊です。
盲天外は、視力を失いながらも村長として民を導き、教育者として盲唖学校を設立した人物。その生き様が本書にもにじみ出ています。「貯金」を単なる貨幣の蓄積のみならず、それを人格形成の一環と見なします。すなわち、日々の勤労に感謝し、無駄を慎み、未来への備えを「道」として歩むことこそが、真の豊かさへの道であると語るのです。
本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。
※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。
意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
◆第3講 たのしい貯金 その一:経済趣味◆
貯金の仕訳
世の中は心矢橋と早れども 銭がなくては渡られもせず
浮世を捨てた一休和尚でさえ、人生には金が必要であることをこのように歌っています。本尊や金仏、絵像にしても、金箔や色彩が施されているからこそ有難みがあるのです。人間が世渡りをするにも、金がなければ一日を送ることすらできません。ましてや、子孫繁栄の道を求めるならば、金なくして成り立つものではありません。歌を詠み詩をつくるより田を作れ 何がしよりも金がしがよし
さて、金持ちになろうと思うならば、貯金をしなければなりません。たとえ金を儲けても、貯金をしなければ儲けたことにはなりません。貯金をすれば、儲けた金が目の前に明らかに見え、我が勤労も貯金という形となって効果が現れます。効果が現れてこそ、勤労も面白くなり、貯金が楽しくなるのです。その楽しさの中で、富豪への道を歩んでいくのです。この「貯金をする」という行為は、金の「仕訳」にほかなりません。勤労によって生まれた金は、すでに我から離れて別の存在となっています。それを仕訳しておけば、それで良いのです。ところが、わがもの顔で飲んだり、食ったり、使ってしまえば、せっかく得た金も「得たこと」になりません。
生まれた金は、別に仕訳してやることが貯金なのです。
私たちが住んでいるこの地球は、赤道周囲二万四千八百九十六マイル余りという広大なものです。もし一日に二十マイル歩くとすれば、一周するには一千二百四十四日余りを要します。このような大きな地球が、一日一回転して昼夜を成しているのです。その回転の速さは、汽車や汽船の比ではありません
。一昼夜二十四時間でこの距離を割ると、一時間に一千三十七マイル余りという驚くべき速力で回っていることになります。私たちはこの地球の上に乗っているので、共に動いているにもかかわらず、その速さを感じることはありません。地球と私たちが一体となっているからです。
「仰げば高し富士の山」——裾野から見上げれば、雲の上まで突き出て天に届いているように見えます。しかし、一歩ずつ登って頂上に達してみると、天はなお上にあり、富士山の高さも眺めたほどではないと感じるでしょう。
金ができたとしても、それを身につけて「我が体のように」いつでも使えるものとすれば、地球の速力も富士山の高さも感じられないのと同じで、金の価値も分からなくなってしまいます。
だからこそ、金ができたならば、それを「仕訳」して我と離してみなければ、貯金にはなりません。貯金とは、我から仕訳することが肝心なのです。仕訳してこそ、「仰げば高し富士の山」——貯金もまた高く、楽しいものだということが分かるのです。
うつし鏡
年ごとに咲くや吉野の山桜 木を割って見よ花のあるかは
春の色をたたえ、梢に笑みを含んで咲く吉野の山桜を見れば、誰もが「これはこれは」と称賛し、花の業に酔いしれて「夢よりそのまま死なんかな」とまで思う人もいます。この桜は、年々歳々、散っては咲き、咲いては散り、時を違えず巡ります。その美しい花がどこから来て、どこへ帰るのか。木を倒してみても、その所在は分かりません。
桜の自性が「縁」に触れて花となって現れるからこそ、人の目に見え、心に美を感じさせるのです。金もまた、人の勤労という「縁」によって生まれてくるもの。年毎に咲く吉野の山桜のように、勤労によって金が生まれ、貯金されてこそ、色もあり、香もあるものとなるのです。
人は、自分の顔でありながら、その顔を直接見ることができません。鏡に映して初めて、自分の顔を他観することができます。鏡に本来、我が顔があるわけではありませんが、鏡という自性が、前に立つ我が顔を「縁」として映すのです。
その映し出された姿において、鏡と我とは一如であり、「空はすなわち有、有はすなわち空」。木を割っても花の所在は分からずとも、梢に紅を染めてこそ花の美を知るように、勤労によって生まれた金を貯金として仕訳することで、その美しさが現れるのです。
貯金とは、勤労の「うつし鏡」です。貯金を見て、その効果が現れ、楽しく面白くなってくるのです。もし貯金をせずに置いたならば、自分の顔を鏡に映さず、色が黒いか白いかも分からず、美醜を知らずに暮らすようなものです。
桜木も、打ち割って薪にしてしまえば、他の木と同じで、花の美しさを認めることはできません。
この「うつし鏡」に映して貯金の仕訳をすれば、富士山の「仰いで高きこと」を知り、花の美しさを感じることができます。仕訳をせず、鏡に映さなければ、貯金の美醜が分からず、貯金が楽しくもなく、勤労の趣味も失われます。
すると、せっかくの勤労も「草臥れ儲け」となり、「この暑いに、この寒いに働かねばならぬ」と労を厭い、勤を怠るようになってしまい、到底富豪になることはできません。
貯金の仕訳をすれば、金は我が懐から離れたように見えます。脱兎のように逃げると思って、仕訳せずに金を持っていたがる人もいるかもしれません。しかし、仕訳しても、金は完全に我から離れたものではありません。
貯金は勤労の「うつし鏡」です。鏡に映してこそ、勤労の楽しさが分かり、暑さ寒さの苦労も忘れ、ますます勤労に励むことができます。その映っている貯金は、我が勤労の姿であり、貯金と我とは一如なのです。
仕訳された貯金は、離れたようで離れていません。実は、我が勤労の「影法師」なのです。桜木の自性が花となって現れるのと、何ら異なるところはありません。
貯金をしなければ、自分が勤労の徳を認めない愚か者となってしまいます。貯金の仕訳とは、勤労の「うつし鏡」であると知らねばなりません。
良し悪しの映る鏡の影法師 よくよく見れば我が姿なり
(良いも悪いも映る鏡の影法師、よくよく見れば、それは我が姿である)
目に見ねば
誰もみな春は群れつつ遊べども 心の花を見る人ぞなき
勤労の価値を真に理解した人は、勤労の苦しみを苦と感じません。しかし、この自覚を得る人は世に少ないものです。「花なき花」を知ることができれば、春に限らず秋にも花を楽しむことができ、吉野や初瀬の物語もさらに味わい深くなるでしょう。けれども、そのような人が少ないため、春の花に目を誘われて楽しむ以外に方法がありません。
だからこそ、貯金という「花」によって勤労を楽しむのが近道です。これを一心に楽しみとして趣味とするならば、貯金と勤労は一枚のものとなり、ここに「花の真」が現れてくるのです。
ここに面白い話があります。
私の村に、七十歳を越えた老婆がいます。多年にわたり勤労を重ね、糸を紡ぎ、機を織って蓄えた貯金が四、五千円にもなりました。ところが、彼女は一年に一度、定期の期限が来るたびに銀行から現金を引き出してきます。そしてすぐにまた預け直すのです。
これを見た倅は、「通帳さえあれば、預金額も利子も分かるのに、わざわざ現金を引き出すなんて迂闊なことだ」と止めようとします。しかし、老婆は聞き入れません。
「難儀して拵えた金は、通帳で見るだけでは興味が薄い。一度は確かに手に取って数えてみなければ楽しみがない」と言って納得しません。
迂闊といえば迂闊ですが、これは三昧です。目に見てこそ楽しく思えるのが人情です。そのうちに心の花も実もあって、勤労し、貯金しているのです。目に見せることは決して悪いことではありません。勤労の趣味を貯金という形で見せて楽しませることも、非常に大切なことです。
これは、本尊や金仏に「南無阿弥陀仏」と念じることと同じではありませんか。
「楽は苦の種」と言います。種を宿してお腹が大きくなった時には、すでにその中に我が子の運命が備わっています。しかし、腹の中にいる間は目に見えない我が子。まだ「可愛い」という心も起こりません。むしろ、重い身の苦しみを嘆き、分娩の危険を恐れて、我が子の運命など深く考える者は少ないのです。
これは、勤労の中に宿っている財貨をまだ知らないのと同じことで、結局「目に見えない」からなのです。
隣村のある女性が懐胎しました。懐胎中は苦しい苦しいと嘆き、たしなみのない女のこととて、亭主に向かって小言ばかり言っていました。いよいよ臨月となり、分娩の時が来ると、腹は痛み、張り、うんうん唸ります。しきりにもがき、堪え切れなくなって、傍らの亭主をつかまえて「お前のせいだ、苦しい苦しい」と呻き悶え、人を恨みます。
ところが、オギャアと子が生まれると、一目見たその瞬間から、その子が可愛くなり、育てるうちに、亭主が叱っても、叩いても、「誰が苦労して生んだ子でもあるまい、そんなに叱ったり叩いたりしてもらうまい」と寵愛して育てるようになりました。
実に滑稽な話ですが、まだ見ぬ間は我が子も真に可愛いとは思えず、苦しみと人を怨む心が先立ちます。しかし、我が子の顔を見て、それが泣いたり笑ったりすると、親の苦しみは苦しみでなくなってしまうのです。
貯金という「子の顔」を見れば、初めて愛が生まれ、勤労の苦しみを忘れるようになるのです。
勤労の趣味を自覚できれば、それほど尊いことはありません。しかし、自覚できない人には、貯金によって「目に花を楽しませる」ことが必要です。これを楽しめば、おのずから勤労の趣味が生まれてきます。
貯金は、勤労の趣味を与える「花」であり、愛を生む「嬰児」です。勤労も、楽しみがなければ続けられるものではありません。
だからこそ、貯金は勤労を励ます唯一の手段であり、幸福へと導く案内者なのです。
金一円の増殖力
わずか一円の金といえば、多くの人はこれを重んじません。一円では足に履く駒下駄も覚束なく、頭に戴く帽子など到底買えるものではありません。穿くに穿けず、冠るに冠れず、「これくらいの端金、どうするものか」と軽々しく使い果たす人は、愚かと言わざるを得ません。
しかし、今ここに一円の金を働き出して、自分の懐から仕訳して銀行に預け入れれば、それは貯金となります。特別な世話を焼くこともなく、次第に利子を生んで殖えていくのです。
その「殖える力」は、実に大したものです。
たとえば、年利六分(6%)の利子が付くと仮定して、一円の金を貯金して五十年経てば、元利合計は十九円七十九銭四厘一毛となり、ほぼ二十倍になります。百年に至れば、三百九十一円八十銭六厘四毛となり、ほぼ四百倍に達します。
これは年利六分での計算ですが、もし年利一割(10%)で回るとしたならば、驚くべき増殖力を示します。一円の金が五十年後には百三十円二十銭六厘六毛となり、百三十倍の増加です。百年後には一万六千余円となるのです。まさに驚嘆すべき成長です。
されば、一円の金を「僅かなもの」として軽蔑してはなりません。
もし一円が安っぽいと感じるならば、少し憤発して十円の金を貯金してみてください。年利六分でも百年後には三千数百円となり、もし一割の利子に回れば十六万数千円となって、大富豪の仲間入りも夢ではありません。
このように、金は元来「殖える性質」を持っているものです。その殖える事実を目の前に実現しようと思うならば、貯金という「仕訳」をしておかねばなりません。
それさえすれば、一円の金も百年後には幾万円という大きなものとなり、まるで富士の山の高きを仰ぐように、貯金が美しく、楽しく見えてくるのです。
百年の後ずさり
「金が殖えて、わずか一円が何万円にもなると言っても、それには百年という長い時間が必要です。私たちはそんな長い辛抱ができるものではありません。その間に命が尽きてしまう。死んだ後に金持ちになっても意味がない——そう考えて、貯金増殖の趣味を打ち消してしまう人もいるでしょう。
けれども、「十万億土もついぞ我が目の前」。百年の月日も長いようでいて、実は「即今只今」、その百年が目の前にあるのです。
人は生まれて死ぬものだと誰もが知っています。しかし、何年何月に命が尽きるかは誰にも分かりません。たとえ八十九十と歳を重ねても、いつ死ぬかは分からない。だからこそ、生を忘れ、死を忘れてこそ、おめでたいのです。
貯金の百年もまた、いつのことかと思っている間に、その百年が目の前にやって来る。百年でなくとも、百年の趣味は「即今只今」得られるのです。
百年は百年。では、なぜ百年が一日の中に来るのか。
池塘春草の夢、庭前の梧葉既に秋風
春かと思えば、早くも夏秋へと移り、月日は後へ戻ることはありません。盆の月が西から昇ることもなく、太陽が逆戻りした話も聞きません。だから、百年が一日の中に立ち戻るとは不思議だと思う人も多いでしょう。しかし、貯金はこの不思議な「百年の後ずさり」を可能にします。
たとえば、一円の金を年利一割で増殖すれば、百年後には一万三千余円になります。百年が長いというならば、それを短くすればよいのです。
一円の元金に、初めは利子が多くつくものではありません。次第に殖えていき、最後の数年に格別増加するのです。つまり、待ち遠しいのは初期の時間であり、その時間を消してしまうのは、実は容易なことです。
たとえば、一円の元金に対する一割の利子は、初年度でわずか十銭。二年目でも十銭一厘。十年目でも一円六十五銭三厘です。
つまり、十銭を貯金すれば、百年の月日が一年だけ「後ずさり」します。十銭一厘なら二年。一円六十五銭三厘を貯金すれば、十年の月日が「時の間」に後ずさりするのです。
このように、僅かな金を貯金することで、百年目の一万三千余円に早く手が届く。確かに、月日が後ずさりしているのです。
さらに積み重ねれば、二十年、三十年、四十年の月日も待ち遠しくなくなり、百年目が後へ後へと近寄ってきます。
光陰は矢の如し、一度去って帰らず
この月日を、私たちが働いて搾り出す十銭、二十銭、三十銭、あるいは一円、二円という貯金が「後へ引き戻す」と思えば、毎日の勤労と貯金の中に、百年目の月日が返ってくるのです。実に不思議なことではありませんか。
百年目が後ずさりして近づけば、死んだ後のことと思っていた未来が、すぐ目の前にやって来る。「花よりも団子」、なんと嬉しいことでしょう。
これは百年が後ずさりしたのではなく、自分の命が百年延びたとも言えるのです。働いて貯金すれば、我が命は三十年、五十年、百年と「時の間」に延びていきます。
働きさえすれば、浦島太郎の三千年もわけのないこと。長命長寿も貯金によって得られると思えば、貯金することに、いかにも面白味があるではありませんか。
敷島一本五十円
一銭の金といえば、確かに僅かなものです。しかし、この一銭を百円のように働かせることができるのです。こう言うと、まるで奇術師か傀儡師のように思われるかもしれませんが、これは決して幻術ではなく、誰にでもできる真実の話です。
奇術師が手のひらに一銭、二銭、三銭、四銭と並べ、それをフッと吹くと、向こうの風呂敷の中に消えてしまう。そして「さあご覧なさい」と風呂敷を開けると、チリンチリンと音を立てて銭が現れる。これは目を眩ます早業で、熟練を要する技です。
しかし、私たちが一銭の金を百円のように使うことは、そんな熟練を必要としません。
たとえば、百円の金を銀行に当座預金として預けると、普通は日歩一銭の利子がつきます。この一銭が殖えていくのは、預金の徳です。百円を貯金するには、それなりに精を出して働いて稼がねばなりません。その稼いだ金を貯金し、次第に殖えていくのを楽しむのです。
その殖える額は、一日わずかに一銭。僅かに思えるその一銭も、日を重ねるごとに増えていき、やがて大きなものとなります。
ところが、今、私たちが一銭の金を大切にして貯金すれば、たとえ百円の預金がなくとも、百円の預金と同じ利得を得ることができるのです。つまり、一銭の金が百円のように働いているのです。
だからこそ、十銭の金を貯金すれば、それは十銭ではなく、千円を預けたのと同じ利得を得たと考えることができます。小さな金も、大きく見て働かせれば、貯金は面白く、趣味深いものとなるのです。
たとえば、敷島一本の巻き煙草の値段は五厘。これをパッパとくゆらせば、それで終わりです。しかし、その煙草をくゆらせている間に、五十円の預金利子を失っているのです。
一本の巻き煙草は、わずか五厘。これをただの消費と見れば何の趣味もありませんが、もしその五厘を貯めれば、五十円の預金をしていたのと同じ利得が得られるのです。
つまり、たった一本の巻き煙草も、その価値は五十円に相当するという勘定になります。
このように、些細な金も大きく見て、貯金に努めれば、貯金そのものに大きな趣味と意味を見出すことができるのです。
台所で銀行営業
銀行と聞くと、多くの人は「金がたくさんある場所」「綺麗で立派な仕事場」と思い、頭取や取締役、支配人を「幸福で羨ましい人々」と見なします。
しかし、銀行の営業とは、資本金や預金を運用して、わずかな利子を得ることに過ぎません。たとえ何百万円の資本があっても、その元金を使い果たすわけではなく、利子の割に儲けは微々たるものです。
たとえば、百円を貸して得られる利子は日歩二銭か二銭五厘。千円なら二十銭か二十五銭。一万円でも二円か二円五十銭です。
しかも、預金を運用する場合は、預金者に利子を支払わねばなりません。当座預金なら百円に一銭、千円に十銭、一万円に一円。定期預金ならさらに多く、日歩一銭六七厘にもなります。
つまり、銀行の利益は、得た利子の半分以上を支払ってしまうため、実に僅かなものです。元金は大きくても、所得は零細。しかし、その零細な所得も積み重ねれば大きなものとなり、銀行営業は人々の羨望の的となるのです。
その実態は、僅かな所得を集めて大きくしているにすぎません。
さて、台所ではどうでしょう。
毎日、魚肉、牛肉、味噌、醤油、薪炭などを費やす中で、あちらから五厘、こちらから一銭と「剥ぎ出し」(節約)ができます。僅かと思えば僅かですが、これも銀行営業と同じことです。
たとえば、炭で一銭儲かったとすれば、銀行に五十円を貸して得た利子と同じです。牛肉で五銭剥ぎ出せ(節約)ば、二百五十円の貸金に相当する利得です。
このように、日々の費用の中から少しずつ剥ぎ出す(節約)ことは、銀行が元金を運用して得る利益と変わりません。
「銀行のように何百円、何千円という金を扱うわけではない」と思う人もいるかもしれませんが、銀行も元金を使うのではなく、守りながら利子を得るのが目的です。
台所で剥ぎ出す(節約)利益も同じことであり、むしろ銀行のように貸付や勘定の面倒もなく、返済の心配も不要で、より容易な銀行営業をしているのです。
銀行の利益を羨む人は、銀行の業体を知らぬ人です。営業がしたければ、台所で毎日それができます。
魚肉、牛肉、味噌、醤油の中から剥ぎ出すたびに、「僅か」と思わず、銀行営業の心持ちで剥ぎ出し(節約)ていけば、一日に何百円の元金を貸し付けたのと同じことになります。
台所のお上さんは、まさに銀行の頭取・支配人の役を果たしているのです。剥ぎ出した金の貯金もまた、趣味深く、尊いものなのです。
竈の下の田畑
わが家は青天井に地の筵 月日を明かり風の手箒
いかにも浮世を三分五厘、のんきな歌のようですが、「青天井に地の筵、月日を明かり、風の手箒」と悟ってみれば、これは安心の境地です。畑は畑ばかりではありません。竈の下にも田があり、畑があります。これは自在の天地であり、「我が家に田がない、畑がない」と胸を焦がす必要はありません。台所や竈の下に、大きな田畑があることを知らねばなりません。
竈の下で焚く薪も、注意して燃やせば五厘や一銭前後の節約が生まれます。台所のあれやこれやで、一銭二銭は訳なく剥ぎ出せます。これが一年三百六十五日、毎日のこととなれば、積もって大きなものになります。
一日十銭の節約は、少し心を留めればできぬことではありません。すると一年で三十六円五十銭。米に換算すれば三石余、麦なら六石余。これが台所や竈の田畑から生まれた米麦です。
三石余の米を作るには、二反ばかりの田が必要です。六石の麦には、四反ばかりの畑が必要です。その上、米作りには肥料も年貢も要り、干ばつや降雨など、心配の種は尽きません。骨折りも容易ではありません。
それに比べて、台所で作る米麦は、無雑作にして可能です。三反四反の田畑を買う資本も要らず、肥料も年貢も不要。日照りが続こうが、雨が降ろうが、頓着なく米麦を作ることができるのです。
農家は星を戴いて出て、月を踏んで帰り、炎天に背を焦がし、寒風に膚を裂いて、困苦と闘いながら田畑を作ります。人意の及ばぬところがあり、天の時には常に豊凶の不安があります。
去年は雨天続きで二割不作、今年は干ばつで三割減収。雨や日照りに肥料を損し、労力賃を奪われることもあります。天の時は、いかんともすることができません。
しかし、台所や竈の下には、急な心配は無用です。他の田畑が凶作でも、台所の田畑で作り出せば、凶作も凶作ではなくなります。豊年は、いつも竈の下に求めることができるのです。
このような自在の天地を悟り得て、家業を大事にし、内でも外でも田畑を作ることを忘れなければ、勤労の徳が実り、その実ったものを貯金に仕訳していけば、確かに米麦を積み重ねた「よけいある家」となり、おのずから貯金の楽しみが生じてくるのです。
虎の皮のふんどし
尻ばかり大事にしても身は裸 欲の角をば出す鬼かな
虎の皮一枚は何百円もする高価なものです。それを褌にしているのは、地獄の里の鬼だと言われます。身は裸でも、尻ばかりに大枚の金をかけて虎の皮の褌を求めるとは、一を知って十を忘れた、欲に偏った鬼の姿です。この世にも、尻ばかりに金をつぎ込んで暮らす人がいないわけではありません。欲に偏した人には、きっと角が生えているのです。
世間では「金々」と、通貨ばかりが世の中の実であるかのように思われています。まるで虎の皮の褌を締めているようなものです。
しかし、金とは決して通貨だけに限られたものではありません。貿易上の価値、すなわち「富」こそが金なのです。それを哀れにも「通貨だけが金」と考えていては、多くの貯金を築くことはできません。
たとえば、商家の丁稚小僧にしても、店の品物が金であることを忘れています。引き出しに壊れた品物があっても、倉庫の出口に商品が転がっていても、大切にしようとしません。
「これは少し壊れたから、もう売れない」と放置し、少し繕えば売れるものを直そうともしない。転がっている商品も始末しようとしない。
しかし、その壊れた商品も、十銭、二十銭、五十銭、ないし一円という価値があります。
ところが、もし庭の隅や裏口に一銭、二銭の通貨が落ちていたら、勿体ぶって跨ぎかけた足も引き、踏みもせず、ゴミ箱にも放りません。こそこそと拾って除けます。
僅かな通貨でも「金」となると大切にするのに、その通貨よりも幾十倍の価値ある商品は踏んで通り、ゴミ箱へ棄てる。これは「通貨だけが金」と思い込んでいる「虎の褌小僧」です。
商品の金たることを知らぬ者は世に多く、こうして出世できる者ではありません。
また、農家においても、作った米麦豆を軽んじ、通貨だけが金と思い込む傾向があります。寄附や勧化に米麦ならば安々と出す。田舎では、飴屋は飴で、米麦に糟着けて取り、魚屋は雑魚で釣った鯛で米麦を釣って取る。
これは、品物の金たることを忘れているからです。
こうした風習は、商家や農家に限らず、一般にも広く見られます。金の尊さは知っていても、物の金たることを知らぬ人が多いのです。
日々台所で費やす品物も、すべて金です。品物が金であることを知り、よく勤め、慎ましく節約しなければ、貯金は多くできません。
金をのみ欲しがる人ぞおかしけれ 黄金が飯の代わりやはする
通貨だけが金と思い込めば、いかに欲張っても「欲の角」が出るばかり。身は裸で、腹が減り、食い合い取り合いの修羅道を演じることになります。これこそ「虎の皮の褌」と言うべきです。広く「物」を金と見なし、大切にしていけば、貯金も多くでき、万事万物が貯金となる。すると、楽しみの範囲も広がるのです。
馬も食はぬ豆
ゑにかきし餅はくはれず世の中は 誡でなけれや間にはあはぬぞ
理屈ばかりを並べていても、何の役にも立ちません。よく考え、それを実際に行動に移さなければ、貯金というものはできるものではありません。肝要なのは「実行」です。金を「金」ばかりと思わず、広く物を利用し、我々の行為そのものが「貴い金」であると理解して働けば、「学んで時に之を習う」こともまた楽しいものとなります。
いかに大きな餅の絵が描かれていても、実物でなければ腹は満たされません。
ここに、二宮尊徳翁と富田高慶との初対面にまつわる逸話があります。
富田高慶は相馬藩士であり、江戸で長く学問を修めた有名な学者でした。天下に師と仰ぐに足る人物がいないと感じていた彼は、尊徳翁の人格と見識の高さを聞き、「我が師と仰ぐに足るかもしれない」と思い、自らの蔵書を売却して旅費を調え、野州桜町宇津家の陣屋へ赴きました。
しかし、玄関払いを受けます。それでも高慶は諦めず、半年ほど逗留して面会の機会を待ち続けました。尊徳翁はその熱心さと行為の篤実さに感じ入り、ついに面会を許します。
高慶は飛び立つほどに喜び、初対面の場に臨みました。すると、尊徳翁はいきなり問いかけます。
「お前は江戸の学者だそうな。字もよく書き、本もよく読むであろう。俺は百姓で何も知らぬが、一体お前は『豆』という字を知っているか」
高慶は意外な問いに驚きながらも、「はい、承知しております」と答えます。
尊徳翁はすぐに硯と紙を取り寄せ、「それならば、お前の知っている『豆』という字を書いて見せてくれ」と言います。
高慶は丁寧に、字書通りに「豆」の字を大書しました。
尊徳翁はそれを見て、「ふん、これがお前の豆か。馬も食うまい」と言い、従者に命じて蔵から一握りの豆を持ってこさせ、「これが俺の豆だ。この豆は馬も食うぜ」と高笑いしました。
これが両者の初対面のやり取りでした。
この時、高慶は深く心に感じ、肝に銘じました。理屈ばかりでは世の中は動かない。天下国家を治めるにも、実行がなければならない——そのことを痛感したのです。
貯金ということは、誰もがその必要を知っています。しかし、実行に移せないのは、実行の「趣味」がないからです。
ただ「必要だ」と心に思っているだけでは、何の役にも立ちません。それは空理であり、「馬も食わぬ豆」です。
しかし、一度実行に移せば、その味が分かってきて、楽しく愉快に貯金ができるようになります。そして、ついには富豪となることも可能なのです。
要は、「実行」を第一義とせねばなりません。
実行こそが、貯金の趣味を生み出す「畑」なのです。
◆第4講 たのしい貯金 その二:道徳趣味◆
かたわもの
人間の中には、私のような盲者もいれば、びっこも唖者もいます。こうした不具者を見れば、誰しも「可哀想だ」と同情の念を起こすでしょう。
たとえば、盲目の人が杖を頼りに歩いていて、顔の先に荷車の梶棒が突き出ていたとします。あわや顔を傷つけそうになっても、盲目の人はそれを知ることができません。傍で見ている者は、「危ない!」と一声かけて、その危険を免れさせようとするでしょう。
その傷つく瞬間を見て、何もせず通り過ぎるような無情な人は、まさか世にあるまい。これは、盲目という「見ることのできぬ不自由さ」に対する同情から生まれる行為です。びっこでも、唖者でも、同様にその不自由さが人情を呼び起こします。
この同情こそが「仁徳」であり、「博愛」とも呼ばれる、最も貴い徳の一つです。
善いことをすれば、心が晴れやかになります。人を打擲すれば、夜も眠れません。不具者を助けて、喜ばぬ者はあるまい。同情によって人は貴くなり、その価値は人格を高めるものです。
しかし、盲者やびっこや唖者だけが不具者ではありません。
人間という進化した高等な存在から見れば、世の中のすべてのものが「不具者」です。人間には巧妙な手、足、耳、目、口という生理機関が備わっており、さらに無尽蔵の知識によって、その機能はますます巧妙になります。
それに比べれば、人間が優れている分だけ、他のものは不具なのです。
たとえば米。人に利用されて煮られ、食べられます。米は米の本分を尽くし、犠牲となっても進化し、向上しようとします。しかし、米は自力で俵の中から這い出ることも、臼に入って白米になることも、釜の湯に飛び込むこともできません。米には手も足もないのです。
だからこそ、人の手足を借りて、俵から出してもらい、白くしてもらい、釜に入れてもらい、煮てもらう必要があります。
木も同じです。山林に生い茂っていても、手も足もなく、自ら山を出て柱になることも、薪になることもできません。人の手足を借りて伐られ、挽かれ、割られて、柱や薪となるのです。
その他、大根、カブ、鶏、豚、金、石——何であれ、人間の助力によって価値を発揮し、人生に功徳を積むことができます。
それらは自力では進化・向上できない「不具者」です。だからこそ、これらを助けて人生に貢献させることが、我々人間の務めであり、仁徳であり、博愛なのです。
炊がれつ食われつ米は果つるなり 己が命を人に譲りて
(炊かれ、食われて米は果てる。己の命を人に譲って——という意)
貯金は愛の実行
世を治め民を助くる心こそ やがて御法の誠なりけり
私たちの勤労は、万物を利用してその価値を生み出すものです。さらに言えば、万物を「活かす」所以でもあります。万物の不具者を助けて、その価値を引き出し、命を与えることができるならば、私たちが日々働き、勤める行為は、実に尊く、光輝ある仁徳にほかなりません。人間の価値は、まさにこの「助ける力」に存するのです。
土を掘って五穀を作り、石を溶かして金銀を採り、潮を煮て塩を製する——私たちの仕事には、生産そのものの中に「徳」が込められており、その徳の実りが「価値」となるのです。
そう思えば、日々の働きは「愛の実行」であり、少しも厭うべきものではなく、むしろ楽しく、愉快なことです。
こうして働き、得た金を貯金するならば、その貯金の根本は「愛の実行」によって成り立ちます。
金は、金自身が増殖するように見えても、実は人間の補助によって利用されるからこそ、利殖が可能なのです。
「猫に小判」と言われるように、利用されなければ金も金ではありません。瓦礫と同じです。
金そのものは、足も手もない「不具者」であり、自ら銀行や郵便局に赴くことも、世の中を駆け回って物と物との交換を融通することもできません。
だからこそ、私たちが金という「天性不具」のものを助けて、銀行へ連れて行き、郵便局へ連れて行くのです。銀行や郵便局もまた、金を助けて世間に融通する。すべては人間の助勢によって成り立っています。
いくら「黄金万能」と言っても、黄金で包丁を造っては使い物になりません。包丁はやはり鉄でなければならない。黄金の便器を造っても、その光はありません。価値は「適切な利用」の中にこそあるのです。
いかに黄金の尊さを知っていても、その利用を誤れば、価値を生まないばかりか、かえってその「徳」を失わせてしまいます。
もし人間が智慧と手足を持ちながら、物の利用を誤るならば、それは不具者を傷つけ、淵に陥れるようなものであり、人道に背いた「不徳の行為」と言わねばなりません。
「愛」は神の心であり、人間の天性に与えられた価値です。その愛を実行しなければ、人間という存在の価値も失われてしまいます。
だからこそ、「貯金」という愛の実行をする人は、家が富み、子孫が栄え、永久の幸福を得るのです。
ランプはいやだ
京都の金座通り竹屋町に、小さな裏店を借りて住んでいる山田巳之助という男がいます。私が京都へ行くと、いつも熱心に訪ねてきて「先生のお話を聞かせてください」と願い出ます。
ある時、彼は職業としている組糸機械と絹糸の原料を持参し、「仕事をしながらでも、お話は聞き取れますので、どうか聴聞を許してください」と言いました。私は快く承諾しました。
すると、宿の主婦が言いました。「巳之助さんは先生のお話を聞いてから、昼夜勉強していて、昼よりも暗がりで仕事している時間が多いようです。しかも、小さな行燈で仕事している。今の時代に行燈を灯して仕事しているのは巳之助さんくらいでしょう。さぞ暗くて、じじむさいことでしょう。家の中も陰気に見えます。行燈が倹約だと思っているのかもしれませんが、豆ランプなら油も少なくて済み、種子油よりも倹約で明るい。ランプにしなさい。ちょうど不用の豆ランプがあるから貸しましょう」と言って、巳之助の前に差し出しました。
すると巳之助は、思い入れのある言葉で「いえいえ、私はランプはいやです」と言いました。
その一言には深い意味があり、油代の倹約というけちな考えではないと感じた私は、「なぜランプが嫌なのですか」と尋ねました。
巳之助は誠を込めて答えました。
「先生、私の仕事は手先だけで行うものですから、行燈のわずかな光で十分です。ランプは光が四方に散って、用のないところまで照らしてしまう。それが勿体なくてなりません」
実に感心なことではありませんか。
一寸の光陰軽んずべからず
古人も「燭をとって影を補う」と言いました。巳之助が光を惜しむというのは、まさに「光陰を惜しむ人」であり、心懸けの良い人です。徳を空しくしないとは、巳之助のことです。こうして徳を重んじて働いた巳之助は、明治三十二年に主家の年期が明けて以来、一家を構え、手先から生み出した貯金が四千余円に積もり、世間の信用を得るに至りました。
結局、徳を本として働き、その働きの結果が貯金となったのです。
光陰は矢橋を渡る舟よりも 早いと知らば末を三井寺
(光陰は矢橋を渡る舟よりも早い。それを知ったなら、行く末を三井寺に——時間の大切さを知るという意)
雪隠の踏板も床の間の装飾
仏とは何だら法師柿の種 下駄も仏も同じ木の端
唾も痰も一つの口から出るように、尻も頭も一つの体。貧と楽との分かれ道も、すべて私たちの「心」から生まれます。私たちは世に立って、少しでも手柄を立てたい、出世したいと願います。非情の木や石でさえ、功を立てて出世の身となることを喜ぶでしょう。雪隠の踏み板よりも、床の間の装飾となる方が良いに違いありません。
しかし、非情の材木は雪隠の踏み板となったからといって、不満を言うことはありません。むしろ、谷底で朽ち果てるよりも、踏み板として役立つことに満足しているかもしれません。
それでも、人間の力が加われば、雪隠の踏み板となるべき材も、床の間の装飾となって出世することができるのです。
木切れ一片に巧妙な彫刻が施され、人間の技巧が加われば、その価格は何百円にもなり、床の間の装飾として撫でられ、擦られ、拝まれる尊いものとなります。
あわや雪隠の踏み板となり果てるところを、人の加工によって尊いものとなったならば、木もまた満足するでしょう。
木だけではありません。麦わら一本でも、田の中に打ち捨てられ、道端に棄てられれば、朽ち果てて何の価値もありません。しかし、人の力が加わって真田に編まれれば、それは帽子となり、貴顕紳士の頭上に載る身となります。
米わら一本も、人の加工によって神前の注連縄となり、尊敬を受ける存在となるのです。
つまり、木も麦わらも米わらも「不具者」であり、自ら彫刻を施すことも、帽子になることも、注連縄になることもできません。
あわれ不幸なものを放棄せず、雪隠の踏み板に堕落させず、田の中や道端に腐らせず、出世の身として導くのは「人の力」です。
非情なものであっても、人の加工によって出世した彼らは、きっと喜ぶでしょう。そして、彼らを出世させた加工者は「愛の主」であり、仁これより大なるはありません。
仁を行い、愛を施した加工者は、大きな徳を積んだ者であり、その徳は決して空しく終わることはありません。徳の報酬は、期せずして自己の懐に入るのです。
だからこそ、私たちが業を励み、義を施すその中に、徳は訪れ、福は宿るのです。
日々の勤労は、この道を歩むことであり、貯金の源泉となり、最終的には徳によって出世の身となることができるのです。
私たちは、日々の勤労を決して怠ってはなりません。怠るまい。
明日もまた朝早く起きて努めばや 窓に嬉しき有明の月
(明日もまた朝早く起きて努めよう。窓に嬉しい有明の月よ)。
そうして億々兆々の繁栄を築くことこそが、真の供養であり、先祖の志を継ぐ道なのです。
衣服の笑顔
一人の婦人に向かって「あなたの顔はおかめのようだ」「色が黒い」「背が低い」と言ってみれば、婦人はきっと腹を立てるでしょう。
しかし、たとえ顔立ちが整っていなくても、「十人並みですよ」「色もそんなに黒くない」「背の低い人は他にもいますし、むしろ女性としてはちょうど良い」「あまり背の高い女性はかえってよくないものです」と褒めてみれば、婦人は自分の容貌を承知していても、ニコニコと喜ぶに違いありません。
それは人情の自然な働きであり、たとえ嘘だと思っても、褒められて腹を立てる者はいないのです。
私たちが身にまとう衣服も、常に肉体を覆い、健康を助けてくれている、実にありがたい存在です。
しかし、その衣服は「不具者」であり、自分自身で畳むことも、洗濯することも、タンスに入ることもできません。だからこそ、私たちがこれを畳み、洗濯し、しまって世話してやらねばならないのです。
こうして丁寧に世話すれば、衣服は汚れず、長く保たれます。晴れ着として人前に出れば、「このお召し物は実に良い柄ですね」「素敵な色ですね」と褒められ、着る人もニコニコ。衣服もまた、笑顔を作るでしょう。
ところが、世間には怠け者もいるものです。
濡れた手で膝をさすり、袖で汗を拭いて衣服を汚し、芝居や花見から帰っては脱ぎ捨て、畳みもせず、歩いては足で踏み、隅に押しやってしわにする。
このような扱いをする人は、口も手も足もない衣服を虐待して、日々身体を守ってもらっている恩に仇で報いるようなものです。
すると、五年十年と晴れ着となるべき衣服も、忽ち命が短くなり、一年も経たずに人前に出られなくなり、寝巻となり、やがて油雑巾へと堕落してしまいます。
衣服も気の毒ですが、そんな扱いをする人もまた気の毒です。
このような悪徳を重ねる人は、いつも汚れたものを身にまとい、寒中にも薄着で震えているのです。これこそ「悪徳の報い」です。
ここをよく理解して、衣服を大切にしなければなりません。
醜い顔も褒められて嬉しいように、衣服も長く晴れ着として褒められれば、ニコニコと笑顔を作り、福を招き、貯金の山を築く元となるのです。
これこそ「積徳余慶」というものです。
いにしえの白きを思い洗濯の 返すがえすも返すがえすも
(昔の白さを思い、何度も何度も洗って大切にするという意)
腹の中の貯金
自分の物品だと思えば大切に扱い、他人の物品だと思えば粗末にする——そんな傾向がある人は、目先の利欲に迷って悪徳を行っているのです。
品物に「人のもの」「我がもの」の区別はあっても、それらが手も足もない「かたわ者」であることに変わりはありません。だからこそ、品物を扱うにあたっては、人と我との区別をせず、広く「愛の実行」をすることが、人間の価値なのです。
教育勅語にも「恭倹己を持して博愛衆に及ぼせ」とあります。愛を広く及ぼすには、利欲を離れて実行せねばなりません。自分の物品だけを大切にするのは、かえって利欲に薄い人なのです。
会社や役所の勤め人にも、こうした誤った考えを持つ人がたまにいます。資本金何百万円の勢いに任せて、寒いからと炭をむやみに焚き、政府の紙だからと乱雑に書き、筆墨までも乱費する。また、奉公人が主人の物品だからと粗末に扱う。これは「雇人根性」「奉公人根性」と呼ばれる、最も卑しい心です。
{同じ人として務めを果たすならば、こんな不徳をして光栄があるはずがありません。物の乱費は「不具者の虐待」であり、それでは人間とは言えません。
だからこそ、会社のものであろうが、政府のものであろうが、主人のものであろうが、自分のものと同じように大切に扱い、その利用に努めるのが人の務めです。
特に勤め人や奉公人は、報酬を受けているのですから、会社のためにも、役所のためにも、主人のためにも、忠実に働かねばなりません。日々の務めは、大きな「自己の責任」なのです。
自分と他人の働きを分けてはならず、ましてや物は不具者なのですから、これに対して「愛の実行」をするのが人の務めです。
勤め人や奉公人が自己の責任を重んじるならば、品物に区別なく大切に扱い、その利用を図らねばなりません。
「人の物を大切にしても、利益はない」と思うのは大きな誤りです。むしろ、自分の物以上の利益を得ることもあるのです。
会社員や役人が、自分の物よりも会社や政府の物を大切に扱えば、その忠実な働きぶりはすぐに認められ、給料や俸給が増加し、重く用いられるようになるでしょう。奉公人も同じです。
給料や賃金の増加だけでなく、不具者に対して「愛の実行」をしたその徳は、さらに多くの報酬をもたらします。
人の物を大切にする心懸けがあれば、自分の物は言うまでもありません。すると、他人の物を扱っている間に、この心懸けが「腹の中」に蓄積されていきます。
何であれ、品物を粗末にしないということは、生涯の利益であり、この徳こそが「腹の中の貯金」なのです。
この貯金をするのは、人のために働いている「雇われ時代」「奉公時代」です。この時代の働きぶりが、すべて腹の中の貯金となって、やがて我が生涯に戻ってくるのです。
奉公人も、独立するに至って、忽ち幾十倍、幾百倍の利益となって戻ってくるでしょう。
奉公人も、独立するに至って、忽ち幾十倍、幾百倍の利益となって戻ってくるでしょう。
この「腹の中の貯金」は、盗まれることもなく、減ることもなく、銀行や郵便局に預けた貯金よりも、なお確実な貯金です。
この貯金を少しでも多く積むことを励まねばなりません。
だからこそ、人の物品を大切にするのは、他人のためではなく、自分の貯金をしているのだと悟れば、会社員も、役人も、奉公人も、その勤務はおのずから忠実となり、楽しいものとなるのです。
これこそ、品物に対する「愛の実行」が与えてくれる報酬なのです。
正直な広告
品物に粗末のなきを忠といい 高利とらぬを義とは言うなり
品物は、正直なものです。そして、正直な品物の広告は、いかなる宣伝よりも力を持っています。新聞一面の広告を打ち、東山の風景を損なうほどの大看板を掲げ、店頭で百万言を費やして「この品は良い」「価格が安い」と説いても、正直な品物の広告には到底勝てません。
粗末な品物を作り、どれほど能書や看板で飾っても、品物自身が語るのです。
織物は、衣服にすれば色が褪せて「偽紺」と広告します。メッキは剥げて「黄金と見せたのは偽り」と広告します。タンスは引き出しの抜き差しに難があり、「粗末で候」と広告します。
粗末な品物を売ったが最後、品物自身が「君も粗末か、僕も粗末」と吹聴し、新聞や看板の広告を正誤し、店頭の百万言を取り消してしまうのです。
品物には口がないから語らないと思うのは、大きな誤りです。
だからこそ、商売でも製造でも、粗末な品物を売ったり作ったりしてはなりません。
品物に粗末のなきを忠という 忠は誠であり、誠がなければ偽りとなる
偽りの広告は、品物によって正誤され、取り消され、無効となるのです。また、品物を高価に売って利益を貪れば、「高い高い」と広告され、客足が止まります。薄利で誠実に商うと、「安い安い」と評判になり、千客万来となります。
高利を取らぬことを義という 利益を貪らず、慎むところに義がある
不義の利益は、決して身につくものではありません。
だからこそ、商業にも工業にも、忠・義・徳が必要です。徳が生む利益は、正直な品物によって広告され、必ず繁盛につながります。
品物を偽らず、高利を貪らず、良い品を売っていれば、「安い安い」と評判になり、小利がかえって大利の基となります。これこそ、忠徳・義徳の賜物であり、ありがたいことです。
徳は人の行為によって輝く 人の為すところに徳の籠らぬものはない
利益とは別のものと思われがちですが、徳と利益は調和するものです。「徳を守っていては利益は得られない」と考える人もいますが、世の中に人の行為が徳を宿さないことなどありません。
私たちは働く中で物を利用します。利用は働きの目的であり、その働きの中に徳が備わっています。
品物という不具者を利用することは、愛の実行であり、仁徳の表れです。そして、私たちが言わずとも、その徳は品物によって輝き、品物によって広告されるのです。
こうして利用された品物は、生産となり、経済的価値となり、富となって私たちから離れることはありません。
だからこそ、「徳と利益は一致しない」という道理はありません。むしろ、徳と一致しない利益は、真の利益ではないのです。
隠れたるより現れるはなし 不徳の行為は品物によって現れる
悪銭は身につかず。偽りの品物を売って繁盛はせず。不当な利益を得て富貴にはなれません。忠と義の徳があれば、利益も自然とやって来ます。これがなければ、利益も来ません。
富豪になろうとするならば、徳を元として働いた利益でなければなりません。
勤労も、倹約も、貯金も、それが「徳」であり、徳によって初めて利益を得ることができるのです。
参考文献
[1] 『貯金道話』丁未出版社発行、明治四十三年五月十五日発行


