森盲天外著「義農作兵衛」を読む

義農作兵衛は、実在した「義民」のひとりであり、その逸話は森盲天外が幼い頃から繰り返し聞かされてきたものでした。 享保の大飢饉のさなか、作兵衛は父と子を相次いで失い、自らも飢えに苦しみながら、枕元に置かれた一袋の麦の種を、最後まで食べずに守り抜きました。 「この種を食べれば、来年の命が絶える」――そう信じ、命よりも農の未来を選んだ彼の行動は、盲天外の心に深く刻まれたのです。

後年、盲天外は失明を経験し、「一粒の米にも重さがある」という悟りに至ります。 それは単なる物理的な重さではなく、命をつなぐ責任、労働の尊さ、そして人間の志の重みを意味していました。

著書『自序』の中で、盲天外は作兵衛の行動を「愚かに見えて、実は最も尊い行い」と讃えています。 利を追い、義を忘れがちな世の中にあって、命を賭して種を守った作兵衛の姿は、忘れられたあたたかな光を、静かに、そして確かに灯し続けているのです。

本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。

※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。

意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
                                             

目次

義農作兵衛

自序

名声を権力者に頼ったわけでもなく、誉れを富や地位で飾ったわけでもない。作兵衛は、ただ一人の田を耕す農夫にすぎなかった。 それにもかかわらず、後の世において彼の名は高らかに語り継がれ、今なお尽きることなく、人々は彼を「義農」と呼び、仰ぎ見てその徳を神のごとく讃えている。 一介の庶民にも志がある。どうしてそれを卑しいものと決めつけることができようか。

享保十七年、全国を襲った大飢饉に遭遇し、作兵衛は父と子をともに失い、続いて自らもその災厄に見舞われた。 結局、飢えという悲しい運命に直面したのである。 しかし彼は、枕元に置いていた一袋の麦の種を、決して口にすることなく守り抜いた。 種子は農業の根本である。もしそれを食い尽くしてしまえば、農の本質が絶えてしまう。 たとえ餓死することになっても、彼はそれを守ろうと決意したのである。

一粒の麦の種を、命よりも重いものとした彼の行動は、まさに農の大義を自覚した者の姿であると言わねばならない。 とりわけ、父への孝心が厚く、子への慈しみが深い彼が、その二人をともに犠牲にしたことは、さらに大きな義を加えるものである。

公の徳を重んじ、誠実に勤労に励んだ作兵衛に、天はこの災厄を与えた。 それは、彼がその大義を世に示すための機会を与えたのだろう。 このようにして、卑しい一農夫であっても、権力や栄華を誇る人々に勝る存在であると言わねばならない。

大義とはいえ、飢えて死ぬようなことを、人は愚かだと言うかもしれない。 確かに、愚かである。作兵衛は愚かである。大いなる愚か者である。 しかし、愚かでなければ、どうしてこのような行動ができようか。

人を傷つけ、物を損ねてでも、自分を守るのが賢い者のすることだろう。 作兵衛は、犠牲を覚悟して、自らの命を投げ出した。 父子三人の命が、一袋の麦の種に値しないというのは、賢者の目から見れば愚かに映るだろう。 しかし、その賢さには及ぶことができても、その愚かさには及ぶことができない。 彼の愚かさにこそ、私たちは敬意を払わなければならない。

大義は、愚かさによって成り立つ。愚かさもまた、真の愚かさではないのだ。 今の世の中では、利を追い、知恵に走り、ただ平和を謳歌して、義を忘れてしまう者が多い。 もし天が一度、強大な力を振るって打ち下ろすならば、誰がそれに耐えられるだろうか。

私はここに、作兵衛の大義に優れた事績を記し、あわせて飢饉の惨状を記録することで、義を忘れた人々を少しでも目覚めさせ、あらかじめ凶作や災害に備える心を持ってもらいたいと願うものである。

明治四十二年 初夏 東都にて

森盲天外 識

第1節 松前から松山へ:城と町の移転の物語

天正十三年、加藤左馬之助嘉明は、松前の城主として六万二千百石の領地を与えられました。その後、朝鮮出兵の功績によって十万石に、さらに関ヶ原の戦いの功績によって二十万石に加増されました。これにより左馬之助は地形を調べ、要害を見極めた結果、松前城の防備が不十分であることを認識しました。加えて、城の規模があまりにも狭いことから、より険しく守りやすい土地を選び、そこに新たな城を築こうと考えました。

候補地として、星ノ岡の五々森、松山の手箱山、山越の御幸山が挙げられ、慶長六年に幕府の許可を得て、ついに松山に築城することが決まりました。翌七年に工事を始め、八年には完成を迎えました。こうして左馬之助は松前城を捨て、松山へと居城を移したのです。

左馬之助が居城を移したことで、多くの市民もそれに従って移住しました。そのため松山城下は大いに賑わい、繁栄を極めましたが、反対に松前は急速に衰え、荒れ果てた寂しい土地へと変わってしまいました。

松前はすでに廃城となりました。城や堀をそのまま残しておくことは、幕府においても許されず、藩の利害から見ても、いざという時に敵に城を利用される恐れがあるため、居城の移転と同時に旧城を破壊しなければなりませんでした。そこで左馬之助は、儀仗兵を整列させて松山に入城した翌日から、旧城の破壊に着手したのです。

堂々たる楼閣、うねるように続く城壁は、たちまち打ち壊されました。その倒れる音、崩れる響きは、哀しくもまた凄まじいものでした。長年、仁政の恩恵を受けてきた住民たちは、松の影がゆらゆらと揺れる廃墟を見て、言葉にできないほどの悲しみと寂しさを感じたことでしょう。

当時の民謡には、こう歌われています。

殿はおじゃらぬ、ただ古城の、 よもぎちぐさに、虫が鳴く。 見るにつけても、古城の松は、 雨にしょんぼり立っている。

すでに旧城の敷地はすべて破壊され、見るに耐えないほどの惨状となりました。人々の心は萎えて活気を失い、住民は我先にと移転し、残った者はごくわずかでした。そのため町は廃れ、家々は荒れ果て、かつての繁栄はほとんど見る影もなくなりました。

盛衰は時代の移り変わりに伴うものであり、どうすることもできないとはいえ、この激変は松前の繁栄を根本から破壊してしまったのです。

長年、松前城の存在によって自然と繁栄していたものが、一朝の居城移転によってこのような激変を生じたのです。この激変は、天災などの避けがたい力によるものではなく、人為的な変化の結果にすぎません。だからこそ、藩においてもこの大きな影響の渦中で、仕事を失い、職に迷う者が多く、より深い同情を抱かざるを得なかったのです。

しかし当時、天下は大いに騒乱しており、藩主の左馬之助も戦場を駆け巡っていて、民政に目を向ける余裕はありませんでした。朝鮮出兵の後、豊臣秀吉の死去があり、それ以降は豊臣家と徳川家の間に絶え間ない緊張が続き、関ヶ原の戦い、大阪の陣と戦が相次ぎ、世の中は混乱し、平穏な日々はありませんでした。

後にようやく徳川家による統一が成され、世の中は落ち着きを取り戻しましたが、状況はすでにこのようであり、左馬之助にも民業の発展を図る余力は残されていませんでした。そのため、激変後の松前地方も依然として衰え、むしろますます困窮することとなったのです。

松前地方は、その繁栄を根本から打ち砕かれ、仕事を失い、戦によって家族と離れ離れになる者も多く、たとえ民政の保護や奨励があったとしても、容易に回復できるものではありませんでした。このような状況で、どうして民業の振興を期待できるでしょうか。

さらに、民業の振興に不利な事情が次々と訪れました。寛永三年には加藤左馬之助が奥州会津へ転封され、翌四年には藩生中務輔忠知が後任として赴任しましたが、わずか数年で京都で病死し、後継者がいなかったために所領を没収されるという不幸に見舞われました。

さらに寛永十三年には、松平隠岐守定行が伊勢国桑名から入城しました。このように藩主が次々と交代したことで、民政の継続性が失われ、ようやく立ち直ろうとしていた民心に大きな失望を与え、施政の成果を上げることができませんでした。

このような状況の中で、五十年、六十年もの歳月が流れ、松前の繁栄を取り戻すことはできませんでした。

しかし、松平隠岐守が治める時代は、ちょうど天下が泰平に向かい、世の中が安定していたため、産業を興し、民の力を養い、国の基盤を固めることこそが国家百年の大計であると考え、心を尽くして事業を興し、奨励を惜しみませんでした。

これによって、廃城以来、衰えていた人々の心も次第に勇気を取り戻し、この良き君主を得たことに喜び、上下が力を合わせて民政の成果を挙げるようになりました。

松平家代々の仁政は、この地の繁栄を復興させるにふさわしく、寒村にも稲や栗などの穀物が豊かに実り、家々からは炊事の煙が絶え間なく立ち上り、漁港では漁を終えた網が頻繁に干されるようになり、町の声もにぎやかになっていったのです。

第2節 若き作兵衛:貧しさの中で育まれた勤労と志

松前城が廃城となった後、松前には浜村と筒井村の二つの村だけが残されました。その筒井村に、百姓の作兵衛という人物がいました。彼の祖先は、慶長年間の松前城移転によって大きな影響を受け、職を失って生きる道に迷い、ほとんど何をしてよいか分からない状態でした。ただ、代々住み慣れたこの土地への愛着から、わずかに農業を営んで生活を支え、五代目の作兵衛に至ったのです。

彼の家は、祖先が農業を始めてから百年以上の歳月が経っても、地域の活気が乏しく、産業も盛んにならなかったため、先祖代々の借金を引き継ぎ、極めて貧しい生活を送っていました。作兵衛はこの貧しい家庭に生まれ、教育らしいものは何も受けていませんでしたが、生まれつき父母への孝心が厚く、勤労を尊び、公共の徳に努めて怠ることがありませんでした。

彼の父は作右衛門といい、律儀一筋の人物で、常に借金のことで心を悩ませていました。それを見ていた作兵衛は、勤労によって先祖からの借金を返済し、父の心を安らげたいと願っていました。

十五歳になり、少しずつ世の中の道理が分かるようになった頃、不幸にも母を亡くしました。貧しい家庭では、母が病気になっても満足な薬の手当ができず、欲しがった飴一つさえ与えることができなかったことを、父作右衛門は深く悔やみ、悲しみました。作兵衛も大きな感動を受け、生まれて初めて人生の悲しみを経験し、母の死が人生の複雑な意味を教えてくれるものだと感じ、それ以来ますます奮励するようになりました。

母の死後、家事を助ける者もいなくなり、少年ながら作兵衛は父とともに毎日家の中では炊事や掃除をこなし、外では耕作に励み、懸命に働く人生を歩み始めました。その若さにもかかわらず、彼の立派な行いは村中の評判となり、誰一人として作兵衛を称賛しない者はいませんでした。

作兵衛は常に勤労を信条としていました。勤労は生産の原動力です。働けば生産が生まれ、その成果によって働きの上手下手や量がはっきりと分かります。自分が正直で勤勉だと、わざわざ口にする必要はありません。草履を作れば草履が語り、米を作れば米が語って、自分の勤労を物が代弁してくれるのです。品物は正直であり、正直に働けば良いものができます。良いものができれば、それが正直に働いた証となるのです。だからこそ、勤労の徳は決して隠れるものではないと、村の若者たちに教え、自らも実践して、働くことを楽しんでいました。

隣の浜村も筒井村と同じく、かつての松前城下でした。浜村は海に面していたため、藩の奨励と特別な保護を受けて、漁業を営む者が多くいました。海の漁場の特権はもちろんのこと、獲れた魚を松山城下や近隣の村へ行商する特権が、女性たちに与えられていました。女性たちは頭に「はんぎり桶」を載せ、その中で魚を跳ねさせながら行商に出かけました。これを「たた」と呼んでいました。「たた」とは伊勢地方の方言で、松平隠岐守が伊勢の桑名城から来たことに由来するのでしょう。

この「たた」は毎日数百人が松山城下へ盛んに出かけており、その通り道がちょうど作兵衛の家の前を通っていました。ある時、作兵衛はふと思いました。「毎晩毎晩草履を作って、それを市に持って行く手間が惜しい。その時間に一足でも二足でも作った方がいい。家に座っていて、通りがかりの『たた』に売るのが最善だ」と考え、軒下に草履を吊るして「一足四文」と書いておきました。

通りがかりの「たた」たちはそれを買い、その丈夫さや履き心地の良さに感心して、次々と買い求めるようになりました。作兵衛一人で作っていたため、需要に応じきれないほど買い手が多かったのです。これは、作兵衛の正直な勤労が込められていた結果であり、草履一足でも粗末なものは作らず、わずかな草履の中にも彼の真面目さが光っていたのです。

ある年の正月、村の庄屋から「高入(田の登録)」の告示がありました。作兵衛はわずかな蓄えを得て、八畝歩の田を買う約束ができました。これまで一畝歩の土地も持っていなかった彼は、それを買い入れ、今回の高入で正式に自分の所有地として認めてもらおうと、喜びに満ちた顔で庄屋八右衛門のもとへ向かいました。

庄屋八右衛門は奥の正面に机を置いて座っており、その傍らには組頭や伍長が並び、高入を申請する人々は玄関から庭先に敷物を敷いて座っていました。作兵衛は呼び出されるままに役人の前に進み、「この田を私の高に入れてください」と申し出ました。すると、伍長や組頭が何かひそひそと話し合い、庄屋八右衛門とともに評議が始まりました。

しばらくして、組頭が作兵衛に向かって「せっかくですが、この田をあなたの高に入れることはできません」と言いました。喜びに満ちていた作兵衛の顔は、たちまち曇りました。「私はこの田を買っているのに、高に入れていただけないのでは困ります」と訴えると、組頭は「伍長から聞いても、この田はかなりの下田です。あなたは今まで一枚の田も持っていないのに、こんな下田を持っては年貢に困るでしょう。こういう田は、上田をたくさん持っている者が持つべきものです」と言いました。

作兵衛はぼう然とし、「私が年貢を納めないと見込まれているのですか」と尋ねると、組頭は「決してそういうわけではありません。あなたは勤勉で頼もしい人です。ただ、初めからこんな下田を持たせると、年貢にも困るし、あなたの将来にも障るだろうということで、庄屋様や皆が高に入れないと言っているのは、あなたを思ってのことです。悪く思わないでください」と答えました。

これを聞いた作兵衛は「ありがとうございます。しかしながら、私の考えをぜひ聞いていただきたい」と申し出ました。

「下田(しもた)だと言われましても、力を込めて耕せば、作物ができるようになります。そして土地を良くして年貢を納めることこそが、百姓の本分というものです。下田だからといって放っておけば、自然と田の価値も下がってしまいます。それでは、私たちの忠義が立たないのではないでしょうか。

筒井村は、昔の松前城下だったと聞いております。お殿様が松山へ移られてから、こんな寂しい村になってしまいました。城跡や堀の跡には、葦やすすきが思うままに生えていて、かつての賑わいが偲ばれます。

お殿様が他の村よりも年貢を減らしてくださったのは、こうした荒れ地を立派な田畑に作り変えようというお心遣いだったのではないでしょうか。私たち筒井村の者は、このご恩に深く感謝し、それに応えるためにも、荒地を立派な田にしてお殿様に報いなければならないと思っております。

百年以上にわたって、特別なご保護をいただいているにもかかわらず、まだ荒れ果てた土地が多いのは、私たち村人の働きが足りず、ご恩に背いていることだと、私は常々嘆いております。

下田だと言って放置し、十分な手入れをしなければ、土地は痩せて作物もできません。けれども、手を入れさえすれば、下田も上田になるに違いありません。

ある時、和尚様の説教でもこう言われました。『百姓は精を出して土地を掘ればよい。掘りさえすれば作物もできるし、良い田にもなる。七福神の大黒様をご覧なさい。足元には米俵を踏み、手には打ち出の小槌を持って黄金を振り出しておられる。これは百姓の姿を表している。俵は土であり、土を打ち耕せば黄金が降ってくる。お前たちは大黒様なのだ。精を出して力を込めて耕さなければならない』と。

私もその通りだと思っております。悪い田も、手入れ次第で良くなるのです。それを良くして、百年以上にわたるお殿様のご恩に報いるよう、忠義を尽くさなければなりません。これこそが百姓の務めというものです。

作物を作って年貢を納めなければ、せっかくのお上のご恩も無駄になってしまいます。だからこそ、私は長年、他人の田を耕して稼ぎ、夜は草履を作ってわずかな金を貯め、自分の田を一つ持って、微力ながらお上に尽くそうと思ってきたのです。

どうかもう一度、庄屋様にもお願いして、ぜひこの田を私の高(たか=登録地)に入れてください」と、誠意を込めて申し上げました。

これを聞いた一同は、皆大いに感動し、庄屋をはじめ組頭も、作兵衛の決意とその公共心の深さに心を打たれ、もはやこの願いを退ける余地はありませんでした。

こうして、ついにその田は作兵衛の高に登録されることとなりました。作兵衛は、これによって初めて八畝歩(約800平方メートル)の土地を所有し、わずかではありますが、正式な土地持ちの百姓となったことを心から喜んだのです。

第3節 父と子の死:飢えの中で失われた家族

順調に人生を歩んでいた作兵衛は、勤労に勤労を重ね、ついには三段八畝歩(約3,800平方メートル)の田畑を所有する身分となりました。さらに、内助の妻を得て、穏やかで和やかな家庭の中に一男一女をもうけ、一家の繁栄をますます築いていきました。このように順調に進んでいた彼の将来は、限りない幸福に満ちているように見えました。

しかし、ここで彼は大きな不幸に見舞われ、これまで順調に進んできた人生が、暗い幕に包まれ、進むべき方向を見失うことになったのです。

享保十六年(亥年)の春、彼の妻が突然病に倒れ、わずか一日か二日で亡くなってしまいました。作兵衛の胸は、言いようのない深い悲しみに満たされました。残された二人の子どもは母を慕って泣き、妻に先立たれた父は年甲斐もなく嘆きました。生き別れの悲しみ、病による別れの苦しみは、人生の悲しみの極みでした。

人の幸と不幸は、まったく予測できないものです。作兵衛は、かつて母を亡くし、父と二人で冷え切った家庭で炊事や掃除に励んだ過去の悲劇を、今また繰り返さなければならなくなりました。彼の勇気もくじけそうになり、希望も絶たれそうになりました。

それでも、作兵衛の義に満ちた生まれつきの性格と、これまでの修養は、簡単には挫けませんでした。父を慰め、子どもをいたわり、家事のすべてを一人で担い、義の心で立ち上がったのです。

そして翌年、享保十七年(子年)には、さらに大きな不幸が彼を襲いました。天は容赦ない災厄を加え、まるで作兵衛を試すかのようでした。

この年、松山領内をはじめ、道前・道後の地域は、めったにない大飢饉に見舞われました。どれほど誠実で勤勉な作兵衛であっても、この天災を避けることはできませんでした。彼が丹精込めて育てた五段余りの稲も腐ってしまい、枯れてしまい、一粒の収穫も見込めず、他の人々と同じく絶望的な運命に陥ったのです。

この状況に、作兵衛は大きな恐慌を感じ、わずかに蓄えていた食料も日々減っていくばかりで、新たに得る望みもありませんでした。勤労を信条とする彼は、縄をなったり草履を作ったりしましたが、世の中の混乱と人々の気力の衰えのために、それを買う者もなく、働いてもほとんど収入になりませんでした。

そのため、日を追うごとに困窮し、一家四人の命を支えることが非常に困難になっていきました。惨状に陥ったのは、作兵衛の一家だけではなく、世間一般も同じでした。すでに各地で飢えの声が上がり、餓死の悲しみが広がり、人々の暮らしは悲惨の極みに達していました。

妻を失ってまだ一年余り、涙の跡も乾かぬうちに、またこのような恐慌に見舞われ、七十歳を超える父と、十歳にも満たない二人の子どもを抱え、作兵衛は一人で食事を整え、尽きかけたわずかな食料を供給する苦労は並大抵ではありませんでした。

彼は常に自分の分を減らして、父と子どもに与え、いたわり、慰めました。しかし、どうにもならず、父は老衰の体に栄養が足りず、ついには倒れて昏睡状態に陥りました。作兵衛はそれを見て、深い悲しみに耐えられませんでした。

病ではないのに床に伏し、哀れにも飢えで死なせてしまうことは、何とも言えない悔しさでした。何とかしようと必死に考え、介抱に努めました。

これは結局、食べ物が足りないためです。食べ物が足りないのは、自分の働きや備えが足りなかったからであり、こんな最期を迎えさせてしまうのは、不孝と言わずして何と言えるでしょうか。もし十分な蓄えがあれば、こんなことにはならなかったはずだと、自分を責めながら、昏睡状態の父の枕元で苦しみました。

作兵衛は決意を固め、立ち上がって戸棚を開け、蓄えていた麦の種の袋を取り出し、固く縛っていた縄を「えいっ」と切ろうとしました。しかし、またもや彼はためらい、深く考え込んでしまい、それを元に戻して父の枕元に戻り、呼吸を静かに確かめ、脈を測り、いよいよ死期が近づいているのを見て、再び心が揺れ、立ち上がって種の袋に手をかけました。

父を救って孝を尽くすか、麦の種を守って百姓の義を貫くか――孝と義の二つの心が、作兵衛の胸の中で激しく葛藤しました。

これは種だ。種を食べてしまえば、来年何をまけばよいのか。来年まくものがなければ、今日生きていても意味がない。種は何倍にも実り、万の命を育むものだ。たとえ父を餓死させてしまっても、これを守るのが百姓の義だ――そう思い、縄を切ることができませんでした。

「嗚呼、そうであるならば、父の目前の死を受け入れよう」と決心したかと思えば、また父を餓死させることが孝に背くのではないかと悩み、何度も行ったり来たりするうちに、父はついに息を引き取りました。

作兵衛は慟哭しました。「天の災厄とはいえ、父を見殺しにした私は不孝者だ。義のために麦の種を食べず、これを守った。父は、万の命を育てるために犠牲となった。死してなお、死んでいない無量の命を得たのだ」と信じました。

父・作右衛門の死は、享保十七年九月四日のことでした。

それから一日後の九月六日、今度は作兵衛の長男が続いて餓死しました。

一家四人のうち、残されたのは作兵衛と、乳飲み子の一人娘だけとなったのです。

第4節 長雨と虫害:稲作を襲った二重の災厄

享保十七年の飢饉は、関西一帯を襲った大きな災害でした。中でも最も被害が深刻だったのは九州地方で、それに次いで被害が大きかったのが伊予松山藩でした。

このような大混乱を引き起こした原因は凶作でしたが、その凶作を招いたのは何だったのでしょうか。

この年の5月には、すでに田んぼの準備が整い、苗を植える時期を迎えていました。ところが、5月20日から降り始めた長雨は止むことなく、翌月の6月いっぱい、ほぼ70日から80日にわたって、昼も夜もずっと降り続いたのです。

5月はもともと雨が多く、時鳥(ホトトギス)の鳴き声や、雨に散る卯の花が物悲しさを誘う季節です。しかし、梅雨が明けて6月になれば、本来なら太陽が照りつけ、稲の苗がすくすくと育つはずの時期です。それにもかかわらず、空は厚い雲に覆われ、70日以上も太陽の光が一度も差さず、夏なのにまるで夏ではないような冷たい日々が続きました。

気温が上がらず、地面も冷たいままで、広がる田んぼは雨水に浸かり、苗は水に沈んでしまいました。農民たちは懸命に排水しようとしましたが、川も田も水でいっぱいになり、まるで一面の湖のようでした。肥料をまく余地もなく、まいても分解するための温度が足りません。

苗は根を張ることもできず、茎も分かれず、色は薄く青白く、伸びてもひょろひょろとした雑草のような稲になってしまいました。そんな稲は、少し風が吹いただけで倒れてしまい、害虫にもすぐやられてしまいます。さらに、地温が低いために栄養が足りず、病気にもかかりやすくなっていました。

農家が苗を植えた後に天気の回復を願うのは、こうした理由からです。農作物は、農民の努力だけでなく、天候の助けがなければ育ちません。適度な雨と乾き、そして太陽の熱があってこそ、作物は健やかに育つのです。

それなのに、稲の成長にとって最も大切な時期に、70日以上も雨が降り続いたのですから、これほどの異常気象はめったにありません。太陽の恵みをまったく受けられず、農民たちは茫然とし、ただ天を仰いで、早く天気が回復するよう祈るしかありませんでした。

しかし6月が過ぎ、7月に入っても晴れ間は訪れず、稲が育つべき時期を完全に逃してしまい、もはや取り返しがつかないと、皆がため息をつくばかりでした。

雨が続いたことで、川はどこも水かさを増し、濁った水があふれそうになりました。空も地面も水で満ち、道も堤防も水が湧き出すような状態でした。ため池や川の堤防は今にも決壊しそうになり、危険が一気に高まりました。橋は流され、大きな岩や木も濁流に巻き込まれて流され、その轟音があたりに響き渡りました。

太鼓や警鐘の音も、しとしと降る雨にかき消され、物悲しく響きました。村の若者たちは非常事態に備えて駆り出され、夜遅くまでかがり火を焚きながら、雨に打たれつつも土のうを積み、木を切って堤防を補強し、東へ西へと走り回って危険を防ごうとしました。

それでも雨は止まず、休む間もなく働き続けた人々は疲れ果て、ついに人の力ではどうにもならず、横田川、石手川、重信川などの川やため池の堤防は、あちこちで決壊してしまいました。

激しい濁流が一気に田畑を押し流し、家々を浸水させ、田んぼは泥に埋まり、堰のようになってしまいました。家が流されたり傾いたりして、家族が離れ離れになる不幸に見舞われた人も多くいました。

農民たちは、稲の不作という失望に加えて、今度は命の危険にもさらされ、苦しみはさらに深まりました。人々の心は暗く沈み、何も手につかなくなりました。どれだけ勤勉な人でも、これほどの天災に見舞われては、どうすることもできません。裕福な人も貧しい人も、働く人もそうでない人も、皆が泣き叫ぶしかありませんでした。

稲が育たず、希望が見えない中で、さらに堤防の決壊によって田畑を失い、家を流され、家族が離れ離れになるという不幸が重なり、人々の不安は高まり、村の治安も不安定になっていきました。

もしこれだけの災害で済んでいれば、まだ少しは希望も持てたかもしれません。天気が回復すれば、育ちの悪い稲でも手をかけて少しは収穫できるかもしれないと、皆が期待していたのです。

ところが、不幸はさらに重なりました。

ようやく雨がやみ、晴れ間が見え始めたかと思うと、空はまだ曇ったり晴れたりを繰り返し、急に蒸し暑くなりました。この時、「ウンカ」という稲の害虫が発生しました。この蒸し暑さは、ウンカの繁殖にとって最適な条件だったため、彼らは一気に増え始めました。

ウンカは一日一晩で驚くほど増え、まるで粉をまいたように稲の茎や葉にびっしりとつきました。成虫は飛び回り、元気な稲を見つけては養分を吸い取り、茎の中に卵を産みつけていきました。その様子は、まるで雲や霞が川を渡っていくかのようでした。

長雨で弱っていた稲は、この無数のウンカに襲われてさらに弱り、葉は枯れ、根元から立ち枯れしていきました。ウンカの糞によって根が腐り、まだ育ちきっていない稲が地面に倒れてしまいました。

田んぼ一面の稲が枯れ、わずかに残っていた希望も、もはや実を結ぶ見込みは完全に絶たれました。ウンカはさらに増え続け、稲を食い尽くした後は、芝草や野菜にまで群がり、野原から緑が消えてしまうほどでした。

このようなひどい被害を受けた農民たちは、どうにかして駆除しようと必死になりましたが、当時は効果的な方法がなく、手で取り除いたり、棒で払ったりしても、増えるスピードには到底追いつけませんでした。仕方なく、ただ見守るしかなかったのです。

稲が枯れていくのを見ながら、農民たちはどれほど嘆き、どれほど絶望したことでしょう。

どれほど努力しても、人の力ではどうにもならないと悟った農民たちは、神に祈り、仏の力にすがって、ひたすらその加護を願いました。

神社では毎日毎晩、通夜のように祈りが続き、太鼓の音が鳴り響いていました。寺では、読経の声が途切れることなく続いていました。老若男女が集まり、大きな数珠を繰りながら、鉦(かね)の音に合わせて「南無阿弥陀仏」を何万回も唱えたり、有名な神社や寺の御札を持って家々を回ったり、神聖な火や灯りを求めて各地で火を焚き、松明を持って歩き回ったりしていました。

また、ある時には村ごと、組ごとに総出で鉦を叩き、法螺貝を吹き、念仏や題目の旗を何本も掲げて村境まで虫を追い払うと称して騒ぎ立てていました。

村と村との虫追いが時に衝突し、鉦の音を競い合い、法螺の音をぶつけ合い、旗を振り合い、声を枯らして「ホーイ、ホーイ」と叫び合う様子は、まるで子どもたちの戦いごっこを見るようでした。

しかし、彼らは命がけでした。こうして狂ったように騒ぎ立てたのも、あの年の飢饉に直面した農民たちにとっては、無理もないことだったのです。

ああ、太鼓の音、鉦の響き、松明の炎、そして飢えた人々の叫び――これこそ、滅びゆく者たちの断末魔の声でなくて、何でありましょうか。

第5節 飢えた民を救え:藩の苦悩と対応

藩でも、五月以降の長雨によって稲の成長が妨げられ、さらに大水で堤防があちこちで決壊し、泥流の被害が目前に迫っていたため、民の苦しみを放っておくことはできず、深い憂慮を重ねていました。しかし、こうした天災は一気に押し寄せ、手の打ちようもなく、藩庁では連日評議を重ね、昼夜を問わず対応に追われていました。

天災はどうすることもできませんが、民衆の不安が広がり、困窮が深まるのを防ぐため、まず河沼美神社で五か月間の大祈祷を行い、他の郡でも有名な神社仏閣で同様の祈祷を行って、民の心を少しでも落ち着かせようと努めました。

しかし災厄はそれだけでは終わらず、六月下旬には、稲にウンカという害虫の被害が深刻だという報告が各地から届き、人々の不安はさらに高まり、藩庁の混乱も一層激しくなりました。

七月五日、家老・水野吉左衛門の屋敷に諸郡の代官や奉行たちが集まり、各地の被害状況を詳しく調べた結果、藩庁は数名の巡察使を派遣し、現地で調査を行い、民を慰めることにしました。

巡察使たちはすぐに各地へ出向きましたが、被害は日ごとに深刻になり、昨日まで元気だった稲も、今日にはすでに枯れ始めている状態でした。現地を見た巡察使たちは、予想以上の惨状に驚き、報告を待つ間もなく、すぐに藩庁へ知らせる必要があると判断しました。

各地からの急報は日に何度も届き、稲作はほぼ絶望的となり、もはや救う手立てもありませんでした。稲作の被害以上に急を要したのは、人々の不安と混乱が広がり、困窮する民が急増していたことでした。巡察使が戻った後、藩庁では「どうすればよいか」が最大の課題となり、藩主も役人も深く悩みました。

稲作の不作は、食料品の値上がりを引き起こしました。米は、もともと二俵で二十七八匁だったものが、五十匁、七十匁、百匁と日ごとに値上がりし、七月にはウンカの被害が激しくなり、稲が枯れたことで、ついに三百五十匁という高値に達しました。

それに伴い、麦、大豆、粟、醤油、塩などの食料品も、十倍から二十倍にまで値上がりしました。物価が上がるにつれて、貧しい人々の苦しみはさらに深まり、食べるものがなくて泣く者も出てきました。

民の不安が広がるほど、物価はさらに上がり、買おうとしても手に入らなくなりました。裕福な者でさえ、金を持っていても穀物を買うのに苦労し、ましてや貧しい者にとっては、食料を得ることは極めて困難でした。

こうして物価は頂点に達し、米の値は八百匁という驚くべき高値になりました。もとの二十七八匁と比べると、実に二十七八倍の暴騰です。

久松家の先祖由来記にも、

「米麦大豆小豆の値段が高騰し、米一匁で一合五勺しか買えず、その他の品も同様に値上がりし、銀札の通用も悪く、銀一匁が十枚に替えられ、内外で人々が困難に陥った」

と記されており、当時の経済は完全に混乱し、金銀の価値も失われ、経済は暗黒の時代となりました。人々はますます苦しみ、困窮していきました。

その結果、多くの人々が飢えて食べ物がなくなり、蓄えのある裕福な家を狙って、食料を奪いに行く者も現れました。こっそり盗みを働く者もいて、裕福な家も安心できず、蓄えを守ることができませんでした。

食料を奪い合う混乱は、ますます恐ろしいものとなり、数十人、数百人の困窮した人々が松山市街に集まり、袖を連ねて食べ物を乞うようになりました。

市中では、こうした飢えた人々が食料を求めて押しかけるようになり、家々は戸を固く閉ざして入れず、飢えた者たちは「奪って乞うのではない」と言いながら、敷居を壊して押し入るようになり、乞食というよりも、ほとんど強盗のような状態でした。

市中の騒ぎは一方では収まらず、藩庁でも対応に追われ、奉行や代官、目付、手代が出動して鎮めようとしました。彼らは普通の乞食ではなく、飢えに苦しむ人々の切実な行動だったため、説得して落ち着かせるしかありませんでした。

しかし人数が多すぎて、簡単には制止できず、町の入口には竹矢来(柵)を設けて防ぐようになりました。

『松山叢談』の古記録にも、

「七月十四日頃から郷の人々が町へ次々と袖乞に来て、夜には大勢が一斉に町家へ押しかけ、敷居を壊す騒ぎとなり、奉行や代官、目付たちが出動して鎮めた。十七日以降は袖乞の集団行動は止まった。特に伊予郡の者が多かった」

とあり、当時の惨状がいかに深刻だったかがよく分かります。

藩庁は藩の財政を開いて食料を配るだけでなく、あらゆる手段を尽くして他藩からの食料の輸入にも努めました。しかし他藩も同じように困窮していたため、簡単には手に入りませんでした。

危機が目前に迫っていたため、藩士には「人数扶持」として、一人一日米八勺に減らし、郡方では困窮する民に対して、一人一日米三勺を与えて、しばらくの間しのぐこととしました。さらに塩、醤油、豆、味噌なども少しずつ配給しました。

しかし、飢えた人々の数が多すぎて、調査すら難しく、救済の恩恵がすぐには行き渡りませんでした。特に、困窮する人々が受け取ったのは、一人一日わずか米三勺で、薄い粥のようなものをすすっていたのです。その哀れさは言葉にできないほどでした。

それでも藩庁の救済は、彼らにとっては何よりの恵みであり、涙を流して感謝するほどでした。

当時、藩が人々に配った救援物資の品目は、米、麦、大豆、小豆、黍(きび)、稗(ひえ)、蕎麦、味噌、あらめ(海藻)、神馬草(じんばそう)、ひじき、小粕(酒粕の残り)、芋の茎、醤油の実、糠などでした。

久松家の先祖由来記にも、

「六月以降、ウンカという虫が発生し、藩士には人数扶持(にんずふち)を命じ、飢えた人々が多く、町や辻で倒れて死ぬ者があり、その数は計り知れず、町や郷の人々には少しずつ救米を人別に見分けて配った」

と記されており、藩庁がいかに焦り、苦慮しながら救済に取り組んだかがうかがえます。

しかし、食料品の在庫は非常に乏しく、飢えた人々の数は膨大で、簡単に救済できる状況ではありませんでした。藩庁はあらゆる手段を尽くして他藩からの輸入を試みましたが、他の藩も同じように飢饉に苦しんでいたため、なかなか手に入りませんでした。

ようやく一般の民に対して救済が行き渡るようになったのは、その年の十二月頃のことでした。この救済が広まってからは、餓死する者は一人もいなくなりました。

しかし、どうすることもできなかったのは、交通や運送の手段が整っていなかったこと、そして他国も同じように飢饉の混乱に陥っていたため、物資の需要と供給が途絶え、すぐに対応することができなかったことでした。そのため、無数の餓死者が出てしまったのは、どうにも防ぎようがなかったのです。

第6節 飢饉の地獄:命を落とす人々の記録

藩による救済の施策は怠りなく行われましたが、領内外に広がるこの大混乱の中では、餓死者の数は計り知れず、準備にも多くの時間がかかり、すぐに広く救済を行き渡らせることはできませんでした。

そのため、無数の困窮した人々は遠くの山や野に出かけ、蕨の根や木の実、木の芽などを刈り尽くすようになりました。しかし、山の住民もまた飢饉に苦しんでいたため、自分たちの食料を奪われては困ると、郷から来る者を力を合わせて防ぎました。

郷の人々は仕方なく、堤防や道端、田のあぜ道などに生える草や芽、木の皮まで食べられるものとして探し回り、ついにはそれらも食べ尽くしてしまいました。米ぬかを炒って食べ、米の藁を煮て食べる者もいました。さらにひどい場合には、粘土を採って水に沈めて食べる者まで現れました。

飢えていると、食べ物を選ぶ余裕などなく、栄養があるかどうかも気にせず、ただ空腹を満たそうとするしかありませんでした。なんと哀れな運命だったことでしょうか。

八月、九月になると、困窮の状態はさらに深刻になり、人々は目が落ちくぼみ、骨ばかりの体になって、恐ろしい姿に変わっていきました。力尽きて、路上で倒れて苦しむ者、家族で枕を並べてただ天命を待つ者もいました。

この惨状は、目にするにも、耳にするにも耐えがたく、人生の悲しみの極みでした。哀れな話、悲しい出来事は数え切れず、さまざまな記録に残されています。

母親の乳はすっかり枯れてしまい、飢えた赤ん坊に授乳することもできず、衰弱のあまり子どもを抱く力すらなくなっていました。母子の愛情も、目の前で実現できないほどの状況だったのです。

すでに餓死した母親に、赤ん坊が這い寄って冷たい乳房にすがりながら泣き叫ぶ姿もありました。親と子がわずかな食べ物を得て、それを譲り合いながら、一日でも長く命をつなごうとする――そんな孝と慈しみの悲劇もありました。

ある家には、藩庁からの救援米がたまたま届きました。彼らは干ばつの雲が晴れるのを待つよりも切実な思いで、日々、刻々とその救援米を待ち望んでいたのです。深く藩庁の恵みに感謝したものの、すでに餓死寸前で、昏睡状態に陥っていたため、救援米が枕元に届いても、自分で炊いて食べることができず、ただ涙を流して感謝するしかありませんでした。

まさに、これほどまでに酷く、悲惨な状況は、見る者の心を震わせ、恐れさせるものでした。

領内の至るところで餓死者が続出し、路上には何人もの遺体が倒れたままになり、片付ける者もいませんでした。

幕府から派遣された巡察使の記録にも、「積み重なった死体は日が経つにつれて腐り、ウジが湧き、ハエが群がって、見るに耐えず、臭いがひどくて近づくこともできなかった」とあります。

特に路上に放置された遺体は、ワシやカラスが目玉をついばみ、飢えた野良犬が内臓を食べるという、あまりにも悲惨な光景でした。

ああ、人は飢饉の混乱の中で哀れにも餓死し、鳥や犬はその死体を食べて腹を満たす――これを人生の悲劇と言わずして、何と言えるでしょうか。

この年の十一月十九日までに、松山領内の道前・道後地域で餓死した人の数は、

  • 男性:2,213人
  • 女性:1,276人
  • 合計:3,489人

にのぼりました。

さらに、飢えによって餓死した牛馬の数は、

  • 牛:1,694頭
  • 馬:1,403頭
  • 合計:3,094頭

でした。

この統計は、藩庁が当時の幕府に報告したものです。

その後も餓死者は続き、十一月十九日以降だけでも、男女合わせて1,291人が亡くなり、前後を通算すると、餓死者の総数は実に4,780人に達しました。

一地方でこれほど多くの人が餓死したとは、当時の飢饉の混乱がいかに激しかったかを、想像するに余りあることです。

第7節 種を守って死す:作兵衛の最期の覚悟

この飢饉の混乱の中で、作兵衛はどうなったのでしょうか。あの麦の種一袋を惜しんで父を餓死させた彼は、果たしてどんな最期を迎えたのでしょうか。

作兵衛は、九月四日に父を亡くし、続いて六日には長男を失いました。どちらも餓死でした。作兵衛の心には、深い悔いが残りました。すべては自分の努力と備えが足りなかったせいだと、自分を責め続けました。

特に、あの麦の種の袋については、「種を守る」という百姓の義を重んじた結果、父を救えなかったという思いが強く、袋を見るたびに胸が痛みました。

「この種を植え、育てて、来年たくさんの麦を収穫し、父の犠牲の功徳を果たさなければならない」――その思いは、片時も離れませんでした。

世の中が混乱している中でも、麦をまく時期はやってきました。誰も種をまこうとしない中で、作兵衛だけは「来年の食べ物は今年の働きによって得られる」と信じ、弱った体を起こし、空腹をこらえて畑へ向かいました。

家には三歳の娘が一人。誰も面倒を見てくれる人がいないため、作兵衛は娘を畚(もっこ)に入れて畑へ連れて行きました。

娘をそばに置きながら、作兵衛は少しずつ畑を耕し始めました。しかし、飢えと疲れで体力は限界に近く、息が苦しくなり、耐えられなくなりました。用意していた水を飲んで気力を取り戻し、また耕し始めましたが、わずか七八歩の面積を耕すのに長い時間がかかり、疲労は極限に達し、倒れそうになりながらも「また明日」と家に帰りました。

この日、畑で働く作兵衛の姿を見た村人たちは、「鬼か神か」と驚き、彼の勤勉さに感嘆しました。

翌日も、作兵衛は娘を連れて畑へ向かいました。前日の疲れが重なり、さらに衰弱した彼は、「父の犠牲によって守られた麦の種を、どうしてもまかなければならない」と、強い思いで畑を耕しました。

しかし、前日以上に作業は進まず、少し耕しては休み、また少し耕しては休むという状態で、呼吸はますます苦しくなり、手も足も力が入らず、ついには倒れて意識を失いました。

ああ、鉄のような義の心を持つ作兵衛も、飢えと疲れには耐えられず、無念のまま倒れてしまったのです。傍らの娘は畚の中で泣き叫びました。

近くの人々はその声を聞き、予想していた事態に心を痛めながら、畑へ駆けつけました。「あの誠実な働き者を失っては村の不幸だ」と、皆で作兵衛を介抱しました。

その甲斐あって、作兵衛は昏睡から少しずつ目を覚ましましたが、息も絶え絶えで、自力では起き上がれず、近くの人に支えられて家に戻りました。

隣人たちは、自分たちも飢えているのに、粥や雑炊を持ってきて作兵衛に与えました。これは、彼の誠実な生き方に対する敬意からでした。

しかし、作兵衛はせっかくの食べ物も、飢えと疲れの極限状態では食べることができず、次第に衰弱が進み、再び昏睡状態に陥りました。隣人たちは深く落胆しました。

その時、作兵衛の枕元に穀物のような袋があるのを見て、隣人は不思議に思いました。「これは穀物ではないか。ならば、なぜ食べなかったのか。これを食べていれば、こんなことにはならなかったのではないか」と、袋を開いて中を確かめました。

すると、中には選りすぐりの麦の種がぎっしりと詰まっていました。隣人はますます不思議に思い、「麦があるのに食べないとは、作兵衛も愚かではないか。もしかして、これがあることを知らなかったのか」と、作兵衛に問いかけました。

作兵衛は、死にかけていたにもかかわらず、その言葉に反応し、顔色を変えて唇を動かしました。隣人はすぐに粥を口に含ませ、回復を助けました。

しばらくして、作兵衛は少しずつ話せるようになり、苦しい呼吸の中でこう語りました。

「その袋は麦の種です。これを蓄えて、決して食べなかったのには理由があります。世の中が急に困窮すると、人々は種かどうかも考えずに食べ尽くしてしまう。それはとても悲しいことです。種がなければ、来年何をまいて収穫すればいいのでしょうか。来年収穫できなければ、今年生きていても意味がありません。

来年収穫して年貢を納めるのが百姓の務めです。この務めを果たさなければ、どうやってお上のご恩に報いることができるでしょうか。農は国の基盤であり、種は農の根本です。たとえ餓死しても、種を守らなければ百姓の本分を忘れたことになります。

今年の一粒は、来年の一万粒です。種の力は、実に偉大なものです。これを食べて数日の命をつなぐより、一人が死んで種を守れば、来年何百人もの命を支えることができるのです。

父が餓死したときも、この種を与えませんでした。義のためとはいえ、子としては耐えがたいことでした。それでも、見殺しにしてしまいました。私がこれを食べずに守るのは、覚悟の上です。

ただ、臨終にあたってお願いしたいのは、この種をしっかり守って畑にまき、来年収穫して、上は国の恩に報い、下は多くの人々の食糧として、私の志を無駄にしないでほしいということです」

そう語り終えると、作兵衛は静かに息を引き取りました。

隣人たちはその言葉を聞いて、誰もが涙を流し、作兵衛の生き方と、死に際の覚悟の美しさに深く心を打たれました。

この哀しくも勇ましい死は、父・作右衛門の死から三七日目にあたる、享保十七年九月二十三日のことでした。

第8節 藩主の責任:民を思い、自らを慎む定英公

この大飢饉の混乱に直面して、藩主・松平定英公は、飢えに苦しむ民の惨状を聞き、自ら食事の量を減らし、民が口にしていた木の芽や草の根を自らも試してみるなど、深い同情を民に注がれました。

定英公が自ら慎まれたことで、藩の役人や藩士たちにも同様に節制を命じ、「人数扶持(にんずぶち)」として食料を減らし、急を要する困窮に対応するよう指示されました。そのため、藩の役人たちは皆、藩主の行いに感動し、涙を流して敬意を表し、慎み深く行動するようになりました。

ところが、家老の奥平三左衛門が江戸に滞在中、花街で酒にふけっていたという噂が藩内に伝わり、定英公の耳にも入りました。公は激怒されました。「領内には何万人もの民が餓死の危機にある。藩の役人である者は、その責任を果たし、慎まなければならないのに、それを忘れて遊びに興じるとは、私の政治に傷をつける行為ではないか」と。すぐに奥平を呼び戻し、厳しく叱責して職を辞めさせたと伝えられています。

このことからも、定英公がいかに謙虚で徳を重んじ、民の苦しみに心を寄せていたかがよく分かります。

定英公は、救済策を広く行き渡らせて、餓死者を出さないよう尽力されましたが、それでも領内では4,700人以上の餓死者が出てしまいました。公は「これは天災のせいとはいえ、仁政が行き届かなかったからだ」と深く自らを責め、幕府に対して「私に罪をお与えください」と申し出ました。

幕府は「これは天災によるものであり、失政の責任を問うべきではない。松山藩だけが苦しんでいるわけでもない」として、罪を問うことはしませんでした。しかし定英公はなおも責任を重く受け止め、「どうか私に罰を」と願い出たため、幕府はその謙虚な姿勢を認め、「謹慎せよ」との命を下しました。

これにより、藩の役人も民も皆、定英公の高い徳に涙し、公の謹慎は領内全体の慎みの象徴となりました。家々では煙も立たず、人々は髪を整えることもせず、草木までも憂いに沈んだように見えました。

定英公が責任を一身に引き受け、謹慎されたことは、民の心を深く打ちました。4,700人もの餓死者が出たこの窮状は、まさに人間の悲しみの極みでした。天災という不可抗力である以上、誰かを責めることはできません。誰もがその道理を理解していたはずです。

それでも定英公は責任を引き受け、自ら罰を受ける姿勢を示されたことは、まさに高い謙徳の証でした。政治を担う者が、民の苦しみを自らのこととして受け止め、逃げずに向き合う――これこそが良い政治であり、民が心から従う理由なのです。

本来なら責任を負うべき者でさえ、逃れようとするのが世の常です。ましてや、天災のような誰にも責任のない事柄に対しては、誰も顧みようとしないものです。そんな中で、定英公が自ら責任を引き受け、謹慎の命を受けたことは、民の苦しみを決して他人事としなかった証であり、誰もが感嘆せざるを得ませんでした。

定英公は命を受けてから、深く屋敷にこもり、贅沢な衣服を着ることもなく、豪華な食事も取らず、質素に慎み深く過ごしながら、一日も早く民が元気を取り戻し、生業に戻れるよう祈られました。藩の役人にも油断なく救済を続けるよう命じ、漏れのないよう努められました。

享保十八年四月十七日、幕府から定英公の謹慎を解く命令が下され、民は安堵し、皆で喜びました。

救済策はその後も享保十八年いっぱい続けられ、定英公の仁政は長く藩民の上に及びました。民は一時の大混乱で心身ともに弱り、病のようになってしまい、すぐに仕事に戻れる状態ではありませんでした。倒れてしまう者も多く、救済は止めることができませんでした。

一年以上にわたる救済は、決して短い期間ではありません。その間、多くの困窮した民に救済を施すことは、藩にとって財政的にも、手間の面でも大きな困難と苦しみを伴いました。それでも、これをやり遂げたのは、ひとえに藩主の恩恵によるものであり、民は心から感謝しました。

定英公の謙虚さと仁政は、当時の藩民が深く喜んだだけでなく、後の世までも徳として仰がれるようになりました。

『却睡草』にも、こう記されています。

「藩主が幕府から叱責を受け、謹慎の命を受けたことで、寺社奉行の鐘の音も止み、町人は戸を閉ざし、物悲しい空気が漂った。これほど多くの餓死者が出たのに、土佐では一人の餓死者も聞かれなかったのは、藩主の恩恵によるものではないか。先祖の功績があってこそ、領地をいただき、子孫は苦労もせずに食べ、暖かく暮らしている。この恩を軽んじれば、天罰を受けるだろう。士族として豊かな時代に育ち、何もせずに暮らすのは罪である。私たちはこの飢饉の話を聞いて、昔の人々に深い憐れみを感じる。民は何の罪もないのに、4,000人以上が死傷した。その時、士族たちはどんな功績があって、甘いものを食べて生き延びたのか。思えば、まことに恐れ多いことだ。時の役人の配慮が足りなかったために、藩主にまで汚名を着せることになったのは、まさに役人の罪である」

この記述からも、後世の人々が定英公の徳をいかに深く敬ったかが、よく分かります。

第9節 義の人・作兵衛:その死と徳が後世を照らす

義のために命を落とした作兵衛の死は、世間に大きな反響を呼びました。村の中はもちろん、郡奉行を通じて藩庁にまで、「麦の種を守るために食べず、義のために死んだ」という美談が伝わったのです。

作兵衛の村では、庄屋の八兵衛をはじめ、村の有力者たちが集まって話し合いました。「残された一人娘を、また餓死させてはならない。彼女を育てることは、作兵衛の義の魂を慰めることになる。これは私たち村人の責任だ。一村を挙げてでも彼女を育て、作兵衛の義を讃えなければならない」と決まりました。

そこで、誰に託すべきかを考えた結果、村にいた作兵衛の従弟・三郎右衛門が律儀な性格であることから、娘の養育と田畑の管理を任せるにふさわしいと判断されました。庄屋や村役人たちは三郎右衛門に正式に依頼し、すべてを託しました。

三郎右衛門は心を込めて娘の世話をし、庄屋や村役人も交代で様子を見に行きました。しかし、娘はすでに飢えと疲れで体力が衰えており、今さら食べさせても栄養を回復する見込みはなく、数日後には亡くなってしまいました。

こうして、作兵衛の家族は完全に絶えてしまったのです。

藩庁では、作兵衛の「義による死」を尊いものとし、祭祀料を支給しました。そして「この家を絶やしてはならない」として、従弟の三郎右衛門に「作兵衛」の名を継がせ、家を存続させるよう命じました。さらに、毎年米五俵を支給し、子孫に厚い保護を与えることになりました。

ああ、作兵衛の徳は後の世を照らし、広く世間に知られるようになり、「義農(ぎのう)」と呼ばれるようになりました。

彼の死から44年後、藩主・松平定静公は作兵衛の徳を偲び、「その行いを永遠に伝えるべきだ」と考え、儒学者・丹波周蔵に命じて碑文を作らせ、尾崎団次に筆を任せて、作兵衛の碑を建てました。

碑文にはこう記されています:

匹夫志有り、豈編珉と謂はんや、 一時食に餓え、千歳聲に飽く、 嗚呼義農、以て後世に表す。

碑は松前村筒井に建てられ、傍らには桜が咲き、仁ある人の心を讃え、松が立ち、義人の忠魂を伝えています。

明治三年には、代官・大原武右衛門(号は観山)が、作兵衛の子孫にその徳を伝えるため、門にその名を掲げ、世に生きた教材として示しました。

また藩庁からは、五十年、百年などの節目に米や金が贈られ、盛大な祭典が行われました。明治十四年七月には「義農神社」の設立が認められ、郡の有志が広く募金を集め、筒井の東端に社殿を建てて作兵衛を祀ることになりました。

このように、作兵衛は一生をかけて「義」を貫き、その徳は後世にまで伝わることになったのです。

人は誰しも死を避けたいと願い、飢饉のような惨状の中では、食べられるものなら何でも口にして、命をつなごうとします。草の根や木の皮、果ては粘土まで食べてでも生きようとするのが普通です。だからこそ、種であるかどうかに関係なく、米や麦があれば誰もがそれを食べて生き延びようとしたはずです。

しかし、作兵衛は、麦の種を固く守り、父や子が餓死するのを目の前にしながら、それを食べることなく犠牲にしました。自分もまた、それを食べずに餓死しました。これは、常人には到底できないことです。

彼は農民としての大義を重んじ、その誇りを貫いたのです。

筒井村の小さな家で命を落としましたが、その「義」は決して無駄ではありませんでした。一袋の麦の種は、時を重ねて何千万石もの収穫を生み出したことでしょう。彼の徳は百代にわたり、何千万人もの命を救ったことでしょう。

つまり彼は「不死の境地」を得て、無限の命を生き続けているのです。

だからこそ、その徳は今も輝き、その名は今も広く讃えられているのです。

作兵衛は、一時の飢えに耐え、千年の名誉を得た人だと言わねばなりません。

参考文献

[1] 『義農作兵衛』丁未出版社発行、大正三年十二月十五日発行

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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