森盲天外『農業道徳』は、近代日本における農業思想の中でも、ひときわ独自の光を放つ名著である。
本書は、農業を単なる生産活動としてではなく、自然と人間が相互に徳を育て合う営み として捉え、その精神的基盤を深く掘り下げた希有の書である。盲天外は、牛馬・鳥虫・蚕といった小さな生命に宿る「徳」を見つめ、そこに人間が学ぶべき姿を読み取った。その眼差しは、自然を搾取の対象とするのではなく、共に働き、共に生きる存在として尊ぶ精神 に満ちている。
本現代語訳は、盲天外の思想をより多くの読者に届けるため、原文の格調と精神を損なうことなく、現代の言葉で丁寧に読み解いたものである。難解な文語体を読みやすくしつつ、盲天外が込めた倫理観・生命観・労働観を忠実に再現することを旨とした。
本書に描かれる思想は、「労働は徳である」「自然は師である」「小さな生命にも尊厳がある」「共同体は相互扶助によって成り立つ」「人間の不徳は必ず社会に影響する」といった普遍的な価値を含み、農業に携わる者のみならず、現代を生きるすべての人に深い示唆を与える。
盲天外の言葉は、今日においてもなお、静かに、しかし確かな力で私たちを導いてくれる。本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。
※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。
意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
◆第六章 徳田◆
第一節 徳園の權化
田畑の道ばたに静かに立つ地蔵尊は、単なる信仰の対象ではなく、土地がもつ「地徳」を象徴する存在である。
地蔵が衆生を救い尽くすまで悟りを取らないと誓うように、土地もまた踏まれ、掘られ、汚されながらも、なお万物を生み出し人々の需要を満たし続ける。
『地蔵本願経』に説かれる勇猛な誓願は、私たちの足元に広がる田園そのものが体現しており、地蔵尊はまさに田園の権化であると言える。ゆえに土地の徳を思う者は、一寸の土地も無駄にせず、その力を発揮させるよう努めなければならない。
地徳が私たちに延命と幸福を与えているという事実は、農業が深い道徳的基盤をもつ営みであることを示している。
私たちが田畑へ行き来する途中、菜の花が黄色く咲き、麦の葉が青々とする道ばたに、地蔵尊が立っているのを見ることがある。
また地蔵尊は寺院の境内や、郊外のあちこちでも目にするだろう。
この地蔵尊は、農業に最も深い縁を持つ教訓を伝えている。
その諸願は「地徳」を説いているのである。
農業は土地を利用して生産を得ることが目的である。
土地が万物を生み出す母であることは、私たちの目の前の事実として明らかである。
だから土地が農業の最大の条件であることは、誰も疑わない。
地蔵尊は、仏陀が万物の母である「地徳」を理想化したものである。
したがって地蔵尊は地徳の権化であり、農業と最も深い縁を持っている。
その名を「地蔵」という。
土地は私たちの生活に必要な原料を生み出す「実蔵」ではないか。
だからこそ「地蔵」と名付けられたのである。
そうであれば、地蔵尊が土地を理想化したものであることは、その名からすでに明らかである。
さらに『地蔵本願経』には、地蔵の誓願が説かれている。
「一切の衆生を度し尽くさずんば、我れ正覚を取らず」
なんと痛快な言葉であろう。
この一語を聞いて、私たちは悟るところがなければならない。
地蔵尊は「すべての衆生を救い尽くさなければ、私は仏の悟りを得ない」と言うのである。
踏まれ、掘られ、耕されて、物を生み出す土地としてとどまろうというのである。
土地は物を生み、人々の需要を満たし、衆生済度の任務を果たしている地蔵である。
衆生を救うために、縁を求めているのである。
「縁なくば衆生を度し難し」とは、また地蔵の言葉である。
だからこそ路傍に立ち、露に濡れながら、縁の訪れを待っている。
私を拝み、私を念じる者には延命の寿福を与えよう。
そうでなくとも、縁があれば必ず救おう。
たとえ私を踏もうとも、倒そうとも、足を折ろうとも、首を切ろうとも、糞尿をかけようとも、縁によって必ず救おう――これが地蔵尊の本願である。
なんと勇猛であろうか。
なんと精進であろうか。
この勇猛で精進の誓願は、私たちの目の前の「地徳」によって実行されている。
土地も縁なくしては物を生じない。
踏まれ、掘られ、転がされ、糞尿の汚水を注がれ、その縁によって物を育てている。
そうであれば、私たちが日々耕す田畑は、すなわち地蔵である。
ああ、なんと尊いことか、地蔵尊の誓願よ。
踏まれ、砕かれ、糞尿をかけられても、犠牲となることを厭わず、衆生を救い尽くそうとするのである。
しかし、この誓願は果たして救い尽くす時があるだろうか。
無限の人生は、また無限の需要を持つ。
どうしてこれを供給し終え、救い尽くす時があろうか。
それでも、この無限の需要を満たし尽くそうとするのが地蔵尊の諸願であり、その勇猛さはさらに勇猛であり、その精進はさらに精進である。
「正覚を取らず」と言いながら、ここに至ってすでに仏の悟りに達していると言わねばならない。
人が地蔵尊の諸願を聞いて、その驚きを知るならば、田畑の尊さを知らなければならない。
地蔵尊はすなわち田園の権化である。
仏陀がこれを理想化したものである。
春風に赤い胸掛けを翻して路傍に立つ石仏だけが地蔵尊ではない。
地蔵尊は天上の高みにあるのでもなく、地下の深みにあるのでもない。
目の前の田園こそ、地蔵尊である。
私たちの足元で踏む場所、鋤や鍬で掘る場所、そこが地蔵尊である。
そうであれば、その徳を思う私たちは、土地の徳を発揚させるために、一寸の土地も無駄にせず、その利用に努めなければならない。
地徳は万物を生み、私たちの需要を満たし、いわゆる延命の幸福を与えているのである。
第二節 徳田の開墾
土地には万物を生み出す「地徳」が備わっているが、その力は人が適切に利用し、耕し、育てることで初めて十分に発揮される。広大な原野があっても、自然に任せて放置すれば何の功徳も生まれず、土地の徳を埋もれさせるだけである。
日本にはいまだ多くの未開墾地が残り、そこには土地の徳を引き出す大きな余地がある。さらに国土は皇祖皇宗から受け継いだ「御宝」であり、これを守り、活かし、繁栄させることは国民の務めでもある。ゆえに土地を耕し、その徳を発揚させる努力を怠ることは、土地の恩に背き、祖先の心に反する行為となる。
土地の徳を尊び、一寸の土地も無駄にせず利用に努めることこそ、農業の根本であり、道徳的使命である。
土地には物を生み出す徳があるとはいえ、利用して生活を豊かにする方法が行われなければ、多くの生産を得て人生の需要を満たすことはできない。
そうであれば、土地の徳を十分に発揮させることはできない。
たとえ果てしなく広い原野があったとしても、ただ自然に任せて利用しようとしなければ、何万町歩の土地があっても何の功徳があろうか。
だから土地に対しても、当然その利用に努めなければならない。
日本の農業は古くから行われてきたため、土地の利用は大いに進んでいるとはいえ、まだ手の及んでいないところも少なくない。
実際、「原野」と称して開墾されていない土地が、百五十万七千七百六十二町歩余りも残っている。
この面積は、日本の田の面積の6.25%にあたる。
これほど未利用の原野が多いのであれば、土地の徳を発揮させる余地がどれほど大きいかがわかる。
さらに台湾・朝鮮・樺太などの新領土には、未開墾地が多く、ますますその余地は広い。
だから私たちは大いに奮励努力し、土地の利用に努めて、土地の徳を無駄にしてはならない。
たとえその土地がやせていて耕作に適さないとしても、理化学が進歩した今日、人事を尽くせば耕作に適した土地にすることができることは、事実が示している。
むやみに土地の徳を雑草の下に隠し、落ち葉の中に葬るようなことは、その徳を汚す大きな過ちである。
そもそも日本の国土は、皇祖皇宗が開かれたものであり、以来幾千年の長きにわたり、国が富み栄えて今日があるのは、皇祖皇宗の開国の御徳によるものである。
今上陛下の御製にも、神代より神代より、うけし宝を、まもりにて、
をさめ来にけり、日のもとつ国と詠まれている。
すなわち、国土は神代から受け継いだ御宝であり、国はこれを守って失うことなく、民はこれを利用して生産を治め、今日に至ったのである。
そうであれば、幾千年の長きにわたり受け継がれてきた国土を、さらに盛んにしようとするなら、土地の利用に努め、土地の徳を発揚させなければならない。
そうしなければ、開国の祖神の御心に背くことになる。
第三節 耕地整理
土地には本来、万物を生み出す「地徳」が備わっているが、その力は人が工夫し、整え、利用することで初めて十分に発揮される。区画が乱れ、湿地が残るままでは土地の徳は埋もれたままであり、耕地整理によって排水を施し、区画を整え、耕作に適した姿へと改めることが、土地の力を最大限に引き出す道となる。湿田を乾田に変えることで生産力は高まり、二毛作も可能となり、農夫の労力も軽減される。
こうした改善はすべて、人が努力して土地の徳を発揚させようとする営みであり、耕地整理の価値はまさにここにある。土地を整えることは、自然の恵みをより豊かにし、農業の基盤を強める道徳的な実践でもある。
すでに利用されている土地であっても、文明の進歩に伴って、さらに人の力を尽くし、その利用を大きくしなければならない。
土地の功徳は、これを整えるほどにますます大きくなるのである。
このため近年、耕地整理が盛んに行われているのは、土地の徳をいっそう発揮させようとするためである。
従来の耕地は区画の大小が非常に不規則であり、そのため耕作上の不便が少なくなかった。
また湿地であって十分に利用できない土地も少なくない。
そこで耕地整理を行い、排水を施し、湿田を乾田にすることが、耕地整理の第一の目的である。
田の区画を整えて耕作に便利にすることが、耕地整理の第二の目的である。
湿田を乾田にすれば、地中の温度が高まり、耕すことで風化作用が生じ、農作物の発育に都合がよくなるだけでなく、
一毛作の土地が二毛作を行えるようになり、利用の効益は実に大きくなる。
さらに耕地整理によって整然とした区画ができれば、牛馬を使うにも便利であり、農夫の日々の作業も非常に容易になり、その結果、労力の面で大きな利益を得ることができる。
そうであれば、耕地整理の徳は実に大きいと言わねばならない。
これもまた、人の力を尽くして土地の徳をいっそう発揚させようとするためである。
第四節 徳田の整地
整地は農作の最初にして最重要の準備であり、豊作かどうかを決定づける基盤である。盤土を深く耕し、温度と空気を土中に導き入れることは作物の発育を左右し、そのためには牛馬耕による深耕が最も効果的である。
区画や湿田の状態に応じて適切に耕し、鋤の角度にまで注意を払うことは、土地の力を最大限に引き出すための不可欠な工夫である。整地とは、土地を有効に利用し、その「地徳」を発揚させるための準備であり、農夫の勤労はやがて豊かな実りとなって現れる。
ゆえに整地は単なる作業ではなく、土地の徳を育てる道徳的実践でもある。
整地は農作の準備である。
すべてのことは、準備が十分でなければ良い結果を収めることはできない。
農作をするにも、整地が十分でなければ植物の発育が悪く、生産の目的を果たすことができない。
だから豊作かどうかの運命は、整地が左右するのである。
整地をするには、まず「盤土(耕すべき土)」をよく耕すことを第一の要件としなければならない。
盤土をよく耕し、温度と空気を土中に導き入れるよう努めなければ、作物の発育を十分にすることはできない。
そして盤土を耕すには、牛馬による耕作が便利である。
人力で耕すような方法では、多くの時間と労力を費やし、広い土地を利用することができず、あるいは粗放になってしまう。
誰がやっても、人力による耕作は牛馬耕には及ばない。
牛馬の力が人に勝ることは言うまでもない。
だから農業が進んでいるところでは、必ず牛馬耕が行われている。
また盤土は深く耕さなければならない。
深く耕せば、作土の部分が多くなり、温度や空気の作用によって有機物も増え、土地が肥えて作物の発育を十分にすることができる。
したがって深耕を行おうとするなら、牛馬耕でなければならない。
ところが、牛馬耕をしながら、人力よりも浅く耕す者がいないわけではない。
これでは整地の第一要件を欠くことになる。
牛馬耕に不慣れな人や、賃耕をする者などは、しばしばこの欠点に陥る。
牛馬耕を新しく始める地方では、特にこの点に注意しなければならない。
ともすれば「牛馬耕は人力に劣る」などと言って排斥することがあるが、それは深耕という重要な要件を欠くためである。
結局、牛馬耕の罪ではなく、人の罪である。
また牛馬耕をする際には、鋤の角度に注意しなければならない。
足と鋤の水平を保てば、深耕は思いのままにできる。
牛馬は人が使役するのであるから、人が注意を尽くせば深耕も容易である。
要するに、これらはすべて農作物の発育を良くするための準備である。
そうであれば、私たちが行う整地は、土地を有効に利用し、その功徳を大きくするための方法である。
したがって私たちの勤労も、やがて徳田の実りとなって、多くの生産をもたらすのである。
◆第七章 徳田の種蒔◆
第一節 善悪の分別と塩水選
塩水選によって良い種と悪い種が明確に分かれるように、農業の実際には道徳の根本である「善悪の選択」が具体的に示されている。胚乳の多い重い種が沈み、健全に育つ素質を備えるように、私たちもまた明確な知識と平静な感情、そして確固たる決断力によって善を選び取らなければならない。
塩水の比重が一定でなければ正しい選別ができないように、人の判断もまた偏情に流されず、常に安定した基準を保つことが求められる。
塩水選は単なる農作業ではなく、善悪を誤らずに選ぶための道徳的教訓を示しており、農業の営みが倫理と深く結びついていることを教えている。
善を理想とすることは、道徳の根本である。
善い原因には善い結果が生じ、悪い原因には悪い結果が生じる。
だから悪を捨てて善を取らなければならない。
農作物の種まきをする際にも、まず種子の善悪を選び、良い種をまかなければ、良い収穫を得ることはできない。
したがって、第一に種類として良いものを選び、その中からさらに良い種を選んで種子としなければならない。
さて、稲や麦の種子を選ぶ方法として、長年「塩水選」が行われてきた。
これは最も簡便で容易な方法として広く行われている。
塩水は普通の水より比重が重いので、種子を入れると浮力が強く働く。
種子の重さに応じて塩水の濃度を調整し、その濃度を一定に保って選別すれば、悪い種子は浮き、良い種子は沈む。
では、浮いた種子を悪いとし、沈んだ種子を良いとするのはなぜか。
種子には「胚」と「胚乳」がある。
胚は芽になる部分であり、胚乳は芽が出た当初にそれを養う栄養分である。
塩水に浸して浮いた種子は、この胚乳が少ないため軽く、浮き上がる。
発芽しても養分が少なければ健全に育つことができない。
だからこれを悪い種子とする。
反対に沈んだ種子は、胚乳が多く重い。
胚乳が多ければ芽が十分に養分を得て健全に育つので、これを良い種子とする。
理学的な試験によって、善悪はこのように明確に分かれる。
私たちもまた、常に善悪を選び、悪を去り、善を取らなければならない。
これは種子の塩水選だけの話ではない。
善悪を選ぶには、私たちの明確な知識によって分別しなければならない。
ちょうど水の性質が籾種を浮かせるように、私たちの判断も明瞭でなければならない。
また善悪を選ぶには、感情を平らかにし、むやみに喜怒哀楽の情に流されてはならない。
ちょうど塩水の濃度が常に一定で、浮力を誤らないようにしなければならない。
さらに善悪を選ぶには、強い決断がなければならない。
ちょうど水が塩を溶かして強い浮力を備えるように、私たちも決断力を持たなければならない。
このようにすれば、あらゆる善悪を誤ることなく選ぶことができる。
塩水選を行うことから学ぶべきことは、単に種子の善悪を選ぶ方法だけではない。
第二節 善悪二種の答案
塩水選によって良い種と悪い種が分かれるように、種子の善悪には農家の一年間の勤労と注意がそのまま反映される。胚乳の多い良い種は、前年の作物が十分に発育し、適切に栽培された結果であり、怠慢や不注意があれば胚乳の乏しい悪い種として現れる。塩水選は単なる選別作業ではなく、農家自身の徳を試す「答案」であり、隠された善悪が明確に示される試験でもある。
ゆえに良い種を得ようとするなら、日々の勤労と注意を積み重ね、独りの時こそ慎み、常に自らを省みる姿勢が求められる。
塩水選は、農業が道徳と深く結びついた営みであることを教えている。
塩水選によって種子の善悪を分けると、胚乳の多いものが勝者となり、少ないものが敗者となる。
では、この胚乳の多い・少ないは何によって決まるのだろうか。
今年の種子は、昨年の稲や麦そのものの発育と栄養状態によって、胚乳の量が決まるのである。
昨年の稲や麦が完全に発育し、適度に栄養を受けていたならば、種子は多くの胚乳を得る。
だから私たちがよく勤労し、注意して栽培すれば、胚乳の多い良い種子を得ることができる。
要するに、塩水選によって種子の善悪を分けることは、私たちの勤労と注意を試験することである。
私たちが勤労し、注意し、適切な方法で栽培すれば、良い種子という「答案」を得る。
もしそれが不十分であれば、悪い種子という「答案」を得るのである。
徳は隠しても現れる。
昨年の怠けや不注意という悪徳は、目の前で行う塩水選という試験法によって、はっきりと答案として示される。
今年の勤労と注意の総決算は、また来年の塩水選によって試験されるのである。
私たちが鋤や鍬で書き記した答案は神聖であり、今さら書き直すことはできない。
来年の試験に合格しようと思うなら、今年よく勤労し、よく注意して、徳を積まなければならない。
私たちの徳は、一粒の種子にも宿るのである。
こうして見れば、塩水選を行って種子の善悪を判断することは、すなわち自分の徳を判断することである。
だから「君子はその独りを慎む」と言い、また「日に三度わが身を省みる」と言う。
私たちもまた、独りの時こそ慎み、日々わが身を省みなければならない。
第三節 赤ん坊の愛育
種をまき、芽が出て苗となる時期は、植物にとって最も弱く、最も手厚い保護を必要とする「赤ん坊期」である。
どれほど良い種を選び、どれほど整地が行き届いていても、この時期に十分な注意と愛情を注がなければ、作物は健全に育たず、天職を全うすることができない。間隔の調整、水分と温度の管理、肥料の与え方、害虫の駆除など、苗代での細やかな世話はすべて、手足を持たない不具の存在に代わって行う「養育」であり、農家の愛と責任を示す行為である。人間の幼年期の健康が生涯を左右するように、植物もまた苗の時代の扱いがその一生を決定づける。
ゆえに農業とは、自らの子を育てるように作物を愛し、その成長を助ける道徳的営みであり、この愛こそが良い収穫をもたらす根本の価値となる。
種子を選んだなら、それをまかなければならない。
まかれた種子はすべて発芽し、苗や若葉の時代は、植物にとっての「赤ん坊」である。
たとえ耕地がどれほどよく整っていても、さらにこの嬰児に向けて特別の注意を払い、育てることに努めなければならない。
赤ん坊の時代は、風・雨・霜・雪などの害を受けやすい、非常に弱い時期である。
この時期に十分な保護が行き届かなければ、どれほど良い種子を選んだとしても、完全に発育することはできない。
彼らは手も足もない、哀れな不具者である。
苗代に種子をまくときも、発育に適した間隔を保ってやらなければならない。
薄まき・厚まきの研究も、すべてこのためである。
一か所に厚くまいたり薄くまいたりして、厚さが一定でなければ、苗は不均一な発育をする。
また、潅水も適度な注意が必要である。
種子は自分で水を苗代に引く自由を持たない。
発芽の時期には、水と温度の両方が必要である。
しかし、むやみに大量の水を注げば、温度を得ることができず、発芽も発育も不良となる。
乾湿の調整は、苗代の時期に特に注意すべき要点である。
また、ただ肥料を多く施し、水を与えて苗を助長すればよいというものではない。
本田に移植された後、風雨などの外的なものに対して自らを守ることができるよう、健やかで強い苗に育てることが大切である。
さらに、害虫が発生する時期には、苗代には多くの害虫が集まる。
朝夕必ず苗代に行き、手のない彼らに代わって害虫を駆除しなければならない。
わずかなことでも侵されやすい嬰児は、大きな害を受けるのである。
それだけではない。
苗代で産卵した害虫は、移植とともに本田に広がり、驚くべき繁殖の結果、他人の作物まで害するという不徳となる。
だから苗代での害虫駆除は最も大切である。
私たちが注意すべきことは、これだけにとどまらない。
あらゆる面に十分な注意を与え、せっかく選んだ良い種子を、完全に教育しなければならない。
人間でも、幼年時代の健康がその生涯を左右することが多い。
植物もまた、苗の時代・若葉の時代の健康が、生涯を支配する運命を持っている。
この時期に特別な注意がなければ、彼らの天職を全うさせることはできない。
私たちは、自分の子を愛するように、彼らを愛さなければならない。
この愛こそ、選んだ種子に良い結果をもたらす価値ある行為なのである。
◆第八章 徳田の植付◆
第一節 苗の産室立ち
苗代で育つ苗は、植物にとっての「赤ん坊期」にあたり、密生の中で守られながら成長するが、一定の時期を過ぎれば、より広い本田へ移されなければ健全に発育できない。自ら移動できない苗に代わって適地へ移し、間隔を整え、繁殖に適した環境を与えるのが田植えであり、これは弱い存在を守り育てる農家の愛と責任を示す行為である。
苗代は一時の「産室」であり、本田は苗が一生を終える「永久の住まい」である以上、移植の際に不適切な扱いをすれば、それは無慈悲であり農家の不徳となる。苗の一生を見据え、その天職を全うさせるために最適の環境を整えることこそ、田植えの本質であり、農業が本来もつ道徳的使命を象徴している。
苗が苗代にいる期間は、およそ五十日である。
彼らの赤ん坊時代は、苗代の密生でも育つが、五十日ほど経って大きくなると、密生のままでは発育に適さなくなる。
いつまでも密生させておけば、養分が足りなくなるだけでなく、繁殖の道も得られないため、これを本田へ移すのである。
しかし、苗自身が本田へ移ることはできない。
私たちの手によって移してやらなければならない。
だから、彼らが生きるのに適した場所を与え、そこに移して植えるのが田植えである。
苗代は仮の宿であり、いわば彼らの「産室」であって、もちろん永久の場所ではない。
しかし本田に移して植えれば、そこが彼らが生涯を終える場所であり、永久の住まいとなる。
だからこそ、彼らの一生を考え、その繁殖に適した環境を整えなければならない。
したがって田植えにおいても、稲と稲との間隔を適切に保ち、繁殖に都合よいようにしなければならない。
自由のない彼らに対して、不適切な扱いをすることは、残酷であり、無慈悲である。
これは農家の不徳の行為と言わねばならない。
第二節 正条植の徳
田植えにおいて苗の本数や株間を一定に保つことは、作物の発育を均一にし、確かな収穫を得るための基本である。
縄や定規を用いて縦横の位置を正しくそろえる「正条植」は、風や光がよく通り、害虫駆除や施肥、除草、刈り取りに至るまであらゆる作業を容易にし、農家の労力を軽減すると同時に、稲の生育にも最も適した方法である。
正条植は、稲一株一株に平等な環境を与える「機会均等」の実践であり、その整然とした配置が豊穣をもたらす。
ゆえに正条植は、農業の進歩であると同時に、稲と農家が共に利益を得る「徳」の表れであり、豊かな収穫の根本に位置づけられる。
田植えをするには、苗の本数を四本とか五本とか、一定にしなければならない。
もしこれが不揃いであれば、発育が悪くなるだけでなく、一定の収穫を得ることができなくなる。
したがって、まず苗の本数を決めて一定に植える。
植える場所は、後に繁茂したときでも空気や光線を受けやすいよう、間隔を適切にしなければならない。
そしてその間隔は、各株ごとに一定の距離を保たなければならない。
もし間隔が適当でなければ、彼らの発育を不十分にしてしまう。
このため「正条植」が盛んに行われている。
これは確かに農業の一つの進歩である。
正条植とは、縄や定規を使って縦横に位置を正しく定めて植える方法である。
その間隔は必ず一定している。
縦から見ても、横から見ても、斜めから見ても、植えられた稲の列がまっすぐ通っている。
このように正条植にすれば、発育の程度が均一になり、生産物も自然と一定になる。
また、彼らの発育にも最も都合がよい。
縦・横・斜めに風や光がよく通れば、温度や空気を導くのに都合がよく、その結果、発育が容易になる。
さらに正条植にしておけば、害虫の駆除、肥料の施用、除草などが非常に便利で、農家自身の利益も少なくない。
そのほか、刈り取りにも労力が少なく、また生産量を知るにも便利である。
たとえば「稲株何本を刈れば一歩になるか」が容易に分かり、一枚の田の収量を知ることができる。
刈り取り後の株切りやすき起こしにも便利である。
正条植がこのように稲の繁殖に都合がよいだけでなく、農家の労力やさまざまな点に利益をもたらすのは、まさに「徳」と言うべきである。
正条植とは、結局のところ、稲と稲との間に「機会均等」を与えるものである。
その正しさは彼らの豊穣を生み、稲も農家も共に均等の利益を得る。
だからこそ、豊穣の徳は正条植にあると言っても差し支えない。
第三節 私の罵る口
田植えは、苗にとって「第二の誕生」ともいえる最も重要な工程であり、その後の一生を左右する。稲は温度を得やすい表土近くに根を張る性質を持つため、移植は浅く行うべきであり、深植えは発育を著しく妨げる。深く挿された苗は、温度も栄養も得られない深部の根を捨て、土際から新たな根を生じて生き延びようとするが、その分だけ成長が遅れ、農家の不注意がそのまま苗の苦しみとして現れる。
だからこそ田植えは後ろへ下がりながら慎重に行い、古来「早乙女」が身を清め整えて臨んだように、深い注意と敬意をもって植え付けなければならない。田植えの善し悪しは稲の運命を決め、農家の徳をも左右する。
苗という不具の存在に対し、愛と慎みをもって最適の環境を与えることこそ、田植えの本質であり、徳田を育てる道でもある。
苗を挿すときには、その深さに注意しなければならない。
移植される稲はすべて水田で育つ。
水田で育つ稲は、温度を受けやすい表土の上部に根を出し、地中深くには根を伸ばさない性質がある。
特に移植してまだ十分に発育していない間は、なおさら温度の高い上部に根を伸ばさなければならない。
だから移植は、この性質に従って浅く植える必要がある。
浅植えにすべきである。
ところが時として深植えをする者がいる。
田植えを横に進みながら行う者も少なくない。
正条植で縄を使うときに多い。
横に植えると、歩くときに体が前に傾く拍子に、自然と深く挿してしまうことが多い。
これでは正条植をしても、その利益を失ってしまう。
昔から田植えといえば、後ろに下がりながら植えるのが普通である。
これは深植えにならないからである。
正条植も、定規を使って後ろへ下がりながら植えるのが最も適切である。
苗を深く挿すと、稲の性質に反し、その発育を妨げることが非常に大きい。
深く挿した苗を数日後に抜いてみれば、その理由は苗自身がよく語っている。
深植えされた苗は、必ず苗の中部、土際のところから新しい根を生じている。
植えたときの根は深く地中にあり、温度の来ない場所なので役に立たない。
深いところには温度も来ない。
だから肥料も分解されず、栄養を吸収できない。
そのため、栄養を吸収しやすい土際に新しい根を生じるほかなくなるのである。
根のない茎からさらに根を作るこの苗は、浅植えの苗より発育が悪くなるのは当然である。
これは明らかに事実が語っている。
私たちの不注意によって深植えされた苗は、もし口があるなら必ず私たちの不徳を責めてこう言うだろう。
「農家は目もあり、手もあり、自由な体を天から授かっていながら、
私たち不具者をひどく害した。
後ろに下がるのは腰が痛い、横に歩くほうが早いと言って、
根を深く挿され、栄養を吸うことができなくなった。
根があるのに、さらに根を作らねばならず、そのため発育が悪くなった。
もし私に自由があるなら、深植えされても上へ伸びていくだろうに、
不具でそれができない私たちと知りながら、このような害を加えた農家は、
本当に恨むに余りある。」
稲に口はないが、深植えされた稲は、さらに栄養を吸うための「口(根)」を作って、私たちの不徳を知らせている。
これを見て、不徳の恐ろしさを悟らない者がいるだろうか。
だから田植えは最も大切である。
第二の誕生ともいうべきものであり、その後の運命は田植えの如何によって決まる。
このため農家は古来、これを決しておろそかにしなかった。
「早乙女」と呼ばれる人々は、その姿を整え、美しい装いをして田植えをする。
新しい衣服を着て、襷をかけ、手拭いを新しくし、脚袢や甲掛を整え、身を慎んで田植えに臨む。
これは単に美しさを飾るためではない。
深い注意をもって田植えをしなければならないという、古来の教えである。
よく注意して、徳田の植付けを行わなければならない。
そうでなければ、農家の徳もまた損なわれ、幸福を得ることができなくなる。
参考文献
[1] 『農業道徳』丁未出版社発行、明治14年11月5日発行。


