森盲天外著「農業道徳」を読む第12章~第14章まで

森盲天外『農業道徳』は、近代日本における農業思想の中でも、ひときわ独自の光を放つ名著である。

本書は、農業を単なる生産活動としてではなく、自然と人間が相互に徳を育て合う営み として捉え、その精神的基盤を深く掘り下げた希有の書である。盲天外は、牛馬・鳥虫・蚕といった小さな生命に宿る「徳」を見つめ、そこに人間が学ぶべき姿を読み取った。その眼差しは、自然を搾取の対象とするのではなく、共に働き、共に生きる存在として尊ぶ精神 に満ちている。

本現代語訳は、盲天外の思想をより多くの読者に届けるため、原文の格調と精神を損なうことなく、現代の言葉で丁寧に読み解いたものである。難解な文語体を読みやすくしつつ、盲天外が込めた倫理観・生命観・労働観を忠実に再現することを旨とした。

本書に描かれる思想は、「労働は徳である」「自然は師である」「小さな生命にも尊厳がある」「共同体は相互扶助によって成り立つ」「人間の不徳は必ず社会に影響する」といった普遍的な価値を含み、農業に携わる者のみならず、現代を生きるすべての人に深い示唆を与える。

盲天外の言葉は、今日においてもなお、静かに、しかし確かな力で私たちを導いてくれる。本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。

※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。

意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
                                             

目次

 ◆第十二章 徳田の灌漑◆

第一節 徳澤

古来、天子の仁徳は「雨露の恵み」にたとえられてきた。雨露が万物に平等に降り注ぎ、貧富や貴賤の区別なく潤すように、仁徳もまた偏りなく広く施される。しかし、同じ雨露を受けても、作物ごとに必要とする水分は異なり、時期によっても要求が変わる。ゆえに農家は、自然の恵みをそのままに受けるだけでなく、灌漑によって水の量を調整し、作物の性質に応じて最適の環境を整えなければならない。水源を養い、池を築き、水路を造ることは、天の徳を人為によって拡大し、作物の発育を全うさせるための営みである。
こうして自然の徳と人の働きが調和するとき、作物は豊かに実り、農業はその使命を果たす。皇徳の大いなる働きもまた、この雨露と灌漑の関係に比すべきものであり、自然と人為が一つの徳として結ばれるところに、農業の本質がある。

「大君の恵みの露にうるおいて……」などと、古来、天子が国民を慈しみ給う御仁徳を称えてきた。
結局のところ、雨露の潤いによって万物が生育するからである。

雨露という天の恵みがなければ、農作物もその目的を達することはできない。
その徳が広く大きいゆえに、これを大君の御徳になぞらえるのであろう。
だから農作物に灌漑が必要であることは、言うまでもない。

「徳沢(とくたく)四海に等し」と言うように、仁徳の本性は雨露の天恵に似ており、
貧富・貴賤・老若の区別なく、平等に施され、少しも偏らない。
雨露は、樹木にも、雑草にも、農作物にも、一様に降り注ぎ、差別がない。

古来、円形の珠玉を仁徳にたとえてきた。
円形の玉には上も下もなく、東西南北の区別もなく、どこを向いても正面である。
その光は上下四方を照らし、表裏の差別をつくらない。
このように仁徳は、平等無差別の本性を備えている。
しかし、これを施すにあたっては、受け取る側――すなわち恩恵を受けるもの――によって、その効き方が異なる。
施す側は同じでも、効き方に差があることを知らなければならない。
そうでなければ、その徳を十分に生かすことはできない。

農作物の中には、自然の性質によって水分を多く必要とするものもある。
また時期によっては水を必要としないこともある。
これらの対象に対して灌漑を行うときは、その要求に従って差をつけなければならない。
だからこそ灌漑を行い、人為的に水の増減を調整して、彼らの自然の要求に応えなければ、
雨露の徳沢もまた徳沢とは言えない。
そのために、水源を養い、泉を掘り、池を築き、水路を造るなど、
すべて人為的に灌漑の方法を施して、雨露の徳沢を大きくするのである。

こうして徳沢が広く行き渡り、作物の発育を全うすることができる。
皇徳の大いなることは、まさにこれに比すべきものである。

第二節 曲玉の神宝は、仁德の表示

三種の神宝のうち宝玉は、仁徳を象徴するものとして古来尊ばれてきた。仁の本体は円形の玉のように平等無差別であるが、実際に施す際には、相手の性質や状況に応じて差をつけなければ真の仁とはならない。
曲玉の形が示すように、仁徳とは「一つの徳」が多様な相手に応じて働きを変える力であり、賞罰や興奪のいずれも仁に基づく。農業における灌漑もまた同じである。雨露の恵みは平等に降るが、作物ごとに必要とする水分は異なり、時期によっても要求が変わる。ゆえに農家は、自然の恵みをそのまま受けるだけでなく、水源を養い、池を築き、水路を整え、時と量を調整して作物の性質に応じた灌漑を行わなければならない。無差別に水を施せば、かえって作物を害し、徳沢を失わせる不徳となる。
曲玉の仁徳が差別の中に一を保つように、灌漑もまた平等と区別を調和させてこそ、その徳が生きるのである。

 わが皇室の御宝として、神代以来伝わる三種の神宝がある。
宝鏡は智徳を表し、宝玉は仁徳を表し、宝剣は義徳を表す。
これは、わが国を治め給う天皇の神聖なる三つの徳に擬したものであり、国祖大神の御遺訓として敬われている。

ここでは、その三種の神宝のうち、宝玉について、仁徳を表す理由を少し述べてみよう。
すでに述べたように、仁の本体は円形のように平等無差別である。
しかし、施す相手に応じて差別(区別)がなければ、平等もまた平等とはならない。
そうであれば、円満なる徳の一部を欠くことになる。
だから仁徳は、曲玉の形が示すように、施す相手に応じて差をつけなければならない。
曲玉の形は、一端は丸く、一端は尖り、一端は大きく、一端は小さく、表裏があり、分量があり、自然に差別が備わっている。
褒めるべき者は褒め、正すべき者は正し、罰すべき者は罰し、与えるべき者には与え、奪うべき者からは奪う。
そして罰することも奪うことも、すべて仁に基づく。
御仁徳は常に一つであり、その一は差別の中に存在する。

今上陛下の御製にも、

国のため あたなすあたは 砕くとも
いつくしむべき ことな忘れそ

と詠まれている。

罪ある者を制されるとしても、それは憎むためではない。
悪を捨て善に向かわせようとする御仁徳にほかならない。
賞罰・興奪を明らかにしてこそ、その徳は一つとなる。

宝玉はまさにこの理を明らかにするものであり、尽くされた象徴と言わねばならない。
この至極の真理は、私たちが日常心に刻むべきことである。
特に農家が灌漑を行うときにも、これに従わなければならない。

灌漑は農作物を養うものであるが、無差別の平等に失し、時と量を考えず、むやみに水を施せば、徳沢も徳沢ではなくなる。
潅水がかえって作物を害し、甚だしい不徳の結果を生むことがある。
慎まなければならない。

第三節 善悪の水鏡 ※※水を「善悪を映す鏡」として捉えた表現

日本の主要作物である水稲は、灌漑が適切でなければ収穫を全うできず、農家は古来その時期と量に細心の注意を払ってきた。水は稲を養う大きな徳であるが、同時に温熱もまた肥料の分解と発育を促す不可欠の要素であり、稲は水と火という相反する二つの性質を同時に求めている。ゆえに灌漑は、ただ水を注ぐだけではなく、時には排水して温熱を与え、時には水を湛えて冷気から地温を守るなど、善悪二流を見極めて調整しなければならない。水は本来一つであるが、用い方によって善にも悪にもなる。朝夕の潅水、肥料施用時の減水、出穂期の増水など、時期と量を誤れば徳沢は失われ、かえって害を生む不徳となる。さらに潅水口と排水口を備え、水路を整えて水量を自由に調整できるようにすることは、灌漑の善を全うするための必須条件である。
水路の整備がなければ、上流の努力が下流に流され、善悪の区別がつかず、完全な農業は成り立たない。
水と火という相容れない二つを調和させ、その分別の中に平等なる「徳一」を得るところに、灌漑の真理があり、田園の水面に映る白露や明星の光の中に、まさに徳の輝きを見ることができる。

日本の農作物の中で、主要であり、かつ灌漑が最も必要なのは稲である。
陸稲とは性質の異なる水稲は、灌漑が適切でなければ収穫を全うできない。
そのため農家は常に灌漑に苦心している。
水をめぐって争いが起こり、竹槍や棒を持って戦いが始まることもあり、
ほとんど命を忘れて争うことさえある。

「我田引水」という言葉も、農家がどれほど潅水を必要としているかを物語っている。
灌漑の必要を認めるとしても、潅水の時期と量は最も重要である。
終始、田に水を満たしておけばよいというものではない。
むやみに水を注げば害となる。
水の利点を知るなら、水の害も知らなければならない。
利だけを知って、終始多量の水を注ぐのは無知である。

水の乱用が行われている地方が少なくないのは、農家がまだ人事を尽くしていないためである。
水稲は水によって養われるところが多いので、その要求も多い。
しかし温熱もまた水に劣らぬ大きな要求である。
熱によって肥料が分解し、発育が促されるからである。

つまり、稲は水と火(温熱)の両方を必要としている。
農家は常に水と火の両立を図らなければならない。
水と火は相容れないように見えるが、火は水を求め、水は火を求める。
水稲が熱と水を求めるのは、要するに一つの理である。
いわゆる「徳一円満」の事実は、ここに示されているのではないか。

だから灌漑には、時期と量が重要である。
日中、地温が高まっているときに冷水を灌漑して熱を奪うのは、水が火を消すようなもので、雨露の徳を失う。
したがって朝夕の潅水が適切である。
また肥料を施したときは、多量の水を注がず、温熱を与えて分解を促さなければならない。
さらに伸長期、すなわち出穂期には多量の水を必要とするので、潅水を怠ってはならない。
いずれにせよ、温熱は作物発育の主要な要素であるから、温熱を損なわないように潅水しなければならない。
理学的には、水がかえって温熱を保持することもある。

雨が続き、冷気が加わるときなど、水を十分に湛えておけば、地温が外の冷気に奪われないという効果がある。
だから水は、よく用いれば善となり、乱用すれば悪となる。
水は本来一つであるが、用い方によって善悪の二つに分かれる。
田園に灌漑する中で、善と悪の二つが明らかに分かれるのである。
水と火という相容れない二つの性質を両立させ、
その分別の中に平等なる「徳一」を自ら得る。
これこそ善悪の水鏡ではないか。

灌漑に時期と量があることはすでに述べた。
だから単に水を注ぐだけでなく、時には排水もしなければならない。
温熱を与える必要があれば、水を排出する。
肥料を施すときは、特に水量を減らさなければならない。
そのため稲田には潅水口と排水口を備え、時に応じて水量を自由に調整できるようにする。
善流と悪流は、この潅排水路によって流れる。
稲田の水を適切に保とうとするなら、必ずこの設備を整えなければならない。
これがなければ、完全な収穫は得られない。

地方によっては、この設備がなく、水路がほとんど設けられていないところもある。
田から田へ水を流している。
これでは潅排の調整ができない。
上の田(甲)が肥料を施し、水を少なくして温熱を与えようとしているとき、
下の田(乙)が水を必要とすれば、甲の田にも水が流れ込む。
すると甲の肥料は分解を妨げられ、肥料の種類によっては水とともに流れ、
甲の肥料が乙の肥料となる。
甲は乙のために犠牲となり、大きな損害を受ける。
これは水路の設備がないためである。

このような地方で、どうして完全な農業が営めるだろうか。
自分が努力しても、他のために成果を失うのである
だから潅排を適切に行うには、水路の設備が重要である。
水路の設備がない地方は、日本に少なくない。

耕地整理が盛んに行われる今日、完全な水路の整備は急務である。
ともかく、灌水と排水は両方行われなければ、灌漑の効果は全うできない。
すべて善は取り、悪は捨てるべきである。
善悪二流の区別をつけることは、灌漑だけでなく、すべてのことに通じる道である。

広々とした稲田は翠の影を映し、
きらめく白露は月下に円く、
輝く明星は水に浮かんで光る。
田園の眸(まなこ)の中に、徳の光を見ることができるのではないか。

第十三章 徳田の収穫

第一節 黄金花咲く秋の色

秋の田園は、勤労の徳が黄金の稲穂となって現れる最も喜ばしい季節である。紅葉と稲の波が野を彩り、農家は労苦を忘れて収穫に励む。しかし、この最も幸福な時期こそ、慎みと注意が求められる。刈り取りの適期を誤れば米の価値を損ない、霜害・鳥獣害・倒伏などによって収穫が減る。刈り取った稲や藁を雨露にさらせば、光沢や養分を失い、工業原料としても肥料としても価値がなくなる。
藁は副産物に見えても、その生産額は莫大であり、軽んじることはできない。数ヶ月の勤労が実った収穫を、最後の一日の不注意で失うなら、肥料の徳も、牛馬の徳も、灌漑の徳も、勤労の徳もすべて無に帰す。
これは「千仞の功を一簣に欠く」不徳であり、人格の高い者ほど最後の一日に慎まねばならない。孔子が「今日までの歴史は、ただ今後の一日に価しない」と言ったように、収穫の最終段階こそ、農家の徳と勤労が真に試される時である。秋の野に咲く黄金の花は、勤労の喜びであると同時に、最後まで徳を守るべきことを教えている。

秋風が梢を払うと、家々のまばらなところでは、どこか寂しさを感じないわけではない。
しかし田園の秋の野だけは違う。
道ばたの草々は紅葉や百花の錦を連ねて輪郭を彩り、
八束の稲は百歩千歩と続いて、まるで黄金を敷き詰めたかのように見える。

農家にとって楽しい秋が来た。
人は喜び、馬も嘶く。
誰が寂しさを感じるだろうか。
徳田は、農家の勤労が実ったものである。
さあ行こう、行って徳田の実りを収穫すべき時が来た。

重い稲穂、手に余る稲株。
豊年を歌いながら刈り、積み上げる忙しさ。
徳田の実りが嬉しくて、労苦を忘れて働いている。
一年の勤労は、籾の重さによって測ることができる。

「徳は孤ならず、必ず隣あり」という事実は、秋の野にこそ認められる。
だからこそ私たちは励まなければならない。
働かなければならない。

勤労の徳は決して空しくならない。
収穫の喜びは、そのまま勤労の喜びである。
見よ、私たちの楽しい勤労は、秋の野に黄金の花を咲かせる。

すでに私たちの勤労は秋の国に実った。
しかし収穫にも注意が必要である。
もし注意を欠けば、勤労の徳を傷つける。
刈り取りも、稲の適期を逃さないようにしなければならない。
時期を誤れば、米の養分を損ない、食料としての価値を減らす。

それだけではない。
時期を失すれば、霜害を受けたり、鳥獣に食われたり、風に倒れたりして、収穫が減る。
また刈り取った稲を雨露にさらしてはならない。
米の光沢と養分を失わせるからである。

稲藁も工業の原料として、紙・縄・むしろなどの材料となる。
また農家にとっては有効な肥料として尊重される。
雨露にさらされた藁は質が悪くなり、光沢を失い、繊維が弱くなり、養分も失われる。
そのため工業原料としても肥料としても価値がなくなる。

藁は副産物であり、わずかな生産物のように見えるが、驚くべきことに、
日本の稲藁の生産額は約四千万円にも上る。
だから収穫にあたっても大いに注意しなければならない。
数ヶ月の勤労によって実ったものを、最後の一日で誤るなら、
肥料の徳も、牛馬の徳も、灌漑の徳も、勤労の徳も、すべて失うという不徳行為である。
たとえ私たちがどれほど多くの善行を積んでいても、
最後の一日に悪徳を行えば、過去の善はすべて消えてしまうのではないか。

人格の高い人でも、ひとつの破徳がその生涯を傷つけ、人格を失わせることがある。
これは世間の事実として明らかである。
だから人格の高い人ほど、ますます身を慎まなければならない。
私たちが農業をするのも同じである。

今日まで勤労を積み、今や収穫の時に至った。
この最後の一日に慎みがなければ、過去の勤労の徳はすべて失われる。
「千仞の功を一簣に欠く」――
これは徳ある者が決してしてはならないことだ。

孔子は常に言った。
「今日までの私の歴史は、ただ今後の一日に価しない。
今後の一日こそ、私の生涯を定める時である。」

第二節 収穫に謝恩せよ

私たちが得る収穫は勤労の結果であるが、決して私たち一人の力だけで生まれたものではない。農業の生産は、天皇の御仁徳、祖先の勤労、天地の恵み、そして社会の助けという「四恩」に支えられた共同の成果である。
天皇の御心によって国家の制度が整えられ、私たちはそれぞれの場所で働くことができる。祖先は長い年月をかけて良田を開き、その労苦が今の収穫を支えている。天は温熱と雨露を与え、地は栄養を生じて作物を育てる。さらに社会の助けがなければ農具も肥料も得られず、共同体の力があってこそ農業は成り立つ。
こうした四つの恩徳があって初めて生産は可能となり、収穫は私たち個人のものではなく、広く多くの徳が結び合わさった「共同の生産」である。ゆえに収穫にあたっては、この四恩に深く感謝し、謙虚にその徳を思うことが農家の本分である。

私たちが得た生産物は、勤労の徳によるものであることは間違いない。
しかしよく考えてみれば、私たちの勤労だけで得た生産物とは言えない。
多くの徳の助けによって生産は成り立っている。
では、どのような徳の補助によって生産ができたのかといえば、次の四つの恩である。

【四恩】

  1. 天皇の恩徳
  2. 祖先の恩徳
  3. 天地の恩徳
  4. 社会の恩徳

天皇の御恩徳によることは言うまでもない。
私たちは常に天皇の御仁徳によって、日々の仕事を全うすることができている。

国家の制度や事業が、農業を営む上でどれほど大きな関係を持っているか、事実を見れば明らかである。
今上天皇は、明治元年三月十四日の御宸翰に、
「天下億兆、一人もその所を得ざるときは、皆朕の罪なれば」
と宣された。
陛下がこのように、私たちがそれぞれの場所を得て働けるようにと、大御心を悩ませてくださるとは、実に感激のほかない。
この御恩徳によって、私たちは祖先以来その所を得て、業に励むことができている。
また、祖先の恩徳も言うまでもない。

私たちの祖先が勤労に勤労を重ね、子孫のために良田を開いてくれたのである。
一枚の田にも、祖先の勤労が宿っている。
その恩徳によって収穫を得ている。
天地の恩も大きい。

温熱と雨露によって作物を育てるのは天の恩恵である。
また物を生じ、栄養を与え、作物を完全にするのは地の徳である。
天地の恩は実に大きい。
さらに社会の恩も大きい。

互いに有形無形に助け合うことがなければ、私たちは農業を営むことができない。
雇人・牛・馬の助け、町村の共同の力、農具や薬品の供給など、すべて社会の恩徳である。
以上の四恩の徳が、私たちに生産をもたらしている。
だから私たち一人の力で収穫したものではない。
いわば共同の生産である。

したがって収穫を行うにあたって、私たちはこの四恩に感謝しなければならない。

第三節 生産は報恩の手形

収穫は勤労の結果であるが、四恩――天皇・祖先・天地・社会――の助けなくして成り立つものではない。ゆえに生産物を私一人のものとして独占することはできず、それぞれの恩徳に応じて報いる義務がある。天皇の恩には忠義と公への奉仕をもって、祖先の恩には家を興し徳を修めることで、天地の恩には土地を損なわず勤労を尽くすことで、社会の恩には公益と互助の実践によって報いる。こうして四恩に報いてこそ、収穫は正当に許されるものであり、生産物は恩徳への「支払い義務」を命じる手形である。
共同の生産物を自分一人で奪うことは破徳であり、恩に報いずして収穫を得ようとすることは許されない。収穫とは、四恩に対する感謝と報恩の実践を求める倫理的行為であり、農家はその手形を受け取った者として、義務を果たさなければならない。

そうであれば、生産物は私一人が独占すべきものではない。
四つの恩に対して、その価値を支払わなければならない。

天皇に対しては、忠義を励み、公に尽くす誠をもって報いなければならない。
また国憲を重んじ、国法に従い、義務を果たし、産業に励み、国力の発展に努めなければならない。
これが天皇の御恩徳に報いる道である。

また祖先を祀り、徳を修め、業に励み、身を立て、家を興し、喜びを子孫に残すことは、祖先の恩徳に報いる道である。
また土地を耕し、肥料を施し、地力を損なわず、天日の恵みを無駄にせず、よく勤労することは、天地の恩徳に報いる道である。
さらに公益に心を用い、郷里のために力を尽くし、博愛を広く及ぼし、隣人と助け合い、互いに信義を重んじ、誠を尽くすことは、社会の恩徳に報いる道である。

このように恩徳に報いてこそ、初めて収穫を許されるのである。
生産に対する支払いの義務を負わせるものは、この四恩より大きなものはない。
どうして報恩に努めずに済ませることができようか。
どうしてなお収穫を得ることができようか。

共同の生産物を、自分一人で奪い取るのは破徳である。
だから生産物は、この恩に報いる義務を命じる“手形”である。
私たちはこの手形を受け取っているのだから、どうして支払いの義務を免れることができようか。

第十四章 産物の調製

第一節 調製の徳

農産物は、田畑に実っただけではまだ完成した生産物とは言えず、品位を高め、保存に耐え、分配しやすい形に整える「調製」を経て初めてその目的を全うする。調製とは、農産物に衣服を着せ、教育を施し、運ばれるための脚を与えるようなものであり、人が生まれたままでは社会に適応できないのと同じく、作物もまた人の手による仕上げを必要とする。品位を整えることは価値を高めることであり、保存性を持たせることは生命を延ばすことであり、分配しやすくすることは社会に役立つ形へと整えることである。
農産物には自ら学び、装い、歩く自由がないため、農家がその役割を担わなければならない。
調製とは、農業の最終目的を完成させるための不可欠の工程であり、勤労の徳を最後まで全うする行為でもある。

既すでに農産物を生産したなら、それを調製しなければならない。
調製にはさまざまな目的が含まれている。

調製において注意すべき要点は次の三つである。
①産物の品位を高めること②保存に適するようにすること③分配に便利にすること

多くの犠牲を払って生産した産物の品位を高め、保存に適するようにし、
さらに分配に都合よく調製することは、最も重要である。
そうでなければ、農業の最終目的を達したとは言えない。

人間も、生まれたばかりで自然に放任していては、人としての品性を高めることはできない。
衣服を着て、教育を受けて生まれてくる人はいない。
皆、裸で生まれ、無教育で生まれる。
だから衣服を着せ、教育を施さなければならない。

これらはすべて、人としての品性をつくるためである。
生産物も、田畑に実ったばかりでは完全な生産物とは言えない。
だから私たちが調製して、生産物としての目的を達成させなければならない。

その品位を良くし、有効にし、価値を増すようにしなければならない。
保存に耐えるようにしなければならない。
需要に応じて分配しやすいようにしなければならない。

生産物には、自分で学び、自分で衣服を着、自分で歩くという自由がない。
だから私たちが教育を施し、衣服を与え、運ばれるための脚を貸してやらなければならない。

第二節 品位の向上

生産物の品位を高めるには、作物そのものの性質と、需要者がどのように用いるかを踏まえて調製しなければならない。野菜は枯れ葉を取り、根を洗って初めて食材としての姿を整え、米や麦も乾燥・籾摺り・粃抜きを経て光沢と養分を保った良質の穀物となる。どれほど優れた性質を持つ作物でも、調製を怠ればその価値は損なわれ、天賦の良さを発揮できない。
「性は習によって賢し」と言われるように、作物もまた“習い”としての調製を受けて初めて品位が完成する。私たちの注意不足によって作物の品性を傷つけることは不徳であり、長い勤労の道のりを経て得た生産物を最後に仕上げないのは、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」にも劣る愚である。
調製とは、生産物の徳を輝かせ、農業の最終目的を完成させる行為であり、勤労の徳が最も光を放つ場面でもある。

産物の品位を高めるには、産物そのものの性質と、需要者の用途を考えて調製しなければならない。
野菜でも、畑から引いてきただけでは品位は高まらない。

枯れ葉を取り、根を洗い、野菜の品位を高めて、おいしそうに見えるようにするのである。
米や麦でも、まずよく乾燥させ、籾を取り、粃(殻ばかりで実のない米)を除けば、光沢も失わず、養分も損なわず、品位が高まり、良質の米麦となる。
もし乾燥が足りず、籾がついたままや粃が混じっていれば、見た目からして食料としておいしそうに見えないだけでなく、実際に搗けば減り、食べても味がない。

せっかくの生産物も、その器量を下げ、下等なものとなってしまう。
だから調製には深い注意を払わなければならない。
「性は習によって賢し」という言葉がある。
米も米として生まれたに違いないが、調製という“習い”が加わらなければ賢くはならない。
立派な性質を持つ米でも、乾燥が足りず、籾がつき、粃が混じっていれば、立派なものも立派に見えず、品性は高まらない。

私たちの注意が足りないために、彼らの品位を傷つけ、天賦の良さを十分に発揮させられないとすれば、生産物はどれほど悲しむだろうか。
そのような不徳を加えてよいはずがない。

注意に注意を重ねて調製を施すことで、彼らの徳を輝かせるのである。
私たちは長い勤労の道のりを経て、今ようやく目的地に到達している。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というが、生産物を収穫して品位を加える調製をしないのは、それに劣る愚かさである。
徳行は、最終の目的を果たすときにこそ光を放つ。

第三節 保存と乾燥

人間の衣食住は絶えず必要とされるため、農産物もまた途切れなく供給されなければならない。しかし米や麦のように一年に一度しか収穫できない作物は、保存に耐えるよう調製しなければ需要に応えることができない。
保存の要は乾燥であり、地面の湿気を防ぎ、藁や蓆を敷いて籾を薄く広げ、日々出し入れしながら丁寧に乾かすことが不可欠である。これを怠れば米は光沢を失い、梅雨には熱を持って変質し、糀となって食べられなくなる。乾燥不足は米の寿命を縮め、使命を果たせないまま朽ちさせる不徳であり、もし米に口があれば農家の怠慢を恨むだろう。完全な粒として生まれた米が粉米となるのも、乾燥を欠いたためであり、これは「創傷の罪」と言うべきである
。米は身を犠牲にして人を養う存在であり、その生命を損なうことは間接的に人を害する大罪である。保存とは単なる技術ではなく、作物の天寿を全うさせ、人々の生活を支えるための道徳的責務であり、農家の勤労の徳が最後に試される場面でもある。

人間の衣食住の原料は、日々絶えず必要とされ、途切れることがない。
だから供給もまた途切れないように努めなければならない。
しかし農作物の収穫には必ず時間が伴い、すぐに収穫できるものではない。
したがって、絶え間ない需要に絶え間ない供給を行おうとするなら、産物を保存できるようにしなければならない。

そのため、産物を保存できるように調製することが最も重要である。
農作物の中には保存が不可能なものも少なくないが、そのようなものは多くの場合、随時容易に生産できる。
たとえば野菜などである。
しかし米や麦のように、食料品の中でも主要なものは、一年に一度しか生産しないため、保存しなければ需要に応じることができない。
もちろん永久に保存することは不可能であり、必要もない。
しかし一定期間は保存に耐えるよう調製しなければ、人々の生活を満たすことができず、農家の天職を空しくする。

米麦を保存に耐えさせるには、乾燥を適度に行うことが最も重要な条件である。
だから私たちは努めて乾燥に注意しなければならない。
日本でも比較的農業の進んだ地方では、周到な注意を払って乾燥に努めている。
庭先に広い干し場を設け、常に排水に努めて地面を乾燥させ、地上げをして準備を怠らない。
そして地面の湿気が上がらないように藁を敷き、その上に蓆を一枚または二枚重ね、蓆一枚に籾を七〜八升ずつ薄く広げて日光で乾燥させる。

夜間に外に置けば湿気を吸うため、夕方には屋内に入れ、朝にまた外へ出す。
その勤労がいかに大変かがわかる。
しかしこのように深い注意をもって乾燥させた米は、良質で保存にも最も耐える。
冬の初めは天候が悪く、さらに麦まきの時期が迫り、農家は非常に忙しい。
そのため心ない者はこれらの注意を怠り、十分に乾燥させず、米を保存に耐えないものにしてしまうことがある。
これでは絶え間ない需要に応じることができず、人々の生活に及ぼす不徳も大きい。

乾燥が十分でなければ、米は天寿を全うできず、短命に終わる。
乾燥が不十分な米は、梅雨の時期になればすでに光沢を失い、ひどい場合には熱を持って質が変わり、糀となって食べられなくなる。
わずか一年、次の新米ができるまでの命さえ保てない。

もしこのとき米に口があるなら、私たちに向かって怨みを訴えるだろう。
「人の食料となる使命を帯びて生まれた私を、
農家の怠慢のために乾燥を欠き、
一年も生きられず短命に朽ちさせた。
恨むべきは農家の不勤労の不徳である」
と。

実に私たちの怠慢が彼らを短命にし、これは道徳上の大罪と言わねばならない。
彼らは身を犠牲にして人を養う。
これを害することは、間接的に人を害することである。
どうして大罪でないと言えようか。

また乾燥が足りなければ、自然に粉米が生じる。
彼らは完全な粒として生まれながら、このように粉米となって堕落する。
もしこのとき米に口があるなら、必ず私たちを恨むだろう。
「私は完全な形で生まれた米である。
しかし農家の怠慢が乾燥を欠き、
このように粉米となり、生まれながらの不具者にされた」
と。

実に私たちが彼らを不具者にしたのである。
いわゆる「創傷の罪」を犯したのであり、不徳と言わざるを得ない。

第四節 小作人の悪徳

小作人が地主に納める米を粗末に調製することは、単なる作業上の怠慢ではなく、作物の徳を傷つけ、自らの人格を損なう重大な不徳である。籾や粉米が混じり、乾燥も不十分な粗悪米を「自分の利益」と思い込むのは大きな誤解であり、良質の米を納めることこそが自らの幸福と家の繁栄をもたらす道である。
米は米であり、地主に納めるものであっても、その徳を全うさせる調製を施すのは農の大義である。
地主と小作人に本来優劣はなく、賤しさは職業ではなく人格の欠如から生じる。地主の土地を借りて生計を立てている以上、その恩に報いるのは当然であり、粗悪米を納めることは恩に仇で返す破徳の行為である。良質の米を納める者は家が栄え、尊敬され、粗悪米に甘んじる者は貧しさと軽蔑を招く。
事実は明らかに、不徳が不幸を生み、徳が繁栄をもたらすことを示している。
調製の不徳はすべての破れの始まりであり、農家はその一点を慎まなければならない。

小作人になると、考え違いをして不徳の行為に陥っている者が多い。
地主に納める米は、必ず調製が粗悪である。
籾や粉米が混じり、湿っているだけでなく、乾燥という段階にすら達していないものもある。
小作人はこのような粗悪米を調製しても、不徳の行為だとは思っていない。
むしろこれが自分の利益になると考えている者さえいる。

良質の上米を地主に持っていけば、大きな損失になるかのように考えているのである。
これは思い違いも甚だしい。
人間は徳行によって価値があるのではないか。

自分の人格を高め、幸福を得るのも、すべて徳行に基づく。
だから小作人も徳を修めてこそ、自分の幸福を得るのである。
決して地主のために働くのではない。
生活するのでもない。
すべて自分自身のためにするのである。

では、地主に納める米だからといって調製を粗末にすることが、自分の幸福になるだろうか。
利益になるだろうか。
否、幸福になるはずがない。
利益になるはずがない。

小作人になると、考え違いをして不徳の行為に陥っている者が多い。
地主に納める米は、必ず調製が粗悪である。
籾や粉米が混じり、湿っているだけでなく、乾燥という段階にすら達していないものもある。
小作人はこのような粗悪米を調製しても、不徳の行為だとは思っていない。
むしろこれが自分の利益になると考えている者さえいる。

良質の上米を地主に持っていけば、大きな損失になるかのように考えているのである。
これは思い違いも甚だしい。
人間は徳行によって価値があるのではないか。

自分の人格を高め、幸福を得るのも、すべて徳行に基づく。
だから小作人も徳を修めてこそ、自分の幸福を得るのである。
決して地主のために働くのではない。
生活するのでもない。
すべて自分自身のためにするのである。

では、地主に納める米だからといって調製を粗末にすることが、自分の幸福になるだろうか。
利益になるだろうか。
否、幸福になるはずがない。
利益になるはずがない。


生産物の品位を傷つけ、保存にも耐えないようにする不徳の行為をして、どうして幸福を得られようか。
地主が憎いからといって米の徳を傷つけるのは、
江戸の仇を長崎で討つようなもの
である。
本来、農の大義に反する行為である。

地主に納める米も、米は米である。
等しく米である以上、同じ調製を施して、その徳を全うさせなければならない。
地主と小作人に優劣があるはずはない。
ただ人格に欠けるところのある者が賤しいのである。

仕事はすべて神聖である。
小作という仕事が賤しいのではない。
しかし世間では、小作人というと卑しめられる傾向がある。
これは、小作人の中に粗悪米を作り、あさましい行為をして、自らの人格を賤しくしている者がいるからである。
恐れるべきは不徳の行為である。

小作人は常に地主の恩を忘れてはならない。
自分と家族を養うのも、地主の恩によるところが大きい。
資本に乏しい小作人は田畑を買うことができず、地主の土地を借りて農業を営むことができる。
その結果として一家を養うことができるのである。
だから地主の恩もまた大きいと言わねばならない。
その恩徳に報いるよう努めることが非常に重要である。

人として恩徳を受けながら、これに報いようとする心のない者は、最も賤しむべき人である。
地主に粗悪米を納めるとは、恩徳に報いるのに仇で返すことである。
恩に報いるのに仇をもってするようなことは、道徳上の大罪であり、破徳の極みである。
決してその身の幸福を得ることはない。

どの地方でも、粗悪米に甘んじる者は人格に欠け、その家もまた貧しい。
損か得かをわきまえず、良質の米を納めるような人は、必ず家が栄え、世間から尊敬される。

事実は明らかに、粗悪の不徳を語っている。
これらはすべて、調製の不徳から生じる結果である。

第五節 分配と米穀組合

農業は一つの営業であり、生産物は分配に適した形に調製されて初めて社会に役立つ商品となる。種類を分け、量目を一定にし、俵を堅固に作ることは、取引の信用を守るための基本であり、信用は大いなる徳である。
また、俵づくりに注意して脱漏を防ぎ、保存に耐えるようにすることは、生産物の徳を重んじ、自らの勤労を尊ぶ行為でもある。近年各地で設立されている米穀組合は、米質の改良と調製の完全を目指すものであり、道徳的にも経済的にも価値ある取り組みである。組合による検査と等級付けは産米の品位を明らかにし、遠隔地でも迅速に売買できる環境を整える。これがなければ、多様な産米の取引は困難を極め、時間と労力の浪費を招く。
米穀組合は調製の徳を制度として確立し、農業の発展と社会の利便を高める美しい事業である。

農業は一つの営業であるから、分配に便利な調製が重要である。
商品としての生産物は、種類を分けなければならない。
種類が混ざっていては、取引上その品位を定めるのに不便である。
また俵に収める際にも、必ず数量を一定にしなければならない。
そうでなければ取引上大きな不便を生じる。

さらに俵の作り方にも注意が必要である。
遠方に運ぶ際、俵の作りが粗悪であれば、こぼれ米が多くなり、思わぬ損害を招く。
また俵が粗悪であれば、保存にも大きな影響を及ぼす。
このように種類を一定にし、量目を一定にすることは、取引上の信用を重んじることである。
信用は大いなる徳である。

また俵づくりに注意して米の脱漏を防ぎ、保存に適するようにすることは、生産物を重んじる徳である。
生産物の徳を重んじることは、自分の勤労を重んじることである。
だからこれらは道徳上、大きな価値を持つと言わねばならない。

近年、各地で米穀組合が盛んに設立されている。
これは米質の改良と、調製の完全を期するためである。
道徳の上から見ても、経済の上から見ても、価値あることである。
組合では常に米の検査を行い、産米に一等・二等・三等・四等の等級をつける。
検査の結果、等級を定めることは、すなわち米の品位を明らかにすることである。
このように品位を定めることは、最も必要なことである。
産米の品位が明らかであれば、遠隔地にあっても容易に売買できる。
どの地方の何等米がどのような品位であるか、その格が自然に一定しているため、
一通の電報でもすぐに売買契約が成立する。

もしこれがなければ、日本の多種多様な産米の取引は非常に困難である。
競争の激しい商界において、電信電話の利器も活用できず、
一つ一つ現物を見て売買契約を結ばねばならない。
そうなれば非常な手間と時間を要し、多くの浪費を生む。
だからこそ米穀改良組合の美しい取り組みが盛んに行われているのである。

これは時代の要求するところである。
また組合の事業の中には、俵づくりのように、一定の方法で周到な注意が払われているものもある。
これによって取引上の利益が大きくなっている。

思うに、米穀組合は調製の徳を完全にしているのである。
だから道徳上・経済上ともに価値ある事業であり、その美挙を失わないのである。

近年、各地で米穀組合が盛んに設立されている。
これは米質の改良と、調製の完全を期するためである。
道徳の上から見ても、経済の上から見ても、価値あることである。
組合では常に米の検査を行い、産米に一等・二等・三等・四等の等級をつける。
検査の結果、等級を定めることは、すなわち米の品位を明らかにすることである。
このように品位を定めることは、最も必要なことである。
産米の品位が明らかであれば、遠隔地にあっても容易に売買できる。
どの地方の何等米がどのような品位であるか、その格が自然に一定しているため、
一通の電報でもすぐに売買契約が成立する。

もしこれがなければ、日本の多種多様な産米の取引は非常に困難である。
競争の激しい商界において、電信電話の利器も活用できず、
一つ一つ現物を見て売買契約を結ばねばならない。
そうなれば非常な手間と時間を要し、多くの浪費を生む。
だからこそ米穀改良組合の美しい取り組みが盛んに行われているのである。

これは時代の要求するところである。
また組合の事業の中には、俵づくりのように、一定の方法で周到な注意が払われているものもある。
これによって取引上の利益が大きくなっている。

思うに、米穀組合は調製の徳を完全にしているのである。
だから道徳上・経済上ともに価値ある事業であり、その美挙を失わないのである。

第六節 生産を重んじるのは、勤労を重んじる結果

農家にとって生産物は、単なる商品ではなく、長い勤労の結晶であり、労苦がそのまま喜びへと変わった象徴である。俵を積み上げて眺める愉快さは黄金にも勝り、生産物を大切に扱うことは自らの勤労を尊ぶ行為にほかならない。生産物を粗末に扱えば勤労の価値を損ない、家の維持や農業の本義を失うことになる。友人が渋柿を子どもに与えた妻を激しく叱責した例は極端に見えるが、盲天外が示したのは「生産物を尊重する心こそ勤労を楽しくし、家を支える徳である」という信念である。生産物を尊重することは勤労の徳を尊重することであり、農家の幸福の源でもある。
まして衣食住の原料となる産物であればなおさら、その価値を損なわぬよう調製に深い注意を払い、生産物の徳を完全にしなければならない。

農家は、勤労の犠牲によって得た生産物を、よく尊重しなければならない。
多くの俵を積み重ね、それを見るのは実に愉快なものである。
農家は常にこの愉快を、黄金に勝るものとして大切にする習慣がある。
生産物は容易に売らず、必要に応じて売るとしても、残せるだけは残し、
朝夕それを見ることを無上の喜びとしている。
このように生産物を尊重し、容易に売らないのは、
それが勤労の結晶であるからだろう。
だから農家が生産物を尊重することは、勤労を重んじる結果であり、
労苦がそのまま喜びに変わっているのである。
農家は勤労を厭わず、そこから永久の幸福を得る。
実に、生産を尊重する徳は大きいと言わねばならない。

私の友人に、生産物を非常に重んじる人がいる。
ある時、私はその人を訪ねた。
すると彼は盛んに妻を叱っていた。
声は大きく、言葉は鋭い。
妻は泣き、そばの子どもも泣き叫び、
家の中はまるで疾風怒涛のようであった。
静かに理由を尋ねると、友人は言った。
「妻は農家の妻として許されないことをしたので、今しがた離縁を言い渡した」と。
何があったのかとさらに尋ねると、こうであった。
庭で採れた渋柿を縁先に干していた。
子どもがそれを見つけて取ろうとし、
止めても泣いて聞かない。
妻は仕方なく一つ二つ与えた。
それが友人の怒りの理由だった。
友人はさらに言った。

「子どもには菓子でも何でも買って与えている。
あの柿を与える必要はない。
生産物は粗末にしてはならない。
まず“これだけ渋柿ができた”と喜ばねばならない。
その後で与えるならよい。
調製もできていないうちに一つ二つと取るようでは、家を維持することはできない。
米でも麦でも、調製ができる前に勝手に食べたり売ったりしてはならない。
些細なことのようでも、こういうことをする者は生産の喜びを知らない。
生産の喜びは勤労を楽しくするものだ」

私はこれを聞き、
ここまで生産物を尊重するのか
と深く感じ入った。
以来、私はこの人の行為を徳として尊敬している。

農家は生産物を尊重しなければならない。
それを尊重することは、すなわち自分の勤労を尊重することである。
生産の喜びは、勤労の喜びである。
生産を重んじる徳がここまで至るなら、
これを尊重しないわけにはいかない。
まして衣食住の原料として供給される産物であるなら、なおさらである。
だから調製には深い注意を払い、
その徳を完全にしなければならない。

参考文献

[1] 『農業道徳』丁未出版社発行、明治14年11月5日発行。

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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