森盲天外著「農業道徳」を読む第15章~第17章まで

森盲天外『農業道徳』は、近代日本における農業思想の中でも、ひときわ独自の光を放つ名著である。

本書は、農業を単なる生産活動としてではなく、自然と人間が相互に徳を育て合う営み として捉え、その精神的基盤を深く掘り下げた希有の書である。盲天外は、牛馬・鳥虫・蚕といった小さな生命に宿る「徳」を見つめ、そこに人間が学ぶべき姿を読み取った。その眼差しは、自然を搾取の対象とするのではなく、共に働き、共に生きる存在として尊ぶ精神 に満ちている。

本現代語訳は、盲天外の思想をより多くの読者に届けるため、原文の格調と精神を損なうことなく、現代の言葉で丁寧に読み解いたものである。難解な文語体を読みやすくしつつ、盲天外が込めた倫理観・生命観・労働観を忠実に再現することを旨とした。

本書に描かれる思想は、「労働は徳である」「自然は師である」「小さな生命にも尊厳がある」「共同体は相互扶助によって成り立つ」「人間の不徳は必ず社会に影響する」といった普遍的な価値を含み、農業に携わる者のみならず、現代を生きるすべての人に深い示唆を与える。

盲天外の言葉は、今日においてもなお、静かに、しかし確かな力で私たちを導いてくれる。本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。

※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。

意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
                                             

目次

 ◆第十五章 植物の推譲◆

第一節 犠牲の包囲

私たちが日々口にする米や麦は、皮を剥がれ、搗かれ、煮られ、ついにはその身を完全に滅して私たちの栄養となる。これは単なる調理の過程ではなく、彼らが自らの生命を人間に推譲する尊い犠牲である。私たちは一日に三度の食事のたびに、この推譲の徳を目の前にしている。複雑な社会が円満に成り立つためには、人と人、物と物の間に推譲の徳が必要であり、米麦の犠牲はその理想を教える教訓である。野菜、果物、魚介、鳥類、樹木、石に至るまで、私たちを取り囲む万物は人生の犠牲となり、人間の存在はその連続によって支えられている。
ゆえに「人は万物の主宰者である」と言われるのは、万物の推譲によって人がその位置を得ているからである。
人が人である価値もまた、万物の犠牲の賜物である。だからこそ私たちはその犠牲に報い、植物を育て、万物に推譲の徳を返し、人と人との間にも推譲を広げなければならない。万物はその存在をもって推譲の徳を語り、人生の円満な幸福を求める道を示している。

私たちが日常食として栄養を与えられている米や麦は、
私たちに“推譲の徳”を教えているのではないだろうか。

彼らは皮を剥がれ、臼で搗かれ、粉に挽かれ、炒られ、煮られ、
まさに粉骨砕身し、火や水の苦難を受けている。
さらに人の口に入り、咀嚼され、胃腸で消化され、
その身を完全に滅し尽くしている。
彼らの犠牲が、私たちの栄養を補っているのである。

米や麦が炊かれ、食べられるのは彼らの天職であるとしても、
結局は人類のために犠牲となっている。
そうであれば、彼らは自らの身を捨て、
その生命を私たち人類に“推譲”していると言うべきである。
この事実は、私たちが一日に三度食事をするたびに、
彼らが目の前で推譲の徳を語っているのである。

私たちはこの犠牲に対して感謝を表すのはもちろん、
同時に推譲の徳を思い、慎むところがなければならない。
複雑な社会は互いに利害を共有している。

互いに推譲の徳がなければ、
人生の大目的である“円満の徳”を実現することはできない。
米や麦が私たちに教えるところは、
人生の理想を実現するための意義を持っている。

ただ食べて終わるだけではならない。
一日に三度食べるたびに、
彼らが語る尊い教訓を悟り、
人と人、物と物との間に広く推譲の徳を及ぼし、
人生の円満な幸福を求めなければならない。
こうしてこそ、彼らの犠牲に報いることができる。

米麦だけではない。
野菜から木や石に至るまで、
人生の犠牲となっていないものはない。
私たちを取り囲むものは、すべて人生の犠牲となっている。
人間の存在は、まったくこの犠牲の連続によって支えられている。

野菜も煮られ、食べられている。
果物も切られ、食べられている。
魚介も切られ、煮られている。
鳥類も同じである。
樹木も枝を切られ、皮を剥がれ、
さらに切り倒されている。

よく見れば、すべてが人生の犠牲となっている。
幸福なことに、私たちは万物の犠牲によって生きている。
だからこそ「人は万物の主宰者である」と言われる。

万物の推譲によって、
人はこの尊い主宰者の位置を得ているのである。
人が人である価値も、万物の犠牲の賜物と言わねばならない。
そうであれば、彼らの犠牲は、
人生の連続と、人が人である価値を生み出すものとして、
尊重されるべきである。
この価値ある犠牲の包囲の中に生きる私たちは、
その犠牲に報いるところがなければならない。

犠牲とは、結局、彼らが私たちに対して行う推譲である。
これに報いるには、私たちも推譲をもって応え、
植物の栽培に努めなければならない。
そして植物に対してだけでなく、
人と人との間にも推譲の徳を及ぼさなければならない。

この尊い教訓は、
私たちを取り囲む万物が語っているのである。

第二節 花粉の飛脚

花は艶やかに咲き、清らかな香りを放って昆虫を誘うが、その美しさは単なる装いではなく、子孫を残すために昆虫を呼び寄せる自然の知恵である。昆虫は戯れているように見えて、実は蜜を求めて勤勉に働き、その過程で花粉を身にまとい、花から花へと運ぶ“結ぶ神の使者”となる。
花は蜜を推譲し、昆虫は花粉を運んで報いるという相互の働きによって、植物は実を結び、生命の連続が保たれる。
花粉は風か昆虫の助けがなければ雌雄の融合を果たせず、花はそのために香りと色彩と蜜を備えて昆虫を求めている。可憐な花の唇に歌われる推譲の徳は、自然界の調和を支える根本原理であり、互いに与え合うことで生命が結ばれることを教えている。

 花といえば、たいていは艶やかで美しく、清らかな香りを放つものが多い。
春夏秋を通じて草木が花をつける光景は、実に可愛らしく、美しい。
アブ・ハチ・チョウなどの昆虫は、芳しい香りに誘われて花を訪れ、
戯れているように見え、酔っているようにも見える。
この楽園で遊ぶ昆虫の生涯は、実に羨ましいほどである。

しかし、彼らは戯れているように見えて、実は戯れているのではない。
酔っているように見えて、実は酔っているのではない。
蜜を吸うために、せっせと働いているのである。
彼らはこの蜜を栄養として生きるため、花の季節になると飛び回り、
花から花へと巡って蜜を吸い取り、さらに余った蜜を蓄えて、
他の季節の食料に備える。

こうして花を訪れ、花から花へと移り歩くとき、
昆虫は黄色い花粉を身にまとい、それを運んで、
自然に花の雌雄の媒介をしている。
昆虫の目的は蜜を吸うことだが、
このように花粉を媒介するため、
彼らは“結ぶ神の使者”であり、“花粉伝達の飛脚”である。

花も、この媒介によって実を結ぶことができる。
花粉は風に運ばれるか、昆虫に運ばれるかしなければ、
自ら雌雄の融合を行う自由を持たない。
だから風や昆虫の媒介を待つのである。

花としては、子孫を繁栄させるために、
常に昆虫が来ることを求めている。
そのため花は清香を放ち、艶やかに装い、
さらに甘い蜜をもって昆虫を誘っている。

可憐な花は、結局のところ昆虫に向かって蜜を“推譲”し、
その代わりに花粉媒介の機会を得ようとしているのである。
昆虫は花の推譲に報いるために、花粉を運び、
飛脚としての役目を果たしている。

もし花に蜜の推譲がなければ、
彼らは子孫の連続を保つことができない。
だから推譲の徳は、艶やかな花の唇にも歌われているのである。

第三節 木の実の羽翼

木の実は鳥に啄まれ、身を犠牲として食べられるが、その種子は鳥の体を通って遠くへ運ばれ、新たな地に芽生える機会を得る。飛ぶ自由を持たない木の実が、鳥の働きによって子孫を広げるという自然の仕組みは、驚くほど公平で巧妙である。鳥は種を運ぼうと意図しているわけではなく、ただ自らの命を保つために木の実を食べているにすぎない。しかしその結果として、木の実は犠牲を通じて繁栄の道を開く。ここには「死は生命なり」と語った道元の言葉にも通じる、生死一体の大原理が示されている。犠牲は滅びではなく、新しい生命を生む推進力であり、生命の連続そのものである。
犠牲の価値を理解すれば、推譲の徳の尊さも自然に悟られる。木の実が啄まれて栄えるという事実は、自然界が語る深い教訓であり、推譲の徳が生命の循環を支えていることを明らかにしている。

木の実は鳥に啄まれて餌食となり、
その種子は鳥の腸を通って、あちらこちらの地に蒔かれる。
飛ぶ自由のない木の実は、自分では隣の地に種をまくことができないが、
鳥の羽を借りて運ばれるのである。

自然の分配の仕組みは、なんと巧妙なのだろう。
鳥は羽を貸そうと考えているわけでもなく、
種まきをしようと分別しているわけでもない。
ただ自分を養うために木の実を啄んでいるにすぎない。
しかしその結果として、木の実に羽翼を貸すことになっている。

鳥は木の実を食べて自分の命を保とうとする。
しかし啄まれた木の実は、かえって幸福を得る機会を与えられる。
啄まれてその身は鳥の犠牲となるが、
その犠牲が子孫繁栄の法となっているのである。

ああ、自然は鳥を養いながら、
同時に木の実の子孫繁栄をも成り立たせ、
両者をともに全うさせて生存を保たせている。
その公平さと巧妙さには驚かざるを得ない。
この事実には、神秘的な趣のある文字が読み取れるのではないか。

木の実が啄まれて、そして栄えるということは、
生死の大原理を明らかにしている。
生死を離れて考えれば、死もまた悲しむに値しない。
道元和尚は「死は生命なり」と語った。
そうであれば、生死の大原理もここに悟ることができるだろう。
これを悟れば、犠牲も厭うに足らず、
むしろ向上させる手段である。

犠牲は新しい生命を与え、生命の連続を意味する。
犠牲の価値を知れば、推譲の尊さも自然に理解できる。

第四節 樹木の推譲

自由とは、わがまま勝手に振る舞うことではなく、互いの推譲によって初めて成り立つ「制限された自由」である。絶対の自由が衝突を生み、社会を混乱させるのに対し、推譲の徳に基づく自由は、人と人、物と物が互いの領分を尊重し合うことで円満に保たれる。林間の樹木が大木やトゲのある木の方向に枝を伸ばさず、互いに推譲して自らの生を全うしている姿は、この自然法則を象徴している。
推譲を欠けば自らを傷つけ、推譲によってこそ自由が守られる。私たちは万物の犠牲によって生命を保っている存在であり、その恵みに報いるためにも、推譲の徳を守り、相互の自由を全うしなければならない。推譲は自己を全うする道であり、同時に社会の円満を実現する根本の徳である。

私たちの自由とは、わがまま勝手という意味ではない。
わがまま勝手は横暴であり、必ず他人の自由を妨げる結果を生む。
私たちもまた他から妨げを受ければ、それは自由とは言えない。
だから自由は、制限の中にあってこそ全うされる。
そう、私たちの自由は“制限された自由”である。
しかしそれは通俗的な意味での制限ではなく、
推譲の意味における制限である。

人と人、物と物との間で互いに推譲し合うことで、
双方がそれぞれの自由を全うすることができる。
もし推譲のない“絶対の自由”があれば、
複雑な社会では人と人との自由が衝突し、
たちまち疾風が起こり、怒涛が生じ、
人生の幸福を破壊することになる。
そのような状態で、どうして自由を全うし、
円満な人生の理想を実現できるだろうか。

自由は必ず推譲の意味における制限でなければならない。
推譲の徳こそ、各人の自由を全うさせる所以である。

緑の木陰が深く、苔むした石が滑らかな場所を歩くとき、
林間の樹木は私たちの視線の底で何を語っているだろうか。
見よ、林の中に一本の大木がある。
先輩者として、他の木々を睥睨するように堂々と枝を伸ばし、
まるで千樹万木の皇帝のようである。
その傍らに立つ木々は、
先輩者である大木の方向には枝を伸ばしていない。
また、トゲのある木の方向にも枝を伸ばしていない。

枝を伸ばさないということは、すなわち推譲をしているのである。
推譲することで、彼らは自分の自由を全うしている。
これは結局、適者生存の自然法則を示している。

もし推譲せず、大木やトゲのある木の方向に枝を伸ばせば、
自らの身を傷つけ、自己を全うすることができない。
雑然と立つ樹木の中で自分を全うするために、
心なき樹木でさえ推譲の徳によって幸福を求めているのだろう。
林間の眺めが示す自然法則は、
まさに明白な真理ではないか。

そうであれば、推譲の徳は自分を全うする道である。
また相互の自由を全うする道でもある。

推譲の徳は守らなければならない。
まして私たちは、常に万物の犠牲によって
生命を全うしている存在であることを思えば、なおさらである。

第十六章 蔬菜の貯蓄

第一節 カブの勤倹貯蓄

畑に育つカブは、勤労と貯蓄の徳を体現する存在である。微粒の種が発芽し、根を張って地中の養分を吸収し続けることで、やがて玉が大きく育つ。この玉は、カブが暗い地中で“盲稼ぎ”を続け、勤倹貯蓄を積み重ねた結果であり、味や価値の高さはその勤労の証である。反対に、勤労が足りず貯蓄の乏しいカブは小さく味もなく、ついには路傍に捨てられる。これは自業自得であり、勤労と貯蓄の徳を欠いた結果である。
しかし春になり、カブが花を咲かせ実を結ぶとき、玉の中に蓄えられていた貯蓄は消えている。だがそれは失われたのではなく、種の中の胚乳として子孫に譲り渡されている。胚乳は親が生涯をかけて蓄えた貯蓄であり、次の世代が芽を出し成長するための資本である。カブは自らを空しくして子に与え、生命の連続を支えている。
ここに貯蓄の真の目的と効果が示されている。貯蓄とは自分のためだけでなく、未来のために推譲されるべきものであり、勤労と貯蓄の徳は推譲によって完成する。
カブの一生は、勤倹貯蓄と推譲の徳がいかに生命を繁栄させるかを無言のうちに語っている。

カブは畑の中で、勤倹貯蓄を語っている。
微粒の種が畑にまかれると、湿気と熱を受けて、種の中の胚が膜を破り、可愛らしく発芽する。
七、八分から一寸ほどに伸びた頃は、普通の菜葉とほとんど同じである。
しかし成長するにつれて、カブは根菜の特性として、その根に玉をつくる。
その玉は初めは極めて小さいが、日が経つにつれて大きくなる。
この玉こそ、私たちが漬けたり煮たりして食べる部分である。
では、このようにカブが玉をつくるのは何のためか。

カブは小さな根を伸ばして地中の養分を吸収し、それによって自らを養っている。
地中は暗黒の世界だが、彼は養分を吸収することを怠らない。
いわば“盲稼ぎ”をしているのである。
こうして勤労に勤労を重ね、貯えるところができるにつれて、玉は次第に大きくなる。
つまり玉の中に貯蓄をするからこそ、貯蓄が増えるにつれて大きくなるのである。
結局、勤倹貯蓄の結果である。

富豪となったカブは、その面目を輝かせ、人間にも尊重される。
漬けても煮ても味がよく、売っても買っても高い値がつく。
これに反して、勤労が足りず貯蓄のないカブは“貧乏カブ”である。
玉はあっても小さく、味もなく、いわば空き家同然で、固い外皮ばかりで価値がない。
哀れむべきは貧乏カブの末路である。
ついには路上に捨てられ、往来の人に踏まれる。
なんと悲しい最期だろうか。
これは自業自得、勤労せず貯蓄が足りなかった結果である。

この事実は、今まさに畑の中でカブが私たちに誇っている真理である。
カブだけでなく、大根も、ニンジンも、ゴボウも、皆勤倹貯蓄を実行している。
大根は長い袋に、ニンジンは赤い袋に、ゴボウは黒い袋に、それぞれ稼いだ貯蓄を蓄えている。
私たちは朝夕、これら貯蓄の実行者に対して、自らを戒めなければならない。
彼らは語る口を持たないが、無言のうちに長い舌をふるって、一大説法をしているのである。

春風がのどかに吹き、菜の花が黄色く染まり、鳥がさえずり蝶が舞う春の野に出れば、
カブも黄金の花を開き、やがて実を結ぶ。
彼も生物として、子孫を繁栄させるために花を開き、実を結ぶのである。
結んだ実はカブの子であり、相続者である。
この時、カブの玉を取ってみると、勤労の結果として得た貯蓄がなくなっている。
繊維だけが残り、漬けても煮ても食べられない。
彼の“実蔵”は空虚である。

では、この貯蓄はどこへ行ったのか。
生涯をかけて貯めたものが、理由もなく消えるはずがない。
狐や盗人の仕業だろうか。
否、そうではない。
私たち農家は、消えた貯蓄の行方を探らなければならない。
カブの種を取り、調べてみれば、事実は明らかである。

小さな種の中には、胚と胚乳が存在する。
胚はわずかな部分で、大部分は胚乳で満たされている。
胚は芽を生じ茎となる部分であり、胚乳は親から譲り渡された貯蓄である。
親は生涯勤労を積んで貯めたものを、多くの子孫に分け与えている。
消えた貯蓄の行方はここに示されている。
決して雲散霧消したのではない。

カブは自らを空しくして、それを相続者に譲り渡したのである。
では、カブが生涯をかけて貯蓄したものを子孫に譲ったとは、
いったいどのような意味を持つのか。
これを追究すれば、貯蓄の目的と効果が明らかになる。

第二節 貯蓄と子孫の連鎖

カブの種が発芽したばかりの胚は、人間の赤ん坊と同じく自活できず、親が生涯をかけて蓄えた胚乳を食べて成長する。もしこの貯蓄の譲渡がなければ、胚は芽を出しても養分を得られず枯れ果て、子孫は断絶する。カブは子孫の連続を守るために、勤労の結果として得た貯蓄をすべて譲り渡しており、ここに貯蓄の目的と効果が明らかに示されている。貯蓄とは自分のためだけでなく、未来の生命を支えるための推譲であり、生命の鎖をつなぐ唯一の手段である。
しかし私たちは、勤労も貯蓄もせずにカブの貯蓄を奪ってよいのか。カブが子孫のために本能として蓄えたものをみだりに奪うのは、道徳的には“切り取り強盗”に等しい。法律には罰則がなくとも、天の刑法はこれを許さず、怠惰と浪費は「貧乏」という笞刑をもたらし、重ければ子孫断絶という極刑に至ると説かれる。天の刑罰は予審も公判もなく、犯した事実そのものが宣告書であり、逃れることはできない。
植物が天理に従って勤労し、貯蓄し、子孫に推譲している以上、人間もまたその責任を果たさなければならない。みだりに彼らの貯蓄を奪う“鬼”となるのではなく、勤労と貯蓄と推譲の徳を実践し、生命の連続に参与することが求められる。カブの一生は、無言のうちにこの深い教訓を語っている。

人間も、生まれたばかりでは自分で飲み食いする自由のない赤ん坊である。
これに乳を飲ませ、食べ物を与えて育てなければならない。
カブもまた、種が発芽した時は、生まれたばかりの赤ん坊である。
まだ自分で食べる自由を持たない。

だからカブの親は、勤労の結果として得た貯蓄をすべて子に分け与えている。
これは、自活できない赤ん坊を育て、その発達を助けるためである。
赤ん坊である胚は、親から譲られた胚乳を食べて成長し、
数日を経てようやく根を生じ、
そこで初めて地中の養分を吸収し、自活できるカブとなる。
もしこの赤ん坊が、親の貯蓄の譲渡を受けられなかったらどうなるか。
胚は芽を出しても、自活できないため、
養うものがなく、ついには縮み、枯れ果てて死んでしまう。
こうしてカブの子孫は断絶する。


子孫の断絶は、生物の目的に反する。
だからカブは子孫の連続を保つために、貯蓄を譲り渡しているのである。
この事実は、貯蓄の目的と効果を明らかに語っている。
したがって、貯蓄の徳がいかに大きいかを知るべきである。

貯蓄は生物の目的を達成させる唯一の手段であり、
子孫連続の鎖である。
だからカブも本能として貯蓄に努めている。
ああ、子孫繁栄の運命は、実に貯蓄の多寡にかかっており、
決しておろそかにできない。
見よ、カブは努めて貯蓄を子に伝え、子はまたその子に伝え、
片時も怠ることがない。

ところが私たちは、勤労もせず、貯蓄もせず、
みだりにカブの貯蓄を取って食べてよいだろうか。
これを取って食べるなら、私たちもまた子孫のために貯蓄し、
向上させる努力をしなければ、人としての責任を怠ることになる。
人としての責任を忘れ、ただカブを食べるのは、
無意味な殺生である。
彼らの犠牲の推譲は、ただの殺生で終わってしまう。
さらに、カブが子孫のために本能として貯蓄したものを
みだりに奪うとは、強盗の所業と言うべきである。
それを切り、煮るとは、まさに“切り取り強盗”の行為である。
どうして厳罰を免れようか。

カブの貯蓄を奪う行為は、刑法には条文がない。
条文がなければ罰せられないと法律は保証するが、
私たちは安心してはならない。
道徳の犯罪は、天の刑法に明示されている。
カブの貯蓄を奪うことに対する恐るべき刑罰は、
天の刑法第362条に書かれている。
これを犯せば、軽いものは笞刑に処され、
“貧乏”という棒で打たれる。
重いものは子孫断絶の極刑に処され、
無期流刑どころではない。
実際、世間にはこの恐るべき刑罰に処された者が多い。
さらに、この犯罪の訴訟手続きにおいても恐るべき点がある。
現行の裁判手続きには予審や公判、控訴や上告、弁護の自由がある。
しかし天の刑事訴訟法には、予審も公判も宣告もなく、
控訴も上告も弁護も絶対に許されない。
罪を犯せば、ただちに強制執行が下る。
実に恐ろしいことである。

天の刑罰を犯せば、どれほど巧みに隠しても、
天網恢恢、疎にして漏らさず、逃れることはできない。
犯した事実そのものが、天の裁判宣告書である。
だから調査も宣告も不要である。

だから私たちはこれを恐れ、慎み、
みだりに天の罪を犯してはならない。
目の前の植物も、生物の目的を達成し、
子孫繁栄のために貯蓄本能を実行している。
これは天理に従って職分を守っているのである。
では、人としての私たちは、
どうしてこれを努めずに済ませられようか。
みだりに彼らの貯蓄を奪う“鬼”となってはならない。

第三節 貯蓄の徳

人間の生命は有限であるが、人生の理想は無限であり、一代では到底実現し尽くすことができない。ゆえに人生は祖先から子孫へと連続する鎖のように延び、その連続の中で理想が無限に実現されていく。祖先の知識と努力が私たちを支え、私たちの勤労と徳行が未来の子孫を支える。この連続こそが人生の向上と進化をもたらす天則である。
そのためには、子孫の繁栄が不可欠であり、子孫を育てるための貯蓄が必要となる。貯蓄がなければ教育もできず、病気や災害にも備えられず、子孫は堕落し、人生の向上は望めない。カブが子孫のために勤倹貯蓄を実行しているように、人間もまた貯蓄の徳を実践しなければならない。とくに人間は哺育と教育に長い年月を要するため、より多くの備えが求められる。
貯蓄とは人生の理想を実現するための基礎であり、子孫連続の鎖を支える徳である。その広大な価値は計り知れず、人生の根本をなすものである。

私たちの生命には限りがある。

限りある生命で、無窮無限の人生の理想を実現しようとしても、それは不可能である。
だからこそ私たちは、子孫の無限の連続を計って、人生の理想を実現しなければならない。
私たちの生命は有限であっても、その理想は子孫によって無限に実現されなければならない。

こうして生命もまた永遠となる。

そもそも人生は鎖のように連続し、無限に延びていくものである。

祖先の知識や努力は子孫に遺伝し、ますます向上している。


現在の私は、祖先の牽引力によって延長された鎖の一部である。

未来においても同じように延長され、無限の子孫の連続を成し遂げなければならない。

こうして人生は向上し、進化する。

これは天則がそうさせるのであり、人生の理想を実現する道である。

そうであれば、子孫の繁栄は、人生の理想を無限に実現させるものである。

人生の理想を果たすために子孫の繁栄が必要であるなら、

貯蓄の必要を認めざるを得ない。


貯蓄がなければ、子孫の教育を全うすることができず、

また病気や災害などの恐慌を免れることもできない。

その結果、子孫を堕落させるほかなくなる。

こうしてどうして人生の向上や発展を望めようか。

目の前のカブは、その原因と結果を明らかに語っているではないか。

彼らは子孫の連続に必要な条件として、貯蓄を実行している。


私たちは彼らより進化した人間である。

徳行において彼らに劣るべきではない。

だから貯蓄に努め、子孫の連続と人生の向上に努めなければならない。

特に私たち人類は、哺育の期間が彼らに比べて非常に長い。

生まれて一年や二年で独立自営の人間になることはできない。

一年二年どころか、五年十年を経てもなお不可能である。

二十年から二十五、六年の間、教育しなければ、善良な子孫とすることはできない。

だからカブのように単純ではない。


より多くの貯蓄をし、子孫の教育に備えなければ、

どうして人生の理想を全うできようか。

ゆえに人生の理想を実現するためには、貯蓄を実行しなければならない。

貯蓄の徳もまた、人生に大きな関係を及ぼしている。

その徳の広大さは、実に計り知れない。

◆第十七章 公徳と山林◆

第一節 森林の共同

良材となる檜・杉・松は、まっすぐに伸び、節が少ないことが重要であるが、その伸張は単独では成り立たず、森林の中で互いに抑制し合う「共同の力」によって支えられている。一本だけ野に立つ松や杉が風に煽られ、枝を勝手に伸ばして曲がってしまうのに対し、多くの木が並び立つ森では、互いの存在が抑制となり、木々はまっすぐに伸びて良材となる。植林でも間隔を調整し、成長に応じて間伐を行うのは、この共同抑制の美徳を発揮させるためである。
この自然の法則は、そのまま人間社会にも当てはまる。
人と人が互いに抑制し合ってこそ、人生の円満な目的が果たされ、争いを避け、幸福を実現できる。社会が進歩し利害が複雑になるほど、共同の必要性は高まる。深い森が良材を育てるように、共同の徳は人生を豊かにし、社会を調和へ導く。徳は一個人にとどまらず、無限の時間と空間に広がる理想であり、その理想を実現するためにも共同は不可欠である。人生の自然な要求として、私たちは共同の徳を修め、互いに支え合わなければならない。

檜・杉・松など、建築材料として最も需要の多い良材は、
その伸び方と節のないことが重要である。
節がないのは、よく伸びた結果であることが多い。
だから、よく伸びるようにすることは、良材をつくるための大きな要件である。
そして伸張は、互いの“徳”によって支えられなければならない。

松や檜は、森林の中で互いに伸びを競っている。
これは生存競争という自然現象であるが、
多くの木が並び立ち、互いに抑制し合うために、
曲がったり、たわんだりせず、まっすぐに伸びることができる。
もしこの抑制がなければ、良材を得ることはできない。

試しに、野中に一本だけ立つ松や、尾根に一本だけ立つ杉を見よ。
仲間の助けを得ないそれらは、風をまともに受け、
十分に伸びることができないだけでなく、
勝手気ままに枝を伸ばし、幹も曲がり、たわんでいる。
こうしては、良材を得ることは極めて稀である。

風景としては、野中の一本松や尾上の一本杉は賞賛に値するが、
実用の材料としては、ほとんど価値を認めることができない。
これを見るだけでも、
並び立って互いに抑制し合う“共同の力”こそが、良材をつくる
ということがわかる。

だから植林を行う際にも、木と木の間に適当な間隔を置いて植えることが必要である。
密に植えすぎれば、抑制が過ぎて発育を妨げる。
逆に間隔が広すぎれば、抑制力がなくなり、勝手気ままな伸び方をしてしまう。
だから間隔には十分注意し、
木々が“共同の美徳”を発揮できるようにしなければならない。

植樹の際は、間隔はやや密である。
しかし一丈、二丈と伸びるにつれて、間伐を行い、間隔を広げる。
これらはすべて、木々が互いに抑制し合い、
伸び方を適切にするためである。
結局、これは共同抑制の効果を明らかに示している。

森林に共同抑制が必要であるように、
人生においてもこれがなければならない。
人と人が互いに抑制し合ってこそ、
人生の円満な目的を果たすことができる。
これがなければ、人生は平和を欠き、争いが絶えない。
こうしてどうして人生の幸福を全うできようか。

戊申の御詔書にも、
「上下心を一にし、忠実に業に服し、怠りを戒め、自ら努めてやまざるべし」
と仰せられている。
社会は日々進歩し、利害の関係はますます切実になっている。
だから共同の必要は、社会の自然な要求である。

深い森は、私たちの目の前に立ち現れ、
その必要を語っている。

もともと徳は人が修めるものであるが、
徳そのものは無限の時間と空間を持ち、
一身一個にとどまるものではない。
だから無限無窮の理想を、
私たちは円満に実現しなければならない。
それが人生の理想であり、
私たちが修めるべき徳である。
そうであれば、共同の必要は当然であり、
人生の自然な要求である。
どうして共同なくしてよいはずがあろうか。

第二節 水源の涵養と水害の防止

人水は農業にも工業にも不可欠であり、人間生活を潤す最も大きな恩恵である。しかしその水を有益なものとし、水源を涵養するのは森林である。樹木が繁茂すれば雨を招き、地中に水を蓄え、農家は灌漑の利益を得て、工業は動力を得る。森林の繁栄は人生の公益を支える基盤であり、「山が高いから貴いのではなく、木があるから貴い」という言葉の通り、森林こそが水の徳を全うさせる存在である。
反対に森林を乱伐すれば、水源は枯渇し、河川は土砂で埋まり、わずかな雨でも氾濫を起こす。家屋は流され、田園は荒れ、人命さえ奪われる。これらは天災のように見えて、その多くは人為的な森林破壊の結果である。交通の発達とともに乱伐が進み、大森林が失われた現状は、水害の増加という形で厳しい報いをもたらしている。
森林を正しく経営すれば水源は養われ、農業・工業は発展し、社会は安定する。しかし乱伐すれば水害を生み、人生に大きな禍害をもたらす。森林を育てるのも破壊するのも人間であり、その結果が徳か不徳かを決定する。利益を進め、害を除くことは人間の務めであり、森林経営は道徳上きわめて大きな価値を持つ。水と森林の関係は、自然が私たちに示す明白な教訓である。

水の徳は実に大きく、人間の生活もその恩恵によって潤っている。
だから水が必要であることは言うまでもない。
農業を行うにも、灌漑がなければ農作物の発育を全うすることはできない。
農業だけでなく、工業においても水を利用して動力を得る必要がある。

このように水の必要性は、人生において最も広く、最も大きい。
そして水を利用しようとするなら、水源の涵養が最も重要である。
森林が繁茂すれば、自然に水源が涵養される。

山林の樹木が鬱蒼と繁れば、理学的な結果として雨を招き、また水を保つ。
天からも地からも水を引き寄せ、森林の中に自然と水源の涵養を生じさせる。
こうして農家は灌漑の利益を得、工業は動力の供給を受ける。

農業の利益も工業の利益も、水源の涵養に負うところが大きい。
だから森林の経営が、人生にどれほど多くの徳を与えているかがわかる。
水をこのように有益なものとし、水の功徳を全うさせるのは森林である。
森林の経営を行い、美徳を発揚しなければならない。
「山が高いから貴いのではなく、木があるから貴い」
という言葉の通りである。

しかし、もし誤って森林の繁茂に努めないなら、
灌漑の利益も動力の便宜も失うだけでなく、
森林の乱伐の結果として、河川の水量が一時に増加し、
土砂が流出して水害を大きくする。

日本の河川が広く水害を起こし、
家屋を流し、田園を荒らし、
ひどい時には人命を奪うことも少なくない。
これらは天災とはいえ、その原因の多くは森林の乱伐にある。
近年は年を追うごとにその度合いが増していることは、事実が示している。

今これを防止する方法を尽くさなければ、
将来ますますその度を増し、
私たちの生命と財産を危険にさらすことになる。

一方で、交通機関の発達に伴い、森林乱伐の悪弊が生じ、
至るところで伐り尽くされ、大森林がほとんど見られなくなった。
伐採後の禿山は土砂を大量に流出し、
各河川は土砂で河床が埋まり、
わずかな降雨でも氾濫を起こすようになり、
年々その被害は増している。

特に樹木のない山は、一時に水を流出するため、
その度合いはますます大きくなる。
結局、水害は森林乱伐の結果である。
森林の経営が人生の利害に及ぼす影響は、まさにこの通り大きい。

もし森林の経営が適切で、森林が繁茂するなら、
水源を涵養し、農業・工業の大発展を促す。
しかし誤って乱伐すれば、水源を枯渇させ、
農業・工業を衰えさせるだけでなく、
水害を生み、一大禍害をもたらす。
森林を育てるのも、乱伐するのも、すべて私たちの行為である。
私たちが正しく行えば人生の公益となり、
誤れば人生の禍害となる。

利益を進め、害を除くことは、私たちの努めるべきところである。
徳か不徳かは、森林を乱伐するか否かにかかっている。
だから森林の経営も、道徳上大きな価値を持つと言わねばならない。

第三節 祖先の肉を食い、子孫の食を奪う

森林は祖先が長い年月をかけて育てた労苦の結晶であり、同時に子孫が生きるための資本でもある。これを乱伐し、むやみに消費することは、祖先の肉を食い、子孫の食を奪うに等しい重大な不徳である。良材は数十年、数百年を経て初めて得られるものであり、輪伐の法に従って伐っては植え、植えては伐るという分配の方法を守らなければならない。また伐採によって得た利益も、祖先から今日までの長い時間を受け継ぐ子孫の衣食であり、一代で浪費することは子孫の権利を奪う行為である。
森林を乱伐すれば水源は枯渇し、河川は土砂で埋まり、わずかな雨でも水害を引き起こす。家屋は流され、田園は荒れ、人命さえ奪われる。これらは天災のように見えて、その多くは人為的な乱伐の結果である。森林を正しく経営すれば水源は涵養され、農業も工業も発展し、人生の公益が増す。しかし誤れば禍害を生み、祖先にも子孫にも背く破徳となる。森林経営は単なる産業ではなく、祖先の徳を継ぎ、子孫の幸福を守るための道徳的責務である。

もし人が、祖先の肉を食い、子孫の食を奪うようなことをしたなら、
誰がそれを不穏でないと言えるだろうか。
天地も許さぬ大きな不徳として、必ず排斥されるに違いない。

森林を乱伐し、むやみに消費するような人は、
まさに祖先の肉を食い、子孫の食を奪う者である。

森林は、私たちの祖先が労力と財力を犠牲にして繁茂させたものだ。
数十年、あるいは数百年の歳月を経て、祖先の徳が姿を現している。
谷を隔て、山を越え、見渡す限りの森林は、すべて祖先の化身である。
これを徳として敬わなければならない。

それなのに乱伐し、むやみに消費するとは、
すなわち祖先の肉を食うことである。
実に不徳の行為と言わねばならない。

森林はもちろん伐ってはならないというわけではない。
ただ、時期を誤ってはならない。
数十年、数百年を経なければ良材は得られないのだから、
輪伐の法に従い、伐っては植え、植えては伐るという
分配の方法 を取らなければならない。

また、伐採して得た金銭は、私一人のものではない。
必ず子孫に分けなければならない。
祖先が植林した時から今日に至るまでの時間は、
そのまま子孫に与えるべき時間でもある。

だから今日、代々の林から得た金は、
この長い時間を満たすべき子孫の衣食である。
それを子孫に残さず、自分一人で浪費するのは、
言うまでもなく子孫の衣食を奪うことである。
これもまた甚だしい不徳である。

このように、乱伐と浪費の結果が
祖先の肉を食い、子孫の食を奪う
という悪徳を生むことになる。
慎まなければならない。

しかし、このような行為をする人は世に少なくない。
森林経営を行う者は、
祖先の徳を思い、子孫のためを考えることが最も重要である。
これを誤れば、大きな不徳を生む。
まして森林乱伐の結果は、水源を枯渇させ、
さらに水害を引き起こすのだから、なおさらである。

第四節 森林と貯蓄

農業は一つの営業であり、生産物は分配に適した形に調製されて初めて社会に役立つ商品となる。種類を分け、量目を一定にし、俵を堅固に作ることは、取引の信用を守るための基本であり、信用は大いなる徳である。
また、俵づくりに注意して脱漏を防ぎ、保存に耐えるようにすることは、生産物の徳を重んじ、自らの勤労を尊ぶ行為でもある。近年各地で設立されている米穀組合は、米質の改良と調製の完全を目指すものであり、道徳的にも経済的にも価値ある取り組みである。組合による検査と等級付けは産米の品位を明らかにし、遠隔地でも迅速に売買できる環境を整える。これがなければ、多様な産米の取引は困難を極め、時間と労力の浪費を招く。
米穀組合は調製の徳を制度として確立し、農業の発展と社会の利便を高める美しい事業である。

数十年、あるいは数百年をかけて育った森林は、
すべて祖先の貯蓄である。
子孫はその恩恵を受けているのである。
今日、私たちが経営する森林も、
また子孫に残すべき貯蓄でなければならない。
森林の経営は、貯蓄主義によらなければ、
経済を誤り、不徳の結果を生む。
普通の農作物のように、数ヶ月や一年の短期間で収穫できるものではなく、
長い年月の後に、何千・何万という大金を一時に得るものである。
しかしその一時に得た大金は、
過去の長い時間の犠牲によって生み出されたものである。
その長い時間には、資本と労力が費やされ、
積み重ねられて今日がある。
だから祖先が貯蓄主義によって実行したことは、
森林そのものが証明している。
また、一時に得た収入は大きく見えるが、
それを長い年月に分配して考えれば、
実はわずかな貯蓄を積み重ねた結果であることがわかる。
森林の性質が貯蓄主義であることは、言うまでもない。

さらに森林は、貯蓄の実行として最も優れた方法である。
植林当初の数年間は労力を要するが、
その後の数十年間はほとんど労力を必要としない。
樹木は日夜成長し、知らぬ間に莫大な貯蓄を生み出す。
加えて、普通の貯蓄と異なり、
森林は蓄積せざるを得ない性質を持つ。
つまり、引き出して消費する自由が制限されている。
この性質が、貯蓄にとって大きな利点となっている。
だから森林は、貯蓄の実行方法として尊重されるべきである。

しかし、注意すべき点がある。
初めの数年間は労力を要するが、
その後の長い年月は放任され、労力の継続がない。
労力の継続は、生産物を尊重させるものである。
だから労力の継続なき収得は、軽んじられる弊害を免れない。
そのため森林の収入は、しばしば浪費に傾きやすい。
一時に巨額の金を得ると、欲望が盛んになり、
むやみに奢侈に流れ、浪費し、
莫大な収入を得ながら、かえって莫大な負債を生む例がしばしばある。
これは、労力の継続なき収得がもたらす結果である。
労力の継続なき生産は、自然と軽んじられるのである。

貯蓄は子孫の連続を可能にし、
人生の理想を実現する方法である。
森林の経営も、その性質上、貯蓄主義でなければならない。
これを行うことには大きな利点がある。
だから努めて森林を経営し、子孫のために恩恵を残さなければならない。
子孫となる者も、祖先の徳を重んじ、
浪費するような不徳を避けなければならない。
そうすれば、樹木が森々と繁るように、
その家も栄え、祝福を得るだろう。
ここに至れば、森林の樹木も颯々と音を立て、
太平の楽を奏し、万歳の歌をうたうに違いない。

第六節 生産を重んじるのは、勤労を重んじる結果

数十年、数百年をかけて育った森林は、祖先が資本と労力を犠牲にして積み上げた貯蓄であり、私たちはその恩恵を受けている。今日の森林経営もまた、子孫に残すべき貯蓄でなければならず、短期的な利益を求めて乱伐すれば、経済を誤り、不徳の結果を招く。森林は普通の農作物と異なり、長い年月の積み重ねによって初めて大きな収入を生むが、その収入は過去の長い時間にわたる貯蓄の結晶である。森林そのものが、祖先が貯蓄主義を実行してきた証である。
森林はまた、最も優れた貯蓄の方法でもある。植林当初こそ労力を要するが、その後は樹木が日夜成長し、知らぬ間に莫大な価値を蓄えていく。しかも森林は自由に引き出して消費できないため、自然に蓄積されるという利点がある。しかし労力の継続が少ないため、収入を軽んじて浪費に流れやすく、一時の巨額がかえって負債を生む例も多い。これは労力の継続なき収得がもたらす弊害である。
貯蓄は子孫の連続を可能にし、人生の理想を実現するための基礎である。森林経営もその性質上、貯蓄主義によらなければならず、これを行うことには大きな利点がある。祖先の徳を重んじ、浪費を避けて森林を正しく経営すれば、家は繁栄し、祝福を得るだろう。森が繁り、颯々と音を立てる姿は、まさにその家の繁栄を寿ぐ万歳の歌である。

数十年、あるいは数百年をかけて育った森林は、
すべて祖先の貯蓄である。
子孫はその恩恵を受けているのである。

今日、私たちが経営する森林も、
また子孫に残すべき貯蓄でなければならない。
森林の経営は、貯蓄主義によらなければ、
経済を誤り、不徳の結果を生む。
普通の農作物のように、数ヶ月や一年の短期間で収穫できるものではなく、
長い年月の後に、何千・何万という大金を一時に得るものである。
しかしその一時に得た大金は、
過去の長い時間の犠牲によって生み出されたものである。
その長い時間には、資本と労力が費やされ、
積み重ねられて今日がある。

だから祖先が貯蓄主義によって実行したことは、
森林そのものが証明している。
また、一時に得た収入は大きく見えるが、
それを長い年月に分配して考えれば、
実はわずかな貯蓄を積み重ねた結果であることがわかる。
森林の性質が貯蓄主義であることは、言うまでもない。

さらに森林は、貯蓄の実行として最も優れた方法である。
植林当初の数年間は労力を要するが、
その後の数十年間はほとんど労力を必要としない。
樹木は日夜成長し、知らぬ間に莫大な貯蓄を生み出す。
加えて、普通の貯蓄と異なり、
森林は蓄積せざるを得ない性質を持つ。
つまり、引き出して消費する自由が制限されている。
この性質が、貯蓄にとって大きな利点となっている。
だから森林は、貯蓄の実行方法として尊重されるべきである。

しかし、注意すべき点がある。
初めの数年間は労力を要するが、
その後の長い年月は放任され、労力の継続がない。
労力の継続は、生産物を尊重させるものである。
だから労力の継続なき収得は、軽んじられる弊害を免れない。
そのため森林の収入は、しばしば浪費に傾きやすい。
一時に巨額の金を得ると、欲望が盛んになり、
むやみに奢侈に流れ、浪費し、
莫大な収入を得ながら、かえって莫大な負債を生む例がしばしばある。
これは、労力の継続なき収得がもたらす結果である。
労力の継続なき生産は、自然と軽んじられるのである。

貯蓄は子孫の連続を可能にし、
人生の理想を実現する方法である。
森林の経営も、その性質上、貯蓄主義でなければならない。
これを行うことには大きな利点がある。
だから努めて森林を経営し、子孫のために恩恵を残さなければならない。

子孫となる者も、祖先の徳を重んじ、
浪費するような不徳を避けなければならない。
そうすれば、樹木が森々と繁るように、
その家も栄え、祝福を得るだろう。

ここに至れば、森林の樹木も颯々と音を立て、
太平の楽を奏し、万歳の歌をうたうに違いない。

参考文献

[1] 『農業道徳』丁未出版社発行、明治14年11月5日発行。

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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