大岡昇平には『妻』(一九五〇年一〇月五日「別冊文芸春秋」)という作品がある。復員後の妻との再会・生活を描き、発表当時は傍題に「私小説」とあった。すかさず尾崎一雄が「あなたは「妻」といふ小説に限つて傍題に『私小説』とつけて居られましたが、如何なる理由によるものでせうか」と訊ねた。これに対し大岡は「お咎めを受けて恐縮」と言い、「『妻』を「私小説」と傍題したのは、別に深い仔細はなく、至極曖昧な気持で」あり「ご質問を機に少し反省」したと答え、傍題の理由を「ジャーナリズムの要求」や「てれ」と弁明した(『私小説について』一九五一年二月「群像」)。わざわざ傍題「私小説」を付けたため、大岡は尻尾を出してしまったわけだ。実際の家庭事情を書いたならば「私小説」とする、当時の安易な固定観念を披露してしまった。また同じ文中に、殊勝な姿の大岡がいる。
小生の短い小説書きの経歴は、俘虜の体験を小説風に綴ることから始まっております。そしてあんなものが小説として通用したのは、一重に日本に私小説という伝統があったからで、この意味で小生は私小説に足を向けて寝られない義理があります。小生は決して私小説撲滅論者ではありません。
大岡は『俘虜記』(昭和二三年二月~昭和二六年一月、各誌に発表)が「私小説の伝統」の上で成立していると認めた。『僕と戦争もの』(一九五〇年三月「夕刊世界経済」)にも「「俘虜記」も純粋にいえば小説ではなく」「小説として通用したのは、一重に日本に、私小説という伝統があったからで私小説は近頃とやかくの論がありますが」「日本的文学形式に文句をいえた義理ではない」とある。しかし一〇年後、そんな大岡が私小説批判をすることとなる。『常識的文学論 私小説ABC』(一九六一年一〇月「群像」)だ。批判の要点は、「自己克服」や「私小説」の理念への懐疑だ。かたやかつて「私小説の変種」と自称した『俘虜記』があり、かたや私小説を痛烈に批判する論がある。この大岡の溝はどこから生まれたのか。本稿では、大岡の私小説批判から大岡独特の私小説観を読み取り、そこから『俘虜記』を読むことで、大岡にとっての「私小説」と〈私小説=私を書く行為〉とは何かを考えたい。
『私小説ABC』における辛辣な私小説批判の裏には、私小説への独特の拘りがある。私小説批判で、大岡もまた他を描いて自に徹しているのだ。まず、小林秀雄『私小説論』を引き「私小説の理念」へ疑問を呈す部分をみると、
「私小説は亡びたが、人々は〝私〟を克服したらうか、私小説は又新しい形で現はれるだらう」有名な小林秀雄の「私小説論」の結びの文句だが、これもまた美しい言葉の一つである。(略)「社会化された私」も、極めて日本的な贋の観念の一種だったが、「私」の「克服」もまた一つの錯覚ではあるまいか。なぜ人はそう私を克服したがるのか、私は克服に値するか、という風に視点を変えてみれば、今日なお我々の文学に一般的な、底の浅さ、ひよわさについて、考える手懸りがあるかも知れない。
「社会化された私」も「極めて日本的な贋の観念の一種」とし、「私は克服に値するか」という。ここには敗戦を経験した戦後派の「私」が強く出ている。語るべき「私」・語るべき「自己」を失った、戦後作家大岡昇平の「私」観だ。
多くの私小説論で引用される、小林秀雄の「社会化された私」。評価や解釈は様々だが、自立した個を持ちながら、社会や集団と関係を持とうとする個人を指す、というのが論者の認識である。『私小説ABC』では、大岡の「社会化された私」解釈はこれ以上詳しく述べられていない。ただ「社会化された私」「極めて日本的な贋の観念」の二語からは、「社会化された私」への懐疑が滲む。
そこで考えたいのは、『俘虜記』でも使われた「贋」「偽」「真」「真実」という語だ。『俘虜記』では、戦場の極限状態や異常時に人々がいかに簡単に「動物的」ともなれば「小市民」ともなる様が描かれ、俘虜収容所での「小市民」である「私」や、その他「小市民」性を見せる兵士や俘虜たちを描いている。極限状態における生命の危機、敵による捕縛や自らの投降、外面的には米軍による監禁状態だが俘虜同士では無法地帯である収容所生活で、およそ集団に関係していこうとする個の意識は、崩壊する。社会化した個人を云々する以前に、戦場や俘虜収容所では、人は皆社会や集団に係わる意識が消し飛んでしまう。残るは「動物的」「非人間的」「小市民的」といった、各人の剥き出しのエゴイズムであり、無秩序で混沌とした生きものだ。
一方『俘虜記』に「真」や「人間」「人間的」という言葉が登場しないわけではない。例えば「生きている俘虜」では、冒頭で「俘虜も毎日を生きねばならぬ。しかしこういう状態で生きることを、真に生きるといえるであろうか」とあり、末尾に「彼らは支配し監督し、我々は生きていた。しかし生きている俘虜は真に生きているということが出来るであろうか。彼等は人間であろうか。」の二行が添えられる。「人間」は逆説的に使われ、俘虜の対照として想定され、「真に生きる」も同様だ。そしてもし、自立的な個人の意識の下に社会と関係しようとする「私」が登場するならば、一つの方便として、つまり「贋」「仮面」「偽」「嘘」となる。
私はふとこのまま海に飛び込んで死にたい衝動に駆られた。しかしこれは偽りの衝動であった。前の日山で訊問を受けながら、敵の手にある戦死した僚友の持ち物を見て「殺せ」と叫んだ時と同じく、私の存在の真実に根拠を持たない贋の衝動であった。あたりに見張りの米兵はなかったにも拘らず、私は身じろぎもしなかった。衝動は過ぎ、ただ深い悲しみを残した。私はそうした偽りの衝動を感じなければならない自分を憐んだ。(「サンホセ野戦病院」)
あらゆる生還者はその告別式風の物悲しい仮面の下に、こういうエゴイズムを秘めている。(「サンホセ野戦病院」)
自分が俘虜として存在する事実は、死んだ僚友や今なお戦場にいる兵士たちへの想いを、「贋」や「仮面」にする。俘虜たちは自分を語り保証する絶対的な言葉を持たないのだ。俘虜になるまでの過程を語る際も同様で、俘虜たちは「嘘」をつく。捕獲か降服か、どのように米兵に捉えられたか、収容所で俘虜たちは真実を語ろうとしない。それぞれが大なり小なり「嘘」を「捏造」しており、中には「事実」が他の俘虜によって暴露されるものもある。部下を山中に捨て見殺しにし、死者の遺物を盗み取る下士官、自分たちだけ降服し傷病兵を見殺しにした軍医などだ。そして彼らは互いに、他の俘虜たちを単純な感情(仲の良い後輩・僚友を山中に見捨てられた等)で責めることはあっても、社会的な意識、「公」の大義で責める権利はなんら持っていない。
俘虜は究極的に自己否定、自己懐疑の存在である。「行為」「感情」の理由や動機など、自己を説明する行為の絶対性を失った存在であり、従ってそこで起きる出来事はすべて無根拠で無意味だと、大岡はくり返す。「私は自分の物語があまりにも小説的になるのを懼れる。俘虜の生活など無意味な行為に充ちているものである。そういう行為にいちいち意味をつけて物語るのは、却って真実のイリュージョンを破壊する所以ではあるまいか」(「生きている俘虜」)と、語り手であり書き手である大岡自身も意味を与えることへの警戒を洩らし、当時の「行為」や「感情」を冷静に相対化している。崩壊しつくした人間存在が原点である俘虜の前では、「社会化された私」という概念も無化されてしまうようだ。
では、大岡の「私」の「克服」への懐疑は、どのように理解すればよいのか。記録か報道文学か私小説か、そのジャンルについても議論される『俘虜記』だが、本作品が小説として読まれるのは、崩壊の前提の上でも未だに残る「人間」とは何かの問いのためでもある。『俘虜記』において「人間」や「真に生きる」ことは逆説的に使われ、俘虜の対照として想定されていると前述したが、俘虜たちに人間性が全く見られないわけではない。描かれる対象が、絶対的な自己否定・自己懐疑を背負った俘虜の「私」や同士であっても、『俘虜記』が小説として読まれるのは、彼らを生かし形作っていたのは何かという問い、書き手大岡の「私」の探究があるからだ。
俘虜体験を描くことで大岡が執拗にあぶりだそうとした、既存の倫理・価値観が崩壊した後に残る、混沌とした人間存在。おそらく彼らの輪郭を唯一作っていたのは、一時的に発生した日本人俘虜収容所という組織における役や上下関係、ルールだった。作品内で「私」が俘虜を分類するに、収容所長とそのスタッフ、衛生兵などの役員と、重病人や軽症の病人。あとは収容された時期の違いだけで、その他大多数は平均的に健康な俘虜たちだ。これ以外に、彼らを特徴づける要素や差異があるとするならば、「各人の人柄の相違、及び職業の相違」だ。無意識に身体化されていた階級的・職業的習慣や発想や言動、外付けの倫理や道徳とは無関係にあった個々人独特の気質や精神、人間性といったものだった。これらは「私」を含め俘虜たち全員にあてはまる。書き手の大岡が記憶を綿密に再現し、「行為」や「感情」を相対化・客観化して描写する中で、際立って印象を残す部分の多くが、この個人の気質や精神、人間性を表す場面であった。例えば「戦友」での、「わが上官」佐藤伍長のエピソード。彼が病気になった際、「私」は通訳の特権を利用し炊事班に頼み、食の進まない伍長にパンとミルクの便宜をしてやりその病床を見舞ったが、「すまねえな。別にこれということもしてやった憶えもねえのに、もとの上官だと思えばこそ、こうやって自分の食べるものも喰べねえで持ってきてくれるんだろうなあ」と言われ、「私は赤面」する。そしてかつて「私」が初年兵だった頃、伍長の「同情」で親切にされたことを思い出す。「通念としての憐憫」であれ「ただの人間的同情」を持つ佐藤伍長の気質や人間性が表れるとともに、佐藤伍長の目により逆照射された「私」の良心と含羞、人間性が覗かれる場面である。他にも、広島原爆投下の事実を知り「不安」を感じる「私」(「八月十日」)や、新しく収容された俘虜たちが、不当な交換によって古株の俘虜たちに時計や煙草を奪われる様に「私の心は傷ついた」りもする(「新しき俘虜と古き俘虜」)。いずれも「観察者」でありながら完全な傍観者ではなく、他の俘虜や他者との人間的な関わり合いによって反応する「私」が描かれているのだ。
『私小説について』で大岡は、「俘虜の小説を書き続けるうちに、作中の「私」と小生自身は、だんだん分離し」、書き手と「私」はイコールではなくなったと述べている。「俘虜になるまでの孤独な二十四時間の記録で、小生の個人的経験を反省するだけで足りましたが、収容所に入ると周囲に俘虜という集団が現れ」「小生自身もその集団の一員である以上、小生を描くためにはその集団を描かねばならないが、集団を描くためには小生自身の位置は、例えば観察者として、限定され」ると弁明する。『俘虜記』の俘虜になるまでの前半と俘虜収容所での後半の違いは、議論となる点だ。大岡の弁明とは裏腹に、俘虜収容所の集団を描いた後半でも、他の俘虜の視点により客体化され、内面的な反応を引き出された「私」が、単なる観察者や語り手におさまるのではなく、そこで生活し他と関係した人物として浮かび上がる。周囲からの反響で起こる「私」の心の揺らぎと、「語り手」による再分析と反省の動き。これらこそ「私」をとらえ直そうとする大岡の自己探究の動きであり、『俘虜記』を小説として読ませる所以なのだ。また後半の俘虜集団と「私」を使っての「人間」探究は、形は違えども『俘虜記』前半の反問と本質的に同じとはいえないか。ジャングルでの米兵との遭遇、くり返される「何故殺さなかったのか」の問いは、既存の倫理や道徳では説明しきれない「私」の無意識が起こした反応を追究する試みであり、「私」自身の中の掬いきれない精神性、人間性を探る作業だった。
「私」の「克服」を「錯覚」とする大岡は、こうも述べている。
「作家は書くといふ事で段々人生を深く知るより道がない、書いて見て初めて自分がその事をどの程度に深く知つてゐたかが判然して来る。書いて見て如何にその事が本統の行ひでなかつたかといふ事も分つて来る」(志賀)。美しい言葉である。しかし同時にいつわりでもあるので、こういう勘違いから、どんなに下らない自己探検小説、自己発見小説が書かれたかを思えば、志賀直哉は或る意味では日本文学にとって、厄病神みたいなものであった。今日(略)文芸雑誌をよごしている原因は、こういう私小説の理念、その思い上がりにあると言って過言ではない。(『私小説ABC』前掲)
書くことにより、自己の経験や人生をとらえる。これは私小説に限らず、どの文学表現にもあてはまる言葉だろう。が、大岡はこれを「私小説の理念」とし、「いつわり」「勘違い」「下らない」「思い上がり」と畳みかける。なぜここまで大岡は批判するのか。実は大岡自身も、後に『俘虜記』となる作品群を発表していた当時は、執筆の動機を自己の探究だと明かしていた。
ただ僕が一兵士として経験した比島の敗軍と俘虜生活の記録を書いているだけです。自分の経て来たものが何であったか、その間自分が何者であったか、を確かめるために書いているだけです。(『わが文学を語る』一九四八年一二月六日「夕刊新大阪」)
「俘虜記」も純粋にいえば小説ではなく、ただ、異常な事件の中で、自分が果して何者であったかを検討したもので、(以下略)。(『僕と戦争もの』前掲)
「自分が何者であったか」。実際は大岡もこの問いの下に『俘虜記』を綴っていたのだ。前述したように、自らの俘虜体験を書く創作活動から出発した大岡は、書き手や「語り手」の作為や支配的立場、書く行為の特権性を自覚していた。『俘虜記』中でも記憶の曖昧性、書く行為に伴う作為を述べ、過去の「私」の「行為」「感情」を書きながら客観化しようとしている。そして、その作業の中から「私」であるはずの何かを見出そうとしている。だからこそ、書くことがそのまま「自己探検」「自己発見」に繋がるという発想に、書き手の自覚の欠如を感じていたのではないだろうか。そう公言できてしまう作家の姿勢や文壇の風潮に憤りを感じたのではないか。『私小説ABC』にあげられた作家・作品の全てが、大岡が評価する「いつわり」「思い上がり」であったかは議論すべき余地があるとして、大岡の批判は、理念や伝統に身を任せ、自覚抜きに作品を増産する姿勢に対するものだろう。『俘虜記』における大岡の「私」追究の動きには、書いても書いても掴みきれない、解明できない「自己」の姿、「人間」の姿がある。「なぜ人はそう私を克服したがるのか、私は克服に値するか、という風に視点を変えて」と洩らす大岡の視線の向こうには、『俘虜記』の「私」が佇む。私小説批判は、むしろ「私」の体験を書いてきた作家ならではの、内部からの積極的批判なのだ。


