富岡多恵子『遠い空』論

過去に様々なご縁から雑誌等で執筆させて頂いたものです。

目次

一、はじめに

 短編『遠い空』(初出『遠い空』中央公論社、一九八二年七月)を評して井口時男は、繰り返し迫りくる男の「永遠の性交」の不気味さが、性に翻弄される人間の業としている(「解説」(講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見2 性の根源へ』講談社、二〇〇一年六月))。また、川村二郎は、短編集『遠い空』に収められた作品群を「凡人の生活を描いてる」とし、「遠い空」については「白痴にひとしい唖者の性欲というのは、一見いかにも不気味で疎ましい。しかし愛情とか魅了とかその他さまざまな言葉で呼ばれる情緒的な夾雑物を剥ぎ取ってしまえば、男女の関係には性器の結合しか残らない。それは最も原始的ともいえるが、また最も純粋」としている(「生に魅せられて」(『文学界』一九八二年一〇月))。「彼らは普遍のアレゴリー」(川村二郎「生に魅せられて」同掲)と評されるように、たしかに『遠い空』は抽象的で象徴性の高い物語だ。それも本作の迫力と強烈な個性の大部分が、主人公二人によって作り出されているからだろう。彼らはいわゆる〈本格小説〉に登場するような、人生なり社会なりを呻吟し苦悩する主人公ではない。その点では、実際どこにでも居そうな「凡人」だ。しかし、なぜ主人公が聾唖の男性だったのか。なぜ三人の息子を持つ中年の寡婦だったのか。この二人の境遇が、なにより、「凡人」をして本作の強烈な迫力を作り出しているのだと思われる。

 障害者が性的な悪戯を受けたり、慰みものになる話は、古今東西様々な作品に描かれている。だが、自ら意思を持って「性交」を求め突き進む障害者を書いた『遠い空』は、〈障害者の性〉を描いた意味でも、斬新だ。また、モンペやハンテンを着て山菜を摘んでいるような、およそ〈性的〉ではない田舎の中年女性が「性交」に応じ、奇妙な戸惑いと共に関係を続ける物語も、今まで書かれてこなかった物語だろう。一般的には〈あり得ない〉組み合わせだからこそ、読者も一種独特のものを見せられているような違和と迫力を感じるのだ。では、その〈あり得ない〉感覚は、どこから来るのか。本作に違和感と迫力を感じれば感じるほど、そう感じている当人が知らぬうちに身につけている〈常識〉が、剝き出しにされてしまう。読み手の内に存在する〈性的〉な〈常識〉、身体化されている社会的意味付け、制度的な〈性〉、ジェンダー感覚が露わになってしまうのだ。〈性的〉であることと、〈性〉を持つこと。コミュニケーションとディスコミュニケーション。性を通して人と関わりあおうとすること。〈性〉に翻弄されるのが人間の業だとしても、何故そんなにも切実なのか。ともすれば感情的であったり抒情的になりそうな描写をそぎ落とし、富岡多恵子はそれらを淡々と描きだす。

 本稿では、朝乃さんの心理の変化と男の側の視点を作品に即しながら分析し、本作にこめられた意図を考察したい。

二、中年女性の〈性〉――松山朝乃さんの場合

同情

 男と出会った当時、朝乃さんは五五歳だった。東京へ出ている長男(二七)と農業の傍ら自転車の修繕もしている二男(二四)、高校一年生の三男がいた。夫は二年前に病死した、未亡人である。菅野ソヨさんとは年齢も、家庭の状況・経済状況も幾分違うものの、ほぼ似たような田舎の農村の「おばさん」だ。東北の山村で、モンペやハンテンを着て生活している農婦であり、都会の女性や若い女性とはまた違う、おそらく〈保守的〉であろう田舎の中年女性を想像させられる。小説の女性主人公の一つの〈型〉として、近代的自我に目覚めた女性、自己確立や自己実現を目指す女性があるとしたら、朝乃さんは結婚し出産・子育てを経て、そんな境遇に満足するでも不満に思うでもなく、平凡な生活を淡々と送ってきた、より実際的な庶民の主婦だ。あくまで、どこにでもいそうな〈平凡な主婦〉〈平凡な中年女性〉である。 

 そして「日暮山の男」が初めて店へ来て関係をもった年から、ソヨさんを殺してしまう年までの三年間は、ごく平凡な主婦が身に付けている〈常識〉的感覚を見せつつ、一人の女性としての朝乃さんの個性が読み取れる。

 初めて男が店に現れた時、朝乃さんは「言葉を聴くことも発することもできぬひと」と気付いており、目をじっと見据えたまま性交を求める身振り手振りを繰り返す男に「発情した若いオスが、声をあげることもできないでそこにいる」ように思い、「ただ性交だけを求めている」「なまじ言葉による粉飾がないから、男の求めるものの強さだけがはっきりと見えた」とある。そんな率直なサインを、平然と受け止められるのも一通り人生経験を積んできた中年女性の肝の太さともいえ、朝乃さんの持つ大胆さでもある。また自分は性的なことからおよそ〈上がった〉年齢であるから、性交を求められてもそれは単純な性器結合であり、性的ではないという感覚もあるのかもしれない。「ただ漠然と、男が強く性交だけを求めるのを見て、かわいそう」と同情し、「子供を抱くように」手をかけ、「男の頭部を嬰児を抱きしめるように両腕でくるみ」と、そのしぐさは子供を抱く母親のようだ。息子三人を育てあげた朝乃さんには、息子たちと同じような年頃の男が「嫁コがこねえんだ」と思えば、憐れになる。それは性的な感情ではなく単純な同情だ。朝乃さんにとって、男との「性交」は単純な性器結合であって特別な意味を持たない。ただ可哀そうな若者の「欲望をしずめる」目的であり、瞬間だけのことにすぎない。ここでも性交に意味はなく、男のむき出しで純粋な衝動と、朝乃さんの同情があるだけだ。

 それでも、忌避感が全くないわけでもない。「もし男が、おばさん頼むからやらせてくれとでもいったら、朝乃さんはその言葉によって動転したにちがいなかった」のだ。おそらく、その一言が発せられれば、〈若い男〉と〈中年女性〉という関係性が相対化され、およそ世間的には〈ありえない行為〉となってしまうからだ。若い男が「おばさん」と呼び、かつ「やらせてくれ」と言えば、それらの言葉によって関係が規定されてしまうのだ。ここに〈平凡〉な主婦が生きてきた文化的意味付け・社会的な意味付けの世界――ジェンダーの感覚――がどんなものかが表れる。男に同情して性交をする大胆さを持ちながら、若いものは若いもの同士でするもの、また中年の「おばさん」である自分はおよそ性的には「役に立た」ない筈であり、というジェンダー感覚が根強いのだ。ジェンダーといえば〈男らしさ〉〈女らしさ〉といった性差の問題が想起されるが、〈老いている〉〈若い〉といった〈年齢〉の要素もジェンダー的な意識に大きく関与する。自分が〈性的〉であるかないかを、身体的にまた精神的に、個人が性的な自己規定を問う以前に、人は無意識に社会的制度的な意味付けから、自己規定してしまう。また他人をまなざす際も、同様だ。

 一方、言葉を話さない男は、社会的な意味付け、ジェンダー感覚を身体化していない存在ともいえる。〈制度〉に裏打ちされた呼び名や話し方といった〈言葉〉が自然と関係性を規定してしまうが、男の場合は言葉によるコミュニケーションがない分、言葉による関係性の定義が問われない。若かろうが老いていようが、男は男、女は女にすぎず、行為さえできれば満足なのである。そしてただ行為だけしても、それはたしかに性交だ。男は、自分の姉が強姦されるのを目撃して初めて〈性交〉を知るが、その後も姉を襲って「チクショー」と呼ばれるなど、おそらく近親も老人も子供も性的な禁忌であるという文化的意識を持たない。誰もが成長過程でどこかしら性的な知識を得、禁忌といったものも自然と身につけてるものを、男は学ぶ場を持たなかった。端的に言えば、男の求める性交は、文化的社会的な意味付けを持たない性交であり、ジェンダーの外にある〈性交〉なのだ。

恐怖――「遊び」ではない性交

 最初はただの同情だったものが、初めて日暮山へ男を連れて行ってから、朝乃さんに「恐怖」が生じる。男の必死さや真剣に対する怖れだ。男の求めるものが「情事ではなく性交だけ」であり、それは「必要」なのであって、「遊びではない」と気付くのだ。ここでいう「遊び」という語を考えるのに参考になる、富岡のエッセイがある。

 「ヒトは一時的な「非日常」を求めるが、恒久的にそれがあるのをおそれる。/性の「非日常」性の中には、遊戯性が含まれている。「日常」化の中で糾弾されていたのは「遊び」という性の本性だった。/「おにいさん、遊んでいかない?」と娼婦がいったように、「非日常」の性は遊びである。(略)「遊び」の極限状態に接しているのは死である。「遊び人」や「バクチ打ち」が、薄気味悪いのは、かれらの遊びが命をはっているからで、素人のギャンブルの楽しみとはちがうからだった。性の場面での、エクスタシーとかクライマックスというのは、死への接岸(あるいはその幻想)に他ならない。」(富岡多恵子「性の非日常性」(初出「婦人公論」一九八三年一月号、富岡多恵子『富岡多恵子の発言1 性という情緒』岩波書店、一九九五年一月一〇日所収))

 性交の目的といえば「生殖」が一番とされてきたのだろうが、性交のまた別の目的は「情事」や「遊び」でもある。「情事」も「遊び」も、「日常」を活性化させる娯楽や嗜好品のようなもので、それがなくともほどほどに生活できる。「遊び」という「非日常」が続けば、それもまた「日常」となり、いつかは飽きてしまうものだろう。ただ、『遠い空』の男にとっては、異なる。性交は「遊びではなく」、「必要」である。それが一般人の感覚である朝乃さんからすれば異様であり、「拒絶すれば殺されないか」という恐怖を感じさせるのだ。やがて、男は朝乃さんに受け入れられなかったために、菅野ソヨさんを強姦し、殺人まで犯す。これも朝乃さんが予感していたように、男にとって「性交」が「必要」であり、「遊び人」や「バクチ打ち」ではないが、「命をはった」真剣さがあったためだ。「必要」は男の側からみれば犯罪を犯すのにもっともな、人間的な理由があったのだが、言葉でコミュニケーションがとれないために、そんな事情を説明し、互いに理解する機会もなかった。

 また、朝乃さんの恐怖の理由はもう一つあった。「男がいったい何者かまったくわからぬこと」だ。「普通の人間の男」が「忘れずに自分と性交するために」くるという事実がまずあり、さらには「なぜこの男の相手が自分なのか」という謎だ。どれも朝乃さんが今まで生きてきた、〈一般〉の感覚ではとらえきれない事実だ。何の理由もなく「「性交」させてくれるというだけで、朝乃さんのもとへ忘れずに来ることが、朝乃さんには信じがたい。〈性〉にも〈性交〉にも様々な理由があるものとしてきた人には、なんの理由も持たないこと自体が不可思議なのだ。それが「異形のものでなく、普通の人間の男」であるから、余計に理解しがたく恐ろしい。ましてや精神的にも肉体的も関わりができるといわれている行為を継続的に繰り返せば、理由がないこと自体が不気味にもなる。さらには男のある種の必死さによってつづけられている事実が、恐怖をより膨らませる一因でもある。

不快――「日常」への侵食

 ただ、〈常識〉の側にありながら朝乃さん自身にも少しずつ変化はある。性的なことから離れていた朝乃さんに、〈女〉としての感覚が見え始めるのだ。「山を歩いた男の汗のにおい」であったり、「息子たちの汗くさい下着を洗う時には感じなかった、他人の男のニオイをその時嗅いだように思え」たり、〈男〉を意識する感覚が、徐々に朝乃さんの生活、「日常」のほうへも侵食し始める。たとえば「女の学生の、スカートのひだが扇のように広がり、その前で、息子の三武郎がズボンをおろして、つっ立っているように見えた。(略)息子が突然どこかの若い男に見えたのだった」という風に、今まで気にとめなかった息子の年齢と性的な成熟について、意識する。〈家族〉〈母親とその十代の息子〉という日常の枠組みが抜けてしまった、一瞬の異化作用だ。

 二年前に夫を亡くしたものの、朝乃さんは息子たちを順調に育て上げ、家庭を守ってきた母親だ。やがて息子たちが孫を作れば、祖母となる人でもある。「女」を〈上がって〉(終えて)、家では「母」として生きる。それが朝乃さんにとって生活であり「日常」だった。平穏な「日常」が続いていくことが、一家を守る主婦としては一番の〈幸福〉で、家族や子供たちの成長、就職や結婚、子孫繁栄が喜びであり、またその家の時間の流れとともに歳を重ね、役割も変えながら、老いを受け入れていく。それが家庭の中での女性のあり方だ。そんな女性にとっては、〈女〉の感覚が目覚め、〈女〉へと再び立ち戻ることは、平穏な「日常」を脅かす、「異物」ともなりうる。そう考えると、三年目の五月二日、再び男が朝乃さんを訪れた時に生まれた不快感も理解できる。「異物が急に自分の空間にはまり込んできた」「家の外の光が透明にはりつめていた。それをおし破って、異様なものが入りこんできた」とあり、朝乃さんの「日常」を脅かす男は、もはや「異物」「異様なもの」となる。これも「日常」――〈生活〉であり〈人生〉そのものである「家」――への、男という「非日常」の侵食故なのだ。不快はさらに、その永続性への危惧へと発展する。

 男がこれからも来ると思うと、季節のめぐりが、ふいに「永遠」となって感じられてくるのだ。永遠に、見知らぬ男と性交をくり返す光景が見えてくるのだ。なぜ「永遠」でなくてはいけないのか、と朝乃さんは腹立たしくなってきているのだ。この秋には、長男の婚礼が決まっている。来春には、三男が高校を出る。それなのに、なぜ、永遠に見知らぬ男がきて、身振り手振りで性交を求めるのか。しかも、それがなぜ「永遠」につづくのか。朝乃さんはもう二、三年もしたら六十歳になるのである。

 見知らぬ男との「永遠」の性交。それは永遠の春と秋、永遠の〈晴〉、永遠の「非日常」だ。

 動植物は一生を春夏秋冬の一年サイクルでめぐり、春は生命の芽吹きであり発情期、秋は実りであり収穫期となる。人間にも春と秋の季節があり、人生七十年なり八十年のサイクルで区切られて、受け止められている。朝乃さんは人間社会のサイクルに沿って、一生のスケールの中で、人生の春と秋を歩んできた女性だ。「六十歳になる」という感慨も一般には秋であり、秋から冬へさしかかる年頃ともいえよう。人間の身体のリズムを考えてみても、実際に「永遠」に〈性的〉であり続けることもまた鬱陶しく、しんどいものだろう。だからこそ、〈家〉〈家族〉といった制度の中で〈役割〉を年齢ごとに分担し、性的な存在――「女」又は「男」――から〈上がって〉いくのも共同体の一つの知恵で、合理的なことなのかもしれない。 

 しかし、男はそんな知恵も持たず、〈制度〉も知らない。というのも、男自身が〈制度〉の外に追いやられ、〈制度外〉の存在として生きてきたからだ。〈制度〉のなかの四季ではなく、男には一年サイクルで春と秋が毎年訪れる。故に、共同体の秩序も倫理も知らず、ただ動植物が季節に誘われて春や秋を過ごすかのように、ひたすらに性交を求めるだけだ。

 「永遠の性交」となって迫る男と、それを追い払おうとスコップを振り回す朝乃さんの追いかけっこは、二人とも真剣なのに滑稽、滑稽なのにどこか笑えない、悲喜劇の様相を帯びる。男が日暮山に登っていくと、「なぜ逃げなければならぬ男に朝乃さんは待てというのか。(略)これでは逆ではないか。」と思いつつ、朝乃さんは山へ入っていく男を追わずにはいられない。そして「そんなところさいっても、なにもねえぞ」と叫びながら、結局は何度も行った「あの場所」までゆき、男に「モンペをおろせと手振りで命じ」られて、従う。これは何を表わしているのだろうか。ここにも本質的な訴えが、重ねられている。「そんなところさいっても、なにもねえ」という朝乃さんの叫びには、〈性交〉を突き詰めても何もない、なにも出てこない、なんの意味もないという、気づきが重ねられている。性交を繰り返しても「なにもねえ」のだ。これも一般的な社会的意味付けの〈性〉を生きる人々の、本音でもあるのだ。〈性交〉はそれ以上でも以下でもなく、いくら求めても「なにもねえ」。

 それにも関わらず、男を止めようと、追いかけずにはいられないアンビヴァレントな心理は、何なのか。山の中まで追いかけていき、再び「性交」してしまうのはなぜか。その瞬間、身体化された〈制度〉よりも、〈性〉に根をもつ本能的な情感といったら語弊があるかもしれないが、朝乃さんの身体性に根をもつ〈女〉の情感のほうが勝りつつあったのではないか。例えば、「家の外の光の中で見る男は、もう、性交を求め続ける「永遠」という異形には見えないのだった」という一行がある。「家」の中で見れば不快であったものが、「山」においては「異形」には見えず、自然なものに感じるのだ。『遠い空』において「家」や「山」という舞台は、象徴性の高い〈場〉だ。「家」は〈里〉でもあり共同体の中の生活、日常、家庭や家族、そこでの女性のあり方・生き方を象徴している。この「家」という〈里〉の感覚で見れば、男に対する恐怖や不快は増す。逆に、「山」は人間社会の秩序の外、日常生活において身体化されている制度から解き放たれた場である。それ故、社会的文化的ジェンダー感覚から解放される「山」での性交では、男は「異形」ではなく単に〈男〉であり、朝乃さんも単に〈女〉であり、「自然」となるのだ。男が〈制度〉の外の〈性〉を生きる存在とすれば、そんな男と関わりを持ったことが、朝乃さんを〈家〉の外へと連れ出し、はては山まで追いかけさせたのかもしれない。滑稽な追いかけっこには、〈制度〉側から見たときの男への不快と、〈制度〉以前の情感に動かされ戸惑っている朝乃さんの、心の揺れが表れていたのだ。

世界のはてのカカシ――人間的なさみしさ

 朝乃さんと男は「性交」をするだけであり、話すこともなく、筆談をするわけでもなく(男は文盲)、ディスコミュニケーションのままだった。言葉も文字も通じない、ただ身振り手振りと性交だけ。そんな男と朝乃さんの関係は、目の前にありながらすれ違う、通じ合わない人間同士の本質的なディスコミュニケーション、関係の不可能性をも体現している。それでも朝乃さんを男に対して開かせたものは、同情だ。まったくの見知らぬ男として不気味に思うも、関係を続けられるのは、そこに人間的同情があったからだ。同情は思いやりであり、思いやりは想像力である。わけがわからないが何かを訴えようとしている相手を、受け止めようとする想像力、感受性が朝乃さんにはあった。それが〈普通〉の〈平凡〉な「中年女性」である朝乃さんと、世間的に見れば同じような中年女性・菅野ソヨさんとの違いだと思われる。年齢ではなくて、その人の感性、心の違いなのだ。おそらく朝乃さんには、男の「さみしさ」を汲む感性があった。それも人間の根源的なさみしさにまで通じる、或る種のさみしさに、朝乃さんもまた共感し同情したのではないか。

 朝乃さんは写真で、男が畑仕事をしているのを見て異様な感じがした。あの、「永遠」の性交を求めてきた男とは思えなかった。破れた麦わら帽子をかぶって立っている姿はまるで案山子みたいだ。手振り身振りで、性交を求めた時のような、人間らしい目付がまったく感じられない。世界のはてに、ぽつんとカカシが立っている。/それにしても朝乃さんは、あの男が殺人者となって世間から消え去ったと思うと、心の底から安らぎを覚えた。と同時に、不思議なことながら、なにか拍子抜けがした感じもあった。季節が変わっても、戦慄がない。土から立ちのぼる、なま暖かい湿気を、初夏の風がさらっていく。それなのに、自分が、男というものがひとりもいない世界にカカシのようにつっ立っている気持ちがしてくる。

 「世界のはてに、ぽつんとカカシが立っている」「自分が、男というものがひとりもいない世界にカカシのようにつっ立っている気持ち」。これが男と朝乃さんの間に通じ合ったさみしさだった。自分と関係を結んでくれる他人を持たない、他人を求めながらも得られず、無性的な存在として、孤立して生きていかねばならないさみしさ。耳も聞こえず言葉も話せない男にも、中年女性の朝乃さんにも、そのような孤独の素地があった。それが男への同情となり、人間的な共感となったのだ。何も知らなかった男の名前や家庭環境、境遇を、朝乃さんは初めて殺人事件の報道で知る。ソヨさん殺人事件の報道や村人の噂話、息子の話を聞いて、朝乃さんは男を内心弁護しつつ、沈黙しつづける。そして朝乃さんの長い独白となる。

 まるで自分がソヨさんを殺したように思えた。そして、殺人犯のように、その殺意が説明できぬ孤独を感じた。わかられてたまるか、ともその時思っていた。ソヨさんを殺したのが、いったいどういうことか、だれがわかるものか、と朝乃さんは思ったが、その時自分があの男になっているのは気がつかなかった。(略)しゃべらなくてもわかるではないか、男が懸命に頼んでいるのだ、それがわからないのだから、殺されても仕様がない、と朝乃さんは殺意を正当化した。なぜ、コトバでいわなくてはわからないのか、人間が人間の前に立って、人間全体で頼んでいる、それを嘲ってことわったソヨさんは殺されて当然だ、(略)。ソヨさんは、年寄りだからことわったのではない、年寄りが若い者のいうことをきくのがいやだからことわったのだ、年寄りが若い者のいうことをきくとバカにされるからことわったのだ、若いからこわかったのだ、いやそれ以上に、若いくせに年寄りを女だと思ったことがいやだったのだ、年寄りなのに女だと認めたことがいやだったのだ、もう女ではないと思っているのにまだ女として役立たせようとしたことがいやだったのだ、そのためにまた今更無理矢理に女に立ち戻らせられるのが屈辱だったのだ、つまらない屈辱ではないか、女のくせになにが年寄りだ、年寄りだって女は女ではないか、と朝乃さんは自分があの男になったようにソヨさんをたったひとりでひそかに弾劾していた。

 一気に吐き出したような独白だ。講釈をつけるのも蛇足かもしれないが、あえて言うならば、これは言葉を持たないために声をあげられない男、人に理解されない殺人犯のための代弁だ。朝乃さんは時に女性の側からソヨさんの心理を細やかに分析して裁きながら、「自分があの男になって」「自分があの男になったように」、殺人に至った心理、殺人事件が起こった理由を説明し、訴える。「なぜ、コトバでいわなくてはわからないのか、人間が人間の前に立って、人間全体で頼んでいる」とさえいう。おそらく男自身も、自分の行為や衝動をここまで理解できてはいなかっただろう。たださみしさの中でしゃにむに突き進んだ結果の、すべてなのだ。それが朝乃さんの声によって、男の行為が実に人間的な切実さとなって提示される。男の声を、自分の声として語っているうちに、朝乃さんは男で、男は朝乃さんになってゆく。朝乃さんは男の声を叫ぶことでまた、自分の想いも代弁しているのだ。「世界のはてのカカシ」として、誰に理解されずとも、届かずとも、叫ばずにいられない衝動かもしれない。ここにきて、推理小説のような文体で始まった「菅野ソヨさん殺人事件」が、朝乃さんという中年女性の一種巫女的な語りによって、人間の「必然」による犯行、一つの文学的な「殺人」となる。

三、障害を持った男の〈性〉

――「日暮山の男」の場合

 男は「言葉を聴くことも発することもできぬひと」で、初めて朝乃さんの店を訪れた時は二六歳だった。五人兄弟姉妹のうち、末の妹を除き、二人の姉、弟も聾唖だ。それも「男の兄弟姉妹は、きわめて濃い血縁結婚から生まれていた。父親と母親はイトコ同士であった。しかも、父親の父親と、母親の父親もイトコ同士」「さらに、その両者のそれぞれの父母は、二組の兄妹が入れちがうように結婚して二組の夫婦になっていたのだった」とあり、血族同士が結婚を繰り返してきた家に生れている。男の聾唖という状態から、音のない世界で更に言葉を持たないという点だけでも、外界とコミュニケートできない閉鎖的な世界を思い浮かべるが、男の家庭環境が語られるとき、さらに閉鎖的な、内向的な家庭が浮かびあがる。他人を迎え入れずに、〈家〉の中で血縁だけで内へ内へと結びついた結果、男の兄弟姉妹のように「言葉を聞くことも発することもできぬひと」たちが生まれた。男もまた、閉鎖的な〈家〉の犠牲者の一人であり、〈家〉的なものの犠牲の象徴としても読める。前述したように、男は学校にも通わず友人知人もいなかったようだから、成長過程で得る知識や知恵を少ししか持たない。性的なことについても、初めて知ったのは、十一歳の頃、上の姉が強姦されているのを偶然目撃したからだ。その行為がどんな意味を持つか知らないまま、男もまた十五六歳の時に上の姉をつかまえて性交を求め、杵を持った父親に追いかけられるという体験をもつ。皮肉なことに、父親は「チクショウみたいなことするでねえ」と男に叫んで怒った。自分や自分の両親もまた近親婚を繰り返しているのにもかかわらず、だ。外界と接触する方法を持たず、他者や異性に出会えない極めて閉鎖的な世界で、男が身近な異性を求めれば姉となってしまったのだ。また性的な知識や常識を学んでいない男には、女は女であり、何故姉を相手にしてはならないのかも、理解できなかったかもしれない。

 文化的・社会的な〈制度〉を何一つ身体化させていない男の感覚。その感覚は一般社会では受け入れられず「チクショウ」と呼ばれ、教育を受けられなかった哀れな〈障害者〉とも受け止められるかもしれない。が、裏返せば、一般的な人々のように文化的社会的意味付けに縛られず、自由な価値観、自由な〈性〉を持てた人間ともいえる。ジェンダーの外にあったからこそ、「おばさん」も老婆も、彼が「女」と思えば「女」なのだ。富岡多恵子の作品評価では〈性の解体〉がよく言われるが、この男に関してはより文化的な〈性〉から離れて、〈制度〉に染められていない存在だ。男には一般的にセックスにおいてあるとされる「目的」も「意味」もないことから、「性交」が単に方法、人間の表現であるといった描き方もできたのだろう。朝乃さんの感覚から読むとき、男は「永遠の性交」となって不気味な印象を与えられるが、男の視点を追っていくと、「性交」はむしろ他者との関わりやコミュニケートする方法としてもっと切実な問題として提示されている。なにより、男にとって朝乃さんは特別な存在であった。

 朝乃さんは、男にとってただひとりの知人であり、友人であった。性交の他になにもかかわるものがないけれど、ただひとりの知人であった。学校へ通ったこともなく、家族の他の人間や世界とかかわりようがなかった。朝乃さんは、はじめてかかわりをもった他人であった。性交が終わると、男はいつもすぐにそこを立去った。その感想、というとおかしいが、よろこびなり満足なり感謝なりを表現することは困難だったし、朝乃さんの方も、男のそういう抽象的な表現を引き出す能力も根気もなかった。

 男は初めて、家族以外の他人で、言葉を持たずとも意思の伝わる、かかわりをもてる人を得た。それが朝乃さんだった。他者を知らない閉ざされた世界から、身振り手振りとはいえ彼の〈ことば〉をわかってくれる「他人」を得たのだ。「性交の他になにもかかわるものがないけれど」、他人と関われること自体が、彼には貴重なことだった。他人とのコミュニケーションの方法・関わり方がわからない男が、性的接触〈性交〉により、まるきりの他人と初めてコミュニケーションをもてたことで、それは「必要」となった。唯一外界に開かれた窓が朝乃さんであり、〈他者〉への渇望、他者と結びつくことへの渇望が切実であった男にとって、性交は「遊び」ではなく唯一のコミュニケーション、大事な「必要」だった。朝乃さんの姿が見えず、日暮山へ朝乃さんを探して入って行った時の男の彷徨には、「どうしても」という必要性がにじみ出ている。

 しかし本当の悲劇は、もうひとつ別の次元で起こる。日暮山の男にとってはじめは、声や言葉を持たないことが〈障害〉=〈人とコミュニケートする際の壁〉であった。朝乃さんと出会ったことで、一般の人が使う「言葉」を持たずとも、身振り手振りで意思表示をすることで、偶然にも関わりをもつことができた。が、菅野ソヨさんに同じ手振り身振りをした時、拒絶が再び突きつけられる。ソヨさんの拒絶には、単に声や言語、サインのあるなしが問題なのではなく、その〈ことば〉をキャッチする感性が受け手にあるかどうか、受信されるかどうかであり、かつ受信したところでそれに対して相手が同意するかどうか――心の問題が横たわるのだ。「男は、朝乃さんにしたように、指で性交を表現する記号を示しつづけた。男は、ソヨさんが自分の要求をわからないのだと思った。朝乃さんにわかったことが、ソヨさんにはなぜわからないのか不思議だった」。相手が違えば、自分の〈ことば〉も通じるかわからない。ましてや伝わったところで、その訴えを承諾するかどうかは、個人によって全く異なる。他人にもそれぞれ別の個性、個別の意思があることを、男はまだわかっていない。ソヨさんの登場により、前項で述べたように朝乃さんの同情や共感といった感受性が、男とのコミュニケーションを成り立たせていた側面も明らかになる。朝乃さんの側に男を受けとめる感性もあったからこそ、二人の関係は成り立っていたのだ。

 男は、朝乃さんの拒絶にも「スコップを振りまわしたけれども、自分を追いかけて、あの場所まできて、いつものように性交したのだから、拒絶されたとは思わなかった」とあり、「チクショウ」という父の叫びも、「四人とも殺しておけばよかった」という母の叫びも「知らない」。男は意思表示がうまくできないと同時に、他者の意思を汲みとるのが困難なようだ。他者と触れ合うことの少なかった男は、他人に意思を伝える方法も知らず、他人に個別の意思があることもわからなかった。今までは、相手の意思が分からずとも、なんとはなしに通り過ぎられた。けれども、菅野ソヨさんの拒絶だけは、男にもはっきりとした〈拒絶〉として伝わった。ソヨさんとの遭遇は、男が初めて本当の意味での〈他者〉――拒絶する他者、他者との壁――を知った瞬間だ。伝わらない〈ことば〉、受け入れられない想いに、男は「とてつもなく奇妙な声をあげた」。その「とてつもない奇妙」さが、痛々しい。人と人とのディスコミュニケーション、関係の不可能性に対する、焦燥、怒り、悲しみの叫び声のようだ。他人と関わりをもつ方法を知ってしまった男が、ここにきて初めて知った失望だ。初めて音声として他人の声を聞いたのがソヨさんの悲鳴であり、男が「動転し恐怖する」のも象徴的だ。滑稽だけれど哀れな、哀れとしかいいようがない、男の殺人だった。

四、おわりに――「山」・原始の〈性〉の世界へ

 「性交」の意味が無化され、残ったのは、通じ合わない者同士の関係の不可能性。それでも通じ合える何かが男女の間にあるとしたら、一体それは何なのか。その追及が、中年女性と聾唖の男性の関係を使ってなされた。結果、「性交」を通して、〈年齢〉も〈性〉もこえて通底している人間の孤独、さみしさ、そして人を求める心、他者への渇望が浮かび上がった。「永遠の性交」が本作読解の柱の一つならば、「世界のはてのカカシ」という言葉も本作の柱の一つである。また題名は『遠い空』だ。作中「男と性交した時の日暮山のあの場所、かぶさってくる男のうしろに見えた空の遠さ」とある。「世界のはてのカカシ」も、「永遠の性交」の「永遠」も、茫漠とした広がりと奥ゆき、気の遠くなるような空(くう)が連想される。遠く茫々として、空っぽなのだ。そして男と朝乃さんが「性交」をする春と秋の山には、ゼンマイや蕨、キノコといった胞子で増殖する無性生殖の植物たちが繁り、淡白であわあわとしながらも少々不気味に揺れている。これらの植物の「無性で増殖していく」「胞子を飛ばす」といったイメージも、相手を求めてさまよいながらも得られず、一人発情していた男のようだ。〈性〉は機能しながらも〈上がった〉存在として無性的に暮らしていた朝乃さんも、ゼンマイや蕨、キノコを摘んでいた。これも象徴的行為だ。他を受け入れる素地がありながらも、社会的には単性的・無性的とされている人々が、「山」へ集まっていたのではないか。

 作品全体を包む「遠い」感覚といい、蕨や茸が揺れるあわあわとした景色といい、『遠い空』の「山」には、社会的意味合いが取り払われた〈性〉の世界が象徴されていた。共同体である 〈家〉や〈里〉側から読めば『遠い空』の主題は「永遠の性交」「借金取り」となり、おぞましい〈人間の業〉ともなるが、その背景に広がるのは〈制度〉の枠組みで捉えられない、原始的な〈性〉の世界でもあった。たしかに結末では、男の弟を受け入れて、再び「永遠の性交」のサイクルに引き込まれそうになり脱力している朝乃さんがいる。「山」での永遠の生活があるわけではなく、「家」での日常生活の中で男が繰り返し現れれば、それは「不快」であり「脱力」になるのはもっともだ。それを「平凡」な主婦の限界として、富岡多恵子はまた突き放し、〈主婦〉を描ききっているのではないか。とはいえ、『遠い空』の〈永遠〉を喚起させる「遠い」感覚に、際限のない〈性〉の広がりと自由を予感しつつ、なおも朝乃さんの「永遠の性交」への苛立ちや不快に同情してしまうのも、読み手である私の〈常識〉が強固だからかもしれない

※本文は、講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見.2 性の根源へ』(講談社、二〇〇一年六月)より引用した

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

  • URLをコピーしました!
目次