三ヶ島葭子論――〈月〉を生き、「われ」を詠う

沼田真里

目次

はじめに――〈書く女〉としての葭子

 三ヶ島葭子。一九〇六(明治三九)年埼玉に生れ、四二歳の若さで没した、大正の女性歌人だ。葭子の創作活動期は、おおまかに『青鞜』の時代(明治四五~大正五年)、『アララギ』の時代(大正五~一〇年)、『日光』の時代(大正一一年~晩年まで)の三つに分けられる。『女子文壇』や『スバル』に投稿し、『青鞜』の同人として短歌を発表した初期は与謝野晶子に師事し、『青鞜』に発表された歌の多くも恋や情熱を詠った、耽美な作だった。そこには中期から晩年の彼女がみせた現実世界の懊悩はない。彼女の代表作にみられる実直な現実凝視の詠風は、『アララギ』の島木赤彦入門後にその個性を開花させる。結婚すると共に始まった経済的困難、出産と育児、夫婦の葛藤、病弱な体に悩む日々が、写実的な詠風を求めさせたともいわれている。 

 その実直な詠風から、葭子の歌には、耐え忍ぶ女といった〈旧い女〉像も思い浮かぶ。しかし『三ヶ島葭子日記』を読むと、短歌の印象とは異なる女性像があらわれる。葭子自身はきわめて意志的に物事を考え、自己の生活や生き方を志向する女性、そして〈書く女〉だった。彼女にはもっと強い自己、自意識もあったのではなかろうか。『アララギ』時代の歌は、夫の暴力や心離れが主題の一つだが、彼女をそのまま〈虐げられた女〉としてとらえていいだろうか。彼女の日記を前に、そんな疑問が思い浮かんだ。葭子の歌には、実体験を詠いながら、それらを突き放して見つめる視線も感じられる。写実的な詠風で、緻密な構成をとり、時にドラマティックに〈夫婦〉を詠いつつ、常にあるのは「われ」を見つめる眼、「われ」とつぶやく女性歌人の自意識だ。『青鞜』時代にはまだ開花しなかったが、彼女の〈女の闘い〉〈自己表現への挑戦〉は、以降の創作活動に引き継がれている。本稿では特に〈夫婦〉を扱った連作をとりあげ、女性表現として再読を試みる。また晩年の〈生活〉〈病〉の歌も分析し、最終的に彼女がたどりついた境地も考察したい。

うらさびしき世に生きながら――夫婦の歌、女の歌

 葭子の夫・倉片寛一は、回覧雑誌を作るような文学青年で、葭子が小学校教諭だった頃に知り合い、恋愛に進み結婚した。倉片が葭子の才能に惚れたともいわれ※1、生前も葭子の歌集を出すために奔走し、様々な雑誌から原稿依頼をとりつけ、葭子の創作活動には熱心だった。が、年下の夫は大変な短気で、何かにつけ怒鳴り手をあげる男でもあったようだ。病弱な葭子との夫婦生活にも齟齬があり、次第に心がすれ違うようになったという。皮肉なことに、葭子が『アララギ』で最も評価された連作「なやみ」(一九二〇・一)は、その夫婦のすれ違いを舞台に、妻の悲嘆と懊悩を詠った歌であった。

訴ふべきなやみにあらず声立てて泣けば寂しも人あらぬ部屋に
酔ひたまへばよそ着のままに這ひゆきて床に入る舅(ちち)の眼はよく開かず
後合せに寝ねたりければちちうへの博多の帯にわが足触れつ
言葉早くあやまりがたしこの夫(つま)の怒りやすきを知りつつわれは
昨日(きそ)の怒りそのまま持ちて帰るべき夫を思ひつつ火鉢に炭つぐ
うらさびしき世に生きながらあやまちを繰かへすわれとそを怒る夫と
いひわけの手紙もさすが書きかねつ火鉢の縁にうなだる今は
目覚めをれば冷えゆく床にいひわけの手紙の言葉考へてゐたり
物干の日向に靴を磨きゐる向ひの妻はものおもはざらむ

 まず〈訴えるべき悩みでもない〉と言いながら、人のいない部屋で声をたてて泣く女の姿がある。客用の布団もない貧しさにあって、酔った舅と共にたがい違いに寝る嫁という異様なこの光景は、葭子が、夫から強要される性行為や暴力に悩まされていたことに照合するのかもしれない※2。舅が息子夫婦の家を訪れて泊まっていくなど、家の狭さからも、一般には鬱陶しいにちがいないが、葭子にとっては夫の性強要や暴力から身を守る好機となり、安らかに眠れたのだろう※3。これが葭子の現実だったとしたら、あまりにも酷ではないか。夫不在で迎えた朝、火鉢に炭をつぎ、昨日の怒りを抱えたままの夫の帰宅を思い、どう迎えようかと妻は悩む。「あやまちを繰かへすわれ」と妻は非を認めているようで、「いひわけの手紙」を考えつつ、「言葉早くあやまりがたし」と思ったりと、夫の気の取り直し方を様々に思い量るところには、どこか夫の怒りをもてあまし、夫をももてあまし、途方に暮れる妻の寂しさがある。妻の「あやまち」とは何だろう。夫の気に入るような態度をとれなかったことか。そして「なやみ」に描かれた世界は、「われ」と「夫」だけの悩みではなく、「向ひの妻はものおもはざらむ(向いの奥さんも物思いをするのだろうか)」と、その対象が〈向いの家〉にまで広がり、「われ」と「夫」の個人的問題から、〈妻の問題〉〈夫婦の問題〉、女の自我の問題にまで思考は深められている。

 こうして、人のいない部屋で泣く女の姿が、夫と分かり合えない妻の孤独な涙となり、「うらさびしき世」に生きるからこそ頼り合うべき相手でありながら、分かり合えない夫婦の、男女両性の相克の痛みとなる。それは、さらには、〈男女〉〈夫婦〉の普遍的な〈なやみ〉となっている。夫婦の諍いや心のすれ違いを単純に嘆くのではなく、連作「なやみ」の主題は、夫婦・男女関係そのものに対する諦念、一番身近にありながらわかりあえない者たちの寂しさ、〈なやみ〉なのだ。この悩みは飛躍的にいえば、漱石の「行人」で追及される一郎の夫の側からと、お直の妻の側からの七転八倒の苦しみでもあっただろう。

 葭子は小説も書いたが、短歌にあっても「『私小説』の叙情化」※4と評される。夫婦を詠った歌は、ただ事物を写生するより、連作としての構成力により一つの物語を作り上げ、題材もドラマティックなものが多い。『アララギ』の合評でも、石原純は「なやみ」を「其の内容的価値に於て、世間のいい加減な小説は此の短い一篇の連作のまへに死滅すべき筈」「人間生活に即したこの複雑な事象を韻文に於て歌ふことが出来た」と評価し、島木赤彦は「なやみ一連の作を通じて痛切な感じが充ちてゐる。之で事件が目立たなかったら非常な作であると思ふ。『後合わせに寝ねたりければ』の歌、痛切な感じが充ちてゐると共に、事柄が際立ちすぎる」と、「事件」が突出した点を指摘している※5。島木がいう「事件」の中身は、夫婦の諍い、舅とたがい違いに寝る嫁という異様な状況のどちらも含むだろう。〈怒る夫/戸惑う妻〉という家庭内事情を妻の視点で詠ったこの連作は、同時代からは「事件」を感じさせる異常なものとして受け止められていたようだ。

 一九二〇(大正九)年二月から、倉片は大阪へ転勤し、葭子は病弱のために一人東京に残る。同時期に、葭子の親友・原阿佐緒と石原純の恋愛騒動があり、葭子は一時阿佐緒と同居し、同年一二月には阿佐緒と共に関西方面へ下り、大阪の倉片を訪問している。この時倉片の身の回りの世話をしていたのが、会社の経理課勤務の徳田富野だった。このとき、富野と倉片が愛人関係に陥っていたことなど知る由もなく、単身赴任の夫の不自由を思いやり、世話する葭子の心は弾んでいる、「はるばると夫の仮住おとづれ小さきばけつにしやつを洗へり」(『アララギ』一九二一・二)。「なやみ」における夫婦の葛藤は、連作「なげき」(『アララギ』一九二一・四)に引き継がれ、さらに遠く離れた夫との心の距離、別離の予感が見え始める。

断ちがたき思ひなりけりこの心いまはみづから苦しむにまかす 
手紙やれどかへりごとだになき人のふと帰りこん今日かと思ほゆ
きぞの夜は嘆きつかれて眠りけりめざめて今朝は手紙を書くも
必ずいつか我の心にかへりこん君と思ひつつ涙とどまらず
おほかたにはかりがたかる夫(つま)のこころこのかへりごといかが書くべき
おのづから人や優しき日のあらんおのれゆめゆめ疑わずあれば
わが夫はすこやかにして朝ごとにわが炊く飯(いひ)をうましと言ひしか
先生の話なかばにいたづらをはじめし吾子をただにまもれり
眠たきを起されし子は起きあがり笑ひ顔しつつ眼開きえず

 「断ちがたき思ひ」があり「苦しみにまかす」妻。「なげき」の中身は語られないが、やがてそれは決定的な夫の心離れだとわかる。手紙の返信を書きあぐね、よく見知った筈の夫と思いこんでいた、その夫の心の内の真実がわからない苦悩、人の心ははかりがたいものであるという事実が厳然と提出される。以前の連作「こころ」(『アララギ』一九二〇・八)では、「あまり知りたるわが夫なれば」と詠われ※6、諍いはあるものの、夫婦の心は繋がっていると思いこんでいたのだが、スピリットの交流も失われていたことを思い知る。疑念など抱かず信じきっていれば、その真情を受けとめ優しくしてくれるのではないかと、希望的期待を意識的にとりこみ、自分を励まし、以前はありふれていた夫婦の日常を、まるで夢か幻だったかの如く思い出す。夫から心離れを告げられた妻の内面世界、「われ」の心の揺らぎがあますことなく詠われている。夫婦の心の離反は、愛しい我が子に転じられ、その屈託のないさまが、前半の夫婦の悲劇と対照的で、連作の中で光と影を作る。もはや夫の心を失い、この子あっての「われ」という思いや、両親の葛藤とは別に、なににも染められぬ子どもの無邪気さを心の癒しとし、哀れさが結びとされている。

 この後、ついに葭子と倉片の夫婦関係は「生けるものを死にたるものとあきらむるわれの心の堪へられなくに」(『アララギ』一九二一・六)とまでになる。一九二一(大正一一)年四月、倉片は富野を伴い上京。以降、一九二四年三月に倉片と富野が転居するまでの二年間、病身の葭子が一人階下に住み、倉片と富野は二階で睦まじく暮らすという、葭子には耐え忍び難い生活が続く。連作「夫帰る」(掲載誌不明、一九二一。以下九首の内七首)では、妻の絶望や混乱は薄らぎ、静かに夫の心情を思う「われ」の姿へと変化している。

春の夜をさびしくもあるかひたすらにものを思へる夫といねつつ
この夫の心つなぐに足らはざる我とも知らでひたに待ちゐし
妻われに心はばかり朝に夜にためいきもらす君をいかにせん
明日よりはよそにおきふしするといふ夫の心をしづかに思へり
みだれ来る心抑へんすべをなみ軒ばの草をひとりむしるも
つつしみを知らぬやからと怒りつつおのが妬をひそかにおそるる

 寒さもやわらぎ、人の心も自然とわき立つ春の夜。もはや同じ床にあっても、別々のことを物思う夫婦だ。妻は、物思いをする夫の様子を見守り、「さびしくもあるか」と詠う。そして、「夫の心つなぐに足らはざる我」と、妻としての自分を反省する心情も混ぜつつ、妻である「われ」に心を隠し溜息をつく夫を、憐れにも思い、同情する風にもとれる。が、これは妻にとって屈辱であり、言い知れぬ嘆きであろう。表情に出せばかえって悪化することを恐れ、息を詰める自分を、弱者の位置におしこめた苦悩もよみとれる。そしてついに「明日よりはよそにおきふしする」と知らされるも、その衝撃的な事実よりも、そう決めた夫の今の「心」のありようを、静かに想像し思いやる。自分の悲しみや怒りよりも、諦めが勝っているのか、冷静だ。とはいえ、心の中は激流に渦巻いていただろう。「みだれ来る心」に対峙するのは、一人になってからというのが切ない。冷静さの裏に抑圧された感情があり、それを「ひそかにおそるる」自分がいる。連作全体をおおう静けさの中で、最後の一首だけ強い感情が表出される。夫とその愛人への「妬」の噴出はとどめようもない。自分すらおそれる「妬」が溢れだした時、この静けさは一挙に崩壊すると、己れのこころの内をのぞく。

 葭子の歌には、渦中にあって出来事を冷静に観察する眼が常にある。〈夫婦の歌〉では、妻の心を鮮明に詠いつつ、夫と自分のありようを冷静に凝視している。これも葭子の自意識の強さゆえかもしれない。しかし怒りや憤りの感情が消えたわけではなく、彼女の内には、語りつくせない感情が渦巻いていたはずだ。

みづからをあざむくまでにこらへゐしわれの心は知る人なからむ(未発表・一九二一)
これの世にいのちながらへ見るまじきものこそつひにわが見たりけり(『常春』一九二二)
うつそみの深きさだめと思ひつつわが下心つねに怒れり(『婦之友』一九二二)
たまゆらのわれの心に漲りしかの憎しみを人は知らぬなり(『真人』一九二三)
たまきはるいのちひとつを守りなん今宵焼けば焼けよわが家(未発表・一九二二)

 右の一連の歌には、身の置き場も、心の置き場もどこにもない、彼女の辛さが滲み出ている。夫が他の女性を家にあげ、同居させられた妻の立場や心情がどのようなものであったか。夫や愛人に、葭子の心情はわからないだろうし、ましてや彼女に同情しつつ、下世話な視線でも見るだろう世間の人にも、わからないものだろう。もはや自分で自分を欺くことで耐えるしかないと観念するが、見てはならないところを見てしまう。「見るまじきもの」「見たりけり」と〈見る〉が繰り返され、図らずも目撃した夫と愛人の実態が強調される。彼女の怒りは、目前の二人に対する怒りから、人間の情欲そのものへの憎悪にまで達しているようだ。葭子がいることを知りながら、同じ屋根の下で欲望を満たす二人に、人間以前の〈けだもの〉を見たのではないか。これらはすべて「うつそみ」、現世を生きるがための運命だと思いはしても、「怒り」は常に心に隠れていると吐露し、「たまゆら」という優しく儚げな語感で始まるが、「漲る」によって一瞬の怒りの激しさを表出せずにはいられない。表面にある静けさと、内面に隠された激しさの二つが常に、危ういバランスで均衡を保っている。だが、真実は、内に隠された怒りは、奔流となり溢れ出る時を待っていたのだろう。関東大震災で被災した際の歌には、命は守ったものの、夫とその愛人が同居するこんな家なぞ焼けてしまえと詠う、この激しさ。「わが家」の一語にこめられた愛憎が、どれほどのものだったか。炎で燃えあがる家のイメージが、それを物語っている。

 夫からの暴力暴行、わかりあえない心と心、別居、愛人を連れ込んだ夫との同居生活。人としての尊厳も、慈愛のかけらも、妻には与えられない夫婦関係でも、夫への愛を完全には棄てられない自分。病弱な故に一人で自立することもままならない現実。葭子は「ひたぶるにたづきのみちを考へをりはかなき命もてあますわれは」(『アララギ』一九二一)とも詠った。これらの状況で、嵐の海に浮かぶ船のように、葭子は女の苦悩をただ味わうしかなかった。この苦悩を一人胸の内にとどめ、家内の出来事として沈黙することもできたはずだ。当時の多くの女性は胸一つにとどめ、耐えていたのかもしれない。この時代に限らず、この種の涙を流しながら、経済的自立不能ゆえに、耐えぬく女は少なくないだろう。だが葭子はただ堪えるだけでなく、決然と詠みあげ、自己の〈女の苦悩〉を社会化させている。葭子には〈書く〉行為が残されていた。「私はどうかしてこの自分の踏んで行つた道だけをこの世に遺しておかなければならない。私の考へたことはそばから消えてゆく。(略)その寂しさに堪へられない。私がものを書かずにゐられないのはあたり前ではないか」(『日記』一九一七・五・二〇)。書かねば、詠わねば、消えてゆく声。女性として体験した懊悩を、歌にすることが自己を救う術であり、家の内で孤立している女たちの声を残し、〈女たちの闘い〉へと繋がる、唯一の経路と考えていたのではなかったか。

 葭子の〈夫婦の歌〉に表れる「われ」は、男女相克の痛みの中で「夫」と相対す。それは、容易にわりきれぬ自己の心情に直面する行為でもあった。妻を裏切り、酷い仕打ちをする夫を完全には憎めず、彼への愛情を棄てきれない真実。その真実にぶつかる度、葭子は立ち止まる。そして、理屈ではわりきれない人と人との関わり合いや愛情、自己の生々しい心の葛藤もそのままに、「われ」として詠った。そんな「われ」は、波乱の夫婦生活を一対の男女の営みとしてながめ、自分自身を見つめている。自己表現への渇望。短歌にせよ、日記にせよ、文章表現による自己救済が、彼女に残された唯一の希望だったのだろう。

 また、これほどの残酷な日々が詠われながらも、倉片が葭子の処女歌集を出すために奔走し、別居後も経済的援助をした事実を考慮すると、他人からは図り知ることのできぬ、二人の絆があったとも感じられる。そう考えると、何故これほどまで悲惨な状況に陥りながらも、葭子の歌に、夫を思いやる心が最後まで残り続けたのか、その理由もわかる気もする。〈夫婦の歌〉は、夫批判、制度下社会での妻の立場の苛酷さの告発というより、やはり愛の歌とも読める。愛し合い、頼るべき相手でありながらも、最後まで重なりあえなかった男女の歌だ。その〈愛情〉の中身を、単にロマンティックな夢物語ではなく、血の流れるような夫婦の厳しい葛藤として描ききったからこそ、リアリティがあり、今日の私たちに感動を与えるのだろう。

おのづから眼とぢて祈るこころ――病の歌、いのちの歌

 一九二四(大正一三)年三月、倉片が富野と別の家へ転居したのち、葭子は再び独居となる。が、同年八月に脳出血を起こし、右半身不随となり、一時は話もできず文字も書けず、作歌不能にまで陥る。以降は一九二七(昭和二)年の死まで、常に病気がちで、死にむかって一進一退をくり返していたようだ。長年結核を患い、病弱だった葭子は〈病の歌〉も多く残しており、特に晩年は〈病〉の当時者ならではの心境が詠われ、これらの歌は優れたものが多い。齋藤茂吉は、葭子の歌を「万葉歌人の風格に相通じ、末世の専門歌人等の到底企図しても成就不能の境涯」と評し、「何にしても晩年の諸作は、自在で朗らかで楽々と歌ひ上げてゐるやうで、もはや誰にも何れの場合も出来ると云ふ境地ではない」と評価している※7

 脳出血後の病床にあって作られた「名忘れし蟲」(『日光』一九二五・五。以下十五首の内八首)には、一時半身不随となり、話をするのも文字を書くのも不能になった状態が描かれている。

筆とれば墨いたづらに紙をぬりて文字の形一つも成らず
秋の夜の月明きまどになきいでぬ名を忘れし蟲のこほろこほろと
寝がへれば氷まくらの氷の音ひそかに我の耳にきこゆる
弱き身は早くすたれり天地のかそけきものも歌ひ得ぬ病
苦しければ死なんと思ひたちまちにこころよければ癒えんと思ふ
いねてきく枕にひびくここちよさ長屋の軒のもちつきの音
頭悪きわれにはあれど生きてあるほどはまれにはよきこと思はん
やうやくに人によみ得る文字書き得しはがきの言葉おのれうれしかり

 書きたい意欲と裏腹に文字の形もなさぬ、書けぬ辛さがまず詠われ、秋の虫の音を聞きながら、その名すら思い出せず、脳へのダメージを感じさせる。文字も書けず、虫の名前も思い出せない、歌人としての危機が提出される一方、「こほろこほろ」の音で飄逸な味わいがでる。まだ生きているのに、心を動かすその現実さえ詠えない、病弱な自己の肉体への嘆き、無力感が、惻々と読者の心に伝わってくる。しかし、この連作は悲惨さにとどまらず、「氷まくらの氷の音」や「もちつきの音」など病床での繊細な感覚が常に添えられ、万事不能な状態を詠いながらも、生きていることの有難さをしみじみと思う。判読可能な文字を書けるまでに回復した喜びは大きく、その喜びを、読者も作者と一体となって嬉しく感じられる。これらの歌には、病床にあって自分なりの楽しみや喜びを見出し、一条の光をみる姿勢で共通している。

 そしてその後の「をりをりの歌 その五」(初出誌不明、一九二五。以下十一首の内八首)では、

前よりは気取るところがなくなりて病気の文字の上手になれりといふ
いふことの巧みになればおのづから思ふことども賢しくならむか
おのづから歌作るこころも無くなれり一日も長く生きんと思ふに 
ははこぐさ小さく一本咲きにけり高き石垣の下のところに
この坂を今年はじめてのぼりたりそれほど疲れず明日ものぼらむ
味噌汁の今朝はうれしも大根の千六本の細かく切れたり
花の数乏しくなりぬ夕顔のひらく蕾は露けかりけり
子供らがつかまるによき棗の樹幹すべらかに年ふりにけり

 手紙か歌か、どちらにしても「病気」の文字を書くにも「気取」りがなくなり「上手」になったという。ともすれば深刻になる〈病〉の境遇は、「病気」と書く時も、自ずから痛切な字、力の入りすぎた字、頼りない字にさせる。自分の〈病〉を伝える際、どうしても力みや気取りが生じてしまう。おそらく相手との関係の濃淡から、相手にどう響くかまず考えてしまうのだろう。「病気の文字の上手になれり」には、自分の声からそんな語りの上滑りが消え、力が抜け自然体になり、状況を肯定できた人の明るさがある。さらに、語り方や言葉の「巧み」さが意識化できるようになり、「賢しく」なったと、その境地を他者の視点で自己評価している。さらに進んで、作歌に対する執着さえも手放し、「一日も長く生きん」と、生命への渇望と賛歌になる。また「歌」を「作」らずとも、日々の生活がそのまま「歌」になっていくともとれる。その後の歌では、石垣の下にみた「小さく一本咲」く「ははこぐさ」への愛しさ、味噌汁の具が千六本に細く切れたことを喜び、数が乏しくなりながらひそやかに花開く「夕顔」が露に濡れるのを眺め、近所の「子供ら」が遊ぶ「棗の樹」の幹のすべらかさと成長を思う。とりとめのない日常の細部に喜びを覚え、草花でも小さいもの、ささやかなものを詠い、味噌汁を詠うなど、飾らず巧まずの精神が生きている。このように読んでみると、第五首などは、体調を持ち直して、今年初めて坂を登られた喜びを詠った歌だが、単純なだけに太い線を感じさせられる。おそらく、道行く人たちには、坂を登るなどはなんのこともない日常行為だ。しかし病床からやっと離れられた人が、久しぶりに自分の足で歩いた感動が、なんでもない行為を〈歌〉にさせている。そして、この「坂」は日々の暮らしや人生にも重なる。昨日が無理だとしても、今日は登れるかもしれない。そして今日登れたならば、また明日もこの坂を登ろう。なんでもないことなのだけれども、そのくり返しが嬉しく、愛しいのだ。今日も明日も坂を登るという行為自体に、くり返される日常生活が重ねられ、さらに大きくとれば「坂」自体が人生であり、人生賛歌なのだ。

 穏やかな日常生活のくり返しに、かえって喜びや楽しみをみつける。そんな感動が晩年の歌には見出される。これも葭子が一度死にかけた病人であり、人生の様々な修羅場を通った暁に一人で生活していた女性であったことも関係しているだろう。このときの葭子は、病身のため子供も所沢の夫の生家に預け、富野と共に暮らす夫とは別居状態であった。病に臥しながら一人暮らしていた葭子の晩年だが、〈晩年〉といっても三〇代後半から四二歳の頃であり、すでに心境は老年の達観をみせている。一見、すべてを失った孤独な人のようでもあるが、最後の最後まで残ったものがあった。それは自分を表現することへの情熱だ。「いのちかけてなすべきほどのことはあらね好きなることをなせば熱いづ」(『日光』一九二五)。この世に命を賭けてするほどのことはない。命がなにより一番大切だ。熱が出るのは、好きなことをしているからだ。「いのち」という言葉を出し、病身には不安を感じさせる「熱」という症状を、好きなことを楽しむという〈生きる喜び〉に転じている。また、いのち一つになったからこそ、生まれたのではないかと思わせる歌もある。「なげきつつ年月ふればおのづから眼とぢて祈るこころとなりぬ」(『日光』一九二五)。いまや命以外のすべてを手放した人の、静かな境地だ。裏切る夫を憎みながらも、愛せずにいられぬ自己と対峙し、つねに厳しい現実凝視と悲嘆の中で詠われてきた葭子の歌が、全てを許し受け入れた「祈るこころ」に至り、癒されている感すらある。彼女が具体的になにを祈っているのかは、わからない。ただ「おのづから眼とぢて祈るこころ」という無心な姿に、彼女のすべてがこめられている。

 晩年の葭子の歌は、死を身近に置いた人独特の感性で、日常生活のこまごまを温かな眼で描写し、それらはみな〈ただひたすらに生きる生命〉といった歌になる。それまでの人生に苦悩が深かっただけに、晩年の自由闊達な発想の転換、素朴に徹しながら真を打つ言葉など、精神ののびやかさがより際立つ。重い病を得て死に直面したことで、体に不自由はあるものの精神的な自由を見出せたのかもしれない。

おわりに――われの心を知る人はなし

 葭子は『日記』で何度も、このまま消えていくだろう自分の声や人生を嘆く。窮乏生活、惨酷な夫婦関係、その上病弱で夭折した彼女には、たしかに同時代の他の女性たちのように〈新しい女〉としての生命を華々しく開く道はなかったかもしれない。秋山佐和子氏は、評伝『歌ひつくさばゆるされむかも――歌人三ヶ島葭子の生涯』で、平塚らいてうと葭子が一八八六(明治一九)年の同年生まれであった点、恋愛や、夫との同棲生活を始めたのもほぼ同時期だった点を指摘し、葭子が「私の見た生活(感想)――らいてう氏の所論を読みて」(『青鞜』一九一五・一二)を書いた当時、二人の置かれていた状況を比較している。意外性もあり、大変興味深い批評だ。「らいてうには、『青鞜』を創刊させただけの実行力と、情熱、知性、透徹した論理力、批判力、(中略)支持者たち、健康、美貌、実家の支援と、ありとあらゆるものがそなわっている。葭子には何があるか。比較すればないものの方が多いが、しかし、それ故に捨て身でぶつかっていける強さがあった。それに何より歌があるではないか」※8とある。この批評で、私はあらためて葭子の〈強さ〉について考えた。らいてうと葭子。どちらも波爛の人生を送った女性だ。らいてうは、『青鞜』創刊号で、女性は太陽に戻るのだと呼びかけ、従来の女性のあり方を「ほかの光によって輝く病人のような青白い顔の月」に譬えた※9。らいてうがまさに太陽の如く情熱と力強さ、輝きを放つ女性だとしたら、葭子は月を生きる女性だった。〈新しい女〉の時代へと女たちをいざない、歴史に名を残したらいてうに比べ、葭子は夫の暴力に苦しみ、愛人との同居に苦しむ前時代的な生活を送り、彼女の存在も世の波、時の波に埋もれてしまいそうな淡い光だったろう。ただ、月光は夜闇の中で怖いほどに澄んだ、清浄な光で物を照らしだす。葭子の歌の一首一首が、そんな輝きを帯びている。葭子には、闇の中――貧しい生活、不毛な夫婦関係、病弱の身体など恵まれない状況――でも、「われ」を失わず、矛盾と不如意に満ちた人生の現実を凝視し、歌を作りつづける〈強さ〉があった。彼女は一見封建的で、矛盾に満ちた世の現実の中を、耐えながら転げまわった〈旧い女〉のようにもみえるが、そうではあるまい。歌を通し、苛烈に表現された「われ」のありよう、ある女の軌跡。それは多くの女が経た苦悩でもあり、葭子はその声を表現し続けた。その意味で、彼女も〈新しい女〉の群にすっくと立つ女性でもあったのだ。晩年、葭子はこうも詠う、「わが心知る人は無しあたり前のわれの心を知る人はなし」(『日光』一九二六)。結局「われ」の心を知ることのできる者は「われ」しかいないのだ。この頃は、葭子の病状を思いやる家族の配慮から、隠蔽されていた実弟の死、富野に女児が誕生し、葭子の次女として入籍されていた事実を知った時だった。葭子が最後まで詠いつづけた「われ」は、制度下で苦しみ、耐える女の哀しみ、理不尽な地位への告発にもなっているだろう。

  1. 中川一政「葭子追悼号」(『日光』一九二七・六)
  2. 倉片みなみ編『三ヶ島葭子日記』(至芸出版社、一九八一・四)の一九一九年五月一七日、一〇月一八日参照。病弱の葭子には夫婦生活が負担で、その結果体調を悪化させることもあった。一九一七年七月一九日の日記では、「私は私の夫のためにこのからだをこはされたのだ」とある。
  3. 初出時は「ちちうへの後ろに寝るをゆるされしこの一夜こそ安く眠らめ」「老いちちの後に寝ねてなやみなくめざめし今朝は早起したり」の二首もある(枡本良・他『三ヶ島葭子研究』古川書房、一九七六・二参照)。
  4. 篠弘「女性としての葭子」(『短歌』一九八八・一〇)
  5. 「アララギ新年号合評」(『アララギ』一九二〇・二、『三ヶ島葭子研究』(同右)所収)
  6. 「まじめなる手紙はいまも書きがたしあまり知りたるわが夫なれば」。
  7. 橋本徳壽・倉片みなみ編『三ヶ島葭子歌集』(創元社、一九四八・七)の「序」
  8. 秋山佐和子『歌ひつくさばゆるされむかも―歌人三ヶ島葭子の生涯』(阪急コミュニケーションズ、二〇〇二・七)二三〇頁
  9. 堀場清子編『「青鞜」女性解放論集』(岩波文庫、一九九一・四)一四頁

〈付記〉短歌は、『三ヶ島葭子歌集』(同右)より引用。書誌は『三ヶ島葭子日記』の資料やその他を参考。日記は『三ヶ島葭子日記』(同右)より引用。また葭子の人間関係や生涯などの多くを、秋山佐和子『歌ひつくさばゆるされむかも―歌人三ヶ島葭子の生涯』(同右)を参照した。

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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