女と微笑の謎~大庭みな子「山姥の微笑」~

目次

(一)  はじめに

 女と微笑という組合せには謎や不思議がつきまとう。謎めく女のアイコンとしては、ダ・ヴィンチのモナリザや、仏像の中でも女性的な観音菩薩や弥勒菩薩などのアルカイックスマイルが思い浮ぶ。彼女たちには神秘的な気配がゆらめき、見る人を惹きつけ魅了すれば、畏怖を抱かせる。何故彼女たちは微笑むのだろうか。

 しかし、本作品の主人公はモナリザでも観音でもなく、日本で古来からよく知られている昔話の登場人物「山姥」が微笑むのである。大庭みな子は、山に棲み人をとって食らう山姥の人物像と「他人の心を読む」という設定を借り、女性の内的世界をより鮮明に語り直した。「山姥」を使いながら、外から描かれ見られてきた微笑む女性を、微笑む女性の内側から描き出したのである。昔話から現代にまで繋がる女性像「山姥」の古いような新しいような、時空を越えて普遍的な物語〈女の一生〉。それは「他人の心が読める」という豊かな感受性を持った女が、少女から老女に至るまでに様々な相手との関係性の中で役を演じ、生命を全うする一生であり、絶えず自己内部に狂気を抱えもつ一生であった。

(二)女性と他者
――他者の欲望と自己の欲望

 本作は山姥の昔話を導入に、「正真正銘の山姥」であった「彼女」の話となる。主人公は現代の「里」に住まう山姥だ。「他人の心が読める」彼女の、物心のついた幼児の頃から六十二歳で死ぬまでの人生が語られる。彼女の人生は、関係していた相手によって大まかに三つの段階に分けられる。母と娘(娘としての山姥)、男と女(女としての山姥)、女と子供(母としての山姥)だ。この三つの過程を経て、人の心が読める山姥が次第に沈黙し、相手の求める姿に自分を合わせ、演じていく様子が描かれている。以下、その過程を分析しながら、〈山姥〉なるものを考えていく。

①母と娘――娘としての山姥

 山姥の幼児期から少女時代は、主に母との関係が中心だ。人が物心ついて初めて出会う他者が、母親だとはよく言われる。この時期で山姥も母親との関係を通して、人との関係を学んでいく。幼児期のはじめは無邪気に母親の心を読み復誦していた山姥だが、母が不快な反応をすることや、自身の成長と共にやがて、それが相手にどんな効果を与えるかを知る。

 「学校に行くようになったら、あんたは急におとなしくなっちゃったのね」/すると、娘はこう答えた。「思っていることをそのまま言うと、みんなが嫌な顔をするから、黙っていることにしたの。大人は子供がバカなフリをして、なんにも気づかないと喜んでいるもの。これから大人たちを喜ばせることにしたのよ」/母親もまた山姥を生んだ母親だけのことはあって、きっとこう言い返した。「思っていることをなんでも言いなさい。フリなんかしなくてもいいのよ。子供の癖に」/しかし、子供は母親の顔をじっと見て、軽蔑した笑いを浮かべた。

 「思っている事をそのまま言」わずに「黙っていること」を学び、逆に「バカなふり」をして「喜ばせる」ことを学んだ山姥。それが真実だとしても人の嫌がる態度(相手の心を読んで復誦する)をまず捨て、大人の望む子供の姿を演じ喜ばせる作業から、山姥は演技を覚える。母親に対しても良いところだけ見せようと、点数の悪いテストの答案用紙を捨て、お弁当の中身をゴミ箱へ捨て、たまに疑われないようにわざと少しだけおかずを残してみせたりと、嘘のつき方・嘘を本当のように見せる演技や演出を学び始める。母や大人とのこれらの関係性は、他者の求めるもの・他者の欲望に自らを合わし変えていく彼女の生き方の基盤となる。彼女の不幸は、そのように自らが沈黙し演技することで他者に喜ばれ好かれ、自分も嬉しくなるという喜びを体験してしまったことだろう。

 娘は身内の者に対してばかりでなく、気に入られたい相手に対しては、相手が自分に欲していることを、自分が欲しているようにしかふるまわなかった。相手が笑って欲しいと思っているときは笑い、黙っていて欲しいと思っているときは沈黙し、おしゃべりをのぞんでいるときは、ぺちゃくちゃとしゃべった。自分を頭がよいと思っている人間には、それよりもほんのいくらかバカなふりをし、――あまりひどくバカではいけない。そういう人間はあまりバカを相手にするのは時間の無駄遣いと思うものである。――バカな人間に対してはその素朴さを尊んだ。/多分彼女はあまりに強欲で、あまりに多くの人間に気に入られたいため、おそろしい精力の浪費をしなければならなかったのである。(傍線は引用者)

 注目すべきは、語り手の「あまりに多くの人間に気に入られたい」彼女を「あまりに強欲で」とする批評だ。一見他者の欲望に自らを合わせ変える演技は、山姥を哀れな被害者とも弱者とも見えさせる。しかし、その根底にも「多くの人間に気に入られたい」山姥の強欲な欲望があると、語り手は示唆しているのだ。この山姥の欲望は、後に出てくる「人間の最も大きな幸福は他人を幸福にすることである。」という考え方にも繋がる。山姥にとっては自分が示す言葉や態度で人が喜ぶなら、それが幸福なのだ。言い換えれば、彼女の求めている強欲な願望・欲望とは、人と関係していくことそのものなのだ。更には自分との関係で相手に喜びや満足を与えたいという望みそのものであり、関係性の中でどこまでも際限なく相手の意を飲み込み、受けとめる受容性こそが、彼女の貪欲な欲望なのである。とはいえ、その欲望を追求する中で、山姥は他人の心と自分の心、それらを読んでいる自分という自意識の苦しみも味あわなければならない。自他の心の表裏を読み、演じ、たとえ人を喜ばせる満足感を得たとしても、やはり彼女は「疲れる」のだ。彼女は完全に「里の女」になりきっているわけではなく、すべてを主体的に意識して生きている「山姥」の自我が依然と残り続ける。

 母と娘が一緒にいることが重荷になった時期も、おそらく彼女が沈黙し、自分の本心を語らなくなったからだろう。母も娘も、互いが互いをどう感じているかうすうす気づいていながらも、話し合いにはならない。母が尋ねても、娘は語らなくなってしまう。娘も次第に母から距離を置き、自己の内へと隠れてしまうのだ。はじめは「娘が重荷である」という母親の心を読みながらも、子供として自分の存在をそのまま受け止めて欲しい、溺愛して欲しいという願望が山姥にもあったのかもしれない。だからこそ、憎しみと怒りを感じたのだろう。が、成長と共に自我が生じはじめると、次第に母子関係の絆に幻想を抱けず、母と無条件には密着できなくなる。相手にも個別の心や意思があり、それは必ずしも自分の意思とは同じではない。自分が感じたことを全て口に出し伝えたところで、完全に伝わるわけでもなく、互いの思いが重なるわけではないと悟った者の、〈個〉の自覚が起きる。それが語らない娘の沈黙の姿勢となって出てくるのだ。やがて娘は、母に「同性としての競争者」を見出し、自分も母と同じ位置に立つ一女性であるという自覚も生じ、母子関係からの卒業と解放をもたらす。これが女性の思春期から青年期に起こる、母からの卒業と自我の目覚めの過程である。母親と過ごした時間は、彼女の自我の確立と、生き方の基盤を作った。そして、母親から解放され独立した彼女が進むのは、男との関係である。

② 男と女――女としての山姥

 では彼女が得た男とは、どんな人物だったか。
特徴は、「ごく普通の、ありふれた男」「母親に溺愛されて育ち、母親が異性であるということで、あらゆる理屈を越えて、息子の自分は自由な表現を赦されているという自信を持つ」「典型的な男」と書かれている。①で分析したように、女性が母親からの卒業により、自我と自らの女性性に目覚めるのとは対照的に、ここで語られる男は精神的に母子密着のまま成人し、自我を形成している。さらに彼は母親との親子関係で個と個の葛藤を体験してないばかりか、その母子密着の関係を原型に異性観を作り上げている。以下、彼の抱く女性像を引用すると

同衾する女は母親の代用であり、女というものは母親のように寛容で、女神のように威厳があり、阿呆のように際限もなく溺愛してくれ、なおかつ邪悪な動物のように悪に憑かれた魂をも兼ねそなえているものでなくてはならなかったのである。

 大庭みな子流の批評眼が光り、典型的な男の女性像もまた典型的に書かれる。このような男性を「ありふれた男」「典型的な男」と評す言葉に、大庭みな子のブラックユーモアが宿る。では、なぜこの男を彼女が選んだのか。その理由は、二つだけ添えられる。「女が好きであるという男の特質を備え」「女は男によって歓びを得た」からだ。男の精神性や個性が問われず、この二つに集約されている点に、この男の登場意図が小説作品の個性的な一人物と言うより、〈男〉という生き物の一つの典型として設定されたことが伺える。

 「理屈に合わない不平等条約」と語られる男と女の関係は、男の意志・願望が優先される。それも「女は男によって歓びを得たので、その代償にあらゆることをして男の機嫌をとってやってもよいと思うようになった」ためで、あくまで女の意志もそこにあるのだ。「理屈に合わない不平等条約」はえてして加害者と被害者を作りそうでもあるが、山姥の意志を示すことで、加害・被害の構図はたちまち両者の共謀として相対化される。

男の願望を具体的にあげると、
一、女に常に嫉妬されていたい
二、他の男たちの評価を下げてほしい
三、他の男たちから求められている女を、独占したい

 一「女に常に嫉妬されていたい」願望は、男に精神的に依存する女性を求め、女がそのように演出することで、男は愛される者の側に立ち、かつ他の女にも望まれている自分を誇示することができる。加えて異性の中の〈男〉としての自尊心を、一人の女で満たすこともできる。まるで演歌の歌詞に歌われそうな男性依存型の情念深い女性像が、男の求める「女らしさ」の一つとなっている。また女自身も演じているうちに「自分が心から無能な、弱い生きものになったような錯覚を起こし」、演技が少しずつ習性となる過程も加えられる。二「他の男たちの評価を下げてほしい」願望は、男性社会の中での男の価値を立て、自尊心を満足させる働きである。男性は、同性との競争・比較の中で、社会的地位や能力から性的魅力に至るまで様々な要素で、自己の価値が高いことを望む。男性社会は何事も競争であり、また建前や体面を気にするという性質から、こんな願望が生じたと思われる。ただ価値を高めたいとしても、実際的に自分自身の価値を高めるのではなく、「他の男たちを真実以下に評価する」こと、つまり他人を下げて自分を上げようとするのだ。男の姑息な心理を、大庭みな子は滑稽に描き出す。三「他の男たちから求められている女を、独占したい」願望も、同性との競争・比較の中での、男の見栄や自尊心を表す。他の男が欲しがるものを所有し独占したいという所有欲・独占欲である。

 これら三つは、すべて男のエゴから生まれる願望だ。たとえ実際には手に入らないとしても、女がそのように男の願望や欲望に合わせ演出することで、男の願望や欲求は満たされる。人の気分をよくさせ満足させたい山姥は、男が実際には願望を全て果たせないと分かっていて、せめて男女関係の中だけでもと、その願望を満たしてやっているのではなかろうか。そして、彼女が完全に彼の願望を演じたならば、

 「全く女というものは、嫉妬深くて、浅知恵しか働かず、小さな嘘はつくが遠大な嘘はつけず、結局はバカで小心で、手に負えない代物だ。英語でマンというのは男であると同時に人間だが、女というのはまあその男にくっつくことによってしか人間たり得ないね」

と彼は思うのだ。すべては、男がそのような女を望んでいるにも関らず、である。「理屈に合わない不平等条約」という言葉は、これらの男の矛盾した評価のために「理屈に合わない不平等」なのだ。女は望まれた事をしても否定的な評価しかされず、また演技を忘れれば「怠け者」「神経が太い」「繊細さに欠ける」といわれる。どちらも男の、表面的で主観的な評価だ。

 これらの「理屈に合わない不平等条約」を筆頭に、本作品では全体を通して対照的に浮かび上がるのが、〈男の論理〉〈女の論理〉だ。例えば、年老いて健康に不安を持ち始めた男は、甲斐甲斐しく自分を世話をする妻を見て「看護婦こそは全く女の本能」「看護に関してだけは天賦の才に恵まれていて、到底男には及びもつかない」と思うが、実際女は「看護婦にだけは死んでもなるまいと思うほどそれが嫌いな職業」にもかかわらず「男と自分の平安を得るため」に看護婦の役をしているに過ぎない。また男は「女というものは概して男に比べると耐久力があり、心身共に強健で、人生を長く生き伸びることになっていると、統計をもって示し」、一方で女は「男の寿命が統計的に女より短いのは、男が若い頃戦争その他さまざまな暴力的な行為によって勝手に自分の命を断つのが原因」と考える。また、他人の饗応に対しても、男は健康のためなら断固として拒絶するだけの強い意志力を自負し、食事を断れない妻を「意志の弱い女」とする。女の目から見れば、それは食事を用意した相手の気持を推し量ると断れないのが女の性格であり、逆に男は「相手の心を無視しても恥じない強靭な神経の持ち主」なのである。概して男の使う〈男の論理〉は、世間一般でよく使われる論理であり、定説といえるものなのかもしれない。「理屈に合わない不平等条約」でも如実に表れていたように、〈男の論理〉とは、正統(大抵自己や自己の主体を当てはめる)と他との比較・競争が中心であり、正統以外を否定・排除するものである。〈男の論理〉で認識され判断される「女」は、男との比較により、男の都合の良し悪しで讃えられれば蔑まれもする。そこへ大庭みな子は山姥の〈女の論理〉を添え、正統とされる〈男の論理〉を裏返し、エゴイスティックな他者否定として照射しているのだ。

 とはいえ、山姥も夫の使う〈男の論理〉を理解し吸収しながら、未だ消えない自我による〈女の論理〉を胸に秘め、彼女は二つの論理の間で生きるしかない。〈女の論理〉は他者を否定しないという性質上、言語化されず一般化もされず、沈黙のうちに留まっているからだ。

  彼女は、意志力、無神経、怠慢などの言葉遣いに対して、夫と自分の使用法があまりにも違うので、ときにはひどい孤独に追いこまれた。夫に限らず、世間の多くのひとびとに対して、彼女は言葉の通じない外国人にとり囲まれているような恐怖を感じ、かつて少女の頃誰とも遊ばず、部屋に閉じこもってしまったように、いっそのこと山にでも入って、独りでひっそりと暮したいと夢みることもあった。

 こうして男や世間の多くの人々が使う〈男の論理〉により、女性は疎外され孤独を味わいながら、なお自己内部に山姥の声を飲み込み、〈女性の論理〉を隠し持つしかできないのだ。

 また「山姥の微笑」に登場する男は、単純かつ非常に要求・欲求の激しい人物である。というのも、本文は「男の心のすみずみまで」「手にとるように透けて見える」山姥の視点で、男のエゴがすべて露わに表現されているからだ。本来なら内に隠されている人間のエゴが全部暴かれたため、男はこの姿なのだ。もっとも、人間は皆、心をすべて裸にしたら案外この男のようなのかもしれない。相手に求めるばかりで自分のことは省みず、およそ自分の器に合わない願望を抱き、願いが叶わなければ人のせいにする。男の姿は、滑稽味を感じさせる典型的な男性像であると同時に、理屈に合わない欲望とエゴでできている人間の裸の心を表しているのだ。

 一方、相手の心が少しでも分かる以上はその気持ちを汲み、自己の欲望よりも他者の欲望を優先して願いを叶え、喜ばせようというのが山姥の優しさである。沈黙のうちに相手に合わせる姿は一見封建時代の耐える女性を思わせる。が、「山姥の微笑」では、それを人の心を汲み取る優しさであり美点だとして、再評価している。他人の心を読む山姥の力と、相手の思いを汲もうとする優しさが、男と女の共存を保つ上では必要不可欠なのだ。

「そうよ、男のひとはからだばかり大きくても、心は繊細で、優しく弱いものなのね。だから女はみんな男が好きなのよ」女はそう言い、たとえ、それが嘘にしたって、男がいなければ世の中は闇になってしまうだろうと思い、(略)繊細だと信じている男という小鳥に餌を与えつづける以外に、やはり自分の生きつづける道はないと思うのであった。

 男女間に存在する「理屈に合わない不平等条約」と、男のエゴを十分知りながら、男を見棄てず「男がいなければ世の中は闇になってしまうだろう」と思う女。女を強くさせているのは、意外にも男なのだ。つまり我儘で好き勝手に振舞う、「相手の心を無視しても恥じない強靭な神経の持ち主」を愛する以上、彼と共生し幸福感まで味合わせるためには、彼女がまず強くなければ生きていけない。良くも悪くも、女は男といるがためにますます強くならざるをえない。

 他人の心など絶対的には分からないものであり、山姥の「他人の心を読む」能力を、全て分かったつもりになっている女性の傲慢だと思う人もあるかもしれない。しかし、人の心を読む能力とは、言い換えれば、人がみな生まれ持っている感じる能力、〈感受性〉だと考えたらどうだろうか。ただ人より強い〈感受性〉を持った彼女は、他人の心が分かる以上は相手の心を無視せず、人を愛し理解したいと望んだ。そして他者と共存するがために、彼女の〈感受性〉の全てを注いできた結果、彼女の心を読む能力は更に磨かれ、彼女を強くさせた。それが際限なく他者を受け止め飲み込む、女性の力と強さとなるのだ。

 そして、脳血栓で倒れるまで、女は愛する男に「餌を与え続け」た。

③ 母と子供――母としての山姥

 昔話では坂田金時を育てたのも「山姥」だった。古来からの山姥像は母性的な山の鬼女でもある。本作の山姥は、母としてはどうだったろうか。彼女と子供たちの関係は、男との関係ほど綿密には書かれていない。彼女にとっては、夫である男との関係が母子関係に近い精神的密着状態なので、子供との関係を特記する必要性がなかったのかもしれない。ただ一つだけ注目するならば、山姥と娘との関係だ。山姥と母親との関係がそうであったように、山姥とその娘との関係も、互いの心を読みながらも一女性同士としての理解と主張が感じられるからだ。明日死ぬか、又意識不明のまま永らえるかもしれぬ病床の母親を前に、山姥の娘は、幼少の頃母から受けた愛情と恩を思い起こしつつも、医療費や介護の任を誰が負うのかといった実際的な問題へも意識が及ぶ。そして目の前に横たわる母親を通し、最終的に自分と自分の娘にまで考えが到達し、死にゆく母親よりも自分の娘を選ぶという結論にまで至る。その理解と主張の道すじは、まさに母―娘を通して何度も繰返されてきただろう、独特の〈女の論理〉なのだ。死にそうな母親を前に、もうあなたに保護される必要もないので御用済みだ、他人の世話が必要で迷惑をかけるなら消えてくれと、娘は自分の子供を選ぶ。また同時に、自分もやがて老いた母親となり、我が娘に同じ苦痛を味あわせる齢になったならば、迷惑をかけずに自分で身の始末をするという覚悟を決める。

 これらの娘の主張は、山姥が娘とかわした最後の微笑の中で、一瞬のうちに相通じたものだ。自分の母ではなく、自分の子供を選ぶ。その選択は一見非情で冷酷な仕打ちと思われるかもしれない。が、母のもとに娘として生まれ育った女性、また母となり娘を持った女性である故に、肉体を通して理解できる〈女の論理〉なのだ。母と自分と娘を通し、連綿と一貫して流れきた生命がある。母から娘、またその娘へと引き継がれてきた生命の襷だ。襷は永遠に新しい生命へと引き継がれていかなければならない。その流れを途絶えさせぬための姥捨てこそが、母から娘へと伝えられてきた〈女〉の原始的な成人の儀式なのだ。一般的に女性の本能と呼ばれ、子を産み育てるものという「母性」ではなく、女性の肉体と血を通して理解し主張される根源的な形の〈女性性〉、〈母性〉がここにはある。〈母性〉は聖母子像などによく表されるような優美で平穏なものではなく、女同士の非情でいて厳粛な肉と血の掟のようなものなのだ。

 娘とかわした最後の微笑で、山姥は「娘の顔をまっすぐにじっと見つめ、甦った光のあふれる眼で微かに笑った」。この時の山姥の微笑こそが、真に母親としての理解と愛の込められた〈母性〉の微笑である。娘の本音を読み、山姥は「自分が生み、自分が育てた娘に満足」を感じもする。自分とは別個の、賢く力強い女の姿を、娘に見てとっているのだ。山姥の血は間違いなく娘に引き継がれ、また娘も別の山姥として更に力強く生きていくことだろう。彼女が息を引き取る前に「多分、死んだ母親も、正真正銘の山姥であったのだろう」と思ったように、彼女たちはみな山姥なのだ。

(三)山姥という象徴
――山姥は、慈母は鬼女か。

 「山姥の話をしよう。」で始まる、「山姥の微笑」。実は「ある女の話をしよう。」と書いてもいいものを、敢えて「山姥」としたところに大きな意義があるのではなかろうか。

 山姥は人をとって食う破壊的な鬼女の側面と、生命を産み育む地母神の側面とを併せ持つ、女性の永遠の原型と考えられる。山姥の夫である「男」が典型的な〈男〉の象徴として意図的に描写されていたように、また「山姥」も〈女〉の象徴なのだ。

 ではなぜ単に「女の話」ではなく、「山姥の話」だったのか。それこそボーヴォワールではないが、女性は最初から「女」ではなく、「里」に住むことで「女」になるのだ。前項(二)の②で分析したように「女」の在り方や「女らしさ」といったものは、多くが男の願望を演じ、体現したものだった。大庭みな子の書いた女性本来の姿は、山姥か、鶴か狐といった人外の動物なのだ。民話の異類婚姻譚の話が冒頭にも引かれているが、彼女たち動物はみな山から降り、人間の男と結ばれ里へ住み、やがてまた山へ戻ってしまう。なぜ彼女達は「里」と「山」の間を移り動くのか。

 大庭みな子が「山姥の微笑」で使った「山」と「里」には、
「里」=社会、文化、秩序、人間の作る共同体…「女」
「山」=社会の外、自然、混沌、原始的な動物の世界…「山姥」
という意味がある。「里」は性別的役割分担を求められる場所であり、役を演じることで社会秩序が守られ、共同体が守られる。一方、山は社会の外、人間たちが作り上げた共同体の周辺、役割も秩序も必要ない原始的な世界だ。本来女性が自然体たりえる世界は、むしろ「山」であり、動物や山姥の世界だ。「里」=社会での生、「山」=原始的世界での生、この二つの間には隔たりがある。「山」と「里」の両方を知りながら、「里」を捨てられず「山」を夢みるのが、山姥を悩ます自己分裂である。

 「里」と「山」の間で分裂するがゆえに、山姥は二つの間をさまよう。人間は彼女にとって他者である。他者と関りたいという願望が彼女を「里」に残らせ、人との調和した関係を続けるために鬼女的側面を抑圧し、人を愛し育てる地母神的側面だけで生きる人生を選ばせる。一方で、人間の強いエゴが彼女を失望させ、彼女の内に抑圧されていた鬼女的側面・欲望が外に噴出されると、他者を襲い食うほどの愛憎といった攻撃的衝動・欲望となる。抑圧され内部に隠されていた山姥のエゴは、人間のものよりもさらに破壊的で攻撃的なのだ。

 「食うというのは極度の愛情の表現」とユーモアで語られているものの、それは他者を自己に取り込み、無くしてしまいたい欲望を暗示する。自己の内にすべてを取り込みたい欲望は、関係性の放棄と破壊に繋がる。他者と分かり合えない失望や、期待を裏切られた憎しみが、他者への攻撃となり「食う」という破壊的同化に向うのではないだろうか。他者が他者でありつづけることを「食う」ことで阻むのだ。女性の受容性がここで裏返り、攻撃的にすべてを際限なく飲み込もうとする怖ろしい凹型に変わる。

 作中で彼女が楽しむ「山」の空想は、「里」からの解放であると同時に、他者の欲望と自己の欲望の間で乱れる、女性の狂気の世界だ。

 彼女はその声を聞き、自分の顔を泉にうつしてみる。すると、顔半面は慈母の微笑を浮かべ、反面は悪鬼の忿怒をたぎらせている。口半分は血をしたたらせて、男の肉をひき裂いて食い、唇の半分は片側の乳房の陰に、赤児のようにからだを丸めて乳首をしゃぶる男を愛撫していた。

 「慈母の微笑」と「悪鬼の忿怒」が一つになった顔。インドの破壊神や鬼子母神を思わせる、おどろおどろしい姿だ。愛し育むことも、とって食うことも矛盾しているようで、彼女の中では表裏一体なのである。単に彼女の欲望の表れ方の違いであり、どちらか一つ欠けても彼女は彼女ではない。このように激しく分裂した女の一生を、語り手はこう語る、

 山に棲んで人を食う山姥になるのと、山姥の心を持ちながら里に棲むのと、どちらが幸せであっただろうかと、思ったりもしたが、今となってはどちらも同じだったように思う。山に棲めば山姥と名附けられ、里に棲めば狐の化身と言われるか、心身共に壮健な天寿を全うした平凡な女と言われるかの違いだが、中身は結局同じなのである。

 人が彼女をどう呼ぶか、それだけの違いで「中身は結局同じ」なのだ。慈母の顔も鬼女の顔も、どちらが表(外)に出て、裏(内)に眠るかだけなのである。社会の中で外付けの「女」像を求められる女性のアイデンティティと、自己の内部から突き上げる自我との二つが入り乱れる山姥。それは、「山」に生まれながら「里」に棲まざるを得ない女性たちの姿である。自我に目覚め、自意識を持ちながらも、依然と「女」の演技を続けなくてはならない女性の苦しみ歪む自己の姿だ。

(四)おわりに
――もう一度「山姥の微笑」

 本作品には、作者大庭みな子自身によって散りばめられた様々な質の笑いがある。時に、そのユーモアは諧謔味を帯び、毒をふくんでいるのか、冗談なのか分からなくなる語り口である。書かれている女性の一生から、文体、テーマに至るまで重層的な山姥の微笑で満たされているのだ。こちらがどう読んでも、作品の向こうから返ってくるのは「あなたがそう思うなら、そうじゃないの?」とでもいうような山姥の不思議な微笑である。一筋縄ではいかない山姥の微笑は、他者から単純に理解されることも拒む、幾層にも屈折し積み重なった女の深い闇のようだ。それは誘う女の媚態であり、慈母の愛と受容と許しの姿勢であり、目を凝らすと秘密や智謀、裏切り、嘲りの気配が潜み、不意に少女のあどけない純粋さも漂う。どの微笑も外に向かって投げかけられ開かれ、関り合いへの首肯のしるしである。他を無視し否定し、競争や比較のなかで自己を確立していくのではなく、他を受容し肯定する事で成り立っていく、他へと開かれた姿である。いずれもその根底には「人間の最も大きな幸福は他人を幸福にすることである」という思想があった。平和と調和そのもののようなこの思想が、いかに女性の苦悩と努力のもとで織りなされたかは、本論で繰返し述べた。このような一見して平和的で凡庸な思想こそ、実は「強欲」と言えるほどの貪欲な精神と強固な自我がなくては貫けないものだ。大庭みな子は、女性を内へ内へと掘り下げていき、女性の根源的な強さを大いなる受容性として、何ものも否定せずに全てを肯定しうる広がりに変えた。他を否定し攻撃するよりも、実は他を受け入れ肯定することの絶対的な強さ

 では女性の内側から見た微笑はどうだろうか。鏡の中の山姥の微笑は、想像を絶する狂気の世界であった。どうしようもなく絡まりあった二つの私――慈母の微笑と、悪鬼の憤怒の顔――であり、相反するものの絡まり合いで出来た自己が映し出される。

 そんな山姥が再び「里の女」として微笑む時、すべてを飲み込んでまた余りあるほどの深い凹型が底知れない闇を溜め、さし覗く者たちに畏怖を抱かせる。

参考文献

  • 大庭みな子「やわらかいフェミニズムへ 大庭みな子対談集」青土社
  • 大庭みな子・水田宗子「対談〈山姥〉のいる風景」田畑書店

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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