※こちらでは、博士論文の要旨のみご紹介します。
【要旨】
明治~昭和まで〈時代の死病〉として恐れられた慢性伝染病・結核は、文学作品で最も多く描かれた〈病い〉である。最初「肺病」「宿痾」の表現で登場し、一世を風靡した徳冨蘆花『不如歸』(一八九八)を嚆矢とし、一八九六年に夭折した樋口一葉もいて、明治期からすでにロマン化があった※1。戦後のストレプトマイシンの発見まで、〈国民病〉でありつづけ、多くの作家が罹患し作品のモチーフとなった。近代日本の〈病い〉を考察する上で、結核は最も意味深い〈病い〉といえよう。本論では、特に正岡子規を取り上げる。〈病い〉の当事者であり、青年期から晩年に至るまでの書簡や記録など資料も豊富で、〈病い〉〈障害〉の経験から到達した〈死生観〉〈美意識〉の深さからも、最も重要な人物だからである。
〈病い〉〈障害〉〈死生〉は、文学にとどまらず、生命倫理、哲学、宗教学、社会学で盛んに取り上げられる主題だ。いずれも〈近代〉の経験とその反省から、当事者性を意識した再評価の試みだ。宗教学者島薗進は「死生学」の分野で、〈死〉だけを主題とする西洋の「デス・スタディーズ」との比較から、同様の主題が東アジアでは「死生学」「生死学」となった伝統を指摘する。「死生」は「もともと儒教の伝統で用いられてきた語」であり、〈生〉〈死〉を一体とする考え方自体が「仏教の根本概念」だという※2。明治以降、西洋の唯物論や哲学を受け入れながらも、〈生〉〈死〉を一対として思考する日本人の特徴だ。本論では、これに加え、〈病い〉〈障害〉といった〈身体〉をめぐる〈喪失〉への感性も同様だとして検討したい。東洋では、従来から人間真理の探究の場として〈死生〉〈身体〉〈病い〉をとらえる伝統があったのではないか。奇しくも臨床社会学のアーサー・フランクは〈病いの語り〉による真理探究の説明に、〈苦〉から悟りをえた仏陀の話を援用したが※3、〈身体〉と〈生命〉の儚さや偶発性から、真理にいたる発想自体が東洋的なのだ。
正岡子規の〈病観〉〈死生観〉は、まさに日本の伝統・文化・風土の中にある、〈死〉に始まり〈病い〉〈障害〉〈喪失〉を畏怖し、尊び、真理を学ぶ感性である。儒仏など東洋思想と重なりつつも、〈もののあはれ〉〈悲しみ〉〈無常〉〈自然(おのずから)〉など日本文化の精神性に近い。子規の作品には、〈死〉に始まり〈病い〉〈障害〉〈喪失〉に何かを学ぶ姿勢があり、それが〈病い〉の語りの変化――〈大問題〉〈現在/過去/未来〉〈苦/楽〉〈あきらめ〉の発展――となり、〈身体/精神〉〈死/生〉の思索へと深まる。
近代日本において、明治以降、科学・医学の伝搬、衛生環境の整備などにより〈病い〉〈障害〉〈死〉が隠蔽・排除され、〈身体〉は統制されるものとなり、〈病い〉の経験も「回復の語り」がよしとされる近代的な感覚が生まれつつあった。また結核のロマン化が流行し始めた時代でもある。しかし、子規が体現した死生観や作品の思想や精神は、結核のロマン化ではなかった。〈美〉が表現されたとしても、それは病いに退廃的に耽溺するロマンではなく、〈写生〉であり、現実凝視であり、日本文化の伝統的な存在論や精神に通じる〈美〉だ。
子規の死生観を考える上で、見落とせないのが、この〈美〉である。〈死〉〈病い〉の身体の学びにより〈偶発性〉〈儚さ〉に生き、真理探究をする行為と、〈美〉〈楽しみ〉を追究する行為が、表裏一体なのだ。〈美〉の追究が〈死/生〉を止揚し、〈死/生〉の追究が〈美〉を止揚する。最終的に〈喪失〉は〈美〉に昇華される。また、子規の〈美〉の表現行為そのものが、子規の新たな意味・価値の創造行為に他ならない。例えば〈病い〉の語り・ナラティブセラピーの分野では、〈語る〉行為自体に、当事者の精神・心理的な癒しや救済があり、自己を語ることで、自己物語を取り戻す、自己受容する過程が取り上げられる。が、本論では、子規の場合は、〈物語を作る〉事での癒しや救済とは、異質だと指摘したい。〈物語〉は最終的に、ある一定の帰結や大々円を志向する。目的は個人の心の救済であり、端的に言えば、どのような語りや主題の帰結であろうと、個人レベルで解決されればよい。一方、子規の短歌や俳句は、〈身体〉と〈病い〉〈死生〉の表現が、現象として〈美〉の新たな意味や価値の創造行為となる。個人的な救済を超え、〈美〉という普遍的な真理に到達し、その表現自体が一種の哲学的存在論となる。それが、文学者正岡子規の表現が到達した地点と、一般的に流通する〈病いの語り〉との違いだ。芸術としての表現の昇華、次元の深化であり、類型化された〈語り〉からの脱却である。
子規の美意識、精神、死生観と、日本文化の美意識や精神、生命観、死生観との連続性。それは、たとえば『墨汁一滴』中にある藤花の十首、佐保神の十首では具体的だ。彼の文学理論が方法として的確に実践され、彼自身の生命を題材に哲学的な存在論も入り込み、〈美〉の形を提出している。
藤花の十首は、〈空間/時間〉を巧みに織り込みつつ、時間的要素が余韻余情を効果的に醸しだす。その題材は時間経過により〈今は無きもの〉〈失われたもの〉が多く、〈喪失〉が核である。主題は、〈過去/現在〉から立ち現れる〈喪失〉〈今はないもの〉〈失われたもの〉であり、〈現在〉の地点から希求される〈くりかえし〉〈再生〉〈蘇生〉である。最終的に、藤の花の〈花の美しさ〉と〈美しい花〉が同時に体現される。失われゆくものへの悲哀と儚い美しさ、一方で、くり返される生命への希求と調和。この二つは、日本人と日本文化の〈有限/無限〉の感覚に重なる。〈現在/過去/未来〉から、〈喪失/再生〉〈有限/無限〉の摂理にいたり、そこに〈美〉が体現される。
また佐保神の十首は〈現在/過去〉を中心に時間軸が展開された連作だ。自然の四季の〈うつりかわり〉〈くりかえし〉と、「われ」を共に歌いながら、〈現在/未来〉の反復により、〈現在〉の「われ」の生命の有限性、儚さ、不確実性が浮き彫りになる。主題の一つである〈別れ〉は、この世から去っていく「我」と、来年も再びくりかえすだろう「春」「花」といった、二重の別れである。去っていく「われ」と、来年もくりかえされる草花や自然の生命。「別れ」を言わねばならないのは「われ」であり、その「別れ」をいかに受容し、いかに対処するのか。死ぬことは、ただ自己の存在が無くなるから恐ろしく悲しいだけではなく、この世の人や物たちと別れ、彼らとの関係性や繋がりを失うからこそ、悲しい。子規の短歌では〈別れ〉の悲しみ、名残惜しく思う心情に、独特の〈美〉がある。この「悲し」「あはれ」が、〈かなしみ〉〈もののあはれ〉〈無常〉と同質であることは明白だ。自然の生命の〈無限〉と、人間の個体としての生命の〈有限〉。子規の身体を通して経験され、表現される〈有限/無限〉であり、〈無常〉なのだ。
子規の短歌革新は、〈古今〉を崇拝する、古い歌よみたちの「歌」を批判・破壊する試みから始まった。〈万葉〉を褒めた子規が目指したものは、形骸化され生命感を失った「歌」に、時代に合った方法論を取り入れ、形式の改良から、そこに表現される精神や美の再生の試みだ。斬新な方法で磨かれつつも、その核となる〈美〉の本質は変わらず、日本古来の精神との連続性を保っている。
また、子規を分析する行為は、〈近代/近代以前〉が混在する明治日本の死生観や身体観を検討する行為でもある。近代以降、東洋と西洋の間にあって、混乱と矛盾に満ちた身体と精神を歩んできた近代日本人をとらえなおす試みだ。明治期、〈日本の精神的な連続性〉が一つの展開期を迎えた。急激な近代化により、西洋文化の技術や制度が輸入される中で、外形的にそれらを受容するものの、内面では問題を生じさせていく。その一端を〈日本人の死生観〉にみることができる。
日本近代において初めて「死生観」の語が登場したのは、加藤咄堂『死生観』(一九〇四)だとされる※4。当時反響があったようで、『増補死生観』(一九〇五)、『大死生観』(一九〇八)も刊行された。当時のベストセラー・中江兆民『一年有半』『続一年有半』(一九〇一)や、清沢満之が提出した「生死問題」(一九〇二)、さらには藤村操の自殺・「巌頭之感」(一九〇三)も同時代である。正岡子規の四大随筆が新聞「日本」で連載されていたのが、一八九六~一九〇二年であることを考えると、興味深い※5。このような一九〇〇年代前後の死生観言説の動向も、西洋と東洋の文化・思想の間で、どのように精神の連続性を保つべきか、その葛藤の一端である。〈死生観〉は最も根源的な問題――いかに死ぬべきか、いかに生きるべきかといった精神的な問いであり、当時の人たちの精神の葛藤の表出だった。
子規も、そんな矛盾の先鋒をいく知識人でもある。子規の〈死生観〉は、〈科学〉〈唯物論〉の視点で、宗教や他界観を否定するものの、前述した〈あはれ〉〈あきらめ〉〈苦しみ〉といった東洋的で日本的な感受性が〈美〉として表出される。西洋的な近代的死生観と、東洋的死生観との間にありながら、最後まで〈死生〉を自らの眼で見極めようとした。
そして、東洋的感受性と西洋的思想との間で、自己をみつめたのは子規だけではない。彼らは、自己の内面の葛藤に始まり、やがて近代日本の未来、日本的精神のゆくえを憂慮した。加藤周一『日本人の死生観』※6では、子規の死から十年後の一九一二年、乃木希典の死から分析と考察が始まる。同書では、乃木の殉死は、当時多くの知識人から「殉死の時代錯誤性」や「政府の操作」が「自明の理」と受け止められたものの、「若いエリート層におけるその影響は、広く、かつ深かった」とされ、特に「乃木の最後の行為がもたらした違和感と痛恨の思いをするどく感じとった人」として森鴎外があげられる※7。鴎外は、「自分のうちに相対立する感情を、伝統的な価値と西洋的な価値の対決であると分析し」「彼の内心の葛藤の結論は、乃木のケースを、つまり武士的な生きかたと死にかたを、断固として擁護すること」とされる。鴎外は日本の国民に「科学的知識の果実を輸入しても、科学的発展の種子を移植することにはならない」とも示唆した※8。外界の変容に対し、文化伝統といった人間の内面的な連続性への影響。日本人の精神的連続性がいかに変容するのか。これらを強く意識した知識人・森鴎外の存在も大きい。
乃木の死に敏感に反応したのは、鴎外だけではない。「明治の精神」の言葉と共に、明治天皇や乃木の死に共鳴する主人公を書いた、夏目漱石もその一人だ。磯部忠正『「無常」の構造 幽の世界』では、「人間の問い」を「ロゴス」で探究する西洋文化の「人間中心主義・ロゴス中心主義」に対し※9、日本文化の「自然中心」的な性質がいわれる。そして漱石は西洋を嫌悪しながらも、「ロゴス的な「人間の問い」の問い方」を学びとり、「そのゆえに苦しんだ」という。「漱石の中期から後期にかけての諸作のテーマは、ほとんどが人間の利己心と愛の問題である。この問題をロゴス的に問いつつ解明しようとすれば、『行人』の一郎のように、死か狂気か宗教かにつきあたるよりほかないだろう。しかし一郎ならぬ作者の漱石は、このような打開のしかたのもう一つ奥で、「則天去私」の「天」を求めていた」※10とされる。また磯部氏は、漱石が良寛を敬愛した逸話をあげ、漱石が死の二十数日前に作った漢詩「大愚到り難く、志成り難し」を引き、「大愚は良寛の法号を用いて、敬愛する良寛の境地に至りえない自分を告白」「自分の理想とする大愚に徹しえないことを反省」とも指摘する※11。〈武士道〉に日本人の精神性を探った鴎外がいる一方、西洋的ロゴスの世界から、「則天去私」の精神に立ち戻り、大愚良寛を敬愛した漱石がいる。西洋文化を学ぶだけでなく、その精神と思想を理解し身につけた彼らは、西洋文化受容の過程で生じる矛盾や混乱も、自己を通して自覚していた。個性は異なるものの、明治を代表する両雄が西洋を学びながら、東洋的な精神に辿りついた点では共通する。
ひるがえって、子規の場合、乃木の殉死以前に、はからずも短歌や俳句の革新や、写生文の形で、日本の文化伝統の再生を試みた、先進的な存在である。また同時代のどの文学者よりも早く〈生死問題〉にぶつかり、進歩発展の近代的価値観から反転、人生の目的や意義を思索し、短歌や俳句などの創作活動から、〈苦〉〈あきらめ〉〈美〉をみつけ、〈無常〉〈自然〉といった日本的精神に繋がり、共鳴していった。 本論では、この明治期を代表する三人の帰着した日本的な精神の形を検討し、近代日本人の身体と死生観、美、精神について考察する。
- 福田眞人『結核の文化史』名古屋大学出版会、一九九五年二月、
- 島薗進「死生学とは何か 日本での形成過程を顧みて」(『死生学[1]死生学とは何か』東京大学出版、二〇〇八年五月)
- アーサー・フランク『傷ついた物語の語り手 身体・病い・倫理』ゆみる書房、二〇〇二年
- 「死生学とは何か 日本での形成過程を顧みて」(同右)を参照。
- 同右、参照。
- 加藤周一、M.ライシュ、R.J.リフトン『日本人の死生観』岩波新書、一九七七年、
- 同右、75~76頁
- 同右、120頁
- 磯部忠正『「無常」の構造 幽の世界』講談社現代新書、一九七六年。
- 同右、184頁、190~191頁参照。
- 同右、193頁参照。


