沼田真里*
Masaoka Shiki’s time consciousness ;
Structure of beauty and view of life and death
Mari NUMATA*
This paper analyzes about Shiki’s time consciousness, centering on “Shoragyokueki” and “Bokujyuitteki”. The elements of time and space are important in Shiki’s haiku theory as well as “objective or subjective”. The method of time and space is born from the physicality of Shiki’s sick. Because sick people have more time and space than healthy people. The elements of time and space are used not only in haiku and tanka but also in essays, as a technique that brings dynamism to expression. In addition, the beauty of Shiki’s Tanka overlaps with Japanese culture’s view of life and death, such as “wakare” and “aware”
はじめに
本論では、『松羅玉液』(明治29年4月21日~12月31日、新聞『日本』」)、『墨汁一滴』(明治34年4月1日~7月2日、新聞『日本』)を中心に、子規の〈時間〉意識に着目する。〈時間/空間〉は、〈客観/主観〉同様に、子規の俳句理論で重要な要素である。そして、この〈時間/空間〉理論が生まれた背景には、健常者以上に〈時間〉〈空間〉が制約される、病者特有の身体性があった。俳句、短歌に限らず、子規の随筆でも、はからずも〈時間〉〈空間〉の要素が、作品のダイナミズムを発生させる手法として活用されている。「健康の人は現在ばかりを見て過去も未来も思はぬが常なれども病体はとかく現在よりは過去未来を考へ候事多く候(1)」と、子規は書いているが、 病者にとって〈過去/現在/未来〉の時間の連続は、幾度も立ち現われ、反芻され、その度あらたに意味づけされるものだ。随筆で語られる子規独特の〈時間意識〉は、病者特有の時間意識とも言い換えられる。子規の俳論の主要素〈時間/空間〉は、俳句理論を追求した結果からだけではなく、むしろ子規自身の病者としての身体性の必然から生まれ、探求された方法であった点を、本論では具体的に論証する。また、子規の〈時間〉意識を分析することで、子規が創作を進める過程で、人生の再検討へと思索が深まる過程を分析し、さらに短歌連作では、時間が効果的に用いられ、〈死〉や〈喪失〉が〈美〉として昇華されるという〈美〉の方法について論じる。自己の心身の変化を題材に、〈人生〉を考察し再検討しながら進化していく文体や歌自体に、彼の美学と死生観が表出されている。近年進んでいるナラティブ研究も参考に、子規の文学と死生観への新たな評価につなげたい。
俳論の展開
――俳論における〈時間/空間〉
明治三一年からの子規の仕事は短歌革新に重みがかかり、俳句理論は主に明治二八年から三〇年の『俳諧大要』『我が俳句』『明治二十九年の俳句界』『俳諧反故籠』『俳人蕪村』で展開され、明治三〇年の冬には完成(久保田正文「写生における空間性と時間性」(『子規全集 四巻』解説、昭和五〇年一一月)したとされる。子規の俳論で特徴的なのが、発句における〈時間/空間〉の要素だ。この二つの要素は、〈客観/主観〉〈写生〉概念とともに、子規の俳句理論の柱でもある。久保田正文は、「時間的、音楽的、余韻余情型。アイディアリズム。虚子」として、例に「冬帽の十年にして猶屬吏なり」「佐保神の別れかなしも来ん春にふたゝび逢はんわれならなくに」を挙げている。また、「空間的、絵画的、印象明瞭型。リアリズム。碧梧桐」として、「鶏頭の十四五本もありぬべし」「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」を挙げ、整理している。実際、『明治二十九年の俳句界』で、子規は前者に「客観」「具象」の語や、後者に「主観」「抽象」の語を用いている。『俳諧大要』では、「写実」「空想」もこの分類に分けられ、用いられる。子規が俳論で引用し、両者の性質が特化していると指摘した句をあげると、〈空間的、客観的、印象明瞭、絵画的〉が、蕪村の「柳散り清水涸れ石ところぐ」であり、芭蕉の「夏草やつはものどもの夢の跡」は、 〈時間的、主観的、余韻余情、音楽的〉として分析されている。この中でも、「時間的」要素がもたらす余情余韻は、子規の随筆でも効果的に用いられる。俳句理論における「時間的」な俳句の性質には、主観的要素が強く、そこに空間的要素や事物の変化がどの程度含まれるか、〈過去/現在/未来〉をどのように組み込むかで、バリエーションや物語性といった複雑さも生まれ、俳句の余韻余情が醸し出される構造だ。このように、明治期の文学手法において、形式やジャンルの違いを超えて共通する〈美〉の方法として、子規は俳句理論を試みている。
令和元年9月25日受付(Received September 25, 2019)
* 新居浜工業高等専門学校一般教養科
(Faculty of General Education, National Institute of Technology(KOSEN), Niihama College, Niihama, 792-8580, Japan
『松羅玉液』
方法としての〈追体験〉
――病者の〈時間/空間〉
『松羅玉液』が書かれた明治二九年の直前、子規は大きな転換期を迎えていた。日清戦争への従軍を切望した子規は、明治二九年四月に従軍記者として願いをかなえ、その結果、劣悪な環境による持病の悪化、帰国時の船内での結核再発、神戸病院への入院。その後九死に一生を得、須磨保養院で療養後、カリエスで歩行困難となる。「小生はいよいよやけなり 文学と討死の覚悟に御座候」(明治二八年一一月二四日付書簡、『子規全集 第十八巻 書簡一』講談社、630頁)と覚悟が決まる時期だ。
では、実際に随筆『松羅玉液』における〈時間/空間〉を見ていこう。本作執筆時の子規の状態は、ほぼ寝ていることが多く、ごく稀に体調の良い時だけ杖をついて俥で外出し、ほとんど家の中で過ごしていた(2)。そんな中、「松羅玉液」では、数年前の旅の思い出を回想し、追体験し、発句する場面が頻出する(「旅行」「夏川」「避暑旅行」「京都」「愚庵」など)。当初は、病者の〈空間的制約〉を乗り越えるため、過去の経験、想い出、記憶からの旅を追体験し、発句するという趣向で、「臥遊紀行」が書かれた。〈過去〉に飛ぶことで、病床にある〈現在〉の空間的制約、行動の限界から解放され、自由に旅をすることができ、旅行したように発句できるのだ。『松羅玉液』の発表時期は、俳論が多く提出された時期でもあり、写生論で有名なことから写実主義の印象が強い子規だが、随筆を丹念に読むと、想像力の方法が使われる場面も多いことがわかる。俳句理論が生み出された背景にも、手法としての過去の追体験のように、子規の身体性の問題があり、3彼の身体の必要がその方法を選ばせ、実作で深めた過程が読み取れる。
春雨のつれづれ枕を敲いて歌へどもまぎらすべくも あらず。静かに思へば常総の山河眼に 浮び心に現はれて七年前の膝栗毛に水戸の旅籠屋を追い出されたる事など一人笑壷に入ること多きを折ふしこの頃の時候なりければ麗かなる野道の景色、菜黄麦緑の中に川の面は見えで白帆莚帆のつらなりたるまでさながらに昔の事とも覚えず。思ひいづるままに彼よ此よと空中の幻華を捉へて一句二句終に臥遊紀行とはなりぬ(以下、傍線引用者)。
足二本同行二人春の風
年譜によると、「七年前」の明治二二年に、四月二日より七日まで、水戸旅行に出ている。途中人力車や川舟を使ったものの、相当な距離を歩いた。当時、子規は二三歳で、第一高等中学校本科一年に進学し寄宿舎生活を送り、漱石とも交流が始まった時期だ。特に〈足〉が題材になった点が興味深い。「同行二人」は、子規の故郷でもある四国の巡礼者・お遍路が、弘法大師といつも共にあるという意味で、笠などに書きつける言葉だ。血気盛んだった若者の「足」は力強く、遍路のように水戸をどこまでも歩いた。現在の子規からは想像のつかぬ、強い歩み。その歩みには、実は単に自分の足の力だけではなく、目に見えないものの守護や力添えがあったと、自由な「足」を失った今、思い返す。これれも現在からの考察の結果詠われたものであり、ただ恵まれた状況に対して幸運を享受するのではなく、人間の手を離れた人生の偶発性、ドラマを読む視点となっている。
「夏川」は、「昔夏季休暇で帰省」した折、「田舎の友」を訪ねた思い出により発句している。
昔、夏期休暇を得て帰省し居たる頃田舎の友を訪ひたる時のけしきを思ひいでてそれより考へつきたるが多かり。或時、松窓松南の二人とつれだちて武市某の村荘を訪れんと城下を出で二里にして内川に来りしに橋なし。(略)われ三人の中にて年少なりければ木履を脱ぎ裳を蹇げて川に入り、いざたまへ渡し参らせんと背を向くるに松窓いと気の毒がりて負はれけるを渡し次に松南をも渡しけり。松南やや肥え居たりしかばさぞ重かりしならんなど背の上よりいたはりたる総てきのふの如き心地す。われ君を負ふてとはこの時を思ひ起こしたるなり。
過去には、友を背負い、川を渡った、夏の日の健やかな「われ」が描かれ、〈現在〉は、自分の足で立つことすらままならないわれが描かれる。健康を喪失した現状により、〈過去〉の健やかな「われ」の身体性が、鮮明になる。「総てきのふの如き心地す」とあり、発句の手法としての「臥遊紀行」より、より主体の追想の側面が強化されている。〈空間的制約〉を補う役割で始まった発句の手法が、回を追うごとに、〈旅〉〈想い出〉〈健やかだった自分〉と〈現在の自分〉をめぐる追想・感概へ、重点が強まる。〈時間〉意識への重点の移動と考えて良いだろう
以上のように、旅の追想で発句した際の特徴としては、〈現在からみた過去〉が詠われる。〈過去〉を再現しているものの、〈過去〉にあったものを喪失した〈現在〉だからこそ詠われる句であり、その構図のゆえに深い感興が生まれる。〈現在/過去〉という時間の行き来で生じる、作者の認識のフィルターがある。〈過去〉を想起する〈現在の自分〉・〈主体の視点や感想〉が、表現する際に付随する。
この時期、子規がいかに〈旅〉を恋うていたか。明治二九年八月頃の書簡では、体調が不安定で、この時期は家に閉じこもっていた。病状は変わらないが、暑いので心持ちはよいほうで、四か月ぶりに行水したところ三十八度余り発熱した旨を伝え(明治二九年八月九日付大原恒徳宛書簡『子規全集 第十九巻 書簡二』講談社、62~63頁)、「腰痛少しはげしく室内の歩行思ふまゝならず熱はないやうになりたれど身体疲労ははなはだしく」(明治二九年八月一八日付高浜虚子宛書簡『子規全集 第十九巻 書簡二』講談社、65~66頁)とある。また、「友どちも皆方々へ遊びに行き一人とり残され候やう覚え申候」(同上・大原恒徳宛書簡)、「当地俳友一時離散の姿にて」「秉公は伊香保へ参り候 墨水静岡に在り未だ帰らず 種竹山人明日将に松島へ赴かんとす 小生昨年今日須磨を発して松山へ向ひ候と存候 多少の感慨」(同上・高浜虚子宛書簡)と、俳友たちがそれぞれ避暑旅行へ出かけ、自分一人根岸に残る悔しさが吐露されており、去年須磨から松山へと旅立った日の追憶もある。
当初、俳句の方法としての〈臥遊紀行〉で、〈旅の追想〉は趣向・楽しみといった軽やかさがあった。その後、「避暑旅行」が書かれた時期は、子規本人の現状に対する口惜しさ、旅への憧憬が強まっていた。
肋骨野州に閑居し碧梧桐その後を追ひ翻つて榛名に 遊ぶ。壮遊いづれか羨ましからぬはなけれど殊に榛名は十年前一たび屐痕を残せし所、今にして当時を思へば胸中一種の感慨に打たれて嗚咽に堪へざらんとす。曾遊を追懐して数句を賦す。
やゝ寒みちりけ打たする温泉かな
草むらや露あたゝかに温泉の流れ
高楼やわれを取り巻く秋の山
山駕や榛名上れば草の花
駕二つ徒歩五六人花薄(中略)
徒然坊さきつ頃小田原より端書おこせしが新聞を見ればいつの間にやら富士へ上りたりと見ゆ。いまいましさに堪へねばわれも富士に上りたるつもりにて一、二句
余の夏を見おろして居る寒さかな
星凍る銀明水や土用の入
唾せば若し夕立となりやせん(以下略)
碧梧桐の榛名行きは、十年前自分も旅行した地でもあり、「今にして当時を思へば」と、今の自分が不自由であるからこそ、健やかに旅をした日の楽しい思い出に、「胸中一種の感慨に打たれ」、涙をこぼすという風に描かれる。ここからも、〈旅の想い出〉=〈健やかで自由だった、昔の自分〉の姿であり、未来に起こる悲劇や不自由など想像もせず、無邪気に旅をし、健やかさと自由を謳歌していた、かつての自分そのものとして描写される。いずれの思い出を想起しても、そこには現在の自分との変化、差異がある。
こうして〈過去の追体験〉は、俳句の方法をこえ、最終的には、自らのたどってきた道を省みる行為となる。「胸中一種の感慨」の語にこめられた複雑な心情は、語られないまま、「曾遊を追懐」した「数句」が添えられる。また伊香保温泉や榛名山を詠った五句には、〈過去の旅〉を追想して発句したための感慨と、病人の不自由をこえ、想像の中で自由に空間を動き、自由や感動を追体験するさまが詠われる。最後には、歩行不自由、外出もできない人が、富士山に「上りたるつもり」で発句する。そこでは、笑いと悔しさが入り交じり、喪失や不自由を嘆くだけではなく、独特の滑稽味がうまれる。
当初は〈空間的制約〉から自由になる発句の方法であった、〈過去〉の追体験が、単なる方法だけではなく、〈追憶〉の働きを強めていく。過去は、健やかで自由だった自分の輝き、失われたものへの追慕、こうなるとは思っていなかった自分が描かれる。一方、現在は、過去の自分を喪失し、今も生きる〈私〉と、そのように歩んできた〈私〉の人生であり、すでに過去の自分にとって、未知の経験をした自分となる。追体験の中で〈過去/現在〉を考察する「私」は、それらを俯瞰した視点となる。人間の生命の〈統制不可能〉、〈偶発性〉〈未来の予測不可能性〉と、つねに喪失の可能性をはらむ事実。これらがそのまま、〈現在/未来〉を想像する際に、響いてくる
『松羅玉液』における、試みの臥遊紀行の最後は、「京都」だ。五年前に、紅葉の名所・京都の三尾を訪ねた思い出。「高尾の楓の葉を自らのハンケチに打ちこみ」などし、さらに虚子も合流し、「打ちつれだちて」嵐山を見に行き、酒を飲んだ。そして子規の語りは、ただ過去の出来事の叙述だけではなく、今の自分からみた感慨を述べる。
この日の興筆に書きがたし。この時われは尤も前途多望に感じたりし時なり。われに取りては第一の頸敵なる学校の試験と縁を絶ちたりし時なり。ましてこの勝地に遊びこの友に逢ふ。喜ばざらんと欲するも能はず、これを抑ふればますます喜びは力を得て逬発せんとす。わが顔は喜びの顔なり、わが声は喜びの声なり、わが挙動は喜びの挙動なり、はては一呼一吸する空気の中に喜びの小児は両腋の羽を動かして無数に群れたるを見る。この時のわが喜び虚子ならでは知るまじ。この時の虚子の喜びもわれならでは知るものなし。目前の何が楽しきかと問はば何が楽しきか知らず。前途に如何の望かあると問はば自ら応ふるに能はず。しかれども人間の最も楽しき時は何かは知らずただ楽しき時にあるなり。喜び極まりてしかも些の苦痛も感ぜざりしはわが今日までの経歴にてただこの時あるのみ。既往かつ然り、今後再びこの喜びあるべしとも覚えず。
木老いて帰り花だに咲かざりき
十数行のうちに「喜び」「楽し」の語が頻出する。後の『墨汁一滴』における〈楽しみ〉〈自由〉、〈苦〉について書かれた箇所(3)を思えば、これほど手放しな子規自身の「喜び」「楽」が書かれた箇所は、随筆中でも珍しい。〈過去〉の喜びと楽しみを存分に語った後に、かつての自分の何も知らない無邪気さ、屈託のなさを観察し、考察をのべる。何が楽しいかと問われれば分らないけれども楽しく、前途にどんな希望があるかと問われても答えられない。だが、「人間の最も楽しき時」は、なにも知らずにただ楽しい時だ、とする。そして、〈過去〉を振り返り、子規は「わが今日までの経歴にてただこの時あるのみ」とし、その喜びの時間が、実は特別なものだったと、〈現在〉の地点から語るのだ。
「前途多望」で、無邪気だった〈過去〉の子規は、それが特別なひとときだとは思いもつかなかったかもしれない。失われて初めて実感する気づきだ。また「既往かつ然り、今後再びこの喜びあるべしとも覚えず」という言葉も加えられ、〈過去〉にみつけた純粋な喜びや楽しみと、〈現在〉の自分を比較していた軸を、さらに「今後」=〈未来〉まで広げる。おそらく苦痛が増える一方の〈現在〉から、思い描く〈未来〉は、〈過去〉の自分が思い描いた「前途」とは全く異なる、苦痛にみちたものなのだろう。予測不可能とはいえ〈死〉が絶対の終着点として予想され、選択も限定された〈未来〉であり、予想されるのは苦痛であり、楽しみや喜びは少なく、希望も少ない。子規は自分の歩んできた道を振り返り、あらたな考察を得つつ、〈これからどう生きるか〉と思わずにはいられない。最後につけられた一句は、読みとくまでもなく、子規の今とこれからを詠った句だ。「人間の最も楽しき時」を語ったこの箇所は、もはや発句する手段としての回想より、人生の追体験を通して得た、哲学的なテーマが入り込み始めている。このテーマは、そのまま『墨汁一滴』で「頭の黒い真宗坊さん」に言われたという「大問題」にも繋がる。「大問題」とは哲学的な問題であり、『墨汁一滴』で増えはじめ、『病床六尺』ではもう一つの核となった〈死生〉の問題であり、〈苦〉の多い〈生〉をいかに過ごすかといった問いだ。
では、なぜ、「京都」はさらに深刻味を帯びたのか。「京都」が発表された時期は、明治二九年一二月二三日であり、直前の記事「白馬会」は一〇月二二日だ。十一月から一二月中旬までの間、『松羅玉液』の連載は中断していた。その間、子規は十一月に胃痙を病み、虚子・碧梧桐が交代で看護をし、『松羅玉液』の「病み初めたるは」(『松羅玉液』)でも、その様子が俳句に詠われている。「胃痙にかかり一生にない痛い目を見」(明治二九年一二月一〇日付柳原正之宛書簡、『子規全集 第十九巻 書簡二』講談社、91~92頁)、書簡も一一月は極端に少なく、あってもごく数行である。
この時期の状況として、書簡などの私的な文章では、親戚や友に、自分の素直な心情を吐露している。が、随筆など公の作品では、際立って深刻なテーマを書くことはなかった。『松羅玉液』でも、病状の深刻さや、自分の現状への感慨が書かれる場合、ごく短く簡略に書かれた。それらの感慨は、短文全体の余韻余情をさそうエッセンスとして添えられるものであり、自分の病状や身体不自由への想い、人生の有為転変への感慨が、中心的テーマにはならなかった。しかし、十一月の病の侵攻による心身のダメージが、子規の心境に影響したと考えられる。それまで気丈に書かれていたコラムが、およそ一ヶ月間のブランクをへて書かれた「京都」では、雰囲気が一変している。そこでは、五年前の京都旅行を思い出す際、過去に比べ、変わってしまった自分への感慨がある。過去の追憶行為から生まれる感慨や考察を深め、既往を振り返り、〈過去/現在/未来〉へと思いを巡らせる、人生の再検討に完全にシフトしている。再び〈病い〉の侵攻を体験し、確実性のある〈未来〉の時間軸が失われ、〈過去〉から 〈現在〉をさかのぼってえられた人生の不如意、不確実性が語られている。
〈病いの語り〉研究
――病者独特の心の揺らぎ・〈語りの難破〉
前述したような病者独特の心の揺らぎを、〈病いの語り〉研究では、〈語りの難破〉という語で解き明かしている。病の臨床人類学者・アーサー・w・フランクは自身も癌サバイバーであり、再発の可能性を抱えた人で、検査の際に異常らしきものが告げられる時、「自分の語りの難破ぶりに目眩のする思い」を体験したと明かしている。自身や他人の病を語ることに慣れた〈病いの語り〉研究者でさえも、自分の生命の危険にさらされるたびに、自分の人生をどのように語るか、自己をどのように語ればいいのか、語る言葉を失うという(4)。
子規の随筆における〈語り〉の変化を考察する際も、フランクの指摘にある〈病いの語り〉と〈時間〉の関係性は、示唆に富む。フランクの指摘によれば、聞き手も語り手も、〈語り〉に対して、〈過去から現在へ〉という時間軸の中で話の筋をとらえ、それと同じ時間軸の中で、〈未来〉を想定する。そうして解釈された〈現在〉から、人は無意識にも〈予測可能な未来〉を導き出す。しかし、〈病い〉は、そんな人間の時間軸をつき崩し、人生を〈予測不可能なもの〉として、偶発性をより強固に自覚させる。身体や生命に変化をもたらす〈病い〉によって、病者の言葉はゆらぎをはらみ、一度再構築された〈語り〉ですら、病状が変化すれば、〈身体〉からの必要・要求として何度も揺さぶりをかけられる。時には、まったく言葉を持ち得ないほどに、〈語り〉そのものが、破壊されてしまうときもある。そのような状態は「語りの難破」とされ、自己の〈存在〉や〈意識〉そのものが、実は自らの〈身体〉に強く影響し支配されていることも示唆している。〈病いの語り〉は、身体と自己との対話の中で、何度もつくり変えられるものであり、それは時に、自己と身体との闘いともいえるような、自己の存在意義をかけた激しい葛藤となる。なぜなら、〈語り〉や言葉をまったく持ち得ないということは、その人にとって、自分にとって人生の意味づけをまったく持ち得ないと同等の状態が生まれるからだ。端的に言えば、自己物語の喪失である。それに耐えられないからこそ、人は何度でも、自らの〈語り〉を紡ぎ出そうと、試み続けるのかもしれない。
子規の場合も、〈語り〉は安定したものではなく、揺らいでいる。『松羅玉液』の一ヶ月半にわたるブランクは、子規の〈身体〉との対話の時間であり、それを経た後、彼の語りが変化するのも、もっともなことなのだ。『松羅玉液』を書きながら、彼もまた常に変化する病状とともに、自らが体験している現実に合う〈語り〉を模索していた。また、『松羅玉液』における回想は、過去から現在までの変化をみつめることで、〈喪失〉から人生の意味を問う作業になっている。病いが、身体的自由を奪い、生活や人生における可能性を奪う。そんな〈喪失〉の過程から、人間が生きる意義をふりかえり、人生の意味を見つめるようになる。失意や混乱のなか、病や苦痛を通して〈身体〉と〈自己〉と向き合い、自らの〈生〉の意味を問い直す過程自体が、〈語りの難破者〉にとって、新たな語りの創造となる。『松羅玉液』でいえば、「京都」での人生の考察がそれにあたる。子規の文章も、そのような〈意味〉と〈語り〉の破壊と再構築の行為、ゆらぎながら人間存在や人生の本質を探究する運動であり、それ自体が、彼の創作過程の中で、独特の語りや表現となっている。さらには、子規の死生観、生命観の問い直しに繋がり、また、〈時間/空間〉といった新たな方法論の実践的創造に繋がっていた。
『墨汁一滴』
前作『松羅玉液』と『墨汁一滴』の間の四年間で、子規の病状も心境も大きな変化している。身体の回復の可能性もより深刻なものに変化し、楽観視出来ない。それに伴い、〈過去/現在/未来〉といった自分の人生を再検討する心境も、切実さが増す。
子規の考察する〈未来〉
――〈現在過去〉から〈未来〉へ
人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確実になるならひなり。我病牀における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ耶蘇はこれを救ひとやいふらん。(一月三十一日)
上の箇所では、〈過去/現在/未来〉の時間軸が、下敷きとなっている。五年前から現在に至るまで子規の病状の変化が語られ、人間の希望や願いの変化と、その心理について考察している。かつて〈せめてこれだけは出来たらいいのに〉と思い描いた希望が、身体の衰弱と不自由の増加により、次第に縮小するさまが丁寧に書かれ、例えば、庭の内を歩行する事、立つ事、座る事、苦痛なく安らかに臥す事と、希望が変化する。これらの彼の行動範囲が次第に狭ばまっていく過程も、〈空間〉的に表現されている。そして、最終的に「希望の零となる時」という状況では、際限なく「希望」が縮小していくのが〈現在〉ならば、「希望が零となる時」は〈未来〉だという。「釈迦」や「耶蘇」を出して、「涅槃」「救ひ」という語でほのめかすが、〈死〉とは言わないのが興味深い。 子規の未来認識について分析してみると、〈過去〉から〈現在〉を再検討した上で、〈現在〉から〈未来〉を思い描くという形で、子規の〈自己の再認識〉は繰り返される。不確定な未来とはいえ、このままでは「希望の縮小」が確実であり、「楽」「自由」も減り、失望や悲しみをもたらすものとして〈未来〉が形つくられる。〈未来〉に対して、人は誰しも、確定的な範囲と不確定な範囲を残したまま、思い描くしかない。子規にとっては、〈死〉という確定的要素と、そこにたどり着くまでに残された時間が、〈未来〉となっている。そして、何度想像しても納得のいくフォームを得られないからこそ、何度も〈過去/現在/未来〉の時間軸を持ちだし、〈これまでの人生〉と〈これからの人生〉が、検討対象となっている。前述したように、子規の随筆において、当初、自己の置かれた現状に対する悲嘆と喪失感から、〈過去〉を回想する懐古的な行為として時間軸は使われており、〈過去/現在〉の検討の方が、より頻度が高かった。しかし、次第に〈未来〉に思いをはせる時間軸も頻出しはじめる。それも、楽観視できない病状の変化が、子規の〈死〉への意識の高まりをうながしたからだ。〈未来〉の中に、〈死〉がより明確な形を帯び始めたからだともいえる。
〈死〉〈死後〉を想像する
病状の変化により具体性を帯びてきたことにより、『墨汁一滴』では次第に〈死〉が描かれる。五月二十一日の記事・〈閻魔大王との対話〉も、落語調の洒落の利いた内容になっているものの、内容は意味深長だ。閻魔大王の前に自ら赴いた子規が、閻魔大王と対話するのだが、〈死〉にまつわる人間の心理が、滑稽譚として描かれる。この滑稽話の要点をまとめると以下のようになる。いつお迎え=〈死〉が来るのか知りたい心、苦痛が続くのなら十年延命したくない、早いお迎えを待つ心情が明かされる。また、〈死〉は予測不可能のほうがいい。しかし、〈死〉が現実としてすぐさま突き付けられた時、まだ躊躇いがあるといった本音が吐露される。
また『墨汁一滴』連載開始の二年前には、随筆「墓」(「ホトトギス」第二巻第十二号、明治32年9月10日、『子規全集 第十二巻 随筆二』 324~332頁)では、自分の臨終、葬式や棺の中、墓に入った後などを滑稽に創作。落語の滑稽話スタイルを借りながら、死後の世界を展開している。死後、自分の身体がたどる現実的な状況を想定し、それを見守る形で、自己の意識が死後も続いている点が興味深い。そこでは、〈主観的死/客観的死〉と両面から分析され、〈主観的死〉=「死んで」しまう「自己の形態」=〈身体〉である自己であり、〈客観的死〉=「自己の形態が死んでも/生き残つてゐる/自己の考」=観察している自己としている。これらも子規独特の分析ともいえ、〈客観的死/主観的死〉の感覚の差異は、〈身体〉と〈自己〉を切り離す視点、「自己の形態が死んでも」「生き残つてゐる」「自己の考」により成立している。また、「死後」(「ホトトギス」第四巻第五号、明治34年2月28日、『子規全集 第十二巻 随筆二』 510~519頁)でも、死後の遺体の扱われ方を観察し、火葬により骨がなくなるのは、淋しいとの感想を残し、文学理論の〈客観/主観〉を通して培われた彼の視点意識が、メタレベルの視点を可能にしている。 以上、この段階での子規の〈死〉をめぐる言説の特徴としては、〈死〉自体は、他からもたらされる、受動的なものとして意識されることが多い点、〈未来〉を検討することで考察すべき対象となった〈死後〉は、不確定なまでも何度か表現され、子規には〈死後〉〈死後の自分のありよう〉がすでに範疇にあった点。また、客観的視点、観察者としての視点を取り入れることで、自己の〈死〉を〈客観/主観〉の両面から観察していた点があげられる。特に、自己の〈死〉を 〈主客〉両方面から観察できる観察者の視点が、彼を肉体的な死の恐怖や苦痛、個体としての死の不安を、軽減していた面も付け加えたい。
子規短歌にみられる〈時間〉と〈生命〉
子規は、「美の標準」を「抽象的の者にして具象的の者に非るなり。即ち美術的の形体を成す者非ずして美術に逢ふて始めて其美醜を判し得る者なり。故に美術品を見て不完全なりと判定するも、完全なる者は此の如き者なりとて之を形に現すことは能はざるなり」(『明治二十九年の俳句界』)とし、〈美〉は形のない概念であり、芸術作品の比較を通しその形に迫ることはできるが、「最上の美」が何であるかと、絶対を示すことはできないと述べる。この点からも、子規が絵画や音楽、文学、俳句、短歌と様々な分野を横断したのも、いずれも〈美〉に迫ろうとする方法の一種と考えていたと推測される。しかし、子規の〈美〉を考える上では、彼の本業であった俳句・短歌の実作と理論に、子規の美学が最も具現化していたものと考えられる。そんな子規の〈美〉の意味を考えるのに興味深いのが、子規が当時評判となっていた中江兆民『一年有半』について評した箇所だ。この子規の反応は、同時期に病と死について書き、好評を博していた兆民に対する嫉妬だったのではという評価もある。むしろ興味深いのは、子規が、兆民と自らを比較し、「美」について指摘した点だ。「居士はまだ美といふ事少しもわからずそれだけわれらに劣り可申候」と、「理ひそみ居候」とされ、夕顔の花が夕風にそよぐ風情で結んでいる 。子規はつねに、「病い」「死」と、併せて「美」「楽しみ」を考えており、それが兆民と子規の違いなのだ。子規の短歌は、近代短歌の確立という役割が評価される一方、そこに描かれた〈美〉の構図や方法は、人間の普遍的な真理・〈美〉であり、日本文化の美意識や精神、生命観、死生観との連続性がある点を、本論では指摘したい。そこで、以下、『墨汁一滴』中に発表された藤の花十首、佐保神の十首から、具体的に子規の〈美〉を分析する。この二つの連作は、子規短歌の代表作ともいえ、俳句理論で展開された〈空間/時間〉〈客観/主観〉〈印象明瞭/余韻余情〉の主要素から分析することで、彼の〈美〉の構造について考察する。藤の花十首と佐保神の十首は、彼の文学理論が方法として実践されており、その内容は、彼自身の生命を題材に〈自然〉をうたうことで、生命の〈有限/無限〉と〈美〉の形となる点が特徴だ。
藤の花十首
――〈喪失/再生〉と〈有限/無限〉
瓶にさす藤の花ぶさみじかければ
たゝみの上にとゞかざりけり瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり
藤なみの花をし見れば奈良のみかど
京のみかどの昔こひしも藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出て写さんと思ふ
藤なみの花の紫絵にかゝかばこき紫にかくべかりけり
瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れんとす
去年の春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも
くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり
この藤は早く咲きたり亀井戸の藤咲かまくは十日まり後
八入折の酒にひたせばしをれたる
藤なみの花よみがへり咲く
俳句理論での〈時間/空間〉をもとに、時間的要素から藤の歌十首を読むと、その流れがみえてくる。第一首、第二首は空間的な歌だ。藤の花をそのままに描写している。そして、第三首から「奈良のみかど京のみかどの昔こひしも」と、藤の花から古の都におもいをはせるといった風に、〈過去〉が持ち出され、時間的な要素が入る。第五首は具体的な藤の花から、それを写生する際の意図に「こき紫」と、藤の花にちなんだ「物語の昔」の古人を慕う作者の想いが出る。大岡信は、この連作は「単なる眼前の花の写生、描写の歌として読むのでは、この歌を理解したことにはならない」とし、子規が源氏物語を読んでいた点にもふれ、詞書にある「物語の昔」の重要性を説き、「子規は眼前に花を見ながら、同時に古京の代表的な花だった藤のイメジを思い」、「子規庵の藤の花のささやかな姿は、奈良の昔、京の昔をいろどっていた色あざやかな藤の豊満なまぼろしと重ね合わせになって子規にみえていた」とし、だからこそ第五首が詠われたのだとする(4)。たしかに第三首、第五首は、藤の花を通して「源氏物語」の雅やかな時代、宮廷の優美な世界へさかのぼっている。そしてそれは「昔」であり、今は無きものであるからこそ、さらに幽幻であり、余情が際立つ。しかし、「物語の昔」に飛んでいた優雅な調子が、第六首では一変する。「病の牀に春暮れんとす」と、主観的な短い時間の経過が示される。ここでは「春」という抽象的な時間が使われ、「暮れんとす」で主観が強められ、余情余韻のほうへより比重が強くなる。藤の花と共に古都まで旅した時間が、再び現在の「病の牀」に戻り、かつ、そこでは「春」が「暮れ」ようとしている。「こき紫」といった王朝の華やかな藤浪がしのばれる調子が、今現在に戻ってきた際、「病の牀に春暮れんとす」と、黄昏めいた、いささか寂しげな〈現在〉、現実へと変化する。藤の花は依然と美しく垂れているのだが、配置として、下の句に病の床の春が添えられ、〈現在〉はあやうさをはらみつつ、繊細な均整の上で浮かびあがる。第六首は上の句だけ見れば、第一首、第二首と同じ、客観的、空間的な藤の花の描写とも受け止められる。しかし、第六首の下の句の〈現在〉が出される点、また間にある三首によって、連作の第一首・第二首の始まりの地点での純粋客観ともいえる地点から、主観の余韻余情が色濃くなっているのだ。第一首から第六首まで、「瓶にさる藤の花ぶさ」「藤なみの花」「瓶にさつ藤の花ぶさ」と、上の句はみな同様の言葉で始まるが、その下で受ける言葉、また下の句で変化が生まれ、一首一首ごとに、時間の要素や異なる意味が生まれ、広がりが出ている。仮に、第三首から第五首までを取り除き、第一、二首の後に第六首が置かれた状態を想像してみると、その違いが明確になる。第三首から第五首まで、〈過去〉の雅やかな歌物語の世界のイメージを効果的に使い、藤の花に華やかさが増し、調子にも明るさが出た上で、第六首の〈現在〉に戻り、第一首、第二首の地点の〈現在〉から、より主観的な〈現在〉の意識となる。〈現在〉の語り手で藤の花を眺めるときの視線、描写する心情、意味合いによって余韻余情が深まってくるのだ。
この連作は、全体として時間的な要素が随所に効果的に使われ、余韻余情が生まれている。余韻余情が多く含まれる時、その題材は時間の経過により〈今は無きもの〉〈失われたもの〉が多く、〈喪失〉が核である点も見逃せない。その点、第六首の「時間」は、現在(進行形)の失われゆくものを詠った歌だ。そして、第七首では「去年の春」という割合最近の〈過去〉が取り上げられ、第三首・五首とは異なる質の〈過去〉が登場する。それは歌人が直接経験した〈過去〉であり、より主観的であり、追憶の行為となる。子規が寝たきりで、家から出られない病人であることは周知の事実であり、〈去年の春に亀戸で藤の花をみた〉という回想は、外出先でみた藤の花の思い出を懐かしく回想すると共に、下の句「今藤を見て思ひいでつも」で、今は病床で藤の花をみる(しかない)という〈現在〉との対比がなされる。第三首・第五首で詠われた〈過去〉も、今は現存しない、失われた時代・人々という点で余韻余情をさそうが、それはもっと大きな時代や世の流れであり、茫漠とした夢物語の雰囲気でもあった。第七首の〈過去〉は子規自身の、今は現存しない〈失われた時間〉や〈失われたもの〉を追想した〈過去〉であり、より個人的で主観的な叙情といえ、切実さが増している。〈過去〉といっても、源氏物語の王朝の〈過去〉から、子規個人の亀戸の思い出まで、さまざまなレベルの〈過去〉が読み込まれ、連作の〈時間/空間〉の広がりをもたらしている。病床にある子規の、客観的で直接的な現在の経験からだけでは、このような〈時間/空間〉の拡大、収縮は表現できないだろう。そこに源氏物語の時代の藤や、亀戸の藤を盛り込むことで、作品に変化と流れが生まれる。これまで指摘してきたように、子規作品において〈過去〉の再現は想像力の活用の方法として使われてきたが、やはりここでも欠かせない、重要な趣向になのだ。
第六首が一つの境目になって、連作の中の時間は、転調する。再び現実的な〈現在〉の時間に戻るのだ。第六首、第七首で個人的な要素が提出されることで、主観的な抒情が醸し出される。が、再び、第八首で客観的な歌になる。第九首では、今年の亀井戸の藤の開花と、目の前の藤との時間差が詠われ、亀井戸の藤の〈過去〉の余情が、〈現在〉の藤に中和されていく。亀井戸の藤は今年も咲くだろう。しかし、「この藤」よりも十日あまり後のことなのだと、「さきだちて」「早く咲」いた「この藤」を目の前にする喜び、〈現在〉に重心が置かれる。「くれなゐの牡丹」にも先立って咲く、藤の花。その中でも「早く咲」いた「この藤」の、季節を先取りする、新鮮な瑞々しさが広がる。最後の第十首をどう読むか、迷うところなのだが、「この藤」がやがて「しをれ」、「八入折の酒」に浸した事実を詠ったともとれるが、酒に浸すのは、行為として少々ドラマティック過ぎる観もある。歌の趣向として想像の中で詠ったととる方が、説得力があるように感じられる。空想にしろ、実体験にしろ、「よみがへり咲く」の語で、花の甦生、生命の再生が印象付けられ、想像であっても現実であっても、しおれても蘇る藤の花のイメージとなる。それまで連作中に様々なレベルや方法で組み込まれていた、写生的な客観的、空間的、現実的な藤の花と、主観的、時間的、空想の中の藤の花とが、最後の一首では混然としている。ただ感じるのは、藤の花の存在と生命の「よみがえり」、繰り返される生命である。
さきほど、第六首を読む際に、第一首、第二首と並べて分析したが、この第十首も同様に分析すると、藤の花の質の違いが感じられる。第一、二首と第十首だけを比較すると、どちらも空間的・客観的な描写とも取れるが、藤の花の質はやはり異なる。間にある歌の描写や調子を受け、第十首は時間的・主観的な性質をはらんでいる。仮に、間の歌を存在しないものとし、ただこの三首だけ並べた際には、第十首も客観的であるが、第一首、二首ほどの感動はなく、深みのない一首のように感じられる。子規は俳句の十句、短歌の十首という連作の形を、一つの方法として選び、試みた事は有名である。一つの題で十句、十首、一度に詠いあげることがテクニックを磨くために有効な方法だったのだそうだ。この十首では、単にテクニックというよりも、一首一首の歌の配置によって、調子や余情の流れが生じている。例えば、『墨汁一滴』の〈鯉の十句〉をみてみると、こちらは「数は十句にして十句にあらず、一意を十様に言ひこころみたるのみ」と子規自身書くように、連続で詠うことのリズムや流れ、運動、うねり、心情の動きは感じられない。テクニックとして試みたものの、連作の作品として、躍動感がないのだ。その点、藤の花の十首は、一首一首が異なる趣向を見せながら、それぞれが関連しあい、全体として一つの流れを作り、作品としてまとまりをもつ。単にテクニックの試みではなく、作品として完成度が高く、数倍の深まりを見せている。
以上のことから、藤花の十首は〈空間的/時間的〉要素を巧みに織り込みながら、連作であることで一つの世界観を作り上げているとわかる。なおかつ、連作の底に流れているテーマが意味深長なのだ。〈過去〉などの時間的要素が使われる際、〈喪失〉〈今はないもの〉〈失われたもの〉が一つの核であった。そして後半の第八首から第十首までは、〈くりかえし〉〈再生〉〈蘇生〉という、もう一つの概念がでる。第十首は、後者の要素の象徴し、観念的で抽象的な藤の花の〈生命〉が表れているといったら飛躍しすぎだろうか。ここでは、観念の中、想念の中の花の美しさと、存在としての美しい花が、同時に体現されている。そして、花をとおしてみえる、失われゆくものへの悲哀と儚い美しさ、一方で、くり返される〈生命〉〈自然〉への希求と調和。この二つは、〈有限/無限〉に対する、日本人や日本文化の感性と精神に近い。〈現在/過去/未来〉という時間軸から、〈喪失/再生〉、〈有限/無限〉といった法則・摂理にいたり、そこにある種の〈生命の形〉と〈美〉が体現された連作なのだ。連作を詠った作者も、またそれを受けとる読者も、そこになにか〈美〉を感じる。連作のなかの藤の花の姿かたち、花への想念や叙情、そのどちらも一体化した〈美〉だ。そしてその〈美〉の質や中身そのものが、日本文化の美意識や精神、生命観、死生観に繋がっている。
佐保神の十首
――〈有限/無限〉と〈わかれ〉
藤の花の十首が、〈過去/現在〉が技法として活用された連作とするならば、佐保神の十首は〈現在/過去〉の時間軸が主軸となった連作だ。時間的な要素は、余韻余情を多く含み、主観的な要素を多く表現するというのが、子規の理論であった。佐保神の歌ではまさに、〈現在〉から〈未来〉の時間を反復することで、〈現在〉の自分の存在や生命の有限性、儚さ、不確実な様が浮き彫りになる。自然の四季や草花の〈うつりかわり〉や〈くりかえし〉と、「われ」が、共に詠われる。
佐保神の別れかなしも来ん春に
ふたゝび逢はんわれならなくにいちはつの花咲きいでゝ我目には
今年ばかりの春行かんとす病む我をなぐさめがほに開きたる
牡丹の花を見れば悲しも世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも
別れ行く春のかたみと藤波の花の長ふさ絵にかけるかも
夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも
くれなゐの薔薇ふゝみぬ我病いや
まさるべき時のしるしに薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽摘みし昔おもほゆ
若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり
いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べ秋草花の種を蒔かしむ
心弱くとこそ人の見るらめ。(五月四日)
まず、前項で分析した藤の花の十首と比較すると、佐保神の連作では、歌い上げる叙情の熱量が断然高まっている。より歌らしく感情が詠われているのだ。そして、〈空間的〉な性質だと感じられる歌が、極端に少ない。目の前の草花や庭を題材に取り上げていても、主観的な〈時間〉を詠った歌となる。そして歌を配置することでの〈時間的〉〈空間的〉な拡大、縮小といった動きもあまり感じられない。試みに、それぞれの歌の配置をシャッフルして変えたとしよう。第一首と第八、九、十首は〈起〉〈結〉として動かし難いが、その他の歌は、配置の仕方で多少の印象の違いはあるとしても、移動しても全体としてのまとまりや統一感、印象を崩さない観がある。藤の花の十首では、シャッフルや配置換えは難しいだろう。全体の統一感や緊張が崩れてしまうからだ。以上のことから考えて、佐保神の十首にまとまりをもたらしている特徴に、歌人の声の熱量の高さ、叙情性が考えられる。いろいろな題材をとりあげつつも、第一首から高い熱量で、いずれも歌人の叙情性が噴出した、感情的で情熱的な歌がつづく。また、主軸になるのが、〈現在〉から〈未来〉の変化という〈時間〉的要素であり、かつ作者の調子も主観、感情を中心としていることから、〈時間的〉な性質が顕著に出た連作といってもいい。
では、この連作で詠われている〈時間〉とは、何か。「来ん春にふたゝび逢はんわれならなくに」、「今年ばかりの春行かんとす」、「別れ行く春のかたみ」、「秋待ちがてぬ我いのち」。来年の春を迎えられないかもしれない、もう春は一度しか味わえない、この秋すらも迎えられない……といった風に、〈時間〉は、不確実な〈未来〉と、自分の生の不確実性、有限性を表現するものである。目の前の草花に春をみつけながら、来年の春を思い、この秋を思い、それを味わえないかもしれない「われ」に視線は移る。否、おそらく最初から自分の生命の有限性を意識しているからこそ、草花や自然、〈現在〉の春の美しさに、過剰な想いが噴出されるといったほうが、正しいかもしれない。自分の命の有限性の自覚、死の予感が明確に意識されているから、第一首から、あれほどまでの叙情性の高まりがあるのだろう。
「いちはつの花」が咲いても「我目」には、「今年ばかりの春」がすぎていく様にみえる。ここには、「我」の春の有限性、毎年春に咲く「いちはつの花」=自然の〈くりかえし〉=無限性とが、対照的に配置されている。「牡丹の花」は「病む我をなぐさめがほに開きたる」。しかし、「我」が一度きりの春を味わっていても、牡丹の花自身は、来年も咲き、また春を迎えるだろう。だからこそ、「我」を哀れにおもい「なぐさめがほ」なのではないか。「見れば悲しも」と歌い手の視点で感想が吐露されているが、擬人化されていることもあり、「牡丹」と「我」の位置が同じ目線に感じられるのだ。「我」が愛でた「山吹の花」は「散り」、「世の中は常なきもの」と教える。さらに、「藤波の花」に対しては、「別れ行く春のかたみ」に、絵をかく。第一首でも「佐保神の別れかなしも」と、「別れ」と「かなし」という感情が合わせて詠われる。この第五首では「別れ行く」のは「春」である。歌い手の「われ」は「別れ」を意識しているのだ。
「別れ」とは、共にあった者同士が離れることである。去る者と残される者、または両者が各々違う方向へ分かれるといった場合もあるかもしれない。そこで、こんな疑問も浮かぶ。一見、佐保神の連作では、〈行く春〉に、季節の移り変わり、逆らえない時の流れが重ねられ、去っていくのは「今年の春」であり、残されるのは「我」のようでもある。しかし実際は、この世から去っていく「我」と、来年も再びくりかえすだろう「春」「花」といった、二重の別れなのである。実は、ここまで歌い手を駆り立てるものは、去っていく「我」の「別れ」の問題なのである。去っていく「我」の心の動揺や感情が、春や草花を焦がれるように詠い、求めている。「夕顔の棚」を作ろうと思っても、「秋待ちがてぬ我いのち」なのである。〈未来〉に目を転じ、次の季節に夕顔の花が咲くのを知っていても、その時「我」はこの世にいないかもしれない。やはり去っていくのは「我」なのである。
一方、第八首から十首では、前半の叙情性の高まりを受けながら、連作は「結」の流れを見せ始める。前半の感情の高まりと、その収まりどころをどこに持っていくか。まず、「昔」を登場させ、〈過去〉が表れる。萩は、秋の花であり少々時節違いにも思われるが、歌い手の視線はすでに次の季節・秋に向っており、萩の花を登場させる。〈未来〉である、次の秋を思うのではなく、より確実である〈過去〉の秋の記憶をたぐっている。第九首は、現在の「われ」の状態をそのまま提出している。ここでも、「若松の芽立ち」の若々しい新芽の息吹がある一方で、「熱いで」る「われ」がおり、自然の生命の上昇・活性と、「われ」の生命の下降・沈静が、対比的される。客観的な状態として、自然の生命の豊かさ=〈無限〉と、「われ」の生命の〈有限性〉が提出されている。最後の第十首は「いたつきの癒ゆる日知らに」と〈未来〉の不確実性が認識されているが、「秋草花の種を蒔かしむ」と、とりあえずは種を蒔くことで、幕を閉じる。あれほど「別れ」が強烈に意識され、生命の有限性、限りある命を自覚しているが、せめてこの秋の草花を見たいと、種を蒔く。来年の春は無理だとしても、せめてこの秋は…ということかもしれない。 去っていく「われ」と、来年もくりかえされて残るだろう草花や自然。「別れ」を言わなければいけないのは、「われ」であり、その「別れ」をいかに受け入れ、いかに対処するのか。この〈別れ〉の観点は、〈死〉の恐怖や他界論に傾きがちな〈死生〉の問題を、180度転換させたもののようにも思われる。つまり、〈死〉は必ず来る必然として受容するとして、その先に、では「われ」がこの世から去っていく〈この世との別れ〉に対して、人はどんな感情を抱き、どんな風に向き合い、受け止めるのか。死ぬことは、ただ自分の存在が無くなるから恐ろしく、悲しいだけではなく、この世の人や物たちと別れ、彼らとの関係性や繋がりを失うからこそ、悲しいという点も、また事実である。子規の短歌でいえば、その〈別れ〉を悲しむ、名残惜しく思う心情にも、また独特の〈美〉がある。自然の〈無限〉と、人間の〈有限〉の間で、その両者を存分に感受した歌なのである。
おわりに
――子規の〈美〉と死生観
日本人の死生観において、〈わかれ〉を重視した研究に、相良享『日本人の死生観』(一九八四年六月、ぺりかん社)がある。相良氏は、加藤周一『日本人の死生観』(一九七七年五月、岩波新書)、磯部忠正『無常の構造』(一九七六年十月、講談社現代新書)をあげ、彼らの論を基本的に正しいとしながら、一点だけ不足を指摘した。相良氏は日本的な宇宙の調和があるとして、では、なぜ死に際して悲しみが起こるのかという疑問を投げかけ、感情の側、悲哀の側から論を展開している。相良氏は「死は別れ」であり、「悲しみ」として受けとめる感覚に、日本独特の感性を指摘する。『伊勢物語』の最後の段を引き、悲しみの感覚・感情に重きをおき、人間の率直な感情や情緒としての〈死〉を、本居宣長の思想や、前期歌論の〈あはれ〉や後期の〈自然霊妙の神道〉を軸に展開したのが、相良氏の「わかれ」「かなしみ」論である。これらの「わかれ」「かなしみ」に通底する、〈あはれ〉の感情は、感情や感覚で〈死〉を理解し受け止める姿勢だ。日本では、歌や文学だけにとどまらず、文化そのものが、このような〈感情の共同体〉で成り立ってきたとされる。唐木順三は、『自然といふこと』で、日本人の自然観の特質についても、個別の中に普遍をみる「具体的普遍」を指摘し、それが日本人の「感情の共同体」と、その感情教育によって受け継がれた点を指摘している(5)。感情の共同体とは、「本居宣長風に言えば、『もののあはれをわきまへしる』」(6)ことであり、「『あはれ』共同体」を指す(7)。そんな日本独特の感性を基盤とすることで、「初めて三十一文字、十七文字という短詩型が、詩として成立しえた」とされ、「恋の贈答歌を恋の表白として相互に理解しえたのも、連歌や俳諧連句が複数者の共同作業たりえたのも、その背後に共通の感覚、感情があったから」であり、「言語をそういう関連において使うことが詩人の詩人たる所以」とも指摘される。文化の中に「あはれ共同体」が共有する感情があり、それを言語化できる感性が、詩人の感性であったという。
これらの本居宣長の思想は、子規が〈歌は感情を述べるものであり、理屈ではない〉とした点と相通じる。子規も、歌においては善悪の道徳的尺度・〈理〉ではなく、〈美〉の規準において価値をはかるべきであり、「歌は感情を述ぶるもの」としている。〈理〉よりも、〈感性〉〈美〉に重きを置いているのだ。子規の死生観からみても、短歌にみられる調和や美は、大きな意義をもつ。散文において、子規の〈死生〉は「大問題」として追究され、容易に決着がつかず、理性と感情の間で往復する。最終的には、『仰臥漫録』では達観がみられ、『病床六尺』の問い続ける文体へとたどり着くのだが、最後まで一つ所に落ち着かず、〈答え〉という形を得なかった。しかし歌では、有限の生命をもつ人間の個別性と、無限の生命である自然の普遍性とが見事に調和し、〈美〉という形に昇華されている。〈死生〉を、「理屈」ではなく、歌人の「感情」で表現しながら、それは古来から繰り返されてきた自然の循環であり、共有された感情であった。子規の短歌連作にみられる、〈わかれ〉〈かなし〉も、表現を変えながらも、〈あはれ〉の美と同じ構造となっている。方法や表現は新しいが、そこに盛られた美は、古来の日本の美との連続性がある。
子規の短歌における〈死生〉の調和と美。宗教を否定しながら、自然と人間とのかかわりにより、個人によって美的昇華された死生観、生命観。これらには、美学や人間学への志向性をもつ、日本文化の特徴も見出すことができる。磯部忠正『「無常」の構造 幽の世界』では、〈神という絶対者〉や〈ロゴス=理性〉で問う西洋の側から見れば、日本文化の思想性、精神性が評価しにくいという点と、西洋のキリスト教的・ギリシャ的な〈理性〉の文化と、日本の〈感性〉の文化、美学の文化とを比較している。この日本の〈感性〉について、さらに例を挙げると、歌における〈こころ〉に集約できるかもしれない。ドナルド・キーンは、『古今集』の仮名序を評して、「貫之が、詩人が超自然的存在に影響を及ぼす力を持つと主張している」点が、興味深いとする。「西洋」は「超自然的な存在が詩人を通して語り、詩人は単にその言葉を伝えるために霊感をあたえられた媒体」であり、ミューズやほかの神々の助けをえるものだったからだ(8)。さらに、そんな「こころ」文化は、山崎正和『劇的なる日本人』(9)によると、「神のない美学」と評される。「要するに、貫之の思想は、普遍的な存在を確信する西洋全体の伝統に対立するように思われる。すなわち貫之の主張を要約すれば、日本の歌は表現する人間の心を唯一の『種』として、その背後にいっさいの普遍的な精神や生産力を予想することなく生まれているということになる。詩歌の根底に人間の心がある。ということは今日では常識だが、そこに人間の心しかないということは、西洋の伝統から見ればじつに驚倒すべき非常識なのだ」とされる。日本人にとってはごく当然とされてきた感覚が、西洋の芸術や美学の側からすれば、ただ人の心から発している点で、驚くべき特質を持っていることとなる。これは、西洋では、芸術や美学は、宗教や信仰のといった〈神〉の下に位置するものとされた文化的歴史があるからだろう。一方で、日本は、自然になにかを感じる〈こころ〉そのものに価値を置いた。
このように、西洋の絶対的基準としての「神」「ロゴス」に対し、日本には古来から「歌」「こころ」が存在していた。この「歌」「こころ」が宗教や哲学ではなく、美学であることが、日本的な特徴なのだ。磯貝氏はさらに「日本人が芸術としての歌と宗教としての歌とを截然と区別することができない。むしろ、歌を信仰にまで深化する」として、明治維新の勤王志士や第二次世界大戦の特攻隊の辞世の歌を例に挙げ、稚拙ながらも、詠わずにいられない彼らの心情を「『あはれ』の発露であり、『あはれ』の昇華」とし、「日本人は究極的には別れのみ表現しうるような生き方をする」とまで言う(10)。 これらをふまえると、子規が〈死生〉を表現した際の、散文と歌の表現の差異も説明が可能なのだ。散文では、理知的、論理的に分析する問いの方法がとられ、〈死生〉が「大問題」としてつきつめられ、問いは問いとして残りつづけ、終着点が見えない。〈時間〉意識を用いながら、〈過去・現在・未来〉の時間軸により、人間の存在の哲学的問いに発展する。一方で、〈歌〉をみるとき、感情と自然と個人の調和があり、それが死生観、生命観に昇華されている。それはまさしく「『あはれ』の発露、『あはれ』の昇華」といっても〈美〉の構造なのだ。子規の短歌革新は、古今批判から始まったことは有名だが、彼が自身の〈死〉〈生〉を歌にしたとき、まさに〈あはれ〉〈こころ〉と重なる美の構図を持っている。古今批判は、形骸化された歌の伝統に対する破壊であり、決して〈歌〉の心そのものの破壊ではなかったのではないだろうか。また、表現手法によって異なるならば、俳句で表現された〈死生〉との比較も検討の余地がある。その点は、紙幅の関係上、本論では触れなかったが、今後の課題としたい。
註
(1)「明治二八年一二月[十日頃]付大原伯父宛書簡、『子規全集 第十八巻 書簡一』(講談社、74~78頁)
(2)『子規全集 第二十二巻 年譜』に、子規の当時の病状が窺える。子規は明治二八年十一月の帰京後、腰骨の痛みから歩行不自由となり、明治二九年二月には腰骨の痛みで一週間程褥中で過ごし、以降寝褥のままの状態となる。三月には、リウマチ専門医に、リウマチではないと診断され、三月末に佐藤三吉博士執刀で、第一回のカリエスの手術を受けている。明治二九年の子規の外出としては、幾度か鴎外の家を訪れ、詩人の会や句会に参加、二度ほど板橋赤羽で一泊したり、船橋で一泊してもいる。おそらく体調の良い時は杖をつき、俥で外出することもあったようだが、ほとんどは家内で過ごし、不自由を味わっていた。
(3) 『墨汁一滴』三月十五日の記事(同上、61~62頁)。
(4) アーサー・w・フランク『傷ついた物語の語り手 身体・病い・病理』(二〇〇二年、ゆみる出版)。
(5)唐木順三「自然といふこと」初出は、昭和四〇年七月、講座『思想の歴史』第四巻(平凡社)。『日本の心』昭和四〇年一〇月、筑摩書房に収録。本文引用は、『唐木順三全集 第九巻』筑摩書房、昭和四三年二月。
(6)『唐木順三全集 第九巻』筑摩書房、昭和四三年二月、251~252頁より
(7)唐木順三『日本人の心の歴史 上』(初版・一九七六年三月、筑摩叢書)、ちくま学芸文庫、38~40頁
(8)山崎和正『劇的なる日本人』
(9)注8と同じ
(10)磯部忠正『無常の構造』(一九七六年十月、講談社現代新書)103~105頁)
- 本文引用は岩波文庫版『松羅玉液』『墨汁一滴』、書簡に関しては『子規全集 第十九巻 書簡一』(講談社)、年譜に関しては『子規全集 第二十二巻 年譜・資料』(講談社)の「年譜」を適宜参照


