森盲天外著「一粒米」を読む①序文~第1章まで

『一粒米』は、失明の境涯に在る著者・森盲天外翁が口述されたものを筆録し、成稿された作品です。 自序に曰く、「書中の一字一字は、ほとんど苦心と困難の結晶にして、滴々の涙痕を残すものなり」とあり、また「前後の文章を繰り返して見ること能わざる悲しみの痕を留む」とも記されております。

本来、斯の如き作品は、原文のまま拝読し、その筆致に滲む痕跡を直に汲み取ることこそ、最も望ましき鑑賞の在り方です。 しかしながら、明治期の文語体は、現代の読者にとって理解の困難を伴う箇所も少なくありません。
本訳におきましては、原文の風韻を損なうことないよう細心の注意を払い、可能な限り削除を避けつつ訳出いたしました。 ただし、語彙の変遷や、仏教・儒教に基づく思想的背景の理解を要する部分につきましては、意訳をもって補いを試みております。

本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。

※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。

意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
                                             

目次

新渡戸稲造による序文

 森氏が私の家を訪問され、この本の原稿を見せてくださった。
昨日から読み始めて今夕読み終えた。私は三十年前に医者から「視力を失うことになる」と宣告を受けて、一時は死を覚悟したほどであるから、それ以来、目の見えない人に対しては特別な同情を抱いている。そのため、この本の最初の部分を読む際に、何度も涙で紙面を濡らしてしまった。
本の中で人生に対する絶望について書かれた章は、そうなるのも当然のことだろう。お母様に対する思い、奥様や子供たちに対する愛情は、一般的な人間の感情から言えば極めて当然のことで、人生に嫌気がさすのも無理からぬこと。ただただ同情せずにはいられなかった。ああ、もし私だったら、森氏より劣る人間だったら、死ぬこともできずに、朝から晩まで人生を悲観し、運命を恨んだことだろう。しかし、この災難を幸福に転じたところに偉人の偉大さがある。
家の敷居を一つまたぐことさえ大変なのに、深い谷底から一気に天に昇るような力強さは、まさに精神の非凡さを証明している。その体験談は、私たちが謹んで耳を傾ける価値がある。たった一粒の米でも、それを受け取る人が受け取れば、一万石の米に勝る栄養となる。
私たち人間は何も考えずに世の中を渡り、人生の本当の意味を知らない。わずかな給料をもらえば安心し、世間で少しでも名前が知られれば得意になり、名声や利益を成功だと思い込むだけでなく、自分が名声や利益を得るためには人を害してでもという下品な心まで起こりやすいこの世の中で、「人生の目的は徳を明らかにすることである」「人生の最も大切な務めはすべてのものの向上を助けることにある」「それを達成するには犠牲が必要で、犠牲の目的は人生の完成を目指すことだ」と力強く叫ぶ指導者は有り難い存在である。
しかし、口先や文章で人の真似をして説くことなら、一通りは誰でもできる。けれども、自分自身が人生の悲惨な状況の極限まで達し、自殺まで考えた人が、一転して人生の楽観的な福音を説いてくれることに対して、私たちはどのような言葉でこれに感謝すればよいだろうか。
私たちは中途半端に目があるからこそ疑いの気持ちに駆られ、物事の重要度も判断せずに、それぞれが自分の主張に固執し、自分の好むものを正しい道とし、気に入らないものを間違った道と呼んで、一度自分と信念を異にする者があれば敵のように見なして、狭い世の中をさらに狭くし、短い命をさらに縮めている。しかし、霊的な目を持った人は、肉体の目が無くても道を踏み外さない。両足だけを頼りに進む者は、広い街路に出ると何かとためらいがちに歩き、あれもこれも自分の進行の妨げになるものと考えるが、霊的な光に照らされた人は、独立してまっすぐに進み、道幅が足の踏む分だけあれば、細い道を辿って目的地に到達する。森氏は、私たち肉体の目を持った者たちが迷う道を、何の苦労もなく安らかに踏んで進んでおられるのである。
私は森氏の声や話し方に接するたびに敬愛の気持ちが高まり、会話の際に目があることを恥ずかしく思ったこともある。同時にまた一層、視力を失わずにいることを天に感謝する気持ちを深めた。森氏の精神的体験は目の有無とは関係がない。これこそが氏の教えが広く私たち人間の益となる理由である。
今回この本を出版されるにあたり、序文を求められたので、私は喜んでこれに応じた。しかし、これは普通の序文とは違う。精神的な世界の後輩が、先輩に対する敬いと感謝の気持ちを表す言葉である。

明治四十一年三月八日
新渡戸稲造 記す

自序

 あぁ、両目が明るく物を見ることができたのも、今はもう十余年も昔のことになった。
一度病気のために暗黒の世界となってからは、何とかしてその回復を図ろうと努力した。つまり、暗闇の境遇から脱出することが、この時の私の強い希望であった。
この希望が強ければ強いほど苦痛と煩悶が激しいので、今日から見れば、この苦痛と煩悶がかえって病気を悪化させたような気もするし、かえって希望から遠ざけたような気もする。この回復の希望に駆られていた間は、明と暗という異なる二つの境遇が闘争を続けて、いよいよ人生の予測できない大波乱に巻き込まれて、これから逃れ出ることを知らなかった。しかし、一度希望が断絶すると共に、明暗二境の争いはその跡を絶った。

それでも暗黒の境遇に苦しんで、理想を実現することのできない身となっては、時に臨み事に当たって、また人生の失望に陥り、厭世の極に達した。この失望を脱却するには、ただ死、死があるのみだと思い込んだ刹那に、一粒の米は私の旧天地を打破し、私に新たな天地を与え、新たな生命を与えた。ここにおいて人生を生きる理由を知って、その趣味の甚だ深いことを悟らせてくれた。
進んで一粒の米の奥深い意味の中に、人生の最大目的、人生の最大要務をも理解することができては、今の私は以前の私ではない。かつて苦慮し煩悶したことも恥ずかしく思い始めて、一粒の米の光明は、現在から将来にわたって永く私の暗黒の境遇を照らす常灯となった。ここに人生の楽観を開悟し、死の境遇から救われたのである。

私はこの消息を綴って「一粒米」と題し、これを世に公にしようとするのである。

要するに、人生の失望と煩悶の反面に、美しい楽観が存在していることを紹介して、人生に失望し煩悶する人々に勇気を与えようと、あえてこれを企てたのである。
しかし盲目の身には文字がないのである。筆を取っても書くことができず、書に接しても読むことができない。それ故これを書きこれを綴るその苦心と困難は、他人の想像し得ないものがあるのである。書中の一字一字がほとんど苦心と困難によって綴られたのである。粒々皆辛苦によって成った米よりも、なお辛苦の勝るものがあるのである。実に滴々の涙痕を残しているのである。
文を綴るにも人を頼まなければならず、人のために自分の意思の制約を受けなければならない。私の心が進まない時でも無理に努めることもあり、私の心が進む時にかえってその人を得られないこともある。その人を得た時は、すでに私の腹案を逸し去ってしまったこともある。また私とその趣味を異にする筆記者は、時に怠惰な気を生じてあくびを漏らし、小刀を弄び、机を叩くなど、私の腹案が出ようとする矢先を挫いて、たちまち文章を乱し系統を破るようなこともあった。
よろしくこの書中を一瞥されたならば、明らかに事実がこれを証明しているであろう。ある時は一気呵成の文章を成している所もあるだろうが、むずむずと折れに折れてしまって支離滅裂の所もあるであろう。また前後の照応や、文字の誤謬や、文章の重複や、実に錯乱している所が多いだろう。これも前後の文章を繰り返して見ることのできない悲しみの痕を残しているのである。

時に筆記者に読み返してもらって改めようと思っても、あまりに何度も読ませるのは人を労するに堪えないこともあり、またこれを早口調に読まれて、耳にのみ聞く私はその文句を耳底に留めかねて、この句をこのように改めようと指図することができないのである。その間の私のじれったさ情けなさ、このようではとても原稿を完成させることを得ないと失望して、幾度かこれを中止したことであった。
むしろ点字を以て、自らこれを書こうかと、点字板や、ポイント、タイプライターを取り出してポチリポチリ、ガチガチと厚紙に点字を突き出してみた。指の先で一字一字その字型を探り読みに読んでも見たが、その迂闊さその間緩さ、なかなか間に合ったものでない。またこれをも廃止して筆記に改めたが、参考書なども自分が探り出すように思うままにならず、時に癇癪を起こし、ついに人も私も共に事を廃して、ただ暗涙を呑んだこともある。それ故参考書としては更に見ることもできなかった。もう少し取り調べしてと思ったことも大抵にして置いたから、杜撰の責は免れないであろう。このような苦心と困難が、この冊中に含まれているのである。

このような事情の下に綴り上げたこの書であるから、文章として物になっていないだろうし、系統としても整っていないだろう。実に乱暴である。その乱暴なる所に盲人の真相を現わしているのである。
私は学もなく識もないのである故に、本書を著すのは学識を以て誇ろうとするのではない。学識の上より言えばこれを人に譲らなければならないのである。しかれども私が盲目の境遇に処して、失望し煩悶したるその実験は或いは人に勝るものがあるを信じるのである。この境遇上の深刻なる実験は他人の想像し得る所ではない。人はこの境遇を知らないのが幸福である。
けれども既にこの境遇に投げられた私は、失望と煩悶が一種の偉大なる力を以て、私を不幸より引き出したる愛の手となったのである。私にしてこの失望この煩悶が無かったならば、今日の境遇にいて更に人生の光明を認めなかったことであろう。安心の新天地を得なかったことであろう。更に無窮の新生命を得なかったことであろうと思えば、私が実験上より得来たりし所の消息を伝えて、暗黒より見たる人生の福音を告白するに、浅学非才の乏しきを顧みるに暇がないのである。
学は必ずしも万巻の書中にのみ存するのでもないだろう。道は必ずしも聖賢の舌頭にのみ説かれるものでもないだろう。

私の不幸の境遇は実に偉大なる力を以て、一種の信仰を与えた。かの一粒の米のために乾坤を打破されて、初めて霊的の光に浴することを得た。畢竟一粒の米の微量も無限の真理を含んでいるからであろうが、また私の境遇の不幸が失望となり煩悶となり、その煩悶その失望が一種の力を以て、この真理の深い扉を開いたによるのであろう。
しかれども真理は不思議なもの底のものである。故に私はなお信不及ばざるを得ないのである。世の大方の諸氏、同情を以てあえて魯魚の誤りを咎めず、私の確信の迷夢を打破して、暗黒の境遇に一層の光明を加えられんことを希望するのである。

東都において
明治41年5月
森盲天外記す

第1章 人生の波乱

第1節 天皇陛下をお迎えする

日清戦争(一八九四~一八九五年)の際、明治天皇が戦争指揮のため広島に大本営を設置された時の記録である。筆者も愛媛県代表として広島で天皇をお迎えする栄誉を得て、間近でその御尊顔を拝し、深い感動を覚えた。後に盲目となった筆者は、その記憶を何よりの名誉として回想している。当時の国民の天皇への敬愛の念、戦時下の緊迫した雰囲気、そして個人の貴重な体験記録として読むことができる。

 振り返ると明治二十七年(一八九四年)のことでした。あの朝鮮で東学党の乱という農民蜂起が起こり、南部の郡や村がしきりに陥落して、反乱軍の勢いがますます激しくなっていたとき、朝鮮王朝(韓廷)はこれを鎮圧することに、ほとんど無力な状況でした。
その時、清国(中国)はこの機会に乗じて、狼のような野心を満たそうと、ひそかに戦艦を動かし、軍隊を進めて、朝鮮の独立を侵害しようとしました。清国のこの行動は、全く天津条約(一八八五年に締結された日清間の朝鮮に関する取り決め)を無視するものであって、わが国としては結局黙って見ているわけにはいきませんでした。
清国の併合主義は、ただ朝鮮の独立を妨げ、東洋の平和を乱すだけでなく、さらにわが国の利益を阻害し、わが国の権利を軽視するものです。どうしてこれを傍観していることができるでしょうか、いやできません。
朝鮮は長年わが国の東隣の友好国ではありませんか。また、わが国の指導によって列強諸国の仲間入りをさせた独立国ではありませんか。朝鮮の興亡はわが国に少なからぬ影響を与えるのではありませんか。友情の上から言っても、利害関係の上から見ても、われわれが再びこれに対抗しなければならないのは、実に情勢上やむを得ないことなのです。
そこで日本軍(皇軍)は正義を掲げてこれに応じ、もっぱら朝鮮の独立を保護するために勇気を奮い立たせました。たちまち豊島沖海戦となり、牙山の陸戦となって、清軍は完全に敗北したにもかかわらず、なお抵抗をやめませんでした。日本軍はさらに進んで平壌、九連城の敵を各地で打ち破り、さらに進んで遠く燕京(北京)を包囲して、降伏させようと努めていたのでした。
ちょうどその時、わが大元帥陛下(明治天皇)は、陸海軍の指揮を機敏に行うため、大本営を広島に移されることとなり、すなわち九月十三日に皇居をお出になられ、その十五日に大本営を広島城に設置されたのでした。
ご出発に際しては、帝都(東京)の臣民が万歳の声の中でお見送りし、沿道至る所で、潮が湧くように人々がお迎えし、広島へのご到着の時も、また遠近から駆けつけてお迎えする人々が無数におり、熱い誠意と敬虔な態度で歓呼したのです。
私も幸いに、愛媛県会議長の白川福儀氏と共に、愛媛県を代表して、お迎えするという光栄を担い、恐れ多い気持ちで急いで広島に向かったのです。
広大な平野、そびえ立つ山岳、とうとうと流れる長い川、ゆったりと広がる海の波が、一斉に秋の色を呈し、多くの松や柏の木々は、茂り合って皇室の永遠の繁栄を示し、色とりどりの草花は、美しく咲いて億万の民の忠誠心を表し、空高く空気は澄み、大地は豊かで馬は肥え、見渡す限りの光景は美しく、天皇陛下のお到着を待ち受けているかのようでした。
広島の全ての家々は、はためく国旗、きらめく軒先の灯り、整然とした幕で飾られ、これによって敬意を表しています。お通りになる道筋は地面にきれいな水を撒いてほこりを抑え、道に白い砂を敷いて人の足跡もないという状況です。軍隊が警備し、警官もまたこれを護衛しています。松原停車場は言うまでもなく、至る所お迎えの人々で満たされています。
時がきました。前面に国旗を交差させた長い列車が、煙を吐いて線路を進んでくるのは、天皇陛下の御用列車でした。朝廷も民間も含めてお迎えする人々は、ここで厳粛にその身を引き締め、息を止めて、天皇陛下の御車が通るのを待っています。やがて天皇陛下の御車は構内に止まりました。「大元帥陛下万歳」の声は天地も崩れるほどに三回叫ばれました。その後はまた静寂に戻り声もなく、ただ松風の音楽に調和して静寂があるのみでした。
この時、陛下はお顔美しく、ゆっくりと御車をお降りになり、すぐにお供の文官・武官を従えて、鳳輦(ほうれん:天皇の乗り物)にお移りになりました。儀仗兵がこれを護衛し、先導の人々が道筋を進み、先駆け、また先駆けして、太った馬に鞭打って軽やかに蹄の音を響かせて過ぎた後から、鳳輦はゆっくりと進んで、無事に大本営にお入りになりました。
私は停車場構内で、お迎えするという光栄を得て、恐れ多くも天皇陛下の美しいお顔を間近で拝見し、感激がこみ上げて恐縮するあまり、どうしてよいかわかりませんでした。

後に病気を得て盲目の身となり、過去を振り返ってこの時の光栄を思い出すたびに、いつも全身に熱が生じ、感動はさらに深いものがあります。最も聖なる最も高貴な天皇陛下のお顔を間近で拝見した光栄は、臣下の名誉としてこれに勝るものはないのです。

今すでに盲目となって再びその栄誉を得ることができないと思うと、当時の光栄は、ますます大きなものとして感じざるを得ないのです。同時にまた一層の感激を抑えることができないのです。

今や大元帥陛下が広島に滞在されることによって、広島の天地は驚くべき輝きを放ちました。文官・武官の多くの役人は美しい服を着飾り、ある者は太った馬に鞭を当て、ある者は軽やかな車を駆って大本営の門を出入りし、五百人余りの議員は、臨時議会の召集に応じて、東西から集まってきます。一般の人々も、それに従って互いに行き来して、その混雑は実に大変なものでした。

それでなくても、開戦以来この地は輸送の中心地となって繁栄し、いつも人々が肩をこすり合うほどの混雑状態を呈していたのに、今また更に何倍もの熱気を加えたのは、ひとえに大元帥陛下がお出ましになったことによるのです。

このようであれば、国民の意気はいよいよ上がり、軍人の士気はますます振るい、日本軍の前途はまさに勝利が予想されるものでした。

第2節 広島の旅先で病気を発症する

筆者が広島で天皇陛下をお迎えした翌朝、突然左目の視力を失った体験を記録したものです。美しい太田川の景色を楽しんだ夜から一転して、朝起きると左目が見えなくなっていたという衝撃的な事実に筆者は深い悲しみと驚きを覚える。
急ぎ松山に戻り病院で診察を受けるも、眼底はすでに朦朧としており、病名の確定にも時間を要するという。右目も安全とは限らないと告げられた筆者は、恐怖と不安に駆られ、専門医の診察を求めて東京行きを決意する。左目を失っても右目が残っていることに一抹の安心を覚えるが、両目を失う可能性に思いを巡らせると、将来への不安が膨らみ、心は乱れていく。
途中広島で商人の賀田金三郎氏に面会すると、氏は戦時の好機を逃すまいと、筆者の目の光を犠牲にしてでも時間を貸してほしいと申し出る。その覚悟には感心しつつも、筆者は目の光を金銭に代えることはできず、両目の視力の尊さを改めて痛感しながら、東京へと旅立ったのであった。

太田川の清らかな流れを私の宿の後ろに望み、本安橋の長い橋は夕日に輝いて、白い帆が風をはらんでいます。櫂を軽やかに操る小舟が、川を上ったり下ったりしています。市中を歩く人々も、この美しい景色に心を洗われるようでした。私はすでに天皇陛下をお迎えするという任務を終え、一大光栄を自分の名誉に加えた喜びは、この眺望とこの光景によって、ますます心の爽快さを感じさせたのです。

まさに夕食をとろうとする時、美しい音楽の声が、川を隔てた対岸の高い建物から響いてきました。奏楽の音響は、あるときは強く、あるときは弱く、上がったり下がったりして、人をすぐに立ち上がらせ、すぐに踊らせます。その感動は天地を調和させて、聞く者に殺伐な戦争があることを忘れさせるかと思えば、また美しい奏楽は弦の音が節々と、あるときは剛健に、あるときは強く、勇壮の極致を奏で破って、聞く者に血湧き肉踊る思いを起こさせ、戦時の士気をますます奮い立たせました。これは西郷海軍大臣の宿泊先での催しでした。

少しして、また上流にある土方宮内大臣の宿泊先に、奏楽の声が湧き出しました。広島の天地が、今やあらゆる所で音楽の美しさに変化して、あるときは殺伐な気持ちを奪い去るかと思えば、すぐに戦意を思い起こさせ、また昨夜の広島とは違う感じがありました。私は白川氏と共に夕食を終え、市中の光景を見物しようとした後、宿に帰って気持ちよく眠りについたのです。

翌朝、本安橋を走る車輪の音、太田川を下る船頭の声に、光栄ある半夜の夢を破られ、ゆっくりと寝床から起き上がりました。仲秋の朝の風が肌に気持ちよく、前夜眺望した光景の名残が、私をすぐに欄干へと向かわせたのでした。

ところが、この時私の左目は朦朧として、すぐ近くのものさえも見分けることができないのです。私はすぐに手でこすって、さらに視力を強めて見ましたが、なおぼんやりとして白と黒を判別することができません。しかし、私は自分の目を信頼することが厚いので、何回も拭い、何回もこすりましたが、ただ雲霧の中を見ているのと変わりません。不思議に思って詳しくこれを見ると、なんと数個の黒い点と数個の黒い線とが、朦朧とした中に認められるだけでした。

ここにおいて私は、自分の目に異常が起きたのだということを初めて知って、そして非常に驚いたのです。私は生まれてから目を患ったことがなく、むしろ目の健康で視力の強大なことは、ひそかに誇りとするところだったのです。それが一夜にして突然このようになろうとは、とても信じられないことなのです。

『夢か、夢か、夢ならば覚めよ!』

私はなお欄干にもたれて朝風を浴びています。心にははっきりと昨夜の名残の光景が浮かんでくるのに、左目は少しもこれを見る力がありません。私の思いがけない驚きと共に、白川氏の驚きもまた実にひどいものでした。ああ、わずか八時間前、前夜の眺望はこれをはっきりと見ていたのに、ただ半夜の眠りが、私の目を永久の暗闇にしようとは、もとより私の予期しなかったところで、また驚かざるを得ないのです。悲しまざるを得ないのです。

ああ、太田川の清流は波々として今もなお尽きることがなく、本安橋の長い橋は美しく今もなお変わりません。しかも今の私は昨日の私ではありません。悲しみの極み、驚きの極みでした。

そこで私は治療を受けるため、急いで松山に帰ったのです。

松山病院に駆けつけて谷口院長の診察を受けた時は、すでに眼底は朦朧として見ることができません。その何の病気であるかを決定するのにさえ、なお数日の診断を重ねなければならないと聞いては、ひょっとして治療の機会を失うことはないだろうかという不安も起こりました。また健康だと頼りにしている右目も、病気にかからないとは保証し難いということを、院長から告げられた時は、私はいよいよ恐怖の念を生じてとても心細くなりました。

むしろ専門の大家に治療を受けるべく、一日一日、一刻一刻の猶予ができないような思いが強くなってきました。そこですぐに旅行の準備を整えて、東京に出発することとしました。この時私は左目を失ってもなお右目の光があるので、あまり不自由も感じず、いくらかの安心もありましたが、しかし、右目もまた左目と同じく光を失うに至っては、どのようにこの身を処すべきかなど、将来の心配に胸をかき乱され、妄想がしきりに起こって抑えることができなかったのです。

一つの目を失してもなお一つの目の光があるから、それほど不自由を感じないようではありますが、今まで両目で見ていたものを、急に一つの目で偏って見ることとなっては、視線の角度を誤り、歩いても物を取っても、その高さや位置が違うので、とても不自由でした。

私はいよいよ東京に出発しました。途中広島に立ち寄って、大倉組の賀田金三郎氏に面会しました。氏はこの戦時を利用して金儲けの最中でした。私が病気のために東京に行くと語ると、賀田氏は私に対してこう言いました。

「この金儲けの時代は一日また千金である。むしろ君の一つの目の失明くらいならば、これを捨てて時間を私に貸してくれないか」

賀田氏が金儲けのために一つの目を捨てても、成功を希望するというのは、商業に身を委ねる人の覚悟とはいえ、この言葉を発して私を引き留めようとする意図は、実に感心するほかありませんでしたが、私はなお一つの目の光を失うことを千金に代えることができませんでした。たとえ千万金を投じても、その光を買うのに惜しまなかったです。まして、もし両目の光を失するにおいてはなおさらです。引き留められるのを承知せず、ついに東京に向かったのです。

第3節 病気治療のための東京滞在

筆者が東京で約200日間にわたって眼病の治療を受けた体験が詳細に記録されています。
東京に到着した筆者は、すぐに大学医院で河本博士の診察を受け、網膜出血と診断された。博士の見立てに深い信頼を寄せ、治療にすべてを委ねる覚悟を決める。昇汞水の注射による激痛や結膜の腫れに耐えながら、筆者は十日以上の間隔を空けて治療を続ける日々を送る。病状は一進一退を繰り返し、視界に現れる血の線や光の乱れは、まるで地獄絵図のようであった。治療の甲斐あって一時は指の本数が見えるほどに回復し、筆者は生の喜びを噛みしめるが、再び出血が起こり、希望は打ち砕かれる。
季節は秋から冬、そして春へと移り変わるが、筆者の心は病苦と孤独に沈み、東京の華やかな春景色もむしろ悲しみを誘うものとなる。左目の回復は望み薄となり、筆者は故郷の老母と愛児への思いを募らせる。半年以上の療養生活の中で、家族の心配や愛情が手紙を通じて伝わり、筆者は右目が健在なうちに帰郷し、家族の顔を見たいという切なる願いに突き動かされる。
帰郷を決意した筆者は、妻とともに東京の街を巡り、老母や子どもたちへの土産を買い集める。玩具や美術品を手に、二人は子どものように無邪気に喜び合い、病苦を忘れて心を遊ばせる。このひとときは、発病以来初めての安らぎであり、筆者にとってかけがえのない一日となった。土産の準備を終えた筆者は、手紙をしたためて故郷に知らせ、再会の喜びを分かち合う日を心待ちにするのであった。

東京に着くと、すぐに大学医院に行って、河本博士の診断を受けました。博士は一目見て、網膜の出血であると断定されました。博士のこの診断がとても正確であるという感じがしました。それで博士を信じる気持ちが強く、ただ博士に依頼していれば、病気が右目を侵してくるようなことはないだろう。左目も必ず回復するだろうと信じたのでした。たとえこの上病気が悪化するとしても、博士の手にかかってのことならば、運命の極み、さらに後悔することはないとまで思ったのです。

博士が昇汞水(しょうこうすい:水銀を含む消毒薬)の注射を施すと、眼球の痛みが激しくて顔面の左半分はそのために麻痺して、私は数時間切り刻まれた心境で、唾液を飲むことさえ思うようになりませんでした。しばらくすると、結膜は腫れ上がって眼瞼の外に湧き出て、試しに瞼を開閉すると、冷たくてその気持ちの悪いことは到底言葉では表現できません。この苦痛はまだ我慢できないわけではありません。次の日の注射を待ちかねることでしたが、このように結膜が腫れ上がるので、とても三、四日を置いて注射をすることができず、十日あるいは二週間も経たなければ、次回の注射を打てないのです。どんなにその十日余りの日が、私にとって最も長く感じられたことでしょう。

私の病気は網膜の出血であるために、硝子体液が濁り、さらに血液がその下部に溜まっているので、もしベッドについて頭部を低くする時は、血液は忽ち硝子体液中に流れて赤く線を引き、また花を散らしたようで、その様子はまさに灯火の流星のようでした。もし花火であれば見て、手も叩こう、喝采もしよう、とにかく一時の快感を得るのですが、病気のために物を見ずして、独りこの状況を見る、その時の不愉快さ、気持ちの悪さ、心細さは、実に言葉では表現できないものでした。血の池地獄もこのようなものか、紅蓮地獄、大紅蓮地獄もこのようなものかと思わせました。

このような状況を認識するたびに、ますます博士の診断が的中していることを感じて、いよいよ信頼の念を強くし、一か月、二か月、三か月と、ついに二百日余りの日を治療に費やしました。このように根気よく治療を受けたので、少し効果が現れて、いくらか血液の吸収ができました。朦朧とした中に、多少物が認識することができるようになって、指が一本だ二本だ、と見えてきた時は、私は死から出て再び人世の光明に接したような心地がして、実に愉快に堪えませんでした。

ところが、私の眼の病はどんな悪性であったか、またもや出血して元のようになり、空しくぬか喜びになったのです。このようして一喜一憂の間に、良くなったり悪くなったりするので、神経はますます過敏になり、肉体はいよいよ衰弱を増し、それに従って妄想が混然雑然と群がり生じ、常に百鬼夜行の怪奇なことばかりを想像するのでした。

家を出た時は、九月ということで、萩がわずかに笑みをもらし、玉露が夜々に強くして、虫の声が鈴を転がすような頃でしたが、次第に時は移って、潮風が肌を裂き、氷雪が身を凍らせるという冬も、ただその病中の苦悶に、空しく過ぎてしまって、東京の旅の宿で、ますます寂しさを感じたのも、すでに夢のように過ぎ去って、今は花が明るく柳が晴れやかな春となりました。

「柳桜をこき混ぜて、都ぞ春の錦なる」と歌った、都の門の様子は、西に東に駆け回る、人の往来に繁華を極めて、まるで狂うほどです。鐘は上野か、浅草かと、遊び回る人々はともかく、私は東京の春に出会いながら、心は春であって春でありません。すでに半年の日を費やして、空しく病中に苦悶している私は、人の喜びがかえって私の悲しみでした。花の美しさ、鳥のさえずりも、ただ私の悲しみを誘うようであって、さらに一日も楽しいものがありませんでした。左目の病気は、河本博士の深い注意を払われましたが、今はすでに回復の見込みが少なくなったので、ますます心細くなりました。

ここに至って、私は故郷の老母や、愛児のことが思い出されました。

私はすでに半年あまり旅の身となって、しかも病気のベッドで呻き苦しんでいるので、いつしかホームシックにかかって、なんとなく故郷の老母や、愛児に会いたい気持ちが強くなりました。私がこのように思うばかりでなく、故郷にいる老母や、愛児も、また深く私を慕っているのです。その上に老母は、子の病気を心配されて、一層の重さを加えはしないだろうか、あるいは他の病気でも起こしはしないだろうかと、遠く離れて目に見られないので、その心配は大変であるらしい。いや、必ず非常に苦しまれているのです。

その心痛の様子は、時々の手紙にも書いてありました。老母のこの切なる情や、愛児のことを思うと、いよいよ心が動いて、一度帰国しようという思いが起こってきました。右目は今なお健康ですが、万に一つも左目のように、病気に侵されたならば、その時はその恩愛深い老母のお顔や、可愛らしい愛児の顔を見ることができなくなります。せめての名残に、今右目の健康なうちに、見たい、見せたい、話したい、という情が自然に起こってきました。雑然とした妄想は、私を家族のもとに帰るように、決心させたのです。

一度家族のもとに帰るということを決心すると、早やすでに我が家庭に接触したような心地がしました。今は一日も猶予ができません。そこで看護のために連れてきた妻と共に人力車を駆って、上野、浅草、神田、芝と各所の商店を駆け回り、土産物の買い集めに着手しました。これは待っている老母や、愛児を喜ばせるためです。

あそこに中国人の降伏状を捧げている人形がある、ここに原田重吉の玄武門破りがある、この蒔絵の箱、この花籠、この錦絵と様々な玩具を、一台の車に積み込んで買ってきました。帰るとすぐに、二人で試しに土産物の配分をします。「これは富子。これは俊造。これは俺が買ったのだ。これは私が見つけたのだ。私が俊坊にやるのだ。いやおれが遣る」と、まるで子供になって、争い合い奪い合いつつ、笛を吹いたり、太鼓を叩いたり、まさに家庭の子どもたちが土産物をもらって、喜びに堪えないそれのように、この瞬間、病気の苦しみもなく妄想もなく、実に無邪気な思いをなして、笑いつつ叱りつつ、ほとんど無念無想の境地に心遊び、このひとときは、発病以来初めての安らぎであった。

土産物はすでに整いました。さて何日出発しようか。まず手紙を飛ばして故郷の者に知らせ、この喜びを分かち合おうとしよう。その硯その紙と、手に取ってさらさらと書き流しました。この手紙を見たならば、老母や、子どもの喜びは、どれほどでしょう。

第4節 病気がまた右目にも及ぶ

筆者が病気治療のために東京に滞在していた最中、帰郷を決意するも、その直前に右目にも病気の兆候が現れたことを知り、深い葛藤と苦悩に陥る様子が描かれています。
筆者は家族への思慕と、老母や愛児に会いたいという感情に突き動かされ、帰郷を決意しますが、信頼する河本博士の承諾を得ることを忘れていたことに気づき、博士のもとを訪れます。診察の結果、これまで健康だと信じていた右目にも病気の兆候が現れていることが判明し、筆者は大きな衝撃を受けます。帰郷への希望は一瞬にして打ち砕かれ、失望と不安に苛まれながら宿に戻り、妻にもその事実を告げられずに苦悶します。
翌日、友人たちが見送りに訪れる中、筆者は右目の視界に異常を感じ、ついに病状を打ち明けます。友人も妻も涙を流して筆者を慰めますが、筆者の心は「帰郷すべきか、東京に留まるべきか」という理と情の間で激しく揺れ動きます。母の苦労と愛情を思い出し、せめて右目が見えるうちに母や子の顔を見たいという切なる願いが筆者を突き動かしますが、同時に病気の進行を恐れ、治療の継続を望む理性も働きます。 最終的には、筆者の心は理と情の板挟みとなり、帰郷の決断を下すことができず、深い混乱の中に沈んでいく様子が、繊細かつ情感豊かに綴られています。この節は、病と向き合う人間の弱さと強さ、そして家族への深い愛情が交錯する、非常に人間味あふれる章となっています。

私は帰郷の決心をする前に、一つ忘れていることがありました。それは河本博士の承諾を受けるのを忘れていたのです。なんとなく一度帰郷したいという心が起こって、老母や愛児のことを思い出すと、その感情にだけ負けてしまって、この必要な条件を欠いているのも考えず、心の中では一途に帰郷を確定していたのです。

これはあまりに性急な判断ではなかったでしょうか。東京に来て、一度河本博士の診断を受けてから、私は博士を非常に信頼しているのです。病気はどうしても医師に頼らなければなりません。たとえ家庭にいる老母や、子どもがどんなに心を尽くしてくれても、この一事だけはどうしようもないので、そもそも家を離れて上京しているのではありませんか。そして私は何よりも河本博士を親のように、神のように信頼しています。博士の治療さえ受けていれば、病勢が進むようなことはありません。よし進んだとしても、すぐに回復できます。仮にできないとしても、私にとってはこれ以上の遺憾はないと信頼しているのですから、今東京を去って、一度帰国するということになれば、ぜひとも博士の承諾を得なければならないのは、当然です。

ところが私は今、家庭の事情が急であるために、そのことを全く忘れていたのです。いよいよ明日出発するならば、博士へはぜひ挨拶に行かなければなりません。行って何と言って挨拶をしようか。明日帰郷することに決めているのに、博士にはまだそのことを言っていません。突然暇乞いをするのは、どうしても面目がありません。ひょっとして博士が気を悪く取られはしないだろうか、礼儀を知らない男だと思われはしないだろうかと、いろいろ心配したのです。

しかし、博士のもとに行くことはぜひ行かなければなりません。行って途中の心得、帰郷中の手当などを聞いておく必要もあります。特にこのまま帰ってしまうのでもなく、再び上京して博士の世話にならなければならないのですから、なおよく依頼しておかなければなりません。そこで私は意を決して博士を訪問しました。

けれども明日帰郷することをすでに決心しているということは、どうしても言いかねたのです。ただ「ちょっと家族のもとへ帰ってきてもよいでしょうか、差し支えはありませんか」と、未定の問題かなんかのように、ぼんやりと尋ねたのです。すると、博士の口調は何となく重かったです。私は重ねて言いました。

「二、三十日間で、すぐに上京するつもりです。家を出るのが急でしたから、家事がいろいろと沢山打ち捨ててあって、それの片付けをしなければならないのです」

博士は重い語調で「そうですね、二、三十日間のことならば、大体大丈夫でしょうが、十分注意しなければなりません」と、何となく意味ありげに答えられたのでした。

さらに途中の注意、帰国中の手当てを質問すると、博士はきっと私の顔を見て「身体をあまりに動かしてはいけないのですから、途中の用心が最も必要です。気をお付けなさい。だが、ちょっと眼底を見ましょう」と、すぐに暗室に導かれました。暗室を出た博士は、とても心苦しそうに、しかも言葉を強くして「これは相当注意しなければなりません。二、三十日間は大体大丈夫でしょうが、右目はこれまで少しも悪いようでなかったが、すでに数日前より、病気の兆候を現しているのです。ひょっとして出血しないとも分かりませんから、気を付けなければならないのです。いずれにしても、早くお出かけなさい」と。

立って図を示して、病状がこのようになっている、血管に苔のようなものがくっついている、ここから出血するようになるのであると、詳しく説明されるのでした。

私は健康だと頼りにしている唯一の右目が、すでに病気の兆候を現していると聞いた時は、全く自分の耳を疑ったのでした。続けざまに注意を与えられたので、非常な驚きに打たれ、失望と落胆とに、顔は青くなり、気も変になってしまいました。博士の詳しい説明を聞いていても、耳は鳴り、心は騒ぎ、少しも気の落ち着きというものがありませんでした。今朝まで勇み立ち、喜びに喜んで、故郷の老母や、愛児に会うことに、燃え立つばかりの熱情を持っていた一念は、ここにおいて全然雲散霧消し尽くして、ただしょんぼりとして憂鬱でいるより他ありませんでした。

宿に帰ると、すぐに身を床の上に投げたのです。ほとんど我を忘れるばかりで、考えれば考えるほど残念でなりません。無念でなりません。左目の病気さえも、今まで回復の望みを持っていたものが、それが全く絶望に終わってしまいました。しかもそれだけでなく明日出発しようという今日、その健康だと頼りにしている唯一の右の目に、またもや病気が侵してきたというのです。その失望の激しいことは、何と表現する言葉を知りません。一度帰国と決心した熱情が高かっただけ、それだけその失望の程度も高く且つ強かったです。

ここに至って焦りに焦った帰郷の思いが危うくなって、旅行するのがなんだか心細くなってきました。またその右目に病気を発したということを、看病している妻にさえ、告げることの心苦しくて、なんとなく面目ないような心持ちがしてきました。私はただ床の上に転がったまま、黙然として、非常な失望と、苦痛とに、後悔煩悶するばかりでした。うやむやのうちに、その日も暮れてしまいましたが、私はいっこうに安眠することができませんでした。

妻は夫があまりにふさぎ込んでいるのを見て、心配そうに問うのでしたが、このような状態でも詳細を語ることができませんでした。彼女は不思議に思いながらも、帰郷のことは決行されるものと信じて私を慰め、看病しつつ、旅行の準備を整えています。何事も彼女は知らずにいるかと思えば、私はますます断腸の思いを増すのでした。

翌朝になっても、私のふさいだ心は決して開かず、昼過ぎになってもなお床を離れる勇気がありません。妻は早くに起き出て、せっせと働いています。昨日の土産物は、室内に散らかっています。旅行かばんの一つは物を入れかけにして、蓋はそこに仰向けになっています。丸く束ねた麻なわは、その一方が長くなって、ちょうど草むらで渦を巻いた蛇が、何かを見て這い出すような形をしています。この足も踏み入れられないところへ、二、三の友人が前後してやってきました。これは私が帰郷の連絡をしたので、朝から駆けつけてきたのです。私はかえってこの友人に会うのが面目ないように感じて、非常に心苦しかったのです。

このように友人と向かい合って座っているうちに、なんとなく右目の様子が変になって、友人の顔が少し曲がって見えます。わざと視線を正しても、肩と眉との距離が非常に広く見えてきます。単に神経作用だけではありません。これは大変だと思いつつ独り心に苦しんでいます。一、二時間の対談中、症状はますます激しくなって、障子の格子がくの字に曲がり、への字に曲がり、その症状が明らかになってきたので、私は悲しみに気も挫けたのです。

友人はそれを知るはずもなく、今日の帰郷を喜んでくれると、それがまた言いようもなく悲しい思いとなって、思わず涙を流したのです。友人はそれににわかに気づいて、「なぜか」と不思議に思って問い、私の答えが鈍いので、不安らしく私に迫りました。私は堪えられなくなって、ついにそれを語りました。実情を明かした上は、「帰郷しようか、やめようか、この場合どうしたらよいだろうか」と、友の意見を聞いたのです。友人も、妻も、共に驚きました。妻はワッと泣き出しました。友人も涙ぐんで、ハンカチで目を覆っています。しばらくは泣く声、鼻をすする音で、その場は静まり返りました。

友人はあまりの驚きと、気の毒さに、私を慰めて、「まず二、三日様子を見て、決めるがよい、また明日来る」と言って、逃げるように、帰ってしまいました。後に残った私と妻とは、ただ悲しみより他ありませんでした。

「なに、俺の神経であろう、昨日河本博士のところで視力を測った時は、健康な目と同様で、どんな微細な物でも見えたのだから…」と、私は実情を飾って妻を慰めると、彼女はかえって私を慰めてくれました。ここに至ると、私の迷いはいよいよ激しくなりました。せっかく準備をしているのですから、一応帰郷しようか。そうは言っても、右目も病気に侵されているということを聞いては、河本博士のもとを去って、遠い故郷に帰るのは心細い。病気ということについては親よりも、神よりも、信頼している博士ですから、これを離れて遠く郷里に帰るのは、病気回復の希望に反対して行くようなわけです。

たとえ故郷にいても、何かあればすぐに上京しなければならないのですから、帰郷を断念するのが当然の処置であるとも思いました。今帰郷したために、右目の出血を促すようなことがあっては、また治療の時期を失するようなことがあっては、いよいよ暗闇の中の我となって、悲哀な生涯を送らなければなりません。まさに不幸の身となるのです。こうなっては、老母や、愛児にとっても、非常な失望です。

特に母の心中を察してみれば、その苦悩の状況がはっきりと見えてきます。私は六歳で父に死なれて孤児となりました。母は、か弱い婦人の身を以て、今日まで養育してくださいました。一日も早く成長して身を立て、家を起こすようにとの希望を以て、心身の労をも忘れてくださったのです。私は三十という年を重ねて、男一人、見事独立して、母の心を無にしないようにしなければならないものが、もし盲目の身となり果てるようなことがあっては、申し訳のないことです。また母を非常に失望させるのだと思ってくると、どのように手を尽くしてでも、右目だけは、ぜひとも取り留めなければなりません。それだからこのまま、東京に滞在しようかとも思いましたが、また妄想が湧いてきて、その決心を動かしたのです。

左目の例によって推し測れば、右目もし出血ということに至ったならば、一夜のうちに物を見ることができなくなります。その回復がまた期待し難いとすると、生涯暗黒の中に終わらなければならないのです。恩深いあの母の顔をも、愛らしい我が子の顔をも、生涯再びこれを見ることができません。せめて今、右目の見えるうちに、一度見ておきたい、との情が起こると、悲しみの念が切になったので、断然帰郷を決行しようと考えました。

今これを中止すると、指折り数えて待ってくださる母や夢に父を迎える愛児に、非常な失望をさせなければなりません。母はまた、例の憂悶に沈まれて、なぜ帰郷を中止したのだろうか、それは病気が新たに右目を侵したためだと聞かれたならば、母の落胆はどうでしょう。

遠く離れての心配は、目の前に見るよりも、一層の憂悶が深いに違いありません。母はまた私のこのために失望し、煩悶するであろうということを、非常に心配されるでしょう。このような憂悶を与え、このような苦痛を与えるのは、情として私の忍びないところです。母のその心を慰めるのも、この際人の子たるものの務めるべき務めではありませんか。それならば断固として家族のもとに帰るというの初心を遂行しようと決心しました。

すると又一方では、そうであったとしても、故郷の老母や、愛児はともかくも我が眼病さえ回復すればよいのです。一時の憂苦が、他日永遠の快楽となるのですから、今は感情に勝たねばなりません。よし、忍んで東京に留まろうという心も起こります。けれども、帰る心は決して収まるのではなく、ついには理と情との戦いとなって、私の心は混乱して決しかねたのでした。

第5節 暗夜の家庭に帰る

筆者が病気の進行によって視力を失いながらも、家族への思慕に突き動かされて故郷へ帰る決意を固め、帰郷の旅路とその後の心情を深く描いた章です。
筆者は東京での治療を中断し、家族への強い思いから帰郷を決意します。汽車に揺られながら、目に映る景色が徐々に霞み、視力が失われていくことを実感しつつも、最後の記憶として美しい風景を心に刻み込もうとします。京都では博覧会に立ち寄るも、細部を見取れないことに落胆し、病状の進行を痛感しながら故郷・松山へ向かいます。
松山駅で再会した子どもたちの顔すら識別できず、筆者は深い悲しみに包まれます。家族は筆者の病状を知らず、喜びに満ちた雰囲気の中で迎えますが、筆者はその温かさに胸を締め付けられ、視力を失った現実を隠しながら過ごすことに苦しみます。母や子どもたちの顔を見たいという願いは叶わず、筆者は「昼の東京を出て夜の家庭に帰った」と表現するほどの絶望を味わいます。
日常生活の中でも視力の喪失による不自由さが露呈し、家族の和やかさは次第に悲しみに変わっていきます。筆者は、東京を離れたことへの後悔と、治療への希望を胸に、再び帝都への思いを募らせます。家にいては東京が恋しくなり、東京にいれば家族が恋しくなるという、理と情の板挟みに苦しみながら、筆者は「明かりこそが真の故郷である」と語り、暗闇の中で再び光を求める切なる願いを抱き続けるのでした。
この章は、視力の喪失という身体的苦痛と、それに伴う精神的葛藤、家族への愛情と罪悪感、そして治療への希望と迷いが交錯する、非常に人間的で深い情感に満ちた記録です。

故郷への思いが療養の理由に勝って、私はついに帝都東京を出発することになりました。十数名の友人は、新橋駅まで見送ってくれて、お互いの健康を祈り、握手して別れました。汽車はすでに動き始めていました。遠く皇居を拝み、百万人の帝都を振り返ると、雲や靄が遠くかかって、しきりに私の名残を惜しんでいるかのようでした。進むにつれて、静かな浜離宮、緑豊かな高輪の丘が、左右から私に迫り、また品川湾の白波が、寄せては返り、返しては寄せています。あたかも私を引き止めようとするもののように、あるいは私を送り出そうとするもののように、私に行くべきか?留まるべきか?を問いかけているようで迷わせるのです。しかし私はすでに汽車の中の人です。汽車の前進に任せて、私は仕方なく前進しました。窓に現れては消える風景は、これが私の最後の見納めになってしまうかと思うと、愛情の気持ちが激しく燃えて、一層名残が深かったです。

箱根を越えて富士の麓に到る時、仰いでそれに向き合うと、いつになく暗い時期の空は青く、そびえ立つ富士山は残雪を頂いて、美しくまた雄大です。しかし私の目には朦朧とした霞がかかって、その美しさも雄大さも、他の人のようには見えないのです。田子の浦の遠望、興津の清らかな渚、三保の青い松、東洋の美観は、ほとんどこの間に尽きているのに、今この光景に対する私の右眼は、昨日から急に病気が悪化してきて、視力は次第に減るもののようで、一つまた一つの景色を経るにつれて、美しい景色も夕暮れの色に包まれるかのようでした。この時私は思いました。たとえ朦朧とした中においても、この美しい景色を記憶に留めておきたい。後日失明してその景色を思い出して再現するようなことになるのであれば、今日の一見は、すなわち永遠の表現力となるのだからと、車窓に寄りかかって飽きることなく景色を貪りました。

病気は重くなりました。眼球は張ってきました。視力がますます減じてくる頃、本当の夕暮れが迫ってきて、私の眼に休養を命じたのでした。

翌朝、京都に下車しました。時はちょうど、第四回内国勧業博覧会開催中でした。工芸のすべてから、あらゆる生産品、美術が一堂に陳列してあります。互いに技を競い、美を競っています。私は今日これを詳しく見ないのであれば、いつ国産工業の進歩を見ることができるでしょうか。これが日本の富の見納めです。私はその好機会を得たことを喜んで、数日滞在し、何度か会場に行きました。しかし、悲しいことにその細部に至っては、これを見取ることができないので、かえって落胆の種となり、がっかりして引き返したこともたびたびありました。しかし、宿に帰ると、また名残惜しい気持ちが起こって、入っては出て、出ては入る。こうして数日を過ごすうちに、病気はますます進んできて、たまたま友人に会っても、向こうから声をかけてくれなければ、その人が誰なのかを知ることができないまでになりました。そこで、悲しみの京都を発って、懐かしい故郷に向かいました。

松山駅に着きました。予想通り二人の愛する子供は、女中に連れられて待っていました。私が出てくるのを見るや、長女の富子は駆け寄って私の袖を掴みました。私はたちまち涙を流しました。数ヶ月前に見た彼女を、今は我が子か他人かさえも、識別することができませんでした。胸が詰まって、ただ立っているだけです。女中に抱かれた俊造は、手を伸ばして私のところに来ようとするけれど、私はまたこれを見分けることができません。やっとのことでこれを抱きましたが、もはやその愛らしい顔は見えませんでした。胸が躍り、呼吸が荒くなって、涙が湧き出ました。

久しぶりの私の帰宅は、家族の喜びとなって、歓声が家に満ち、和やかな雰囲気が穏やかに家門を覆っています。これは家族が私の病気が悪化したことを、全く知らなかったからです。もしこれを知ったなら、この暖かな春の光が、どんなに急速に荒涼寂寞とした光景に変わるかと思うと、心の霧に悲しみに堪えませんでした。

家に座ると、父親が珍しいと、二人の子は私にまとわりつきます。一人を抱けば、一人がこれを羨んで代わろうとします。前からも後ろからも、私の体を取り囲んでいます。膝の上に来ても、彼らの嬉しそうに笑う顔を見ることができません。ただ彼らの頭を撫でて、込み上げる涙を注ぎかけました。こうしてでも黒髪を撫で回して、我が子の顔かたちを探ろうとは、もとより思いもよらなかったことです。

私は東京を発って以来、日一日、刻一刻と視力を失って、暗闇に向かって駆け向かったのです。せめて明るいうちに、老いた母の穏やかな顔、子供たちの愛らしい顔を見ようと思った希望も、悲しいことに、家に帰り着いた時は、全くこれを認識する明かりを失い尽くしました。実にこの旅行は、昼の東京を出て夜の家庭に帰ったのです。あぁ…夜なら、灯火で照らせばよいものですが、私の夜は、灯火を灯すすべもない永遠の常闇でした。せっかく希望を持って帰ってきたことも、悲しいことに、泡のように空しくなりました。まだ母は私の病気がこんなに重いとは、少しも知りません。知らないのが、かえって私の心のいくらかの慰めです。もしこれを知ったなら、その時の悲しみはどのようでしょうか。ついには知れることですが、一日でも長く隠したい、間違っても知らせまいと、一挙一動に気を配る私は―ああ苦しい!いっそ帰ってこなかったなら、こうまではあるまいに。病気のせいとはいいながら、こんな頼りない身となって、母に会うのは、決して慰めの道ではありません、面目ないことです。かえって母に、苦労をかけるだけです。むしろ死んで白骨となって、会うほうがよかったのではないかとまで思ったことも何度か。

こうして日を重ねるうちに、ちょっとした手足の動きにも私の不自由さを表して、女中を見ては来客者と間違えて、しきりに頭を下げているような滑稽なこともありました。歩いては柱にぶつかり、物を取ろうとしては空を掴み、動作はついに普通ではなくなってきました。どうしてこれが母の目に留まらないでいるでしょうか。一家の和やかさは忽ち変じてしょんぼりとなり、喜びは転じて悲しみとなりました。

人生は何事も、予期できないものでしょうか。私が東京を去るについては、非常に去りがたい思いがありました。それを故郷の老いた母や、愛する子供のことを思い、強い希望に動かされて、ついに帰ってきたのです。帰ってくると、またその希望が空しくなっただけでなく、悲しみと憂いが代わる代わる起こって、家庭に一日の安らぎを得ません。遠く去った東京が、またしきりに恋しくなりました。あの河本博士のところが恋しくなりました。今はただ治療を受けて、元の明かりに立ち返りたいという望みの他、何もなく、ただ明かり、ただ明かり、明かりこそ暗闇から帰るべき我が故郷です。家庭です。明かりがなくては、故郷をどうしようか。家庭をどうしようか。ここにおいて、また帝都に行くべく、私の思いは切になりました。あの地にいては、家に帰りたいことを思い、家に帰っては、またあの地に行きたいことを思う。あぁ……私を迷わせるものは、いったい何でしょうか、私を迷わせる悪魔は、いったいどのようなものでしょうか。

第6節 明と暗の間

視力を失い暗闇に沈んだ筆者が、かつての「明かり」への渇望と、それに伴う葛藤を深く描いた魂の叫びが描かれています。
筆者は、暗闇と明かりを水と火のように絶対に相容れないものとして捉え、暗黒の境遇にあってなお、かつての明るい世界への切なる願いを抱き続けています。明かりは生命そのものであり、希望の象徴であり、失われた視力を取り戻すことが生きる意味とさえ感じられるほどです。その渇望は、飢えた者が食を求める以上に激しく、筆者は財産も時間も惜しまず、再び治療のため東京へ向かう決意を固めます。
しかし、周囲の人々は筆者の病状に悲観し、故郷で静養することを勧めます。老いた母もまた、筆者の命を何よりも大切に思い、たとえ両眼を失っても生きていてくれればそれでよいと語ります。その言葉は筆者の心を深く揺さぶり、感謝と痛切な思いに満たされます。
それでもなお、筆者の「明かり」への執念は消えず、母の愛情に応えるためにも、病を克服して再び社会に立ち、家族を支えたいという強い意志が燃え上がります。筆者は、暗闇のままでは家族に永遠の苦しみを与えることになると考え、周囲の制止を振り切って再び東京へ向かいます。
そして最後に、筆者は「家族の明かり」こそが自分の最高の愛であったと振り返りながらも、盲目となった今、その明かりがかえって自分を苦しめる存在となったという皮肉な現実に直面します。希望と絶望、愛と痛みが交錯するこの章は、視力を失うという喪失の中で、人間の尊厳と愛の本質を問いかける、極めて深い精神的記録です。

明かりと暗闇とは、ともに相容れない二つの境遇です。ちょうど水と火のそれのように、接触すればたちまち爆発して、雲となり雨となり、雷となり稲妻となり、激しくまた激しく、とても二つの境遇の併存を許さないのです。私は今暗黒の底に沈んで、心は切に明るさを求めながら、一瞬の間も忘れることができないで、気を焦らしています。その心の中の苦悩は言うまでもなく、果ては迷いとなり、憂いとなり、悲しみとなるのです。暗闇は私を殺害する凶器でしょうか。明かりは私を誘惑する悪魔でしょうか。今は暗闇も私の良い友ではありません。明かりもまた私の良い友ではありません。暗闇と明かりとが代わる代わるやって来て、私を襲い、私を悩ませるのです。いったい私の運命は、どこに存在するのでしょうか。私を照らす光明は、どこから発射してくるのでしょうか。

暗黒の境遇は、かえって明るさを求めることに切実なのです。私は今、かつての明るい境遇を得なければ、生きることができません。明るさはまた、私の生命の存在するところと言わなければなりません。実に私の希望は、ひとえにここに存在するのです。一度元の身体になって、明るくものを見たいと望むのです。たとえ多くの困難を乗り越えても、多くの時間を費やしても、また財産を尽くしても、この希望を達成するためには、少しも嫌がるところではありません。私が明かりに渇望する気持ちは、食べ物に飢える餓鬼よりも甚だしいのでした。
ここにおいて多くの望みを抱いて故郷に帰り、久しく絶えていた家庭に接した身も、すぐに東京に行きたくなりました。この時親戚や昔からの知人は、ある人は私を慰めて、再び上京することを勧めるものもいましたが、また中に、私の上京を止めるものもいました。その止めるものは、私の眼病ということに、悲観したのです。

今日は故郷にいて、静かに療養を加えるのが良策である。長い年月を旅に送って、財産を使い果たすのは、すなわち老いた母や、小さな子供の将来を犠牲にするので、彼らの衣服、彼らの食べ物を、あなた一人に奪うのと、何も変わらない。母の老後をどうするつもりか。愛する子供の教育をどうするつもりか。これに至っては、たとえあなたの眼の明かりは回復し得たとしても、そもそもまた、これをどうすることができるものか。もし運があるものなら、命があるものなら、故郷にいて静養したとしても、その病気が回復して、明るさに帰らないこともないだろう。休めよ休めよと忠告するのです。

老いた母もまた東上を止められたのでしたが、老いた母が止めるのは、他人のとはその理由を異にして、老いた母自身や、子供たちの幸福を犠牲に供することは、もとより甘んじています。しかし幼い頃から育てられたそれさえあるのに、早く父に別れて孤児となった私は、ただ一人の母の手に育てられ、教えられて、今日に至ったのですから、私の一身は、全く母の心身の犠牲によって成り立っているのであって、したがって母が私を頼み、私を愛する熱情は、火よりも暖かく炎よりも燃え盛っているのです。これによって、子の病気が回復を得て、再び暗黒から明かりを得るのは、希望も希望、最大の希望に違いありません。
しかし、すでに暗黒となった不自由な私が、遠く膝下を去ったならば、朝夕これを慰め、看護することができないので、家にいる母としては、これを案じる気持ちが切になって、その情として、私だけ遠くに出すのに、堪えられないのでしょう。さらに進んで子の失望と煩悶とを察しては、そのために私の身体が衰弱することはないだろうか、いや、その生命を根本から失うようなことはないだろうか、もともと短気で、情に切な私は、煩悶に煩悶を加えて、ついに自ら死を招くようなことはないだろうかと、母の慈愛の気持ちは、様々な妄想を引き起こして、その膝下を離れることを喜ばれないのでしょう。それゆえ母は子に対してこう言われました。

「たとえあなたの両眼を失って、たとえ盲目になり果てても、あなたの命さえあればそれで良い。この母は満足するのだ。命さえあれば慰めることもできる。相談することもできる」と。その言葉は切実で、その情の暖かいことは、この一言によって知られるのです。この言葉を聞いて、私は有り難くも、もったいなくも、また情けなくもありました。私の肉体は引き裂かれるようで、心も消え果てそうになりました。

しかし、なお私の一度明かりを得ようとする希望は、激しい火のように炎と燃えるのです。母が慈悲深い真心を持って、私の身を愛してくれる言葉を聞くほど、それだけ、私は病気の回復を得て、その恩に報い、その心を慰めようと、一途に思い詰めたのです。あの親族や、昔からの知人が忠告した、家族の衣服、食べ物を犠牲とするようなことは、全く意に介さなかったのです。私にして病気が癒え、明かりに帰れば、その時こそ世に立って、世の人と共に働きもし、勤めもし、それによって見事彼らを救済してやろう。衣服を与え、食べ物を与え、また教育もしてやろう。そうであるのに、もしこのまま空しく暗盲に終わったならば、かえって彼らを、永久に苦しませるのです、無限の不幸を招くのです。母に与える苦痛も、永久にして且つ無限なのです。不幸これより甚だしいものはありません。子孫の不運もこれほど甚だしいものはありません。

躊躇はできません、もはや一刻も猶予はできません。一日も早く河本博士のところに行って、その治療を受けて明かりを得なければなりません。 周囲が止めるのも聞かずにすくっと立ち上がって東京に向かいました。今においてこれを振り返れば、この時私の希望はただ「家族の明かり」それのみであって、「家族の明かり」は私の最高の愛でした。しかしこの愛すべき明かりは、盲目となった今日から見れば、かえって私を苦しめた悪魔となってしまったのです。

第7節 河本博士の宣告

筆者が視力回復への最後の望みを託して東京に再び上京し、治療に全力を尽くすも、ついに医師から「盲目である」と宣告されるまでの心の軌跡を描いた、極めて痛切で劇的な章です。
筆者は「眼病が治らなければ家に帰らない」と決意し、東京に住居を構えて治療に専念します。河本博士の診断に一縷の希望を見出し、社会復帰と家族への恩返しを夢見て、灸や祈祷、冷水浴など、あらゆる手段を試みます。その姿は常識を超えた執念であり、明るさへの渇望が筆者を極限まで追い詰めていきます。
しかし、病状は一進一退を繰り返し、ついに博士から「左眼は網膜剥離、右眼も多量の出血で回復は困難」と告げられます。読書もできず、わずかに不自由を補う程度の視力しか望めないという現実に、筆者は絶望の淵に立たされます。その瞬間、筆者は薬瓶を庭に投げつけ、砕ける音に自らの妄想と執着が砕けるのを感じ、深い悟りに至ります。
筆者はそれまで「眼の明るさ」ばかりを求めていたが、「心の盲目」に気づいていなかったと省みます。視力回復への執念が苦悩と煩悶を生み出していたことを認め、希望が断たれたことでかえって心が軽くなったと感じるのです。河本博士の宣告は、筆者にとって絶望ではなく、妄想からの解放であり、ある種の「不滅の光明」として受け止められるに至ります。
この章は、身体的な失明と精神的な覚醒が交差する、非常に哲学的で人間的な瞬間を描いています。明るさとは何か、希望とは何か、そして本当の「見る」とは何かを問いかける、深い内省の記録です。。

眼病が回復しなければ、再び家に帰らないという覚悟を持って、再び東京に上ったのですから、たとえ一年二年はおろか一生でも、病気と苦戦を継続して、元の明るさを取り戻そうと決心したのです。そこで、今度は家を構えて、そして永久的な陣を張ったのです。河本博士は、私の病気が意外に進んだことには、驚かれた様子でしたが、しかし一眼だけは確実に快復ができるであろうということだったので、私は非常な力を得て、すでに希望を満たしたかのように喜びました。あの故郷において、母をはじめ親戚や昔からの知人が止めたのを、きっぱりと拒んで強引に東京に上っただけの甲斐があったと、心から安堵しました。私の病気が癒えて、元の身体になったなら、家族、親戚、昔からの知人とその喜びを分かって、男一匹、見事に社会に対する働きをしようと、躍るように勇み立ったのです。河本博士が非常な親切と、非常な注意を払って治療をしてくださるので、私の病気が一度回復するという希望は、ますます強くなったのでした。

月日を重ねて年を越えて、すでに明治二十九年の秋となりました。振り返れば、二年前、広島において病気にかかったのは、ちょうど白露が肌の涼しさを覚え、草虫がまた秋の寂しさを誘うという、いま頃の季節でした。この二年の歳月は、私をどのように苦悶させ、どのように失望させたことでしょうか。左眼だけと思っていた病気は、さらに右眼を侵してきて、いよいよ暗黒の中をさまよう身となったのです。河本博士の神のような技術が功を奏して、右眼は一時快復の兆候を現して、人の顔、衣服の模様、庭園の光景など、ぼんやりながら見え出したので、私の希望は非常に確実になってきました。そうかと思えば、またもや出血して暗黒の底に沈んで、さらに微かな光を認識できるかと思えば、蛍火や流星の光のように、たちまち闇は元よりも深くなってしまいます。

何度かこんな有様を重ねて、一喜一憂に翻弄されながら、私の気持ちは浮き沈みしたのです。

一週間また一回ごとに病状が進行して、ああ、ついに望みが少なくなってしまいました。博士はもちろん深い注意を払って、慎重に治療を加えられた結果ですから、私は少しも遺憾とは思いませんが、もう一度回復したいという欲望は、病気が進むにつれていよいよ切実になるのです。そこで、人が来て灸の効果を勧めれば、すぐに灸を施してみました。指ほどの大きさの灸が私の身を焼いて、その周囲はただれ、消えた後も、なお背中に火を負っているような苦痛を味わわされ、わずかに衣服が触れても、非常な痛みを感じて仰向きに寝ることさえもできませんでした。その灸が七日八日と引き続いて、十日余りも継続したのでしたが、私はその苦しみも、その痛みも、さらに嫌がる心はなく、たとえ半身をただれさせても、一眼の明るさだけでも回復すれば、この上の満足はないと祈るのでした。
また、祈祷を勧める人があれば、私はまたその気になって、読経の声の中で、夜となく昼となく、座り続けていました。私の体を撫でられ、私の眼を吹かれ、呪文を唱える祈祷者の唾液も、時にやって来て私の顔を汚したのですが、私はこれをも不快とは感じませんでした。またある時は人の知らない深夜に、こっそりと出て白雪を踏み、皮膚を寒風にさらしながら、堅い氷を砕いて冷水を浴び、身を捨てて天の助けを求めたこともありました。実に私は愚の骨頂となり、ついに迷いを重ね、何とかして暗闇から出て行こう、少しでも明るさに帰ろうという一念から、常識的な目で見れば、憐れみ笑いの価値もない馬鹿馬鹿しい極致を演じたのです。結局「明るさ」に憧れる切実な希望が、私を全くもって愚かにさせたのです。

あぁ、今は施すべき手段がないのでしょうか。治すべき方法が尽きたのでしょうか。私はついに病気の軍門に降伏しなければならないのでしょうか。ここに病魔を撃退すべく永久的な陣地を構えた我が住居は、かえって病気の永久的な住居として、空しく占領されるのでしょうか。こう思ってくると同時に、夕暮れの墓場に立ち尽くすように、極めて心細く、極めて悲しくなるのでした。
瞑想は暗黒の産物です。私はどうにもして瞑想の柵を破ることができず、やがてこういうことを考えたのでした。河本博士も私の境遇に同情して、今はそれとも言いかねているのではないだろうか。神のような妙術も施しようがなく、この難病を持て余しているのではないだろうか。こう思うとその態度がはっきりと心に浮かんできます。
そこで私はある日、進んで博士に質問を試みました。

「自分の眼の視力が回復するという望みが、今においてなお一筋の糸を繋いでいるでしょうか」

博士はとても気の毒そうに、重々しく答えられました。

「そうですね、望みがないとも断言はできないが、まずこの上の手段はない。網膜の出血は、吸収できないわけでもないが、ただ出血の継続するのには困る。左眼は出血のために、全く網膜の剥離を起こしているから、こちらはもちろん諦めている。右眼の方はまだ剥離するまでには至らないが、多量に出血しているから、これを回復するのは困難である。こうなった上は、故郷に帰って、ゆっくりと静養しながら、時期を待つより他はないだろう。万一回復したとしても、読書することなどは、とてもできない。ただいくらかあなたの不自由を補うといった程度に過ぎないでしょう」

ここにおいて私はすなわち盲人であることを宣告されたのです。

「盲目」!

博士からこの宣告を聴いた以上は、治療に何の手段があるでしょうか。医薬に何の効果があるでしょうか。ただ運命を天に任せて、時の至るを待つべく仕方なくされたのです。なんとも心細いことではありませんか。万一快復したところで、読書することもできないとあっては、「明るさ」とは何でしょうか。

河本博士の宣言は、天の声です。神の声です。私は今天にも見放されました。神にも見捨てられました。ああ、私の望みは絶えてしまいました。

二年余りの歳月を費やして、病気と戦い、苦しみと闘い、感情を抑え欲望を断ち、いわゆる忍耐、いわゆる克己を敢えてして、「暗闇」を破って「明るさ」に帰ろうとしたことも、この宣言の下に全く無効となり絶望となったのです。信頼する医師からも見放され、天からも見捨てられた私、そのわずかな明かりを仰ぎ得ないように、すべての希望も滅び尽くした私は、がばっと起き上がって薬瓶を引っ掴みました。えいっとばかりに力を極めて庭先に投げつけました。瓶は石に当たって粉砕しました。その鋭い響きは、たちまち私の体の奥に響いて種々の迷いの夢を粉砕し尽くし、私に一転せよと叫んだのです。

ここにおいて私ははっきりと悟りました。

私はこれまで眼の「明るさ」を得ようとすることばかり考えて、心が「盲目」となることを考えなかったのでした。一眼でも、一度回復したいという希望が、様々な妄想を生じて、苦痛となり、煩悶となったのですが、その希望は今根本から取り除かれたのです。病気に打ち勝とうとした苦悩はすなわち完全に無となったのです。だから将来はともかく、現在は一身の苦痛煩悶を全く脱却して、一身の軽さを覚えるのです。こう考えてくれば、河本博士の宣言は、私にとって不滅の光明です。

参考文献

[1] 『一粒米 付俳句俳論・天心園』愛媛文学叢書刊行会編、青葉図書〈愛媛文学叢書 2〉、1990年6月、復刻増補版。

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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