『我が村』は、盲目の政治家・教育者・俳人として知られる森盲天外が、自らの体験と信念を綴った実体験記録である。伊予・余土村の風土と人々の営みを背景に、幼少期の公民感化、庄屋としての責務、そして村長としての実践を通じて、地方自治の理想と共存共栄の精神が静かに、しかし力強く語られている。
体験物語には、森盲天外自身が身をもって歩んだ道、寒風の中で頭陀袋を携えながら小作人の戸を叩いた日々、盲目の身でありながら村政に尽くした実践の記録が、血肉をもって刻まれているのである。
本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。
※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。
意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
◆第1章 あぁ我が村◆
我が生涯の生母
ああ、私の村は、清らかな愛の象徴であり、その結晶です。ここは、私たちが共に暮らす理想の場所、まるで楽園のようなところです。
静かに自分の人生を振り返ると、私はこの村の限りない愛に包まれて育ち、人と共に生きることを学びました。この村を「生みの母」と思う気持ちは自然と湧き上がり、そのありがたさに感謝せずにはいられません。
私が生まれたときに産着を取ってくれた長七のおばあさん、母乳を分けてくれたお月さん、宮参りで抱いてくれた源四郎さん――私がまだ何もわからない頃から、周りの人たちがたくさんの愛を注いでくれました。
猪之さん、彌太さん、善さんなど、幼いころから一緒に遊んだ友達も、凧揚げやお盆の紙遊びを通して、いつの間にか成長していきました。石手川の澄んだ流れで水遊びをしたこと、青々とした松が並ぶ堤防を走り回ったこと、三所権現の森で鬼ごっこをしたこと――どれも心に深く残る思い出です。
人とのつながりだけでなく、村の神様や自然にも守られて、私はここで育ちました。朝夕の風に吹かれながら、村の人々が田んぼを耕して作った食べ物は、私たちの命を支えてくれました。村の役人の指示で、みんなで協力して道や橋を直すことで、暮らしは便利になりました。
私の友人たちは最初は限られた範囲でしたが、成長するにつれて村全体の人々からも支えられるようになりました。村が少しのお金を出して開いた寺子屋で、友達と一緒に習字を習ったこともありました。やがて村立の曙小学校ができ、文化の光が村に広がりました。
村という共同体の中で私たちが育てられてからは、村の恩恵を受けないものなど一つもありません。私の人生は、まさに村の愛によって育まれたものです。村こそが、私の人生の始まりの場所なのです。
人はみな、社会の中で生きる力を持っています。でも、動物にも同じように社会性があります。羊が群れで暮らしたり、水鳥が集まって行動したりするのもその例です。
しかし、人間の社会は本能だけでできているわけではありません。男女の愛や親子の絆は、動物のそれよりもずっと深く、強く育まれます。それが家族の団らんとなり、似た者同士が助け合うことで、より優れた人間社会が築かれていくのです。
だからこそ、近所の人々が団結して村や町をつくり、みんなで暮らしていくことのありがたさを思うと、誰もが村に感謝せずにはいられないでしょう。
ああ、私の村は、私の人生を生んでくれた母です。本当の両親が私を愛してくれたように、村もまた広く深い愛で私を包んでくれました。そのことを思うと、自然と憧れと感謝の気持ちが湧いてきます。
私は一人の村人であると同時に、「この村は私の村だ」という強い思いを持つことで、理想を描き、公民としての責任を感じることができるのだと思います。
西洋には「私は市民である」という言葉がありますが、本当にそう言える強い意識を持ってこそ、公民としての自覚が生まれるのです。村という存在を思い描き、それを広げていくことで、大きな自我の意識にたどり着き、公民としての姿が形づくられるのだと思います。
だから、自分を大切にする人は、村を大切にしなければなりません。村を愛する人は、自分自身を愛する人でもあります。
ああ、私の村は、私の人生を生んでくれた母です。限りない愛で私を育ててくれました。そして私もまた、村への感謝と愛を抑えることができないのです。
我が村の延長
私は戸籍こそ村にありますが、時には松山に、時には東京にと、住む場所を変えながら活動しています。それでも、私の心の中にはいつも村があり、どこにいても村は私と共にあります。私の行動は、私個人のものではなく、村の一部としての行動だと思っています。実際に村にいる時間だけでなく、離れている時でも、村は私のそばにいて、決して離れることはありません。時間や場所に関係なく、私は村の一員、公民なのです。このように、村と切り離せない関係にあるのは、なぜでしょうか。それは、私の人生を育ててくれた村の愛が、限りなく与えられているからです。私の言葉も行動も、すべて村の表れであり、村が広く大きく私に寄り添ってくれていることを思うと、その愛の深さに感謝せずにはいられません。
だからこそ、私は村の愛に支えられていることを思い出します。たとえ北海道の荒々しい海辺に足を浸していても、九州の広い野原で宿を失っても、村の愛は私を慰めてくれます。祖先の墓がある土地は、どこまでも心の中で広がり、故郷に残る友人からの便りを受け取ることで、どんな遠い場所も私にとっての故郷のように感じられるのです。
そんな時、私は「異郷にいる」という感覚を忘れ、寂しさも感じません。すぐに村の友情が心に湧き上がり、私に勇気を与えてくれます。たとえ初めて訪れる村や町でも、私は自然と「ここも私の村だ」と感じ、その土地の人々と共に生きる気持ちが生まれます。そして、その土地のことを深く知ろうとする意欲が湧いてくるのです。
長年、私は国内を歩き回り、盲人用の杖を手に自治について研究してきました。こうして活動を続けてこられたのも、村の人々が私の公民としての活動を理解し、支えてくれたからです。もしその支えがなかったなら、私はただの木の人形のように、何も考えず、何も行動できなかったでしょう。
村の愛は、いつでも限りなく私に与えられ、止まることなく広がっていきます。私の心の中に育まれ、積み重ねられてきた村の愛は、さらに広がり続けています。私が国家や社会、人類全体に対して尽くしたいと思う気持ちも、すべて村の愛から生まれたものです。人類が共に生きることの本当の意味を感じることができるのも、村の愛があってこそです。
この記録もまた、村の愛への感謝と、隣人や友人とのつながりへのお礼の気持ちから生まれたものです。
◆第2章 幼年時代の公民感化◆
赤ん坊の庄屋さん
私たちは、まわりの社会環境の中で育ち、広がりながら成長していくだけでなく、時間の流れの中でも、祖先から直接受け継いだものや、何千年も前から続く社会の記憶や習慣を受け継いで、進化し続けているのです。私がそうした「縦のつながり」から受け取った考え方や感情も、私の生き方の中に深く根づいています。ですから、私の祖先が村のためにしてきたことは、そのまま私が「公民」として生きる上での土台になっているのです。
私の家は、昔の封建時代から代々「庄屋(しょうや)」という村のまとめ役を務めてきました。そして私は、生まれてからわずか三か月で村の庄屋に任じられました。人々からは「赤ん坊の庄屋さん」と呼ばれていました。まだはいはいもできず、歩くことも話すこともできない赤ん坊が庄屋だなんて、まるで冗談のようでした。もちろん、そんな私に自分が庄屋であるという自覚などあるはずもなく、まるでひな人形のような存在だったのです。
「そんな赤ん坊に庄屋の役目が果たせたのか」と思われるのも当然です。私が大きくなってから村の記録を見たところ、私の名前で村の外と公的なやりとりがされていたことを知り、驚きました。時代の流れとはいえ、やはり驚かずにはいられませんでした。
とはいえ、その当時は父・謙蔵がまだ元気で「大庄屋」として村の上位の役職に就いていました。ですから、私が名ばかりの庄屋であっても、父がしっかりと後ろ盾となって実質的な役目を果たしていたのです。
明治三年、父・謙蔵は三十九歳という若さで亡くなりましたが、私の庄屋としての立場は、北河原の庄屋であった栗田彌次郎さんの後見によって、明治五年まで続きました。このように、まるで笑い話のような「赤ん坊の庄屋」も、私が公民として生きていくうえで、少なからず影響を与えていたのだと思います。
「赤ん坊の私が庄屋としてどう務めたのか」と問われれば、私はそこに「祖先の力」というものを感じずにはいられません。七歳、八歳になって少し物心がついたころ、家にある村との関わりのある品々を見るたびに、我が家と村とが太い綱で結ばれていることを感じました。
さらに、母の膝の上や、あたたかい布団の中で聞いた昔話が、私の心にどれほど深く刻まれたことでしょう。母はいつも、自分の見聞きしたことを語ってくれました。
たとえば、私の祖父・庫之助が十七歳のとき、吉田村との間で水の取り合いが起こり、ついには争いに発展しました。垣生村と我が村に加勢に来た「かまの吉」という荒っぽい男が、吉田村の忠七という男を鍬で殴って殺してしまい、大騒動になりました。そのとき庄屋だった祖父・庫之助は、責任を問われて領地の外に追放され、家の財産もすべて没収されるという厳しい運命をたどりました。
また、父・謙蔵も十七歳のとき、久米造という若者が、お鶴という村でも評判の美しい女性に恋をし、無理やり彼女を連れ去ってしまいました。お鶴にはすでに婚約者がいたため、婚約は破談となり、深く傷ついたお鶴は、夜中に久米造の家に忍び込み、彼を刺し殺そうとしました。しかし、刺した相手は久米造ではなく、彼の母親でした。
この事件の裁きは我が家で行われ、代官や役人たちが厳しく取り調べを行いました。お鶴は覚悟を決め、台所にあった包丁を手に取り、その場で自ら命を絶ちました。
その後、事件の責任は久米造にあるとされ、彼の裁きが始まりました。村の騒ぎはなかなか収まらず、最終的に久米造は罪を認め、父・謙蔵も一か月の謹慎処分を受けました。
こうした出来事から、母は「十七歳は我が家の厄年かもしれない」と恐れ、私に何度も語って聞かせました。その言葉は、まるで耳の奥に吹き込まれたレコードのように、私が成長してからも何度も思い出され、村に対する祖先の責任の重さを強く感じさせるものとなったのです。
幼時の手引と公民感化
私は幼いながらも庄屋という立場にあったため、他の庄屋との付き合いで、村の外へ出かけることがありました。そのときはいつも、森源六の伯父さんが私の手を引いて一緒に行ってくれました。道中、伯父さんはいろいろなことを話してくれました。たとえば、出合の川を渡るときには、渡し船の決まりごとを教えてくれました。
河原に建てられた芝居小屋を見かけると、郡の芝居や村の芝居について話してくれました。田舎にも楽しみが必要なこと、飛脚や渡し船の交通の仕組み、昔から続く公共のしくみがどれほど整っていたか――そうした話が、幼い私の心に少しずつ染み込んでいったのです。
ある日、源六の伯父さんと一緒に松前村の庄屋・大政さんのところへ行った帰り道、伯父さんは私を義農作兵衛の墓へ連れて行ってくれました。草が生い茂る田んぼの中に、一本の松の木と並んで、大きな自然石の碑が立っていました。伯父さんはその前で私に手を合わせさせ、作兵衛が昔、享保の飢饉のときに正義を守り、麦の種を包んだ袋を枕にして寝るような質素な暮らしをして亡くなったことを、丁寧に話してくれました。
家の近くまで戻ってきた頃、伯父さんは「坊や、ちょっと待って」と言って、道の脇の田んぼをじっと見つめました。そして羽織を脱ぎ、裾をまくって裸足になり、水田の中へ入っていきました。疲れていた私は「伯父さん、何してるの?」と聞くと、「大事な田んぼの水が漏れてしまうから」と言って、泥を手ですくい、畦の穴をふさいでいたのです。
私は不思議に思って「その田んぼは伯父さんの家のもの?」と尋ねると、「いや、違う。ため造方の田んぼだよ」と言われました。子ども心に「伯父さんは他人の田んぼまで世話するんだ」と思いましたが、後になってこの出来事を思い出すたびに、源六の伯父さんは本当に立派な人だったと感じます。他人の田んぼの水が漏れていても、自分で穴をふさぎ、苦労を惜しまず、陰ながら善い行いを積んでいたことに、深く感動しました。
このように、実際の出来事を通して私は多くのことを学び、心に影響を受けました。
また、安造の隠居さんもよく我が家に来て、いろいろと世話をしてくれました。私が十歳くらいのとき、明治維新の改革が進み、地租改正の前に「毛見(けみ)」という制度が始まりました。そのとき、隠居さんは幼い私の手を取って、我が家の田んぼの帳簿を書かせ、五公五民の税制度や、米の換算方法などを教えてくれました。
私にはまだ難しすぎる内容でしたが、母がそばで慰めたり叱ったりしながら、励ましてくれました。計算もうまくできず、泣きながら教わったことを覚えています。やがて地租改正が行われ、旧畝と新畝の違いや、その割合の計算なども教えてもらいました。
安造の隠居さんが手を取って教えてくれたこうした直感的な学びは、私の「公民としての考え方」を育てるうえで、どれほど大きな意味を持っていたか分かりません。
備荒貯蓄の残骸に隠れん坊
彌太さん、弾太さん、善さん、栄さんなど、毎日遊びに来る友達がいました。元気いっぱいの私はその遊び仲間の隊長のような存在で、みんなを連れて、我が家の隣にある屋敷の西側にある権現様へ遊びに行くのが日課でした。
権現様の社の裏には神輿蔵があり、その二階の暗い場所には、干したあらめ(海藻の一種)がたくさん積まれていました。私たちは隠れん坊をするとき、よくこの神輿蔵の二階に駆け上がり、あらめの山の後ろの暗がりに隠れて見つからないようにしていました。そして、あらめを少し取っては、ままごとの材料に使って遊んでいました。
ある日、私は家の押し入れから采配を取り出して「采配持ちの大将」になり、庭の奥の壁に掛けてあった鳶口(火消し道具)を友達に持たせて、いつものように権現様へ向かいました。神輿蔵の二階にあるあらめを、鳶口で引っかけて下に引き降ろし、それを田んぼの畦に運んで、彌太さんが持ってきたマッチで火をつけてしまいました。
すると、風にあおられて火が近くにあった積み藁に燃え移り、子どもたちの手ではもう消せないほどの大きな火事になってしまいました。大騒ぎになり、村の人たちが駆けつけてくると、私たちは一目散に我が家へ逃げ帰りました。
この出来事を知った母は、私を捕まえて厳しく叱りました。
「神輿蔵の二階にある干しあらめは、お父さんの代から飢饉に備えて蓄えられていたものなのよ。籾も何十俵も蓄えてあった。毎年お正月には村中の人を家に集めて、お父さんが享保の昔の恐ろしい飢饉の話をして、飢饉のときに食べるべき草や木の根をどう調理するかまで教えていたの。そうやって話を伝え、食べ物を蓄えていたのよ。神輿蔵に残っているものも、いざという時の備えになるの。子どもだからといって、そんなことをしてはいけない。ご先祖にも村にも申し訳が立たないわ。
それに、あなたたちが持ち出した鳶口は、火事のときに使うために村で備えてある大切な道具なのよ。それを遊びに使うなんて何事か。火をつけて村を騒がせるような子は、この家には置いておけません」
そう言って、私は夕方、裏口から外に出され、戸はしっかりと閉められてしまいました。
今になって思い返すと、幼い頃のいたずらは本当に恥ずかしいことですが、そのとき母が厳しく叱ってくれたことで、飢饉に備える貯えや火事を防ぐ設備など、昔の村でも自治がしっかり行われていたことを深く心に刻むことができました。そしてそれが、私の公民としての意識を育てる大きなきっかけになったのだと思います。
◆第3章 我が村の地理◆
区域の変遷
私が生まれたのは、現在の余土村の一部である「西余戸」という地域です。明治7年に、東余戸と西余戸が合併して「余土村」となり、当時は伊予郡に属していました。
伊予郡の中でも、重信川の北側にある市坪、保免、余戸、東垣生、西垣生の5つの村は、町村制が始まるまでは一つの行政区としてまとめられていて、戸籍や役場の管理は余土村に置かれていました。
そして明治23年に町村制が導入される際、この5つの村は伊予郡から分かれて、現在の温泉郡に編入されることになりました。これは地理的にも非常に理にかなった変更でした。
その際、村の再編も行われ、市坪・保免・余戸の3つの村が合併して「余土村」となり、東垣生と西垣生も合併して「垣生村」と改められました。
町村制の導入にあたって、県の役所は「川の北側にある5つの村をひとつの自治体にまとめよう」と考えていました。しかし、村側の意見とは食い違いがあり、話し合いは難航しました。
特に東垣生と西垣生の両村は、5つの村をひとつにまとめることに賛成していて、県の考えと一致していました。そのため、意見の調整が難しく、問題の解決には時間がかかりました。
一方、市坪・保免・余戸の3つの村は、地理的にも、仕事の内容や人々の暮らしぶり、風習などがよく似ていたため、ひとつの自治体になることに何の問題もありませんでした。
しかし、垣生の両村は仕事の内容などが他の村と違っていたため、5つの村をひとつにまとめると、将来的にうまくやっていくのが難しくなるだろうというのが、我が村の考えでした。最終的にはこの意見が採用され、現在のような自治体の形が決まったのです。
また、我が村が「余土村」と呼ばれるようになったのは、歴史的な背景によるものです。昔、この地域は「余戸(あまりべ)の郷」と呼ばれていて、「余戸村」という名前も存在していました。その名残を残すために、村の名前を「余戸村」とする予定でした。
ところが、合併の際に県の役所が誤って「余土村」と書いてしまったのです。「戸」と「土」は音が似ているため、書き間違えが起きたのですが、特に問題もなかったので、そのまま「余土村」という名前が使われることになりました。
我が村の地勢
すでに述べたように、私の村は「市坪」「保免」「余戸」の三つの大字(地域)から成り立っています。村の面積は0.332方里、つまり約1.3平方キロメートルしかなく、温泉郡にある44の町村の中では、面積の順位で33番目という、かなり小さな村です。
村の南側は重信川が境界になっていて、その向こうには伊予郡の「岡田村」と「北伊予村」があります。東側は温泉郡の「石井村」、北側は同じく松山市に属する「生石村」、西側は「垣生村」と接しています。
石手川は温泉郡の「湯之山村」から流れ出し、松山市の南側を通って、私の村にたどり着き、村の南の境界を流れる重信川に合流します。その合流地点の間に挟まれている場所が、「市坪」という地域です。
石手川の長い堤防には、青々とした松の木が一帯に植えられていて、約一里(約4キロメートル)にわたって深い緑が広がっています。この風景は、世の中でも珍しい美しい景観として高く評価されています。私たちが幼いころから心を育んできた場所であり、いつもその美しさを味わってきました。
白い壁で飾られた我が村の家々は、堤防の上から木々の間を通して眺めることができ、足元を流れる川の水はこんこんと湧き続け、松の葉が風に揺れる音は、まるで天からの声のように聞こえ、まさに楽園のような場所です。
堤防の上には道があり、平らで車の通行にも適していて、県道(将来の国道予定線)は松山市から西南方向に伸びて、我が村の中央を通り、重信川を越えて「郡中町」「郡刺町」「大洲町」を経て「八幡浜町」に至ります。
この県道が重信川に達する地点は「出合い」と呼ばれ、昔から渡し船の重要な場所として知られていました。現在では、そこにしっかりした橋が架けられています。
鉄道も整備されていて、松山市を起点として「郡中町」までを結ぶ路線が、県道と並行して我が村を通っています。駅はほぼ村の中央にあり、「松山駅」から約2マイル16チェーン(約3.5キロメートル)の距離にある「余戸駅」と呼ばれています。
電報の取り扱いもこの駅で行われていて、三等郵便局はこの駅から「垣生村」へ向かう県道を西へ三丁(約330メートル)進んだ場所にあります。村役場や産業組合も、この駅のすぐ近くにあります。
「高浜港」や「三津浜港」へ行くにも、松山駅から鉄道が通っていて、水路と陸路の連携が整っています。
我が村は温泉郡の西南部に位置していて、「道後平野」の一部に属しています。山も丘もなく、非常に平らな農村です。
◆第4章 私の公的生活に入るきっかけ◆
洪水の恐怖に襲われた村民の運動
明治十九年の初秋、私は東京での勉強を終えて、我が村に帰ってきました。村の外にはあまり出ず、学校帰りの読書欲に浸って、四畳半の書斎にこもっていました。
その頃、すでに四日間も雨が降り続いていて、止む気配もなく、秋の寂しさをいっそう深めていました。しかし、私にとっては読書に集中するにはむしろ落ち着いた気分を与えてくれるようでもありました。
その日の夕方から雨はさらに激しくなり、家の中ではあちこちで雨漏りが始まりました。雨戸を打つ雨の音は激しく、十二、三町(約1.3〜1.4キロメートル)離れた大川の水音が遠くから渦巻くように響いてきて、何とも言えない不安な気持ちが胸に広がりました。
私は不安を押し殺して読書を続けていましたが、大川の音はますます大きくなり、やがて湿った太鼓のような音が、南の堤防の方から雨音に混じって聞こえてきました。暗い夜の中で、村人たちの声も騒がしくなってきました。
私は立ち上がって、作男の鶴吉を呼び起こしました。
「寝ている場合じゃない。太鼓の音が聞こえる。大川が危ないのではないか。堤防の外にある林の木が根こそぎ流されてしまうかもしれない。川の様子を見てきてくれ」
鶴吉は提灯に火を灯して出かけましたが、すぐに戻ってきて言いました。
「若旦那、途中に水があってとても行けません。道の上はもう私の腰まで水が来ています」
それを聞いて私は驚いていると、犬が不安そうに吠え始め、人々の騒ぎ声も聞こえてきました。鶴吉が庭に立っている足元にも、すでに水がじわじわと流れ込んできています。
隣の岩さんが叫びながら戸を叩いて、「土手が崩れましたよ。お米のことはどうしますか」と知らせてくれました。
私は思わず庭に飛び出しました。岩さんと鶴吉が庭の米を積み直そうとするのを見て、私はそれを止めて言いました。
「もう庭の下駄も浮いている。この状況では、まず家の中で籠城する準備が必要だ。米は白米一俵を床の上にあげておけば十分。それより今のうちに井戸の水を二、三日分汲んでおくこと。薪も四、五日分、上にあげておくように」
こうして急いで準備を終えた直後、井戸の水はすぐに濁ってしまいました。庭の中も、床の下も、水の流れる音が聞こえてきました。
水かさは七寸、八寸、一尺とどんどん増していき、どこまで上がるのか分からず、恐怖はますます強くなりました。淡い灯りの中で見ると、蛇やマムシが二、三匹流れてきます。近所では女や子どもの叫び声が響き、水面を打つ音はまるで家が壊れたかのように感じられました。
そのすさまじい音は次々と響き、ついには我が家の軒下に雷のような音が轟きました。「何だ」と明かりを持って見てみると、我が家の西側にあった五間(約9メートル)の土塀が倒れていました。続いて十七間(約31メートル)の長い土塀も、一斉に崩れて水煙を上げました。
こんな洪水の被害を受けたのは、私自身も初めての経験であり、村人たちにとっても前代未聞のことで、不安と恐怖は極限に達し、村中が一晩中眠れずに過ごしました。
翌朝になってようやく水が引き始めましたが、村の堤防が四ヶ所も決壊したという情報が入り、さらに上流の石井村・和泉地区の堤防が二百間(約360メートル)も崩れたという報告も届きました。
私はすぐに戸長役場へ行き、各地の状況を聞きましたが、その被害は想像を超える悲惨なものでした。宇針田前の畑には、和泉地区から流れてきた家屋が横倒しになっており、近くには人の遺体や馬の死骸が土に半分埋まっていました。我が村では、被災者の救済に奔走しているという騒ぎになっていました。
一日、二日と水は徐々に引いていきましたが、畑や田んぼの上には濁った水がまだ勢いよく流れていました。
和泉地区の堤防が崩れた場所には、仮の補修工事を行うため、県が松山監獄から多くの囚人を派遣しました。
しかし、ここで問題が起こりました。我が村の堤防もすでに四ヶ所が崩れているのに、上流の和泉地区の大きな決壊にだけ工事が行われると、下流の我が村には水が流れ込んでしまうのです。
つまり、上流の被害を防ぐことで、下流に新たな被害が生まれるという県の対応は、我が村としては黙って見過ごすことができませんでした。
そこで、我が村でも同時に仮の補修工事を行うべきだという声が高まり、村民は県に対して陳情するための委員を選びました。
このとき、若かった私も委員に選ばれ、何度も県と交渉を重ねた結果、ついに我が村でも仮留め工事をしてもらえることになったのです。
洪水の善後策として現れた農談会
めったにないような大洪水に見舞われた我が村は、ひどい被害を受けました。壁が崩れ、土塀が倒れ、建物が壊れただけでなく、道路や橋のほとんどが流されてしまい、農作物にも大きな損害が出ました。そのため、村の人々はほとんど呆然としてしまうような状態でした。
農作物の被害も深刻でしたが、それ以上に、日々の暮らしが困難になりました。飲み水に使う井戸の水は濁ってしまい、飲むことができません。寝ようとしても畳が湿っていて、眠ることもできず、食事も睡眠も大きな心配の種となりました。
そこで、近所同士が助け合いながら井戸を掃除したり、畳を干したりしました。また、水害の後の湿気は衛生面でも注意が必要なので、床下にたまった泥を四、五寸(約12〜15センチ)も取り除くなど、大変な作業が続きました。
こうして目の前の問題に取り組みながら、ようやく道路や橋の修理に取りかかることになりましたが、数多くの道路や橋を元通りにするのは簡単なことではありません。しかも、村の人々は濁流に浸かった稲作の被害を回復することを急いでいたため、道路の復旧は一、二年経ってもなかなか進みませんでした。
すでに収穫の時期が近づいていた稲が水に浸かってしまったことで、どうすれば被害を少しでも減らせるかが、急を要する現実的な課題となりました。そこで、みんなで知恵を出し合い、話し合いを重ねて、濁った水にまみれた稲穂を洗い清めるなど、非常に忙しい日々が続きました。
しかし、どんなに工夫しても米の質は悪くなり、収穫量も減ってしまい、損害は少なくありませんでした。また、一部の土地では土砂がたまり、耕すための土が流されてしまったため、その回復方法も考えなければなりませんでした。
こうした不作の時こそ、農業のやり方を見直して改良を加え、収穫量を増やすことで、直接的な損害を少しでも軽くし、村の人々の力を養って、自然災害による疲弊を救うだけでなく、農村の発展に力を注ぎ、災いを転じて長く続く幸せにつなげよう――という考えが、鶴本房五郎さん、二神精一さん、森忠太郎さんたちの間で熱心に語られました。
その結果、明治二十年一月に、我が家で協議会が開かれ、「余戸村農談会」という組織が立ち上げられました。
農談会は何度も開かれ、そこでは率直で親しみやすい雰囲気の中で、復旧の方法や農業の改良案が話し合われました。こうして、我が村の農業は洪水による混乱から立ち直り、少しずつ進歩の兆しが見えてきました。
そして、この時代にはまだ一般的ではなかった「作物品評会」や「産米品評会」が、農談会の活動の一つとして行われました。その結果は、相撲の番付のように公表されたり、農具などの賞品を贈って励ましたりしました。
幹事を務めた鶴本さんは、これらの事務を熱心に担当し、豊富な経験と深い趣味を活かして尽力されました。
この農談会の成果によって、一市六郡にわたる農会が設立され、やがて県農会や郡村農会の設立へとつながっていきました。最も小さな我が村の農談会が、広く波及するきっかけとなり、地域全体の農会組織を促す源となったのだと、私は思っています。
連合会や村会
我が村がまだ新しい制度が始まる前、伊予郡に属していた頃、郡の町村連合会や学事会が開かれていました。そのとき、我が村はまだ若く未熟だった私を、これらの連合会に代表として送り出しました。公開の場で、議員として会議に出席したのは、これが私にとって初めての経験でした。
私はいつも、郡中町にある栄養寺を会場として開かれる会議に出席していました。最初の頃は、議事の進め方も知らず、経験もなかったため、ほとんど黙って座っているだけでした。たまに発言を求められて意見を述べると、議事のルールをよく知らなかったため、まだ正式な提案にもなっていない話に反論してしまい、議長から注意され、他の議員からも野次を飛ばされることがありました。
それでも、少しずつ会議の経験と知識を身につけていくうちに、私は公的な活動に対して深い関心を持つようになりました。村や郡という政治の枠組みや、そこに芽生える思想は、確かにこの時期に私の中で生まれたのだと感じています。
その後、新しい制度が導入される際、伊予郡内の松山領に属する二十四の村が共同で所有していた「郡田(ぐんでん)」をどう扱うかという問題が持ち上がりました。売却して分けるべきか、それとも維持すべきかという意見が激しく対立し、組合会議が開かれました。
このときも、私は委員として選ばれ、高本邦和さんや和田鹿太郎さんとともに「分配すべきだ」という立場を主張しました。一方、武市庫太さんや水口啓太郎さんは「分配すべきではない」という立場を取っていて、両者の間で激しい議論が交わされました。
この争いは、今でも郡の人々の間で語り草になるほどの騒ぎとなり、何度も開かれた会議には何千、何万という傍聴者が押し寄せ、会議の進行が妨げられるほどでした。分配派と非分配派が互いにぶつかり合い、まるで百姓一揆のような騒動となり、青竹を打ち合う音や、雨のように降る石の音が響き渡り、会場は混乱の渦に巻き込まれました。
それでも最終的には、分配論が勝利を収めました。その後、決議に対する取り消しを求める訴訟が起こり、第一審から控訴、上告と争いは続きましたが、最終的には分配派が勝訴しました。
この争いは、私の青年期における大きな試練であり、後の人生においても重要な鍛錬となったと思っています。
また、新しい制度が始まったとき、私は我が村の村会議員に選ばれ、この制度のもとで公民としての責任を担うことになり、初めてその一歩を踏み出したのでした。
新聞経営と政治活動
新聞経営と政治活動
連合会やその他の公の会での経験を通じて、私の政治的な考えは深く広くなってきました。日本の歴史における大きな出来事である憲法発布とその実施が、当時の私の政治的な考えにどれほど強い刺激を与えたか計り知れません。
国民が長年待ち望んでいた憲法が、明治22年(1889年)の紀元節(2月11日)に発布されました。すでにこの日に発布されることを予想していた国民は、どれほど喜んでこれを待ったことでしょうか。若く血気盛んな私も、その喜びに心が躍るのを抑えることができませんでした。
憲法発布が近づいてきました。私たちが大切にすべき時が来たと、先輩の小林信近、窪田節二郎、高須峯造の皆さんと真剣に話し合い、政治的な同志を集めることを計画しました。団体としての活動こそが憲法政治を完成させるための唯一の準備だろうと考えた結果、我が県での改進党の旗揚げをすることに決めたのです。
そして同時に、意見を発表する手段であり武器でもある新聞を発行する必要性を痛切に感じました。私はまず向陽社の山本盛信さんを説得しました。山本さんはかつて新聞印刷の経験があり、現在も印刷業に携わっていたので、すぐに快く承諾してくれて、印刷に関するあらゆる準備を3ヶ月以内に整えると約束してくれました。比較的少ない資金を出せば、山本さんがすべてを引き受けて機関新聞を発行できることになったのです。
私は喜んでこのことを同志に伝え、その資金を集めることと政治的な団体の同志を集めるため、県内を遊説して回ることになりました。私と高須さんがその仕事を担当することになり、まず第一に南予の各郡に向かい、次に東予の各郡を経て讃岐方面へと一巡しました。当時、愛媛県の管轄区域は伊予と讃岐の二つの国にまたがっていたのです。
この遊説は時代の要求にぴったり合っていたので、大変な成功を収めました。集まった同志の中には県会議員の7割までも含まれるほどで、したがって機関新聞発行の資金集めもとても簡単にできたのでした。
明治21年(1888年)の6月に計画を立て、8月中に遊説を完了し、すぐに新聞発行に取り掛かりました。実に我が「予讃新報」は、この年の11月3日という天長節(天皇誕生日)の良い日を選んで、その第1号を発刊することができたのです。
最初は私と川原田新さんが編集を担当し、高須さんが手伝ってくれました。主筆として招く約束をしていた元吉秀三郎さんは当時報知新聞にいて到着が遅れ、その他の社員も揃わなかったので、予定通り休刊し、翌明治22年(1889年)2月11日の憲法発布の当日から第2号以降を続けて発行できるよう準備を整えました。
その後、元吉さんが到着し、新たに御手洗忠孝、蓑島正彌のお二人を社員として迎え、めでたい雲がたなびく紀元節の春の日が美しく輝くこの日、新報は待ち望んでいた憲法発布の祝賀ムードの中で、広く県内に配布することができたのです。
我が「予讃新報」の名前は、後に讃岐が香川県として分離独立した際に「愛媛新報」と改めました。私はそれから数年間、文章を書く仕事に従事しましたが、その間に政治上の変化もあり、明治25年(1892年)に大同団結で民党の合同が提唱された時、県内での自由党と改進党の合同を図りました。その結果、愛媛新報は政治機関としての役割をやめて存続させ、海南新聞を準機関紙とすることになりました。そのため私は海南新聞に文章を書くことになったのです。
これより前の明治23年(1890年)、私は温泉郡選出の県会議員になりました。この当時は私の村もまだ伊予郡に属していましたが、伊予郡では長年議員を続けていた先輩の窪田節二郎さんが立候補するので、私はそれを譲って温泉郡から出馬したのです。
新制度実施以前の温泉郡は松山市も含んでおり、多くの先輩がいるにもかかわらず、よそから来た私が立候補しようと思ったことは実に大胆なことでした。これは全く温泉郡内の有志の熱烈な支持と、私の村の強い後援によるものでした。
私は県会で議席を得て、初めてあらゆる県政について学ぶ機会を得たのです。明治25年(1892年)には愛媛県会常置委員に選ばれ、また地方衛生会、山林会、そして第十旅団区徴兵委員などにも選ばれました。
◆第5章 暗黒に包まれた公的生活◆
病魔に襲われた暗黒の生活
私は、政治活動があまりにも感情的な争いに流れてしまったこと、そしていわゆる「政治屋」というものが職業化してしまい、そうでない者は無駄に財産を使い果たして、その地位も保てない状態にあることを考えて、明治26年(1893年)に海南新聞社も辞めて、実業方面で活動してみようと計画したのです。
南予鉄道会社の設立に際しては、その発起人となって地方の交通の便を良くするよう努力しました。また松山紡績会社の設立にも協力しました。そして明治27年(1894年)3月からは商店を開いて商業活動を始めましたが、その創業時期に日清戦争が勃発して、いわゆる戦争の雰囲気が漂い、軍隊の輸送は対岸の宇品港を中心に始まりました。
さすがに落ち着いていた商業界も、たちまち活気づけられて、素人の私もその影響を受けて順調に事業を進め、次第にその手を広島方面に広げていったのです。
一方、戦争は牙山、豊島、平壌と次第に進展し、我が皇軍の勢いは連戦連勝の様子で、毎日毎晩、万歳の声が湧き上がり、国民の喜びは限りないものでした。こうして戦況が進むにつれて、この年の9月15日、本部は広島城に移されました。
私は愛媛県会の決議により、議長の白川福儀さんと共に大元帥陛下の広島御到着をお迎えするために出向き、松原停車場で天皇陛下が美しく御到着される様子を拝見して、この上ない光栄と喜びを感じずにはいられませんでした。広島城に立てられた大本営の旗は風になびいて国の内外に威光を示す様子を呈し、行き来する人馬の音は、国に報いる気持ちを味わわせるのに十分でした。私は白川議長と共に、清らかな太田川の流れに面した溝口旅館で、この記念すべき日と私の将来を思い浮かべながら、静かに杯を交わして床に就いたのです。
ところが翌朝の16日、寝床から出て欄干に寄りかかって清流を眺めると、私の左目は濃い雲がかかっているかのようにぼんやりとして、目の前の景色さえはっきり見ることができません。右目で見れば、対岸の高い建物は晴天の輝きに照らされ、清流を棹で進む川舟の往来は、はっきりと風光明媚な様子を映し出しているのです。
雲でもなく、霧でもなく、そして夢でもなく、私の左目にただならぬ異常が起きていることを自覚しました。私の驚きは心臓の鼓動を速めました。座ったり立ったりしている間にも、ぼんやりとした中に黒い点が見え、赤い血が線のようになって二筋、三筋流れるのが分かります。
私はこの時、病魔に襲われたことを知って、すぐに家に急いで戻り、岡山に行って大西博士の診断を受け、また東京で河本博士の治療を受けて、その回復に前後2年を費やしましたが、病状はますます悪化して、左目だけでなく右目も冒されて、ついに私の人生は病魔のために暗闇に包まれることになったのです。
明暗二つの境遇に遭遇した村長当選
暗闇の人生に突き落とされた私は、不安と悲しみの底に沈んだのです。視力を失っては、読書することも手紙を書くこともできず、歩くことさえ自由にできません。自由がなくてどうやって理想の実現を計画できようかと、私はこれまでの公的な生活から完全に脱落した者だと悲観せざるを得ませんでした。それだけでなく、普段の日常の動作にも一層深刻な悲しみを感じ、現在の暗黒の境遇には何の慰めも楽しみもなく、ただ怒涛のように打ち寄せ、疾風のように吹き荒れるものは不安だけでした。
この時、過去における明るく自由な世界は私の強い憧れであり、希望でしたが、もはや戻ることのできない過去の人生です。その憧れや希望は、かえって私をますます不安に導く悪魔だったのです。暗闇の悪魔は不安という手を使って、徹底的に私をもてあそびます。明るかった過去の人生もまた悪魔となって、不安という手から私を解放してくれません。明るい世界と暗い世界という二つの境遇は、私にとってどちらも不安の世界であり、失望の深い淵なのです。
私はこの状況から逃れ出るには、ただ死ぬことだけだとまで悲観し、ついに死を覚悟すること三度に及んだのです。
しかし縁があり時が来て、神は私を見捨てず、一粒の飯と一滴の水によって、迷いの夢を破って新しい趣味の世界を与えてくださいました。私はこのように暗闇の境遇にあって松山市の住まいで静養しながら、さて家族を養う責任のある自分はどうすればよいか、その将来を考える時、いよいよ途方に暮れざるを得なかったのですが、明治30年(1897年)、我が村の村長が任期満了となり、その後任の選挙にあたって、私がこれに推薦されたのです。
前村長や村会議員がこの知らせを私の住まいに持ってきて、その承諾を求めました。私は驚く以外ありませんでした。目が見えず不自由な身では、書類一つ見ることもできず、そろばん一つ弾くこともできないにもかかわらず、あえて複雑な村政に当たらせようという、我が村民の大胆さに驚かされたのです。そして同時に、我が村の私に対する同情はこれほど深いものがあるのかと、ただただ感激の涙にむせび泣きました。
しかし、自分自身を振り返ってみると、果たしてこの任務を全うすることができるだろうか、いや不安だと思いました。そのため私はその厚意に感謝して何度も辞退しましたが、我が村の有志たちは温かい同情と熱心さをもって説得をやめません。偉大なる我が村の愛の包容力が、無能だと自覚している私に、ついに承諾の決心をさせたのです。
人権蹂躙の恐怖
我が村の村会において満場一致で当選の栄誉を与えられた私は、当選の承諾とともに公式の手続きを踏むべく、履歴書を役場に提出したのです。我が村は法律に従って監督官庁の当選認可を得るべく、申請の手続きを取りました。
10日、20日経っても認可は来ません。そのうち県庁内にいる重要な立場の同情者が、私に知らせるべき情報を送ってきました。庁内において、目が見えない者に町村行政の事務を取り扱わせることは、認可すべきではないという問題が起こって、ついに庁内の委員会での討議となり、認可すべきか、不認可にすべきかの二つの意見に分かれて、本日、認可論は敗れて不認可に決まったというのです。
この知らせに接した私は、たちまち恐怖に襲われました。村長当選の不認可とは、目が見えない人の公的な人格を認めないという結論に基づくのであろう。これは目が見えない人が村長として無能力であることを意味するものです。
私は法律の上において公民としての資格を有するのに何ら欠けるところはありません。また、その能力がない者は法律上明記されているはずなのに、目が見えない人は無能である、資格がないと明記されているのを知りません。ただ精神錯乱や知的障害のある者として、これを同じように解釈するのでしょうか。しかし他の法律を見ると、精神錯乱や知的障害のある者と身体障害者、もしくは目が見えない人とは区別されているのです。ましてや目が見えない人を精神錯乱や知的障害のある無能力者と同一視するのは、目が見えない人を理解していないことも甚だしいことです。これは実に人権の蹂躙とも言うべきではないでしょうか。
特に監督官庁の当選認可権は、法律上その範囲をどの点まで認めているのでしょうか。町村の決議機関によって選挙された当選の認可は、ただその選挙が合法的に行われているかどうかを調査して、合法に行われた当選ならばこれを認可すべきことが当然でなければなりません。しかるに、合法に行われた私の当選を不認可とするのは、認可権の不法な乱用であると、私は世を憂い、憤り嘆き、かつ恐怖したのです。
私は自分を振り返って、当選の承諾を与えるのにためらいましたが、それは人権問題や認可権を恐れてのためらいではありません。しかし、この人権蹂躙によって当選不認可となったならば、私一人の権利が蹂躙されるだけでなく、我が国の目が見えない人たちの世界にとって脅威であり、何万もの目が見えない人たちは公的生活から追放されなければならない結果を招くことになるのです。
私はこのことを思う時に全身が震え、血が沸き立ち、どうして黙って見ていることができるでしょうか。この知らせは委員会の決議に留まっていて知事の裁決ではない、まだ余地は残されている、賢明な知事は必ず正当な判断を与えることであろうと信じ、すぐに知事を訪ねて、私が持っている意見を詳しく述べました。すると知事は私の意見を聞いて、同情の涙をその目に浮かべ、「心配するな」と力強い一言をくださり、その後2日を経て、ついにその認可は我が村役場に到着しました。
参考文献
[1] 『体験物語 我が村』天心園発行、昭和二年二月五日発行


