『我が村』は、盲目の政治家・教育者・俳人として知られる森盲天外が、自らの体験と信念を綴った実体験記録である。伊予・余土村の風土と人々の営みを背景に、幼少期の公民感化、庄屋としての責務、そして村長としての実践を通じて、地方自治の理想と共存共栄の精神が静かに、しかし力強く語られている。
体験物語には、森盲天外自身が身をもって歩んだ道、寒風の中で頭陀袋を携えながら小作人の戸を叩いた日々、盲目の身でありながら村政に尽くした実践の記録が、血肉をもって刻まれているのである。
本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。
※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。
意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
◆第6章 我が村の懐に抱かれた新生活◆
役場内での自炊生活
私は数年間、我が村を離れて松山市に住み、そこを仕事の拠点としていましたが、ここに余戸村の村長に就任しましたので、生まれ育った温かい我が村の懐に帰ることになりました。
初めの1、2ヶ月は鉄道の便を利用して松山の住まいから村役場へと往復していましたが、私の不自由な身ではその往復に不便と困難を感じましたので、村役場の近くにある医師の渡邊さんの別荘を借りて、ここで寝泊まりしていました。
その後、半年ほどして小学校の新しい校舎ができて、その旧校舎を村役場に充てることになりましたが、その一部に教員の住宅があったのを改造して、私はここに住まいを移すことにし、家族は引き続き松山の住まいに残して、単身でここに住んだのです。多少でも距離があったものが、村役場の一部に住むことになって、万事に都合が良くなりました。
とはいえ、独身生活でその日々の生活の用事をしなければなりません。私はかつて自炊などの経験がないだけでなく、目が見えない不自由な身でその生活をどうすればよいかと思い悩みましたが、最初から強い決心で独身生活を覚悟していましたので、部屋の掃除も寝床の片づけも、また炊事のことも自分でやりました。
ご飯も柔らかかったり、硬かったり、おかずも甘かったり辛かったりして、初めはそのバランスが取れませんでしたが、失敗の経験を2、3回繰り返すと、何事も都合良くできるようになりました。ただ火をつける時、マッチをつけてからその薪に火がつかずに手にやけどをしたり、また火をつけたのにいつの間にか消えていたり、そのじれったさに自分の不自由さを嘆くようなこともありました。
思ったよりは楽に、一度ご飯もおかずも用意しておくと3日、4日は世話がいりません。冬の凍るような寒さに冷たいものを食べても少しも不満を感じません。食べ物がその身を犠牲にして毎日私たちの栄養となってくれていることを思うと、尊い食糧に敬虔な気持ちが起こって感謝を捧げます。
ただ冷や飯を食べる時、お茶をかけるのに、お茶が入ったかその量がどれくらいか分かりません。入れ過ぎると膳の上に溢れ、少なすぎると冷たく底に沈み、指先を茶碗の中に入れると熱いお茶に痛みを感じるなど、人知れぬ苦労は私の生活の根底を流れている悩みでした。
このような暗い一面を持っている私はいつも思いました。それは松山に残している老母が子供たちの養育に努力してくれていることを考えると、私自身のこの苦労が何でもなくなるのです。
当時、私は妻を持っていなかったために、衣類のことすべてで母の手を煩わせることが私の苦痛でしたので、独身の間は常に椅子を使いました。また襟巻きをして、これを外しません。膝の汚れや襟の汚れを避けることが母の労苦を減らす一つの方法だと考えました。
さて、このような生活は私の人生における感謝となりました。目が見えなくなって、わずか2、3年はまだ暗闇の生活に慣れない私は、恐怖の中で手も足も出ない不自由さだけを感じていましたが、この経験は一つ一つ私を光明に導いて、夜明け前の闇を破るように自由な世界に連れ出してくれました。そして人生の奥底から湧き出る生活の真の意義が見出され、社会に奉仕する気持ちが湧いてきました。
また、私のこの不自由な生活が村および社会に強い反響を与えたことを信じます。
たまたま我が村を視察しようと遠くから来た客があっても、私が役場の片隅で米を洗い、火を焚いているところを見ると、たちまち黙って私の動作を見つめ、しまいには狭い部屋に入って談笑の間に、つたない私の料理を一緒に食べたいと求められるなど、初めて会う客も昔からの知り合いのように、家族のようでした。
また村の人々も、私のこの生活を目の当たりに見ると、落雷のようにその胸に響いて、一層深い同情が湧きました。そして理屈や感情を超えて、村政の上に春風が吹くような思いをもたらしたことと信じます。
我が村は我が家庭であった
この新しい生活に入った私は、我が村の愛の懐に抱かれて、限りない同情の恵みを受けました。ご近所の人々は言うまでもなく、村全体の人々からどんなに温かい同情が寄せられたことでしょうか。
日々の食事に私の不自由を想像しては、各家庭からご馳走が贈られます。森彌三郎さんや八十八さん、鶴本房五郎さん、二神精一さんと数え切れない人々から同情を寄せられました。そのうち、二神さんは一日として欠かすことなく、その家庭でできたものを一椀ずつ恵んでくださいました。
お祭りとか、お節句とかいうと、あちらからもこちらからも贈り物のご馳走で、狭い台所が埋まります。実に私に村中の家庭に座っているような思いをもたらしたことです。
さらに衣類の不自由を想像しては、私に温かい同情を着せてくださいました。風邪に悩むと医者様も来てくださる、看護にも代わる代わる来てくださる。私はどうしても村の方々の家庭以外に生活しているものとは思えません。本当に我が村は私の家庭です。
鶴本房五郎さんや森荘之助さんは幼年時代からの友達で、村にいても、たとえ村の外にいても、常に私の身の上について何かにつけて世話をしてくださっただけでなく、私が村長として在職中は、村政が円満に発展するようにと、その声援に強い力を与えてくださって、退職後の今日に至るまでもその同情はなお変わりません。
私はこのように全ての人々から恵まれる愛に対して、強い感激に満たされずにはいられません。この感激は深い感謝の念を呼び起こして、たちまち奉仕の気持ちは公共的な事業に勇気づけられただけでなく、私の心に満ちている村を家庭と思う気持ちは躍動し、その喜びや悲しみ、苦しみや楽しみを共にして、もし村の人々の家庭に縁談のもつれや放蕩者がいれば、私は進んでその解決と説諭に努めるようにしました。
そして社会から別扱いされている気の毒な部落の人々にも親しく接して、お葬式の世話や家計の整理まで差別なく尽くしました。
さらに各大字(おおあざ)の各部落にも時々出かけてその家庭を訪問し、人を集めて話などもしてみます。夜が更けたならば、その家庭の厄介になって宿泊し、こうして家庭に親しむことを私は無上の光栄であり、奉仕であると喜びました。
こうして実に我が村は我が家庭であるという雰囲気が漂って、この上ない幸せな生活に感謝の気持ちが絶えることがありません。
温かい炉端会議
私は、自分の村を「家庭」だと思っていました。だから村の会議を開くときも、テーブルや椅子を並べて、番号札の後ろに座るような堅苦しい形式は避けました。そうした形式にすると、場が緊張しすぎて、議論が理屈っぽくなり、話し上手な人ばかりが意見を述べるようになります。すると、普段あまり話さない人が心の中に持っている大切な考えが聞けなくなるだけでなく、議論が感情的になって対立が生まれ、せっかく見つけられるはずの妥協点も見失ってしまい、村の運営がうまくいかなくなると思ったのです。
そこで私は、村の会議も家庭のような雰囲気で行うことにしました。自分の部屋で、囲炉裏を囲んで話し合う「炉端会議」のような形をとったのです。そうすると場が和やかになり、普段あまり話さない人も気兼ねなく自分の意見を話すことができます。意見は自由に述べられ、たとえいろいろな考えがあったとしても、村の会議は村全体の意思をまとめる場ですから、言うべきことはしっかり言ったうえで、温かい話し合いによって結論を出すことができました。
私が村長を務めていた間、村の会議で扱った議題は、途中で話し合いを止めたり、そのまま進めたりすることはあっても、賛成多数で決めるということは一度もありませんでした。意見が違っていても、最終的にはみんなが納得し、争いなく平和に決まったのです。
こうして決まったことは、実行するのもとてもスムーズでした。形式ばかりにこだわって、過半数で決めたことは、かえって対立を生みやすく、実行のときに問題が起こる例が世の中には少なくないと思います。
実際、物事を進めるときに一部の村民から不満が出ることもありますが、村の会議で円満に決まっていれば、その不満を和らげる力が働くだけでなく、そもそも不満が生まれる余地もなくなると思います。多くの場合、不満は議員同士の対立から生まれます。そして、決議で負けた議員が見えないところで働きかけて、その不満を広げていることもあるのです。
私はずっと、「我が村は我が家庭である」という考えを、あらゆる場面で実現しようと心がけてきました。
◆第7章 役場内部の整理◆
事務の整理と、思いやりをもった仕事の進め方
私は、村を治めるには、まず役場の中をきちんと整えることから始めなければならないと考えました。幸いにも、助役の池内清間さん、収入役の竹田次郎さん、そして森久太郎さんや本田道太郎さんといった方々が、日々忙しく事務をこなしてくれました。特に池内さんは誠実で温厚な人柄で、事務の能力にも優れていたので、私が目が不自由でも、事務の整理は滞りなく進めることができました。
まず最初に取り組んだのは、帳簿の整理でした。さまざまな台帳はもちろん、会計の整備にも職員全員が力を尽くしてくれました。多くの書類をまとめる際には、すべてを系統立てて新しい分類方法を作り、丁寧に整理しました。この分類方法は、かなりの研究と工夫の末に生まれたものです。
また、それまで収入役が現金を金庫に保管していたのを、村会の決議を経て銀行に預けるようにし、現金は必要最小限にとどめ、支払いは小切手で行うようにしました。職員の勤務時間や当番制も厳格に守るようにし、村民と接する際には、親切で丁寧な、庶民的な態度をとるように心がけてもらいました。
納税の義務については、自治の精神がどれだけ根づいているかを示すものです。わが村でも、納期限を知りながら意図的に納税を怠ると思われる人が数人いましたが、多くの人は、忙しさのあまり納期限を忘れてしまったり、役場の開いていない時間に来て納められなかったりしただけでした。中には、朝早く仕事に出る前に役場が開くのを待っていたり、夕方仕事を終えてから来たらすでに職員が帰っていてがっかりする人もいました。
もちろん、時間を守ることは文明的な態度ですが、農村のように忙しい地域では、ある程度の思いやりも必要です。そこで、納期限の前後には、収入役が早く出勤したり遅くまで残ったりして、納税しやすいように工夫しました。また、使いの者には事情をよく理解している人を選び、納期限前に各家庭を訪ねて、丁寧に納税をお願いしました。こうした対応によって、意図的に滞納していた人も納税するようになり、納税の成果は大きく向上しました。
さらに、村の総代や委員たちにも、住民に対して思いやりのある、親しみやすい態度をとるように呼びかけました。土木係が道路や橋の工事、川の掃除などを監督する際も、下駄や傘ではなく、草鞋と帽子を身につけるように求めました。これは、現場で働く人々の苦労に対する共感の表れです。
私が子どもの頃、源六の伯父さんが教えてくれたように、役場の人が草鞋姿でいれば、田んぼの水漏れを見つけてすぐに直したり、重い荷車を押している人を助けたりと、自然に人のために動くことができます。炎天下で草を取ったり、寒空の下で麦畑を耕している人のそばを、下駄や傘で通り過ぎるのは、役場の人間として思いやりに欠けると私は思ったのです。
このように、役場の中を形式的にも精神的にも整えることこそが、自治の精神を実現する第一歩だと私は考えました。
公的生活の表現
町や村の役場で働く職員は、住民としての権利を持つと同時に、責任も負っています。毎日の仕事に取り組むとき、この意識を忘れてはいけません。役場の仕事をきちんと行うことは、職員として果たすべき大切な義務です。だからこそ、職員の行動ひとつひとつが「公的な生活のあらわれ」だと言えるのです。
もし職員が仕事をおろそかにすれば、それは多くの住民の利益を無視する無責任な行動だと言わざるを得ません。たとえば戸籍の手続きを担当する場合、手続きの仕方がわからない人には親切に教える必要がありますし、書類の内容は厳密に正しく記録しなければなりません。人の権利は、たった一日や一時間の違いで大きく変わることもあるため、職員には重大な責任があるのです。このことを忘れず、自分の仕事が「公的な生活の表現」であるという意識を常に持たなければなりません。
私はいつも、役場の仲間たちにこの考え方を大切にしてほしいと伝えてきました。
あるとき、重信川と石手川が氾濫しそうになり、堤防が崩れる危険が迫っていました。村の人々の命や財産を守ることは、私たち職員が真っ先に考えるべきことです。そこで職員は現場に出て、堤防の防備に力を尽くし、指示や監督を怠らずに働きました。村民もそれぞれの場所で懸命に動き、警戒に努めていました。
そのとき、ある職員が堤防の危険を前に、自分の家が心配になってこっそり帰ろうとしました。私はその行動を止めました。公的な立場にある職員が、自分の責任を忘れて家に帰るのは許されないことです。もし堤防が壊れれば、村全体が大きな被害を受けることになり、一人の家だけの問題では済みません。だからこそ、みんなで力を合わせて堤防を守ることが、被害を防ぐ最も確かな方法なのです。
職員としての責任を果たすためには、たとえ自分の家が犠牲になるとしても、それを受け入れる覚悟が必要です。私はそう考えて、その職員の帰宅を止めました。
私は、職員一人ひとりの「公的な人格」が、自治の成果を生み出す原動力だと信じています。精神的な面でも、公的な生活をどう整えるかが大切です。幸いにも、仲間たちはこの考えを理解し、常にその精神を持ち続けてくれました。それは、私たちの村にとって本当に幸せなことだったと思います。
◆第8章 我が村に残された難題◆
小学校の建築について
私の村には、前の村長の時代から長年にわたって解決されない問題がありました。それは村政の流れを妨げる「暗礁」のような存在で、人々の心を遠ざけ、対立を生み、村の調和を失わせ、共同の利益にも大きな損失をもたらしていました。
私は役場の内部を整えると同時に、この長年の懸案を解決することが、村の未来を切り開くために急務だと考えました。その問題とは、十年以上も議論が続いていた「小学校の新築」についてです。
明治6年に学制が発布された当時、村には三つの地区それぞれに小学校がありました。しかしその後、市坪と保免の学校は廃止され、余戸地区の小学校に統合されました。その校舎は旧藩時代の村の倉庫跡地に建てられ、合併後もそのまま使われてきました。
ところが、児童の数が年々増え、校舎が手狭になってきたのは明治23〜24年頃からです。増築の話も出ましたが、校舎はすでに老朽化していて使い物にならず、むしろ新しく建て直すべきだという意見が多くありました。
ただし、問題は「場所」でした。もともと三つの地区に分かれていた学校を一つにまとめたことで、校舎の位置が偏っていると感じる人もいました。そこで当時の村長は、村のほぼ中央にある「雪松」という地区に移転して新築することを提案し、設計や予算も整い、村会でも決議されました。
しかし、村の一部から強い反対が起こり、「移転賛成派」と「反対派」に分かれて激しい議論が続きました。村会には多くの傍聴人が押し寄せ、議論は混乱し、何度開いても結論が出ず、村の平和は乱れました。分村の話や、児童の長期欠席など、争いは年を重ねて繰り返されました。
そのため、工事に着手することもできず、児童の数は増える一方なのに、校舎はますます手狭になっていきました。私が当時の学校を訪れたとき、机と机がぎゅうぎゅうに並び、先生が自由に動けないほどでした。事務室も教室として使われ、廊下で事務作業をしている状態でした。
この現状を目の当たりにして、私は村の子どもたちのことを思い、涙がこぼれました。この環境は、子どもたちの健康にも悪影響を与えているでしょうし、先生方がどれだけ努力しても、十分な教育は望めません。結果として、子どもたちの学力にも影響が出てしまいます。これは本当に不幸なことです。
十年以上にわたって、多くの児童が教育の機会を損なわれてきたという事実は、村にとって大きな損失です。そしてその原因は、たった440〜550メートルほどの敷地の距離にすぎません。感情や過去の経緯にとらわれて、冷静な判断ができなかったことは、村民として賢明とは言えないでしょう。
そこで私は、この問題の本質を丁寧に説明し、村の有志たちの理解を得るよう努めました。幸いにも賛同を得ることができ、議論はまとまり、学校を村の中央に移して新しく建てることが決まりました。
◆第三章 我が村の地理◆
区域の変遷
私が生まれたのは、現在の余土村の一部である「西余戸」という地域です。明治7年に、東余戸と西余戸が合併して「余土村」となり、当時は伊予郡に属していました。
伊予郡の中でも、重信川の北側にある市坪、保免、余戸、東垣生、西垣生の5つの村は、町村制が始まるまでは一つの行政区としてまとめられていて、戸籍や役場の管理は余土村に置かれていました。
そして明治23年に町村制が導入される際、この5つの村は伊予郡から分かれて、現在の温泉郡に編入されることになりました。これは地理的にも非常に理にかなった変更でした。
その際、村の再編も行われ、市坪・保免・余戸の3つの村が合併して「余土村」となり、東垣生と西垣生も合併して「垣生村」と改められました。
町村制の導入にあたって、県の役所は「川の北側にある5つの村をひとつの自治体にまとめよう」と考えていました。しかし、村側の意見とは食い違いがあり、話し合いは難航しました。
特に東垣生と西垣生の両村は、5つの村をひとつにまとめることに賛成していて、県の考えと一致していました。そのため、意見の調整が難しく、問題の解決には時間がかかりました。
一方、市坪・保免・余戸の3つの村は、地理的にも、仕事の内容や人々の暮らしぶり、風習などがよく似ていたため、ひとつの自治体になることに何の問題もありませんでした。
しかし、垣生の両村は仕事の内容などが他の村と違っていたため、5つの村をひとつにまとめると、将来的にうまくやっていくのが難しくなるだろうというのが、我が村の考えでした。最終的にはこの意見が採用され、現在のような自治体の形が決まったのです。
また、我が村が「余土村」と呼ばれるようになったのは、歴史的な背景によるものです。昔、この地域は「余戸(あまりべ)の郷」と呼ばれていて、「余戸村」という名前も存在していました。その名残を残すために、村の名前を「余戸村」とする予定でした。
ところが、合併の際に県の役所が誤って「余土村」と書いてしまったのです。「戸」と「土」は音が似ているため、書き間違えが起きたのですが、特に問題もなかったので、そのまま「余土村」という名前が使われることになりました。
都市の影響と高等科の新設
松山市は、金亀城山の美しい景色を誇る町で、市になる前は温泉郡に属していました。そのため、周辺の町や村が合同でつくった高等小学校は松山市に設けられていました。新しい制度が始まってその合同はなくなりましたが、松山市に隣接する6〜7の町村は、これまでの関係から松山市の高等小学校に教育を委託し続けていました。私たちの村も同じように、子どもたちを毎日松山市へ通わせていたのです。
しかし私は、小学校を新しく建てるのに合わせて、高等科も村に設けて、松山市への委託をやめるべきだと考えました。有志や村会にもこの案を相談しましたが、趣旨には賛成しつつも「まだ早すぎる」という意見が多くありました。というのも、十年も続いた小学校新築の争いがようやく終わり、村に平和が戻ったばかりだったので、すぐにまたお金のかかる話をすると、せっかくの平和が崩れてしまうのではないかと心配されたのです。また、他の町村がまだ委託を続けている中で、私たちのような小さな村が先に独立するのは時期尚早だという声もありました。
私はその心配ももっともだと思いましたが、それ以上に大きな問題があることに気づきました。
当時、村の若者たちは都市の悪い影響を受けて、農業を嫌がり、素朴で美しい心を失いつつありました。その原因はいろいろあるでしょうが、一つには、村の子どもたちが毎日松山市へ通っていることが関係していると思ったのです。
都市と農村では、生活の仕方も価値観も違います。だから教育も、それぞれの地域に合った形で行うべきです。事情の違う松山市へ通わせることは、教育の面でも不自然であり、農村の子どもたちが都市の子どもたちと一緒に学ぶことで、知らず知らずのうちに農村らしさを失ってしまいます。通学の途中で見聞きすることも、都会的な考え方に染まり、働くことを嫌がり、贅沢に憧れるようになり、ついには農業を嫌うような風潮が生まれてしまうのです。
私は、農村としての我が村を大切に思う気持ちから、この問題は目先の損得や感情で決めるべきではないと考えました。多少の犠牲があっても、長い目で見たときの利益と幸福のために行動すべきだと思ったのです。
また、費用の面でも、松山市に支払っている委託料と、高等科を新しく設ける費用を比べると、それほど大きな差はありません。さらに、保護者が負担している通学の交通費やその他の雑費を考えれば、むしろ村に高等科を設けた方が経済的にも有利です。
私はこれらの理由を丁寧に説明し、ついに村に高等科を併設することを決断しました。
民衆の心の変化と、尊い犠牲によって架けられた橋
長年、村の大きな問題となっていた学校の新築問題がようやく解決し、新しい校舎が完成したことで、村にはようやく平和な空気が広がりました。開校式の日、校舎の屋根には校旗が高く掲げられ、春風にたなびいていました。校庭の周りには菜の花が黄金色に咲き、紫色のレンゲの花がまるで毛氈のように広がり、人々を迎えるようでした。これまで対立していた村人たちの心も、まるで春の陽気のように和らぎ、喜びに満ちていました。
子どもたちは新しい木の香りと、明るい窓から差し込む光の中で、嬉しそうに学びに励んでいました。その姿は、保護者たちにとっても大きな喜びでした。これまで放っておかれていた通学路もすぐに整備され、朝露で濡れないように草を刈ったり、稲の間に橋をかけて通いやすくしたりと、誰に言われるでもなく、村人たちは進んで公共のために奉仕するようになりました。まさに、新しい学校の完成とともに、人々の心も新たになり、春の陽ざしのような明るさが村に満ちていたのです。
しかし、そんな中で、ひとつの悲しい出来事が村の一角に起こり、再び悲しみの影を落としました。
市坪地区の子どもたちは、毎日石手川を渡って通学していましたが、そこには橋をかけるのが難しく、幅わずか30センチほどの非常に危険な橋しかありませんでした。ある日、その橋を渡ろうとした子どもが川に落ちて溺れて亡くなるという悲しい事故が起きました。
この事故の後、学校では市坪の子どもたちに特に注意を払い、雨の日には先生が見送りをするなど、再発防止に努めていました。にもかかわらず、ある日またもや姉妹の児童がその橋を渡ろうとして、妹が先に落ち、助けようとした姉も一緒に流されてしまい、二人とも命を落とすという、あまりにも痛ましい事故が起きてしまったのです。
このような悲劇が二度も続いたことで、市坪地区の人々は深い不安と悲しみに包まれ、村の中でも再び対立が起こり、分村の話や子どもたちの長期欠席といった問題が再燃し、せっかくの平和が再び揺らぎ始めました。
私はこの事態を非常に残念に思い、昔から難しいとされていた橋の建設を決意し、村会に提案しました。しかし、一部の地区のために多額の費用をかけることに対して、他の地区の住民たちの理解を得るのは簡単ではありませんでした。
それでも、亡くなった子どもたちへの深い同情の気持ちが村全体に広がり、最終的には意見がまとまり、川の上下2か所に橋をかけることが決まりました。
この橋は、まさに不幸な運命に見舞われた子どもたちへの哀悼と同情から生まれたものです。そしてそれは、彼らの尊い犠牲が、未来の子どもたちの安全を守るという形で報われた、忘れてはならない記念碑でもあるのです。
井堰の悩み ― 水害と責任のはざまで
石手川と重信川という二つの川に挟まれた我が村は、昔から洪水に悩まされてきました。そのため、治水は村にとって非常に重要な課題でした。ただし、両川の堤防は県が管理しているため、村が直接手を加えることはできません。そこで、村では三つの地区それぞれに洪水監視員を置き、常に役場に報告をさせるとともに、土嚢や道具を備えて、いつ水害が起きても対応できるよう準備していました。
水は災害の原因である一方で、村の広大な田んぼを潤す大切な資源でもあります。そのため、川に設けられた「井堰(いせき)」は、農業に欠かせない施設でした。石手川には、新井出、木屋の下、自玄坊、蔵の町の四か所に井堰があり、蔵の町の井堰は隣の石井村に位置していました。これらの井堰は、藩政時代に郡奉行が造ったもので、藩の管理下にありました。
しかし、廃藩後は県が最低限の治水費だけを負担するようになり、井堰の工事費は関係者の負担となってしまいました。そのため、井堰は三十年以上も本格的な改修がされず、木材は腐り、あちこちが壊れてしまっていました。改築が必要な状況でしたが、井堰の多くは川底を通る地下水路で、長さは180〜360メートルにも及ぶ大工事です。しかも、藩政時代の特殊な構造は記録が残っておらず、詳しいことは解体してみないと分からないという難しさがありました。
井堰は水を引くだけでなく、治水の役割も果たしているため、壊れたままでは水害の原因にもなります。そのうえ、財政的な負担も大きく、村にとっては非常に難しい問題でした。
私は新しい法律に基づいて水利組合をつくり、井堰の改築に取りかかりました。特に苦労したのは、村外にある蔵の町の井堰の改築です。この井堰は、雄郡、生石、余土の三つの村の田んぼを潤すためのもので、水利組合もその地域で構成されました。私はその管理者として、工事を始めました。
地下水路を造るには、川や堤防を掘り抜く必要があり、簡単な作業ではありません。工事は水のいらない時期を選んで3月に始めましたが、他の村の土地で行う工事だったため、思わぬ障害がありました。井堰の一部が民間の土地になっていたため、その所有者の許可がなければ工事を進められなかったのです。すでに北岸の堤防は掘り始めていたのに、工事は一時中断せざるを得ませんでした。
その間に雨が降り続き、水かさが増して仮の止水工事も危険になり、濁流が激しくなってきました。私はかがり火を焚いて夜通し水害対策にあたり、報奨金を出して危険な中で防御工事を進めるなど、できる限りの努力をしました。責任者である私は、13日間一睡もせずに現場に立ち続けました。
雨による増水は自然災害ですが、今は人の手で堤防を掘っている最中です。もしそれが原因で災害が起きてしまえば、責任は私一人にある――そう思うと、食事も眠りも忘れてしまうほどでした。
ようやく工事が進んだ頃には、すでに田植えの時期になっていて、農家の人々から「早く水を流してほしい」と強く求められました。田植えができない、植えた稲が枯れてしまうといった苦情もありました。どれももっともな訴えでした。
しかし、目の前には川いっぱいの水があり、それを流せば激流となって危険を招く恐れがあります。水を流すべきか、止めるべきか――まさに「水攻め火攻め」のような苦しい状況でした。
それでも、天の助けと多くの人々の協力によって、無事に工事を終えることができ、関係者を安心させることができたとき、私は心の底から感激しました。
数年にわたる隣村との水争い
我が村が長年抱えていた対外的な難題のひとつに、隣の垣生(はぶ)村との水をめぐる争いがありました。この問題は、明治18年よりも前から続いていたものです。
我が村の「出合(であい)」という地区には「宝井(たからい)」と呼ばれる井堰(いせき)があり、その水はほとんど垣生村が使っていて、我が村ではほんの少しだけ田んぼに引いて使うという慣習がありました。この井堰は藩政時代には郡奉行が管理していましたが、廃藩後の明治18年に、関係する地域の人々の手で初めて改築されました。
ところが、井堰の一部は我が村の土地にあるにもかかわらず、垣生村は何の相談もなく勝手に改築を進め、我が村が立ち会いを求めてもそれを拒否しました。さらに、井堰の高さを約6センチほど低くしたことで、我が村の水の取り分に影響が出てしまったのです。
このことがきっかけで、両村の間に対立が生まれ、争いが何度も繰り返されました。感情的な対立は、他の共同利用の水路である「新井出」にまで広がり、水の配分をめぐって両村が向き合って争うようになりました。時にはけが人が出るほどの騒ぎになり、ついには垣生村が「水利妨害」として告訴を起こし、我が村の有志数名が逮捕されるという事態にまで発展しました。
これまで築かれていた両村の良好な関係も、こうした争いによって完全に断たれ、何かあるたびに紛争が起こるようになってしまいました。すべての原因は、明治18年に改築された宝井の井堰にあり、それが他の水路にも影響を及ぼしていたのです。
郡長や県の関係者も何度も仲裁に入り、争いが続くことは両村にとって不利益だと考えて、和解のために努力してくれました。しかし、両村の対立はあまりにも激しく、なかなか話し合いが進まず、ついに今日まで解決されないままとなっていました。
私はこの状況をとても残念に思い、何とかしてこの問題を解決することが両村のために急務だと考えました。ただ、私は余土村の村長であり、垣生村から見れば、私の提案も疑われてしまうかもしれないという不安がありました。それでも、私には私心はなく、できる限り公平な立場で向き合えば、きっと理解してもらえるはずだと信じました。
そこで私は、余土村の代表という立場を離れ、第三者としての立場で交渉に臨むことにしました。話すことは「天の声」であり、行動は「誠意のあらわれ」であるべきだという思いで、両村の委員に向かって交渉を始めました。
三日三晩にわたる話し合いの末、ようやく合意に至ることができました。宝井堰の表川の掘削には一定の制限を設け、改築や川の掃除には必ず立ち会いを求めること、そして我が村に引かれている二段歩(約20アール)ほどの土地は垣生村が買い取ることなどの条件を定め、覚書を交わしました。
こうして、十数年にわたる争いの原因が解決され、両村はようやく和解の喜びを迎えることができたのです。
第9章 村是調査と将来への備え
我が村を深く知るために
村を治めるには、まずその村についてしっかりと調べることが必要です。これは当然のことだと思います。そこで私は、自分の村を対象にした調査を始めようと考えました。
「先祖代々この村に住んでいるのだから、今さら調べる必要はない」「小さな村なのだから、直感で十分に分かる」と言う人もいました。しかし、たとえ小さな村であっても、また長く住んでいる場所であっても、村はさまざまな要素が絡み合ってできている複雑な社会です。簡単にすべてを理解することはできません。
私は目が不自由ですが、それが理由で調査の必要性を語っているのではありません。目が見える人であっても、きちんと調べなければ村の本当の姿は見えてこないのです。たとえば、村の人口が年々どう変化しているかも、調査しなければ分かりません。人口の動きや人数は、村の暮らしの様子を多くの面から語ってくれる大切な資料です。
人口だけでなく、さまざまな項目を調べることが、村の自治を進めるための基礎資料になります。だからこそ、私は村の将来を見据えた自治を行うために、まずこの調査から始めるべきだと考え、準備を進めていました。
ちょうどその頃、明治32年に大日本農会の決議で、全国を八つの農業地域に分け、それぞれに模範的な村の方針(村是)を実行させようという計画が立てられました。前田正名さんが高知県に来られ、その調査への参加を呼びかけられました。私はすでに調査を始めようとしていたところだったので、喜んでこの模範調査を引き受けました。
こうして、明治32年10月に調査を開始し、翌年の明治33年4月に調査を完了しました。助役の池内さんが責任者となり、鶴本多次郎さん、粟田卯太郎さん、竹田新六さん、本田居治さん、今井藤蔵さんなど、多くの方々がこの事業に力を尽くしてくれました。
まず資料を集め、それを編集し、村是調査の資料として「第二編 第二十二章 第六十九節」、統計としては99の表をまとめました。これらの資料をもとに、我が村の姿を深く理解し、将来にどう対応すべきかを考えるための方針を定めたのです。
村の方針(村是)の設定と調査資料の活用
村の調査資料をもとに研究を進めた結果、いくつかの結論が見えてきました。ただし、調査の内容は行政のあらゆる分野に広がっているため、結論も多岐にわたります。これらをすべて実行するには、村の運営全体にわたる継続的な努力が必要です。
そこで私は、特に急ぎ対応すべき重要な項目を選び、「村是(そんぜ)」として方針を定めました。具体的には、小学校教育の改善、青年教育の実施、耕地の改良、勤勉と倹約による貯蓄、共同購入、小作人の保護、副業の奨励などです。これらは村の施政にとって重要な課題ですが、すべてではなく、特に優先すべきものを選んで対策を立てたのです。
また、これらの項目は一度決めたら永久に変わらないものではありません。時代が変われば、方針もそれに合わせて変えていくのが当然です。村是の調査というと、「百年先を見据えた大計画」と考える人もいるようですが、私たちは最初からそうした期待を持っていたわけではありません。
調査から導き出された結論は、実行することが目的です。ですから、具体的な計画がなければ意味がなく、実行すれば完了する性質のものも少なくありません。
特に、社会は文化の進展とともに変化します。今日正しいとされることが、明日には誤りになることもあります。経済の変化が激しい時代には、状況に応じて方針を柔軟に変えることが賢明です。だからこそ、村是は「永遠の方針」ではなく、百年の計として将来を縛るような考え方は、かえって村是の価値を損なうものだと思います。
私は、重要項目を定めて実行する一方で、時代に応じてその内容を見直しながら進めてきました。こう言うと、村是調査の役割が小さく見えてしまうかもしれませんが、決してそうではありません。村是は、村の調査資料をもとにしているため、非常に的確であり、村の実情に合っているからこそ、実行しやすく、効果も大きいのです。
さらに、村是調査は村政のあらゆる分野に関わる資料であり、時代の変化に応じて活用すれば、社会の実情に合った方針を決めるための材料になります。ここに、村是が持つ限りない生命力があるのです。村の広がりと活力が、この調査の中に息づいている――それこそが、村是が「是(正しい)」である理由だと私は思います。
公民教科書
町や村というものは、人間が自然に持っている本能から生まれたもので、似た者同士が集まり、助け合って暮らす中で社会的に進化してきました。隣近所が自然に団結してできたこの形に、自治制度はさらに意味を加え、発展を助け、みんなの利益を増やすことを目的としています。
町村の公共事業は、町村自身の意思で決めて実行されるものですから、その成果は、住民が自治の精神を自覚してこそ得られるのです。けれども、わが国で自治制度が始まってからも、目立った成果が出ていない例が多いのは、封建時代の「お上任せ」の考え方が残っていて、自分たちで自治を大切にしようという気持ちが足りないからだと思います。
私が村の人々の村に対する気持ちを見ていて、残念に思うことがたくさんありました。公共の仕事に対しても、自分たちでやろうという意識が弱いのです。たとえば、村の道路や川の整備に出ても、働くのを嫌がったり、賃金をもらえるとなれば少しでも多く欲しがるのに、働き方は不真面目だったりします。道具も良いものを持ってくると損だと思って、最初から真剣に働く気がないように見えるのです。その結果、費用ばかりかかって、成果はあまり上がりません。
夏に水やりが必要な時には、互いに水を奪い合うのに、その水を使いやすくするための川底の掃除などは、いい加減にやってしまいます。川を掃除しても、ゴミや泥を道路に積み上げて通行の邪魔になったり、道路の修理では草や瓦を川に投げ込んで、かえって川を埋めてしまうようなこともあります。
毎日通る橋や道が壊れていても、自分で直そうとはしません。村の道路は村が管理するものなのに、ちょっとした修理さえも惜しむのです。少し壊れた時に少しの手間で直せば、大きな損害にならず、自分にもみんなにも役立つのに、そうした考えがありません。道路や川は公共の施設で、これがなければ日々の生活は成り立ちません。だからこそ、公共のありがたさを知って、自分から奉仕しようという気持ちを持つことが、公民としての責任だと思います。
石手川や重信川は、洪水の被害をもたらすことがあり、村にとって大きな脅威です。堤防の工事は県の費用で行われますが、その影響は村に直接関わるものです。だからこそ、工事を請け負うなら、自分のこととして真剣に取り組むべきなのに、表面だけ整えて手を抜き、後の災害を考えないような危険な行動が見られることもあります。公共の利益を無視していては、自治の成果は得られません。
村で大切な話し合いがあっても、自分に関係ないと思って出席しない人が多いのです。でも、村から弁当や缶詰が出ると聞けば、全員が集まってきます。そして「食べなきゃ損」「飲まなきゃ損」とばかりに、村の費用で出されたものを貪るのです。村の費用は村民自身が負担しているのに、それに気づかず、自分で自分を食いつぶしているようなものです。これは本当に愚かで、哀れなことです。そして、公共の利益を失う大きな不幸でもあります。
結局、人間が共同で生きていくという本質が理解されていないから、こうした矛盾が生まれるのだと思います。だからこそ私は、この矛盾した考え方を打ち破り、自治の意識を育て、人間が共に生きる意味を理解してもらうには、村そのものを「学校」とし、村是調査を「教科書」とするのが最もふさわしいと考えました。
すでに述べたように、住んでいる村であっても、何となく知っているつもりでは、本当の姿は見えてきません。対象をきちんと調べてこそ、全体の仕組みが分かるのです。誰もが自分の顔を鏡に映して初めて見るように、町村是調査は、村という自分自身を映す鏡なのです。
これまで、村の人々が村の本当の姿を知らなかったから、公共の空気の中で生きていることに気づかなかったのだと思います。だからこそ、村是調査は行政の方針を決めるための資料であるだけでなく、公民としての考え方を育てる「教科書」として、教育の場でも活用すべきだと私は考えました。
栄光に輝いた村是調査
大阪で第五回内国勧業博覧会が開かれることになったとき、県の農会から「我が村の村是調査書を出品してはどうか」と勧められました。正直なところ、博覧会に調査書を出すことが本当にふさわしいのか、私は少し疑問に思っていました。でも、参考資料として出すだけでも意味があるかもしれないと思い、村是の実行概要を添えて出品することにしました。
博覧会が始まると、私は日清戦争後の日本の進歩した姿を見られる良い機会だと思い、鶴本房五郎さんと一緒に大阪へ向かいました。会場は何千、何万という出品物で埋め尽くされ、見物人でごった返していました。私は目が不自由なので、展示物を見ることはできませんでしたが、鶴本さんの説明を通して一つひとつを見聞しました。
我が村の村是調査書は、小さな冊子だったため、私たち自身でも展示場所を見つけるのに苦労するほどでした。一般の来場者がそれに気づくことはまずないだろうと思いました。多くの人の目は、華やかな工芸品や大きな生産品に向けられていて、誰もこの小さな冊子に注意を払うとは思えませんでした。
ところが、博覧会の審査が終わり、結果が発表されたとき、我が村の村是調査書が「一等賞」を受賞したという電報が届いたのです。その知らせを受けたとき、私は信じられず、むしろ疑いました。何万もの出品の中には、精巧な工芸品や何千万円もの価値を持つ生産品もあるのに、どうして我が村の一冊の調査書が選ばれるのか――そう思ったのです。
しかし、それは事実でした。我が村の調査書が一等賞を受けたことは、村にとってこの上ない喜びでした。審査結果が発表されると、村是調査書は人々の注目を集めたようです。博覧会が終わって、出品した冊子が村に戻ってきたとき、その紙面は破れ、手垢で汚れ、ボロボロになっていました。それを見て、何万人もの人が手に取って読んでくれたのだと感じ、胸が熱くなりました。
さらに後日、明治36年、今の天皇陛下がまだ皇太子でいらした頃、高知県を訪問された際に、この村是調査書を夜にご覧になったということを聞きました。その知らせを受けたとき、私はただただ恐れ多く、感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、何も言葉が出ませんでした。
◆第10章 我が村の教育と公民意識の育成◆
村を教材にする公民教育の試み
今日の子どもたちは、将来の公民です。だから、公民教育は今の大人だけを対象にするのではなく、これから社会を担う子どもたちにも、その資質を育てることがとても大切だと思います。特に教育は、幼い時期にこそ深い影響を与えるものです。もし本当に公民としての意識を育てたいなら、小学校の段階からその土台を築く必要があります。
すでにアメリカやドイツなどでは、小学生を対象とした公民教育が盛んに行われています。我が村の人々に公民意識が乏しいのは、幼い頃にそうした教育を受けてこなかったからではないかと思われます。だからこそ、我が村の教育を改善する第一の目的として、公民教育の重要性を強く訴えたいのです。
もちろん、これまでまったく何もしてこなかったわけではありません。教科書の中にも、自治や公民についての記述はあります。しかし、抽象的な授業だけでは、子どもたちの心に深く届かないのではないかと思います。
公民教育といっても、特別に「公民科」を設ける必要はないでしょう。先生が普段の授業の中で、場面に応じて、時に応じて、公民としての考え方を育てるようにすれば、それで十分です。そしてさらに、「町村は自治の学校である」という考え方に立って、我が村の実際の様子を教材にすれば、子どもたちにも分かりやすく、興味を持って学ぶことができると思いました。
そこで、学校の先生方と一緒に研究会を立ち上げました。教育の専門家ではない私たちも、村を題材にした研究には参加する必要があると感じたからです。この研究会では、公民教育に使える教材を探したり、自治の意味そのものについても考えたりしました。村是調査の資料は、こうした教育にとても役立つ教材をたくさん提供してくれました。村の実際の姿を教材にすることは、公民教育を実践的に行ううえで、非常に価値のあることだと思います。
たとえば、我が村の人口についても、ただ「男性が何人、女性が何人、合計で何人」と教えるだけでは、子どもたちの興味を引きません。そこで算数の問題として、「男性が何人、女性が何人、では合計は何人でしょう」「戸数が何戸、人口が何人、では一戸あたりの平均人口は何人でしょう」といった形で教えることで、数字に自然と興味を持ち、印象も深まるのです。
そのほかにも、耕地の面積や村の財政などを教材として、算数や地理、理科(博物)に応用することで、実際の村の姿を通して公民教育を行うことができると考えました。こうして、我が村の教育は、村そのものを教材とすることで、より深く、より実践的な公民意識を育てる道を歩み始めたのです。
児童役場の開始
公民教育の一つの方法として、私は学校の一教室に「余土村児童役場」という看板を掲げ、そこに小さなテーブルや椅子、書類箱などを設置して、毎月第2・第4土曜日の午後に「児童役場」を開くことにしました。
この児童役場では、13〜14歳の子どもたちが村長、助役、収入役、書記などの役割を担い、実際に事務を行います。学校を「村」と見立て、全校生徒をその「住民」とし、尋常科3年生以上の男子生徒を「公民」として位置づけました。
この公民たちによる正式な投票で、12名の児童村会議員が選ばれ、その議会で村長が選出されます。助役と収入役は村長の推薦により議会が選び、書記は村長が任命します。児童役場は教師の監督のもとで運営され、出生届や死亡届、営業届など、仮想の事実に基づいた書類を児童が作成して提出し、役場職員がそれを処理します。
現実の村では、住民が自分で書類を作成せず、すべて役場に任せてしまうために事務が滞ることが多く、これは我が村だけの問題ではないでしょう。私は、村民の自立心や公民意識が不足していることを常に残念に思っていたので、児童役場を通じてその訓練を試みたのです。
児童役場に提出された書類は、少年職員が形式を確認し、台帳に記入すべきものは記入して処理します。高等科の授業料についても、台帳を作成し、徴収令書を配布し、納期である第4土曜日に家庭から集めたお金を収入役に納める仕組みです。
納税の義務を果たすことは、自治意識の表れとして非常に重要です。だからこそ、小学生にもこの意識を育てるために、こうした取り組みを行いました。
また、運動会や修学旅行を計画する際も、まず児童村会を開いて、日時や場所、方法を決め、費用の収支予算も児童自身に決定させます。
さらに、公民活動として特に教育的だと感じたのは、村会で選ばれた常設委員――学務委員、衛生委員、方面委員――の活動です。学務委員は児童役場の一部として事務を担当し、衛生委員は校内の掃除やトイレの消毒など、衛生管理に取り組みます。方面委員は担当区域を持ち、下校後の児童の行動を見守り、病気や遅刻があれば家庭訪問を行います。
こうした公民活動が継続されることで、子どもたちは楽しみながら自然と公民生活に親しみ、自治の精神を身につけていくのです。私はこの実践を通じて、児童に公民としての資質を育てることができると信じて、取り組みを進めました。
土に親しむ心を育てるために
今の教育制度は、都会でも農村でも同じ形式・内容で行われていて、これはとても残念なことだと思います。地域ごとの産業や暮らしの違いを考えれば、教育もその土地に合わせて行うべきです。私が松山市に委託していた高等科の教育を村で行うようにしたのも、まさにこの理由からでした。
農村である我が村にとって、農業の発展こそが将来の幸福につながるのは当然のことです。だからこそ、高等科の子どもたちに農業の知識を身につけさせることは、とても大切だと考えました。
ただし、公民教育と同じように、農業を教えるために特別な科目を設けることはしませんでした。たとえば、博物(理科)の授業では、害虫や益虫、植物のしくみなどを教えることができますし、理科の授業では肥料について学ぶこともできます。
さらに、学校の隣に約7〜8アール(700〜800平方メートル)の農業実習地を設けて、実際に農作業を体験する授業を行いました。先生も子どもたちも経験が少ないので、最初から立派な作物が育つとは思っていませんでした。けれども、予想に反して成果は見事なものでした。それは先生の指導というより、子どもたち自身が農作業に慣れていたからです。
農家の家庭で、日々の作業を見聞きして育った子どもたちは、自然と知識を身につけていて、それがこの小さな農園で表れたのです。村全体に農業の常識が根づいていて、子どもたちもその中で育っていることを思うと、ますますこのような農業教育が必要だと感じました。
科学的な農業の知識は、動植物や理科の授業の中で啓発され、将来、農業を担う立場になったときに自然と身についた常識として活かされ、村全体の農業にも良い影響を与えると信じています。
ただし、知識を教えるだけでは不十分です。子どもたちには、職業そのものに対する「心のあり方」を育てることが何よりも大切だと考えました。
同じ働くことでも、商業と農業では、働くときの気持ちが違います。だからこそ、「職業心理」というものを理解し、子どもたちの心の意識を育てていく必要があります。これを誤ると、自分の仕事に不満を感じて、軽はずみに他の職業に変えようとするような考えが生まれてしまいます。
自分の仕事に満足し、こつこつと真面目に働くためには、その職業にふさわしい心の意識を持つことが大切です。そうして初めて、自分の仕事の中に「自分の居場所」を見つけることができるのです。
学校園が育てる心の美しさ
私が幼い頃、家の庭の片隅に、一坪にも満たない小さな区画がありました。石で囲いを作り、土を盛って小さな山をつくり、水のない川を掘り、木や花を植え、陶器の家や人形を並べて、まるで一枚の山水画のような小さな庭園がつくられていました。私は毎朝晩、水をやり、雑草を抜き、ときには珍しい草花の種をまいて育てていました。
これは私の家だけでなく、当時はどの家庭にも似たような庭がありました。松山市の武士の屋敷にさえ、こうした小庭園が設けられていたことを知っています。ところが今では、こうした庭は「子どもの遊び」として取り除かれてしまい、ほとんど見かけなくなりました。
確かに遊びの一種ではありますが、私はこの小庭園がなくなってしまったことをとても残念に思っています。昔の人がこうした庭をつくっていたのは、子どもたちへの家庭教育の一環だったのではないでしょうか。自分の手で花を育てることで、朝晩その花に愛情を注ぐ心が育ち、自然の美しさにふれることで、子どもたちの心に高潔な人格の美しさが育まれていくのです。
武士の家庭にさえこの庭があったということは、子どもの教育を大切にしていた先人の深い配慮が感じられます。まして、植物を育てることを仕事とする農家においては、こうした庭の教育的価値はなおさら認められるべきでしょう。
そこで私は、我が村の小学校にこのような小庭園を設けることにしました。運動場の片隅や畑の一角を区切って、除虫菊、キンレンカ、サクラソウ、スミレ、ショウブ、菊、朝顔、ダリア、コスモス、ケイトウ、ボタン、シャクヤクなど、さまざまな花の種を購入し、子どもたちに栽培させました。全校生徒にそれぞれ担当を決めて、自分の区画を自分で育てるようにしたのです。
もみじのような小さな手でまいた種が芽を出すと、子どもたちは微笑み、芽が一寸、二寸と伸びるたびに喜びが大きくなります。友達よりも大きく育ったと喜ぶ子もいれば、自分の花が枯れてしまって泣く子もいます。花が咲き、実がなるたびに、子どもたちの歓びは増していき、その中で植物を大切にする心が育ちます。自然の美しさにふれることで、心が豊かになっていくのです。
やがて、珍しい花を家庭に移して家族と楽しもうとする気持ちが芽生え、自分で育てた鶏頭や菊の花を切って、亡くなった母や友達のお墓に供える子もいました。私はこうした姿を見て、この小庭園が先人から受け継がれた尊い教育の遺産であることを強く感じました。
この取り組みは、兵庫県の師範学校の関係者が我が村を視察した際に注目され、同校の遊戯庭園で試されました。また、滋賀県農会の働きかけによって県内の小学校にも広がり、今では全国の小学校に「学校園」が設けられるようになりました。
我が村のこの試みが、学校園の先駆けとして称賛されたことは、すべて先人の知恵と恵みのおかげであり、私はそのことに心から感謝しています。
害虫駆除と生き物を大切にする心
先生は子どもたちを連れて、苗代(稲の苗を育てる田んぼ)へ出かけます。そこで、実際の植物や虫を使った授業が始まります。子どもたちは苗代で、稲の害虫である螟虫(ズイムシ)の卵を探して採取します。
「先生、これ見つけました」と差し出された虫が、実は毛長虻(ケナガアブ)という益虫だったり、「飛んでいる小さなハチは寄生蜂で、これも益虫だよ」と先生が教えたり、初夏のやわらかな陽ざしの中で、自然とふれあう授業が行われます。麦畑では黒穂病菌の採取も行われ、村全体がまるで学校のように、あちこちで学びの場が広がっていきます。
学校では、運動場の日当たりの良い場所に大きなタライを置きます。その中には、石油缶の蓋を外した空き缶が沈められ、缶の中には石が一つ入っています。子どもたちが苗代から持ち帰った稲の葉は、すべてこのタライの中に入れられます。
子どもたちは、それらの卵がすべて螟虫だと思っていますが、実際には多くの卵に寄生蜂がすでに寄生していて、益虫になっているものも少なくありません。寄生蜂は、螟虫の卵を見つけてその上に卵を産みつけ、やがてその卵の中で育ち、螟虫の代わりに蜂として生まれてくるのです。
しかし、見た目では益虫か害虫かの区別は難しく、採取された卵の半分以上がすでに益虫になっていることもあります。そこで、子どもたちの目の前で、害虫と益虫の違いを実験で確かめる授業が行われます。
太陽の熱で温められた缶の中では、卵がすぐに孵化します。子どもたちが見守る中、幼虫が殻を破って生まれてきます。寄生蜂が育っていた卵からは蜂が、そうでない卵からは螟虫が生まれます。この違いは、子どもたちにとってとても興味深く、驚きと歓声があがります。
寄生蜂は螟虫の卵を食べて成長し、やがて成虫となって近くの田んぼへ飛び立ち、そこで益虫として保護されます。一方、螟虫の幼虫は缶の外へ出ようとしますが、タライの水に阻まれて動けなくなります。子どもたちはその害虫を捕まえて駆除し、同時に、危うく一緒に駆除されそうだった益虫を助けて喜びます。
こうして、農家が最も苦労する害虫駆除の考え方を学びながら、益虫を守り、生き物を大切にする心が育まれていきます。その結果、子どもたちの手によって、害虫の系統的な博物標本が立派に作られるようになりました。
小学生による公民活動
明治34年から、我が村では毎週日曜日に小学生を通じて貯金を集める活動を始めました。人々に貯金の大切さを伝えても、少額のお金をわざわざ郵便局や銀行に預けに行くのは面倒で、つい機会を逃してしまうことが多かったのです。
そこで、尋常科5年生以上と高等科の全生徒に、日曜日の集金をお願いすることにしました。学校ではこの案について職員会議が開かれ、さまざまな意見が出ましたが、どれも不安そうで、なかなか決まりませんでした。
私は職員会議に出向いて、直接説明を試みました。先生方の不安は、子どもにお金を扱わせることに間違いが起きないかというものでした。その心配はもっともですが、だからといってお金を扱わせることを避けるのは、あまりに消極的です。子どもたちは学校を出れば、必ずお金を扱うようになります。だからこそ、今のうちに責任を持って扱う経験をさせることが、むしろ教育として望ましいのです。
まして、地域のために働く子どもたちの努力は、公民としての意識を育てる貴重な機会です。こうした説明に理解が得られ、先生方の勇気と努力によって、この活動は実行されることになりました。
学校では児童の担当を決めて手帳を渡し、最初のページには担当する貯金者の名前を書きます。貯金を入れるための小さな巾着袋も渡されました。この袋は銀行から材料をもらい、高等科の女子生徒が手作りしたものです。
毎週日曜日、児童は貯金者の家を訪ねてお金を受け取り、手帳に金額と名前を記入します。そして通帳とお金を袋に入れて、月曜日の朝に担任の先生に渡します。先生は一つひとつ確認して受け取り、収入役が役場に持ち帰って台帳に記録し、通帳にも記入します。火曜日か水曜日には通帳入りの袋が学校に戻り、児童は放課後に貯金者へ返却します。
当初は銀行に預けていましたが、明治42年からは村の信用組合が預かるようになり、役場の取扱いもそちらに移りました。このようにして、小学生の活動によって、村の600〜700人の貯金者が途切れることなく貯金を続けられるようになったのです。
この活動は30年以上続き、村に大きな利益をもたらしました。先生方の努力も並々ならぬものでした。そして何より、この活動が子どもたちの公民意識をどれほど育てたことでしょうか。
私は時々学校に行って、子どもたちに感謝の言葉を伝えます。「皆さんの活動のおかげで、毎週少しずつ貯金が集まっています。十銭、二十銭といった小さなお金が、すでに何千円、あるいは何万円にもなりました」と報告すると、子どもたちは足を踏み鳴らし、手を叩いて喜びます。
その姿を見るたびに、私は言葉にできないほどの感動を覚えます。在学中に経験したこの公的な活動は、きっと子どもたちの心に残り、将来公民となったときには、必ず公共のために奉仕する人になるだろう――そう信じて、胸が熱くなるのです。
勤労によって育てる児童貯金
我が村の子どもたちは、村民のために貯金の集金をするだけでなく、自分自身の貯金も以前から行ってきました。しかし、その資金はほとんどが親からもらった「働かずに得たお金」でした。
児童貯金の本当の意義は、ただお金を貯めることではありません。貯金を通じて、勤勉さや倹約の美徳を身につけ、お金を有効に使って生活を豊かにする考え方を育てることが大切です。親から強制的にもらったお金をただ貯めるだけでは、教育的な意味は薄く、空虚なものになってしまいます。
他の町村の学校でも、児童貯金は多く行われていますが、その多くが親からもらったお金であり、子ども同士が金額の多さを競い合うような状況は、教育の価値を疑わざるを得ません。働かずに得たお金は使いやすく、実際に遺産を受け継いだ人が贅沢に走って破産する例も少なくありません。
だからこそ、我が村では、たとえ金額が少なくても、子どもたち自身の労働によって得たお金を貯金させることを目指しました。毎週日曜日に村の貯金を集める活動に参加してくれる子どもたちには、報酬を与えることにしました。労働に対する報酬は当然のことであり、それを貯金の資金源にするのです。
村の予算から、集金額の1%を報酬として支出し、その報酬は郵便切手で渡しました。受け取った切手はそのまま郵便貯金に使えるようになっています。明治42年までは村の予算で支払っていましたが、信用組合が貯金を扱うようになってからは、組合が同様の報酬を支払っています。
また、子どもたちが害虫駆除や雑草抜きなどの作業に参加した場合も、村の農会から報酬として郵便切手が渡され、それを貯金に回す仕組みになっています。
さらに、労働による貯金の資金源を広げるために、私は養鶏事業を思いつきました。学校で優良な雌鶏を購入し、卵を孵化させて、雄1羽・雌2羽を1組として子どもに貸し出し、朝晩自分で飼育させる。そして産んだ卵を学校に持ってきて、それを売って貯金にするという計画です。
この計画を実現するには多くの準備が必要でしたが、特に難しかったのは養鶏の知識を持つ担当者を見つけることでした。当時の校長・井上吉利さんが自ら進んで担当を引き受けてくださり、書籍で研究を重ね、大阪・名古屋・横浜・東京・鹿児島など各地を視察し、県内でも養鶏の専門家と見なされるほどになりました。
こうして事業に取りかかり、母鶏だけで孵化させたひよこを子どもたちに配ることができるように工夫しました。実際に始めてみると、井上校長一人では手が回らない場面もありましたが、配った鶏が卵を産み始め、これを集めて共同販売する試みも始まりました。
しかし、井上校長が転勤となり、後任に適任者を得ることができず、この事業は途中で中断せざるを得ませんでした。それは本当に残念なことでした。
けれども私は、この失敗を無意味なものだとは思っていません。養鶏の経験を持つ適切な人材が得られれば、今後も必ず成功できると信じています。
補習学校と師範学校代用附属
我が村では、これまで青年会が担ってきた実業補習教育を、大正7年度から小学校に併設する形で実施することになりました。対象は、尋常科や高等科を卒業した若者で、徴兵される年齢に達するまでの期間を教育します。尋常科卒業者は8年間、高等科卒業者は6年間通うことになります。授業は夜間3時間、開校期間は11月から翌年6月までです。男子のみが対象で、補習学校で学んだ者は青年団に送られます(在学中でも青年団員になることができます)。
このように、青年教育と連携した組織的な教育が行われるようになったことは、大きな進歩でした。最初は男子部のみでしたが、大正9年度から女子部も設けられ、昼間に5時間の授業を行うようになりました。
男子部では、中等学校に進学した者を除く尋常科・高等科卒業者のほとんどが入学しており、大正11年11月時点で115人が在籍しています。女子部は教室の都合で希望者全員を受け入れることができず、同時点で58人が在籍していました。
さらに、大正9年度から我が村の小学校は、愛媛県師範学校の「代用附属小学校」に指定されました。師範学校の卒業生の多くは農村で教師になりますが、師範学校の附属小学校は松山市の子どもたちを対象としているため、実習が農村の現実と合わないという問題がありました。
そこで、農村の小学校を代用附属校とすることで、実習生が将来農村で教えるための予備知識を得られるようにしようという意義が認められ、我が村の小学校がその役割を担うことになったのです。村としてもこの指定を歓迎し、これを機に小学校教育を刷新する機会を得ることができました。
初代校長として就任された芥川準一郎先生は、学識と経験に優れ、熱心で見識の高い人格者でした。そのため、我が村の教育は見違えるほど向上したと感じられました。芥川校長の熱意は補習学校にも及び、教育内容の改善が進み、その成果は目覚ましく、県内でも模範とされるほどになりました。
小学校も補習学校も、このような機会を得て、村民は教育に対してますます希望を持つことができるようになったのです。
参考文献
[1] 『体験物語 我が村』天心園発行、昭和二年二月五日発行


