森盲天外著「我が村」を読む③第11~第15章

『我が村』は、盲目の政治家・教育者・俳人として知られる森盲天外が、自らの体験と信念を綴った実体験記録である。伊予・余土村の風土と人々の営みを背景に、幼少期の公民感化、庄屋としての責務、そして村長としての実践を通じて、地方自治の理想と共存共栄の精神が静かに、しかし力強く語られている。

体験物語には、森盲天外自身が身をもって歩んだ道、寒風の中で頭陀袋を携えながら小作人の戸を叩いた日々、盲目の身でありながら村政に尽くした実践の記録が、血肉をもって刻まれているのである。

本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。

※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。

意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
                                             

目次

第11章  青年団体を教育の場に

教育機関としての青年団体

私の村に以前からあった青年団体は、教育の場としての実質を持っていませんでした。私はそれをとても残念に思い、青年団体を本来あるべき「教育機関」として再構築しようと考えました。

まず、村内すべての青年を受け入れる前に、中心となるリーダーを育てる必要があると考え、村の青年の中から42名を選び、「余土村青年実習会」を組織しました。私は、村の改革には小学校教育の改善が土台として必要であると同時に、小学校を卒業してこれから社会に出ていく青年たちへの教育が非常に重要だと考えていたので、村長に就任してすぐにこの取り組みを始めました。

ちょうど学校の新築移転に伴い、旧校舎が村役場として使われていましたが、まだ空きスペースがあったため、そこを青年の訓練の場としました。私自身もその建物に住んでいたので、直接指導にあたるのに都合がよかったのです。

選ばれた青年たちは、常にこの会場に集まり、熱心に学びました。公民科・修身科・経済科は私が担当し、国語と算術は小学校の先生にお願いしました。農業の専門科目については、県農会の千石技師・岡田技師、県農事試験場の直井技師・谷田技師に依頼しました。

農業教育は理論だけでなく、実際の体験が必要だと考えたため、村内で優れた農家であり、県農会に勤めていた鶴本房五郎さんに実習指導をお願いしました。そのため、会場の隣にある約28アールの田んぼを借りて、模範的な作付けと試験的な作付けを分けて実習を行いました。明治38年からは、県議会から委託された農業試験もこの場所で実施されるようになりました。

こうして、まずは中心となる青年たちの徹底した教育に3年間取り組んだ後、次第に対象を広げて、村内のほぼすべての青年を受け入れるようになりました。ただし、青年団は一つに統一しつつも、各地区(大字)ごとに支部を設け、それぞれが自治的に運営されるようにしました。各支部には小学校の先生を指導者として配置しました。

青年団の活動が広がるにつれて、専用の会場が必要になってきました。ちょうどその頃、村役場が駅の近くに移転したため、旧村役場の建物すべてを青年団の会場として使うことにしました。この建物は、明治37〜38年の日露戦争を記念して建てられた学堂で、それを修理して活用したのです。

また、大字市坪にはすでに専用の青年学堂が建てられており、大字保免にも少し遅れて建設されました。これらの学堂には、それぞれ教員の住宅も併設され、現在もなお使われ続けています。

公民教育の要点とその訓練

私は、青年団員の教育において最も大切なのは「公民教育」だと強く感じていました。青年を立派な国民、そして責任ある公民に育てることが、何よりも重要だと考えたのです。

もちろん、団員一人ひとりが自分の個性を磨くことも大切ですが、社会や国、地域が協力し合って発展していく現代においては、青年たちに「集団での訓練」を経験させることが不可欠です。青年団という組織そのものが、すでにこの集団訓練の意味を持っており、公民としての資質は、こうした集団の中での修養によってさらに強く育まれると信じています。

しかし、実際に集団での修養を行うには、大きな困難があります。学科の勉強であれば、比較的組織的に教えることができますが、青年団員はすでに働いている人が多く、職業も年齢も能力もさまざまで、学生のように一律にはいきません。そうした多様な背景を持つ青年たちを一つにまとめて、集団としての修養を行うのは、非常に難しいことなのです。

それでも、青年教育はこの難しさに正面から取り組まなければなりません。私はこの点に十分に配慮し、青年教育の教材として「村そのもの」を使うことにしました。以前から述べているように、「村は自治の学校である」という考え方に基づき、青年団員を指導し、修養させることを基本方針としたのです。

村是調査の資料は、青年の学びにとって格好の教材となりましたが、それだけではありません。村を学校とする修養では、たとえば時間を守ることも重要な訓練の一つです。公会(集会)などでは、主催者の予定を乱さないように、団員自身が時間を守るだけでなく、他の人にも呼びかけて協力を促すことが、修養の一環だと考えました。

また、学堂の門の前には高さ約31メートルの旗竿を立て、その先に気象旗を掲げて、村の人々に天気予報を知らせる仕組みを整えました。毎日、当番の団員が測候所からの電話で天気予報を受け取り、それに応じた旗を掲げるのです。農業と天気は深く関係しており、予報を知ることで翌日の準備ができ、風雨の被害を防ぐことができます。このように、文化的な情報を広く伝えて公共の利益を守る日々の努力こそが、公民としての修養なのです。

さらに、水害への備えや消防活動も青年団で組織し、地域の安全のために力を尽くすことも、青年の修養の一部としました。

要するに、青年教育の基本方針は、「村を学校とし、村是を教科書として、集団での修養を行うこと」でした。次の章では、この方針に基づいて実際に行われた修養の具体例をご紹介します。

教育によって育まれた青年の活動

我が村の人々が日々行っている仕事は、道路の状態によって大きく左右されます。田んぼの間を通る道が傷んでいると、荷物の運搬がとても大変になります。そこで私は、春や秋の農作業が少ない時期に、青年団員に道路の修理をお願いすることにしました。

これまで道路の修繕には報酬を支払うのが当たり前でしたが、私は青年たちにこう語りかけました。

「皆さんは、一日一円や一円五十銭というわずかな報酬にこだわるのではなく、もっと大きな報酬を目指すべきです。自分たちで担当区域を決めて道路を修理すれば、明日から自分の仕事が楽になるだけでなく、村の何百人もの人々の役に立ちます。道路の良し悪しは、仕事の効率に大きな影響を与えます。たとえば、運搬する量が一回に1〜2貫目(約4〜8kg)違うだけで、一日で30〜40貫(約110〜150kg)の差が出ます。運賃で計算すれば、一人あたり12銭の差が生まれ、500人が働けば一日で60円の差になります。年間100日働けば、6,000円もの差になります。これは、皆さんが2〜3日努力するだけで生まれる利益です。報酬を受け取らなくても、皆さんはもっと大きな報酬を得ているのです。公共のために尽くすことの意義を理解し、村を理想的にするという憧れを持って働くなら、その勤労は公民としての修養となり、皆さんの人格を高めるのです。」

この言葉に心を動かされた青年たちは、明治32年から毎年春と秋に4〜5日間、報酬を受け取らずに道路の修理に取り組むようになりました。その努力のおかげで、道路は壊れず、交通や運搬が便利になりました。青年たちが理想に向かって公民意識を育てていることは、村にとって大きな幸せです。

青年の努力は村民にも広がり、多くの人が感動して協力するようになりました。年配の方は道草を取り除き、中年の方は土砂を運ぶなど、みんなが力を合わせることで、青年の活動はさらに価値を増し、熱意も高まりました。

また、収穫物の調査や村全体に関わる調査が必要なときも、青年たちは奉仕の精神で取り組みます。産業組合の購入品の予約を取りまとめる際にも、青年団員が村民の希望や数量を丁寧に聞き取り、漏れのないようにしています。集会への出席を呼びかけたり、徴兵で不在の家庭を手伝ったり、青年の公的な活動はさまざまな場面で行われています。

こうした活動こそが、青年自身の公民としての修養です。つまり、「村を学校とする修養」です。私はこの方法が最も効果的だと信じています。

ただ労働させるだけでは、教育的な意味が失われるかもしれません。けれども、常に指導を加えて教育的な意味を持たせれば、労働の中に理想を見出し、自己実現の境地に至ることができます。長年にわたり、我が村の青年がこの方向に進んでいるのは、何か強い力に支えられているからだと思います。

世代が変わっても、その精神は受け継がれています。かつては村の仕事になると真面目に働かない悪い習慣もありましたが、今では様子が一変しました。用水路の浚渫(川底の土砂をさらう作業)も、春の暖かい時期だけでなく、真冬の寒さの中でも行われるようになりました。これは、冬の方が草木が枯れて作業しやすく、麦畑の乾燥にも役立つことを理解した結果です。寒さを避けずに働く姿は、公民としての修養の表れだと思います。

青年教育と農業の改革

農村である我が村にとって、青年教育を通じて農業の改革を進めることは、言うまでもなく非常に重要な課題でした。そこで、県農会や農業試験場の技師に依頼して、科学的な教育を行ってもらいました。同時に、実習地では鶴本房五郎さんの指導のもと、模範的な作付けや試験的な栽培が行われました。

こうして青年たちは、新しい知識と実践的な技術を身につけ、それをすぐに自分の農園で実行し始めました。村のあちこちにいる青年たちが、それぞれの農園で新しい方法を試すと、苗や稲、麦の出来が良くなり、周囲の農家の注目を集めました。青年たちが田んぼの中で説明する姿は、他の農家にも影響を与え、自然と農業改革の流れが広がっていったのです。

我が村には、鶴本氏父子をはじめ、栗田卯太郎、五十﨑春太郎、今井藤蔵、國西久次郎といった熱心な農業改良者がいましたが、農家の心理には古い習慣が根強く、なかなか改革が進まない状況でした。先進的な農家の努力も、広く普及するには限界があったのです。

しかし、青年教育の成果は非常に速く、改革の普及を促しました。たとえば、鶴本氏が長年取り組んできた「原種の改良」も、青年教育によって機運が高まり、明治33年には広島や岡山など、気候が似た地域に委員を派遣して稲作を視察し、優良な原種を選んで買い取り、村内の農家に分配する取り組みが始まりました。やがて村内に「原種田」が設けられ、成果はさらに高まりました。

また、横井博士が提唱した「塩水選(種もみの選別法)」も、一部の熱心な農家だけが実施していたものの、青年たちが奉仕の精神で選種の日を定め、各地に塩水選場を設けて指導したことで、広く普及するようになりました。

苗代(苗を育てる田んぼ)の良し悪しは、米の収穫量を左右する重要な要素ですが、これも長年改良に取り組んできた農家がいても、なかなか広まらない状況でした。ところが、青年教育の成果によって改良苗代が普及し、我が村は「短冊形苗代」の先進地としてその実績が認められるようになりました。

この成果を受けて、愛媛県令は県内全域に短冊形苗代の実施を指示するまでに至りました。さらに、苗代の改良を重ねた結果、「揚床式苗代」という学理に基づいた新しい苗代が創造され、全国的に歓迎されるようになりました。

また、「正条植(稲をまっすぐに植える方法)」も、青年教育の成果として、明治33年には村内全体で実施されました。これも短冊苗代と並んで、県内で最初に導入された方法であり、日露戦争の記念事業として県令によって県内に広められたのも、我が村の実績が評価されたからです。

これらの改良が県全体に広まる際、県農会や郡農会からの委嘱を受けて、我が村の青年たちが指導の中心を担いました。今では、全国各地から農業改良の教師として、我が村の青年が招かれるようになっています。

このように、我が村の農業改革が広く認められるようになったのは、もちろん篤農家の長年の努力によるものですが、何よりも青年教育の成果が、全体的な効果をもたらしたことは疑いようのない事実だと思います。

競犁会(きょうりかい)

農業において、土地を深く耕すことは、土壌を豊かにし、作物の成長にとって非常に重要です。しかし、これまでの我が村では、技術が未熟であったことや、多くの農家が賃鋤(人に頼んで耕してもらうこと)に任せていたため、十分な深耕が行われていませんでした。

深耕を実現するには、技術の鍛錬が不可欠です。そこで私は、青年団員の技術向上を目的として「余土村競犁会(きょうりかい)」を組織しました。この競犁会は、春と秋の年2回開催されます。

競技に参加するのは、各地区(大字)の青年団員から選ばれた代表者たちです。競技は非常に緊張感があり、まるで相撲や競馬を観るかのように、村内外から多くの見物人が会場に集まります。選手たちは紅白のたすきをかけ、競争心に満ちて競技が始まります。

審査員は時計と採点用紙を手に、競技中に会場を歩き回りながら、耕す時間の早さ・遅さ、耕した土の深さ、牛の働きぶり、畑の仕上がりの美しさなどを基準に採点します。競技が終わると、審査結果が発表され、成績に応じて賞が授与されます。優勝者には「月柱冠(げっちゅうかん)」という名誉の冠が贈られ、応援隊の歓声の中、優勝旗を掲げて退場します。

競技の結果は、標木(立て札)に選手の名前と成績が記され、各自の競犁地に掲示されます。こうした競技が毎年繰り返されることで、青年たちの心に火がつき、まだ技術に慣れていない者も競い合って牛耕の技術を磨くようになりました。

その結果、我が村の耕地は深く耕され、畑の形も整い、他県からの農業視察員たちが口をそろえて称賛するほどになりました。青年たちの技術が著しく向上したことで、各郡の農会が主催する鋤耕(じょこう)講習会に、我が村の青年が実地教師として招かれるようにもなりました。

読書の趣味と文庫

青年教育の一環として、私は明治35年に「文庫」と「新聞閲覧所」を開設しました。年中無休で、毎日朝8時から夜10時まで開放し、青年団員が集まって語らい、読書を楽しめる場としました。

文庫を始めるにあたって、青年団の幹部と一緒に最も考えたのは、どんな種類の本を置くべきかということでした。せっかく文庫を作っても、団員たちに読まれなければ意味がありません。

多くの青年は、読書に対する理解がまだ浅く、難しい本にはなかなか手が伸びません。だからこそ、彼らが自然と興味を持てるような、親しみやすい本を選ぶ必要があると考えました。そこで、歴史や伝記、講談など、通俗教育的で興味を引きやすい読み物を中心に揃えました。科学的な内容の本も一部には置きましたが、それは関心のある青年向けとしました。

こうして文庫が開かれると、青年たちは夜ごと集まり、新聞や雑誌を読み、通俗的な読み物に親しむようになりました。昼間でも、農作業の合間に時間があれば文庫に立ち寄るようになり、読書が自然な習慣となっていきました。

私は、青年が労働以外の時間を有意義に使うことが、教育上とても大切だと考えていました。ほんの少しの時間でも、文庫のような清らかな環境に身を置くことで、心に良い影響を与えると信じていたのです。

もしこの時間を無為に過ごしてしまえば、悪い友人や社会の誘惑に流されてしまうこともあります。実際に、夜間に他人の畑から野菜を盗んだり、果樹園に忍び込んで果物を取ったり、菓子店で無駄遣いをして、盆や正月には借金に追われて堕落してしまう青年も少なくありません。

そうした現実を思うと、私は青年たちを少しでも長く、清らかな空気の中に留めて、外からの誘惑を避けさせたいと強く願いました。しかし、興味がなければ人は集まりません。だからこそ、書籍の選び方には特に注意を払ったのです。

その後、文庫の活動をさらに広げるため、各支部に本を回して読める「巡回文庫」も始めました。この取り組みは、県や郡からも高く評価され、表彰を受けるほどの成果を上げました。

娯楽と旅行

青年教育において、適切な娯楽を与えることは見過ごしてはならない大切な要素です。青年の娯楽とは、郷土の人々の娯楽でもあり、村の人々の心を和らげ、温かい郷土の雰囲気をつくるうえで、とても価値のあるものだと思います。

都会には、商業的な娯楽施設が整っていますが、人口の少ない農村ではそうした設備は成り立ちません。だからこそ、農村には農村にふさわしい娯楽が必要です。これを怠ると、若者が寂しさを感じて落ち着かなくなり、都会へ移ってしまうこともあります。あるいは、都会の娯楽に誘惑されて、怠けや贅沢の風潮が農村に入り込み、村の活力を失わせるような心配もあります。

そこで私は、我が村の青年にもふさわしい娯楽を提供したいと考えました。青年会堂には鉄棒、野球、柔道、剣道などの道具を揃えましたが、それだけでは郷土の穏やかな雰囲気を味わうには不十分でした。そこで蓄音器も導入し、青年たちが楽しむだけでなく、村の人々にも開放して、みんなで楽しめるようにしました。

娯楽は飽きやすいものなので、心理的な面にも配慮して、時々内容を変えるように工夫しました。また、年に一度、春や秋の気候の良い時期に「青年大運動会」を開催しました。場所は白砂青松の出合川原で、学校の運動会と合同で行うこともありました。

この運動会では、相撲、綱引き、川渡り競走など、さまざまな競技が音楽隊の演奏の中で行われます。婦人会の女性たちは松林に模擬店を出して、うどんや団子をふるまい、応援にも力を入れます。村民も春秋の好季に誘われて、相撲の勝敗や川渡りの水しぶきに興味を持ち、この日を楽しみに待つようになりました。まさに、郷土娯楽の真価が発揮された場面です。

また、祭礼の時期も郷土娯楽として大切にすべきだと考えました。私が村長に就任した当時、祭りの神輿は廃止され、小さな庚申車(神明式の簡素な神輿)で村内を巡っていました。かつて祭りといえば神輿が楽しみの中心でしたが、その姿が失われて寂しさを感じるようになっていました。青年たちも神輿の復活を強く望んでいたので、復興を図りました。

すると、祭りの雰囲気が一気に盛り上がり、郷土娯楽の本来の姿がよみがえりました。

さらに、私は県外への旅行も企画しました。毎年数名の青年を選び、県外視察に送り出すようにしたのです。旅行の機会が少ない青年にとって、見聞を広げることは非常に有益であり、人生の中での慰めや楽しみにもなると考えました。

この旅行は、青年自身の費用ではなく、団費を使って行いました。団員の中には裕福な家庭の子もいれば、そうでない子もいます。もし自費で行うとすれば、経済的に厳しい青年は旅行の機会を得られません。だからこそ、全員が参加できるように団費で支援したのです。

とはいえ、団費にも限りがあるため、一度に多くの青年を送り出すことはできませんでした。通常は5〜6名、多い時で10名以上、特別な機会には30名以上を送り出したこともあります。たとえば、大阪で開催された第五回勧業博覧会には、37名もの青年を派遣しました。

近年では、費用の都合から、半分を自費で負担することも増えてきましたが、それでもこの旅行は非常に有意義なものでした。青年たちは京都や伊勢を訪れ、帰ってくると家庭や友人に見聞を語り合い、同行者との絆も深まりました。

智恩院の鐘、清水寺の舞台、金閣寺の庭園、伊勢神宮の神聖な森、お玉やお杉の話など、彼らにとっては生涯繰り返し語られる楽しい思い出となりました。特に、経済的に旅行が難しかった青年にとっては、深い感動と豊かな見聞を得る貴重な経験となりました。

こうして、団員たちは旅行の思い出に心を動かされ、次の旅行の選抜に選ばれたいと願い、日頃の行いを慎み、善行に励むようになりました。その結果、青年全体の向上心が高まり、村の活力が育まれていったのです。

団費とその出所

我が村の青年団の活動には、年間で少ない時は300円、多い時は1,200円ほどの団費が必要でした。平均すると、だいたい700円前後で運営してきました。

青年団の費用について、「団員自身の労働や負担によってまかなうのが自治的だ」と言う人もいました。しかし、青年の労働によって得られる収入は少なく、教育的な活動を充実させるには到底足りません。もし収入を増やそうとすれば、青年に多くの時間を労働に費やさせることになり、それは家業に支障をきたすばかりか、団員の意欲を失わせてしまいます。さらに、青年団の名のもとに強制的な労働を求めるような風潮が生まれれば、教育の本質が空虚なものになってしまいます。

たとえ労働に従事させるとしても、それは「修養」としての奉仕活動であるべきです。実際に、我が村の青年たちは道路の修理や水害・火災への対応などに取り組んでいますが、それは公共のために尽くす奉仕であり、そこに教育的な価値があるのです。利益を目的とした労働は、あまりに商業的であり、人格を育てる手段としては効果がないと私は考えています。

だからこそ、労働による収入で団費をまかなうことは現実的ではないと判断しました。では、団員自身が費用を負担するべきかというと、それもまた経済的に自立していない青年にとっては酷なことです。そこで、団費は他の方法で確保する必要があると考えました。

まず、村の予算から一部を補助してもらうように働きかけました。理解ある村会は、「小学校教育が義務教育であるように、青年教育もまた第二の義務教育である」とまで言って、快く補助を決議してくれました。こうして、毎年200円ほどの補助を村費から受けることができました。

また、各部落からも協議費の中から300〜400円の補助を受けることができました。

さらに、思いがけず都合の良い特別な収入源も見つかりました。それは、我が村の灌漑用水を生石村や垣生村の各部落に分けて供給している関係で、昔から毎年2〜3回、これらの部落から酒や肴が贈られてきていたのです。四斗樽で7〜8樽もの贈り物があり、村民が集まって消費していましたが、私はこれを「無駄な消費」だと考え、村の人々にお願いして、青年団の団費として寄付してもらうことにしました。

そのほかにも、上棟式や年賀、葬儀などの際に、篤志家から寄付金をいただくこともありました。こうして、年間700円前後の団費は、村の理解と協力によって安定して維持されてきたのです。

◆第12章 土地の改良とその利用◆

洪水の残した土砂の利用

我が村は石手川と重信川の流域にあるため、昔から何度も洪水の被害を受けてきました。そのたびに多くの田畑が川のようになり、復旧しても湿地のままで、思うように使えない土地が残っていました。特に川沿いの土地は、川底よりも低いため、冷たい水が湧き出してしまい、農地としての価値が下がっていたのです。

こうした湿地は、村全体で百町歩以上もありました。もしこれらを改良できれば、一毛作しかできなかった土地が二毛作できるようになり、利用価値は大きく高まります。だからこそ、土地改良は我が村にとって非常に重要な課題でしたが、なかなか良い方法が見つかりませんでした。

そんな中、明治18年頃から鶴本氏や野本氏らの経験によって、土地改良の方法が示されました。昔、石手川の堤防が決壊した大洪水の際、数十町歩の田んぼが砂や小石で埋まり、川のようになってしまいました。その土地を復旧して耕地に戻したとき、砂礫が山のように残り、犠牲地として放置されていました。

この砂山を活用しようという試みが始まりました。湿地に砂礫を運び入れ、同時に地下に排水用の暗渠(あんきょ)を設けたところ、非常に良い結果が得られました。数年耕作するうちに、砂礫が土に混ざり、土壌は花崗岩由来の砂質になりました。この砂質は光をよく反射して地温を上げ、排水も良くなるため、植物の成長にとても適した環境になったのです。

しかも、この湿地は地価が1反あたり14〜15円と安く、税金も少ない土地でした。それが、こうした改良によって高い利用価値を持つようになったのは、経済的にも大きな利益でした。この成功は、村の土地改良にとって貴重な実例となりました。

当時は、耕地整理組合のような制度もなく、名前すら知られていない時代でした。しかし、地下排水の効果を得るには、関係する土地の所有者が協力して共同で取り組む必要があると考え、実験の成果をもとに、周囲の人々に改良を勧めました。

土砂の運搬にはレールの借り入れなどが必要でしたが、村がその手配を保証しました。こうして、毎年少しずつ改良が進み、数十町歩の土地が一毛作から二毛作へと変わり、地価の低い土地が有効に活用されるようになりました。

長年放置されていた犠牲地も、すべて取り除かれ、数町歩の良田として生まれ変わりました。その後、耕地整理法が施行され、完全な整理が可能になったという議論もありましたが、我が村ではそれ以前に、畦畔(けいはん:田の境界)の調査を2回行い、簡易的ながら田んぼの区画整理を進めていました。

畦畔が曲がっていたり斜めになっていた場所では、隣同士で土地を交換し、直線的に整えました。その結果、田んぼの多くは長方形になり、耕作がしやすくなりました。すべての田んぼには通路と排水溝が整備され、一区画の平均面積は約9畝23歩(約930㎡)となっていました。

このように、簡易的な改良でも十分な成果が得られていたため、急いで耕地整理を進める必要はないという意見もありましたが、時代の流れとともに、より組織的な土地改良が求められるようになっていったのです。

耕地整理

耕地整理は明治40年、大字市坪で池内浅間氏を組合長として始まりました。市坪は石手川と重信川の間にあり、村の中でも特に水害がひどかった地域です。湿地も多く、整理によって排水が改善され、土地の利用価値が大きく向上しました。

特に、両河川の合流地点では洪水による浸水被害が頻繁に起きていましたが、整理によって排水口が設けられたことで、長年の悩みだった湛水(たまった水)の被害もほとんどなくなりました。

その後、私が村長を退いた後も、鶴本房五郎氏を組合長とする大字余戸の耕地整理が続けられ、さらに大字保免でも竹田市次郎氏のもとで整理が行われ、ついに村全体の耕地が整然と整備されるに至りました。

余戸・保免の湿地も整理によって二毛作が可能となり、土地の利用が大きく向上しました。これらすべての整理にかかった費用は8万数千円、整理された面積は371町歩に及びます。

もともと、村の道路は耕地への往来には使われていたものの、車が通れる道はごくわずかでした。整理によって各地区に縦横の車道が整備され、交通の利便性が大きく向上しました。

田んぼの区画も整えられ、ほとんどが1反2〜3畝(約1,200〜1,300㎡)に統一され、農業経営にとって非常に便利になりました。区画の形が整い、面積が広がり、交通も便利になったことで、農作業の能率は大きく向上しました。

整理前は、稲作に1反あたり平均24〜25人分の労働が必要でしたが、整理後は18人分ほどで済むようになりました。つまり、1反あたり約6人分の労力が節約できたのです。これを賃金に換算すると、1日1円50銭として9円の節約になります。

村全体の371町5反に換算すると、労力で22,100人分以上、金額にして33,300円以上の節約となります。これは、耕地整理によって米の生産コストが下がり、農業の利益が増えたことを意味します。

さらに、一毛作地が二毛作地になったことで利用価値が増し、排水の改善によって土地が乾きやすくなり、生産力も向上しました。道路とともに川の溝も整備され、灌漑や水の管理も便利になったことは、特に称賛すべき成果です。

そして何より注目すべきは、この整理が農業に従事する人々の「心」にも良い影響を与えたことです。幾何学的に整えられた田んぼで作業することで、自然と労働の規律が整い、「どれだけ働けば、どれだけ収穫できるか」という見通しが立ちやすくなり、経営感覚が育ちました。

我が村の農業が経済的に発展していると社会から評価されているのは、まさにこの心理的な変化の表れであると、私は確信しています。

耕地交換による利用価値の向上

日本の農業は集約型であるため、田畑の区画は一般的に狭く、しかも一人の農家があちこちに点在する耕地を持っていることが多くあります。そのため、耕地と耕地の間を行き来する時間が無駄になり、労働の効率が下がってしまいます。

このような時間の損失は、一見すると小さなことのように思えますが、実際には決して小さくありません。一人の農家が一年間に費やす移動時間を積算すれば、かなりの量になります。さらに、村全体の農家について計算すれば、その無駄は驚くほど大きなものになるでしょう。農業を経済的に運営するには、この問題を見過ごすことはできません。

そこで我が村では、この欠点をどう改善するかを考えた結果、「耕地の交換」という方法にたどり着きました。つまり、点在している田畑を、耕作者にとって便利な場所に集めることで、土地の利用価値を高めようとしたのです。

たとえば、甲さんが東の方に点在する土地を持っていて、それが7〜8町も離れているとします。その土地は甲さんにとっては不便ですが、乙さんにとっては自分の他の耕地に近く、便利な場所かもしれません。逆に、乙さんが持っている土地が甲さんにとって便利な場所であれば、甲と乙が土地を交換することで、互いに不便を便利に変えることができます。

ただし、甲の土地が乙にとって便利でも、乙の土地が甲にとってそれほど便利でない場合は、交換がうまくいきません。そんなときは、第三者の丙さんを加えて、三者間で土地を交換することで、より良い結果を得ることができます。

このように、土地の価値を評価し、必要に応じて差額を調整することで、耕地交換が成立します。この方法によって、村では耕地交換が盛んに行われるようになり、便利な場所に1町〜1町5反ほどの農地が集まるようになりました。

その結果、以前のように東へ西へと移動する無駄がなくなり、たとえば8反の耕作能力しかなかった人が、1町歩の耕作をこなせるようになりました。つまり、耕地交換によって、土地の利用価値が大きく向上したのです。

第13章 信仰の場を、経済と教育の場へと再生する

講田の耕作

我が村の宗教分布を見ると、真言宗が5割、日蓮宗が4割、残りの1割が浄土真宗などその他の宗派で、ほとんどが真言宗と日蓮宗に属しています。そして「大師講」や「題目講」と呼ばれる講(こう)という集まりがあり、10戸から十数戸ごとに組をつくって活動しています。

講では、持ち回りで講元(世話役)を務め、毎月集まって食事を共にしながら、さまざまな話を交わし、地域のつながりを深めてきました。念仏や題目、御詠歌なども唱えられ、春秋のお日待ちや祈祷の際には、2日がかりで盛大に行われ、飲食もふるまわれます。講の仲間は、喜びや悲しみを分かち合い、助け合いながら暮らしてきたのです。

こうした講の活動は、信仰に根ざしたものであり、地域の美しい風習として大切にされてきました。しかし近年では、その良き風習も次第に薄れ、信仰の心があるのかどうかも疑わしいほどになってきました。毎月の集まりをやめてしまう講も増え、たまに開かれても、ただの飲み会のようになり、かつての精進料理も、今では肉や魚がなければ物足りないという有様です。

私は、この講の場を活かして、農業経済の意識を育てることができないかと考えました。農業を生業とする人々が、経済的な感覚に乏しいことは、農業の発展を妨げる大きな要因だと思ったからです。

たとえば、「どれだけの労力や肥料を使い、どれだけ収穫があり、どれほどの利益が出たのか」と尋ねても、正確に答えられる人はほとんどいません。これでは、農業を一つの事業として発展させることは難しいと感じました。

そこで私は、数ある講の中から3つの団体を選び、協議を始めました。信仰とともに地域の良き風習を守ってきた講の衰退を立て直すことは、村にとって急務です。飲食を共にすることで集まりやすくなるとはいえ、費用の負担が重く、苦しんでいる人もいます。だからこそ、講員の持ち出しではなく、講の活動費をまかなう方法が必要だと考えました。

私は、各講で2段歩(約20アール)の田んぼを共同で耕作し、その収益で講の費用をまかなうことを提案しました。講の人々は「たった2段歩の耕作で費用がまかなえるのか」と不安そうでしたが、私の熱心な説得により、最終的に承諾してくれました。

私はある地主から、1段歩あたり米1石8斗の小作料で6段歩の田んぼを借り、3つの講に2段歩ずつ分けて耕作してもらうことにしました。しかし、講員たちは「この高い小作料では利益が出ない」と不満を口にし、なかなか耕作に取りかかろうとしませんでした。

そこで私は、「もし利益が出なかった場合は、私が補償する」と約束し、共同耕作を強く勧めました。こうして始まったのが、いわゆる「講田(こうでん)」です。

講田に生じた経済観念の収穫

共同作業は、統一がなければ労力が無駄になり、作業の効率が落ちてしまいます。そこで、講田の共同耕作では、作業をまとめるために幹事を一人選び、作業の分担を決めて人員を適切に配置しました。

全員が一度に作業に入ると、狭い耕地に対して人手が余ってしまい、かえって効率が悪くなります。さらに、集団心理によって「誰かがやるだろう」と労働を避ける空気が生まれ、時間の浪費につながることもあります。だからこそ、作業の組織化に力を入れました。

幹事は日誌をつけ、作業時間や参加者の名前、作業の効率を数字で記録しました。たとえば、1人1日の完全な作業を「10」とし、16〜17歳の若者であれば「6」や「7」と記録し、半日働いた場合は「5」とするなど、具体的な数値で労力を評価しました。

収穫が終わると、生産された米から小作料を差し引き、残りを時価で見積もって肥料代などを引き、純粋な利益を算出しました。この計算は、もみ摺りの祝い酒とともに報告され、幹事の日誌に基づいて、どれだけの労力が必要だったかが詳細に示されました。

この純利益を労力に割り当てることで、1人1日あたりの労働の価値が明確になりました。さらに、1段歩の耕作に必要な労力や肥料代など、農業生産に必要な経済的要素が具体的に把握できるようになりました。

これまでのような「だいたいこんなもんだろう」という曖昧な計算ではなく、手のひらで確かめるような明確な生産価値が示されたのです。

3つの講田それぞれで成果は異なりましたが、比較研究することで、農業経営の得意・不得意がはっきりと見え、経済的な知識が深まりました。次の年からは、各講田が互いに競い合い、短所を改め、長所を学び、技術を磨くようになり、農業経営も徐々に進歩していきました。

初年度の明治35年には、1段歩の耕作に平均25〜26人分の労力が必要でしたが、比較と改善の結果、23〜24人分にまで減少し、効率が向上しました。

それまで「農業は儲からないもの」と思っていた人々も、考えを改めるようになりました。第一回の成果では、1人あたりの労働による利益は83銭でした。当時の物価は今よりずっと安く、農業労働者の賃金は1日50銭ほどでした。だからこそ、83銭の利益という結果に、皆が驚いたのです。

「日雇いより30銭も多く稼げるとは、予想以上だった」と、正直な感想を語る人もいました。

講田の共同耕作には、まだ不真面目な労働も混じっていましたが、それでもこれだけの利益が出たのなら、自分の畑で真剣に働けばもっと大きな利益が得られるはずだ――そうして、彼らは深く目覚めたのです。

このように、講田の耕作を通じて、労力や生産費の標準的な数値が明らかになり、農業を事業として捉える新たな知識が村に広まりました。我が村の農業は、ここから経済的に発展する大きな機運を得たのです。

◆第14章 教化に基づく貯金の実行

村是調査が映し出した静かなる崩れの兆し

農村の美しさは、勤勉で倹約を重んじる質素な暮らしにあります。しかし、都会から広まった贅沢の風潮が、次第に我が村にも入り込み、村人たちもその方向へと流されつつあります。けれども、多くの人は自分が贅沢に染まっていることに気づいていません。中には、それを知りながら誇りに思っている人さえいます。

このような風潮は、我が村の未来を衰えさせる「悪魔」のような存在であり、深く憂えるべきものです。

そこで、村是調査を通じて、村人にこの贅沢の恐ろしさを自覚してもらうための材料を提供しました。調査では、村人の財産を「生産的なもの」と「不生産的なもの」に分けて分析しました。

その結果、村人の財産のうち、生産的なものは61.9%、不生産的なものは38.1%でした。生産的な財産とは、田畑、山林、貸金、預金、有価証券など、経済的な利益を生み出す積極的なものです。一方、不生産的な財産とは、家屋、衣類、家具、骨董品など、消費するだけで利益を生まない消極的なものです。

前者は「子を生む財産」、後者は「子を生まない財産」であり、後者はただ生まないだけでなく、むしろ「子を食う鬼」のような存在です。つまり、前者はプラス、後者はマイナスの性質を持っています。

このような分類によって、村人の生活の「分度(ぶんど:身の丈に合った生活の基準)」が明らかになります。分度を超えて初めて、贅沢の実態が見えてくるのです。

一見すると、生産的な財産が6割強で、不生産的な財産が4割弱なので、安心できるように思えます。しかし、実はそうではありません。これはむしろ、恐れるべき状況を示しています。

なぜなら、生産によって得られた利益の多くが、不生産的な財産――つまり「鬼」の消費に使われてしまっているからです。仮に生産と消費の割合が同じだとすると、6割の生産のうち4割が「鬼」に食われ、残りの2割しか「人」の消費に回らないことになります。

このような分配は、生活の分度を誤っていることを示しています。分度とは、「鬼」の分配を減らし、「人」の分配を増やすことで定まるべきです。鬼が弱く、人が強くなれば、より多くの勤労が可能になります。

しかし、我が村では、鬼の分配が人の2倍にもなっており、人は弱く、鬼は強くなってしまっています。だからこそ、強い鬼を恐れて、地獄に行くことすら避けようとするのです。

もし分度を正しく保ち、鬼を飢えさせて自分の力を高めることができれば、たとえ地獄に行っても、鬼に勝る勇士として恐れることはありません。

分度を誤り、贅沢に流れると、勤労を嫌い、怠けた生活を望むようになります。そうして、勤勉で質素な美しい風習は壊され、村の未来には暗い雲が立ち込めるのです。

村是調査によって、生産的な財産と不生産的な財産の割合が明らかになり、村人が分度を誤って贅沢に傾いている事実が示されました。これによって、今まで気づかなかった人々も、自らの生活を見直し、贅沢の恐ろしさを深く理解するようになったのです。

魔手に脅かされる勤労の悩み

これは我が村だけの問題ではありませんが、多くの人が「労働は生活のためだけの手段」と考えています。その結果、人生の本当の意味を理解しないまま、空虚な日々を過ごしてしまうのです。

我が村でも、わずか四〜五町の土地を持ち、それを小作人に任せて小作料で生活できるようになると、祖先から受け継いできた農業をやめてしまい、何もせずに遊んで暮らす人が現れました。働かずに暮らすことこそが「人生最大の幸福」だと考えるようになってしまったのです。

「働かないと生活できない間は仕方ないが、財産で暮らせるならもう働く必要はない。いつまで生きるのかも分からないのだから、のんびり過ごせばいい」――そんな考え方が広がっています。これは、人生の意義を見失っている証です。労働を苦しみとし、遊びを快楽とするようになってしまったのです。

こうして、書画や骨董にふけり、囲碁や喫茶に時間を費やし、美しい服や食事に溺れるようになります。周囲の人々も、そうした贅沢な暮らしを見ては称賛し、羨ましく思うようになり、財産家だけでなく一般の人々までもが、労働よりも遊びの生活に憧れるようになります。

その結果、働くことを苦痛と感じ、働いている人自身が労働を卑下するような心理的な悩みに陥ってしまうのです。これは、分度(身の丈に合った生活)を誤り、奢侈の「悪魔」に心を奪われたことによる悩みだと思います。

こうして人生の意義は、魔の暗闇に包まれ、光を見失ってしまうのです。村是調査は、この「照魔鏡」となって、分度を誤ったことで現れた奢侈の恐るべき正体を明らかにしました。奢侈とは、まさに恐るべき悪魔なのです。

一度この悪魔に捕らえられると、悩みは深まり、ついには家を失い、身を滅ぼすことになります。分度を超えた豪華な家を建てれば、次々と新たな要求が生まれます。客間の額、床の間の掛け軸、高級な火鉢、絹の座布団――次から次へと欲望が膨らみます。

美しい服を手に入れても、流行はすぐに変わり、また新しいものが欲しくなります。その服はタンスにしまっておくだけでは満足できず、芝居や映画を見に行くための外出が必要になります。こうして、奢侈から奢侈へと、悪魔は人をもてあそび続けるのです。

美しい服を着ていると、目の前にやるべきことがあっても、服を汚したくないという理由で手を出そうとしません。庭園や盆栽を眺めていると、麦畑の雑草や稲の害虫も目に入らなくなります。こうして、勤労の意識は消え、ただ消費へと流されていくのです。

分度を超えた奢侈の悪魔が、どれほど人々を誘惑していることでしょうか。限りある生産の財産で、限りない悪魔の要求を満たすことなどできるはずがありません。特に、働くことを嫌うようになれば、生産の増加も望めず、景気が悪くなれば収入も減り、悪魔の要求はますます満たされなくなります。

それでも、悪魔は要求を止めません。ついには借金をし、田畑を売り、家を売ることになります。奢侈の悪魔が収入に飢えれば、田畑を食い、家を食い、最後にはその人自身を滅ぼしてしまうのです。

私は村是調査を通じて、財産の分類から分度の誤りを発見し、我が村の将来に深い憂いを抱くようになりました。

文化生活のはき違い

社会が進歩するにつれて、文化の力によって生活が向上することは、誰もが望むところです。農村であっても、文化の恩恵を受けて暮らしを良くしたいという願いは、私たちにとって当然のことです。

しかし、生活の本当の意味を理解したうえでの向上でなければ、それは「文化生活」とは言えません。たとえば、凝った住宅や華やかな衣服――それだけで文化的な生活だとは思えません。ましてや、身の丈を超えて贅沢に走るようでは、文化の名に値しないのです。

我が村の人々が、文化生活の本質を取り違え、意義ある向上に気づかないまま、ますます遊びや贅沢に憧れている現実を、私は見つけました。

我が村は松山市からわずか一里ほどの距離にあり、国道や鉄道でつながっています。鉄道は文化の産物であり、村にも停車場が設けられていて、その便利さを多くの人が享受しています。

鉄道の利用によって、米や麦の輸送、肥料の購入などが容易になり、生産の利益は非常に大きくなりました。また、移動時間が短縮されることで、仕事の効率も高まっています。

しかし、鉄道の利用にはもう一つの側面があります。松山市に用事があって停車場に来たとき、ちょうど列車が出たばかりだった場合、線路沿いの国道を歩いて向かえば十分間に合うのに、次の列車をただ待つだけの人が多いのです。

たまに歩いて向かう人がいると、汽車の窓からそれを見て「時代遅れだ」「文化を知らない人だ」と嘲る者もいます。そうした人々は、特に急ぎの用事があるわけでもなく、わざわざ機会を作って都会へ出かけたがるのです。汽車に乗って芝居や映画を見に行き、街の賑わいに触れることを楽しみます。

その結果、都会の風潮に染まり、贅沢への欲望が膨らみ、流行の服や娯楽を「文化生活」だと勘違いするようになります。鉄道の「利用」と「悪用」を混同し、文化生活の本質を履き違える人が増えているのです。

また、自転車の流行も顕著で、平均して八戸に一台というほどの普及率になっています。自転車も文明の利器であることに違いはありませんが、使う機会の少ない農家では、かえって滑稽に見える使い方が目立ちます。田んぼに水を引くにも、稲刈りに行くにも、自転車で往復するという有様です。文化生活の履き違いは、実に深刻です。

もしこの履き違いが単なる勘違いで済むなら、まだ心配は少ないでしょう。しかし、自転車で頻繁に都会へ出入りするようになれば、都会の風潮に染まり、心が悪化していくのは避けられません。

私は、こうした結果が、働くことを嫌い、贅沢にふける人をますます増やしていることを思うと、心から寒々しい気持ちになります。

教育としての貯金の実践

社会の進歩にともなって、都会から広がる贅沢の風潮が、我が村の勤勉で倹約を重んじる美しい暮らしを損なうようになってきました。そこで私は、この風潮を正す方法として「貯金の実践」を思い立ちました。

貯金は誰もが「良いこと」として肯定します。しかし、実際に続けていく人は少ないのが現実です。その理由は、貯金が「教育化」されていないからだと私は考えました。貯金を教育の一環として位置づけることで、勤倹の美徳が育まれるのです。

貯金は、財産を蓄えることだけが目的ではありません。それ以上に、勤勉と倹約の心を養うことが、何よりも大切だと思います。そこで私は、貯金を始める前に、まず「貯蓄の心」を育てる必要があると考えました。

村内を小さな区に分けて人々を集め、村是調査で得られた事実をもとに、将来の危機について何度も語りかけました。4回、5回と繰り返し力説するうちに、村人たちも「自分たちは恐ろしい悪魔の手にかかっていたのだ」と気づき始め、「早く貯金を始めたい」と言ってくるようになりました。

私は「時は熟した」と判断し、明治34年9月から貯金の実践に着手しました。まず村会を開き、「貯金受託条例」を決議し、正式な認可を得ました。

この制度では、村民が直接銀行や郵便局に貯金を持参するのではなく、村が貯金を受託して集め、まとめて銀行に預ける仕組みとしました。特に、十銭以下の少額の貯金は銀行や郵便局では扱ってもらえないため、村が責任を持って集めることで、誰でも気軽に貯金できるようにしたのです。

村が責任を持つことで、村民も安心して貯金できるようになりました。現在では信用組合がこの役割を担っているため、当時の条例は不要となりましたが、当時としては画期的な制度でした。

貯金は毎週日曜日を定日にし、金額は自由としました。「一人一銭以上」であれば、百円でも構いません。家庭の事情によって金額に差があってもよいように、預金者の都合を尊重しました。

「十銭以下の少額は廃止すべきでは」と言う人もいましたが、私は「誰でも実行できる余地を残すことが何より大切」と考えました。

貯金を教育として位置づける目的は、金額の多さではなく、継続的な実践を通じて勤倹の心を育てることにあります。だからこそ、一定期間の引き出し制限などは設けず、必要な時には自由に引き出せるようにしました。これにより、貯金者に安心感を与えると同時に、貯金の「使い方」についての意識も育てることができました。

通帳には、これらの条例や心得を印刷し、私自身が各家庭に配布して勧誘しました。すでに貯金を待ち望んでいた人々ばかりだったため、すぐに多数の賛同を得て、貯金者は630人に達しました。村の戸数が453戸であることを考えると、予想以上の成果でした。

この貯金は、日曜日に小学校の児童が集金することとしました(第十章「小学校児童の公民活動」参照)。開始当初の集金額は1回につき約70円で、非常に良好な成績でした。多少の増減はありましたが、次第に安定して進んでいきました。

一銭の貯金に見出された教育の価値

貯金の取り組みは順調に進んでいましたが、最初は一回の集金額が70円ほどだったものが、次第に50円、40円と減っていきました。私はこの減少が何を意味するのか、注意深く見守っていました。

そんな折、ある貯金者が訪ねてきて「毎週日曜日の貯金は少し面倒なので、月に一度にしてほしい。2円でも3円でもまとめて出しますから」と言いました。別の婦人も同じように「毎週子どもが集金に来るのが煩わしい」と訴えました。

その婦人は、日曜日に髪を結っている最中に小学生が集金に来て、「今日は無理だから次の日曜にまとめて出す」と言っても、子どもは「一銭でもいいから出してください」と食い下がり、「終わるまで待っています」と言って帰らなかったそうです。

私はこの話を聞いて、心の底から嬉しく思いました。子どもたちが正直に、真剣に貯金の実行に取り組んでいることに感謝し、また、貯金者が「うるさい」と感じるほどに意識を促されていることこそ、教育の成果だと感じたのです。

月に一度まとめて多くの金額を貯金するよりも、一銭でも毎週貯金することの方が、はるかに価値があると私は確信しました。月に一度では、29日間も貯金の意識が途切れてしまいます。しかし、週に一度であれば、常に貯金の意識が保たれます。「うるさい」と感じることこそ、その証拠なのです。

金額の大小よりも、貯金の意識が継続することこそが、勤倹の美徳を育てる源泉です。だからこそ、週一回の集金をやめることはできません。私はその意味を丁寧に説明し、子どもたちには感謝の言葉を贈り、さらに努力を促しました。

多くの児童たちは、日曜日になると信玄袋を手に「叔父さん、叔母さん」と呼びかけながら集金に回ります。可愛らしい子どもたちに促されて、村人たちは「また日曜が来た」と思い出し、三銭、二銭、一銭と貯金額は次第に少なくなっていきました。

ある日、竹田さんが「昨日の日曜の集金はたった12円ほどで、これでは貯金も…」と悲しそうに話しました。私はそれを予期していたので、驚きませんでした。むしろ、一銭や二銭の貯金こそが教育の価値を示すものだと考え、再び村内を巡って話をしました。

一銭の貯金は、実に尊いものです。一銭を貯めようという意識があれば、やがて大きな貯金も可能になります。台所で日々扱う消費の中に、一銭は必ず見つけられます。たとえば、竈の下の薪を節約すれば、月に5貫目、一年で60貫目の節約になります。それは7円以上の価値となり、米2斗分にもなります。

薪、マッチ、酢、醤油、味噌など、日々の消費は「わずか」と思われがちですが、積み重ねれば米何俵にも匹敵するのです。台所には立派な田んぼがあり、畑があるのです。

この収穫は、肥料も税金もいらず、干ばつや水害の心配もありません。昔から「家が貧しくても賢い婦人がいれば栄える」と言われますが、婦人の力によって家が栄えるのは、まさに台所の田畑を収穫することによるのです。

一銭の貯金をしている皆さんが、その一銭の意味に気づいたならば、台所の豊作は間違いありません。私は心から一銭の貯金に感謝し、婦人の節約によって得られる貯金の大きさを力説しました。

その後、貯金額は再び増加していったのです。

郷土に起こる勤労の美風

日曜ごとの貯金が続くにつれて、村人の貯金への関心は次第に深まり、集金額も増えていきました。台所の整理が行き届き、竈の下の「田畑」にも目が向けられるようになり、節約の意識が高まると同時に、家の中も整い、生活の様子が大きく変わってきました。

私は「勤勉の美しい風が吹き始めた」と感じました。

我が村は伊予絣の産地であり、婦人たちは機織りに励んでいます。その勤勉の風は、朝早くから夜遅くまで響く機の音にも表れています。朝はまだ私たちが眠っている時間から、夜は十時まで、機の音が絶えません。

その結果、生産の能率が上がり、絣の生産量は三万反から五万反、六万反と増えていきました。村全体が勤労の風に包まれ、まるで手が自然に動き出すような雰囲気です。

「隣のお竹さんは今月もう十五反も織った。私はまだ十二反。負けてはいられない」――そんな近所同士の競争が、知らず知らずのうちに人々を励まし合う力に変わっていきました。

今までぶらぶらしていた人も、遊んでいられなくなります。働く人の姿を見て、老人もじっとしていられず、子や孫のために糸を巻いたり、手伝いを始めます。学校帰りの子どもたちも、絞りやときの作業を手伝います。

村全体が「働くことこそ誇り」という空気に包まれ、遊び惰けることは恥ずかしいと感じるようになりました。

十二、三歳の少女が、姉の休憩中に機の上に上がり、足が踏み木に届かないので下駄を履いてまで織ろうとする姿も見られました。まだ生産の力にはならない年齢の子までが、勤労の風に巻き込まれて働こうとする姿は、実に感動的で見逃せない現象です。

十五、六歳の娘たちは、一日一反が普通で、上手な人は二反、二反半も織るようになりました。婦人の労働が活発になると、男性も農業に励むようになりました。

わずかな貯金の実践が、これほどまでに村の空気を変えたことに、私は深く感動しました。郷土における「良い風」と「悪い風」の違いが、これほどまでに大きな影響をもたらすとは――。

そんなある日、私のもとに「お高」という婦人が訪ねてきました。彼女は私も知っている人物でしたが、これまで一度も訪ねてきたことのない珍しい来客でした。

お高の父は、若い頃から働くことを嫌い、毎日ぶらぶらしていることで有名な人でした。そのため家は貧しく、お高は十四、五歳から奉公に出されていました。

しかし、お高は十六、七歳の頃から機織りの名人として知られ、一日二反半も織る腕前で評判になり、私もその名をよく知っていました。奉公先でも高い給金を得ていましたが、父親が浪費家だったため、稼ぎを持ち帰ることもできず、結婚の機会も逃してしまいました。

ようやく二十四、五歳になって、松山南郷の桑原村へ嫁ぐことになりました。評判の娘だけに、先方は「宝物をもらった」と喜び、村でも噂になっていました。

お高は婚礼後すぐに機織りを始めました。これまでは奉公だったが、今度は自分の仕事だと、さらに力を入れて取り組みました。ところが、一反織るのも難しく、以前のようにはいきません。

近所の人が「評判の織り手の筬の音は面白い」と見物に来るほどでしたが、結果は出ず、お高は悔し涙を流しました。舅・姑も期待を裏切られたと感じ、機嫌も悪くなり、お高の心は砕けてしまいました。

ついに離縁を申し出ましたが、夫は慰めて帰すことを拒み、二人は桑原村を離れて我が余土村に戻ってきました。

そして今、お高が私のもとを訪ねてきたのです。彼女の顔には喜びが満ちていて、こう語りました。

「村長さんもご存じの通り、私は桑原村へ嫁ぎましたが、どんなに頑張っても仕事にならず、恥ずかしくて村へ帰りました。でも、村に戻ると、また元のように仕事ができるのです。本当に不思議です。よく考えてみると、村に吹いている風が違うのです。

桑原村では、近所の話題は芝居や映画ばかりで、手も自然に鈍くなります。紺屋さんも機元さんも気が長くて、全体の雰囲気が違っていました。

でも、余土村では、近所も隣も互いに励まし合っていて、私も自然と調子が乗ってきます。やっぱり、村の風が違うのだと、今さらながら気づきました。嬉しくて、村長さんにお礼を言いに来ました。」

私はこの話を、ただの面白い話として聞いたのではありません。郷土に吹く「善い風」と「悪い風」が、人の心にこれほどの違いをもたらすことを深く認識しました。良い風と美しい習慣は、人の心を高め、自治の運営においても最も注意すべき力であると、改めて強く感じたのです。

一人の百万円より五百人の五万円

我が村の貯金は、ただ金額の多さを目指したものではありません。それ以上に、貯金を通じて勤倹の心を育て、教化の力を何倍にも広げることを目指してきました。

今の日本は、貴族的な生活に憧れ、贅沢に流され、働くことを嫌う風潮が広がっています。だからこそ、勤勉と倹約の美しい風を呼び起こし、堅実な国民の思想を育て、教育と生産に本当の意味を持たせた文化生活を築く必要があるのです。

その意味で、我が村の貯金は教化の意義を生み出すことに努めてきましたが、貯金そのものもまた、経済的に非常に価値のあるものです。

日曜日ごとに、可愛らしい小学生の手を通じて集められる貯金は、十銭、二十銭といった小さな金額が中心です。しかし、少額でも多くの人が続けていけば、決して小さなものではありません。実際、我が村の信用組合に預けられている貯金は、すでに十五万円を超えています。

とはいえ、金額の大きさだけを誇るべきではありません。貯金は「どう使うか」によって、さらに大きな経済的価値を生み出します。

我が村では、貯金の始まりから「引き出しの自由」を認めてきました。これは、貯金を単なる蓄えにせず、必要なときに使えるようにすることで、生活や生産に役立てるためです。貯金を使えば、生活必需品の購入が進み、経済全体にも良い影響を与えます。利用者自身にも直接的な利益があり、貯金の本当の価値は「使うこと」にあるのです。

だからこそ、貯金者には「利用する意識」を持ってもらうことが大切です。

以前、イギリスの新聞記者スコット氏が日本の農村を調査に訪れ、我が村も視察しました。彼は、他の地域では貯金の引き出しが自由でないことに疑問を持っていましたが、我が村では自由に引き出せることに感心し、貯金の意義を認めてくれました。

私は、貯金を肥料の購入や織物の資金などに使うよう勧めました。貯金額が増えなくても、使いながらまた貯めることで、貯金の必要性がより強く感じられるようになります。積んでは使い、使ってはまた積む――この循環が、永続的な利益を生み出すのです。

我が村では、農業や機織りに貯金が活用され、年々その成果は大きくなっています。信用組合が資金を融通し、産業の発展に貢献しているのも、貯金がその基盤となっているからです。

そして私は、こうした利用価値は「一人の百万円」よりも「五百人の五万円」の方が、はるかに大切だと考えています。

一人が百万円を使っても、その利益はせいぜい一割程度です。これは銀行などの実例が示しています。しかし、五万円を五百人に分けて使えば、その利益は百万円を超える価値を生み出します。

たとえば、五万円を五百人に分ければ、一人百円です。この百円を肥料に使えば、半年で米や麦の収穫が一〜二割増え、年に二回使えば三〜四割の増収になります。

機織りに使えば、一巻(十反)に二十円の資金が必要として、五万円で二千五百巻分の資金になります。これを年に三〜四回繰り返せば、八百〜九百人の婦人が一巻につき十円以上の収入を得て、年間で七〜八万円の収入が生まれます。企業の利益も少なくありません。

つまり、五万円の資金が三〜四割、多ければ十割以上の利益を生むのです。我が村の実例からも、五万円の資金が七〜八万円の工賃を生むことは明らかです。

だからこそ、「一人の百万円」よりも「五百人の五万円」が、はるかに価値があるのです。

これは経済面だけでなく、教化の面でも同じです。貯金の金額が少なくても、多くの人が実行することで、郷土の美しい風習が育まれます。一人や二人が貯金しても、他の人が実行しなければ、良い習慣は生まれません。

◆第15章 温かい地主の同情と小作保護◆

水作慣行に表れた相愛主義

私が「赤ん坊の庄屋」と呼ばれていた維新の頃の記録を読み返すと、藩政時代の制度が、地主と小作人の間にどれほど深い温情を育んできたかがよく分かります。

当時は、土地の私有権すら完全には認められておらず、領地は藩主の所有のような扱いでした。田畑には「高(こう)」という等級がつけられ、その高に応じて年貢が課されていました。年貢の取り立ては非常に厳しく、我が村の五ヶ村の平均では、一段(約10アール)につき二俵二斗七升の年貢が課されていました。これは一石三斗ほどの負担になります。

一方、当時の平均収穫量は一石七斗ほどであり、年貢を差し引くと、地主と小作人が分け合えるのはわずか四斗程度しかありませんでした。つまり、双方が得られる利益は非常に少なく、争う余地もほとんどなかったのです。

地主は、小作人の労働によって得られた収穫を認め、報酬なしに働かせることはできませんでした。凶作で約束の小作料に届かない場合は、約束にこだわらず減額するのが慣例でした。たとえ収穫が小作料にぎりぎり届く程度でも、小作人の労苦に同情して減額することがありました。

とはいえ、減額できる余地も限られており、一斗か二斗程度が精一杯でした。小作人も、地主が重い年貢を負担していることをよく理解しており、その義務は非常に厳しく、怠れば藩庁から厳罰を受けることもありました。私の幼い頃、蔵の片隅に一坪ほどの牢があり、年貢を納められなかった人が投獄されたことも記憶しています。

このような厳しい制度の中では、地主が自分の取り分を減らしても、年貢の負担からは逃れられませんでした。痩せた土地で年貢の高い田を持つ者は、小作人もつかず、自分で耕しても損ばかり。そんな土地は、無償で譲っても喜ばれるほどで、酒や肴を添えて渡す例もありました。

私が幼少だった明治五〜六年頃にも、そうした実例がありました。地主も苦しい立場にあり、小作人も少しの凶作では訴えず、約束の小作料に届かないかどうかの瀬戸際でなければ、減額を求めることはありませんでした。

減額を求める際は、地主と小作人が立ち会って「坪刈り(つぼがり)」という方法で収穫量を見積もり、減額を決定しました。収穫前に申し出るのが慣例で、もしそれでも納得できない場合や、年貢にも届かないような凶作のときは、小作人は肥料代や労力を諦めて、立毛(収穫前の作物)を地主に委ねることもありました。

このような慣行を振り返ると、地主も小作人も本当に気の毒な境遇にあったと言わざるを得ません。

庄屋もまた、土地の移動(高入れ)の申し出があった際には、痩せた土地を引き受ける者の資力が十分でない場合は注意を促し、困窮を避けるために簡単には許可しませんでした。また、田植えや肥料の状況を見回り、怠けている者には注意を与えるなど、地主と小作人の苦しい状況に寄り添う姿勢がありました。

減額の問題が起きたときは、双方が不利な状況にあるため、事前に注意を促して争いを避けるよう努めていたのです。

厳しい藩の制度は、地主も小作人も共に抑圧し、互いに苦しみを分かち合うことで、自然と「相愛の心」が育まれていったのだと思います。

年貢を差し引いた後の収穫は、争う余地もないほど少なく、欲望が生まれる余地もありません。だからこそ、互いの境遇を理解し合い、温情の心が生まれたのです。

こうした慣行は、廃藩置県や地租改正によって土地の私有が認められ、税が金納に変わった後も、地主と小作人の関係に残り続けました。形式は変わっても、凶作の申し出に対する温情的な対応は続き、争いも穏やかに解決されてきました。

しかし、ここ数年で争議の形式や内容が変わり、長年続いてきた温情主義も、次第にその影を薄めてきたように感じます。

小作慣行を裏切った利己心

封建時代の厳しい制度の中で育まれた小作慣行には、地主と小作人が互いに思いやる「相愛主義」の精神がありました。しかし、明治以降、封建的な抑圧が取り除かれ、土地の私有が認められ、地租も改正されると、社会全体に「権利」の意識が広がっていきました。

その結果、地主は小作人との関係を「契約」に基づくものと捉え、かつてのような温情を捨て、法的な権利の行使を当然と考えるようになっていきました。「契約は自由である」という考えのもと、地主は小作地が不足している状況を利用して小作料を引き上げたり、「自分で耕す」と言って土地を取り戻し、数年後にさらに高い小作料で貸し出すような行為が見られるようになりました。

また、土地が売買されるたびに、小作料が五升、一斗と引き上げられることもありました。

表向きは「契約の自由」と言われていましたが、実際には小作人に選択の余地はほとんどありません。土地が不足している状況では、地主の言いなりで契約せざるを得ず、真の意味での自由は存在していなかったのです。もし地主が自分の自由を主張するなら、小作人にも同じ自由を与えるべきでしょう。

中には、特に高い小作料を課している地主もいました。彼ら自身も、その小作料が他と比べて高すぎることを理解しており、小作人にとって無理な条件であることも承知していたようです。

そのため、収穫後の籾すりの日を見計らって、小作米が準備されるや否や、人を連れて車で押しかけ、他の地主に先んじて小作米を強引に持ち去るような行為も起きました。こうした行動は、他の善良な地主に迷惑をかける結果となり、小作人は過大な小作米を取られた後、他の地主に納める分が足りなくなってしまいました。

このようにして、小作慣行は地主の利己心によって裏切られ始めたのです。

一方、小作人の側にも問題がありました。契約時には素直に応じておきながら、いざ小作料を納める段になると、一俵、二俵と少ししか持ってこなかったり、ひどい場合には籾をすぐに売り払って姿を消し、地主に損害を与える者も現れました。

こうした行為は例外とはいえ、凶作の年には小作人たちが団結して、小作料の引き下げを求める運動を起こすようになりました。従来の慣行では、収穫前に立ち会って収量を見積もり、減額を求めるのが筋でしたが、最近では「予想より収穫が少なかった」という理由で、収穫後に減額を求めるようになってきました。

このように、小作人の側もまた、従来の慣行を裏切るようになってきたのです。

結局のところ、地主も小作人も、それぞれが自分の利益を優先し、互いに争うようになってしまいました。かつて存在していた相愛の精神は、次第に冷め、やがては「権利の主張」へと変わっていきました。

こうして、長年続いてきた「小作慣行」は、時代の流れとともに、利己心によって裏切られ始めたのです。

主我の闘争と不労所得の渇望

近年、小作人の中には、小作料の引き下げを求めたり、約束を守らなかったりするだけでなく、収穫した米の調製においても手を抜き、乾燥が不十分なまま籾や粉米を混ぜて包装し、さらには水を吹きかけて重さを偽るような不正を働く者さえ現れています。

こうした行為は、貴重な米を汚すだけでなく、そもそも自分たちの勤労によって生まれたはずの「生産の輝き」を、自らの手で曇らせるものです。米の価値は、働いた人の価値そのものです。にもかかわらず、目先の小さな利益に惑わされて不正を働き、他人のことなど顧みない――これは、利己心(主我)に囚われた行動にほかなりません。

中には、良質な米を売り払ってしまい、代わりに粗悪な米を買って地主に納めるという、信頼を裏切る行為をする者もいます。ここまで来ると、利己心も極まったと言わざるを得ません。

我が村における地主と小作人の争いは、まさに「主我の争闘」です。地主は、少しでも多くの小作料を得ようとし、小作人の生活や労苦には目もくれません。一方、小作人も、約束を無視して減額を求め、粗悪な米で応じようとする――双方ともに、利己心に支配されているのです。

しかし、社会は本来、人と人との助け合いによって成り立っています。分業も、互いの関係性があってこそ機能するものです。地主と小作人の関係もまた、互いがあってこそ成り立つもの。どちらか一方が利己心に走れば、もう一方も傷つき、社会全体の利益が損なわれます。

地主が小作人の事情を顧みず、高圧的な契約を押しつければ、小作人は約束を守らず、争いが繰り返され、やがて地主は数に押されて不利な立場に追い込まれます。

一方、小作人も、声高に要求を叫び、酒を持ち寄って会合を開いても、時間ばかりが過ぎ、たとえ減額を勝ち取っても、すでに無駄な時間を費やしてしまっていて、得るものはありません。残るのは、争いによって生まれた敵対心と、かつてあった温情や親しみが失われた冷たい関係だけです。

ましてや、粗悪な米を調製して偽るような行為は、非人道的な罪であり、利己心による争いが思想の荒廃を招いている証です。

さらに恐ろしいのは、農家の根本である「勤労の精神」が失われつつあることです。働かずに得る収入――不労所得――を望むような考え方が、村に広がっているのです。

地主の多くは、先祖から受け継いだ財産によって不労所得を得ており、自らは働かず、ただ小作料を集めて贅沢な暮らしをしている者もいます。自分で耕すことを嫌いながら、「小作に任せる方が利益になる」と得意げに語るその姿は、矛盾に満ちています。

もしその言葉が本当なら、小作人こそが村の生産を支える「縁の下の力持ち」です。けれども、地主の傲慢さは小作人の心に怨みを生み、争いを避けられない状況へと導いてしまいます。

地主が働かずに不労所得に頼るなら、小作人もまた、汗を流して収穫を得るより、地主に対抗して減額を求める方が得だと考えるようになります。これは、結局のところ、小作人も不労所得を望むようになったということです。

粗悪な米を調製するような行為も、同じ思想から生まれた矛盾です。

こうして、地主も小作人も、共に働くことを嫌い、不労所得を求めるようになれば、村の平和は乱れ、農村は荒廃へと向かうしかありません。

政策としての小作保護

地主と小作人の利己的な争いが次第に激しくなり、人道の面から見ても、博愛の精神に反するようになってきました。社会の観点からも、互いに助け合うべき関係が裏切られ、農業の発展そのものが妨げられている状況に、私は深い憂いを感じました。

そこで私は、小作人を守るための政策を考えました。長年育まれてきた温情主義は、すでに弱まりつつありますが、完全に失われたわけではありません。まだその余温は確かに残っており、人生が本来、相互扶助の関係に支えられている以上、地主と小作人の間にも、平和の灯を再びともす可能性があると信じました。

小作人を保護するといっても、ただ守るだけの消極的な方法ではなく、自尊と自立を育てる積極的な保護を目指しました。そこで、以下の事業を選びました:

  • 肥料の貸付け
  • 耕牛の資金貸与
  • 家屋移転費の貸与
  • 害虫駆除費の補助
  • 災害時の救助

最初の四つは積極的な保護であり、小作人の不足を補い、生産を高めることを目的としています。最後の一つは消極的な救済ですが、これは愛の表れであり、自治体の当然の責任だと考えました。

こうした対策によって、小作人を支える実効性を高めようとしましたが、まずは資金を確保しなければなりません。その資金をどこから得るかが、最初の課題でした。

村会議員や有志の方々と協議した結果、「村費でまかなうしかない」という意見が出ましたが、私はそれでは不十分だと感じました。物質的な支援だけでは足りず、精神的な「愛の熱」が必要だと思ったのです。

そこで私は、地主こそがこの事業において、対人的な関係の中で出資者として最もふさわしい立場にあると考えました。協議の結果、我が村の田畑の所有者に対し、「一段歩につき毎年米一升を拠出し、十年間積み立てる」という方式を提案しました。

この積立は明治33年から始めることとし、徴収方法が次の課題となりました。村会で決議されたものであれば、徴収令状で対応できますが、今回は村会の決議によらないため、関係者の同意を得る必要がありました。これに不安を感じる人も少なくありませんでした。

そこで私は、深く考え抜いた末に、自らその先頭に立つ決意をしました。盲目という不自由な身でありながら、各戸を一軒一軒訪ねて、直接承諾を求めることにしたのです。

街に立つことに不安がなかったわけではありません。しかし、この事業が「愛の表現」として実行されることで、真の効果が生まれると信じ、私は理想に向かって勇気を持って進むことにしました。

田畑一段歩につき米一升という拠出は、確かに尊いものです。物質的にはそれほど大きな負担ではないかもしれませんが、地主が自ら進んで行う「能動的な愛」の表れであり、それこそが小作保護の本質だと考えました。

そして私は、こうした地主の愛は、小作人を守るだけでなく、地主自身をも救うものだと思いました。今の村の状況では、小作人だけでなく、地主もまた救われなければならないのです。

この事業を始める前に、地主に資金の拠出を求めることは、まず地主自身を救うことでもあります。もちろん「救う」という言葉には誤解もあるかもしれませんが、これは外からの救済ではなく、地主自身が自らを救うという意味です。

愛の自覚は、必ず自分自身をも救う力になります。だからこそ私は、地主が出資する機会にその自覚を呼び起こしてもらうために、自ら不自由な身をもって戸別訪問に立ち上がるという、困難な道を選んだのです。

戸別訪問に同情と誹謗中傷

小作保護のための積立米を集めるべく、私は戸別訪問の準備を進めていたところ、一通の無記名のはがきが届きました。それは、私に対する辞職勧告であり、小作保護の実行に反対する内容が記されていました。

ちょうど訪問を始めようとしていた時期だっただけに、これは「前途に困難が待っている」という強い予感を投げかけるものでした。

私は一斗ほど入る頭陀袋を作り、それを首にかけ、わらじを履いて戸別訪問に出かけました。その姿に驚いた人々は、「気でも狂ったのではないか」と噂しましたが、私は無心で訪問を続けました。

すると、四〜五人の青年が進んで助けに来てくれました。次いで小作人も、地主も加わり、多くの人々が車を引き、籠を担いで助けてくれました。多くの地主が快く米を拠出してくれましたが、中にはどうしても承諾しない人もいました。

何度訪ねても留守で、ようやく在宅と分かって訪ねても、また留守。こうした人々は、反対の意志を持っているのだと察しました。最終的に、こうした「留守の人」は十四人にのぼりました。

群集心理は、一部の人が同意しないとすぐに悪化します。一人でも米を出さない人がいると、それに同調する者が増え、すでに拠出していた人も「来年はやめようか」と思い始めるのです。

だからこそ、私は「民衆を相手にする仕事は、最後の一人に成功してこそ意味がある」と信じ、留守だからといって諦めることはせず、何度でも訪ねる覚悟をしました。十四軒のうち、最も多く訪ねた家は十七回、最も少ない家でも十回でした。

やがて、こうした人々から罵声や中傷を浴びるようになりました。中には「積立米を私している泥棒だ」とまで言う者もいました。さらに、村で長年続けてきた貯金制度についても、「私がこっそり使い込んでいる」との流言が広まり、貯金者を煽って引き出しを促す動きまで起こりました。

彼らは詭弁を弄して人々を惑わせ、連判状を作って村税の滞納を企てるなど、様々な妨害を仕掛けてきました。最後には、再び辞職勧告が私のもとに届きました。

これらの迫害は、私自身の至らなさに起因するものであり、小作保護の理想が誤っていたとは思いません。むしろ、迫害を受けることで、私は一層の勇気を得ました。

たとえ私自身に至らぬ点があったとしても、これらの迫害は暴言であり、非行です。私の心には、何ひとつ恥じるところはありません。心に恥じることがなければ、罵声や中傷も気にするに足りません。

私は「神と共に生き、神と共に働いている」と信じています。私の行いは、神がすべてご存じであり、ただ「神の意に背かないこと」を恐れているだけです。愚かと言われれば、それもよし。賊と誹られれば、それもよし。神は私を理想のある場所へ導いてくださると信じています。

だからこそ、迫害があっても私は保護米の回収に努めました。二百数十人の同情者から拠出された米は、実に四十石余りにのぼりました。この米は公売にかけ、基金の積立に充てました。

第一回の積立は明治三十三年十二月から翌年一月半ばまで、第二回は三十四年十二月、第三回は三十五年と、毎年四十石余りの積立米が続き、同情の光は絶えることがありませんでした。

反対者の中には、最初から承諾しない者も数名いました。彼らは米を出しませんでしたが、多くの人々はそれを気にせず、黙って受け入れていました。

しかし、当局者としての私は、一部に漏れがあることを非常に残念に思いました。たとえ他の人々が不満を口にしなくても、群集心理の不安定さを考えると、事業が破壊される可能性は否定できません。

そこで、明治三十六年に村会の決議を経て、全戸一律の徴収を実施しました。これにより、これまで拠出していなかった人々も均等に負担することになり、かえって彼らも感情的な立場から解放され、喜んで受け入れてくれました。だのです。

産米の改良に現れた小作人の感激

明治三十六年四月のことでした。まだ小作保護の積立米の実行中であり、物質的な支援は始まっていない時期でした。そんな折、私のもとに小作人の代表として三好清七さんともう一人が訪ねてきました。

二人は、積立米の制度に深く感謝していると述べたうえで、こう申し出ました。

「これまで地主の方々だけが積立をしてくださっていますが、私たち小作人も積立に参加させていただけませんか。地主だけに負担をお願いするのは、あまりにも虫が良すぎると思います。米の代わりに麦を出す形にして、金額が少なくなる分、年数を延ばしても構いません。麦の集荷は私たちが責任を持って行いますので、村長さんにご負担をかけません。」

この申し出を聞いた私は、心から嬉しく思いました。依存ではなく、自らの力で自らを救おうとするその姿勢は、小作保護の精神にぴったりと合致するものであり、彼らの自主性に深く感動しました。

しかし、あまりに喜びを表に出すと、かえって小作人に対して不親切になりはしないかと考え、慎重に言葉を選びました。

私はこう伝えました。

「皆さんが感謝してくださるのはありがたいことですが、その感謝の気持ちは本当に自覚されたものですか。積立は地主の拠出によって成り立っています。ならば、感謝すべき相手は私ではなく、地主の方々ではありませんか。

ところが、現実には約束を守らず、二斗三斗の端米を残したり、納期を遅らせたり、粗悪な米を納める小作人もいます。口では感謝と言いながら、行動が伴っていなければ、それは本当の感謝とは言えません。

私は皆さんに感謝されるためにこの事業をしているのではありません。皆さんの幸福を願っているからこそ、反対の声に苦しみながらも努力を続けているのです。

どうか、地主との約束を守り、良質な米を納めてください。それが皆さん自身の信用を高め、徳を積むことになります。米は私たちの命を支える食べ物です。その米を粗末に扱うことは、命を軽んじることにもなりかねません。

社会は、それぞれが自分の役割を果たし、互いに助け合うことで美しく成り立っています。皆さんがこの当然の務めを果たし、相互扶助の中に永遠の幸福を見出してくださることが、私の願いです。」

この言葉を聞いた二人の代表は、涙を流しました。

「私たちは心から感謝しています。積立は私たちのためのものですが、村長さんは不自由なお体で、寒い中を歩いて米を集めてくださり、しかも人々から攻撃まで受けておられる。せめて私たちが積立をすることで、村長さんのご負担を減らしたいと思ったのです。」

その後、小作人たちの間で協議が行われ、年末には小作米の品質が大きく改善されました。以前のような粗悪米は姿を消し、余土村の米は市場でも高く評価されるようになりました。

この変化は、小作人の誠意が米の品質に表れた証です。

明治三十七年の春、私はこの成果を広く示すために「産米品評会」を開催することを思いつきました。地主の方々に相談すると、快く賛同してくださり、小作米を地主の手から出品してもらうことになりました。

出品された米(二升)は、品評会の費用として地主から寄附され、小学校を会場に六百点以上の米が並びました。鶴本房五郎さんを委員長とする審査委員が等級をつけ、賞を授与しました。

見学者は村外からも訪れ、余土村の小作米がいかに改良されたかを、広く公に示すことができました。

翌年の明治三十八年には第二回品評会を開催し、今度は村の副業である伊予絣の織物も併せて出品することにしました。

小作保護に自らを救われた地主の目覚め

小作米の品質が向上したことで、最も直接的な利益を得たのは地主でした。これまでの粗悪な米は値段が安いだけでなく、梅雨までに売らなければ保存にも耐えられず、夏や秋の高値の時期まで待つことができませんでした。結果として、地主は大きな損を強いられていたのです。

ところが、我が村の小作米が改良されたことで、米の価値が上がり、しかも長期保存が可能になりました。これにより、最も有利な時期に売ることができるようになり、地主の利益は大きく増しました。

一方、小作保護の事業はまだ基金の積立中であり、具体的な支援は始まっていません。つまり、小作人は「保護」という言葉だけを聞いている状態で、実際の恩恵はまだ受けていないのです。

それにもかかわらず、米の改良は小作人の誠実な努力によって成し遂げられたものであり、地主たちもその事実に心を動かされました。主我欲に囚われていた地主も、小作人の誠意に感激し、積立基金や品評会への出資を快く引き受けるようになりました。

明治三十七年十二月、我が村の大地主である先代・森彌三郎さんが私のもとを訪れ、こう言いました。

「最近の小作米の改良には本当に感謝しています。そこで、小作人への保護を予定通り実行していただけませんか。せめて肥料の貸付だけでも始めていただけないでしょうか。」

私は答えました。

「肥料の貸付は最も必要な支援ですが、まだ資金の積立中で、着手するには時期尚早です。」

すると彌三郎さんは、黙って一千円を持参し、

「これを資金に加えて、肥料の貸付を実行してください」

と申し出てくれました。

すでに積立金は二千円ほどありましたから、これで肥料資金としては十分です。私は念のため、利息について尋ねました。すると彌三郎さんは、こう答えました。

「利息は要りません。肥料を施せば土地が肥えます。それが私たち地主の利益です。元金さえ戻していただければ、それで十分です。」

この言葉を聞いた私は、まるで雷に打たれたような衝撃を受けました。無利息でも、施肥によって土地が肥えることが利益になる――これは、地主と小作人の関係を根本から捉え直す、まさに至言でした。

土地は使えば使うほど地力が落ちるのが原則です。施肥をしなければ、地味は痩せ、生産量も減り、地主の財産価値も下がってしまいます。だからこそ、肥料を施す力のない小作人に支援することは、地主自身の財産を守り、育てることでもあるのです。

彌三郎さんは、そのことを深く理解していました。さらに言えば、小作人の手足は、耕作をしない地主の代わりに働く「手足」そのものです。その働きによって、土地は経済的価値を生み出しているのです。

つまり、地主と小作人は「異身同体」であり、経済的にも運命を共にする存在です。彌三郎さんは、小作保護が地主自身を救う道でもあることを、心から理解していたのです。

つまり、地主と小作人は「異身同体」であり、経済的にも運命を共にする存在です。彌三郎さんは、小作保護が地主自身を救う道でもあることを、心から理解していたのです。

私はこの考察を深めるにつれ、彌三郎さんの人格に深い敬意を抱かずにはいられませんでした。そして、我が村の地主の中に、こうした人物が一人でもいるという事実に、小作保護の理想がすでに実現へと向かっていることを感じ、思わず天に向かって感謝しました。

こうして、積立の終期を待たずに、小作保護の事業に着手することを決定しました。

ちょうどその頃、日露戦争が勃発し、国の財政が逼迫したため、明治三十七・三十八年の両年は積立米の拠出を中止することになりました。しかし、これまでの積立金と、彌三郎さんの提供してくれた肥料資金によって、小作保護の事業は無事に実行されることとなったのです。

肥料貸付の恩恵に呼び起こされた小作人の躍動

明治三十七年、我が村では小作人への肥料貸付が始まりました。麦作のための肥料を共同購入し、無利息で貸し出すという制度です。

この支援は、小作人の心に大きな衝撃を与えました。これまでの彼らは、利己的な考えに囚われ、農業に対しても真剣に取り組む姿勢が乏しい者も少なくありませんでした。しかし、肥料の貸付によって、彼らの心理は一変し、勤勉に、真摯に農業に取り組むようになったのです。

それまで、小作人は肥料を使いたくても資金がなく、やむなく施肥を諦めるか、借金して高利を払うしかありませんでした。凶作に見舞われれば、肥料代は借金となり、数年にわたって返済に苦しみ、子どもの教育すらままならないという悲しい現実がありました。

そのため、施肥はほとんど行われず、行ってもわずかで、地力を維持する程度に過ぎず、収穫の増加など望めるものではありませんでした。

当時は、田園を見れば、小作農か自作農かが一目で分かるほど、作物の出来に差がありました。ところが、無利息で肥料を借りられるようになり、収穫が増えると、小作人の心は自然と変わっていきました。

隣の田では肥料の効果で作物がよく育っているのに、自分の田では発育が悪い――この差が、働く意欲を失わせていたのです。その心理を思えば、同情せずにはいられません。

しかし、肥料の貸付によって、自分の麦が大きく育ち、稲が青々と伸びるのを目にしたとき、小作人は心の底から喜びを感じました。その喜びは、単なる利益を超えた「働くことの悦び」であり、害虫を駆除し、雑草を取り除く作業も苦にならず、むしろ楽しんで取り組むようになりました。

こうして心理が変わったことで、農業の改良も実績を上げるようになりました。

かつては一目で区別できた小作農と自作農の差も、今では見分けがつかないほどになり、収穫も増え、生活も安定してきました。年中の飯米すら蓄えられなかった小作人も、次第に力をつけ、使用人を雇って農業を拡張する者まで現れるようになりました。

このように、小作人の心理が変わり、生活が安定したのは、まさに小作保護の成果です。

しかし、さらに深く考えると、これは小作人自身が、自らの責任を果たし、米の品質を改善しようと努力した結果でもあります。つまり、今日の幸福は、彼ら自身の自主的な行動によって得られたものであり、「自らが自らを救った」と言うべきでしょう。

そして、その背後には、地主の深い同情と協力がありました。地主にとっても、小作人への支援は「義務」ではなく、自らの財産を守るための「職分」でもありました。

小作米が高く売れるようになったことで、地主の利益も大きく増えました。以前は、小作人が約束を守らず、納入が不安定だったため、地主は常に不安を抱えていました。しかし今では、確実に納入されるようになり、結果として小作料が上がったのと同じ効果を生んでいます。

さらに、土地の価値も上がり、地主の財産は大きく増えました。小作人の得た利益よりも、地主の得た利益の方が、何倍も大きかったと言えるでしょう。

つまり、地主が小作人に厚い同情を注いだことは、結果として「自らを救った」ことでもあるのです。

地主も小作人も、それぞれが「自らを救った」――この事実は、両者の利害が一致していたからこそ生まれたものです。

だからこそ、地主と小作人が利己心に囚われて争えば、双方にとって不利益しかありません。反対に、互いに助け合えば、そこにこそ永遠の幸福が見出されるのです。

小作保護の転換と共同経営

日露戦争の頃、小作保護のための積立米制度は中止され、その後も再開されることはありませんでした。しかし、小作人への肥料貸付は継続されました。

この肥料貸付を「小作保護」という名目で続けることに、やがて疑問の声が上がりました。小作人が肥料を借りて利益を得るのは確かですが、地主もまた、地力の維持や米の品質向上によって大きな利益を得ています。つまり、肥料貸付の恩恵は、地主と小作人の双方に及んでいるのです。

それにもかかわらず、「小作保護」という一方的な呼び方を続けるのは、実態にそぐわず、小作人を侮辱することにもなりかねない――そうした認識が広まり、ついに「小作保護」という名称は廃止されました。

これは、地主も小作人も、現実を見つめて理解を深め、自らの責任を自覚した結果であり、思想の進歩を示すものでした。

名称は廃止されても、肥料貸付などの事業は続けられました。その後、産業組合が設立され、資金の融通や肥料の共同購入などの事業を引き継ぐことになりました。

「名は実の賓(ひん)である」と言われるように、実質は変わらず、名称だけが置き換えられたのです。この名称の転換は、地主と小作人の関係に対する思想の変化を示すものであり、「小作保護」という言葉が矛盾であると自覚したこと自体が、新しい思想の芽生えだったのです。

かつては、地主と小作人の関係は従属的なものと見なされていました。その時代には「小作保護」という言葉に違和感はなかったでしょう。しかし、思想が変化し、両者が対等な立場で協力し合う方向へと転換したことで、産業組合という相互連帯の組織が生まれました。

このような変化の中でも、かつての温情的な愛の精神は失われることなく、むしろ一層深まっていくべきものだと思います。産業組合もまた、共同繁栄の愛の中に生まれ、その愛の中で育っていくものです。

私は、産業組合がまだ実施されていない時期に、地主と小作人が円満に、共に幸福に暮らすためには、愛と同情に基づく関係が必要であると考えました。しかし、それだけでは不十分であり、経済的な現実を踏まえた生活の安定がなければ、真の融和は実現できないとも思いました。

社会の経済状況は常に変化し、生活水準も次第に高まっていきます。そうした中で、地主と小作人の間に利害の不一致が生じ、生活の困難から激しい争いが起こることもあるでしょう。

だからこそ、我が村の将来において、地主と小作人の平和を保つためには、愛の精神に基づいた「共同自治の農業」が必要だと考えました。

その対策として、村全体の土地を生産組合が管理し、組合員が共同で耕作することで利益を高め、地主・小作人・自作農が協力し合い、共同分配によって統一された経営を行う――そのような理想を私は主張しました。

この考えは、当時の雑誌『斯民(市民)』にも発表し、世間の批判を受けましたが、私の退職後、その理想の一部が我が村の産業組合によって実現されることとなりました。

この実現の経緯については、次の章で述べることといたします。

参考文献

[1] 『体験物語 我が村』天心園発行、昭和二年二月五日発行

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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