『我が村』は、盲目の政治家・教育者・俳人として知られる森盲天外が、自らの体験と信念を綴った実体験記録である。伊予・余土村の風土と人々の営みを背景に、幼少期の公民感化、庄屋としての責務、そして村長としての実践を通じて、地方自治の理想と共存共栄の精神が静かに、しかし力強く語られている。
体験物語には、森盲天外自身が身をもって歩んだ道、寒風の中で頭陀袋を携えながら小作人の戸を叩いた日々、盲目の身でありながら村政に尽くした実践の記録が、血肉をもって刻まれているのである。
本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。
※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。
意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
◆第16章 産業組合と小作地管理◆
信用組合の活動と機能発動の要件
我が村の産業組合は、明治四十一年に創立されました。初代組合長・鶴本房五郎氏の熱心な努力によって、組合は順調に発展していきました。
組合は、信用・購買・販売・生産の四つの部門に分かれており、その中でも「信用組合」は、我が村にとって最も重要な役割を担っています。
信用組合は、一方で資金の貸し出しによって産業の発展を促し、もう一方で貯金によって資金を充実させ、村の経済力を高めるという、非常に重要な機能を果たしています。
創立以来、農業や副業である織物の発展に大きく貢献してきました。特に、民衆の手による機関として、この組合が「小作保護」の実践によってさらに民衆化されたことは、忘れがたい記憶です。
我が村の信用組合が創立当初から有意義に活用されてきたのは、長年にわたって小作人への肥料貸付を行ってきたことが背景にあると思われます。
また、組合の資金は、組合員の出資と貯金によって支えられており、これが健全な発展のための条件となっています。
明治三十四年から始まった「日曜貯金」は、組合の資金を得るうえで非常に都合の良い仕組みでした。信用組合では、普通預金のほかに定期預金や約束預金なども扱っていますが、我が村の組合資金は、ほとんどが出資と貯金によって成り立っており、これが信用組合の健全性を物語っていると言えるでしょう。
購買組合と市価の変動による若き経験
我が村では、産業組合ができる以前から、すでに共同購買の取り組みが始まっていました。特に、小作保護の時代から、肥料の共同購入を試みていたのです。
この試みは、私たちにとって初めての経験であり、何度も失敗を重ねました。小作人に対して、できるだけ効果的な肥料を安く提供したいという思いから、豆粕などを神戸の業者と直接取引しようとしました。しかし、慣れない取引では運賃が高くつき、品物の破損も多く、結局は地元の商人から購入するのと変わらない結果になってしまいました。
さらに、市価が下がると予約者が品物を引き取らず、市価が上がると在庫のない品まで要求されるなど、損失を招くこともありました。
こうした長年の経験は、後に購買組合が創立された際に、大いに参考となったと思います。
組合で取り扱う購買品目は、肥料、農具、食塩、石油、重油などに限られています。その範囲を広げすぎないのは、過去の失敗から学んだ結果です。価格変動が激しいもの、傷みやすいもの、腐りやすいものは、組合事業として扱うにはリスクが高いことを経験から知っていたのです。
肥料は毎年多くの需要があるため、組合の購買事業の中心となっています。経験を重ねることで、要領を得て、良好な成果を上げるようになりました。
また、かつて専売所から煙草の茎を払い下げてもらい、肥料として活用したこともあります。茎は喫煙料として使われることが多く、払い下げの許可を得るのは容易ではありませんでしたが、「公益のため」という理由で、知事が警察の監督のもとで許可を出してくれました。
ただし、許可の条件は厳しく、手続きや費用もかかるうえ、原価が次第に高騰したため、最終的にはこの事業は廃止されました。
こうして、さまざまな経験を積み重ねた結果、今では配合肥料の調製も行い、それを販売するまでに至っています。
購買組合と価格の公正
我が村の販売組合では、米と麦の二種類のみを取り扱っています。米と麦は、村の主要な農産物であり、特に米は、村内の消費を差し引いても、なお七千石もの供給余力があります。
そのため、組合が米や麦の販売を担うことは、村の生産者にとって非常に重要な役割を果たしています。
組合では「米券」も発行しており、取引の利便性を高めています。また、附属の精米所も備えており、県立師範学校の宿舎や、松山市内の一般需要者に対して白米の小売も行っています。
精米された米は、松山市や三津ヶ浜町の市場に出されるほか、時には陸軍糧秣省(軍の食糧部門)にも納品されています。
このような販売機関が整備されたことで、たとえ組合を通さずに米を売る場合でも、常に公正な相場が保たれるようになりました。その結果、悪質な業者に買い叩かれるような不正もなくなり、生産者が安心して米を売ることができるようになったのです。
生産組合と農業倉庫
我が村の生産組合では、農業倉庫を設けて、組合員が自由に利用できるようにしています。倉庫は、大字市坪と余戸にそれぞれ建てられ、合計三棟あります。
余戸にある二棟の倉庫は、組合事務所のすぐ前にあり、余戸停車場にも隣接しているため、輸送や積み込みに非常に便利です。また、この倉庫は郡農会の倉庫とも連携しており、支所のような役割を果たしています。米券も発行されており、利用の幅が広がっています。
生産組合が農業倉庫を運営する目的は、生産物の保管と売買の利便性を高めることにあります。しかし、それだけではありません。組合はもう一つの重要な業務として「小作地の管理」も担っています。
つまり、土地の所有者が自分で耕作しない場合、その土地を組合が預かり、組合員に貸し出して活用してもらう仕組みです。
これは、地主と小作人が直接契約すると、利害の対立から争いが起こりやすいため、組合が間に入ることで、両者の間に「緩衝地帯」を設け、関係を円滑に保つことを目的としています。
このように、生産組合は単なる経済組織ではなく、村の人間関係を調整し、平和と安定を守る役割も果たしているのです。
小作地の管理と委員制度
我が村の生産組合では、設立当初から定款に「小作地管理」の条項がありましたが、大正3年の時点では、わずか2人の地主が16町余りの土地を預けただけで、実際の管理は小作米を受け取って地主に渡す程度にとどまっていました。
私は村外に住んでいても、常に余土村のことを心から離すことができず、温泉郡地方研究所の立場から見ても、この小作地管理制度がごく一部の土地にしか適用されていないのは非常に残念であり、時代の要請として本格的な実施が必要だと、たびたび働きかけてきました。
しかし、時期がまだ熟していなかったのか、大正10年までは状況に大きな変化はありませんでした。
ところが、第一次世界大戦後の社会思想の影響により、全国的に小作争議が頻発するようになり、我が村でも不安が広がりました。大字保免でも小さな争いが起こり、その影が見え始めたことから、いよいよ小作地管理を本格的に実施すべき時が来たと判断されました。
鶴本房五郎氏、森彌三郎氏らの熱心な尽力により、大正11年初頭、地主45名から合計143町9反歩の土地が組合に委託されました。組合は定款を修正し、「小作地管理業務細則」を定め、いよいよ本格的な管理が始まりました。
組合長の森彌三郎氏は、村の中でも有数の地主であり、その熱意がこの制度の急速な実現を後押ししました。
これまで小作料(利用料)は、地主と小作人の間で決められていましたが、多くは過去の慣例に従い、地主の都合で決められていたため、小作人には契約の自由がないという批判もありました。
そこで、組合が管理するにあたっては、小作料の決定方法が極めて重要な課題となりました。これを公平に決めるために、「委員制度」が導入されました。
業務細則に基づき、地主側から7名、小作人側から7名、さらに中立的な立場として自作農から7名、計21名の委員による自治的な委員会が組織され、小作料の査定を行うことになりました。
この制度は、地主と小作人が対等に委員を出し合うことで、自治の精神を体現するものであり、小作人に契約の自由がないという批判を解消するものでした。自作農を加えたのは、第三者の立場から公平な判断を下すためです。
委員会は管理地をいくつかの区域に分け、各区域ごとに委員が地質、耕作のしやすさ、水はけの良し悪しの3項目について査定票を用いて評価しました。従来の小作料も参考にしつつ、査定額に大きな差がある場合は、委員の合議によって適正な額が決定されました。
初めての試みであったため、完璧とは言えなかったかもしれませんが、地主・小作人双方が等しく委員を出し合い、自由意志を尊重して決められたことにより、双方ともに納得し、満足の意を示しました。
こうして決定された小作料に基づき、小作人と組合の間で契約が結ばれ、同時に地主と組合の間でも契約が締結されました。
もし凶作などで小作料の減額を求める場合があれば、その審査と決定も委員会が行います。つまり、利用に関するすべての問題は、この委員会が決定するのです。
これは、もはや地主と小作人の対立ではなく、両者を含む「全体」としての機関が判断することであり、まさに「緩衝地帯」としての役割を果たすものです。
こうして毎年、小作人は利用料を組合に納め、組合は農業倉庫を活用して小作米を保管し、地主には希望に応じて米券または現物で所定の小作料を渡します。
この仕組みによって、農業倉庫の利用もさらに拡大されました。また、組合は地主から管理手数料を受け取りますが、それは小作料を渡す際に差し引かれる形となっています。
小作地の自治管理と将来起こりうる問題への対策
我が村で新たに始めた小作地の自治管理は、時代の流れもあって世間の注目を集めましたが、実際にはまだ始まったばかりで、委員会によって小作料を決めたという段階にすぎません。
現在のところ、地主も小作人も不満を口にしていませんが、これで問題がすべて解決したと考えるのは早計です。
我が村では、土地の利用価値を「地質」「耕作のしやすさ」「水はけの良し悪し」の三つの観点から査定し、小作地を等級に分け、それに応じて小作料を決めました。しかし、これはあくまで土地そのものの「質」を比較したにすぎず、経済的な原則に基づいた小作料の設定とは言えません。
本来、小作料は「その土地から得られる利益」に対して、どれだけを地主と小作人で分け合うかという視点、つまり「企業経済の原則」に基づいて決めるべきです。
たとえば、余土村では土地を31等級に分け、最下等(零点)を九斗とし、等級が一つ上がるごとに三升を加えるという方式を採用しました。しかし、この「九斗」や「三升」という基準が、どのような原則に基づいて決められたのかは明確ではありません。
このように、小作料の決定方法こそが、地主と小作人の利益配分の核心であり、争議が起こる原因も、まさにこの点にあるのです。したがって、今後は企業経済の視点から、より合理的な基準を設ける必要があります。
とはいえ、今回の試みで、土地の利用価値に基づいて等級を定めたことは、大いに評価すべき進歩です。ただし、それに基づいて決められた小作料が、経済的に妥当であるかどうかは、今後の課題として残されています。
つまり、我が村の自治管理制度は、まだ小作問題を完全に解決したとは言えません。しかし、地主と小作人の双方から選ばれた委員によって自治的に決定されたという事実は、将来の小作問題に対する「権威ある仕組み」として、大きな意味を持つのです。
第一に、これまでの小作料は地主の一方的な意志で決められており、小作人がそれを「承諾」したとしても、実際には自由な意思に基づくものではなかったと考えられます。そのため、収穫が減るたびに減額を求めるなど、契約を守る意識が希薄になるのも無理はありません。
しかし、今や小作人自身が選んだ代表が委員となり、その委員会で小作料が決められるようになったことで、小作人の人格が認められ、地主と対等に扱われるようになりました。これは、小作争議を和らげるための大きな一歩であり、制度としての「権威」を持つものです。
第二に、今後も地主と小作人の間で利害の対立が起こることは避けられないでしょう。しかし、両者の代表によって構成された委員会であれば、互いの意思疎通がしやすくなり、感情的な対立に陥ることなく、理性的で平和的な解決が可能になります。
人と人が互いに思いやることは、人間社会における最高の道徳です。社会の発展も、そうした「愛と理解」の力によって導かれてきたのだと思います。地主も小作人も、互いに相手の立場を理解し、共に利益と幸福を見出すことが大切です。
ただし、温情だけでは問題は解決しません。経済的な利害は、生活の現実から生まれるものであり、それを無視しては根本的な解決には至りません。だからこそ、地主も小作人も、それぞれの正当な主張を抑え込むのではなく、自由に表現し合える場が必要です。
そのためには、両者の代表によって構成された委員会が、自由な意思のもとで議論し、理性的な判断を下すことが最もふさわしいのです。この委員会こそが、将来起こりうる問題に対しても、信頼される「権威」となり得るのです。
以上の二つの理由から、私は我が村の小作地管理と委員制度に深く賛同しています。
土地の私有制度を廃止し、国有とすることが小作争議の最終的な解決策かもしれませんが、それを実現するには多くの困難が伴い、すぐには実現できないでしょう。
だからこそ、すでに争議が起こりつつある今、我が村のような自治管理の仕組みが必要なのです。たとえまだ不完全であっても、今後さらに研究と改善を重ねていけば、必ずや所期の目的を達成できると私は信じています。
自治管理の機能発揮による地主・小作の共立
地主と小作人の関係を詳しく考えると、さまざまな争点が見えてきます。小作権の認定、契約の自由、利益の分配など、法律で扱うべき問題もあれば、両者の関係性によって解決されるべきものもあります。
仮に土地の国有化が実現したとしても、なお多くの課題は残るでしょう。だからこそ、現行の私有制度のもとで、これらの問題に向き合わなければならない今は、非常に困難な時代だと言えます。
政府もすでに「小作問題調査委員会」を設けて、この問題の研究を進めています。私は、将来的に法律で定められるべき問題についてはここでは触れず、現時点で最も争いの火種となっている「小作料」の問題に焦点を当てたいと思います。
現在、多くの小作人が「小作料が高すぎる」として、一割から二割の引き下げを求めています。確かに、今の農業経済では小作人の収入は非常に少なく、工業労働者の賃金よりも低いのが現実です。企業としての利益など、ほとんど期待できません。こうした生活の困難から、引き下げ要求が生まれているのです。
しかし、現在の小作料が「高すぎる」とされる根拠や、引き下げの「適正な水準」が何に基づいているのか、明確な原則が示されていないことは残念です。今後、小作料の決定は「企業経済の原則」に基づいて行われるべきだと私は考えます。
単に自分の利益だけを求めるのでは、利己的な争いにすぎず、それは健全な社会のあり方ではありません。
我が村では、こうした利己的な争いを避け、公正な原則に基づいて問題を解決するために「自治管理」の仕組みを導入しました。すでに委員会による小作料の査定が行われましたが、これは土地の質や条件を横の視点から比較したものであり、企業経済の縦の視点からの査定はまだ不十分です。
この点は今後の課題ですが、すぐに原則を適用できない理由もあります。というのも、企業経営が進歩すれば、収益が増える可能性があるため、原則の適用によって小作料に変動が生じるからです。
たとえば、現在一反あたり米が二石八斗収穫できるとして、小作料が一石四斗だと「高すぎる」とされるかもしれません。しかし、肥料の改良や組織の工夫によって収穫が三石になり、生産費が減れば、一石四斗の小作料も妥当なものとなるでしょう。
我が村では、自治管理の機能を発揮することで、こうした経済的な緩和を可能にする確信を持っています。今はまだ始まったばかりで、十分に機能を発揮しているとは言えませんが、年々制度を充実させていけば、真の経済原則を適用できる時が来ると信じています。
現在の小作人は、得られる収入が低く、企業家としての利益はほとんどありません。だからこそ、小作料の引き下げを求めるのは当然のことです。
しかし、一割や二割の引き下げで満足できるかといえば、そうではありません。企業経済の原則に基づいて考えれば、それだけでは十分な利益を得ることはできず、さらに引き下げが必要になるでしょう。
その結果、地主の負担は重くなり、生活が困難になる可能性もあります。小作人に適正な利益を与えようとすれば、地主の利益は大きく減ることになるのです。
このような状況は、経済全体の不安定さを招く恐れもあります。だからこそ、小作料の設定と同時に、農業の利益を増やす方法を考えることが急務です。
かつては米価を上げるために不売同盟などの運動も行われましたが、米は世界中で生産されているため、日本だけで価格を操作することは難しく、仮に成功しても一時的な効果にすぎません。
本当に利益を増やすには、収穫量の増加と生産費の削減に取り組むことが賢明です。我が村では、長年の研究の結果、共同耕作によって農業利益を増やすことができると確信しています。
地理的な条件から、大規模な農業組織の実現は難しいかもしれませんが、村全体で共同耕作を行えば、生産費を減らし、利益を増やすことが可能です。
生産組合では、共同耕作や共同利用を管理し、肥料の適切な使い方を研究・実施することで、統一的な効果を得ることができます。資金の融通も組合を通じて行えるため、利益の増加が期待できます。
このようにして、我が村の土地管理はさらに一歩進み、共同利用が可能な部分については、完全な自治的産業化を目指しています。
この実現によって、小作料の査定も緩和され、地主と小作人の両立が可能になると、私は強く期待しています。すでに十数年にわたって共同耕作の基盤を築き、一部では実際に共同耕作が行われており、準備と訓練は整っているのです。
◆第17章 共同の訓練と愛の酵母◆
共同苗代と揚床式
稲作において、収穫の良し悪しは苗代の出来に大きく左右されると言われています。つまり、苗代の改良は農業全体の改良の出発点であり、最も重要な課題の一つです。
我が村では、苗代の改良に早くから取り組んできました。明治27〜28年頃から、鶴本、今井、粟田、五十騎などの人々が個人で苗代の改良に着手し、後には苗代を短冊形に整えて、播種・除草・害虫駆除などの作業がしやすくなるよう工夫しました。この方法は後に県令によって県全体に広められました。
こうした先進的な取り組みの結果、我が村の苗代はすでに十年以上にわたって「理想に近い苗代」として広く認められるようになりました。
この苗代は「揚床式」とも呼ばれています。従来の平らな短冊形苗代に改良を加え、土台を高くしてその上に種をまく方式です。整地、播種、肥料、防草砂など、改良のポイントは多岐にわたりますが、最大の特徴は「理学的な応用によって健全な苗を育てる」という点にあります。揚床式は、まさにその機能を発揮するための工夫なのです。
苗代の改良だけでなく、その設置場所についても早くから配慮されてきました。個人の苗代が村内に点在していた頃は、灌漑水が周辺の麦畑を湿らせてしまい、被害が少なくありませんでした。そこで、苗代を集約する動きが進み、十数年前からは完全に「共同苗代」へと移行しました。
現在では、村全体の耕作者が一つの組合をつくり、村農会長がその組合長を務めています。村は十二区に分けられ、各区に一人ずつ管理者が選ばれています。苗代の面積は年によって多少の変動がありますが、平均して約七町四反歩ほど。市坪に三ヶ所、保免に四ヶ所、余戸に四ヶ所と、地域ごとに分散されています。
共同苗代の利点は多く、灌漑の効率が良くなるだけでなく、労力の節約や雑費の削減にも大きな効果があります。個人苗代と共同苗代の費用を比較すると、移植田一段歩あたりの費用は、個人苗代が三円五十五銭一厘、共同苗代が二円六十三銭七厘。差額は九十一銭四厘となり、村全体の三百六十四町歩に換算すると、年間で三千六百円以上の節約になります。
しかし、共同苗代の価値は単なる経費の節約にとどまりません。監督体制や技術面でも優れており、共同で育てた苗は非常に質が高く、収穫の成否を左右する重要な要素となっています。つまり、苗代の改良と共同作業は、村の農業の根幹を支える鍵であり、経済的効果以上に、村の心と収穫を育てる力なのです。
共同田植えと能率の向上
我が村では、田植えも組合によって組織的に行われています。村は十二区に分けられ、各区に一人の管理者が選ばれます。組合員は、自分が植える田の面積を申告するとともに、田植えに従事する人の氏名と年齢を届け出ます。
これにより、組合は田の位置や面積を把握し、図面を作成します。そして、作業に従事する人々を、代掻き・苗取り・移植・苗の配達・監督といった部門に分け、適材適所に配置します。
こうして、見事に組織された活動が始まります。蓑笠をかぶって苗を取る人々の頭上にはホトトギスの声が響き、古歌に詠まれたような田植えの風景が広がります。代掻きの牛が叱咤の声に応えて行き来する田には、紅白の旗が立てられています。
この旗は、田に植える苗の種類を示すもので、紅は「神力」、白は「相徳」といった具合に分類されています。苗代から運ばれる苗も、旗の色に合わせて配られます。
続いて、早乙女たちの移植隊が出動し、自転車の伝令が苗の過不足を報告しながら走り回ります。このように、まるで戦場のような緊張感と活気の中で、次々と作業が進んでいきます。
この組織的な活動は、個々の能力を最大限に引き出すだけでなく、足りない力も補い合い、全体の能率を大きく高めるものです。
たとえば、移植作業では10人から15人ほどのチームを組み、定規を使って角度を正確に保ちながら作業を進めます。この定規の角度が少しでもずれると、植え方が乱れてしまうため、リーダーには相応の知識と判断力が求められます。
一方、定規に沿って苗を植える作業は、女子や子どもでも簡単にできるようになっており、15〜16歳の少女でも、組織の中では立派に一人前の働きを見せます。これは、まさに「組織の力」が生み出す成果です。
従来の田植えでは、他村から200人〜300人もの人を雇い、多額の賃金を支払っていました。しかし、組織的な共同作業によって、こうした外部労働力に頼る必要がなくなり、能率の向上が明らかになりました。
個人ごとに行う田植えでは、忙しく働いても能率が上がらず、無駄な労力が多く発生していました。たとえば、子どもでもできる作業に大人があたるなど、労働力の無駄遣いが多く見られました。
しかし、共同作業では、多くの人の力を適切に分配できるため、こうした無駄がなくなります。また、外部から人を雇う必要がなくなることで、宿泊や接待の手間や費用も省けます。各家庭から「手弁当」で出かけるため、気苦労も減り、経済的にも大きな節約になります。
実際に、個人で田植えを行った場合の費用は一反あたり2円95銭かかりますが、共同田植えでは2円30銭で済み、65銭の節約になります。村全体で見れば、これは非常に大きな効果です。
共同の灌漑と利用価値の増加
水稲の作付けが多い我が村では、田んぼへの水やり(灌漑)に多くの時間と労力がかかっていました。特に、田んぼが村のあちこちに点在しているため、水を引くたびに長時間の見張りが必要で、他の作業に手が回らないという問題がありました。
たとえば、せっかく水を引いても、他の人が堰を勝手に開けてしまえば、水が流れ出てしまうこともあり、2〜3時間も無駄に立ち番をしなければならないこともありました。
こうした状況は、特に夏場になると深刻で、昼夜を問わず灌漑に時間を取られ、農業経済にとって大きな損失となっていました。
そこで、我が村では数年前から「共同灌漑」の仕組みを導入しました。村をいくつかの区に分け、それぞれに担当者を置き、水利組合の監督のもとで、全体を統一して水を管理する体制を整えたのです。
田植えの時期から90日間を「配水期間」と定め、その間は個人での灌漑を禁止し、担当者が合理的に水を配分しました。その結果、農作物の生育も良くなり、干ばつの時期にも被害を最小限に抑えることができるようになりました。
さらに、これまで井堰(いせき)が異なるために水を融通し合えなかった地域同士も、共同灌漑によって水を共有できるようになり、村全体の農業に大きな利益をもたらしました。
こうして水の利用が組織化された結果、村全体で水に余裕が生まれ、ついには隣村にまでその恩恵を分け与えることができるようになりました。
たとえば、生石村の久保田・富久という二つの集落は、土地は肥沃でも水が不足していたため、耕作に苦労していました。ところが、我が村の耕地整理と共同灌漑の成果によって余剰水が生まれ、それを分け与えることで、隣村にも利益をもたらすことができたのです。
この共同灌漑にかかる費用は、大正元年から毎年、一反あたり米一升以内というわずかな負担で、90日間の灌漑が行われています。これほど少ない費用で大きな価値を生み出せるのは、まさに「共同の力」の賜物です。
もしこれが個人任せの灌漑であったなら、かかる労力と時間は計り知れません。
このような経済的な利益だけでも、共同灌漑の意義は十分に理解できますが、それ以上に大切なのは、隣村にまで水を分け合うという「愛の実践」が生まれたことです。
かつては、水をめぐって村内でも争いが起こり、隣近所でいがみ合うこともありました。しかし、共同灌漑の導入によって、そうした争いの種が取り除かれ、村には友愛と平和の空気が満ちるようになったのです。
共同作業によって生まれた労力の余剰
我が村では、さまざまな共同作業を行ってきた結果、労力に余剰が生まれました。これは、共同作業によって作業の効率が上がり、必要な労力が減ったことによるものです。その結果、生産費も減り、農業経済の面から見ても非常に有利な成果となりました。
しかし、労力の節約は、それだけでは経済的な意味を持ちません。余った力を「生産」に活かしてこそ、真の価値が生まれるのです。
この点で、問題が生じました。長年続けてきた共同苗代では、少人数で苗代作業が完了するようになり、多くの人が関わらなくなりました。以前は村の皆が苗代づくりに従事していたのに、今では一部の人だけで済むようになったため、関わらなくなった人々にとっては「自分の労力が節約された」という実感が持てないのです。
その結果、苗代費の負担に対して不満が生まれました。移植田一反あたり2円20銭余の費用を負担しなければならず、個人で苗代を作っていた頃なら、たとえ非効率でも費用をかけずに済んでいたのに、今は費用を支払わなければならない――このことが苦痛に感じられるのです。
つまり、節約された労力が「生産化」されていないために、共同作業の恩恵が実感されず、不満につながってしまうのです。
この問題は、共同苗代だけでなく、共同灌漑にも同様に見られます。だからこそ、我が村では「余った労力をどう活かすか」に特に注意を払い、その生産化に努めてきました。
具体的には、以下のような取り組みを行いました:
- 雇人の削減:以前は多くの人を雇っていた農家も、共同作業によって必要な人手が減り、雇用費を節約できるようになりました。
- 副業の振興:婦人の活動を促し、家庭内でできる副業を広めることで、生産力を高めました。男女の労働分野を明確に分けることで、さらに効率を上げました。
- 堆肥の改良と自給経済の推進:肥料の自給を目指し、堆肥の改良に取り組むことで、外部への依存を減らしました。
このように、余った労力を「消極的な節約」と「積極的な生産化」の両面で活用し、農業の改良と副業の発展に役立ててきたのです。
永遠の共同墓地
私は今、村の外に住んでいます。けれども、どこに暮らしていても「我が村」という存在が、私の心を強く揺さぶり続けています。それは私だけではなく、誰もが他の土地にあっても、故郷という深い絆に引き寄せられているのではないでしょうか。
この力は、村の自然や隣人との温かな関係によって育まれた「抱擁力」によるものです。そしてもう一つ、祖先から私たちへと受け継がれてきた命の連鎖が、私たちを村から離れさせないのです。たとえ何百里も離れていても、その絆は断ち切ることができません。祖先の眠る場所としての「墓地」が、私たちを村へと引き戻す鎖となっているのです。
石手川の堤に並ぶ松の木陰――そこは祖先が永遠の眠りにつく場所です。私はその墓を訪れ、祖先を弔うたびに、寂しさの中から新たな力を得て、沈黙の中に語られる祖先の声を聞くような気持ちになります。
祖先を敬う文化を持つ日本では、こうした縦のつながりがとても強く、かつては旧家の敷地内に20坪ほどの墓地を持つ家も多くありました。村の中には、宅地内に墓地を持つ家がたくさんあり、また小さな共同墓地も点在していました。
しかし、墓地が散らばっていることは衛生面でも好ましくなく、また家ごとに墓を持つという「個人主義的な気分」が強まることで、社会全体としての「共に生きる」感覚が薄れてしまうように思います。
そこで、我が村では耕地整理の機会を活かし、散在していた墓地をそれぞれの大字ごとに一ヶ所ずつ集約し、共同墓地として整備しました。これらの墓地は、耕作には向かないものの景観の美しい場所を選び、「永遠の安らぎの地」として定められました。
三ヶ所の共同墓地には管理人の住居が設けられ、隣には斎場も整備されているため、神式・仏式を問わず葬儀が行えるようになっています。管理人が日々掃除を行っているため、無縁となった墓もきちんと手入れされ、清らかに保たれています。
盂蘭盆や春秋の彼岸には、青年団の手によって共同の法要が毎年行われています。たとえ家が絶えて祀る人がいなくなった墓であっても、すべてが等しく供養を受けるのです。
このように、村全体で「永遠の安らぎの地」を定め、共同で供養を行うことは、村人の心に「共に愛し、共に楽しむ」という精神を育てるものだと思います。
生きている間は村民として互いに誠を尽くし、死してなお、同じ場所に眠り、共に冥福を祈る――この願いこそが、人生の深い情愛を象徴するものではないでしょうか。
◆第18章 副業としての伊予絣◆
農業の閑散期に、生活を支えるもう一つの柱を
「農業は儲からない」――これは、私が長年耳にしてきた言葉でした。村是調査によると、我が村の農業収益を人口一人あたりで平均すると、1日わずか12銭余り。この数字を見たとき、私は驚きました。こんな少ない収入で生活しているとは、まるで奇跡のように思えたのです。
農業に利益が少ないというのも、無理のない話だと感じました。しかし、以前述べたように、講田(共同耕作)の実践によって得られた結果では、一反一石八斗の小作料を支払っても、1日の労働に対して83銭の収益があり、年を追うごとに1円以上に達するようになりました。これは当時の一般的な労働賃金よりも4〜5割高く、農業が「利益のない仕事」とは言えないという結論に至ったのです。
つまり、農業には確かに利益があることが明らかになりました。しかし、村是調査の数字を見ると、やはり生活は苦しい。これは「営業」と「生計」を混同していることによる誤解だと気づきました。
農業は、労働日数を精査すると年間でせいぜい160〜170日程度しか働けません。つまり、1年の半分以上は「働けない日」なのです。たとえ農業に利益があっても、働ける日が少なければ、生活費としては足りなくなるのは当然です。
この誤解から生まれた「農業は儲からない」という悲観論を、講田の実践が打ち破りました。そして同時に、生活が苦しいのは「働けない日」が多いからだという事実を、村の人々に気づかせたのです。
そこで重要になるのが「副業」です。農業の労働日数が限られている以上、残りの日を生産的に活用する必要があります。つまり、労力の分配が求められるのです。
農業は天候や作物の季節によって作業が制限されるため、実際には年間160〜170日しか働けません。だからこそ、村の人々が生活を安定させるためには、農業以外の仕事――副業を見つけて、働けない日を生産的に過ごすことが必要なのです。
副業を選ぶ際には、農業の繁忙期に休止しても問題ないもの、あるいは繁忙期以外に取り組めるものを選ぶことが大切です。農業の忙しい時期は本当に忙しく、それ以外の時期は閑散としています。だからこそ、副業は農業の実情に合わせて選ぶべきなのです。
労力の分配は、農業経済の現実に根ざした、切実な要求なのです。
伝統の織物(伊予絣)を、村の副業として育てる
伊予絣(いよがすり)は、全国的にもその名が知られる織物です。この絣は、隣村である垣生村今出の「鍵屋かな子女」によって始められたもので、当初は商品として流通するほどの生産量はありませんでしたが、明治8〜9年頃から徐々に生産が増え、ようやく商品として扱われるようになりました。
我が村はその垣生村に隣接していたため、伊予絣の技術は早くから伝わり、村内でも生産が行われるようになりました。
私は、村に副業が必要であると考えたとき、どのような仕事を選ぶべきかを熟慮しました。まったく新しい産業を始めるのは非常に困難です。そこで、すでに経験のある伊予絣をさらに発展させることが最も現実的で望ましいと考え、積極的にその奨励に取り組みました。
当時、伊予絣の生産は村内でも行われていましたが、貧しい家庭では資金が足りずに手を出せず、裕福な家庭は職業労働を卑しいものと見なして事業に乗り出そうとはしませんでした。実際に生産に関わっていたのは、もっぱら中産階級の家庭でした。だからこそ、私はこの産業を広く奨励する必要を感じたのです。
そのため、私はたびたび村の女性たちを集めて講話を開き、伊予絣への参加を呼びかけました。また、資金が足りない人には、日曜貯金などの貯蓄制度を活用するよう勧めました。
その結果、生産量は大きく伸び、明治35年には3万反だったものが、4万反以上にまで増加しました。
さらに、明治37〜38年頃からは、機業の仕組みが大きく変わり、「機元(はたもと)」と呼ばれる企業家が現れ、「出機(ではた)」という形で、村の多くの家庭が賃織り(機元から材料を預かって織る)に従事するようになりました。
これにより、資本を持たない人でも、自分の労働力だけで参加できるようになり、伊予絣の生産は貧しい家庭にも広がっていきました。
その結果、生産量は7〜8万反にまで増え、景気の良い時期には10万反を超えることもありました。工員の数は変動があるものの、常時700〜800人の女性や少女たちが家庭で働き、得られる工賃は年間で少なくとも7〜8万円、多いときには10万円を超えるまでになりました。
私は常に、あらゆる事業を「教育の一環」として捉えることを大切にしています。この副業を奨励するにあたっても、教育的な視点からその発展を支えました。
訓練が継続的に行われなければ、能率が落ちたり、粗悪品が出回るなどの問題が起こります。だからこそ、私は訓練を絶やさず、品質の維持と向上に努めてきたのです。
家庭の中で働く女性が、村の暮らしと農業を変えていく
伊予絣の織物が、我が村の女性たちの手によって生産されるようになり、年々その職業活動が盛んになってきました。その結果、村の生活は大きく変化し、家庭らしい落ち着きと豊かさが見られるようになりました。
たとえば、女性が月に30円〜40円の収入を得て、2〜3人の従業者を抱える家庭では、生活が大きく向上します。この職業の広がりによって、かつては男児の誕生を喜んだ風習が、女児の誕生を「幸せ」と考えるような価値観へと変わってきました。収入の増加が、生活の質を高めたのです。
この職業が「家庭工業」であることも、生活の向上に大きく貢献しています。たとえ収入が多くても、工場への通勤や屋外での労働であれば、家庭は空虚になり、生活の質は保てません。
しかし、我が村の女性たちは家の中で働いているため、掃除や炊事、子どもの教育など、家庭の役割を果たしながら仕事に従事できます。これは、賃金以上に価値のある「所得」だと私は考えています。
このように、女性の職業活動がもたらす利益は非常に大きく、結果として男性は農業に専念するようになりました。かつては男女ともに野外で働いていましたが、今では農業は主に男性が担い、女性は田植えや稲こきなどの繁忙期に少し手伝う程度で、普段は家庭工業に従事しています。
こうして、男女の分業という新しい傾向が生まれました。これは職業の面から見ても、大きな進歩です。男性が農業に専念することで、村の農業も著しく進歩しました。
農業は理論を応用しながら進歩していく必要があり、また体力を要する仕事でもあります。現在の女性には、農業労働に適さない人も多くいます。他の地域を見ても、男女が区別なく働いているところでは、農業の発展が遅れている傾向があります。
また、出稼ぎが多い地域では、女性が農業を担っていることが多いですが、そうした地域では農業の進歩が見られません。これは、女性の知識や体力が農業に適していないことが原因ではないかと考えられます。
我が村では、女性の生理的・心理的特性に配慮し、農業では補助的な役割にとどめ、男性が中心となって農業を担うことで、農業の改良と進歩が実現されました。
女性が野外労働に過度に従事すると、家庭工業の精度が落ち、能率も低下します。また、男性が女性の職業収入を得ることで、女性を家庭にとどめ、自ら屋外で働くことで、農業の能率も向上します。
さらに、女性の農業労働が健康にどのような影響を与えるかも考慮すべきです。私が温泉郡地方研究所で数年間にわたって行った調査によると、農業労働に多くの女性が従事している町村では、女性の平均寿命が男性よりも短く、幼児の死亡率も高く、死産も多いという結果が出ました。
これは、女性の生理に合わない過度の労働が原因ではないかと考えられます。郡内の町村を比較すれば、この傾向は明らかになるでしょう。
この事実は、人道的にも、社会的にも、経済的にも、見過ごすことのできない重要な問題です。
我が村が、男女それぞれの職業活動の分野を明確に分けるようになったことは、非常に喜ばしい変化だと思います。
家庭の織機が、村の農業を支える力になる
我が村では、伊予絣の織物によって得られる利益が非常に大きいことがすでに明らかになっています。そしてこの副業が、農業経済を支える役割を果たしていることも、称賛せずにはいられません。
この副業は、農業労働に偏りがちな労力の分配を見直す必要から生まれたものであり、男女それぞれの労働分野が明確になったこと自体が、すでに大きな成果です。
さらに、絣の副業によって女工を雇う農家も増えました。女工たちは副業の収益によって報酬や生活費をまかなうことができ、余剰が出るほどです。そして、田植えや収穫などの繁忙期には、女工たちを農業労働に転換することもあります。
普段は屋内で働いている彼女たちも、たまに屋外で働くことで気分が変わり、活発に動いて高い能率を発揮することが確認されています。繁忙期に必要な労力を外から調達するのは難しいですが、日頃から家庭に住み慣れた女工を活用できるのは非常に便利で、しかも賃金を新たに支払う必要がないため、農業経済にとって大きな助けとなっています。
もしこのような労力が得られなければ、繁忙期だけに高い賃金を払って臨時雇いをしなければならず、農業の薄利構造では利益を失うことになります。過去の苦い経験から、常雇いの作男を雇う農家もありましたが、これは経済的に非常に不利です。年間を通して働かない日があっても、賃金を支払わなければならず、非生産的な家事に従事させるしかありません。
本来家族でできる仕事を作男に任せることで、家族は手をこまねき、時間を無駄にし、生活費もかさみます。これはまるで貴族的な生活や資本主義の欠点を村に持ち込むようなもので、非常に不利です。
しかし、絣の副業によって労力の調整が可能になった我が村では、常雇いの作男を百人以上減らすことができました。この事実が、農業経済にどれほどの余裕をもたらしたかは、想像以上のものです。
また、女性たちの副業によって年間7〜8万円の収入が得られるため、肥料の購入時期には資金の融通がしやすくなり、生産の増加にもつながります。納税の時期には、代金の支払いにも余裕が生まれ、金融の流れも円滑になります。
農業の収入は年に2回が一般的ですが、資金の融通がなければ、経済的に非常に苦しくなります。場合によっては、価格が不利な時期に作物を売って資金を得るしかなく、損失を招くこともあります。
しかし、副業によってこのような事態が緩和され、農業経済に明確な利益がもたらされました。
さらに、女性の副業活動が盛んになることで、その織機の音が男性の勤労意欲を刺激し、村全体に勤勉の風が広がりました。雨や雪で屋外労働ができない日には、男性が女性の仕事を手伝い、晴れの日には外で働くという協力体制が生まれました。
たとえ副業の収入が1日30〜40銭と少なくても、それは尊重されるべき価値です。家庭内で働きながら、家事や育児などの要務も果たす女性が得るわずかな収入は、経済的に非常に大きな意味を持ちます。
何もせずに終わるよりも、少しでも生産して収入を得ることは、「無から有を生む」大きな利益です。だからこそ、私は農村における家庭副業の価値を、心から讃えずにはいられません。
◆第19章 雇人の訓練とその慰安◆
農村の雇用制度に潜む問題と、その矯正への思い
我が村では、農業労働のために「奉公人」と呼ばれる雇人を雇っています。雇用には「常雇い」と「臨時雇い」があり、常雇いは多くの場合、1年契約で、給金は契約時に前払いするのが慣例となっています。
私が村長に就任した当時、村には男女合わせて約330人の雇人がいました。しかし、やがて「悪い風習」がまるで流行のように広がり始めました。
男女の雇人たちは、契約期間中にもかかわらず、親の病気や結婚などの口実を使って雇主の家を離れるようになりました。中には無断で家出し、行方をくらます者もいました。そして、前払いされた給金を踏み倒したまま、別の奉公先を探し、そこでもまた前借りをするという始末です。
こうした問題が起こるのは、たいてい農繁期の忙しい時期で、雇主にとってはまさに困ったタイミングです。雇主は前払いした給金を失うだけでなく、急に労働力を失って作業に支障をきたし、混乱に陥ります。
運よく雇人の居場所を突き止めて連れ戻し、契約の履行を求めても、すでにその新しい奉公先でも同じように前借りをしているため、再び給金を立て替えなければ働かせることができず、結果として「二重払い」になることもあります。
こうした事態を雇人の仲介者(口入人)に訴えても、解決には至りません。むしろ、口入屋が裏で雇人をそそのかし、他の業者と結託して手数料を得ているケースもあり、事態はさらに複雑です。
このような悪習が頻発したことで、私は深い危機感を抱きました。農村にとっては大きな脅威であり、産業にも悪影響を及ぼすだけでなく、人々の心を荒ませ、雇人自身のためにもならないと感じたのです。
だからこそ、私はこの悪習を正すことが、村の健全な発展のために極めて重要だと考えました。
労働は給金だけではない。人としての尊重が、働く心を育てる
奉公人(雇人)に見られる問題行動は、彼ら自身の道徳観の欠如によるものと思われがちですが、私は一方で、雇う側の態度にも原因があるのではないかと考えました。つまり、雇主が奉公人の人格を尊重せず、物として扱っていることが、問題の根にあるのではないかということです。
この問題を正すには、まず雇主側が奉公人を「人格ある人間」として扱うことが必要です。彼らは日々、家族と同じ屋根の下で暮らし、家事や農業に従事しているのですから、差別的な扱いは改めなければなりません。
たとえば、食事を同じ台所でとっていても、奉公人には別の器を使わせたり、待遇に差をつけることが「当然」とされている風習があります。給金を払っているから差別してもよいという考え方は、彼らの人格を無視した「商品的な扱い」であり、家庭の中に愛や同情が注がれるはずもありません。
人は、給金という物質的な報酬だけでは満足できません。それ以上に「心の通った扱い」があってこそ、奉仕の気持ちが生まれ、雇主のために喜んで働こうという意欲が育つのです。
「奉公人」という言葉には、もともと「社会への奉仕」「人類の相互愛」という意味が込められているはずです。だからこそ、雇主は奉公人を単なる労働者としてではなく、人格ある人間として尊重しなければなりません。そうすれば、たとえ物質的な待遇が十分でなくても、奉公人は心から働いてくれるでしょう。
奉公人も、いずれは自分の家庭を持つ人たちです。その人生が幸せなものになるように、雇主は彼らの人格を育てる責任があります。私はこの考えのもと、雇主たちを集めて懇談会を開き、奉公人への接し方について話し合いました。
そして、奉公人のための「慰安会」を、盆と正月の年2回開催することを提案し、雇主側に出席の許可と費用の負担をお願いしました。皆さんの賛同を得て、明治34年1月に第1回の慰安会が開かれました。
男女別に催された慰安会には、朝から多くの奉公人が村役場の会議室に集まり、遊びや演奏を楽しみました。菓子や酢飯などのもてなしもあり、自由で楽しい雰囲気の中で、事前に調査していた勤労ぶりや品性に基づいて、善行の表彰式も行いました。
私はこの場で、奉公人たちに次のような話をしました。
「皆さんは、ただ給金のために働いているのではありません。私たちの毎日の労働は、社会への奉仕です。雇主のためだけでなく、人として果たすべき務めを果たしているのです。この務めを果たすことで、皆さんの人格は育まれます。奉公の期間は、人格を磨く“学校”のようなものです。家事や農業の仕事も、すべて自分自身の修養であり、その成果は将来の人生に必ず役立ちます。他人の家で暮らしながら、この考え方を身につければ、独立したときにその徳が現れるでしょう。奉公の期間は、将来の幸福を育てる“準備期間”であり、“貯蓄期間”なのです。」
表彰は一等から五等まで分けて行い、反物や半襟、襦袢などの賞品を贈りました。次回のお盆にも慰安会を開くことを予告し、喜びのうちに会は閉じられました。
感謝と尊重が、人の心を変え、村の風を変える
慰安会の場で行った訓話や、善行に対する表彰は、奉公人たちの心に強い感動を与えました。一等・二等の表彰を受けた人々は大いに喜び、日々の勤労にさらに励むようになりました。他の奉公人たちも、次回の慰安会で表彰されることを目指して、自ら努力するようになったのです。
表彰された人々は、奉公の契約が終わる頃には多くの雇主から希望され、給金も上がりました。男子は養子として迎えられ、女子は嫁入りの話が進むなど、善行が実際の報酬として現れるようになりました。
このような変化によって、奉公人たちの意識はさらに高まりました。中には、親から「嫁入りの話がまとまったから帰ってきなさい」と言われても、「まだ表彰されていないから帰らない」と言って、1年、2年と奉公期間を延ばす人もいたほどです。
慰安会の内容は、奉公人たちの口を通じて雇主の家族にも伝えられました。その結果、雇主と奉公人の間に、道徳的な光が差し込み、互いに思いやる関係が築かれるようになったのです。
こうして、以前のような悪習は自然と減っていきました。たとえ悪質な仲介業者が奉公人をそそのかそうとしても、奉公人自身が惑わされることはなくなりました。
後年、共同作業が進むにつれて、労力の節約が進み、常雇いの奉公人は減少しました。現在ではその数はわずかですが、副業としての機業が続いているため、女性の雇用は今も少なくありません。
このように、奉公人に対する教育的な取り組みが、村の農業や副業に大きな利益をもたらしたのです。
慰安会は明治38年まで続けられましたが、雇用人数の減少と、社会の進歩によって悪習が自然と解消されたため、開催を見合わせることになりました。
しかし、こうした教育的な取り組みは、村の公民教育として、決して軽んじてはならないものだと私は考えています。
◆第20章 自治は制度ではなく、人生そのもののかたちである◆
制度ではなく、共に生きる力のかたちとしての自治
私は自分の人生を通して、我が村の思想に深く感謝しています。そしてその背後には、人生の本質的な意味があることを、強く感じずにはいられません。
自治団体が「公法人」として共同の事務を処理するという仕組みは、単なる制度ではなく、私たちの日常生活と切り離せないものです。それは、私たちの生活の実際的な必要から生まれたものだからです。
過去も現在も、そして将来においても、私たちは孤立して生きることはできません。自治の仕組みは、私たちの健康、教育、交通、職業など、あらゆる面で力を与えてくれています。私たちはこの「共同体」の中で生きているからこそ、生命の根本においても「一つの存在」であることを自覚できるのです。
だからこそ、自治体は私たち個人と利害を共有するだけでなく、私たちの理想そのものを映す存在でもあります。公民としての生活の充実は、この理想と憧れによって育まれるものです。つまり、地方自治は人生そのものの意味を語っているのです。
人間は、互いに支え合い、集まり、助け合うことで生きています。この事実は疑いようがなく、こうした社会のかたちを築いてきたのは、人間の本質的な力の発動によるものです。
明治時代に市町村制が発布された際、明治天皇は次のような上諭を国民に示されました。
「朕おもうに地方共同の利益を発達せしめ衆庶臣民の幸福を増進することを欲し、隣保団結の旧慣を尊重して、ますます是を拡張し更に法律を以て都市並に町村の権義を保護するの必要を認む。」
この言葉からも、地方共同の利益の中に、私たち庶民の幸福があることが明確に示されています。そしてその背後には、永遠に続く強い力――すなわち「隣保団結」という人間の自然な結びつきが尊重されているのです。
隣保団結は、人間が共に生きるための本質的な力から生まれたものであり、生活の実際的な必要から形成されたものです。だからこそ、これを尊重しなければならないのです。
つまり、自治の共同は偶然に生まれたものではなく、人間の社会的な力の発動と、隣保団結の長い歴史の中で育まれてきたものです。そしてこの自治の事業は、永遠に発展し続けるべきものなのです。
そのため、法律によって自治を保護し、私たち庶民の生活に利益と幸福をもたらそうとする国家の思いは、まさに深い敬意をもって受け止めるべきものです。
自治の機能も、こうした深い意味を理解してこそ、真に発揮されるものです。表面的な理解では、自治の本質にはたどり着けません。公民としての活動の真の意味も、この深い省察から生まれるのです。
私は、自分の人生の中で、公民としての生活に深い意味があることを感じてきました。そして常にその理想を胸に、我が村の「自治の人格」を育てようと努めてきました。
自治の精神は、単なる制度の文字にとどまるものではありません。その背後にある国家の思いと、人間の本質的な力を理解し、それを村の人々に自発的に感じてもらうことこそが、自治の人格を高める道だと、私は信じてやみません。
自治とは、愛の実践であり、人生の理想である
現在の自治団体は、隣人同士が自然に結びついて生まれたものです。人類社会は、もともと助け合いの本能に基づいて成り立っていますが、他の社会よりも優れて発展してきたのは、男女の愛が夫婦というかたちで育まれ、親子の情が深まり、家族という共同生活の中に愛が根づいてきたからです。
この家族の愛が、隣人との友情へと広がり、やがて「聖なる愛」として普遍的な情感となり、人類全体に光をもたらすようになりました。
人類社会が優れているのは、この深い愛の力によるものであり、それを誇りに思うべきです。人類が互いに愛し合うことは、自然な表れであり、人類共存の精華であり、最高の道徳です。社会文化の建設も、この「聖なる愛」の美しさによって築かれるべきだと私は思います。
自治体が公共事業を通じて人々の幸福を追求し、生活の必要を満たしていることを自覚すれば、自分の存在が他者とのつながりの中にあることに気づくでしょう。そしてそのつながりが、何千年もの間、隣人同士の団結によって鍛えられ、連綿と続いてきた「大きな鉄の鎖」であることに気づけば、互いに愛し合う心が、公民としての人格を輝かせるのです。
だからこそ、自治体は「共同で営む団体」であると同時に、「聖なる愛の象徴」でもあるのです。明治天皇が「隣保団結の旧慣を尊重し、これを拡張すべし」と述べられたのも、この深い意味を踏まえてのことだと思います。
自治の真の意義を理解したならば、その住民は「愛の心に燃える人」であり、常に「愛の実践」を理想とする尊い人となるでしょう。そしてその町や村は、極めて平和で、喜びに満ちた場所となるはずです。
私たちが他の土地に住んでいても、故郷の愛に引き寄せられて忘れられないのは、この「鉄の鎖」でつながれているからです。我が村は、まさにこの尊い愛の理想に導かれているのです。
この心を得ることができれば、狭い村や限られた住民への愛にとどまらず、普遍的な「聖なる愛」があらゆる場所に広がり、「我が村」「我が町」は至るところに存在することになります。博愛の心は、人類全体に対して実践されるべきものなのです。
スタインは「自治は愛国心を育てる学び舎である」と言いました。自治の真の意義を体得すれば、それはやがて愛国心となって現れます。つまり、自治によって育まれた「愛の心」が、国家という共同体の意義に響き合い、聖なる愛の普遍性と一体となって、理想の自己が創造されるからです。
その究極は、社会全体を憧れの対象として、愛の理想が創造され、実践されることだと思います。こうして、地方自治は限りない「聖なる愛の理想」を生み出す母であると私は信じます。
人生の最高の価値は「聖なる愛」であり、理想への憧れとともに、愛の実践を人生の最高の意義としなければならないのです。
私は長年、我が村で公民としての素質を育ててもらい、公民活動を通じて訓練されてきました。その経験によって、私は「意味ある人生」へと導かれたのです。
かつて、自治の経験がなかった頃の私は、自治を単なる生活の手段としか考えておらず、今思えば浅はかな見方だったと恥じ入るばかりです。その頃の私は、公民として空虚であり、人生の意味もわからず、まるで風船のように、ボウフラのように漂うだけの生活をしていました。
しかし、我が村の「愛」によって、私は自治から人生へと導かれ、新しい生き方を得ることができました。この物語は、過去の浅はかな思想への懺悔であり、自治から人生へと導かれたことへの深い感謝の記録です。
終わり。
参考文献
[1] 『体験物語 我が村』天心園発行、昭和二年二月五日発行


