森盲天外著「貯金道話」を読む③第4講~第5講まで

森盲天外の『貯金道話』は、単なる金銭管理の指南書ではありません。これは、人生の根本にある「蓄える」という行為を、道徳・勤労・精神修養の観点からその思想をわかりやすく講和形式に説いた、明治の叡智が息づく珠玉の一冊です。

盲天外は、視力を失いながらも村長として民を導き、教育者として盲唖学校を設立した人物。その生き様が本書にもにじみ出ています。「貯金」を単なる貨幣の蓄積のみならず、それを人格形成の一環と見なします。すなわち、日々の勤労に感謝し、無駄を慎み、未来への備えを「道」として歩むことこそが、真の豊かさへの道であると語るのです。

本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。

※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。

意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
                                             

目次

第5講  金儲けの近道

行き合い船


昔、ある大名が海路で江戸へ向かうため船を出しました。十数日の航程、船中の退屈に耐えかねて海上を眺めていると、はるか遠くから一艘の船が白波を蹴立てて進んでくるのが見えました。その光景は実に美しく、やがてその船は時の間に近づき、目の前を矢のように走り過ぎていきました。

美景に見惚れると同時に、大名はその速さに驚き、自分の船の遅さを船頭に責めました。すると船頭はこう答えました。

「この船が遅いという訳ではございません。あれは“行き合い船”ゆえ速く見えるのです」

大名は「それならば、これからは行き合い船に乗りたいものだ」と言ったそうです。

いかにも滑稽な話ですが、来ると往くとが一つになると、船の速力は倍加して見えるものです。

私たちが富豪になろうとする道中も、行き先は長く、駅々を早く通り過ぎたいものです。その駅が「貯金」であり、貯金を多くすれば道中ははかどります。

では、貯金は何によってできるか。

精を出して働き、田畑を耕し、養蚕・製糸に励み、商いに勉強する。こうして生産と利益を得ることが肝要です。

しかし、積極的な金儲けだけでは、進捗が間に合いません。そこで、日々の消費を倹約し、儲けたものをなるべく出さないようにする必要があります。

儲けることばかり知っていても、倹約をしなければ、貯金は多くできません。

「取り入れる」と「剥ぎ出す」の二つの金儲けをしなければ、富豪への道中は早く進めません。

船を漕ぐ櫓も、突くだけでは進まず、「押す」と「引く」の二つの力によって前へ進みます。押すばかりで引く力が弱ければ、船はキリキリ舞いをして進みません。

儲けと倹約は、相伴って進むべきものです。
この二つの金儲けが「行き合い船」です。来ると往くとが一つになったのです。

船は勝手に行き合い船を造ることはできませんが、富豪への道中には、この速い船を造ることができる。これは実にありがたいことです。

一足こちらから歩けば、富豪というものが一足向こうから寄ってくる。一足歩いて、二足だけ近づくのです。

金儲けと倹約の二つをすれば、このように道が早くはかどるのです。

とはいえ、金儲けはなかなか難しい。倹約はしやすいものです。

この容易く手近なところに、同じ金儲けがあって、道中がはかどるならば、倹約こそが富豪への近道です。

英国マンチェスター市に、ブロザートンという大富豪がいました。

彼は金儲けもしましたが、倹約を専ら努め、公共の事にも力を尽くしました。

その死後、有志が氏の徳を讃えて記念碑を建てました。その碑にはこう刻まれています。

我が富は我が産業の大なるに非ずして我が欲望の小なるにあり


これはブロザートンが常に口にしていた言葉であり、実に貴い格言です。

倹約こそが富豪への近道であることを教えています。

働いて金儲けをすることも大切ですが、来ると往くと、波を蹴立てて海原を走る行き合い船の速さよ。倹約という締めくくりが肝要です。

うかうかと暮らす瓢と思いしに 腰のあたりに括り目ぞある


(うかうかと暮らす瓢箪と思いしに、腰のあたりに括り目があるぞ——倹約の締めくくりが大切という意)

加え算用


加え算用があれば、引き算用もある。これは算盤の初歩であり、誰もが知っているはずのことです。

しかし世間には、加え算用ばかりを知っていて、引き算用を知らぬ人が多いようです。

商売人の中には、「この間、反故の中から拾った古書が五十円で売れた。元は三銭だった」「三年前、古茶碗一山五銭で買った中に、垢づいた古薩摩があり、十円儲けた」と誇らしげに語る者もいます。

けれども、そんな僥倖は年に一度あるかないか。一代に二度、三度あれば幸運な方です。それを毎日あるかのように空頼みするのは、加え算用ばかりを信じる者の幻想です。

儲けた話ばかりで、損した話はほとんど聞きません。

また、取りたい取りたいと取引所に飛び込み、あてにならぬ金の掴み取りを夢見て、声を張り上げ、手を突き出し、鈴チリリン、拍子木カチカチ、火縄パッタリ、ヤーヤーと騒ぎ立てる。

空を握って押し合い、へし合いの夢中騒ぎ。まるで天から金が降ってくるかのように欲に走る者たちも、加え算用しか知らぬ人々です。

衣服も、一枚より二枚、二枚より三枚、四枚五枚と加え算用ばかり。酒を飲むにも、肴は一皿より二皿、三皿、四皿と加え算用ばかり。

商売でも、品物が少ないと見せたくない。そこで鏡を壁に並べて影法師を商う。まさか影法師が金になるわけではないが、加え算用の知恵飾り。

薬屋の飾り瓶には色付き水、酒屋のこも被りは夜抜けの隊長。これらはすべて加え算用からはじき出された虚飾です。

こうした装飾は、真実を失わせ、出世の道を閉ざします。

信用を得て出世する人は、加え算用を知っているだけでなく、引き算用も心得ています。

だからこそ、儲けた話を自慢せず、重ね着を威勢とせず、皿の数で晩酌を誇らず、店頭に嘘を飾らず、商品は毀損せぬよう蔵の奥にしまっておく。

客が百人、千人来ても、一人ひとりの好みに応じて、初めは控えめに、後からまた後からと品を出す。

こうして段々と繁盛し、出世して、引き算用が知らぬ間に加え算用となるのです。

あまり加え算用ばかりに知恵が回ると、足元が危うくなります。富豪への道中でつまずき、転んでは大変です。用心せねばなりません。

上を見ず稼ぐ打出の小槌より 萬の宝湧き出づるなり


(上を見ず、地道に稼ぐ打出の小槌から、万の宝が湧き出るのだ)

足の下の天

踏み分けて富士の高根に登るとも なお及びなき峯の月かな


天に従う者は栄え、天に背く者は亡びる。天はありがたいものであり、熱や潤いの恵みによって米は実り、大根は太り、木々は茂る。反対に、天の恵みの届かぬ日陰には、何も育たない。

自然の天理は、万事万物を支配している。だからこそ、常に天に従い、背かぬようにすることが、私たちの栄えを得る道である。

しかし、いくら手を伸ばしても天には届かず、天に昇る架け橋もない。富士の高根に登っても、天には及ばない。麓から見上げた青空も、久方の月も、手の届かぬ虚空にかかっている。

それにもかかわらず、世の人々は天を天に求めようとし、上へ上へと伸びたがる。

草履やわらじを捨てて、少しでも高い下駄を履き、手拭いをやめて高い帽子を冠り、住居も平屋より二階、三階、四階、五階と、上へ上へと丈伸びをして天を求め、それを繁栄と考えている

しかし、知らねばならぬ。天は私たちの足の下にある。天を求めるならば、うつむいて足下に求めねばならぬ。

農家が米や麦を作るにも、土地があればすぐに収穫できると思うのは誤りである。

同じ土地でも、床下の土地では米麦は育たない。天の恵みが届かないからだ。

米麦を育てるには、天に従い、その恵みを受けることが肝要である。地を掘り耕すことは、天の温熱を地中に導き、肥料の分解を促し、植物の生育を助ける。

つまり、天を土地の中に求め、その恵みを大にして米麦を育てることで、農家の繁栄が得られる。

確かに、天は足下にある。農家がこれを地中に求めず、天上の高みに求めても、田畑は大空にあるものではない。

だからこそ、農家は常にうつむいて土地を掘り耕すところに、幸福が宿ることを合点せねばならぬ。

倹約も同じ道理である。天は足の下にある。

人より奢らず、自己を節することは、うつむいて足下を見ていることにほかならない。

手の届かぬ大空の遠い儲けよりも、手近な倹約の金儲けこそ、天に従う栄えである。

また、押し譲ることも、天を足下に求める行為である。人より出しゃばらず、高慢心を抑え、内に徳を積むことは、足下の天に幸福を求めることなのだ。

雲にそびえる五重の塔も、その高さを支えるのは、地盤の頑固さである。

地盤を顧みずに塔を建てても、立っているものではない。暴風が吹けば、倒れてしまう。

五重の塔の高さは、地下の盤石による。

倹約して自己を節し、推譲して内に求めれば、徳を積んで富豪となり、五重の塔のように高くそびえる光栄を築くことができる。

これは、天を天に求めず、足下に求め、天に従う誠を尽くした結果である。

板倉伊賀守の歌にも、

手を出して及ばぬことのあるぞかし 笠着て暮らせ己が心に


(手を出しても及ばぬことがある。笠を着て、己の心に合った暮らしをせよ)

進化した鬼

医術が進歩すれば病も進化し、世が進めば悪魔も進化する。

かつて社会が閉ざされていた頃には、恐ろしい鬼がいた。地獄の里に残る赤鬼、青鬼——目を丸くし、牙を剥き、爪を伸ばし、鉄棒を振りかざすその姿。あの鉄棒に殴られ、爪に引っかかれ、牙に噛まれては、命もあったものではない。

そんな鬼がいれば、誰も近寄らず、逃げるばかりだった。昔はそれでも鬼に所得があったが、今の世では誰も寄りつかない。

鬼も生きるために進化せねばならず、人間に近づこうとした。角を折り、牙を抜き、爪を切り、優しい姿に化けて、琴や三味線を奏で、芸者や女郎の姿となって人に寵愛され、血を絞る。

博多、友禅の美しい着物となって人の身体に纏い、刺身や口取りとなって人の腹を満たす。鬼は人に好かれ、家の中へと引き込まれ、タンスの中、蔵の中、台所に住み込んでいる。

「今の世に鬼などいない」と安心する人もいるが、進化した鬼は、なおも私たちの家の中に棲んでいる。

生産的な財産は子を生むが、不生産の財産は子を生まぬばかりか、子を食う鬼である。

贅沢や奢侈から生まれた財産は、確かに財産ではあるが、常に物を食う。膳、碗、皿、鉢——いかに良い品でも、それだけではご馳走にならず、保存に手がかかり、山海の珍味を食わせねば満足しない。

贅沢が過ぎて、徒らにこの財産が殖えると、せっかく田畑や山林、公債や株券から生み出した子を、昼夜問わず食い尽くしてしまう。

その仮面を剥げば、恐ろしい鬼。撫で、さすっているそのものが鬼だと知れば、安心などできるはずがない。

鬼は決していなくなったのではない。悲しいことに、鬼は世と共に進化し、優しい姿に化けているのだ。

飯と汁木綿着物は身を助く その余は我を責むるものなり


(飯と汁、木綿の着物は身を助けるが、それ以上は我が身を責めるもの)

贅沢三昧に走れば、鬼に身を責められることになる。

一年の働き賃が、着物一枚、帯一筋となってしまえば、三百六十五日の勤労も、着物と帯に追い使われたことになる。

商売しても、晩酌となって、一日の働きが一瞬の夢と消え、酒肴の獏に食われてしまう。

一口に取って噛むのは目に見えず 三味線囓る鬼の恐ろし


(三味線を囓る鬼の恐ろしさは、目に見えぬ一口の中に潜んでいる)

畑から鯛の刺身

何事も鍋の月代石の髭 絵に描く竹の友擦れの声


一休の寝言のように、鍋に月代、石に髭、絵に描いた竹の葉が友擦れする——そんなことはあり得ないと笑う人もいるでしょう。しかし、悟ってみれば「有無は自在」、自在の中に有もあり、無もある。

随所に主となり、変わる浮世に変わらぬ我。水は流れ、石は転がり、雀はチュウチュウ、鳥はカアカア——すべてがその所を得て、我が脚下も極まるのです。

悟りなば坊主になるな、魚を食え、地獄へ行って鬼に負けるな


鯛の刺身、牛肉のロース——食いたければ食えばよい。鯛の刺身は畑にもある。牛肉のロースは雪隠にもある。随所にご馳走はあり、好み次第。

しかし、合点しない人は「鯛の刺身が畑にあるはずがない。魚屋を通らねば食えぬ」と言うでしょう。それは天地を狭く見ている証。そんな不自在な世界なら、我が身一つ置く場所もありません。

この世を狭く見て、日々の勤労を楽しまず、「腰が痛い」「手がだるい」と寝転び、無駄食いして体を損ない、金も貯まらず、出世もできぬ人に違いありません。

盲天外が「畑から鯛の刺身」と言うと、「なるほど、畑で育てた麦や豆を売って鯛の刺身を買うことか」と早合点する人もいるでしょう。

しかし、それは小理屈。鯛の刺身の甘さを知らぬ、貧乏性の金食い男に過ぎません。それでは「有無の自在」は得られません。

畑へ行けば、そこに鯛の刺身、牛肉のロースがある。鍬を手に畑に飛び出し、一汗かけば、すでに鯛の刺身を食っているのです。

悟った者も、悟らぬ者も、賢者も、愚者も、わけなくこのご馳走に預かることができる。

一文半銭出さずとも、鯛の刺身が食える。難しく考えず、まず畑を掘るがよい。仕事をすれば腹が減る。腹が減れば食いたくなる。

家に帰って麦飯をかき込み、たくあんをかじる——うまいうまいと一瀉千里で胃に飛び込む。

麦飯、たくあん——すなわち鯛の刺身、すなわち牛肉のロース。身体も丈夫になり、地獄に行っても鬼には負けまい。

金があるからといって怠け暮らし、毎日毎晩鯛、鰻、肉、菓子と食に飽きれば、ご馳走もご馳走でなくなり、身体を損ねてしまう。

それもそのはず——鯛や菓子を食っているのではなく、金を食っているのだから、身体も弱くなり、鬼にいじめられる。

いくら滋養に富んでいても、食い飽きれば身体の強壮にはならない。牛乳嫌いが無理に飲んでも、消化はしない。

この道理を噛みしめなければ、いくら飲み食いしても元気にはなれない。元気でなければ働けず、働けば元気になる。

だからこそ、働くことが趣味となり、「食いたい食いたい」の欲を抑える必要もなく、畑の刺身を食いながら働くことができるのです。長寿も貯金によって得られると思えば、貯金することに、いかにも面白味があるではありませんか。

履物の地租軽減

地租が軽減される、あるいは税金が全免されると聞けば、誰しも大喜びするでしょう。

しかし、列国競争の時代にあって、国際関係や国内の設備はますます複雑化しており、国民の幸福や権利を保障するためには、さまざまな施策が必要です。したがって、地租の軽減は容易に実行されるものではなく、ましてや税金の全免などは極端な話です。

とはいえ、財政の健全を計りつつ、わずかでも税が軽くなり、国利民福が増進されるならば、それはこの上ない良政です。

地租軽減は、我が国において繰り返し議論されてきた問題であり、むしろ時代とともに地租は増加しているのが現実です。

選挙の時期になると、政党や政派は地租軽減の甘言をもって選挙人の心を動かそうとします。選挙人は夜も昼も奔走し、懐を痛めて運動に励みますが、実際には地租軽減の実現は容易ではありません。

それでも人々が運動に時間と金を費やすのは、地租軽減を喜ぶ心があるからです。

ここに、地租軽減を容易に実行できる方法があります。

それは、三百人の代議士に頭を下げる必要もなく、運動に狂奔する必要もなく、誰にも頼らず、自分自身で確実にできる方法です。

たとえば、履物一足。奢侈の世では三円、四円という高価なものもあります。これを倹約すれば、一家五人で年間九円、十円の節約は難しくありません。

すると、忽ち地租軽減が実行されるのです。

履物だけでなく、衣食住や交際費など、日常のあらゆる支出を倹約すれば、さらに多くの軽減が可能です。

人は「地租」ばかりを地租と思いがちですが、履物を履いて歩く間も、食べ飲み着る間も、租税を払っているのです。

この重税を忘れて、地租軽減という美酒佳肴に熱中し、かえって時間と金を浪費しているのです。

地租は平均一反につき二円前後。これを一割、二割減らすよりも、より大きな軽減を自分自身で容易に実行できる方法があることを無視してはなりません。

倹約すれば、すぐに地租軽減となり、稼ぎ儲ければ、すぐに地租軽減となります。

これは実に容易な方法であり、いつでも自分の意志で実行できるのです。

倹約と勤労の「行き合い船」に乗り出せば、極端な地租全免も可能となるのです。

三円の倹約、二円の増収で、二反の田畑は無税地となる。二町、三町、四町、五町の免租も夢ではありません。

地租が八厘減、一分減でも大喜び。それが全免となれば、喜びのまた喜びです。

履物の地租軽減——これは何よりも先に、容易に実行できることに着手するのが上策です。

遠い山も、我が脚下に踏んでいる土であることを悟らねばなりません。

もろこしの山の彼方に立つ雲は ここに焚く火の煙なりけり


(唐土の山の彼方に立つ雲は、ここに焚く火の煙なのだ——遠いものも、身近から始まるという意)

挽かずと儲ける車賃

隣村に、相応の財産を持っていた人がいました。けれども心の乱れから放蕩に流れ、親譲りの身代を失い、ついにはその日暮らしもままならぬ状態に。

やむなく決心し、身一つで妻子を養う覚悟をしました。しかし、かつて「旦那様」と呼ばれていた者が、籠を担ぎ、荷車を挽くのは面目が立たぬ。そこで「大阪へ行って奮発したい。他国なら何でもできる」と言い、私の上阪に同伴を願いました。

この人はまだ「職業の神聖」を悟っていません。故郷でできぬ決心なら、他国でもできるはずがない——そう諭しましたが、懇望により同伴しました。

大阪では八百屋に見習奉公として入り、毎日荷車を挽いて天満の市場へ買い出しに行きます。ところが、彼は荷車を挽きながら、黒眼鏡をかけているという。

「眼でも悪いのか」と尋ねると、「いいえ、荷車を挽くのが恥ずかしいので、人を見ないようにしています」との答え。私は思わず吹き出し、「世間の人は黒眼鏡などかけていない。滑稽千万ではないか。恥ずかしい恥ずかしいでは、家業に身が入るものではない」と戒めました。

この話は、彼一人に限らず、世間にもよくあることです。

荷車を挽くのは恥ずかしい、いくら貰ってもできぬ——そう思う人は多い。

しかし、その「恥ずかしいこと」をせずに金儲けができるとしたら、誰も嫌とは言わないでしょう。

実は、挽かずに車賃を儲ける方法があるのです。

時は金なり。急ぐ時はともかく、徒歩主義を採って歩けば、車賃は不要です。

春の良い時候に、そぞろ歩きもまた気持ちよく、楊柳の風に吹かれ、蝶の友連れに心も和みます。こうして車賃を出さなければ、すなわち「挽かずと車賃が儲かった」ことになる。

ただ「出さない」という消極ではなく、「儲けた」と積極に考えることが肝要です。

車を挽いて渡世とする者もいますが、自分は「挽くのは恥ずかしい」。その恥ずかしいことをせずに儲けるには、歩くことが一つの金儲けだと思えば、歩くことも面白くなります。

面白く歩けば、難儀でもありません。

倹約だけで考えると、少しの苦労が苦痛となり、やがて嫌になります。

汽車に乗る時も、二等ではなく三等で辛抱すれば、数時間で何円という金が「お尻で儲かった」ことになります。

「尻で儲ける」と言えば可笑しく聞こえるかもしれませんが、むしろ高尚な趣味があるのです。

倹約は独り相撲で手はいらず 己に勝つの替え名なりせば


(倹約は独り相撲で手はいらず、己に勝つことの別名である)

腹の中の害虫駆除


稲作において、苗代の時からウンカ、青虫、イナゴ、ムクゲ虫、螟虫など百種の害虫が発生し、発育を妨げます。これらは卵を残し、本田への移植後も繁殖し、成熟を阻害します。

ある人の試算によれば、これら害虫による我が国の損害は年々一億円以上。害虫は農家にとって恐るべき敵であり、油断は禁物です。

かつては害虫のために収穫皆無となり、飢饉が発生し、幾万人もの同胞が餓死した事例もあります。小さな虫が人間の命運を左右する——その繁殖力の凄まじさに驚かざるを得ません。

農業の進歩により、かつてのような恐慌は減りましたが、それでもなお一億円以上の損害が続いているならば、駆除への努力は一層必要です。

しかし、稲の害虫以上に恐ろしいのは、人間の「腹の中の害虫」です。

その損害は一億円の米どころではなく、虫の種類もまた無数です。

  • 酒虫
  • 色虫
  • タバコ虫
  • 衣装虫
  • 食いたい虫
  • 芝居虫
  • 相撲虫
  • 野良虫
  • 借金虫
  • 騙り虫
  • 盗み虫
  • 喧嘩虫

これらは田を食い、山を食い、家を食い、蔵を食い、金を食い、果てはその身を食い尽くす恐ろしい存在です。

この害虫を駆除せねばなりませんが、これがまた難しい。

稲の浮塵子は重油駆殺法で一反に三〜四合の油を注げば、幾億兆の死骸が流れます。

しかし、人間の害虫には重油も効かず、螟虫の採卵も、白穂の切り取りもできません。腹の中にハサミは入らず、寄生バチやヒゲ長アブ、トンボのような益虫もいない。

どうすればよいのか——獅子身中の虫の駆除は至難の業です。

ただ一つ、根本に入って「我が心を悟る」こと。

心中の虫は、悟りによって悉く死に絶え、代わって「働き虫」「倹約虫」「出世虫」が生まれ、その身は福徳の富豪となるのです。

油断してはなりません。

腹の中の害虫を駆除せずしては、倹約も勤労も成り立ちません。

稲の害虫は農業の進歩によって飢饉を免れましたが、腹の中の害虫による飢饉は、今なお人々を見舞っています。

この「腹の中の害虫駆除」こそが最も肝要なことであり、これを駆除すれば、安心して「金の実る木」も確かに育つのです。

植えてみよ花の育たぬ里もなし 心からこそ身は卑しけれ


(花が育たない土地などない。卑しさは環境ではなく、心の持ち方による)

倹約は時知らぬ花

枯れ果ててしかも花咲く梅が枝に 声をも立てず鶯の鳴く

枯木寒巌の三冬に暖気なき世界は、生きたこの世に死んだ灰、冷たい火のようなもの。けれども、枯れた木に花が咲き、鳴かぬ鳥の声を聴くとき、そこにこそ真実の世がある。

世間では「倹約は良い」「いや悪い」と議論されるが、良し悪しの判断は、まるで鳥の雌雄を見分けるようなもの——誰に確かなことが言えようか。

倹約は「消極」とされる。勢力発揮のこの世においては、積極的進歩こそが求められる。倹約ばかりを唱えて消極に傾けば、進歩を妨げ、萎縮し、遅疑し、退歩し、不景気の世をさらに不景気にするという声もある。

なるほど、そうした面もあるだろう。しかし、物事には消極と積極、奇数と偶数、男と女——必ず二つの相があり、どちらも欠かせない。

時と場合に応じて、一方を捨てて他方を立てることもあれば、両方を同時に立てることも、両方を捨てることもある。臨機応変、鏡に映るように、柳は緑、花は紅。

積極が消極となることもあり、消極が積極となることもある。有無の二見に囚われていては、自在は得られない。

消極が悪いとは限らず、積極が良いとも限らない。枯れ果てた梅の枝に花が咲き、声を立てぬ鶯が鳴くように、消極の中にも生命がある。

倹約が悪いとされるのは、心に熱がなくなり、萎縮するから。ならば、倹約を積極に考えればよい。

一銭の食を倹約するにも「百円の預金」と思い、二銭の紙屑を売れば「二百円の預金」と思えば、心は伸びて萎縮しない。

消極でも消極でない。それを「消極だ」と決めつけるのは、有無の二見に囚われた狭い了見。有無は自在である。

さらに、倹約が「貯金」となれば、その貯金は「利用」を目的とする。貯金は箱詰め缶詰ではない。利用せずに貯め込むなら、それは守銭奴、経済上の泥棒である。

私たちが貯金するのは、利用のため。利用すれば生産となり、積極に働く。倹約はこの積極的利用の源泉であり、目的が行為を支配し、心をも支配する。

貯金なき家に生産はない。貯金なき村に事業は興らず、貯金なき国に実力はない。

倹約を「良い」「悪い」と言うのは野暮の骨頂。決して世の進歩を妨げるものではない。

だからこそ、倹約は消極にも積極にも考えられる。

消極が悪いなら、積極に考えればよい。積極に考えれば、貯金は面白くなり、実行が現れる。世の中は不景気知らずとなる。

消極を積極に転じることができれば、有無の二見を離れた自在の天地に入り、経済の神髄を得る。

それは、富豪への近道を「行き合い船」に乗って進むようなもので、道中に咲かぬ花が目に見えて、楽しく出世するのです。

春ごとに咲かぬ花見る友もがな 吉野初瀬の物語せん


(春ごとに咲かぬ花を見る友が欲しい。吉野初瀬の物語を語り合おう——時を選ばず咲く心の花を理解する友を求める意)金も多くでき、万事万物が貯金となる。すると、楽しみの範囲も広がるのです。

◆第6講 貯金なき勤労はくたびれ儲け◆

水の月


水が月か、月が水か——取り分けて見れば、月は天にあり、水は桶にある。けれども、桶の水に映る月影は、天地が一枚となって描かれた美の象徴です。

この月影を取り分けようとすれば、さて難しい。月が水で、水が月である。区別のつかぬものです。

この道理を合点すれば、貯金と勤労もまた別物でありながら、一枚の絵のように重なり合うものです。

勤労という水があってこそ、月影——すなわち貯金——が美しく映る。映った月は実は水であり、勤労が貯金という形を現してこそ、その水は詩ともなり、実ともなって、美の価値を生むのです。

貯金は桶の中に映る月。

私たちはこの世に生きる限り、勤労をせねばなりません。その勤労の水には、月影——貯金の光——を宿さねばならない。

もし勤労しても月影が宿らず、貯金ができなければ、その水は濁っている。勤労も勤労でなく、ただ「草臥れ儲け」となって終わる。

水は、桶の中にあろうが、一滴の露であろうが、波風立とうが、岩に砕けようが、月を映す性質を持つ。

勤労もまた、常に貯金という月を映すべき性質を持つ。

それなのに、貯金ができぬ、月が映らぬというならば、その勤労は水でない。底の抜けた桶。月もなければ水もない。

勤労の中に貯金がなければ、勤労の光は出ない。貯金がなければ、勤労はその性質を失い、ただ草臥れと苦痛を宿す。

やがて勤労主義は衰え、安逸を貪り、怠け暮らし、人の天職を忘れ、家業も盛んにならず、商売も繁昌しない。

月の映るところには水がある。水のあるところには月が映る。

貯金をすれば、勤労が行われる。勤労が行われれば、出世の身となり、富豪にもなれる。

秋の夜、船漕ぎ行く波間に映る月影の美しさ——それは勤労と貯金の照応の美でもある。

それなのに、貯金もせず、毎日働いてばかりでは、人間も気の毒なもの。

何のために働いているのか、何のために使われているのか、訳も分からず、ただ草臥れ儲けとなり、難儀ばかりを感じて、人間の本領を失い、万物の霊長者としての位置も失ってしまう。

水と月の区別があって、その区別のないところにこそ悟りがある。

うっかりすれば、水もなく、月も宿らず、月の宿らぬところに水もない。無し、無しの蔵なし、家なし、値打ちなしの人間となってしまう。

心から巧みし桶の底抜けて 水溜まらねば月も宿らず


(心を込めて巧みに作った桶も、底が抜けて水が溜まらなければ、月も宿らない)

くず籠に盛り水

竹で編んだ屑籠の中に水を盛ってみなさい——そう言われて、果たしてできるでしょうか。奇術師や手品師でも、こればかりは難しいかもしれません。屑籠に水を溜めようと、いくら汲み込んでも、粗い籠の目からさっと抜けてしまい、何千何万石の水でも溜まることはありません。

けれども、この屑籠に水を一杯に盛ることが、何よりも大切なのです。もし水が一杯に盛れなければ、出世の身にも、富豪の身にもなれない——そう心得るべきです。「変なことを言う奴だ」と思うかもしれませんが、これこそが肝心な心得なのです。もし「そんなことできるはずがない」と早合点するなら、その人こそ、屑籠に水を汲み込んでいる人であり、少しも金の溜まらぬ人なのです。

では、どうすれば屑籠に水を満々と盛ることができるのか。やってみなさい。訳も雑作もなく、すぐにできることです。奇術師や手品師を頼まなくても、誰でもその場でできることです。できないことをいくら言ってみても役には立ちません。空理空論は、富豪になる道には禁物です。

確かに屑籠に水を盛りたいなら、屑籠を水の中に差し込んでみなさい。籠の中には水が満々と溜まっています。何の訳も雑作もなく、目の前で実験してみればすぐにわかります。こうすれば、籠の中の水は決して漏れ出ることはありません。月も映り、我が顔も映るのです。

さて、これがなぜ富豪になる心得なのかというと——水とは、勤労と貯金の異体同身。貯金が勤労か、勤労が貯金か、水と月のように、区別はありません。

この二つが離れず一体となった水の中に、屑籠という我が身体を突き込めば、そこに水が溢れ、富豪にも出世の身にもなれるのです。

それなのに、勤労と貯金を別々にして、籠の中だけに水を溜めようとすれば、勤労は草臥れ儲けとなり、粗い籠の目から水は抜けてしまいます。人間の腹の中に酒ばかり注ぎ、ご馳走ばかり詰め込んでいては、金が溜まらないのと同じことです。

出世の身になるには、「我」を捨てることが肝要です。我を捨てて、水の中に屑籠を突き込めば、水は漏れず、満々と盛れるのです。

それなのに、「我」があって、「食いたい」「着たい」という欲ばかりで、働いては食い、飲み、貯金を忘れてしまえば、水の中に身体を入れるのも冷たく感じて、働くことが嫌になります。

嫌になるのも道理。草臥れ儲けばかりしているからです。

勤労には必ず貯金が伴い、そのまま一つとなっているところに、我を捨てて三昧となれば、屑籠も水の中にあり、我も勤労も貯金も皆一つ。寒さも暑さも苦しみもなく、そこに出世の身、富豪の身がある。すなわち「屑籠に水が溜まった」のです。

こうしてこそ、働きの価値がある。いや、人の人たる価値があるのです。

世の人々は、この肝心な道理を合点せずに働いているから、草臥れ儲けとなり、勤労を厭うのです。

屑籠にいくら水を汲み込んでも、決して溜まりません。我から我を捨てて働くことが肝要です。そうすれば、暑さも寒さも苦にならず、愉快のうちに勤労ができるのです。

寒熱の地獄へ通う茶柄杓も 心なければ苦しみもなし


(寒熱地獄へ通う茶柄杓も、心がなければ苦しみもない——無心に働けば苦痛もないという意)

線香花火

商売を始めて、店に品物が豊富に揃い、それが次々と売れていく——そんな気持ちの良いことは他にないでしょう。一ヶ月に五千円、一万円、二万円と、売上の声が大きくなっていくのは、誰もが望むことです。

しかし、店が賑やかで、品物が多く、客も多く、売上も多くあったとしても、金が残らなければ、それは商売とは言えません。

毎日多くの丁稚や小僧を使って商品の仕入れに走り回り、客に頭を下げて目を回して働いても、音ばかりで何も残らない。草臥れが儲けとなってしまう。

それならば、月に百円、二百円の小さな商売でも、十円、二十円が確実に残って貯金ができるなら、むしろその方が真の商売です。何万円の売上よりも、何百円の商売が金を儲けたことになる。小が大に勝るのです

これはなぜかというと、「貯金」という一つの実行があるからです。

せっかく多くの仕入れをして、客を招いて商売しても、何の効果もなければ意味がありません。

ところが世間では、「商売を大きくすればそれで良い」と考えて、無闇に金をばらまいて広告をしたり、ピーピー・ドンドンと東西屋を頼んで騒ぎ立てます。あちらに支店、こちらに分店と、無闇に手を広げる。

これも決して悪いことではありません。広告もして良い、支店も置いて良い。

しかし、金を残して貯金をしなければ、せっかく費やした広告費も、支店の費用も、すべて無駄になってしまいます。

商売が生きるか死ぬかは、「貯金」という扇の要が第一なのです。

このことを考えない人は、店が盛んになり、品物が増え、支店が多くできた時に、頭も回らぬほどの何十万円もの借金を抱えてしまいます。

繁盛したと思っていたのは、利益ではなく借金だった。日々の商売は、ついに借金の利子に食われて、本店も支店も同時に戸を閉めなければならなくなる。

商売が大きくなればなるほど、資本の運転や相場の変動に骨が折れ、影響も受ける。だからこそ、油断せず貯金をしておかなければならないのです。

それを怠れば、「鳴神商売」——鳴いて済むばかりの商売となってしまう。

むしろ、資本も余計に要らず、心配も少ない千円、二千円のわずかな売上で金を残した方が、利益となるのです。

人は進歩向上の性を持つものですから、小さな商売よりは、少しでも大きくするのが良い。

しかし、商売をして利益が残らなければ意味がありません。せっかく大きくしたのに、草臥れ儲けとなってしまっては、進歩も進歩ではないのです。

こんな商売は、小児が線香花火を弄んでいるようなもの。

火を一端につけると、忽ち四方にパッパと火の花が咲いて美しい——けれど、それは一時のこと。

「カラマツ、カラマツ」と二口三口唱えている間に、シューッと消えてしまう。

だからこそ、貯金をしない商売は「線香花火」なのです。

奉公人に奉公する主人

さて、商売をしても、その利益を貯金しなければ、一日働いている意味が分からなくなってしまいます。

多くの番頭や丁稚を使い、「旦那様、旦那様」と呼ばれる主人がいたとしても、その主人が彼らに食事を与え、衣服を着せ、給料を払って、一文も残らないとすれば——その商売は、番頭や丁稚の衣食や給料のためにしていることになります。

資本金も努力も、自分の利益ではなく、彼らの利益になってしまうのです。

「番頭や丁稚を使っている」と思っているのは間違いで、実際には「番頭や丁稚に使われている主人」なのです。まるで猿曳きが猿に使われているようなものです。

さらに、こうした人は奉公人に使われるだけでなく、融通してきた高利の金に日々の利益を払って働いていることになります。

つまり、働いた利益がすべて高利貸の利益となり、「高利貸に奉公している」ような商家も、世の中には少なくないでしょう。

利益を得て、それを蓄えることで、初めて商売は商売となり、主人は主人となるのです。

「主人になるか、奉公人になるか」——その分かれ目は、貯金という一つの実行にあります。まさに天下分け目の天王山です。

工場で機械を使う人も、「機械を使っている」のか、「機械に使われている」のか——その境目も、ただ一つ、貯金の有無にあります。

貯金をせず、その日暮らしで終えてしまえば、朝から晩まで働いた意味が分からなくなり、その人は「機械に使われている」のです。

紡績工女が糸を採り、綿を加えるにも油断はできません。

機械は真面目に働いています。遊びたくなったり、眠くなったりするのは工女の方ですが、機械は遊ばず、眠らず、休まず働き続けます。

だから、工女も余儀なく働かされる。もしよそ見をしたり、居眠りすれば、機械に指を食われてしまいます。

あわれ、機械に引き回され、機械に叱られながら働いている工女。

彼女は機械を使っているのか、それとも機械に使われているのか。

貯金をすれば「機械を使う」ことになり、貯金をしなければ「機械に使われる」ことになるのです。

商業でも工業でも、何をするにしても「貯金」を忘れてはなりません。

「使う」と「使われる」——この大きな違いは、ただ貯金という毫厘の差から生じるのです。

使う身が使われてしまう——それが「くたびれれ儲け」であり、富豪への道中で向こうを向いてしまうことになるのです。

彼はさぞ使うとこそは思うらん 使われて世を渡る猿曳き


(猿曳きは猿を使っていると思っているだろうが、実は猿に使われて世を渡っているのだ))

猿に似た人

人間は猿から進化してきたという説もあるので、猿に似た人がいても不思議ではないかもしれません。太閤秀吉は「猿公」と呼ばれながらも天下を握ったほどです。

顔が猿に似ていても、心まで猿に似ていなければそれでよい。しかし、心が猿に似た人間は困ったものです。

私が三十八年の春、九州を漫遊していたとき、大隅の西南端にある山村から招かれて、数日間講演を行いました。そこで面白い話がありました。

その村は山間の僻地で、文化の程度が非常に低い。ある日、有志が私のもとを訪れ、「講演を聞いた記念に貯金を始めたい。このような寒村では労力貯金をさせるしかないが、どうすればよいか」と相談してきました。

私は「この山野に何か良い天産物はないか」と尋ねると、一人が「この村には丁子という薬種原料にも香料にもなるものがあります」と答えました。

それならば、それを採らせてはどうかと提案すると、別の人が「以前はたくさんありましたが、次第に減ってしまいました」と言います。

「それはなぜか。丁子は大きな木から年々採れるもので、すぐに採り尽くせるものではない。風土の関係で枯れたのか」と尋ねると、「いえ、そうではありません。村人たちが毎年山へ行って、大きな木を根元からゴシゴシ引き倒して丁子を取るから、次第に少なくなったのです」とのこと。

これを聞いて私は驚きました。

丁子の木は三十年、五十年という長い年月を経て育つもの。それを保存すれば、幾十百年の命があり、年々その実を採れば利益は尽きないはずです。

それなのに、木に登って採るのが面倒だと言って、根元から伐り倒してしまうとは——私は二度驚きました。

これはまるで猿の知恵のようです。猿に似た人とは、こういう人のことではないでしょうか。

猿ならば木登りが得意で、登って採ることに苦はないはず。それを一年分のわずかな実を採るために、何十年もかけて育った木を倒してしまうとは、何ということでしょう。

これでは貯金もできず、富豪にもなれないのは道理です。

木を伐る労力を木登りに使えばよいものを、少しの時間と少しの勤労を惜しんで、百年の利益を失う——なんとも勿体ない話です。

一年分の丁子の実の生産額は少ないかもしれませんが、木を保存すれば、年々多くの貯金ができます。

木の保存も貯金の元。木に預けておいた貯金は、時を違えず、毎年花が咲き、実が成る——そのことを知らねばなりません。

有志たちは「それを村民に教え、腹の中に貯金の意識を持たせなければ貯金はできない。猿に似た人を“人に似た猿”にして、木登り上手にさせることが肝要だ」と笑って語りました。

この話は滑稽ではありますが、何もこの村の人だけの話ではありません。

百年の利益を一時の欲で無にする人は、世の中にたくさんいます。

結局、一時の迷いとは、前途が見えていないから起こるもの。理想が乏しいのです。

腹の痛みや身体の悩みも顧みず、飲んだり食ったりして健康を損ね、生涯の損失を招き、ついには堕落して人格を失ってしまう。

貯金の実行とは、前途を見据えて行うもの。確かな理想によって実行され、実現は常に理想に伴って勤労となる。

猿に似た理想なき人では、いくら働いてもその働きは水の泡。富豪にもなれません。

そんな人には、富豪という楽しい理想もないのでしょう。ただ「金があれば飲み食いができる」と思う程度の欲望に過ぎません。

それでは、人としての本領がありません。

不意の備えは毒

思いがけず金が儲かると、人は非常に喜びます。喜んでどうするかと思えば、「これは不意の儲けだ」と言って、すぐに飲み、食い、着るなどして使ってしまいます。

相場で儲けた人などは、二二が四の算盤勘定で儲けるのですから、多くは乱費に傾きます。結局、勤労の結果ではないからこそ、やすやすと使ってしまうのでしょう。

勤労の尊さは理解できても、勤労なしに得た不意の金は、算盤から割り出せるものではありません。つまり、いつでも来る幸せではないのです。

だからこそ、この金は「儲け以外の儲け」として貯金すべきなのに、それを使ってしまうのは、せっかく来た福の神を玄関から追い払うようなもので、幸せも幸せになりません。

不意の儲けがあったために、飲み、食い、着ることが増え、奢侈が増長します。この癖はなかなか直らず、不意の儲けは二度と来ないとすれば、儲けが毒となって、我が身や我が家を滅ぼすことになります。

また、ただ貰った酒肴——これほど良いものはないように見えても、少しも利益にはなりません。

私の地方では、灌漑用水の利害問題が非常にやかましく、取るべき水の権利は定まっていても、上流村の機嫌を取らなければ水が流れてきません。

そこで、下流の村からは、上流の村へ毎年酒肴のご馳走を持ち込みます。ある上流村などは、その貰い物が少なくありません。

この村の人々は、ただ酒を飲み、ご馳走を食って腹鼓を打ち、下村に向かって横着ばかり、無理ばかり言っては、また酒にして飲みます。

後の世では「あの上村に生まれたい」と羨む者もいるほどです。

こんなにただ酒を飲み、貰って食うのは良いことのようですが、その村をよく見ると、貧乏人が多く、農業も盛んでなく、人気も悪く、風俗も乱れていて、良いところはありません。

水は勝手に取って田を耕すことができるのに、その田はよくできず、値も安く、人は貧乏——不思議なことです。

これは「ただ酒飲み、ご馳走食った中毒」ということを理解しなければ、ますます不思議に思えるでしょう。

酒代、肴代には金を出さずとも、ただ酒を腹一杯に飲めば、酒が次第に強くなって止められなくなります。

そうして女房も飲み、子も飲む。けれども、ただ酒は毎日あるわけではない。それでも飲まずにはいられない。

今度は、ただ酒を飲んだおかげで、自分の金を出さなければならなくなる。時間も費やし、頭脳も鈍り、働きも鈍くなり、知恵も回らなくなる。

そこで田畑の値がつかず、貧乏の末には悪徳・邪行が栄えてしまう。

だから、ただ飲む酒は、かえって身を滅ぼす毒であり、不意の金儲けも、これを貯金しなければ、儲けとはならず、害となるのです。

大阪に、私の知っている富豪がいます。この人は相場で身代を作った人で、相場といえばあまり感心されないかもしれませんが、今日の富豪となって栄えているところに、一つ感心すべきことがあります。

この人は、長年相場で儲かった金を、いつも神棚に上げて祈ります。

「相場という投機で儲かることは、普通はあり得ない。それを儲けさせてくださったのは神様のおかげ。儲かるはずのないものを儲けさせてくださって有難い。この幸福を失っては、再び得られるものではない。有難うございます。必ず貯金にいたします」と言って、神に感謝し、すぐに銀行に預け入れます。

儲かった金は、いつもこのようにして蓄え、日々の生活は、自分が働いた糸商売の利益で立てていきます。

もし相場で損をすれば、それは自分の失策として、自分の働いた金で償っていく。

また、どんな損が来るか分からないと考え、日頃から商売に励み、費用を倹約して貯金をするから、損が損にならない。

最初から儲かった金には一切手をつけず、貯金していく——それで今の富豪となったのです。

相場に手を出すことはお勧めしませんが、この人の心がけは、ぜひ持ってもらいたいものです。

不意の儲けを「再び来ぬもの」として貯金すれば、毒もまた薬となるのです。

甘きもの食わせる人に油断すな いつもあと腹病めるものなり


(甘いものを食わせる人に油断するな。いつもあとで腹を病めるものだ)

空頼みの智慧貯金

人間には智慧があり、それはありがたいものです。けれども、その智慧は善にも使えれば、悪にも使える。悪に使えば、智慧も智慧にならず、かえって自分の頭を切るような結果になることが多い。

「貯金をしなければならない」というのは、誰もが分かりきったことです。ところが、智慧のないカブや大根は、よく貯金をして怠りません。無智の愚が、知者の及ばぬほどの実行力を持っているように見えることさえあります。

それを目の当たりにしている人間が、貯金をしないことがある。その人は「智慧貯金」というものをしていて、たとえ実際の貯金がなくても「自分には智慧があるから大丈夫だ」と、あてにもならぬ智慧を頼りにしている。

ところが、病気になったり、火事に遭ったり、損をしたりすると、たちまち困り果てて、いくら智慧袋の中を探してみても、貯金は出てこない。間に合うものではない。

これは、空頼みの智慧貯金をあてにして、真実の貯金をしていなかったからです。

空頼みの智慧貯金を頼りにする人は、病気になればすぐに親類縁者に泣きついて金を借りる。子供の教育に金が要ると言っては、「十日で返す」「二十日で返す」と、返すあてもないのに友人を欺いて金を工面する。

飲んだり食ったりしておいた月末の支払いができないと言っては、まだ掃き立てもしていない養蚕の繭を抵当に高利を借りる。その期限が来ても、「今年は繭が不作だから返金できない」と平謝り。

借金は繭がしている——さてさて、繭も迷惑な話です。

田畑にうぶ毛ほど伸びたばかりの稲麦の青田売りをする。もう人のものだと言って手入れを怠る。予想通りの収穫がない。

すると「虫のせいだ」「天気の加減だ」と、虫や天に難癖をつけて借金を断ってみても、聞き入れてはもらえない。

米麦を取られた末に、なお借金が残って頭も回らぬ始末。果ては偽り、騙り、裁判沙汰となって、ついにはその身を滅ぼしてしまう。

これらはすべて、智慧貯金の結果であり、空頼みの智慧貯金ほど恐ろしいものはありません。

智慧を頼りにするのは人間です。もともと智慧があって人間です。

けれども、その智慧を空頼みしない人こそが、真の智者です。

何につけても、智慧ばかりを頼りにしていては、間に合うものではありません。

智慧があったら腹が太るかといえば、飯を食わずに腹は太りません。

魚を釣るには釣針が必要であり、海を渡るには船が必要です。

釣針や船を用意するのが智慧の働きです。

釣針も船も用意せずに、ただ智慧を頼ってみても、まさかの時に役立たない空智慧。愚者にも劣るものです。

貯金という用意がなければ、安全に世渡りはできません。

それを空頼みするのは、智者らしく見えて、実は智者ではありません。

強いてこれを智者というならば、「邪智者」と呼ぶべきであり、智慧の濫用です。

智慧も、智慧として善用すれば、智慧の価値があります。人間の価値があります。

それを悪用して邪智となり、濫用となれば、愚の愚。人間としての価値はありません。

うかうかとして、空頼みの智慧貯金をあてにしていては、間に合うものではないのです。

幸福と頼む災厄

幸福を幸福とも思わず、災厄をかえって自分の幸福と願う人がいる——これは実に驚くべきことであり、また憐れむべきことです。

こうした事例は少なくありません。たとえば現在の東京では、聞くも恐ろしい話があります。

東京は人家が密集しているため、昔から「江戸の花」とも称される火事が多く、何千何万という家屋が灰燼に帰したことも度々ありました。

「地震、雷、火事、親父」と言われるように、火事は人が最も恐れる災厄の一つ。警鐘がジャンジャンと鳴り出すと、誰しも気持ちの良いものではありません。

しかし、世の進歩とともに近年は防火も行き届き、火事も少なくなりました。また火災保険が整備され、建物の保険制度があるため、仮に火災に遭っても一時的な救済が得られ、東京での生活も幾分安心となりました。

ところが、この火災保険という便利な制度が広まると、例の「智慧貯金先生」がその智慧を乱用し始めます。

借金に苦しみ、家を売ろうとしても千五百円にしかならない。ところが保険は二千円かけてある。売るよりも、いっそ家が焼けてくれれば五百円余計に儲かる。

そこで近所から火事が出てくれないかと願い、警鐘が鳴るたびに耳をそばだてて「隣ではないか」と勇み立つ。

人が忍ぶべき火災を、自分の幸福として待ち構える——しかし火事は出ない。

すると夢に火事を見て、ついには自分の家に火を放ち、天災のように装って夢を現実にしてしまう。

けれども、隠れたことは必ず顕れる。すぐに警察に探知され、その身は拘引され、牢獄の恥をかくことになります。

借金から逃れようと、自分の家に火をつけて保険金を得ようとしても、「天の網は疎にして漏らさず」。

近隣にまで災いを及ぼした罪は免れず、家を焼いて、また自分自身も焼く——憫然たる結末です。

こうした事例は、毎年一つや二つはあるとされ、実に憎むべき所業と言わねばなりません。

このように、災厄をかえって幸福と頼むようになるのは、肝心な貯金をせず、草臥れ儲けばかりしているから。

空頼みの智慧貯金に頼り、良い智慧が起こらず、ついにはこのような末路となり、身の浮かぶ瀬がなくなるのです。

また、前年には東北地方で飢饉がありました。

当時の新聞や雑誌は、災厄に遭った人々の窮状を日々報道していました。

私はこれを聞いて、「この明治の世に飢饉とは何事か」と驚きました。

運輸交通の機関も整っているのに、なぜ災厄が起こるのか。昔の飢饉と今の飢饉は違うのではないか。

研究して自らを戒め、人を戒める千載一遇の機会と思い、不自由な身を忘れて、遠く南海の孤島から杖を頼りに現地へ赴きました。

あちらこちらと盲目歩きして原因を調査すると、近因は農作の不作による恐慌でした。

しかし、昔のように食料品が得られないというわけではありません。

昔は、大判小判千万両を抱えていても、食料がなければ空しく玉を抱いているようなもので、飢饉という惨状が起こりました。

けれども今は交通機関が整い、食料品は目の前に山のようにあります。

つまり、金さえあれば飢えることはない。結局、貯金への油断が原因だと寒心したのです。

災厄に遭った人々がなぜ貯金を怠ったのかを調べると、原因は様々ですが、要するに「貯金趣味がない」。

貯金趣味がないから、勤労が楽しくない。勤労が楽しくないから、貯金ができない。

そのため、勤労して貯金するよりも智慧貯金を頼り、智慧も無智となって、働きが草臥れ儲けとなり、果ては災厄をかえって幸福と頼むような様子が見られました。

飢饉という惨状に陥り、世間の同情が多くの救恤金となり、金を貰ってみると「飢饉のおかげで平生よりも良いものが食える」という事実もあり、多くの人の中には飢饉の災厄をかえって幸福と思った者もいたようです。

こうなってくると大変です。決して身が栄え、家が富むことはありません。

だからこそ、草臥れ儲けをせず、貯金をしておけば、たとえ飢饉の災厄に遭っても、飢えて食えないというような哀れな運命に陥ることはなく、災厄をかえって幸福と頼むような誤ったこともありません。

奥山の杉の群立ちともすれば 己が身よりぞ火を出しける


(奥山の杉の群生が、ともすれば己の身から火を出す——災いは自分から起こすという意)」であり、徳によって初めて利益を得ることができるのです。

声本位

ありといえばありとや人の思うらん  答えてもなき山彦の声

金本位、銀本位という世の中では、金銀がなければ通用しません。

それなのに、金銀を蓄えず、口ばかりで大きなことを言いふらし、「何万円、何十万円」と、無いものを有るかのように語る人がいます。

もし声だけで通用するならば、大声の人や、よくしゃべる人は皆大富豪でしょう。

借金取りが来ても、「はい、返済いたします。御受け取りください。それ、二万円、三万円」と口で言って済むなら、誰も苦労はしません。

品物を買って「五円、十円」と声で支払えるなら、働くことも倹約することも要らないでしょう。

しかし、現実にはそんなにうまくいくものではありません。

借金取りも、二万円、三万円の一声で証文を返してはくれません。商売人も、五円、十円の声だけで品物を売ってはくれません。

もし声本位で通用するなら、世の中には金を貸す者も、品物を売る者もいなくなるでしょう。

否、貸す金も、売る品も、そもそも存在しないはずです。

つまり、声本位では世の中は立ちません。

それなのに、声ばかりで大きなことを言っている人は、その身も立たぬ人であり、口ばかりの人には実行が少ない。

貯金の実行は、口ではできません。やはり私たちの勤労に頼らねばならないのです。

くたびれれ儲けで終わらず、勤労に勤労を積めば、貯金ができて、口をきかずとも金銀が通用し、立身出世の身となるでしょう。

声ばかりでは、決して世の中に通用しません。

しかし、貯金をたくさんすると、その力は恐ろしいほどで、通用しなかった声が通用することもあるのです。

財産をたくさん持った人であれば、目の前に現金を持ってこなくても、「何十円、何百円、何千円、何万円、これ買った」という一声が、そのまま通用して、品物も渡される。

つまり、声が通用するのです。

だからこそ、声本位を全く無視することはできません。

時としては通用し、時としては通用しない。

その違いは、貯金のあるなしによるのです。

貯金があれば、声も金となって通用し、貯金がなければ通用しません。

一切万物は、皆貯金の影法師。

実があれば影があり、実がなければ影はない。

影ばかりを求めても、実がなければ何も得られません。

実を失えば、影法師も自然と消えてしまう。

だからこそ、私たちは貯金をせねばならないのです。

貯金は、万事を生かす造物者。万物を生む母。

声も金になって通用します。

裸では道中はできません。

富豪になる道中の駅は貯金であり、貯金を多くすれば、駅を過ぎ行く旅人もやがて富豪となり得る。

草臥れ儲けばかりでは、貯金はできません。

無いものを有るものにし、死せるものを生かし、自由自在に天地を駆け回る翼は、貯金によって得られる。

声本位は通用しませんが、それを通用させるのは、貯金の力であるということを悟らねばなりません。

貯金は、無限の力を持っているのです。

なしといえばなしとや人の思うらん  答えもぞする山彦の声


(「ない」と言えば「ない」と人は思うだろうが、答えもする山彦の声よ——貯金があれば声も通用するという意)ら火を出す——災いは自分から起こすという意)」であり、徳によって初めて利益を得ることができるのです。

参考文献

[1] 『貯金道話』丁未出版社発行、明治四十三年五月十五日発行

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

  • URLをコピーしました!
目次