森盲天外『農業道徳』は、近代日本における農業思想の中でも、ひときわ独自の光を放つ名著である。
本書は、農業を単なる生産活動としてではなく、自然と人間が相互に徳を育て合う営み として捉え、その精神的基盤を深く掘り下げた希有の書である。盲天外は、牛馬・鳥虫・蚕といった小さな生命に宿る「徳」を見つめ、そこに人間が学ぶべき姿を読み取った。その眼差しは、自然を搾取の対象とするのではなく、共に働き、共に生きる存在として尊ぶ精神 に満ちている。
本現代語訳は、盲天外の思想をより多くの読者に届けるため、原文の格調と精神を損なうことなく、現代の言葉で丁寧に読み解いたものである。難解な文語体を読みやすくしつつ、盲天外が込めた倫理観・生命観・労働観を忠実に再現することを旨とした。
本書に描かれる思想は、「労働は徳である」「自然は師である」「小さな生命にも尊厳がある」「共同体は相互扶助によって成り立つ」「人間の不徳は必ず社会に影響する」といった普遍的な価値を含み、農業に携わる者のみならず、現代を生きるすべての人に深い示唆を与える。
盲天外の言葉は、今日においてもなお、静かに、しかし確かな力で私たちを導いてくれる。本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。
※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。
意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
◆第九章 徳田の草取◆
第一節 肥料の強盗
雑草は作物の栄養を奪い、害虫を呼び込み、光や空気の流れを妨げる「強盗」のような存在である。
作物は自ら身を守る力を持たず、農家がその代わりに害物を取り除き、健全な生育環境を守らなければならない。中でも稲に似て姿を巧みに偽る稗のような雑草は、不注意な農家を惑わせながら肥料を奪うずる賢い存在であり、注意深い観察と識別が求められる。農家は作物を守る「警吏」としての役目を果たし、雑草の仮面を見破り、強奪を防がなければならない。
除草は単なる作業ではなく、作物という弱い存在を守るための道徳的責務であり、農業の倫理が最も端的に現れる営みである。
「憎まれ子は世に蔓延る」ということわざのとおり、雑草は田にも畑にもよくはびこる。
これが繁茂すると、作物の発育を害する。
私たちが費用と労力をかけて施した肥料も、雑草に吸収されてしまい、その結果、作物の栄養が不足する。
また雑草は害虫を誘い、光線や空気の流通を妨げる。
だから私たちは努めて、これらの害物を取り除かなければならない。
雑草とは、作物の栄養を奪う「強盗」である。
しかも覆面もせず、公然と強盗を働いている。
作物は手も口もなく、この強盗を叱りつけたり、殴ったり、追い払ったりすることができない。
だから私たちが除草を行い、この強盗を追放するのである。
性質は道によって賢くもなり、悪道を行えば悪性はますます巧妙になる。
水田に発生する雑草の中にも、その道において非常にずる賢いものがある。
その形が稲に似ていて、しかも稲ではないものがある。
よくもここまで化けたものだと言いたくなる。
稗(ひえ)はその形が稲に似ており、柔らかい茎や青々とした葉をまとって、一見すると稲と区別がつかないほどである。
こうして不注意な農家という「警吏」を惑わせながら、堂々と強奪を働いている。
だから他の雑草が取り除かれても、稗だけが残って水田に繁茂していることが多い。
しかし、どれほど賢く姿を変えても、農家が注意していれば、その仮面をはぎ取り、正体を見破ることは難しくない。
私たちは人間であり、彼らは植物である。
どうして植物に欺かれるような愚に陥ることがあろうか。
注意して稗を取り除き、作物の肥料を強奪させないようにしなければならない。
だから農家は、警吏の役目も果たさなければならないのである。
第二節 除草の目的
土除草の目的は、単に雑草を抜いて肥料の奪取を防ぐことにとどまらず、土を掘り起こして温度と空気を導き入れ、肥料の分解を促し、作物の発育を助けるという重要な役割をもつ。
草を抜くことは表面的な効果にすぎず、盤土をほぐして土壌環境を改善することこそが除草の本質である。とくに水田では、少量の潅水と盤土の攪拌によって温度と空気を導き、抜いた草をそのまま土中に挿し込んで肥料とすることが求められる。
しかし、ただ手先で草を摘むだけの作業に終始してしまう地方もあり、その場合、除草の本来の目的は果たされない。除草の効果を十分に発揮させるには、体力と技術を要するため、農業の進んだ地域では男子がこれを担ってきた。
除草の真価を理解し、その目的に沿って行うことが、農業の発達と土地の徳を引き出すために不可欠である。
除草を行うのは、ただ雑草を抜き取り、肥料の強奪を防ぐためだけではない。
除草を行えば、その結果として、畑でも水田でも、温度と空気を土中に導き、肥料の分解を促し、作物の発育を良好にする。
この利益は非常に大きく、常に除草の目的の一つとして数えられている。
名は「除草」といっても、その効果においては、単なる草取りにとどまらない価値がある。
だから除草をする際には、草を抜くと同時に、この目的を達成するよう努めることが最も重要である。
雑草を抜くことは現在の効果であり、光線・空気の誘導はその結果として現れる効果であるが、どちらも除草の目的である。
したがって畑の草を抜くときには、根を取るために、鍬で盤土を掘り起こし、ほぐすことが必要である。
特に水田では、温度と空気の誘導に努めなければならないため、潅水も極めて少量にし、手でよく盤土をかき起こし、抜き取った草はそのまま土中に挿し込んで即座に廃物利用し、肥料としなければならない。
ところが、除草の目的を誤り、ただ草を抜けばよいと考えている者も多い。
ある地方では、水田の除草を婦人の当然の仕事としているらしい。
こうした地方では、多くの場合、除草の目的が失われている。
婦人は腰をかがめ、手先で草を抜くだけである。
十分に盤土に手を入れて掻き起こすことをしない。
まるで顔に白粉を塗るように、表面をなでておくだけである。
だから温度と空気の誘導を完全に行うことができない。
農家が肥料を施してすぐに除草を行うのを適切とするのは、除草の結果、肥料の分解が容易になるからである。
そうであれば、事情に特別の制約がある地方はともかく、除草の目的を十分に果たそうとするなら、できるだけ体力のある男子の手で行わなければならない。
体質の弱い婦人に任せるようでは、その効果を十分に発揮できない
。
実際、農業が進歩している地方では、多く男子の手によって除草が行われている。
除草を婦人の任務としている地方に、農業の進歩しているところは見られない。
こうした地方では、男子は草刈りや薪取りなどに日を費やしていることが少なくない。
結局、除草にこれほど大きな効果があることを知らないためであろう。
除草の大きな効果を知らない地方で、どうして農業の著しい発達を見ることができようか。
すべてのことには目的があり、その目的を達成するように行わなければならない。
除草も、単に草を抜くことが目的ではない。
その目的をよく理解し、それを果たすように行うことが極めて重要である。
第三節 昼寝の太平
除草の本来の目的が、雑草の除去だけでなく、温度と空気を土中に導き入れて作物の発育を助けることにある以上、最も温度の高い日中に行うのが最も効果的である。ところが一部の地方では、この大切な時間を昼寝に費やし、作物が雑草に肥料を奪われ、温熱を受けられずに苦しんでいるにもかかわらず、人事を尽くさない習慣が残っている。除草は弱い作物を守る「義」の行為であり、炎天下でも寒風の中でも鍬や鋤を振るう勇気と勤労こそが農家の徳を養う。
昼寝の安逸に流れれば、その徳を損ない、作物の助けを求める声に背くことになる。
ゆえに除草は、技術であると同時に、農家が義勇の徳を実践する道徳的行為でもある。
除草の目的が、草取りと温度・空気の誘導にあるとすれば、除草はなるべく温度の高い日中に行うのが、その目的にかなうだろう。
草取りだけが目的なら、朝夕の涼しい時間に行ってもよいが、温度の誘導には日中ほど都合のよい時はない。
農業において温度は最も大切である。
ところが地方によっては、この大切な日中に草取りもせず、昼寝をする習慣があり、特に「寝部屋」と称するものまで備えているところもある。
最も有効な日中に、三時間も夢をむさぼるのである。
寝ていて豊作を願うとは、まさに太平の民と言うべきだが、人事を尽くさないにもほどがある。
「起きよ、起きよ。
哀れな稲は雑草という強盗に肥料を奪われ、
天日の温熱も受けられずに苦しんでいる」
と、警鐘を鳴らして助けを求めている。
義を見て行わないのは勇気がないということである。
私たちは背を炎熱に焼かれ、肌を寒風に裂かれようとも、地を掘り、土を穿って、義に勇まなければならない。
鋤や鍬は、私たちの義を示す剣であり、矛である。
勤労をいとわないところに、私たちは常に義勇の徳を養わなければならない。
むやみに昼寝の太平を謳歌するようでは、かえって徳を汚すことになる。
第四節 悪を以て善を導く
人は自由を与えられているがゆえに、放縦や怠惰へと傾きやすい。しかし、目の前に現れる災いや害は、しばしば私たちを勤労という善へと導く。除草にも同じ理が働いている。雑草という「悪」が肥料を奪い、作物を苦しめるという目前の害が、農家の義勇心を呼び起こし、炎天下でも苦労をいとわず草を抜かせる。草を抜くという消極的な目的が、結果として温度と空気を導き入れ、作物の発育を助けるという積極的な利益を生む。もし雑草がなければ、この積極的な働きに励む者は少なかっただろう。
悪が善を促すという逆説は、孟子の「仁と不仁は共に道である」という教えにも通じ、閻魔の背後に菩薩を見るような深い意味を示している。除草は、善悪の選択と義勇の本質を教える農業の道徳的実践であり、私たちはそこから義勇の徳を悟らなければならない。
私たちはそれぞれ責任を持っている。
しかし、自由な意思と自由な身体を与えられている私たちは、ともすれば放縦や怠惰に流れ、勤労から遠ざかろうとする欠点がある。
だから神は私たちに対して、時に災いを示し、放縦や怠惰を戒めている。
目の前の災いが、私たちを勤労という善へ導くことは少なくない。
善と悪は並び立たないが、私たちが善悪を明らかに見分け、悪を取り除けば、結果として善に至る。
孟子も言う。「道は二つある。仁と不仁のみである」と。
仁と不仁はどちらも道であり、それを選ぶことによって仁と不仁に分かれるだけである。
すでに選んで仁を仁とし、不仁を不仁とすれば、仁も不仁もなく、道は一つとなる。
この理は、雑草取りの中にも明らかに示されている。
たとえ愚かな者であっても、田園の中を這いながら草を取っていれば、この深い意味を読み取ることができる。
除草に二つの目的があることはすでに述べた。
一つは草を抜いて現在の害を除くという「消極的な目的」である。
もう一つは温度と空気を導いて作物の発育を助けるという「積極的な目的」である。
消極的な目的が私たちの義勇心を呼び起こし、草を抜かせ、その結果として積極的な作物発育という大きな効果を生む。
これはなんとも趣深いことである。
ともすれば放縦や怠惰に流れがちな私たちを、雑草が肥料を強奪するという目前の害が警鐘を鳴らし、急を告げる。
目の前の急を救わねばならず、そのために義勇心が起こり、炎熱を厭わず、苦労を辞さず、除草に向かう。
もし雑草という「悪」がなかったなら、田園に行って温度誘導の作業に励む者が、果たしてどれほどいるだろうか。
おそらく非常に少ないだろう。
そうであれば、悪は善へ導く教師である。
雑草の害があって、それを除く結果として、温度誘導という大きな利益を得ているのである。
これこそ「仁も不仁も共に道である」「閻魔の背後に菩薩を見る」ということである。
義勇の本体はここに発する。
この深い意味を読み取り、義勇を悟らなければならない。
◆第十章 徳田の害蟲駆除◆
第一節 害蟲の増加と農業の進歩
害虫は農作物を脅かす大きな敵であり、時に農家の労力と資本を一挙に失わせるほどの脅威となる。しかしその存在は、農業の進歩に伴って必然的に増えるものであり、むしろ農家に奮起と義勇心を促す誘導者でもある。
害虫の害という「悪」が目前に迫ることで、私たちは勤労と注意を尽くし、敵情を偵察し、特性や発育の系統を研究し、最適の駆除策を立てるようになる。彼らが好む場所や時期に集まるのは生存のための自然な欲求であり、その特性こそが駆除の手がかりとなる。害虫の研究は、悪を短所として利用し、善へと転化する道であり、農業の進歩を支える知恵でもある。
害虫の増加を恐れるのではなく、人事を尽くしてこれに立ち向かう義勇の徳を養うことこそ、農家の務めであり、農業の未来を切り開く力となる。
昆虫の中には、農作物に大きな害を与えるものがある。
これらの害は、まさに農家の敵である。
私たちが勤勉に働き、苦労をいとわず農作物の栽培に努めているところへ、彼らはやって来てそれを害する。
本当に憎むべき害虫である。
しかもその害は非常に激しく、時には私たちの労力と資本を水泡に帰してしまう例も少なくない。
芥子粒ほどの小さな昆虫が、このような害を及ぼし、人々に恐慌を起こさせるのだから、侮ることのできない大敵である。
当然、これを駆除する努力をしなければならない。
しかし害虫は、農業の進歩に伴って増加してくる。
農業が進歩すればするほど、彼らの食料が増え、生存に都合がよくなるため、繁殖の度合いが増すのは当然の結果である。
そうであれば、農業の未来には、この恐るべき敵がますます増加することを覚悟しなければならない。
そしてこれと戦うために、義勇心を養わなければならない。
今や農業は大いに進歩したように見えるが、まだ前途は遠い。
ますます努力してその進歩を期さなければならない。
そうであれば、将来害虫の数が増えることは当然である。
どうしてこれに対する備えをしないでよいだろうか。
もし害虫のために作物を荒らされるようなことがあれば、私たちは敵と戦って敗北した恥を受けることになる。
これでは農業の進歩も進歩とは言えない。
そうであれば、害虫は私たちに「もっと奮起せよ」と促す存在ではないか。
私たちの義勇心を鼓舞する存在ではないか。
その通りである。
害虫は私たちを奮い立たせ、義勇心を発揮させる誘導者である。
だからこれは忌むべきものではなく、むしろ農業の進歩を促すものである。
さらに、害虫の増加が農業の進歩に伴う必然の数であるなら、彼らの増加は農業の進歩を意味するものであり、必ずしも憂える必要はない。
人事を尽くして駆除に努めれば、どれほど増加しても恐れるに足りない。
ただ恐れるべきは、私たちが人事を尽くさないことである。
戦いに臨んで敵兵の増加に屈するようでは、臆病者のそしりを免れない。
義勇の標的は、敵兵の増加にある。
進んで奮闘しなければならない。
敵情の偵察は、作戦計画の要である。
私たちは目の前に害虫という恐るべき敵を控えている。
ではこれに対する作戦計画はどうすべきか。
まず敵情を偵察し、よく調べてから策を立てなければならない。
無謀な戦いは愚かである。
だから害虫の特性と発育の系統を研究し、よく理解しなければならない。
害虫にも多くの種類があり、それぞれ特性が異なる。
その特性は、彼らの好むものや集まる場所を知る手がかりとなる。
また発育の系統を知れば、駆除の時期を誤らずに済む。
これが敵情の偵察である。
このようにして害虫の特性を研究すれば、研究するほど興味が増し、作戦計画も適切となり、義勇心も無駄にならない。
こうして戦いに臨めば、飛んで火に入る夏の虫のように、彼らは欲望を満たすために特性に従って集まる場所を決め、発生の時期も同じであるから、一挙に駆除することができる。
害虫とは、私たちから見て害虫と呼ぶのである。
彼らは特性に従って、稲や野菜や果樹に集まるが、それは彼らが生存を全うするためにほかならない。
これらの作物は、彼らが生きるための食物である。
彼らがそこに集まるのは、欲望を満たすための必然である。
恨むべきことに、彼らは生存のために来たのに、かえって駆除される。
私たちは彼らの自然な欲望を短所として利用し、これに乗じることが駆除の最良の手段である。
害虫の特性研究も、このためにほかならない。
彼らの特性はそのまま短所であり、欲望を満たす場所で死地に陥らせることができる。
この研究はなんとも興味深い。
そうであれば、悪趣味の多い研究の中に、害虫駆除を成し遂げることができるのは、農業の進歩の証である。
第二節 虫が二百万人の生命を奪う
螟虫は稲作に最も深刻な被害を与える害虫であり、その繁殖力と加害の大きさは、農家の労力と資本を一挙に失わせるほどである。白穂の発生数を計算すれば、一反歩あたり数坪分の稲田が失われ、全国規模では数千万円、百万石にも及ぶ損害となる。これは単なる農業上の損失ではなく、本来ならば数百万の人々を養える食料が害虫に奪われているという重大な不徳である。ゆえに螟虫の駆除は、農家自身の利益のためだけでなく、貧困に苦しむ人々を救うという社会的・道徳的責務でもある。
害虫の増加は農業の進歩に伴う必然であり、これに備えて研究と駆除に努め、義勇心をもって立ち向かうことが、農業の未来を切り開く道となる。
螟虫(ニカメイガの幼虫)は、稲作に最も大きな害を与えるものであり、これを駆除するのも容易ではない。
彼らは冬の間も稲株や藁の中に生きて越冬し、時期が来ると外に出て蛹となり、成虫となり、飛び回って盛んに産卵する。
孵化すると、稲の茎に食い入り、養分を吸収する。
そのため枯れた茎が生じたり、白穂(しらほ)となる。
白穂を抜き取ってみると、二反歩につき三千〜四千本ほどは、さほど目立たない。
ほとんどの稲作は必ずこの害を受けている。
仮に一反歩に四千本の白穂が生じるとし、稲一株を十五本と仮定して計算すると、白穂は二百六十株余りに達する。
一坪の株数を四十五株とすれば、約六坪の稲田が害を受けたことになる。
一反歩に三〜四千本の白穂というのは、むしろ被害の少ない場合である。
それでも六坪の稲田が害されるのだから、実に驚くべきことである。
螟虫の害は白穂だけではない。
白穂にならずとも、侵された稲はその数の何倍にも及ぶ。
ある人はこの害を計算して、日本全体の被害額は三千万円以上に達すると述べている。
白穂だけでも、一反歩につき六坪が害されるとすれば、一坪六合の米を産するとして、三升六合を失うことになる。
全国の作付反別にこれを掛け合わせれば、その損害はほぼ百万石に達する。
白穂だけでこれほどなのだから、三千万円の損失という説が事実に近いことがわかる。
このように、螟虫だけでも驚くべき被害である。
まして他の害虫が加われば、なおさらである。
全力を注いで駆除に努めなければならない。
これほど多くの生産物を害虫に奪われるようでは、甚だしい不徳である。
三千万円の損害は、まさに二百万人の生命を養うに足るではないか。
害虫に二百万人分の食料を奪われて平然としているとは、まったくもって無意味なことである。
無用の害虫に食を与えるより、二百万人の人々にその食を与えるべきである。
今や家が貧しく、生活に苦しむ人が少なくない。
これを救い、助けることは大きな仁である。
だからこそ、努めなければならないのである。
第三節 徳は害虫駆除にあり
わずか一匹の昆虫であっても、その繁殖力は驚異的であり、無数に増えれば農作物を枯死させ、時に飢饉を招いて人命を奪うほどの脅威となる。螟虫やウンカのような害虫は、歴史上たびたび大飢饉の原因となり、享保十七年には十数万もの人々が餓死した。これは農業がまだ人事を尽くしていなかった証であり、過去の惨禍は未来への覚悟を促す警鐘でもある。
害虫の駆除は、作物を守るだけでなく、人々の生命を守り、勤労の徳を尊ぶための大きな道徳的行為である。農作物は自ら害虫を払いのける力を持たず、農家が義勇心をもってこれを救わなければならない。
害虫に奪われる食料は、貧困に苦しむ人々を救うはずの糧であり、駆除を怠ることは勤労を無視し、徳を損なう不義となる。ゆえに害虫駆除とは、人生の幸福を守り、作物への愛を示し、自らの勤労の価値を守るための不可欠の営みである。
わずか一匹の昆虫、吹けば飛ぶほどの小さなものである。
殺すにも、ほとんど指一本の力さえいらないだろう。
しかし害虫の繁殖力は、実に驚くべきものがある。
ウンカのようなものは、気候が彼らに都合よい時には、七〜八回も産卵し、産んでは増え、増えてはまた産む。
こうして一匹のウンカも、無事に繁殖すれば、ついには数えきれないほどの数に達する。
螟虫にも二化型・三化型の二種があり、一匹が四、五十から二百もの卵を産み、孵化したものもまた同じように多数の卵を産んで繁殖する。
だからその害が及ぶところは非常に大きい。
繁殖力の大きい彼らは、多数の仲間を頼みにして農作物に害を加え、その結果は農作物を枯らすだけでなく、何万人もの人間をも死に至らしめることがある。
害虫とは、実に恐るべきものである。
日本の記録はまだ完全ではなく、漏れているものも少なくないが、崇神天皇以来、恐るべき飢饉はたびたび起こり、平均して十年に一度は発生している。
そしてその原因のうち、十のうち六までは害虫によるものである。
享保十七年には、十数万の同胞が餓死した。
この事実を見るだけでも、害虫の禍害が私たちを震え上がらせるものであることは明らかだろう。
こうした歴史が存在するのは、人事がまだ尽くされていなかった証拠である。
結局、農業が進歩していなかったためである。
もし私たちが人事を尽くしていたなら、このような忌まわしい歴史を残すことはなかっただろう。
過去の歴史は、未来への覚悟を教えるものである。
だから私たちは害虫の駆除に努め、このような恐怖を再び生じさせてはならない。
そうしなければ、害虫は再び現れて人間の生活を脅かす。
人間に禍害を及ぼす害虫を駆除し、その滅尽を図ることは、人間の理想を実現する大きな徳行である。
さらに、農作物の葉には無数の害虫がつき、その養分を吸い取り、枯死させようとしている。作物は自分でこれを取り除く手を持たない。
哀れなのは彼ら農作物である。
私たちは義に勇んで、彼らを死から救わなければならない。
自由のない彼らの禍害を取り除く努力をしないのは、愛も血もない無情な者である。
どうして植物の栽培を天職とする者と言えるだろうか。
もしこれを怠れば、甚だしい不徳である。
また、日夜こつこつと勤労して育てたものを、害虫のなすがままに任せるとは、勤労を無視する者である。
勤労の徳は、人生の円満な幸福を得るための大きな力である。
駆除を怠ることは、自らの勤労を無視し、徳を重んじないことにほかならない。
害虫駆除とは、大きくは人生の幸福を守り、小さくは作物への愛となり、ひいては自らの勤労の徳を重んじる結果となる。
どうしてこれを努めずに済ませることができようか。
◆第十一章 徳田の施肥◆
第一節 肥料の救恤 ※救恤(きゅうじゅつ)=困っている者を救う行為
農作物は自ら栄養を求めて歩き回ることのできない生き物であり、土壌の養分が不足すれば、私たちが肥料という「食料」を与えなければ健全に育つことができない。施肥とは、作物の生命を支えるための給食であり、彼らの天職を全うさせるための不可欠な行為である。
しかし、作物ごとに必要とする養分は異なり、土壌の性質もさまざまであるため、肥料の種類や量を誤れば、栄養どころか害を与えることにもなる。人間の食事が体質や分量を誤れば健康を損なうように、施肥もまた慎重な判断と深い注意が求められる。自由を持たない作物に代わって、適切な栄養を選び与えることは農家の責務であり、これを怠ったり誤ったりすることは不徳にほかならない。施肥とは、作物を育てるだけでなく、人間の生活を支える生産物を守るための道徳的実践でもある。
農作物は一つの生き物であり、栄養を与えなければならないのは当然である。
空気中からも地中からも、彼らは栄養を吸収している。
しかし地中の養分には限りがあるだけでなく、土壌によっては、彼らが必要とする養分を含んでいないこともある。
このままでは発育を良好にすることはできない。
作物は、根の届く周囲の養分を吸収するだけであり、それを使い尽くしてしまえば、自分で広く巡り歩くことはできない。
そこで私たちが肥料を施してやらなければならない。
肥料を施すとは、農作物に食料を与えることである。
自分で求める自由のない彼らに、栄養を与えるのである。
人間に食料が必要であるように、彼らにも肥料の供給がなければならない。
これを欠けば、彼らは一日たりとも存在できない。
義に富み、余裕のある私たちは、この必須の食料を与え、彼らが生きることを全うし、発育を良好にしなければならない。
農業の生産物は、自らの身を犠牲にして人間の需要を満たしている。
そうであれば、生産物の要求を満たし、その発育を良好にすることは、人間の生活を満たすことにほかならない。
だから農作物に肥料を与えることは、人間に栄養を与える結果を生むのである。
多くの農作物は、その性質によって必要とする養分が異なる。
だから彼らの特性をよく知り、その要求に従って肥料の種類を選ばなければならない。
さらに土壌を調べ、その含む養分をよく見極めなければならない。
そうでなければ、せっかく施した肥料も有効に働かない。
これらの要点をわきまえず、むやみに肥料を施せば、良い結果を得られないばかりか、かえって作物を害することになる。
人間の食事でも、体質によって食べ物を選ばなければならない。
また、栄養物であっても量を誤れば、かえって健康を害する。
食物は人の栄養を目的とするものであるのに、食べてかえって死を招くことも少なくない。
これは食物の適否を選ばず、量を誤るためである。
農作物への施肥もまた、その性質と量を選び、定めることが重要である。
彼らにはそれを選び、定める自由がないのだから、なおさら深い注意を払わなければならない。
彼らが自然に持つ欲望は、栄養を求めることである。
その要求に応じて施すことがなく、施してもかえって害するようでは、甚だしい不徳である。
これはまるで毒をすすめるようなものであろう。
誰がこれを徳と言えるだろうか。
第二節 不適法の施肥は破徳
施肥は作物に栄養を与え、完全な発育を助けるための根本的な作業であるが、肥料の種類・量・時期を誤れば、栄養どころか害を与えることになる。窒素・リン・カリウムのバランスを欠いた施肥や、腐りにくい肥料を時期遅れに施すことは、葉の色や茎の状態、熟期の遅れなど、作物自身の姿に明確な“訴え”として現れる。
作物は声を持たないが、葉の痩せや赤変、過繁茂や倒伏、未熟米の発生といった事実が、不適切な施肥を厳しく告げているのである。自由を持たない作物に代わって、適切な栄養を選び与えるのは農家の責務であり、誤った施肥によって害を与えることは、まるで毒をすすめるような甚だしい不徳である。
作物は口も手も持たず、私たちを責めも殴りもしないが、その忍耐の徳に恥じて、農家は自らを省み、施肥の適法を誤らぬよう深い注意を払わなければならない。
しばしば、施肥の方法を誤って、かえって農作物の発育を悪くしてしまうことが少なくない。
私たちの主要作物である稲でも、窒素・カリウム・リンなどを同時に必要としている。
ところが窒素だけを多量に施したり、腐りにくい肥料を時期遅れに施して、発育を妨げることがある。
このような不適切な例は、しばしば見られる。
結局、作物の自然の性質に従って、肥料の種類・量・時期を選ばないためである。
農作物は声を持たないが、目の前の事実が、その不適切さを訴えている。
葉を見よ、実りを見よ。
必ずその中に訴えがある。
葉が痩せ、赤茶けているなら、肥料不足を訴えている。
また葉が青黒く、茎が大きく伸びて柔らかいのは、窒素が過剰で、リンやカリウムが不足している証拠である。
さらに、時期が過ぎて秋色を帯びる頃になっても青々として茎が太く、なかなか熟さないのは、時期を誤って窒素肥料を与えすぎたことを訴えている。
このように、肥料の適否は、目の前の事実が語り、訴えているのである。
カリウムやリンは、稲の茎を丈夫にし、実りを良くする。
その自然の要求に従って適量を施さなければ、害虫にも侵されやすく、風にも倒れやすく、実りも悪くなる。
また、時期を誤って腐りにくい不溶性の肥料を施せば、目の前の作物はそれを吸収できず、せっかくの肥料も無駄になるばかりか、かえって害を招く。
もしその肥料が窒素だけであれば、時期遅れに吸収されるため、熟すべき時期になっても青々と繁り、寒気が来ても十分に実らない。
さらに窒素だけを多量に施した場合、花が咲き実がついても稲が倒れ、結実を妨げる。
その結果、窒素過多の害として米粉(未熟米)が生じ、茎が大きくても収穫は減る。
すべて施肥の注意が足りないためである。
作物に栄養を与え、完全な発育を目的とする施肥が、逆に作物を害するとは、甚だしい不徳である。
私たちが彼らの訴えに耳を貸さず、不適切な施肥をして害するなら、もし農作物に口があるなら、必ず私たちの不徳を責め立てるだろう。
もし手があるなら、鍬を奪って私たちを殴るかもしれない。
田んぼに住んでいれば、このように責められ、殴られ、常に傷だらけになるだろう。
幸いにも彼らには口も手もない。
だから私たちは安全でいられるが、不徳そのものは、責められなくても依然として不徳である。
そして彼らは徳を守り、私たちを責めも殴りもしない。
その忍耐の徳は大きいと言わねばならない。
私たちはこれに対して、少しも恥じるところがないだろうか。
自ら省みて、彼らの忍徳を思い、施肥の適法を誤らないよう努めなければならない。
第三節 塵芥もまた米となる
肥料は農作物の成長と実りを支える根本であり、一粒の米や麦の中には、施された肥料の「徳」がそのまま積み重なっている。魚肥や化学肥料のような金肥は貴重だが、経済的には廃物を活かした自家製肥料こそ最も得策であり、汚物や塵芥が堆肥として再生され、清らかな食物へと転化するのは自然循環の妙である。
廃物を雨露にさらして価値を失わせず、堆積場を整えて適切に処理すれば、塵芥もまた米や麦となる「徳ある資源」となる。腐った魚の内臓のように価値のないものですら、利用の手によって新たな価値を生む。すべての肥料を適切に扱うことは、その徳を大きくし、農家の行いを徳行へと高める道である。
肥料とは単なる資材ではなく、自然と人間の双方に徳をもたらす循環の要であり、その扱いには深い敬意と注意が求められる。
肥料が向上して米となり、麦となる。
施した肥料は溶けて農作物に吸収され、成長となり、実りとなっているではないか。
だから一粒の米、一粒の麦の中にも、肥料の徳が積み重なっている。
その徳を尊重せずに済ませてよいだろうか。
肥料には多くの種類がある。
魚肥や化学肥料のような「金肥」もあれば、自家製の肥料もある。
金肥は貴重だが、金を出して買わなければならない。
だから経済上できるだけ農家自製の肥料を使うのが得策である。
この自家製肥料の多くは、廃物の利用である。
廃物を利用して有効な肥料とすることは、徳として大いに重んじるべきである。
人糞・牛馬糞なども廃物の一種であるが、最も有効な肥料として用いられている。
これらの廃物は汚物であり、もし利用されなければ衛生上の大問題を引き起こす。
このような汚物を利用して米や麦に向上させるとは、自然の循環法の妙と言わねばならない。
こうして塵芥や腐物も、利用によって有効な肥料となる。
捨てられた塵芥や汚物も、利用の手によって濾過されれば、農作物の栄養となり、米にも麦にも向上し、すべて人の口に入る清らかなものとなる。
そうであれば、塵芥も米であり、麦である。
これを大切にしなければならない。
だから塵芥をむやみに雨露にさらしてはならない。
雨露にさらせば、肥料として有効な養分を失わせる。
そこで堆積場を作り、雨露に当たらないように設備し、ここに堆肥を作れば、塵芥も有効な肥料となり、その徳を大いに輝かせる。
塵芥だけではない。
腐った魚の内臓は、猫でさえ食べないが、私たちの利用によって価値を生じさせることができる。
さらに、すべての肥料を適切に扱うことは、肥料そのものの徳を大きくすることであり、私たちの行うことはすべて徳行である。
参考文献
[1] 『農業道徳』丁未出版社発行、明治14年11月5日発行。


