はじめに
森盲天外(本名・森恒太朗、1864~1934)は愛媛県の地方政治家であり、20代で失明した中途視覚障碍者でありながら数々の功績を残した。伊予郡余土村町長在任時に、森が実践した「余土村是」が万国博覧会で一等賞となり全国の模範村になり、のちに道後湯之町長として財政難を改革するなど、政治家としての手腕を発揮した。また、私立愛媛盲唖学校設立、青年福祉事業である私塾「天心園」開設など、福祉や教育にも尽力した人物である。一方、政治活動や社会的活動の傍ら、盲天外は俳句、随筆、自伝、評伝など多彩な文章を残している。また子規とも親交があり、『ホトトギス』にも俳句や随筆が掲載されており、一説には盲天外の雅号は子規から与えられたものとも言われている(1)。代表作『一粒米』は自伝であり、実体験がありのまま描かれている。そこでは失明するまでの経緯と、失明直後の絶望と混乱、自殺未遂から、自身の思想や精神に目覚めるまでが書かれている。同書の序文は親交があった新渡戸稲造が書いており、ただの一市民の自伝というよりも、日本初の盲人村長の自伝として社会的意義やメッセージを負ったものだったと考えられる。実際、本書は話題となり、第八版まで発行された(2)。以上のような視覚障碍の状況を率直に発信した行為や、創作の際の方法の工夫など、盲天外の作品には障碍当事者作家としても先進性や独創性が見いだされる。同時代に、日本初の視覚障碍者の衆院議員・高木正年がおり自叙伝を残しているが(3)、高木の場合、残された著作は自叙伝のみである。両者を安易には比較できないが、盲天外が家族に「東京で著述業をしたかった」と語っていたという逸話(4)もあり、盲天外の場合は教育啓蒙の思いから、強い執筆意欲を抱いていたと考えられる。
当時といえば社会福祉も十分ではなく、世間には障碍者への社会的差別が残っていた。また、明治期の日本文学に登場する盲人といえば、近世文芸の影響や仏教的価値観により悪役として登場することが多く、世間の偏見が投影されていた(5)。そのような明治大正期において、障碍当事者で自己の体験を描き、世間に発信した作家といえば、正岡子規や素木しづくらいであろう。森盲天外は小説家ではなかったが、このような時代に視覚障碍当事者として自らの体験を描き、自身の思想を世に発信し、意欲的に著作を残した人物として貴重な存在といえるだろう。
本稿では、愛媛県内の資料調査で出会った森盲天外の草稿「盲人の読書難」を紹介する。
令和3年9月25日受付(Received September 25, 2021)
新居浜工業高等専門学校一般教養科
(Faculty of General Education, National Institute of Technology(KOSEN), Niihama College, Niihama 792-8580, Japan)
未発表原稿「盲人の読書難」
令和3年9月松山市余土公民館にて、余土公民館館長・戸井田学さんと、「一粒米の会」会長・森二朗さんにお話を伺った。その際、余土公民館資料室に、森盲天外の未発表草稿が数点保存されていることが分かった。それらの草稿は、これまで公民館で大切に保管されてきたが、未だに翻刻も公表もされていないとのことだった。そこで何点かを撮影させていただき、順次翻刻し内容を新資料として発表することとした。同資料室に保存されていた草稿は、森盲天外が書生や青年の手伝いのもとに口述筆記したものだそうで、原稿自体に赤字で訂正も見られる。「明治四一年八月」と執筆時期が書かれた草稿もあるが、「盲人の読書難」の執筆時期は記録が残っておらず、不明である。余土公民館の郷土資料目録に掲載された、盲天外の自筆原稿や草稿を年代順に並べると、以下のようになる。
- 「一粒米 原稿」明治41年3月
- 「優填王経」明治41年8月
- 「島津家と盲人保護(手書き原稿)」不明
- 「盲人と読書難(手書き原稿)」不明
- 「水戸烈公 民政一般(手書き原稿)」不明
- 「民育一般(森恒太朗(盲天外)先生口述録)大正4年10月
②~⑤の資料は未発表原稿である。その中でも、②「優填王経」は明治41年8月との記録があり、「一粒米」の原稿と同じ年に執筆されていたことがわかる。実際、出版された書籍では、「一粒米 第四版」明治41年6月22日発行、「義農作兵衛」明42年6月8日発行であり、明治41年の同時期にこれらの原稿を準備していた可能性も考えられる。
晩年の盲天外は「上京して、執筆業をしたかった」と周囲の家族に話していたという逸話もあり、これらの未発表原稿も『一粒米』『義農作兵衛』と同様に出版社に一度は持ち込んだ原稿か、又はいずれ持ち込むための原稿として残していたものかもしれない。
あるいは、各々が別の時期に記録された可能性もある。これらの盲天外の執筆時期については、今後、他の未発表原稿も検討するなかで更に検証する計画である。
「盲人の読書難」本文
翻刻するにあたり、歴史的仮名遣いはそのままとし、旧字体は新字体に直した。口述筆記者による崩し字やカタカナによる当て字、誤字などは、意味内容として適当と考えられる表記へとあらためた。原稿の保存状態により解読不可能な箇所や欠字に関しては、□とした。
『盲人の読書難』
盲天外 森恒太朗
私の如き盲目の境遇に於ては所謂普通の文字を読むことが出来ぬ。夫れ故点字の書籍を指頭に探って之れを読むより外なきことであります。点字は即ち盲人の為めに設備せられたものであつて、この書籍さへ有りますれば盲人と雖も、普通人と同様に読書の自由を得ることである。されども我國には未だ点字の書籍が何程もない、殆ど絶無といふて□□有様である。之れに依つて読書し得べき自由のありながら読むことの出来ぬのは甚だ遺憾である。仍つて余儀なく私は普通文字の書籍を読まねばならぬ。之れを読むに□つて種々の困難と苦痛を感じることである。私は茲に其の経験談を述べて、盲人としての読書が如何に困難の伴ふものかを申し上げませう。
私の境遇よりいへば、所謂、普通文字なるものは有りませむ。其の字形を見て之れを読むことが出来ぬので、私には文字無いのである。されば文字無き私の境遇には読書の資格無しと云はねばならぬ。この資格無き私が茲に読書談を試みるとは無用に似たれども、当時国語并に漢字に就て世論の喧しき時に於て、或は参考となるかも知れぬと思ふのである。加之、私共の境遇に所謂普通文字なしとはいへ、この世の中が盲人のみでなく其の多くが晴眼の人である。此多くの晴眼者と併立して生存しやうといふには、勢ひ普通文字の関係が起つて来るので、没交渉たることが出来ぬのである。否な進むで之れを読み、之れを知らねば盲人の独立も亦不可能となるので、読書の資格なきものも必要上亦読書を余儀なくせらるるのであります。
境遇を異にすると頗る妙なもので、頻りと世の中の事が知りたい、又之れを知らなければ活世界に立つことも出来ぬのである。そこで私は目の有つた時よりも尚ほ一層読書癖が強くなつて来た。日々の新聞□□□論雑誌や書籍を読むことが無上の快楽である。見えぬ境遇より強ひて之れを見やうといふは、所謂、盲目の垣窺とでもいふべきであらうが、毎日々々この欲望を満足せむが為めに苦しむで居る。併しながら此欲望を満足するには人の目を通ふしてにあらざれば読むことが出来ぬ。それ故新聞一枚を読むにも多くの費用を費やさねばならぬ。新聞代や書籍代は実に安いものであるが、目の損料に多くの金が費えるのである。その費えは猶ほ金であるから宜いが、他人の目を通ふして読書する間に如何に私の脳力を費すか、其脳力を費す結果は如何に肉体の健康を害するか分かりませむ。他人の目を通ふして読む私は目に読むのでなくて、全く耳に読むのである。
新聞雑誌乃至書籍を読むに当り、読人は如何に疑問が有らうが、無からうが、用捨なく読み去つて、其声は従つて生じ、従つて消ゆる瞬間に私は種々の疑問が起て来る。私立と読むだのは、私立か市立か何れであらう、書簡と読むだのは暑寒か、書簡か何れであらうと頭の中で差し替へて見る。
同時に私の見えぬ目の前に其文字の字画を現わして来なければならぬ。又読人の発音を誤まることあつて、時として堅固を健康と読むだりすることがあると、前後の関係に依つて、前きに聴き取つた健康が誤つて居て、堅固だといふことを意見して之れを正誤して往く、此の度毎にその文字が顕はれて来る。斯くも疑を生じて文字を入れ換へて見たり、正誤して見たりする間に声は進むで行く、また消えて往く、活動写真のそれのやうな中に、斯の如くも繁雑に脳を労して、瞬間に多くのゆとりを保たねばならぬことである。猶ほ当時流行の新熟語が幾らでも製造せられて甚だ困難をする。中にも墺塞の紛乱だとか、誰れそれの渡印とかいふことを聞くと一そうわからない。墺塞とは能く能く調べて見ると墺地利と塞爾比の事で有つたり、渡印といふのは印度へ往つたと言ふ事で有つたりして、頭だけ縒せ合はして一つの辞が作られた。恰かも西欧の奇形児を見るやうな感じがします。
私は明治三十二年に一切経を購入したが、これも読書癖の致す所である。此時友人よりも笑はれました。晴眼者にても一切経のやうな大部なものは容易に読み切れない。然るに盲人の身を以て之れを購ひ、之れを読まむとするのは実に愚では無いかと冷笑され、家族よりも亦反対せられたが、遂に私は決行したのである。而して後常に暇さへあれば之れを読むで居る。けれども此一切経を読むには例の目の損料が中に少なくない。初め大層に思ふた書籍代よりも猶ほ幾倍かの価を拂はねばならぬ。其上一切経の無点本で梵語や陀羅尼の沢山這入つて居る漢字の行列を読むものは容易に得られない。僧侶でも田舎では之れを読み得るものは甚だ稀れである。偶に有つても私の為めに読むで呉れる人が無い。それで京都や、叡山までも出掛けて往つて之れを読むだり、宅に居ては読書力の乏しい者を捉へて之れを読ませばと頗る苦痛の様子で捗らない、唯汗を流してウン々々と云つて居ると、私は癇癪が起つて来る。遂には之れを廃するに当たり亦余儀なく掌に共文字を書かせて之れを読むのである。此やうな事をやつても猶ほ読書の欲望を満足しやうと努むるのである。其間如何に私の脳力を費やし、健康を損するか知れませぬ、斯かる経文などを読みますると後で頭の中は何むだか一種の境地を覚え、遂には熱湯が煮沸して居るやうな感覚がして、食欲も起こらないやうになるのである。
猶ほ文字の習ひは恐ろしいものである。耳に読む私は文字の執着が離れない、聴いて居る中に其文字が一々目の前に現はれて来る。盲目境遇には文字の形状なきものを脳力作用に依つて斯くも現はすのであるから、行く水にかずかくよりも尚ほはかなき思ひがする。故に斯くも文字を現はすこと廃したいと思ひますれど彼の難解の文字や新熟語の多い為めに勢ひ斯くせねば其意味を了解することが出来ませむとは実に苦しい。目の前に現はるる文字を取り拂ひ、之れを抹殺しやうと思つても紙に書いた文字でないから拂おうとする手に纏れつき抹殺しやうとする手に現れて拂へども拂へどもである。
此やうな困難を犯しても、読書の欲望を満足しやうとして居るのである。之れは不自由なる盲目境遇の反響であらう。其反響が強き欲望を生じて廃することが出来ぬ。或時は余りの苦痛に堪へ兼ねて最早断念しやうかと思ふてみても、断念することが出来ませむ。けれども盲人に対する社会設備が出来て、点字の書籍が多く供給せらるるやうになつたならば、斯かる苦痛もあるまいと思ふことがある。然れども我国の社会設備は中々に進歩しませむ。前途猶ほ遠き有様と思はるるには失望せざるを得えないのである。よしや其時期到来するにしても、今日の如く漢字の盛むに行はるるに於ては断然点字を以てするも不了解に終はらざるを得ないと思ふと、現在将来共に永久の失望と言はねばならぬことである。 西洋に於てはアルハベツトの符号が殆むど世界共通の有様で便利である上に、如何なる書籍も大抵皆点字を以て供給せられて居るといふことであるから、私は既に十五六年間も廃して居た英語を復たも此頃繰り返へすに至つたが、曽て目に学むだ弊は猶ほ此上にも在して居るのである。仍つて更らに耳より学ばうと考へて居る。元来辞は耳に依つて学ぶに足るものであらう。目は却て之れを妨げる。目が妨げるから完全なる発音が出来むのである。此頃の経験に依れば語学を修む為に吾が境遇は頗る都合よく思はれる。確かに目のありし時よりも亦達するかの確信を有つて居るのである。されども私が十五年間も廃していた英語を不自由の身を以て更らに耳より学ばうとするのは決して他にあるのではない。英語ならば如何なる種類の書籍でも点字に依つて供給せられて居る。点字の書籍ならば自由に之れを読むことが出来るから此の自由を得て吾が読書の欲望を満足したいといふ一念に外ならむのである。我国の社会設備が出来て我国語を以て点字の書籍を供給せらるれば何を苦しんで此の不自由の身が今更英語を学ぶの要有らうか、唯々切なる自由の要求と読書趣味の欲望を満足せむがためである。私は既に十余年間の経験に依つて頗る読書難を感じて居るのである。稍へて世の同情を求め我国十万の盲人をして幸に読書の自由を与へられむことを切望せざるを得ないのである。
森盲天外「盲人の読書難」解説
本原稿は、当時の視覚障碍者が置かれた読書環境について、筆者の実体験から提言をすることを目的としたとものと考えられる。本文中に「私は既に十余年間の経験に依つて頗る読書難を感じて居る」とあることから、この原稿の執筆時期は、失明後に十数年経過した頃と推定できる。すると他の原稿同様に、明治40~42年頃に記されたものと考えられる。
また特に注目したいのは、渇望ともいえる読書への欲望を、具体例とともに様々に示している点だ。そこからは、森盲天外の飽くなき知的探求心と情熱を伺い知ることが出来る。この知的探求心と情熱は、どこからやってきているのか。それは本文中に「自由の要求」とあるように、自由への渇望、世の中へ立つことの希望であり、視覚障碍者であっても、その権利や自由を享受したいのだという強い意志であろう。
境遇を異にすると頗る妙なもので、頻りと世の中の事が知りたい、又之れを知らなければ活世界に立つことも出来ぬのである。
そこで私は目の有つた時よりも尚ほ一層読書癖が強くなつて来た。
と、晴眼者だった時よりも、読書がさらに「活世界に立つ」ためのものであるという自覚が語られている。
此多くの晴眼者と併立して生存しやうといふには、勢ひ普通文字の関係が起つて来るので、没交渉たることが出来ぬのである。
と、視覚障碍者が晴眼者とともに社会に立っていく上での重要事として読書を捉えている。残念なことに本原稿は未発表のままだったわけだが、このような早い時期に当事者として随筆を書き、視覚障碍者の意志や希望を発信しようとしていた事実が意義深い。
例えば、明治大正期にあって、障碍当事者としての自由への渇望、世に立つことへの希望は、当事者作家・素木しづも表現していた。素木しづの小説『松葉杖をつく女』(大正二年一二月「新小説」)では、結核性関節炎により右足を切断した少女が、障碍者への偏見をものともせず、家や病院ではなく、戸外――「世の中」「世間」――へと希望の光を見出していく。そこには、〈病〉と〈障害〉の現実を見据えながら、自力で何かを見出そうとする意思がこめられていた(6)。
素木しづは、実体験をもとに障碍当事者を主人公とした小説を残したのだが、森盲天外の場合、小説の作中人物に語らせるのではなく、自分自身の言葉と声、存在で社会的メッセージを提言した点でも、その意義や意味は大きいといえるだろう。
また、森盲天外自身への理解をさらに深めるに事実として、「一切経」を所蔵し、読書を試みていた点も興味深い。「一切経」を読める人物を探して、京都や叡山まで行って……と語られている。一説に、盲天外は余土村長になる直前の明治30年頃、京都に滞在し、比叡山で修行したとされている。この「一切経」の読書についても、修行時代を指しているのか、修業時代以降を指しているのか、いくつかの可能性が考えられる。今後、他の要素も検討しつつ、盲天外と京都や比叡山との関連性を検討していきたい。また、「一切経」は「大蔵経」とも呼ばれ、仏教経典を網羅した大変大部な書物となっている。「広辞苑 第五版」によると、「仏教典籍の総集。経蔵・律蔵・論蔵の三蔵およびそれらの注釈書を網羅した叢書。パーリ語、チベット語、蒙古語、満州語、漢語のものが現存。」とされる。1905年の時点で発行されていた書籍では、「大蔵経 : 大日本校訂 [縮刷蔵経]」(弘教書院、1885)、「新纂大日本続蔵経」(国書刊行会、1975~1989)が存在する。このいずれかを購入していたか、もしくはより古い書物を購入していたかとも推察される。「其上一切経の無点本で梵語や陀羅尼の沢山這入つて居る漢字の行列」とあることから、まず上記の二点にあたることで検討がつく可能性もある。今後、同書を調査し、紙面を確認する予定である。いずれにせよ、「一切経」は大変大部なもので、その音読や解読自体が非常に難解だったことは想像がつく。森盲天外の仏教への興味が本格的であったことも理解できる。前述した余土公民館資料室の未発表原稿の中には「優填王経」という原稿もあり、仏教からの影響や関連性も検討の価値があると考えられる。
おわりに
今回は、時間と紙幅の関係上、「盲人の読書難」のみ翻刻を実現することができた。今後は、他の未発表原稿も翻刻していく計画である。これらの新出資料により森盲天外の新情報発掘を目指し、原稿からうかがえる様々な事実から、森盲天外研究の進展をはかりたい。また、あらためて、森盲天外の活動の社会的意義や先進性への再評価をはかっていきたい。
脚注
(1)盲天外は失明以前も、愛媛で俳諧雑誌「はせを影」を主宰し、旧派俳句や俳壇俳論を発表していた。俳句を文学として認めよという先進的な俳論を展開し、正岡子規の先鞭をつけたとの評価もある(竹田美喜「研究ノート 子規の屈辱――初めて連俳を論じた時――」(『子規博だより VOL38-3』2020年3月25日、松山市立子規記念博物館))。しかし「はせを影」時代の盲天外の発句は、旧派俳諧の域を出なかった。積極的に評価したいのが、失明後の創作活動である。「ホトトギス」で俳句や文章を寄稿し、自伝『一粒米』を著し、評伝『義農作兵衛』や、政治家として農村を改革した体験記(『体験物語 我が農村』)を上梓している。
(2)一粒米の会編「講演・講和 資料 第1集」一粒米の、2021年
(3)横山健堂編「高木正年自叙伝」代々木書院、1932年
(4)「一粒米の会」会長・森二朗さん談
(5)沼田真里「盲目と鏡花文学」『日本文学誌要』第72号、2005年7月
(6)沼田真里「素木しづ論――〈健康な不具者〉というパラドクス」社会文学、2009年6月
参考文献
[1] 『一粒米 付俳句俳論・天心園』愛媛文学叢書刊行会編、青葉図書〈愛媛文学叢書 2〉、1990年6月、復刻増補版。
[2] 一粒米の会編「講演・講和 資料 第1集」一粒米の、2021年
- 本論では、かっこ付きの〈障害〉を除き、表記を「障碍」に統一した。表記問題をふまえ、「障碍」の表記も一般的に認識が広まったという見解からである。従来から「障害者文学」として言及されてきた研究分野でもあり、過去の論文ではその例に従って「障害者・障害者文学」と表記している。
- 本稿執筆にあたり、余土公民館の皆様には貴重な所蔵品を拝見する機会をいただき、余土公民館館長戸井田氏や一粒米の会の森二朗氏に貴重な話を伺うことが出来た。記して謝意としたい。


