森盲天外「島津家と盲人保護」(新出資料)

目次

はじめに

 森盲天外(本名・森恒太郎、1864~1934)は愛媛県の地方政治家であり、20代で失明した中途視覚障碍者でありながら数々の功績を残した人物である。盲天外の功績の再評価の必要性は、拙稿「新出資料・森盲天外の『盲人の読書難』について」でもすでに指摘した(1)。本稿ではさらに、愛媛県内の資料調査で出会った森盲天外の草稿の一つ「島津家の盲人保護」を紹介する。余土公民館の郷土資料目録に掲載された盲天外の草稿のなかで、今回取り上げる一編も翻刻されずに保存されていた資料で、表紙等に年月日の記録がなく執筆時期が不明であった。今回の翻刻によりその内容から、薩摩藩島津家の盲人保護政策を知ることで、盲天外が視覚障碍者の教育や職業的な支援にも視野を広げ、障碍当事者による当事者への教育や自治も言及していたことが分かった。

 以下、本文の翻刻と解説により、その内容を紹介する。


令和4年9月30日受付(Received September 25, 2022)

* 新居浜工業高等専門学校一般教養科
(Faculty of General Education, National Institute of Technology(KOSEN), Niihama College, Niihama 792-8580, Japan)

 「島津家と盲人保護」本文

◆翻刻するにあたり、歴史的仮名遣いはそのままとし、旧字体は新字体に直した。口述筆記者による崩し字やカタカナによる当て字、誤字などは、意味内容として適当と考えられる表記へとあらためた。原稿の保存状態により解読不可能な箇所や欠字に関しては、□とした。また長文が続く箇所では、内容をふまえながら適宜改行した。赤字で削除の指示がある箇所は、〔 〕で残すこととした。

「島津家と盲人保護」

盲天外 森恒太朗

 予は盲目の身となりて以来、特に盲人と云ふものに注意  する事となりて〔た蓋し之は自己の境遇より勢の然らしむる事であらうそうして数字に依って盲人の人数を見ると〕盲人統計などを見ると全国中鹿児島県と香川県〔が〕とに盲人が最も多いので〔ある〕、頗る之を突出した鹿児島は人口一万に対して二十三、香川は二十一と云ふ比例である。此様に両県が全国中特に盲人を多数に出すのは何故であらうか。風土の関係か衛生の然らしむるものか乃至医術の普及せさるが為めであらうかと甚だ疑ふた事である。先づ香川県の方を調べて見ると之には一の明瞭なる原因が存在した。即ち琴平と云ふものがあって多くの旅客を吸集して居る。夫れ故之れを当込みに按摩業を為す所の盲人が入込んで来るが為め統計上斯の如き多数を示すので、香川県と云ふ土地が特殊に盲人を産出すると云ふ訳でない事が判った。そこで鹿児島の方は未だ原因が不明であった。時もあらば宜しく之が調査を為して若し風土衛生乃至医術の関係に依ってく之が斯の如き不幸のものを出すものとすれば我身の不幸なる境遇に比して切に其防止策を注意したいと迄思った事である処が、三年以前、予は九州の漫遊を試みた。此好機会ニ接して鹿児島の地に至り親しく之が調査をして見ると、事柄こそ変れ香川県と同じ様な特殊な事情が存して居た。然にそれは島津家と盲人保護の関係に依って斯る統計を示すに至ったので〔少しも〕前日の予の疑は初めて氷解したのである。只に此疑を氷解したのみならず島津家と盲人保護の関係が最も古く且つ頗る整頓して居たので彼の地の盲人の為めに其幸福なる事を喜んだと同時に又島津家に対して深き感謝を捧けねばならぬと感極って喜びの涙を禁じ得なかった事である。此厚き保護が行はれて居る為めに盲人は其保護の下に集って居るので自ら統計上其数の多い訳である。島津家と盲人保護の制度は人道の為に宜敷之を世に公にせなければならぬ。かゝる保護法は殆んど世界に類の無きものとしても之を誇らなければならぬ事であらうと思ふから予が取調べ得た所を左に書て見やう。

 豫てより盲僧なるものゝ一派が我国に存在することを聞いて居た。盲僧とは只単に盲人にして僧となって居る計りかと思って居たが之には組織立った一派があるので、一は薩摩派と一は筑前派との二つなのである。共に天台宗に属して居て筑前派の方が其歴史に於ては古いのである。初めは伝教大師が筑前の或山中に於て盲人に教を授けたに始まると云って居るのであるが、鹿児島に行ったを幸、第一に此関係を取調べた事であった。即ち鹿児島市の滑川に浄楽院と云ふ盲僧寺がある。之が薩摩派即ち日薩隅の盲僧を統一して居る本山である。現時の住職は伊集院某と云ふ盲僧で七十余の高齢で〔ある〕、予が此老僧に対して沿革並ニ制度を聞かうとしたが〔茲〕此寺の後住となるべき是枝次郎氏と云ふ三十計りの僧があった。此の是枝氏は薩摩の藩士で、中学をも終り熊本の高等学校に入って尚ほ将来の大なる希望を有して勉励積学に務めて居たものがフト病の為めに両眼明を失して只暗黒裡の人となった。〔此の未来〕前途多き望を空しく挫折せねばならぬ運命に遭遇した氏は此の寺に入って島津家年来の保護の内に包まれ其報恩に一身を粉砕せんと覚悟した人であって、予は此の人に接して転た同情に堪へなかったが、教育のある人として盲僧の〔人格〕沿革並に組織の事を聞くには甚だ便を得た事であった。第一に薩摩派盲僧の沿革を尋ねたが、之と云ふ特殊の〔記録も〕材料をも得なかった。只口碑や伝説に依って既に是枝氏が編纂に着手して居ると云ふことで未だ〔此も〕其稿を脱しては居なかったが、未定稿とでも云ふものを予は読で貰ふて聞いたけれども、口碑や伝説の事で正確〔な〕に且つ〔計〕系統正しきものとも見えなかったので、其沿革に至っては〔充分なる事を甚だ遺憾の点が多 いのであるけれども〕今より三百七十余年以前、島津貴久公の代に於て既に此の盲僧寺〔の〕が設立せられて〔以来〕居て、島津家より常に保護を受け〔て〕盲僧派の系統正しき組織が今に絶へず行はれて居ると云ふ事である。そして盲僧と云ふは純然たる宗教家で、即ち琵琶を弾じて経を読み以て風教の感化を務めて居るのである。之は仏教で云ふ所の音聲仏を以て音の美を其侭仏の実体なりと立てゝ居るのである。其語る所のものは或は仏教典中の或一節を和訳して通俗的に文学的に〔巧〕節巧に談らるゝので、音美は即ち此の歌辞と能く調和して非常の感化を与へて居る。只に琵琶を弾じ之を談るのみでない。時に経をも読誦するのである。〔此の様〕斯して此の盲僧が日薩隅の各所に配置せられて今は殆んど残す所無き迄に各町村へ普及して居る。其配置せられたる盲僧は自己の受持区域が定まって居て其地区内に盲僧の住すべき庵居は設けられて居る。此所に住し其受持の各戸に就て地鎮祭なるものを行ふのであるから是等の盲僧は其地区内を檀家(轄)として居る。此の檀家より納めて来る米金によりて其生活は営まれて居るのである」此の様な組織にして現在に於ても日薩隅の各所に数百の盲僧が安全に生涯を〔捧げ〕支へて〔一面に〕且つ〔於ては〕彼等の生涯を全く地方風教の感化に致して居る事である。現時は是等盲僧の教育が充分に行届かず単に琵琶を弾じ経を読み時には史伝などを〔談〕語って武士道の啓発をも為して居るとはいへ、昔時に比しては教化が幾分の力を減じて居ると云ふ事であるが、以前は中々立派な盲僧もあったそうで、音美歌辞を巧に妙用して法を説き、以て多大の感化を与へたものだそうだ。之は全く島津家の保護に依って然る事を得たそうである。即ち島津家の保護といふのは盲人独立の為めに斯の如きの組織を為し、之に幾らの金穀を与へて其普及を助けられ、又或時代迄は琵琶は全く盲僧〔人〕にあらざれば之を弾ずることを許されなかった。尚ほ経学に長けた智識をして盲僧の訓練を為さしめた抔、充分に保護が行き渡って初めてかゝる盛況を見るに至ったものである。島津家が此の様な保護を行はれて盲人独立の方法を建てられたのみでなく盲人を利用して風教に貢献する所あらしめられたとは実に敬服の外無いであらう。盲人は其境遇に於て已に世の同情を引き、加ふるに音美を以てするので感化は一層の度を強めたであらうと思はれるのである。予は其後、筑前派の盲僧系統をも取調べて見た。此の方は其区域も中々広い。豊前豊後筑前筑後肥前肥後と六ヶ国に渡って居て、夫れを統一するは博多の妙音寺と云ふ本山である。薩摩と略ぼ相似た組織であるが、之と彼とを較べて見ると大なる違ひがある。一方は流石に島津家の保護の下に在った丈けに高尚で世の尊敬を受けて居る。随て風教上少なからぬ感化を与へて居る。第一に違ふて居るのは薩摩派は其本山の住職は世々代々必ず盲人であった。然るに筑前派は眼明の僧が住職して居ると云ふ有様で、之が常に大なる相違を来すべき因となって居る。統一者が盲人なると盲人ならざるとは其教育の方法並に同情の非常なる違ひを生じ、為めに末派の盲僧をして一は真面目に一は堕落に養成する様になるのである。現に薩摩派の盲僧は今日其教育の衰へて居るとはいへ尚ほ多少の品性を保って居るが、筑前派と云ふと実に庚申抜門附と云ふ有様で、之を酷評すれば一種の 
物貰とでも云ふ様な工合に堕落して居るのが多い。畢竟境遇を異にした不真面目な眼明僧の本山に住して只利益を之事として多くの盲僧より鑑札料を徴収して腹を肥して居るが為め、更に風教などには少しも心を置かないので斯くも堕落したものであらうと思ふと、島津家の保護は盲僧の為め、否地方風教の為め難有事であると云はねばならぬ。

 薩摩派の盲僧が所謂薩摩琵琶の一流を為して居る。筑前派の盲僧は所謂筑前琵琶の一流を為して居るのである。世人は今薩摩琵琶〔は〕と筑前琵琶の二つに就て見られても何れが高尚で何れが野卑であるかは予が説明を待たずしてお判りになるであらう。此の優劣が恰も両派盲僧の品性〔位〕を顕はして居る事であ〔って〕ると思ふのである。島津家には其法の下に斯の如き組織を為さしめられたが、尚ほ此の盲僧を巧妙に利用せられたと思ふ点がある。即ち島津藩は日薩隅に渉り百二都城を有して各地に藩士を分配せられて居たので、常に其国情を秘密的に探索するの〔様〕用がある。為めに此の盲僧を各地に配当して其内情を常に探らせて居たものと見える。盲人に対しては世人の油断もあれば、殊に宗教と云ふ円融なる方面に地方感情の僻見なき職分のものをして秘密探偵に利用せられたとは、如何にも島津家の炯眼なるに驚かざるを得ないのである」此の様に島津家が一面に治安並に風教上盲人を積極的に利用して盲人独立の業を建てられたと云ふ事は歴史上滅してはならぬ事であらうと思ふのである。日本盲人の為め、否人道の為めに島津家に対し吾人は深く感謝せなければならぬ事である。仏国のルイ九世が盲人を集めてその生活(涯)を助けたと云ふ事は盲人保護の〔稿〕嚆矢として歴史上異形を放って居るのであるが、〔島津家の保護は尚ほ〕夫は只消極的に盲人の生活を助けたと云ふに過ぎないけれども、島津家は之を積極的に盲人〔之〕を利用し〔盲人をして〕之をして自ら世の風教に貢献あらしめたと云ふに至っては、世界の歴史に於ても誇るに足るものであらう。予は斯る島津家の保護の厚かりしを感謝すると同時に此の業をして廃さゞる様に務め、彼の盲僧をして〔大に〕世に適合したる宗教音楽家〔とし〕たらしむべく今後大に教育を施さねばならぬ事であらうと思ふのである。盲人をして風教上に関係せしむるは必ず感化の功〔少なからざる〕多かるべきを信するのである。斯くして、以て島津家代々の〔御〕厚意に報〔ふ事となると思〕はねばならぬ事である。

「島津家と盲人保護」解説

 本原稿の導入部で、盲天外は、自身が視覚障碍者となったことから、視覚障碍者への関心が高まり、統計から視覚障碍者が多い県に着目した結果、江戸時代の鹿児島・薩摩藩の島津家の盲人保護政策とその歴史にたどり着いた。そして、その福祉政策を分析し先進性を評価している。以下、「島津家と盲人保護」の内容で、特に森盲天外の特徴的な観点をあげて分析・検討していく。

データ主義

「盲人統計」については、勝野有美「近代日本における身体障碍増の変遷――品行と労災に関する政策・調査の対象規定を通して――」(2)に詳しい。都道府県が住民に対して行う調査や、国が国民全体に対して行う調査が想定されるが、明治初期には、各府県によって行われた人口調査のなかに心身障碍者をみつけることができるものの、まだ身体障碍一般がひとまとめに捉えられていたという。「個別の身体障害として盲、聾、啞が早い段階から個々に捉えられ」「特に、盲人に関しては、明治前半からほかのものに比べて非常に注目されていた」とされる。盲人調査に関しては、「明治元年の東京府による盲人調査、同13年楽善会訓盲会による『東京府下盲人取調』、同31年岩井徳次郎『本邦盲聾唖者の数』など。ただしこれらはともに調査結果が現存しておらず、詳細は不明」とある。盲天外が参考にした盲人統計は、都道府県別の盲人数がわかるものだったことを考えると、31年の『本邦盲聾唖者の数』とも考えられるが、現状では特定ができない(3)

ただ、ここで重要なのは、盲天外が統計調査の数値をもとに府県別の盲人数を分析し、その根拠や背景に着目した点である。まず正確なデータを確認した上、その背景や根拠の検証を進めている。その後に、「鹿児島市の滑川に浄楽院と云ふ盲僧寺」で実際に話を聞いた件を、

「第一に薩摩派盲僧の沿革を尋ねたが、之と云ふ特殊の〔記録も〕材料をも得なかった。只口碑や伝説に依って既に是枝氏が編纂に着手して居ると云ふことで未だ〔此も〕其稿を脱しては居なかったが、未定稿とでも云ふものを予は読で貰ふて聞いたけれども、口碑や伝説の事で正確〔な〕に且つ〔計〕系統正しきものとも見えなかったので、其沿革に至っては〔充分なる事を甚だ遺憾の点が多いのであるけれども〕」(注・破線引用者)

としていることから、「記録」がない点と、「口碑」「伝説」「口伝」であり「系統正しきものと見えなかった」点から、データとしては「充分なる事を甚だ遺憾の点が多い」(この箇所は草稿では赤字で削除されている部分)とする。盲天外は、根拠となる情報が、客観的かつ正確なものであるのかどうかをも吟味している。ここにも、余土村改革時から発揮されたデータ主義と同じ姿勢を見出すことが出来るだろう(4)

島津家の盲人保護の歴史的評価

 「薩摩派即ち日薩隅の盲僧を統一して居る本山」である「鹿児島市の滑川に浄楽院と云ふ盲僧寺」で、二十代にして中途失明者となった「是枝次郎氏と云ふ三十計りの僧」(4)から聞いた話が紹介される。この「浄楽院」は「常楽院」の誤りで、鹿児島県には薩摩琵琶発祥の地とされる「中島常楽院」が現存し、「妙音十二楽」と共に県の文化財指定をうけている。日置市のホームページの説明によると「建久7年(1196)に、島津家の祈祷僧として島津初代忠久に従って薩摩に下った宝山検校が、田尻中島に常楽院を建立したと伝えられている。薩摩琵琶発祥の地」とある(5)。また、星野和幸「盲僧による琵琶付法要の構成と音楽」に、薩摩琵琶の常楽院法流の歴史と現状が詳細されており、「現在、鹿児島市内に残る天台宗寺院は6カ寺でその内の5カ寺は常楽院法流の盲僧寺院」であり、いずれも所在地は鹿児島市ではない6。盲天外が訪れたのが「鹿児島市」の寺であったことを勘案すると、鹿児島市内の「常楽院」だと検討される。実は常楽院は江戸時代から幾度か移転をしており、下荒田(現・鹿児島市内下荒田町)にあったが西南戦争で焼失し、明治12年に長田町(鹿児島市長田町)に移転され、これも太平洋戦争で焼失したという(7)。盲天外の年譜から考えても、おそらく盲天外が訪問したのは、鹿児島市長田町の常楽院であろう。

 また、これらから推定するに、本文に「島津貴久」とあるのは誤りで、薩摩藩初代藩主「島津忠久」が正しいと推測される。

 盲天外が評価した点として、「島津家の保護」が盛況した点に、盲人の職業組織を作らせ、食糧や資金を支援し、職業としての優遇(盲人しか付けない職業とする)を保証するなど、実際的な手厚い保護制度により着実に地域の中で根付いた点がある。また、僧侶として「地鎮祭」といった祭祀や布教活動(「琵琶を弾じ経を読み時には史伝などを語って武士道の啓発」)もし、盲僧の受け持ち地域の設定と檀家制度など、僧侶としての地位も保障されていた点も挙げられる。

 谷合侑『盲人の歴史』(8)によると、中世における「平家物語」を語る盲琵琶法師の専業化からはじまった当座は、後に三味線、筝曲、按摩等といった分野も含めた当座制として江戸時代まで引き継がれ、幕府管理下で発展した。これらは日本独自の福祉制度として歴史的にも評価されるべきものがあるという。薩摩藩においては、初代藩主島津忠久が宝山検校を同行して文治2年に赴任した時点、つまり鎌倉時代から、島津家の施政下での手厚い盲人保護が継続していたという。九州の琵琶は、後に登場する筑前琵琶も含め中世発祥と言われ歴史も深く、平家琵琶を語る琵琶法師と流派を異にし、「盲僧座」という独自の文化として発展していた(9)。前述した薩摩琵琶・常楽院法流に関する個別の諸研究においても、薩摩琵琶の歴史、音楽といった面から多くの言及がなされ、薩摩藩と薩摩琵琶そして盲人保護の深い縁と独自の文化を知ることができる。特異な発展をとげた薩摩藩の盲人保護は、日本の盲人の歴史においても非常に有効な史実といえ、そこに着目した盲天外の慧眼もわかる。島津家の施策は、福祉制度としての手厚さと先進性もさることながら、文化芸術面でも薩摩琵琶の発展につながり、音楽芸術史の面からも多大な貢献を果たした。盲天外は薩摩琵琶の芸術的価値について詳細には触れていないが、盲人が活躍することで発展した音楽文化の支援としても、島津家の盲人保護は高く評価できるだろう。

盲人の自治、盲人の当事者性の視点

 論考では更に薩摩琵琶と比して筑前琵琶も言及が及ぶのだが、両者を比較しその制度や内実において、盲天外は薩摩琵琶に軍配をあげている。理由としては、「薩摩派の第一に違ふて居るのは薩摩派は其本山の住職は世々代々必ず盲人であった」点をあげ、「然るに筑前派は眼明の僧が住職して居ると云ふ有様で、之が常に大なる相違を来すべき因となって居る」という。この箇所で興味深いのは、盲人の自治、盲人による盲人の教育という面から実際的効果を批評する意見が強く打ち出されている点である。「統一者が盲人なると盲人ならざるとは其教育の方法並に同情の非常なる違ひを生じ、為めに末派の盲僧をして一は真面目に一は堕落に養成する様になるのである」と、当事者である盲人が取り仕切ることの効用を指摘した。現代でいうならば、当事者による当事者への支援である「ピアサポーター」とも重なる。

 さらには、「畢竟境遇を異にした不真面目な眼明僧の本山に住して只利益を之事として多くの盲僧より鑑札料を徴収して腹を肥して居るが為め、更に風教などには少しも心を置かないので斯くも堕落したものであらうと思ふ」と、形骸化した制度のもとでは、晴眼者が盲人を搾取するシステムになり下がる点をも指摘する。盲人による盲人の教育、盲人当事者による職業組織の自治と、当事者性を強く意識した意見には、盲天外ならではの先進性がある。

 また、島津家が盲人を保護し、宗教道徳の布教に携わらせた背景に、諜報員的な役目も盲人は果たしやすいという、盲人独特の立場も指摘している。 

 「即ち島津藩は日薩隅に渉り百二都城を有して各地に藩士を分配せられて居たので、常に其国情を秘密的に探索するの〔様〕用がある。為めに此の盲僧を各地に配当して其内情を常に探らせて居たものと見える。盲人に対しては世人の油断もあれば、殊に宗教と云ふ円融なる方面に地方感情の僻見なき職分のものをして秘密探偵に利用せられたとは、如何にも島津家の炯眼なるに驚かざるを得ないのである」(注・傍線引用者)

 

 盲天外は、盲僧が諜報活動の一端を担い、盲人ならではの多方面の便宜があって活用されていたという面も視野に入れ、評価する。薩摩藩の盲僧が諜報活動を担っていたという話は、おそらく盲天外の推論だと考えられるが、盲天外自身も一時期京都で流れ按摩をしていたという逸話もあり(10)、自身の体験からそのように推察したといえるのではないだろうか。

 以上のように、当事者ならではの実際的な視点と、地方政治家としての福祉政策への鋭い批評眼を用いながら、様々な角度から分析しているのが、本評論の特徴といえるだろう。

おわりに

 本稿では残り3編の未発表原稿のうち、「島津家の盲人保護」のみの翻刻と解題となった。解題を書いていく中で、想定よりも多くの歴史的事項との関連性が見つかり、丁寧に分析検討する必要性が出てきたためである。それだけ、予想よりも大きな価値を感じられる論考であった。

 今回、島津家の盲人保護や当座制について言及したが、世界的にも珍しい盲人保護制度であった当座制も、明治4年の太政官布告「盲官廃止令」により事実上解体され、明治16年には鍼治術を含む漢方医学が医師国家資格試験から除外されるなど、明治期は視覚障碍者にとって支援制度の後退ともいえるべき状況にあった(11)。島津家の特殊なまでの手厚い盲人保護政策や、江戸時代までの当座制は視覚障碍者の福祉制度として実際的に機能し、経済的な自立を支える職業支援となっていたわけだが、一面では、前近代的な職業身分の一つに過ぎないともいえ、明治政府の近代化の動きとともに淘汰されてしまった。視覚障碍者にも間違いなく明治近代化の波は押し寄せていた。その一方で、盲天外の母校である同人社の創設者・中村正直も関わった楽善会による東京や京都の訓盲院設置や各地での私立盲学校の設立、明治35年の好本督「英国の盲人」(12)による英国の福祉制度の紹介と啓蒙、明治40年には盲天外が発起人となった私立愛媛盲唖学校の開校という風に、視覚障碍者教育の進展と障碍者福祉への啓蒙での前進は見られる。

 本原稿の執筆時期を他の原稿同様に明治40~42年頃と仮定すると、盲天外は以上のような社会状況を見ながら、島津家の盲人保護によって近代以前の制度も再評価しつつ、真に社会に効果のある福祉政策を模索していたといえる。盲天外が好本督『英国の盲人』を読んでいたかは不明だが、同書の中で、好本の談として、英国人が盲人の職業訓練の一つとして新たに盲人按摩院を設立するに際し、日本の盲人按摩の歴史が好例として評価され、日本人である好本が設立委員会に何度も呼び出されたというエピソードが書かれている。好本と盲天外の論考は、前近代における盲人の職業や保護制度を再検討し、福祉政策について啓蒙するという方向性は重なる。ただ違いを挙げるとしたら、『英国の盲人』では、盲人による自治や、盲人による盲人への教育の効用までは視点は及んでいない。その点、盲人の当事者性を活かした指摘は盲天外の先進性として評価できるだろう。以上のように考えると、もし本原稿が明治期に公表されていたらば、日本の盲人の歴史の上でも非常に価値のある論であり、刺激的かつ貴重な論考になっていたといえるだろう。

 また後半に「仏国のルイ九世が盲人を集めてその生活(涯)を助けたと云ふ事は盲人保護の〔稿〕嚆矢」とルイ9世が紹介されるが、これはフランスのルイ9世が1254年に建てた盲人収容所「カンズ・バン」を指すと思われる(13)。ルイ9世の施策に関しては、現在も盲人の歴史研究の書籍には登場するものの一般的には広く知られていない史実である。盲天外がどのような経緯でこの情報に行き着いたのか、興味深い。一つ分かることは、盲天外がこのとき既に盲人の福祉政策について国内外とデータ収集をしていたことだ。盲天外の情報収集の広さや、盲天外がどのような社会改革を視野に入れながら活動していたかを検討する上でも貴重な資料といえるだろう。今回の内容を参考に森盲天外への理解を進め、研究において新たな評価を模索していきたい。

脚注

(1)「新出資料・森盲天外の「盲人の読書難」について」(『新居浜工業高等専門学校紀要』58巻、新居浜工業高等専門、2022年1月)

(2)勝野有美「近代日本における身体障碍増の変遷――品行と労災に関する政策・調査の対象規定を通して―」(『三田学会雑誌』vol.97,No.4、慶應義塾大学経済学、2005年1月

(3)(1)と同じ。拙論では仮説として、今回翻刻している4編の未発表の草稿は、『一粒米』『義農作兵衛』と同時期に出版社に一度は持ち込んだ原稿か、又はいずれ持ち込むための原稿として残していたものと推定した。「盲人の読書難」もその内容から明治40~41年に執筆された原稿と判断されたが、盲天外が参考にしただろう盲人統計の時期からも、「島津家と盲人保護」も明治40~41年頃に記されたものと推察される。

(4)調査したが、不明の人物。今後の課題とする。

(5)日置市ホームページ「常楽院」の説明参照https://www.city.hioki.kagoshima.jp/bunkazai/kurashi/kosodatekyoiku/shakaikyoiku/bunkazai/fukiage/jorakuin.html(2022.11.30閲覧)。

「妙音十二楽」については鹿児島県のホームページが詳しい。

「薩摩盲僧の間に伝承されてきた宗教音楽で、建久7年(1196)、伊作(現在の日置市吹上町南部)に常楽院を開いた宝山検校が伝えたとされています。新暦の10月12日の大祭のときに、常楽院本堂で、鹿児島・宮崎各地の僧侶が集まって演奏します(現在,一般公開なし)。はじめ、前楽と回向神楽が演奏され、次に全員で錫杖経、般若心経などを唱えます。続いて導師が堅牢地神をたたえる表白を唱えて、地神供秘法を行います。その間、「松風」「村雨」「杉登」などの12曲を、琵琶・太鼓・笛・手拍子等の8種の楽器によって演奏し、それと同時に釈文が絶え間なく唱えられます。釈文は、常楽院独自の経典で、地神の本地を説く「はんごん釈」、琵琶の由来を説く「琵琶の釈」などの長いものから、「夢の段」「わたます」などの短いものまで12種あります。古来、寺院などで演奏されてきた宗教音楽の流れをくむ特色ある芸能です。昭和46年5月31日に鹿児島県指定無形文化財になっています。

http://www.pref.kagoshima.jp/ab10/kyoiku-bunka/bunka/museum/shichoson/hioki/myouen.html(2022.11.30閲覧)

(6)星野和幸「盲僧による琵琶付法要の構成と音楽」(学位論文、平成25年、武蔵野音楽大学、武蔵野音楽大学学術リポジトリ、https://musashinomusic.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10&item_no=1&page_id=24&block_id=32(2022.11.30閲覧)に薩摩琵琶の常楽院法流の沿革や検証がされている。第一章第二節の脚注27、第三節脚注23に、常楽院法流の縁起の解説で、常楽院の所在地の変遷が整理されている。

(7)(6)に同じ。

(8)谷合侑『盲人の歴史』明石書店、1996年。

(9)(2)に同じ。

(10)一粒米の会編「講演・講和 資料 第1集」一粒米の会、2021年

(11)文部科学省『学制百年史』第三章第七節特殊教育「特殊教育の発展」https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317674.html(2022.11.30閲覧)

(12)好本督『真英国』(言文社、明治35年)、31~67頁に「英国の盲人」として、英国の盲人の職業や状況について紹介し「我国盲人界の改良に就て」と福祉政策の改良を提案している。

(13)「小原不二夫の部屋」、「盲人文化史年表」を参照させていただいた。「1254年、フランス王ルイ9世(Louis IX, Saint Louis: 1215~1270年)が、パリに300人を収容できる盲人収容施設「カンズ・バン」(L’Hospital des Quinze-Vingts)を設立 (王の保護を受け、寄付者には祈りをもって答え、施設維持のためにはこじきが奨励された。1777年、ルイ16世が宮殿拡張のためこの施設を買収し、収容者は路頭に迷うことになる。)」http://www5c.biglobe.ne.jp/~obara/tenji/nenpyo01.html(2022.11.30閲覧)

参考文献

[1] 『一粒米 付俳句俳論・天心園』愛媛文学叢書刊行会編、青葉図書〈愛媛文学叢書 2〉、1990年6月、復刻増補版。

[2] 一粒米の会編「講演・講和 資料 第1集」一粒米の会、2021年。

  • 本論では、かっこ付きの〈障害〉を除き、表記を「障碍」に統一した。表記問題をふまえ、「障碍」の表記も一般的に認識が広まったという見解からである。従来から「障害者文学」として言及されてきた研究分野でもあり、過去の論文ではその例に従って「障害者・障害者文学」と表記している。また、引用文に関しては、本文のままの表記で統一したその。
  • 本研究の継続にあたり、余土公民館の皆様には多大なるご協力をいただいており、ここに併せて謝したい。

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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