正岡子規の偉業といえば、俳句短歌の革新、文章の革新がまず上がるが、日本近代文学における〈病と障害〉というジャンルにおいてもまた先駆者だった。子規といえば、病床で痛みをまぎらわすためモルヒネを飲みながら創作を続けた姿が思い浮かぶ。子規を論じる際には、創作時期によっては、病で寝たきりだったという身体的状況への理解は避けられない。その上、〈病・障害の当事者〉という立場に着目すれば、その先駆性はさらに明確になるだろう。というのも、明治大正の文学作品では、病や障害は差別的視線で描かれ、病を感傷的でロマンティックな物語として美化して描くこと(病のロマン化)が多く、書き手も健常者が大半だった。病や障害の当事者で、自らの身体的状況を描き出した作家が、まだ少なかった。そんな時代にあって、正岡子規は、その作品の質と量から考えても、重要な文学者といえる。例えば、文芸評論家の柄谷行人は『病という意味』という評論で、「子規の短歌や俳句の革新は、結核が強いた現実や生理とは無関係ではない。しかし、彼は〝意味〟としての結核とは無縁なままであった」「いわば結核を「写生」している。それは苦痛を苦痛として認め、醜悪さを醜悪さとしてみとめ、「死への憧憬」のかわりに生に対する実践的な姿勢を保持している」と、その先進性と透徹した表現を高く評価している。
子規は、肉体の痛みや苦しみ、煩悶を描いても、病のロマン化に陥らない。客観的に自らを描き続ける行為を、写生という方法が助け、自分の喜怒哀楽をあるがままに描きつつ、決して紋切り型のお涙頂戴の物語に陥らなかった。その上、病床という空間的・身体的制限の中で、制限から自由になる、又は楽しむ方法をみつけ、時に滑稽なおかしみに遊び、美を追究し続けた。このような表現を病・障害の当事者として残したことが、何よりも斬新で画期的なのだ。
そこで本稿では、子規の随筆より、追体験や回想による想像力の手法と、物に語らせる手法について、紹介したい。これらも、病床という空間的・身体的制限故に試みられた方法であり、多彩な趣向や方法を試すことが、子規の作品に広がりとバリエーションをもたらし、哲学的主題にも影響を与えていたことが分かる。
方法としての追体験と回想
随筆『松羅玉液』では、〈追体験〉〈回想〉という手法を用いて、発句と随想を試みている。当時の子規の状態は、ほぼ寝ていることが多く、ごく稀に体調の良い時だけ杖をついて俥で外出し、ほとんど家の中で過ごしていた。そんな中、『松羅玉液』では、数年前の旅の思い出を回想し、追体験し、発句する場面が頻出する(「旅行」「夏川」「避暑旅行」「京都」「愚庵」など)。最初のきっかけである「臥遊紀行」は、病者の〈空間的制約〉を乗り越えるため、過去の想い出から旅を追体験し、発句するという趣向であった。そこでは、〈過去〉の記憶を辿ることで、病床にある〈現在〉の空間的制約、行動の制限から解放され、自由に旅をすることができ、実際に体験しているかのように発句できるのだ。『松羅玉液』の発表時期(明治二九年四月二一~十二月三一日、新聞『日本』に連載)は、俳論が多く提出された時期でもある。写生論で有名なことから写実主義の印象が強い子規だが、随筆を丹念に読むと、想像力の方法が使われる場面も多い。その背景に、彼の身体的な必要性がその方法を選ばせ、実作で深めた過程が読み取れる。
春雨のつれづれ枕を敲いて歌へどもまぎらすべくもあらず。静かに思へば常総の山河眼に浮び心に現はれて七年前の膝栗毛に水戸の旅籠屋を追い出されたる事など一人笑壷に入ること多きを折ふしこの頃の時候なりければ麗かなる野道の景色、菜黄麦緑の中に川の面は見えで白帆莚帆のつらなりたるまでさながらに昔の事とも覚えず。(中略)思ひいづるままに彼よ此よと空中の幻華を捉へて一句二句終に臥遊紀行とはなりぬ。その中に
足二本同行二人春の風(以下、二句略)
子規全集の年譜によると、「七年前」の明治二二年四月、舎友吉田匡と水戸旅行をしている。途中人力車や川舟を使ったものの、相当な距離を歩き、筋肉痙攣を起こしている。当時、子規は二三歳で、第一高等中学校本科一年で寄宿舎生活を送り、漱石とも交流が始まった時期だ。ここでは、特に足が題材になった点が興味深い。「同行二人」は、お遍路が笠に書きつける言葉だが、血気盛んだった若者の「足」は、遍路のように水戸をどこまでも歩いた。現在の子規からは想像のつかぬ力強い歩みを、自由な「足」を失った今、詠っている。これも現在からの考察の結果、詠われた内容だと理解した方が、意味合いが深い。
また、「夏川」では、「昔夏季休暇で帰省」した折、「田舎の友」を訪ねた思い出により発句している。過去に友を背負い、川を渡った、夏の日の健やかな「われ」が描かれる。こちらも、健康を喪失した現在の筆者が表現していることで、かえって〈過去〉の「われ」の健やかさが鮮明になる。そして、「総てきのふの如き心地す」とあり、発句の手法としての臥遊紀行から発展し、筆者の追想の側面が加えられている。
こうして、空間的制約から自由になる役割で始まった発句の手法だが、回を追うごとに、〈旅〉〈想い出〉〈健やかだった自分〉と、〈現在の自分〉とを思い返す追想・感概の面も、深まっていく。旅の追体験や回想で発句する際の特徴として注目したい点が、〈現在からみた過去〉の視点が、添えられる点である。単に〈過去〉の記憶を、あたかも現在のように用いて発句して、終わりではない。俳句単体で読めばそれもわからないが、過去を想起する〈現在〉の筆者の視点や感想が作品に添えられることで、〈過去〉にあったものを喪失した現在の地点で書かれた作品だと分かる。その構図を読み取ることで、さらに叙情も発生するともいえる。子規が、この構図や手法について、どこまで意識的だったか、更なる検討の必要性が残るが、本稿では、身体不自由から自由になるための方法が、やがて子規の哲学的思索や美意識にまで発展した側面も指摘しておきたい。
当初、俳句の方法としての臥遊紀行であり、〈旅の追想〉は発句のための趣向、楽しみといった軽やかさがあった。その後、「避暑旅行」が書かれた時期は、子規本人の現状に対する口惜しさ、旅への憧憬が強まっていく。この時期、子規がいかに旅を恋うていたか。明治二九年八月頃の書簡では、体調が不安定で、家に閉じこもっていた様子がわかる。「友どちも皆方々へ遊びに行き一人とり残され候やう覚え申候」(八月九日・大原恒徳宛書簡)、「当地俳友一時離散の姿にて」「秉公は伊香保へ参り候 墨水静岡に在り未だ帰らず 種竹山人明日将に松島へ赴かんとす 小生昨年今日須磨を発して松山へ向ひ候と存候 多少の感慨」(八月十八日・高浜虚子宛書簡)と、俳友たちが避暑旅行へ出かけ、自分一人根岸に残る悔しさが吐露されている。
「避暑旅行」では、碧梧桐の榛名行きは、十年前に子規も旅行した地でもあり、「今にして当時を思へば」と、今の自分が不自由であるからこそ、健やかに旅をした思い出に、「胸中一種の感慨に打たれ」、涙をこぼす。「胸中一種の感慨」の語にこめられた複雑な心情は、語られないまま、「曾遊を追懐」した「数句」が添えられる。伊香保温泉や榛名山を詠った五句には、病人の不自由をこえ、想像の中で自由に空間を動きまわり、追体験するさまが詠われる。特に、簡単には入浴できない状況の筆者が詠んだ「温泉」の句の、心地よさそうな描写は感慨深い。その後、小田原を旅する徒然坊が、富士登山したのを知り、歩行不自由で外出できない人が、「いまいましさに堪へねばわれも富士へ上りたるつもり」で発句する。笑いと悔しさが入り交じりつつ、想像の中で自由自在に動き、富士山頂の景色を雄大に詠ってみせている。
試みの臥遊紀行の最後を飾るのは、「京都」だ。五年前に、紅葉の名所・京都の三尾を訪ねた思い出が語られ、「高尾の楓の葉を自らのハンケチに打ちこみ」などし、さらに虚子も合流し「打ちつれだちて」嵐山を見に行き、酒を飲んだ日が回想される。そして子規の語りは、ただ過去の出来事の叙述だけではなく、今の自分からみた感慨を述べる。
この日の興筆に書きがたし。この時われは尤も前途多望に感じたりし時なり。われに取りては第一の頸敵なる学校の試験と縁を絶ちたりし時なり。ましてこの勝地に遊びこの友に逢ふ。喜ばざらんと欲するも能はず、これを抑ふればますます喜びは力を得て逬発せんとす。わが顔は喜びの顔なり、わが声は喜びの声なり、わが挙動は喜びの挙動なり、はては一呼一吸する空気の中に喜びの小児は両腋の羽を動かして無数に群れたるを見る。この時のわが喜び虚子ならでは知るまじ。この時の虚子の喜びもわれならでは知るものなし。目前の何が楽しきかと問はば何が楽しきか知らず。前途に如何の望かあると問はば自ら応ふるに能はず。しかれども人間の最も楽しき時は何かは知らずただ楽しき時にあるなり。喜び極まりてしかも些の苦痛も感ぜざりしはわが今日までの経歴にてただこの時あるのみ。既往かつ然り、今後再びこの喜びあるべしとも覚えず。
木老いて帰り花だに咲かざりき
十数行のうちに「喜び」「楽し」の語が頻出する。後の『墨汁一滴』における〈楽しみ〉〈自由〉、〈苦〉について書かれた箇所を思えば、これほど手放しの「喜び」「楽」が書かれた箇所はないだろう。無邪気にただただ喜びの中にいた子規は、それが特別な瞬間だとは思いもつかなかった。ここで、過去の「喜び」「楽し」の輝きと、それが失われた現在との対比により、人生の偶発性と儚さをかもしだす。また「既往かつ然り、今後再びこの喜びあるべしとも覚えず」という言葉も加えられ、〈過去〉の純粋な喜びや楽しみと、〈現在〉を比較した軸に、さらに「今後」=〈未来〉まで加えられる。おそらく病床の〈現在〉から思い描く〈未来〉は、〈過去〉の自分が思い描いた「前途」とは全く異なる、苦痛にみちたものであろう。〈死〉が終着点として予想され、予想されるのは苦痛であり、楽しみや喜びは少ない。最後につけられた一句は、子規の今とこれからを詠った句として読める。「人間の最も楽しき時」を語ったこの箇所は、もはや発句する手段としての回想より、人生の追体験を通して得た、哲学的な述懐が入り始めている。更にこの述懐を〈未来〉のほうへ軸を伸ばせば、そのまま『墨汁一滴』で「頭の黒い真宗坊さん」に言われたという「大問題」にも繋がる。「大問題」とは哲学的な問題であって、『墨汁一滴』で増えはじめ、『病床六尺』で深まっていった〈死生〉の問題であり、〈苦〉の多い〈生〉をいかに過ごすか、生きるかといった問いだ。
以上のように、追体験の中で〈過去/現在〉を考察する筆者は、やがてそれらを俯瞰した視点となる。過去を語れば、それは健康で自由だった自分の輝きや無邪気さであり、失われたものへの追慕となる。一方、現在の視点から述べれば、それらを喪失した今と、今だからこその感慨や述懐となる。その感慨の中身は、人生の偶発性、つねに喪失の可能性をはらむ、人生の儚さといってもいいだろう。
物に語らせる
また『墨汁一滴』でも、外出できないという身体的・空間的制限のために、様々な趣向や工夫がみられる。三月二日、三日の記事では子規庵で会席料理を楽しみ、四月五日は恕堂が持ってきた蓄音器とラフィングソングの感想、六月三十日の記事には、陸羯南主催の会で子規庵に人が集まっている。他にも、書簡の引用や、音や香りといった五感を使うなど、空間的・身体的制限を逆手にとり、趣向として楽しむ方法が多く見られる。その中で、次は、物に語らせる方法について見ていきたい。
第一回の一月十六日で重要な役割を果たすのが、「小さき輪飾りをくくりつけたる」「寒暖計」、「橙」、それと並ぶ「二十世紀の年玉」の「地球儀」など、病室の品々だ。俳句や短歌ならば季語ともいえる時候を意味する物品(ここでは正月)が、巧みに配置される。病室という空間と、行為と動作が限られた条件下では、物品がもつ意味合いは大きな役割を果たす。そして、季節の品を飾っても、場所が病室であることで、斬新な組み合わせとして映える。特に、ここでは地球儀が、空間的制限から自由になるための大きな効果を発揮する。
直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささ
かながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。(中略)二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何に変りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかく状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱なり。
病床という狭い空間から、視点が地球規模に広がり、時間軸も二十世紀末までに及んでいる。
また、翌日の一月十七日の記事では、麓からの土産・七草の寄植えの篭について書かれ、自然の風物のミニチュアにより、箱庭を散策する趣きだ。こちらも空間的制限を感じさせない文となっている。物をそのまま描写し、物に語らせることで、季節感や遊び心、風趣をうみだしている。ここで重要なのは、物に語らせるとしても、何でも良いわけではない点だ。題材自体が趣の深いもの、所以の深いものが厳選されており、筆者の視点による選択、調合、配置が、物を効果的に語らしめている。その他に、二月九日の記事「我貧厨をにぎはしたる諸国の名物」では、「大阪の天王寺蕪、函館の赤蕪、秋田のはたはた魚、……(以下略)」と、各地の地名とご当地の食品が列挙され、各地の美味を一堂に集めた名物づくしの面白さとなる。これも、子規には実際の旅は不可能であり、吟行も不可能であった点から、所以のある品々に語らせることで、空間的・身体的な制限から自由になり、表現を発展させた好例だ。
また、空間や物を描写することで、子規の心情が、語らずして語られている場合もある。三月七日の記事「鉄網の大鳥籠」では、楽しげに水浴びする鳥たちの様子が愛らしく描写された後、「考へて見ると自分が湯に入る事が出来ぬやうになつてからもう五年になる」と一行だけ添えられて終わる。単純に読むと、小鳥の水浴びから、自分の入浴を連想したというわけなのだが、最後の一行で、〈籠の中の鳥=病室に閉じ込められている子規〉という暗示も読み取れる。自らを〈籠の中の鳥〉と直接的に書けば月並になるところを、鳥たちの描写と最後の一行だけの感想によって、かえってその感慨が深まる。
また、物に語らせる方法や趣向がさらに短くなると、呟きや警句になっていく。例えば、「ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上においてある。余は痛をこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや。(四月十五日)」。「僅かにでた南京豆の芽が豆をかぶつたまま出鉢の中に五つばかり並んで居る。渾沌。(五月三十一日)」。「ガラス玉に十二匹の金魚を入れて置いたら或る同じ朝に八匹一所に死んでしまつた。無惨。(六月一日)」を見てみると、類似した三つの文章ながら、対象物と筆者の距離感が、異なることがわかる。四月十五日の記事では、ガラス玉の金魚と、それを眺める「余」。「痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや」とあることで、対象物とそれを見ている人物「余」と、筆者の三者が存在する。後の二つの記事では、最初の一行で事物が客観的に書かれ、「渾沌」「無惨」と書き手の考察がなされる。前者では、情景として金魚鉢と子規自身が想像されるが、後者では、筆者は視点に専念し、そこで感想を述べ、「余」は現れない。このように、〈物に語らせる〉場合でも、対象である物と、それを観察し経験する子規、それらを言語化する筆者といった三段階の構造が考えられる。ここまでくると、写生文とほぼ重なってくる。子規の写生論が、絵画から発想され、絵でも写生を試みていた点を踏まえても、視点意識への自覚があってもおかしくはない。このように、物を描く際の物の用い方、物との距離感、視点なども、文章ごとに細かく精査することで、子規の意図がどこまで明確だったかも分かるだろう。子規の「取捨選択」「配置」については先行研究でも既に指摘がなされているが、制限の多い病床にあっても、子規の物を選ぶ感性・再発見する感性があったからこそ、豊かなバリエーションと自由闊達な表現が生まれたのだ。
おわりに
子規といえば客観的描写のイメージが強いが、身体的・空間的制限をこえるために、想像力に遊ぶ方法や、物に語らせる方法など、多彩な趣向を試みていた。その試みは、そのまま俳句理論や実作、随筆での哲学的問題へも繋がっていたと考えられる。子規を語る上で、その文学と病は分かちがたいという意見は、誰もが首肯するだろう。更に、具体的にどのように関係し合っていたかを、作品や理論から丁寧に分析することで、新たな評価や観点を探れるのではないだろうか。そこに、病の文学、障害者文学の可能性も残されている。
最後に、子規が試みた想像力の発句と、同様の方法を試みていた俳人を一人紹介したい。盲目ながら愛媛県余土村村長として活躍した政治家・森盲天外だ。奇しくも、森盲天外は「地名読込の俳句(冬)」(『ホトトギス』六巻六号/明治三六年一月)で、「僕は盲目の身であって、昼夜をも分つことが出来ないので あるから、只暗裡にさまようて居て、人の如く自由に名所勝地をあさり、其の山水や溪壑の美を賞嘆することが出来ぬ。 だから嘗て僕が目のある時代に、名所や旧跡を経歴したことを思い出して見て、実に感慨に堪えないことが多い」と述べた後、記憶の中で各地を巡り、追体験で発句するという手法を披露している。視覚障害者が文芸創作をする行為自体、稀なのだが、その身体的制限を乗り越えるための方法として取ったのが、追体験での発句だった。視覚障害者として俳句や自伝を残し、書籍を刊行した盲天外も、日本近代文学史上において非常に希有な存在である。同時代の愛媛にこのような人物が二人も存在した事実は、偶然にしても、驚きを禁じ得ない。今後も、他の障害者文学との比較や、同時代の社会的状況も検討しつつ、彼らの文学の独創性と意義を再発見していきたい。


