『十六歳の日記』論――川端文学と盲目

目次

一、はじめに――祖父から始まる〈盲目〉

 川端文学において、〈盲目〉〈盲人〉が多く登場する点を最初に指摘したのは、羽鳥徹哉「川端康成と盲目の人――付・聞いてわかる文章のこと――」 だ。羽鳥氏は「川端が盲目の人に関心を寄せた理由の一つには、祖父が盲目だった」とし、〈盲人〉〈盲目〉が登場する作品を広く紹介しながら、最終的に「聞いてわかる文章」に拘った川端の動機をそこにみている。須藤宏明「盲目の人を動機にした川端康成の小説論――「温泉場の事」を中心に――」 では、〈盲目もの〉の分類が〈祖父もの〉〈少年少女もの〉〈それ以外のもの〉とされる。また最近では、兪戴信「川端康成『十六歳の日記』論――盲目と感覚――」 でさらに詳しく〈盲目もの〉の分析がなされ、二九作品があげられ、祖父の「盲目」という視覚の欠如が、川端の「写生」という視覚の顕著に結びつき、豊かな感覚世界を可能にしている点が指摘されている。

 たしかに、川端作品における〈盲人〉は初期から晩年にかけて、時期を問わず書き継がれているモチーフである。その原点は、『油』(一九二一年七月)や『日向』(一九二三年十一月)に始まり大正末から昭和初期に書かれた、実の祖父である。川端が自らの家族を描いた作品はいくつかあるが、それらに共通するテーマは自己の境遇への複雑な思い、家族の記憶と思い出、〈孤児根性〉だ。加えて「祖父もの」の特徴をあげるとすれば、最後の肉親となった祖父への特別な敬愛と、祖父が盲目であったことが大きく絡み合い、川端の性格形成や対人意識の形成――視線恐怖、対人恐怖、自意識の裏返し――がみえる。この初期の作品群で、〈失われた家族・肉親の象徴〉のテーマと、祖父の〈盲目〉の二つが絡まりあい、後に多く描かれた〈受容の存在・許しの存在〉としての〈盲人像〉が出来上がったと思われる。実際川端作品に登場する盲人は、おしなべて好意的に描かれ、優しい人物であったり、純粋無垢な感覚を持つ人として描かれる。この盲人像は、やがて後につづく『女性開眼』 『美しい旅』 の主人公である盲目少女たちや、『たんぽぽ』 の人体欠視症という特異な病の創造に繋がり、川端独特の〈盲目観〉の本質となる。このような独特の盲人像を作り上げたのは、なによりも最後の肉親であり、最も敬愛する祖父が盲人であった点、祖父と川端少年の関係そのものであった。

 そこで、本稿では『十六歳の日記』 、『父母への手紙』 を中心に、川端作品における「祖父もの」を分析することで、川端の〈盲目観〉〈盲人像〉の原点を探るとともに、川端文学における〈盲目〉というモチーフの重要性と、遺作『たんぽぽ』にも繋がる独特の愛の観念について考察したい。

二、 『十六歳の日記』

① 祖父との関係
――〈見る〉という愛の形

 『十六歳の日記』は、川嶋至氏の論(『川端康成の世界』一九六九年一〇刊)に端を発した議論――『十六歳の日記』が発表時の二七歳の〈作品〉か、少年の〈日記〉とするか――に始まり、いつの段階で作られた作品とするかが、一つの重要な要素となってきた。その上で、元からあった少年の「日記」の記録部分と、《》でくくられた二七歳時の補足的記述部分、「あとがき」「あとがき二」との構造について、多くの先行研究により厳密な分析がなされ、〈記録〉〈記憶〉〈書く行為〉といった視点で論じられてきた 。

 本稿では、作者の創作意図をさぐる構造上の議論や、〈記憶〉〈記録〉〈書く行為〉をめぐっての先行研究の成果を踏まえつつ、〈祖父〉との関係から生じた〈盲目観〉〈盲人像〉、ひいては〈愛のかたち〉といったものに着眼したい。たとえば、馬場重行「川端康成「十六歳の日記」私論――〈ことば〉の力――」 では、「〈耳〉による記録」に注目し、本作が祖父の〈声〉を書き写した作品であること、後の川端が「鋭敏な〈耳〉で記録した〈ことば〉に、少年の純粋な姿=祖父への真っすぐな〈愛〉をみている」とされる。高橋真理「『十六歳の日記』の内と外」 では、川端家に所縁の「虚空蔵菩薩」に着眼し、「祖父の声の語り」を記録することで、祖父の語りに組み込まれている少年の世界と、やがて少年の書き写した言葉が「祖父の仏性を先取り」する働きまでを読んでいる。この二つの論は〈耳〉〈語り〉といったいわば川端少年の聴覚に焦点をあて、羽鳥氏が指摘した「聴いてわかる文章」にも繋がる川端文学の一側面を、鮮やかに読み解いたものともいえる。前述の兪戴信氏の論においても、『十六歳の日記』の感覚世界を特に盲目の祖父の〈聴覚〉〈声〉〈言葉〉をもとに分析し、「写生」から生まれた視覚的イメージも、あくまで聴覚イメージに支えられているという指摘がある。このように概して『十六歳の日記』は、祖父の〈盲目〉と共に分析される際も、〈聴覚〉〈声〉〈語り〉で論じられることが多かった。

 しかし一方で、私はまたこういう想いも抱く。川端康成とは「〈眼〉の人」と呼ばれた作家ではなかったか。伝説的にもなっている、川端康成の〈視覚〉〈視力〉というものが、『十六歳の日記』の少年にもすでに宿っていたのではないか。その片鱗は、盲目の祖父と過ごした少年期にすでに胚胎していたのではないか、と。そこで本稿では、老人と少年の関係〈見る/見られる〉を切り口に、読み進めていきたい。

 川端は祖父を語る時、必ずといっていいほど「盲目」であった事実を書き添えている。それは祖父の〈盲目〉が、川端自身の癖に影響を残したためだ。川端の大きな眼と、「人の顔をじろじろ見て大抵の者を参らせてしまう癖」(「日向」)は非常に有名な逸話でもある。川端は「この癖を出している自分に気がつく度に、私は激しい自己嫌悪」「幼い時二親や家を失って他家に厄介になっていた頃に、私は人の顔色ばかり読んでいたのでなかろうか、それでこうなったのではなかろうか」と打ち明ける。人の顔を見る癖を、人の顔色ばかり見て育った孤児であることが原因として、「自己嫌悪」を感じていた。 

 実際川端は他家に厄介になっていた頃、苦労を存分に味わっていたのだろう。『父母への手紙』で、川端同様に他家の引き取られていた姉の「ええ、伯母さん。私はお湯もよく噛んで食べます」というエピソードに、引き取られた孤児の悲しさや惨めさ、「情けな」さを指摘している。他家に引き取られ、人の顔色を見て暮らさなければならなかった境遇、肉親を知らない境遇が〈孤児根性〉を植え付けたと、川端自身は考えていた。が、短編『日向』によって、その癖への見解が一変する。

 祖父は盲目であった。祖父は何年も同じ部屋の同じ場所に長火鉢を前にして、東を向いて坐っていた。そして時々首を振り動かしては、南を向いた。顔を北に向けることは決してなかった。/北を向いてほしいと思いながら私は祖父の顔を見つめていたし、相手が盲目だから自然私の方でその顔をしげしげ見ていることが多かったのだ。それが人の顔を見る癖になったのだと、この記憶で分った。私の癖は自分の家にいた頃からあったのだ。この癖は私の卑しい心の名残ではない。そして、この癖を持つようになった私を、安心して自分で哀れんでやっていいのだ。

 「自己嫌悪」を生んでいた「顔をじろじろ見る癖」が実は、孤児だったために生まれた癖ではなく、盲目の祖父と暮らしていた故の癖だと気付く。ここで「顔をじろじろ見る癖」は〈孤児根性〉から、肉親との繋がりへと変化する。書くことにより〈記憶〉の転換が果たされ、〈孤児〉からの救いを見出せたのだ。更に注目すべきは、川端少年が祖父の顔をじっくり見ていたという事実だ。相手が盲目だからしげしげと見た、という自覚が川端には明確にある。自分の集中的な視線が、明らかに相手の盲目――相手の視線の欠落のため――にあると自覚している。ここが川端の興味深い点であり、盲人と身近に暮らした生活からの正直な実感だと思われる。兪戴信氏の論でも、「祖父の視覚の欠如」故の「私の視覚の顕著」がある点は指摘されていた。そして本稿で更に評価したいのは、この視線の自覚がすんなりと祖父への愛慕、敬愛の情へと繋がる点である。

 度々長い間祖父の前に坐って、一度北を向くことはなかろうかと、じっとその顔を見ていた。しかし祖父は五分間毎に首が右にだけ動く電気人形のように、南ばかり向くので私は寂しくもあり、気味悪くもあった。南は日向だ。南だけが盲目の祖父にも微かに明るく感じられるのだと、私は思ってみた。

 南しか向かない祖父を「寂し」いとも、「気味悪」いとも思う。これが盲人の特異な動きに対する、少年の正直な感想だ。その正直で尋常な感覚で「北を向いてほしい」と願いながら、それでいて「南は日向だ。南だけが盲目の祖父にも微かに明るく感じられるのだ」と、盲目の祖父の気持を汲もうとする二つの心の動きがある。あれこれと考えながら、ただ盲目の祖父に対し「じっとその顔を見ていた」「その顔をしげしげ見ていることが多かった」という少年。祖父の顔をしげしげと見つめ、観察し、盲目の祖父の気持を汲むことが川端少年なりの敬愛、親しみの姿だったのだ。

 少年と、盲目の祖父の二人きり。奇妙といえば奇妙な家族だ。祖父母・両親・子供が揃えば「家族」なのかといえば、そうともいえない。家庭の数だけ様々な種類の家族構成があってよい。少年と祖父だけであろうとも、家族は家族である。ただ、盲目の祖父と二人きりで生活した少年が、その家庭から与えられた影響は多大なものがあっただろう。相手の顔をしげしげと見つめ観察し、相手の気持を汲むというコミュニケーションは、盲人にしか通用しない方法ではなかろうか。「顔をじろじろ見る癖」の原因を、他家に育った孤児であった事実より、盲目の祖父を持った事実に取ったほうが、確かに川端にとっては救いとなる。しかし、視線の欠落した相手と暮らした経験、そこで得たコミュニケーションの方法はやはり川端に大きな影を落としたと思われる。何故それほど「顔を見る」のか。『十六歳の日記』では、祖父は〈盲目〉と同時に、その「顔」が共に語られる。

 骨立った顔、大方禿げた白髪の頭。わなわなと顫う骨と皮との手。ごくごくと一飲みごとに動く、鶴首の咽仏。茶三杯。/ああ、祖父は「あるもの」を自覚せられたのではないか。虫の知らせではないか。(略)――私は自分の眼がぼうっとなるまで、祖父の蒼白い顔をみつめていた。/ランプを顔すれすれに近寄せると、眼を少し開いて、「なんや。」と言われた。おお、もう再び開かれないかしらんと思っていた眼が、この眼が開いた。一道の光明が暗黒の世界に射したように嬉しかった。(『十六歳の日記』五月四日(以下、傍線は引用者))

 「今戻って来た」と三度言う。「おお、ぼんか。後でししさしてんか。」「はあ。」これくらい私に嫌な仕事はない。(略)十分経っても出ぬ。(略)この待つ間に、私は不平を言う。厭味を言う。自然に出るのだ。すると祖父は平あやまりに詫びられる。そして日々にやつれて行く、蒼白い死の影が宿る顔を見ると、私は自分が恥しくなる。(同・五月七日)

 「おみよもういんだか。朝飯も食わさんと。」「今、晩飯食べたやないか。まだ一時間もたたひんで。」分ったのか分らないのか、大変表情が鈍くなった。「寝返りさしてんか。」なんだかぼじゃぼじゃと言われたが、一向分らぬ。聞き返しても答えようともせず、甚だ頼りない。/祖父は脚も頭も、くしゃくしゃ着古した絹の単衣物のように、大きな皺が一杯で、皮をつまみ上げると、そのままで元へ戻らない。私は大変心細くなった。今日は何かにつけて私の気にさわることばかり言われる。その度に祖父の顔がだんだん険相になって行くように思う。私が眠るまで絶えたり続いたりする祖父のうめき声のために、私の頭は不快に満ち満ちて。(同・五月十四日)

 「さあ、そう急なことはないやろ。」と私は言うものの、医者が留守と聞くと心がせく。祖父はもういびきを立てて、寝入られたのか。口をあき、目もよくふさがらぬ、うつろな姿。(同・「あとがき二」に収録の原稿)

 病床の日記ということもあり『十六歳の日記』では、いずれも祖父の顔に死の影が潜伏する。川端が後年「あとがきの二」で評価している、川端少年の「写生」は、祖父が語った言葉だけではなく、自らが見た祖父の〈顔〉や〈姿〉にまで及ぶ。祖父の〈言葉〉・祖父の〈声〉をそのまま写し取ったという台詞部分の生々しさは、壮絶なリアリティで際立つ。先行研究でもその〈声〉〈語り〉〈聴覚〉の凄まじさが特に評価されてきたことは、前述のとおりである。

 一方、地の文で描写されていく祖父の顔はどうだろうか。少年の目が平素以上に盲目の祖父の顔に張り付き、まるで生死を占うかのように、その表情や様子に一喜一憂している。『十六歳の日記』で少年が顔にばかり集中するのにも、「人の顔を見る癖」以上に、また別の理由があるのだ。眼は見えず耳は遠く、寝たきりの祖父は、声によって自分の意志や心情を主張していた。それが容態の進行と共に、盲目の祖父の思考が正常に働いているかどうかも、次第に分らなくなっていく。書き留められる祖父の生の声も、次第に病状の悪化と、痴呆のような病床の混乱の様態に変わっていく。そうなると、祖父はもはや何を思い考え、どういう症状や心情が祖父の中に内在しているのかも分らなくなる。正常な精神状態が祖父にあるのかさえも、少年には分らなくなるのだ。盲目で体の自由も失った祖父が唯一、少年やお手伝いのおみよといった、外部との交流を可能にしていた〈声〉さえ失う。もはやただ呻き、混乱を訴えるだけの死と病に蝕まれた一個の肉体となった時、少年は祖父の何を頼りにしたのか。おそらく見馴れた、祖父の顔だったのではないか。

 見慣れた祖父の顔が、どのように変化していくのか。意識も思考も明瞭ではなくなってきた祖父本人からは、もう何も確かな情報を引き出すことが出来なくなった時、少年の目は淡々とひたすらに祖父の顔を描写していく。祖父の顔を見て描写すること、写生することが、彼にできる唯一のことになってしまう。始めは「骨ばった顔」で始まり、次第に「蒼白い顔」「蒼白い死の影が宿る顔」となる。この段階ではまだ死の影を、少年がおぼろに祖父の顔に見ている段階だ。それが、やがて祖父の内面をあらわす表情となって表れてくる。例えば、「分ったのか分らないのか、大変表情が鈍くなった」という祖父の顔は、痴呆のように意識の混濁した、危うい精神状態を表している。そして痴呆症状でも緩やかな意識の混濁状態ならいいが、次第に理性や周囲への思いやりもなくなり、気も荒くなり、「今日は何かにつけて私の気にさわることばかり言われる。その度に祖父の顔がだんだん険相になって行く」と、死の影に、祖父の表情の険しさが加わる。いよいよ医者を呼んだほうがいいと周囲が相談するほど最期が迫った時は、「祖父はもういびきを立てて、寝入られたのか。口をあき、目もよくふさがらぬ、うつろな姿」とその表情さえも消えかかり、声からも顔からもメッセージは読み取れず、放心した祖父の様が浮かび上がる。

 盲目の祖父と少年の関係は、祖父の〈声〉と〈顔〉の表情で成り立っていた。盲目の祖父を理解しようとする時、少年は祖父の声と顔からメッセージを受け取った。そして〈声〉が定かではなくなってきたとき、少年はいつもの癖というより、真剣に祖父の〈顔〉を見つめて何かを読みとろうとしていたはずだ。祖父が実際に語る〈声〉以上のものを、〈顔〉から読み取りさえしていたかもしれない。少年にとっては〈見る〉ことが、〈声〉〈言葉〉以上に頼りになったのかもしれない。目の前に存在している祖父の顔を〈見る〉ことが、少年の〈視線〉が、〈声〉〈言葉〉だけでは分らない祖父の内実を補うこととなった。〈見る〉行為が祖父への愛慕、敬愛に素直に繋がっていくのは、祖父の盲目や死の病という大きな欠落を補い、祖父に自ら歩み寄って必死に理解しようとする川端少年の心情が表れているからなのだ。盲目の祖父と少年の間では、少年の〈見る〉行為が一つの〈愛の形〉となっている。

 『十六歳の日記』を書き始めた十六歳当時の動機を、後に書き写した二七歳の川端は、

 《私は原稿紙を百枚用意して、こんな風な日記を百枚になるまで書き続けたいと思っていたのでした。日記が百枚になる前に祖父が死にはしないだろうかと不安でした。日記が百枚になれば祖父は助かる。――なんだかそんな気持もするのでした。そしてまた、祖父が死にそうに思えるからこそ、せめてその面影をこんな風な日記にでも写して置きたいと思っていたのでした。》(同・五月五日)

 と説明する。祖父の存命を願って書くという、半ば願掛けのような気持もあり、祖父を見守る少年の眼は、その顔に死の影を冷静に認めながらも、生きてほしい想いが込められていた。日記自体が、せめて祖父の面影を写しておきたい別れを意識した想いと、存命を切望する想いとで書かれている。〈見〉て写生する行為そのものが、死の不安に脅かされながらも、少年の目の前にいてまだ生きている祖父への愛だった。

② 書かれなかった「死顔」
――〈見る者〉の苦しみ

 しかし、どこまで少年は〈見る〉という愛の形を保てたか。『十六歳の日記』は病床の祖父を写生するために書かれた作品なのだが、死の影が次第に深まっていくのにも関わらず、終着点は書かれない。つまり死の瞬間そのもの、また死の直後については記録されていない。死の影はよぎっても、祖父の「死顔」そのものが書かれることはなかった。二七歳の川端は、「あとがき」で、

日記はこれでおしまいだ。(略)多分これだけしか書けなかったのだろう。この後は書いていられなかったのだろう。なぜなら、祖父は五月二十四日の夜死んだのだから。そして、この日記の最後の日は五月十六日だ。祖父の死の八日前だ。十六日以後は祖父の病気が一層悪くなったり、家の中が混雑したりしたので、日記どころではなかったのだろう。

 と当時を振りかえっている。確かに残された家族は中学三年生の川端少年しかいないわけだから、死の直前は病人に付きっ切りだろうし、まして死後は葬式などの事後処理が忙しく、日記など書いている暇はなかったのかもしれない。が、その忙しさだけが、祖父の死が書かれなかった理由なのだろうか。

 川端少年は、祖父の死顔を〈見る〉ことができなかったのではないか。

 祖父の最期は、他作品では何度も書かれている場面だ。例えば、川端が二四歳の時に発表した『葬式の名人』(一九二三年五月)には、胸を掻き毟るようにして苦しむ死に際の祖父を、少年は「正視していられな」かったとある。後に従姉に別室に逃げていたことを「唯一人の肉親の私がそうしたのは薄情だ」と責められ、少年は何も弁解できずに沈黙する。この沈黙には、自分の罪を黙って引き受ける、また自分の苦しみも黙って引き受ける川端少年の姿がみえる。また苦しむ祖父を「仏様のような方だのに往生際にどうしてこうお苦しみになるのか」と言った老婆の言葉が、少年を「手痛く傷つけ」もする。なぜ老婆の言葉が川端を手痛く傷つけたのか。それは川端自身も、祖父の死に際の苦しみようが受け入れられなかったからだろう。老婆同様、なぜ人の良い祖父がこれほど苦しまなければならないのか、という悔しさがあった。「また老婆のあの言葉が私を手痛く傷つけていたので死の近づいた枕辺を外した理由を一言でも説明するのは祖父の恥を洗いざらすことだと思えた」と、川端自身も、祖父の生前の恥が死に際の苦しみとなって表れていると解釈している。死に際の美醜が、まるでその人の一生を象徴しているかのような、また人生の最期に表れる真実の姿のような解釈でもある。

 『十六歳の日記』の「あとがき」では、十六歳の日記をみつけた際の気持を、二十七歳の川端は「私は忘れられた過去の誠実な気持に対面した。しかし、この祖父の姿は私の記憶の中の祖父の姿より醜くかった。私の記憶は十年間祖父の姿を清らかに洗い続けていたのだった」という。『十六歳の日記』には死に際までは書かれていないわけだが、それでも「この祖父の姿は私の記憶の中の祖父の姿より醜かった」という感想を持つ。

 川端の中の「祖父の姿」とは、一体どのようなものだったのだろうか。確かに二七歳の川端が言うように、川端の記憶は「十年間祖父の姿を清らかに洗い続けていた」という時間の風化作用もあり、祖父の姿を美しいものにしていたのかもしれない。が、思うに、おそらく十六歳の川端にとっても祖父は、優しく懐かしい祖父であったはずだ。病気になる以前の、十年間生活を共にしてきた祖父が、十六歳の少年にとっての「祖父」だった。『十六歳の日記』に書かれた祖父は、病気や死が祖父をそのようにしているだけであって、醜くても仕方ない、当然なのだ。おそらく十六歳、二七歳という年齢や時間の経過は関係なく、川端は祖父の死や病の苦しみ、病気と死による醜さを受け入れられていなかった。

 では「唯一人の肉親」だからこそ少年は最後まで〈見る〉べきだったのだろうか。見るべきだと少年本人も思っていたのかもしれない。「正視していられない」「別室に逃げていた」という言葉の中には、〈見る〉行為の苦しみと、見なかったことに対する自己呵責がにじむ。もう見たくない、見ていられないという自覚が、明確だ。

 『十六歳の日記』での真に迫った写生を可能にしたのは、少年の眼だった。愛する祖父を見守る〈眼〉に、少年の誠意が表れていたのだ。が、実際死を目前にしたとき、少年は最期を〈見〉られずに逃げた。〈見る〉という愛の形は、ここで変化を見せる。〈見る者〉自身が、〈見る〉行為の苦しみに堪えられず、〈見る〉行為そのものを拒絶してしまうのだ。一見、一方通行に思える視線の関係、〈見る―見られる〉の関係がここに来て、〈見る者〉にも苦しみを与えるようになる。〈視線〉が反射して〈見る者〉への意識、〈自意識〉となって返るのだ。〈見る者〉である以上は全て〈見〉なければならない。目を背け、目を瞑ってしまえば、〈見えるもの〉つまり現実から「逃げる」ことになる。そして〈見る〉行為を止めて逃げても、「目を背けて逃げた」という自己呵責からは逃れられない。「正視できなかった」「別室に逃れた」という事実が、どこまでも〈見る者〉自身に迫って来るのだ。ここでの〈見る〉行為からの逃亡は、同時に〈見られる者〉からの逃亡、死に際の祖父からの逃亡ということになる。死の予感ではなく、死そのものに直面した時、少年はそれを正視できなかった。〈見る〉ことを止めてしまえば、〈見る者〉一人が、「逃げた」という罪意識を背負い、また〈見られる者〉も相手との繋がりを失ってしまう。盲目の祖父と少年の間で成立していた、少年の〈見る〉という愛の形は、祖父の死によって、祖父の死を〈見られない〉、受け入れない少年の苦しみに変わる。愛自体が変わり崩れたのではない。愛ゆえに、〈見る〉行為が、逆に苦しみをもたらすものになったのだ。このように、祖父の死を受け入れられない少年の気持は、〈見られない〉態度に最も象徴されていた。

 また、祖父の「死顔」がはっきりと作品内で描かれない理由は、他にもあげられる。祖父の死後も、祖父の死への拒絶反応は別の形となって表れるのだ。突然の鼻血だ。『葬式の名人』では、葬式の用意に忙殺されることで祖父の死を考えないようにし、自分の心の内をゆっくりと省みる余裕すらなかったため、鼻血によってあらためて「自分は弱っていると思っていなかった」と気付かされる。葬式の場になって、少年の体が、少年の心の痛みを代弁し始めたのだ。「鼻血が私の気を挫いた」「石の上は祖父の死後三日目に初めて持った自身の静かな時間であった。その時唯一人になったという寄辺なさがぼんやり心に湧いた」と、鼻血という体調変化でやっと自分の心に目を向ける。この鼻血は告別式のときにも起こる。その様子は、十八歳の頃書いた原稿を、川端が五十歳の時に書き写したという『骨拾い』(一九四九年一〇月)でも題材となっている。鼻血は二度、葬式の場から川端少年を逃がすように起こる。おそらく葬式に対して強烈な拒否感、拒絶感を少年の心は感じていた。それでも他人の目もあり、喪主を無事に果たさなくてはならない義務感もあり、かといって強烈な拒絶感も消しきれずに体が反応して鼻血を出す。葬式を見ないわけにはいかないので、心が痛みを訴えるのに、鼻血となって出てくるのだ。

 川端の作品世界の中で、盲目の祖父は『十六歳の日記』の死期が近づいた老人の姿から、『葬式の名人』『骨拾い』でいきなり骨となる。遺体や死顔は描写されない。祖父の死顔や死に際そのものを描写し小説化すれば、多くの人たちの視線に祖父の死が再び晒されることになり、それも死者への冒涜と感じたのかもしれない。が、もっとも大きな理由は、『骨拾い』の「鼻血」に象徴されるように、おそらく川端が何十年経とうとも祖父の死を受けいれられなかったからではないか。川端の中で、祖父はおそらく生きていた頃の祖父であり、死顔や遺体という死そのものが露骨に表れる状態を書くことが出来なかったのではないだろうか。そして死顔の代わりに、死を表すものとして全てが終わったあとの骨が、小説には書かれるのだ。骨になってしまえば、もはや人の形を微かに留めているだけであり、生きていた人とはまた別のもののようにも思えるからかもしれない。

「今やっと見つかりましたんや。まあ、お祖父さんもこの姿や。お骨箱に入れたげなはれ。」なんてつまらないことだ。――やはりお祖父さんは、盲いた眼に喜びの色をたたえて、私が帰る門口の音を迎えてくれそうでならない。/お祖父さんの生――死。私は撥をかけたように力強く右手を振ってみた。からからと骨が鳴る。(『骨拾い』)

川端は死を受け入れずに、祖父の死は骨と共に凝り固まり、「つまらないこと」として流される。そして自分の記憶の中で、生前の優しい懐かしい祖父を「祖父」として生かしていくようになったのではないだろうか。
川端の「祖父もの」では、〈盲目〉〈盲人〉は〈見る―見られる〉関係を描いても、谷崎潤一郎のそれのように、〈肉体〉から〈観念〉へと想像力を飛躍させるための装置ではない。川端の作品には、すべての人が一度は体験する〈肉体〉から〈観念〉への移行が描かれている。人の死が、それだ。死という大きな欠落。誰でも身近な人の死に直面すれば、〈肉体〉から〈観念〉へ、死にゆく者をそっと移していくのではないだろうか。その〈観念〉は〈仏〉だったり〈霊魂〉だったり、〈記憶〉や〈思い出〉といったものだったりする。自分の欲望する幻想を見るために〈観念〉化するのではなく、もっと切実な想いから、〈死〉という大きな欠落を埋めるために〈観念〉へ移すのだ。

三、『父母への手紙』
――〈不在〉と〈盲目〉

 川端の場合、〈死〉は〈不在〉とも言い換えることができるかもしれない。家族でありながら記憶も全くなく、繋がりの薄い両親や姉。そして少年を育て死んでいった祖父母。これら家族はみな〈不在〉となる。確かに存在していたはずなのに、今ここにはいない〈不在〉。この〈不在〉が、川端の対人意識に大きな意味を持っていたのではないか。

 『父母への手紙』は、記憶にも薄い亡き両親に宛てた手紙形式をとるが、第二信で書かれる比喩が、この〈不在〉のテーマと〈盲目〉の関係をよく物語っている。

 例えば、死んだ両親は「風の音」「月の光」と目に見えないもの、実体のないものに喩えられる。「風の音」にも「月の光」にも視線はない。よって「風の音や月の光は、ありがたいことに、こちらが喜ばしい時は喜ばしく聞え、こちらが悲しい時は悲しく見え」と〈見る者〉の好きなように見られる対象だ。そしてまた視線を持たない対象は、「私がどんな勝手な嘘をつぶやこうとも、お前は嘘をついているなという眼で、決して私を見返さない」と、視線を返さない故に〈見る者〉を責めない。川端はそれらが「決して後を振り向こうとはしない人間の後姿のよう」だという。「人間の後姿」の場合も、実体を持ち、目に見える対象でありながら、やはり視線を持たない存在である。その「後姿」も、「私はこれまでにいろいろな人の後姿に、もの言いかけたことが多かったような気がいたします。その人が後姿を見せた時に、私ははじめてほんとうのことが言えるのでありましょうか」と、川端は、〈視線〉がない故に初めて、その対象に本音をいうことができると漏らす。「風の音」「月の光」「後姿」と違いがありながらも、いずれも〈視線〉を持たない存在だ。この三つを並べただけでも、川端がいかに自分に向けられる視線に対し拒絶感を抱いていたかが分る。人からの視線に、川端は「責め」を感じていたようだ。他家で育ったという生い立ちからも、対人恐怖症や視線恐怖症的な傾向があったのかもしれない。そのせいか、逆に〈視線〉の欠落した存在は、川端を責めない、本音を言えるという性質があげられる。

 さらに『父母への手紙』では、この後に盲目の祖父についても語られる。「後姿ばかりを見せていたのと同様」「後姿はものを見ることが出来ないように、祖父は私を見ることがなかった」と、盲目の祖父が、視線を持たない「後姿」と並べられる。盲目はもちろん視線の欠落なのだから、川端を見ることはない。前述した視線のない存在たち同様、責める眼を持たないのである。その盲目が今度は、「犬」に結び付けられ、「犬はその前で人間がどんなに阿呆な真似をして見せようとも、少しも驚かない」とされる。というのも、犬は目が見えるとしても、盲目の祖父と同じだからなのだ。動物のように理屈ではなく、ただあるがままを受け入れて、驚かない。そんな受容の姿勢の喩えなのだ。『祖母』(一九一七年九月「文芸時代」)や『油』、『父母への手紙』の第五信などに書かれている、川端少年を過保護なほどに大切に育てて、少年の甘えや我儘も許してくれた祖父母。その〈受容と許し〉のイメージが特に盲目の祖父には強い。早くに亡くなった祖母よりも、十年間二人で暮らし、川端が一人で死を看取った祖父に対して肉親の情が強かったようだ。目に見える実体があり、心や意思を持ちながらも、川端の「阿呆な真似」を受容し許してくれる存在。川端に〈責める眼〉を返さない存在。それが「犬」や「盲目の祖父」だった。

 「そういう私にしたのも、早く死んでしまったあなた方の罪の一つかもしれないのですよ」とあるように、〈視線〉が欠落した相手にのみ自分を曝け出せるという幾分奇妙でもある性格は、盲目の祖父と二人きりで思春期を過ごした影響が大きいと思われる。前項でも、川端と祖父の関係を、「〈見る〉という愛の形」と書いた。そんな風変わりな愛の形、愛の関係性で思春期を過ごした川端は、祖父の死後もどこかにその形を残し続けていたのではないか。『十六歳の日記』『葬式の名人』だけでは分らなかった〈見る〉という〈愛〉についての性質を、ここでまた一つ加えることができる。盲人側の性質である。二人の関係は、〈見る者〉という川端からだけの一方的な敬愛の形だけではなかった。〈見られる〉側からの愛もあった。それは盲目の祖父の、少年への飽くことなき受容と許し。言い換えるなら、〈見ない愛の形〉である。〈見られる者〉が〈見る者〉を受け入れ許す関係だ。やはりここでも〈視線〉は評価し裁く眼、責める眼などである。〈視線〉が欠如した盲目は、相手を裁くことなくそのままに受け入れるのだ。このような〈盲目〉のイメージ――受容と許し――には、唯一残された孫への愛情もあって、手放しに可愛がったであろう盲目の祖父の〈見ない愛の形〉が核となっている。この祖父の愛に、おそらく川端は祖父の死後あらためて気付かされたのだろう。そして死後長い年月が経っても、〈見ない愛〉が幾度も思い出され、周囲の視線と共に再び実感されたのだろう。

 ここでもう一度「盲目の祖父」「犬」「後姿」と、「風の音」「月の光」「亡くなった両親」との違いを比較すると、まず、前者には心や意思があり、なおかつ目に見え、触れられる肉体を持って生きている存在だ。十分な存在感、〈他者〉性を感じさせながら、彼らには〈視線〉が欠落している。こちらを見る眼、責める眼だけが欠落している。では後者の「風の音」「月の光」とは何か。実体もなく目にも見えない、かつ意思を持たない存在。なぜこれらの比喩が両親に当てられたのか。それはこれらの比喩が〈死〉による〈不在〉を表しているからだ。死んだ両親が「風の音」「月の光」に喩えられる箇所は、死者の寛容を思わせる。こちらも川端には寛容であるが、不干渉や放任をも意味する。川端は視線の欠落した対象を、死者と生者の二種類で上げているのだ。そして〈視線〉の欠落・〈盲目〉へのこだわりと対照的なものとして、明確になるのが、〈視線〉への恐怖である。

 川端にとって〈視線〉とは、外部から注がれる場合、多くが川端を評価する又は〈責める眼〉として表現される。思うに、この視線恐怖は対人恐怖から来ているようである。「本当のことを言」うのも、「阿呆な真似」も自分自身を曝け出す行為だ。視線がある相手にはそれができないのは、相手に自分がどう見られ、どう評価されるか恐ろしいからなのだ。また本当の姿を見せた際の拒絶を最も怖れているのだろう。故に、自分の本当の姿を曝け出せる相手は、それらがみな意思を持たないか、川端をそのまま受容し許してくれる存在なのだ。自分が「阿呆な真似」ができ、かつ責めずにそのまま共にいてくれる存在を、人であろうがなかろうが川端は求める。そして「風の音」「月の光」に喩えられる死者たち、「盲目の祖父」や「犬」を愛し、それらにのみ安らぎと許しを感じるのだ。

 おそらくそれが奇妙で、一種独特な愛であることも川端は自覚している。非常に繊細で感受性が強く、また悪く言えば臆病ともいえる神経質な性格から生まれた願望である。〈受容と許しの存在〉と書くと、視線を欠いた者たちがまるで優しく愛に満ちた存在であるかのようだ。ただ、実際に〈不在〉を思わせる相手は、人格がないも同然、視線を返してこない、意志を持たない者たちである。いずれも人ではないもの、また人であっても特異な者なのだ。どれほどの人間がこの条件に当てはまるのだろうか。どれほどのものが、盲目の祖父のような愛でもって、接してくれるのだろうか。

 一般的には、視線を交わしあい互いを見せ合うのが、対等な人間関係といえる。一方が相手の視線に怯えて拒否している以上は、相互に見せ合う関係は成立しない。もし相互関係を成立させたいのなら、自分を曝け出す勇気もなくては不可能だ。川端も十分それは理解していたはずで、「しかし肉親の魅力というものの大部分は、お互いに阿呆な真似を見せ合えるというところにあるだろう」「誰も見ていないところでひとりぼっちで、壁を相手に阿呆な真似をしている人間の姿は、かなり寂しい」「女房がほしいという誘惑は、阿呆な真似を見せたい誘惑と同じ」ともいう。

 「誰も見ていないところでひとりぼっちで、壁を相手に阿呆な真似をしている人間の姿」とは、まさに川端自身の姿なのだ。「風の音」「月の光」も「後姿」も、「誰も見て」いるわけではない。〈不在〉そのもの、もしくは〈不在〉を思わせる対象を愛し、自分を曝け出すが、一方でそれらは「壁」のように無反応だ。ここには、死者や風光、動物といった特異な存在にしか、自分を曝け出せない寂しさ、むなしさがある。『父母への手紙』の第二信では、親子や夫婦はお互いにどんな阿呆な真似でも「見せ合」えるとされる。阿呆な真似を「見せ合う」のは相互関係であり、一方的に見せるだけの関係ではない。いわば、本音の付き合い、遠慮なしのつきあいと取れる。あけすけな人間関係、互いに「見せ合う」関係に抵抗がありながら、そんな「肉親の魅力というもの」なのだ。本当の自分の姿を見せ、相手もこちらに見せてくる。そんな見せ合う関係をうらやましくも思っていたのだろう。

 川端は、見られたくないからこそ〈視線〉の欠如した相手を選んだ。人間ではないものばかりを愛し、〈視線〉のない相手に許しを、無限の受容を感じていた。しかし、「阿呆な真似を見せたい誘惑」も一方ではある。「阿呆な真似を見せたい誘惑」とは、自分の本当の姿を見せたい、見てもらいたい誘惑である。そして、見られたくない不安を解消し、見せたい願望を満たしてくれる存在とはなにか。

 これから私に愛する少女が出来たとしても、愛すると口に出して言うことは、もう決してあるまいと思われます。(略)せめて彼女の後姿か写真にでも、私は阿呆な真似をして見せてやりましょうか。彼女がもし盲目だったら、そして私が彼女の目の前でどんな真似をしても見えないとしたら、そんな空想が、盲目の祖父を思い出している今の私に、ふいと浮かびました。私は何年もの間、まるで写真か肖像画でも瞶めるように盲目の祖父の顔をしげしげと眺めて暮らしたのでありました。

 川端は、盲目の少女を空想したのだ。人の背中である「後姿」や、絵となってしまった「写真」に「阿呆な真似」をして見せるよりも、「盲目」なのだ。なぜなら盲目が相手の場合、〈視線〉が欠落していようとも、相手の心や人間としての存在感を保ったままで関係が築ける。難はあるとも、人対人の関係性がまだ保てる相手だからだ。祖父との関係から、川端はそれを知ってしまった。というよりも祖父と築いた関係が川端にそんな夢を、盲目少女の空想を抱かせたのかもしれない。右に挙げた「盲目の少女」の文章の後に、再び祖父とのエピソードが挿入されている。

おじいさん子で育った私は、家のなかだけではたいへんわがままでありました。祖父はぶるぶる顫えて怒っています。私は謝罪の目つきから涙を流しながら、じっと祖父の顔を見ています。祖父は私の涙が見えないので、怒りつづけています。私は祖父に見えないと知っていますから、自分の涙を恥かしいとは思いません。それは人の後姿に向かって、頭を下げながら泣いているのと同じでありました。そういう時でなくとも、祖父の顔を長いこと見ていると、少年の私はなんともいえない寂しさに染められたものでありました。人の顔をじろじろと見る私の癖は、盲と二人きりで何年も暮らしていたところから生れたのかもしれません。

 「ぶるぶる顫えて怒ってい」る祖父と、「謝罪の目つきから涙を流しながら、じっと祖父の顔を見てい」る私。祖父の目が見えていないと知っている為に、私は「涙を恥しい」と思わないのだ。〈視線〉がないところでは、自分の感情を表に出すことを恥しいと思わずに済み、また素直に感情のままでいられる。「恥しい」という自意識の眼からも解放され、感情のまま素直に流れられるのだ。祖父も感情を露わにし、祖父には見えていないが川端もまた素直な感情のままに居られる。そんな不思議な関係が〈盲人―晴眼者〉、〈見る者―見られる者〉の間で成立している。この不思議な関係においては、〈視線〉を持たない存在を相手にしても、お互いに感情を出し合う点で辛うじて人と人とのコミュニケーションらしきものが保たれている。「風の音」「月の光」や「後姿」では、〈見る者〉が相手の感情に生に触れることはない。が、祖父と川端の間では、正確な意味での「見せ合う」関係ではないが、感情を露わに出し合うという意味で「自己を見せ合う」関係が成り立ったのだろう。おそらく川端にとって、祖父との関係で最も重要だったのは、祖父が感情を露わにし、なおかつ自分も感情を出せるという事実だった。〈視線〉に異常なほど過敏な川端には、自分の感情を素直に出すこと自体が不可能に近い。感情をそのまま出したつもりでも、どこか拗けた自身の自意識が、わざとらしさを自分に感じ自己批判をするのだろう。素直な「涙」は、相手に見えていずとも、川端自身にとって貴重だったに違いない。人と相対し自然な感情の流れるままにいるということ自体が貴重なのだ。「祖父の顔」を見ながら流した「涙」は、〈視線〉から解放された真実の川端の涙である。相手の人間性を保ちながらも、〈視線〉から解放され素直になれる相手。それが祖父であり、〈盲人〉だったのだ。

 少年時代を書くことで、川端はそれを再体験している。そして祖父亡き後、川端が素直な感情でいられる存在と出会わなかった事実に、再び気付いたのだろう。ゆえに、今度は自分の恋人に、空想の中の盲目少女に同じ関係を思い描いてみたのだ。そして川端の〈盲人像〉は「盲目の祖父」から、空想の中の盲目少女へと引き継がれていく。

四、 おわりに――
『十六歳の日記』と『たんぽぽ』の連環

 処女作『十六歳の日記』に描かれたのは祖父という〈盲人〉であり、最愛の肉親の死に直面する少年であり、〈見る愛〉と〈見ない愛〉といった無条件の愛であったことを思うと、遺作となった『たんぽぽ』で再び肉親を目の前で失った少女稲子が登場し、そのトラウマから「人体欠視症」という〈愛する者の姿が見えない〉部分盲を患う物語が書かれたことに、不思議な符牒を感じる。『十六歳の日記』と『たんぽぽ』の間には、盲人が登場するいくつかの短編や、盲目少女がヒロインとなった長編『女性開眼』『美しい旅』の二作がある。が、肉親の死により決定的な心的外傷を負い、父の転落死を「見えていた」「見えていないはず」と反芻する『たんぽぽ』の稲子の姿には、「祖父もの」に描かれた、肉親の死に直面し一人自己呵責に堪えていた川端少年の姿が重なってみえる。稲子が何度も、見えていなかったはずの父の転落死を脳裏に思い浮かべる様に、川端も〈祖父の死〉を何度も作品化することで、その悲しみと恐怖を癒そうとしていた。それが唯一残った〈死者〉との繋がりかのように。また、〈愛する者が見えない〉という部分盲「人体欠視症」は、川端の創作した架空の病気であるが、盲目の祖父の持っていた〈見ない愛〉に繋がる無条件の愛の姿を、実験的に作り出そうとしていたともいえる。いわば〈見る愛〉〈見ない愛〉を一身に引き受けているのが、稲子というヒロインなのだ。川端の原体験が祖父の死であり、『十六歳の日記』が記録でありながら私小説だとしたら、〈人体欠視症〉という部分盲の少女・稲子の物語『たんぽぽ』は、いわば『十六歳の日記』の変奏であり、かなりの転調を経た幻想曲ともいえるかもしれない。ただ『たんぽぽ』はその構造もかなり意図的に作られており、複雑な転調を経ていることは確かなので、ここでは二作に描かれたモチーフと主人公の類似性を指摘するだけにとどめ、『たんぽぽ』の作品独自の〈盲目〉〈視線の欠如〉の意味や構造分析などは、また別稿で試みたいとおもう。

 唐突かもしれないが、小林秀雄の『無常という事』(「文学界」一九四二年六月)にこんな箇所がある。

 或る日、或る考えが突然浮び、偶々傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

この後、小林秀雄は「歴史」には「死人」しか現れず、よって「退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ」。また「思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ」と続ける。「歴史」と「無常」について語った文であるが、むしろ「笑って答えなかった」という川端がとても印象的で、その姿が鮮やかに思い浮かぶ。

 『十六歳の日記』をはじめ、家族や祖父を描いた作品の多くが、川端が「思い出」を書き、「死人」と対峙していたことを物語っている。もはや〈不在〉となった〈死者〉たちを書くことによって、〈記憶〉〈思い出〉に命を吹き込む。それでも今は亡き〈死者〉にまで届かない、満たされない何かがあるからこそ、彼らの残した「動じない美しい形」の型を大事に抱えて、また別の物語に転生させる。川端作品に登場する〈盲人〉たちは、祖父が残した〈愛の形〉を求め、生かしつづけようとした川端の軌跡だったのかもしれない。

  1. 『国語表現論叢』一九七九年五月、明治図書
  2. 『川端文学への視界9』一九九四年六月、教育出版センター
  3. 「大学院研究年報 第34号 文学研究科篇」二〇〇五年二月、中央大学大学院研究年報編集委員会
  4. 「報知新聞」 一九三五年一二月~一九三七年七月 ※未完
  5. 「少女の友」一九三九年四月~一九四一年一〇月
  6. 「新潮」一九六四年六月~一九六八年十月 ※未完
  7.  初出「文芸春秋」(一九二五年八月、九月号)。単行本『伊豆の踊り子』(一九二七年三月)に収録。新潮版『川端康成全集 第二巻』(昭和一九四八年八月)で、第二巻の全体の「あとがき」として、現在の『十六歳の日記』の「あとがきの二」が収録される。以降、新潮版『川端康成全集 第一巻』(一九五九年一一月)には、「あとがきの二」が『十六歳の日記』本文として、「あとがき」の後ろにつけられて収録されるようになり、現在の『十六歳の日記』となった。
  8.  第一信・「若草」一九三九年一月号、第二信・「文学時代」一九三九年四月号、第三信・「若草」一九四〇年九月、第四信・「文学界」一九四〇年一〇月、第五信・「文芸」一九四一年一月号
  9. 磯貝英夫「十六歳の日記」(『川端康成の人間と芸術』一九七一年四月、教育出版センター)、橋本治「生という半身を欠いて」(『〈日本幻想文学集成20〉川端康成』一九九四年五月、国書刊行会)、原善「川端康成「十六歳の日記」論―病の記憶/記録の病―」(『上武大学創立30周年記念論集』一九九九年二月、上武大学商学部・敬英情報学部)等。
  10. 「日本文学」一九九六年一月、日本文学協会
  11. 『川端文学への視界』一九九七年六月、教育出版センター

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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