盲目と鏡花文学

目次

はじめに

 鏡花は初期から晩年にいたるまで、十六作品において盲人を登場させ、そのうち十作品で盲人は悪役となっている※1。特徴はいずれも、美しいヒロインに言い寄る醜男で執念深く付きまとい、愛欲に憑かれた不気味な存在だ。鏡花作品の盲人については、村松定孝が指摘し、尾崎紅葉「心の闇」の盲人像の摂取を論じている※2。が、師紅葉の盲人像を取ったとしても、それだけでは説明し切れない程の根強い盲人嫌悪が、鏡花の悪役盲人には表れている。なぜ鏡花はあれほどに盲人を悪役にしなければならなかったのか。本稿では、近世文芸や紅葉の「心の闇」から吸収した座頭のイメージや怪人・妖怪のような盲人像からの影響、また愛欲煩悩にとりつかれた人間=盲人という仏教的価値観の受容、それと一体となった鏡花の極端な精神主義的恋愛観から生まれた「恋愛」と「煩悩」の分裂の問題から、鏡花の盲人像を読んでみたい。

 一方、悪役盲人を多く書きながらも、鏡花の観念主義から生じた〈精神―肉体〉〈幻―現〉の分裂を描いた重要な主役も、なぜか盲人であった点も指摘したい。

鏡花の悪役盲人たち

鏡花作品の盲人の原点は「黒猫」(明治二八・六~七「北国新聞」)の富の市だ。彼は「其居座り、また起歩行く背後には、常に死神か、幽霊か、一個の黒影ありて」と、始めから「死神」「幽霊」など不気味な描写で紹介される。富の市はヒロイン・お小夜に恋慕して彼女の家へ日参するが、迷惑がられており、家族にも嫌われ拒絶される。しかし、それでも諦めないところから、富の市の性質が次第に明確になる。

唯々断念めようと存じましても、何の因果か、日に増して煩悩が募りまして、とても断念ることは出来ませぬ。(略)唯の一晩片時でも、……はい、私は畜生で、其人を自由にいたしますれば、其れを土産に潔う死まするが、私の様な意気地なしが、力づくでは合ひませず情づくでは猶更なり、(略)。

 命懸けでも到底叶えられず、思いを「断念る」こともできず、富の市は報われない恋に煩悩を募らせる。彼は「私は畜生で」と語り、相手の気持に関係なく、自分の思い通りにしたい願望と、それが人倫に反していると自覚しつつ、遂げたいという強い執着を示す。この倫理常識を超えた強い執着・愛欲が、幾度も彼の口から「畜生」「畜生道」という言葉で表される。この「畜生」は具体的には、題名の「黒猫」つまりお小夜の飼猫に繋がる。お小夜は猫を非常に可愛がり、口移しでお湯をやり、食べ掛けの菓子をやり、寝起きも同じ蒲団。良家の子女・お小夜にあって少々度が過ぎた点である。これに眼をつけた富の市は、黒猫を非常に羨ましがり「生まれ変りでもいたしまして、猫になりとうございます」「畜生道へ参ってなりとも、猫になりとうござります」と言い出す。そして「黒猫」の結末では、死んだ富の市の霊が本当に黒猫に憑き、お小夜に祟り復讐する。まさに富の市は畜生になりかわってしまうのだ。

 もともと、畜生道は仏語で、「①生前の悪行のむくいで死後に落ちる畜生の世界、境遇。三悪道、六道の一つ。②人倫上許せないような間がらでの色情。」(岩波国語辞典第五版)とある。「黒猫」では二種類の意味で「畜生道」が使われている。「畜生」と表現される、富の市の人倫を越えた強い執着、愛欲・色欲は②に近い。そしてそれを極めた結果が、死後猫にとり憑き、猫になる。これは①と言える。 

 「黒猫」以外の作品でも、鏡花の盲人は畜生に喩えられることが多い。「三人の盲の話」では守宮や白犬に喩えられ、「怪語」では「狆の様だの」「勿論、煩悩の犬だといふから」と犬に喩えられる。鏡花作品では他にも、人間が獣や生物に喩えられ(「化鳥」では金持ちは猪、かさを被った釣人は茸)、また動物に変えられる(「海神別荘」では人間の魂は海月になる)。人が動物に喩えられ、又変身させられる時、そこになにか共通するものがあるようなのだ。例えば、鏡花の代表作「高野聖」(明三三・二「新小説」)では、飛騨国の深山で実に多くの獣が登場する。道中の野原で三度の蛇、山蛭の降る樹林、動こうとしない馬、美しい婦人にまとい付く蟇蛙、大蝙蝠、猿。

いやさまざまにむらむらと家のぐるりを取り巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁いているのがある。あたかも何よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一重、魑魅魍魎というのであろうか、(略)。

 婦人には不思議な力があり、病を治せば、人を獣に変えることも出来た。山家に集まった獣たちはみな、婦人が魔力で獣に変えてしまった元人間の男たちだったのだ。富山の薬売りも馬に変えられ売られてしまうが、彼は冒頭場面において、まだ若い旅僧だった宗朝をからかっている。それも下品な冗談を使ってだ。確かに嬢様に会えば助平心を起こすだろう男だった。そして同じように水浴をしても、薬売りは「助平野郎」で馬になり、「志が堅固」だった宗朝は馬に変えられずに済む。男が獣に変えられる基準は嬢様に助平心・色情を起こすかどうかなのだった。「高野聖」では助平野郎の薬売りが馬になり、「黒猫」では盲人・富の市が黒猫になる。どちらも煩悩・色情の強い男だ。思うに、鏡花の幻想的な作品に表れる動物や獣と、割合に現実的な作品群に登場する盲人たちは、根の部分で繋がっているのだ。幻想的な作品ではそれらの男たちは容赦なく獣に変えられるか、獣になって登場する。が、割合に現実的な作品では、盲人という形で表れる。そしてその盲人造形にははじめから執着・愛欲・煩悩が突出して性格づけられ、時には守宮や犬などの動物を喩えに使い、不気味な描写で色付けがなされる。獣と盲人のどちらも、鏡花世界の中にあっては愛欲煩悩に汚れた者の象徴なのだ。

 では鏡花世界の中で人倫上許されない色情や強い愛欲煩悩の象徴記号に、畜生と盲目が使われるとして、なぜそれが畜生と盲目でなくてはならなかったか。やはり仏教的な価値観の受容が大きいように思われる。鏡花自身も観音信仰の人として有名で、随筆「おばけずきのいはれ少々と処女作」(明四十・五「新潮」)で、観音経読誦について語っている。観音経は法華経・観世音菩薩普門品にあたるが、実際に鏡花は幾つかの作品で法華経の経文を引用している。例えば「薬草取」(明三六・五「二六新報」)では薬草喩品の偈頌の一部を、「高野聖」では陀羅尼品の偈頌の一部を引用している。

 では法華経には、畜生や盲人がどのように描かれていたのか。まず譬喩品には、僧や経を謗った者の罪障が語られ、それらの者が辿る道が語られる。彼らは経を謗った者は阿鼻地獄に落ち、そこで幾小劫を経て堕落し続け、その後地獄界へ堕ち、次は畜生界に堕ちる。畜生界で辿る道は、皮膚に腫瘍や疥癬のある黒い痩せ犬や豺で始まり、駱駝・駄馬になって人間に酷使され、片目で跛の醜い山犬になる。更に流転を重ね、長い体で足がなく地を這い回る生き物(おそらく爬虫類や蛇)になる。各畜生の一生ごとに苦しむ様が細かく列挙される。挙げられた畜生も犬、駄馬、蛇など鏡花作品に登場する生物、盲人の喩えに使われる動物と同じだ。そして畜生だった者が人間となった時は、

謗斯経故 諸根暗鈍(若し人となることを得れば 諸根は暗鈍にして)
矬陋痙躄 盲聾背傴(矬陋・ひきつり・躄・盲・聾・背傴とならん。)
若得為人 聾盲瘖瘂(若し人となることを得れば 聾・盲・瘖瘂にして)
淫欲熾盛 不擇禽獣(淫欲、熾盛にして 禽獣を択ばざるなり。)

 罪障として聾・盲・瘖瘂など様々な身体的な障害と、皮膚病をあげている。ここでは病や身体的障害が仏罰になっており、盲目はその中の一つだ。盲目は前世の因果故に起こる仏罰で、盲人は罪障を負う者ということになる。仏教の世界では、畜生も盲目もどちらも同様に仏罰であり、因果故だという点が共通する。しかしこれらの不具者には病や貧窮という罰以外に「淫欲、熾盛にして禽獣を択ばざるなり」と、色情が強く畜生さえも択ばない性癖さえ加えられる。これらの人々が畜生同様の性癖を持っている、つまり畜生並み、畜生道であると暗に言っているのだ。畜生は動物だから人格も無く、性癖も関係ない。しかし、現代の感覚から言えば身体的な障害を持つだけで、同じ人間だ。経文に、不当な偏見や蔑視によって性格・性癖まで規定する表現が載ることで、どのような弊害が起こったのか想像に難くない。当時の貧民を題材に人道的なテーマの作品を書いてもいる鏡花が、こと盲目に対しては無自覚に不具者差別を見せるのには、仏教的価値観や、経典の文脈をそのまま受容したためと思われる。鏡花だけではない。紅葉の「心の闇」もそうだが、この時代の盲目・盲人を表現する比喩や文脈自体が、古くは経典から始まる従来の不具者差別的盲目観から成り立っていたからだとも言える。

 又、仏罰としての身体的障害・盲目以外にも、特に煩悩に迷い仏法を信じない人間の喩えに使われることも多い。

以貪愛自蔽 盲瞑無所見(貪愛をもって自らを蔽い 盲瞑にして見る所なく)
衆生諸根鈍 著楽癡所盲(衆生の諸根は鈍にして 楽に著し癡に盲せられたり。)

 方便品では「貪愛」即ち愛欲のために盲目となり、「癡」即ち愚痴のために盲目となる。盲目自体がそれらの煩悩や業に囚われた人間たちの状態を表すと同時に、それ故六道・輪廻転生から離れられない人間の喩えになっている。鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」のサンスクリット語の原典では、この薬草品の後半部分に、生まれつき盲目の男の喩え話があげられている。見えない故に「太陽も月もない」と主張し、何も信じなかった盲人が、全ての病に通暁した医者により目が治され見えるようになると、自分の間違いを認め、「今は何でも見えるようになった」と喜ぶ。が、今度は神通力を持つ聖仙たちに「奢るな。お前は何も見えていない」と説教される。この喩え話で、釈迦は「如来がかの偉大な医者で、生まれつきの盲目が人間だ」と説く。このように全体として盲目・盲人は、仏罰を受けた人物の具体像や、業に縛られ煩悩に迷う人間の喩えになっており、盲目は治されるべきもの、仏の教えによって開眼=悟りに導かれるものなのだ。仏教説話の盲目の多くが、仏の功徳としての開眼の奇蹟がテーマになるのは、これらの経文の比喩からきている。

 鏡花の悪役盲人造形も、こんな仏教的価値観の中での盲人像を下敷きにしたと考えれば、あれほど無自覚に徹底して悪役に書いたことも理解できる。自らが好んでいた経典に存在する物語をさらに作品世界に移す際に、鏡花が使ったのは、畜生道からヒントを得た「人間が獣に変わる」という変身・メタモルフォーゼと、因果故の盲目、盲人の強い淫欲という性質だったのだ。個性や人格に関係なく、全ての盲人の色欲が強いという設定も、仏教的な盲人像をそのまま踏襲したと言える。

 これまでは鏡花の悪役盲人像が、いかに仏教的価値観の影響を受けているかを書いた。しかし、盲人を悪役にした理由には、他も幾つか考えられる。

 まず一つは、近世から続いていた盲人像である。鏡花の盲人の職業は、半分が「黒猫」の富の市のように裕福な家出身の金持ちで、「歌行燈」の惣市のように有名な謡の芸人もいる。あと半分は、流しの按摩だ。何故このようになったのか。登場する盲人の名前自体も、全て「市」または「一」が付く。「當道制」に属していた頃の、盲人には市・一を付けるものという習慣的な発想が見られる。極端に言えば、盲人=按摩か音曲家という発想も、当時の習慣的なものだったのかもしれない。これらはみな江戸期にあった當道制の影響だ。幕府が當道制により盲人に対する金貸し業の特権を与えていた事もあり、江戸期では當道制が非常に栄え、盲人でも裕福な者もおり、吉原の芸者を落籍する程の者もいたそうだ。盲人が金持ちという鏡花の設定もまんざらではないのかもしれない。ただ當道制も明治に入り廃止されたので、作品発表当時の明治期の盲人の状況とは異なると思われる。むしろ近世文芸の影響が強い鏡花は、草双紙や歌舞伎など近世文芸に現れる盲人の代表的職業=按摩や、歌舞伎の演目「宇都谷峠蔦紅葉」「東海道四谷怪談」などの幽霊に化けて祟る按摩や座頭から、妖怪じみた盲人像を得たのだろう。又、按摩は人の体を触る職業でもあり、盲人にとって手が目の代わりという点もある。盲目には体に触れるイメージがあったか。

婦人は、座の傍に人気のまるでない時、ひとりでは按摩を取らないが可いと、昔気質の誰でも然う云ふ。/以前は影絵、うつし絵などでは、巫山戯たその光景を見せたさうで。(略)衣を透して、肉を揉み、筋を萎すのであるから恍惚と身うちが溶ける。ついたしなみも粗末に成つて、下じめも解けかかれば、帯も緩くなる。/按摩をされる方は、相手を盲にして居る。其処に姿の油断がある。/包ましい膝のあたりから、白い踵が、空にふらふらとなり、しなしなとして、按摩の手の裡に糸の乱るるが如く縺れて、(略)―聞くにつけても、たしなむべきであらうと思ふ―

 以上は鏡花の「怨霊借用」(大正一四・三)の冒頭だ。作者はこのように述べた上で、物語を始める。いかに按摩に対していかがわしいイメージがあったかが分る。体に触る按摩が盲人の代表的な職業であった事と、前項で述べた煩悩に縛られた盲人像が重なり、鏡花にとって盲人は嫌悪の対象だったのだろう。

 按摩嫌悪にも投影されている鏡花の潔癖なまでの身体接触への嫌悪は、二つ目の理由にも繋がる。鏡花の恋愛観と勧善懲悪の作品世界が、必然的に盲人を悪役にしたという点だ。勧善懲悪を好む鏡花の世界にあって、美しい女性を中心に、悪役盲人と正義の味方・主役とが対峙する三角関係の構図がよく使われる。この三角関係で悪役盲人は必ず負け、主役が女性の心を掴む。悪役盲人の役割は、主役の引き立て役だ。そして悪役盲人を象徴記号として読むなら、彼らは色欲・強い執着・煩悩などの肉体的な欲望。一方で主役が表す象徴は恋愛の精神面、プラトニックな部分、肉欲的ではない恋愛となる。随筆「愛と婚姻」(明治二八・五「太陽」)で、鏡花は当時にあって非常に進歩的な考えを述べている。「古来我国の婚礼は、愛のためにせずして社会のためにす。」と婚姻が親や親類、社会のためのものであると批判し、「社会の婚姻は、愛を束縛して、圧制して、自由を剥奪せむがために造られたる、残絶、酷絶の刑法」と婚姻制度そのものを批判し、「完全なる愛は「無我」のまたの名なり。故に愛のためにせむか、他に與へらるるものは、難といへども、苦といへども、喜んで、甘じて、これを享く。元来不幸といひ、窮苦といひ、艱難辛苦といふもの、皆我を我としたる我を以て、他に―社会に―対するより起る処の怨言のみ。愛によりて我なかりせば、いづくんぞそれを苦楽あらむや。」と、愛は「無我」故艱難辛苦も乗り越えられるという恋愛観を語る。進歩的な自由恋愛を讃え、「愛は「無我」」と述べるこの随筆には、まさに鏡花が理想とする精神主義的な恋愛至上主義が語られている。確かに、鏡花の主人公たちは自らを犠牲にすることで愛を証明し、死を以て愛の強さを証明したりと極端に献身的だ。そして肉体に触れずして精神的な繋がりだけで成立する場合がほとんどだ。観念小説と評された「外科室」(明二八・六「文芸倶楽部」)はいい例だ。前述した「高野聖」の、水浴にて妖艶な女を前に「志が堅固」で獣に変えられなかった宗朝などもそうと言えよう。明治期に「恋愛」という言葉・概念が輸入されたというのはよく言われる。鏡花作品の主役が当時新しい精神主義的な恋愛を担うとしたならば、盲人が主に担当しているのは前近代的な「色」の世界・色情の恋であり、それを仏教的な言葉で言えば「煩悩」になる。鏡花は新しい恋愛観を作る上で、男女の精神的な関係や観念を恋愛の理想の中心に据え、肉体的な関係や欲望を汚らわしいと排除した。それらを排除することで観念的に高純度の理想恋愛を可能にし、純粋性を保てたのだ。しかし前近代的恋愛観、つまり排除された肉体関係や欲望を表す言葉を見出せず、それらには従来使われていた仏語の「煩悩」や「畜生道」を使い、さらに表現として盲人を使った。いわば恋愛の美徳や理想、理性の部分など陽の側面は善人役が演じ、欲望や執着などの陰の側面、本能的な部分を盲人が演じることになったのだ。

主役になった盲人たち―「三人の盲の話」「黒百合」

 鏡花は本来一人の人間の身の内にどちらもあるはずの理性と本能を、それぞれ二つに分け独立させ、象徴化させた。それが恋愛の場面においては主役と悪役であり、悪役は盲人や畜生になる。が、本来人間には理性と本能のどちらもあるのが自然なのではないだろうか。完全に観念的な愛情だけの人間や、完全に肉体的欲望だけの人間もまた不自然だ。精神的恋愛を象徴している善人が煩悩に悩むときもあれば、盲人に清らかな部分があってもおかしくはない筈だ。その不自然さを突いているのが、主人公が盲目になる作品である。主人公でありながら盲目である彼らは、分裂を内在させている。善人・主役としての正義感や純潔と、悪役としての執着や欲望を併せ持つのだ。主役が盲目になる作品は三つ、「黒百合」(明三二・六「読売新聞」)、「三人の盲の話」(明治四五・四「中央公論」)、「天守物語」(大六・九「新小説」)だ。これらには、悪役盲人とは異なる盲目が表れている。

 まず、鏡花の書いた恋愛と煩悩の勝負が必ずしも決まらない作品、「三人の盲の話」を見ていこう。この作品では一組の恋人たちと盲人が登場する。横恋慕していた盲人に騙され、男は女の浮気を疑う。怒りのまま、男は盲人に云われた通り「婦の影を、嘗めう、吸はう、捉へよう、魔ものがいる」と女に告げて脅す。脅された女は守宮に似た魔物(実は盲人)の幻覚を見るようになり、苦のあまり薬で自ら失明する。女が失明したと知った男は、初めて盲人に騙されたと知り、自らも針で目を刺す。盲人の奸計にはまり、三人とも最終的に盲目になってしまう。男は「三世、一娑婆、因果と約束が繋がつたと、いづれも発起仕り、懺悔をいたし、」と、作品中ではこの結果が「因果」のせいだと解釈しているが、盲目を寓意として読むなら三人諸共煩悩へ堕ちたということだろう。

 女も男も盲目になるという結果は、正確には前世の因果が原因ではない。盲人に云われた言葉を信じ、女を疑った男に原因はあった。女の乳房にある黒子を盲人に指摘された男は、怒り狂う。そして女が膚を見せたと疑い嫉妬に狂った段階で、男はまた盲人と同じ盲目の世界に堕ちた。「三人の盲の話」での盲目を一言で表せば、嫉妬だ。男の愛の純粋性はここで失われてしまう。主役として晴眼の資格=鏡花の理想とする純粋高潔な愛の態度を失えば、主役もまた悪役盲人と同じ道を辿り、盲目になってしまう。鏡花が恋愛の倫理や道徳やその至誠を問う時は、潔癖なほどに厳しい裁断が主役にも下されるのだ。善人である主役も常に盲人側の世界・陰の世界に脅かされている。思えば、「高野聖」の若い宗朝も迷っていた。婦人の山家に別れを告げた後、道すがら出会った女滝は水浴を髣髴とさせ、宗朝の目に婦人の裸体を蘇らせる。

汚らわしい欲のあればこそこうなった上に躊躇するわ、その顔を見て声を聞けば、渠ら夫婦が同衾するのに枕を並べて差し支えぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりはよほどましじゃ

 この独白は今や婦人に「汚らわしい欲」を感じてしまった、宗朝の素直な心情だった。この後、偶然会った山の親仁に説得され事情を聞き、宗朝は一目散で山を駆け下りる。では偶然出会った親仁に説得されなければ、どうなったか。宗朝は山に戻り婦人と暮らし、「魔人」である婦人に飽きられれば、薬売り同様畜生に変えられたかもしれない。確かに「汚らわしい欲」を感じてしまったのだ。もはや初めて婦人と水浴したときのように宗朝の「志が堅固」かも疑わしい。主役であっても盲人や畜生の世界に揺れ動く可能性は残されている。一歩間違えれば善人も畜生界・煩悩の盲目に堕ちる恐怖が絶えずあるのだ。

 また鏡花の盲人のパターンを完全に覆す作品が、「黒百合」(明治三二・六~七)だ。この作品は他の作品と格段異なる盲目が描かれ、盲目観も突出している。後に言う盲目と幻視の関係、〈見る―見られる〉〈行為―思考〉〈幻想―現実〉がすでに書かれている。おそらく、主役に盲人を据えたことによって、避けられないテーマだったのかもしれない。

 前述のとおり、鏡花作品における盲人の三角関係では、大抵盲人男性が悪役であり、晴眼者の引き立て役だ。が、「黒百合」では瀧太郎という青年と共に、拓という失明した青年が主役として登場する。主役盲人・若山拓が初めて登場する場面では、明らかに他の悪役盲人と異なる描写がなされている。「大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。(略)帽は被らず、髪の短いのを漆のやうで、色の美しい白い、細面の、背のすらりとしたのが、」と、端正な風貌の美青年で一見ただの学生である。それまでの盲人の痘痕顔や貧弱な風体、幽霊を思わせる不気味な描写とは異なる。しかも拓は二十五六歳、東京出身の理学士だ。これらの設定にも彼が盲人でありながら、いかに主役として描かれているかが表れている。

 「黒百合」で最も注目すべき場面は、拓の見た夢・魔処岩瀧の夢の場面だ。拓の目を治すために、恋人のお雪が黒百合を採りに魔処へ行っている間、拓は一人大雨の中を待つことになる。まず不吉な雨の様子が盲人・拓の耳を通して全て音で表され、「理学士は恐ろしい夢を見た」から場面は飛び、拓の夢の中に移る。魔処・岩瀧の景色が描かれ、片翼一間余りもあろう大鷲に追われ逃げるお雪と瀧太郎少年の姿が語られる。

 ここから、瀧太郎とお雪の活躍と同時に、ただ二人の姿をただ見守るしかない盲人・拓の心が繊細に描かれ始める。お雪に対する瀧太郎の言動から、二人を見守っていた拓の心が明らかに揺れ始るのだ。拓に比べ「情の籠つた、然も無邪気な、罪の無いことをいひ」得る瀧太郎。その差異に、拓はあらためて自分のお雪への姿勢、愛を省みることになる。そして拓自身が、瀧太郎の「其時の其意気、其姿、其風情」に耐え難い魅力を認め、「我は棄てられるのであらうと思つた、お雪は自分を見棄てるであらうと思つた」とまで思うようになる。ここでは盲目は関係なく、瀧太郎自身の魅力が、「理学士は又心から、十の我に百を加へても、尚遥かに其の少年に及ばないことを認めたのである。」と、恋敵の拓にさえ瀧太郎の優勢を認めさせることとなる。

 拓と瀧太郎は実に対照的な人物だ。作中で拓自身も実に細かく、比較している。まず、何も見えない盲目と、人より数倍物が見える超人的視力の重瞳。また、お雪の助けに活き、彼女を岩瀧の死地に陥らしたのは拓であり、実際お雪を救う為に荒鷲と戦っているのは瀧太郎であるという事実。これも愛を誓いながら実際は女を助けるよりも、むしろ苦しめている男・拓と、女の危機を実際に行動で救う男・瀧太郎の違いだ。そして瀧太郎が華族であり、その意気と容貌と風采と品位に、「直ちに我を棄てて渠に愛を移すのは、世に最も公平なことであると思」うとある。この比較の中に、拓の固定観念が特出している。相手が「華族」である点や結果的に「高家の室」になる事を理由に、恋人を棄ててもおかしくないという発想だ。拓は「華族」という身分や「高家の室」という玉の輿が理由なら、心移りも在り得ることだと自然に認めてしまっているのだ。

 魔処の夢は、非常に対照的な瀧太郎の姿や言動によって、拓に自省を促す。が、その自省する心理にすら拓の固定観念が出てしまう。盲人の自分より晴眼者の瀧太郎を良しとする判断にも、また華族の瀧太郎を良しとする価値基準も、お雪の心移りを予想する視点も、いずれも鏡花の主人公には似合わず世間の固定観念に縛られている。本来ならば、それらの固定観念や社会通念を覆すものとして、鏡花の自由恋愛があるのだ。そういった枠組みや境界、人間社会のしがらみを超え得るものが唯一精神の自由であり、恋愛が最もそれを体現しやすいからこそ、愛にひたすらで純粋な者たちを鏡花はいつも愛し、人間の男女や魔物を描いたのだ。しかし、拓にはそれがなし得ない。拓は精神の自由・心の目を閉じている。拓がお雪を疑い、彼女の無心の愛が見えなくなっているのは、盲目が固定観念に縛られ真実が見えない状態を表しているためでもある。拓と対照的に、神の申し子のような瀧太郎の重瞳は、型破りながらも逆に世間の常識に惑わされず真実を見出す者、真実に開眼している状態を示していると言える。

 又、現実世界・目明きの世界では、拓は見守られ庇護される側だった。夢・幻想の世界では、盲人が見る側になり、目明きであるお雪と瀧太郎が見られる側になっている。夢では、盲人と目明きの立場が逆転するのだ。そして、見る側に居る拓はどう足掻いても、見られる側にいるお雪を救うことはできない。この夢の中の〈見る―見られる〉の関係は、二者の立場の距離・隔絶を如実に表す。しかし何故見る側が、実際には盲目である筈の拓の立場になるのだろうか。夢中の拓の「見るばかり」とは、ただの〈見る―見えない〉の状態を表しているのではなく、見ることしかできない、事実は認識できるが自分は何も動けない、行動できない状態を示しているのだ。逆に夢の中で見られる側とは、実際に敵に対峙して戦っている渦中の人たちであり、行動している人たちだ。身を挺して黒百合を採りに行ったお雪が愛を体現する行動の人なら、大鷲からお雪を助けて傷ついている瀧太郎も自分の思い即行動の人である。度々お雪の危機を救ってみせる瀧太郎の姿は、拓に「我が妻を以て這の神将に捧げむ」と思はしめるのに十分だ。夢中の始めから終わりまで、瀧太郎の大胆で頼もしい言動に度々拓が感心し、滝太郎と自分を比較し負けを認める理由は、ほとんどが自分にはそれがない、又はできなかったという点だ。できるかできないかを、拓は夢の中の瀧太郎によって自問させられた。そして多くの答えは「できない」だった。

 おそらく拓は行動の人ではない。拓の夢の中の〈見る〉は即ち見るだけ、拓はいくら思っても行動できず、実際の問題解決には何ら影響力を持てない〈見る者〉、非行為者だ。〈行動―非行動〉であり〈見る者―見られる者〉〈行為―思考〉なのだ。盲目だから見る人・見る側の人になるというわけではない。非行為者、つまり〈見る〉のを運命付けられた者だからこそ盲目が与えられたのだ。「我が手働かず、足動かず、目は唯天涯の一方に、白き花に埋もれたお雪を見るばかり。片手を以て抱き得るやうな、細い窶れた妻の体を、理学士は如何ともすることならず」とあるように、拓は目だけしか動かせず、夢の中で体を動かせるのは瀧太郎だ。まるで瀧太郎には肉体があり、拓は目だけで肉体がないかのようだ。極度に行為が皆無で、恋人に愛を表現するのは言葉だけだった拓。夢に見るだけで手を出すことの出来ない〈見る者〉の立場は、現実世界でもお雪を何ら救うことができなかった拓そのままなのだ。夢はそれを如実に表した。お雪を救えないと苦しむ夢中の世界は、行動も出来ず、自分の世界から出られない者が自ら陥った地獄だ。

 夢を見て苦しむ拓がいる一方で、現実世界よりも、幻想の中のお雪は魅力を発揮し輝き始める。拓は度々お雪に棄てられる不安を漏らすが、お雪とは本当にそんな女だったろうか。お雪にとっての拓の失明とは、拓のために自分の全てを賭けられるか、生命さえも賭けられるかどうかが試され、結果として愛の試練となっていた。目の患いで働けない拓を、自ら働いて養うのは愛があればおかしくない。ただ生命をかけてまで魔処へ黒百合を採りにいく行為は、常軌を逸している。「屹度あの私が生命を掛けましても、お目の治るやうにして上げますよ」という約束をお雪は体現するのだ。お雪の純粋さは言葉だけではなく、生命を賭けてまで行動で示す、愛の体現―まさに鏡花の言う「愛は無我」の体現にある。

「唯々、私はあのお邸へ上がります訳には参りませんのでございます。」(略)「何故だ。」「内に拓さんといふ方がございます、花を欲しいと存じましたのも、皆其人の為なんですから。」と死を極めたものの、却つてかかることを憚らず言つて差俯向く。

 たとえ絶体絶命の時に目の前に助けてくれるだろう男・瀧太郎が居ても、お雪の心は変わらない。自分のためではなく、ひたすらに拓のためなのだ。二人の男の能力や器量、身分、言動の差異が比較され、瀧太郎の優勢が分っているにも関わらず、語り手が「数の多量なるものが、愛を購ひ得るのでは無かつた」と語るとおり、お雪の愛は「数の多量」などという勝ち負けとは無縁だ。拓と瀧太郎の意志にならない、強さがそこにはある。「黒百合」における宝とは、このお雪の純粋無我の愛なのだ。それはあらゆる物を手に入れ、魔処の魔物を退治する瀧太郎でさえも手に入れられない、人間の魂とも唯一の宝とも言えるのかもしれない。拓の「望」のために犠牲になっていた筈の女が、その捨て身の犠牲的行為によって自らの力と魂を奮い立たせ、逆に拓より遠く高い存在に変化するのだ。お雪が到達した場所は、愛という観念と行為が合致した領域だ。愛の観念だけに埋没し行動を失った拓には、観念と行為を合致させ得るお雪が遠く感じられるのは仕方ない。

 肉体よりも精神的な恋愛を至上のものとしていた鏡花だが、「黒百合」では、違う答を出している。それは愛もただ精神だけではなく、行為あってのものだということだった。

 夢の中の拓。それは目=非行動であり、目前の出来事に関与できない者、幻視者の立場だ。鏡花にとっての幻想を考える時、単に幽霊や魔物が登場する作品がイメージされやすいが、幻想幻覚とそれを見る者を書いた作品もある。例えば、「春昼」(明治三九・十一「新小説」)では、ドッペルゲンガーが登場する。村の金持ちの御新姐に一目惚れした男が恋に病み、ある晩山へ迷い込み不思議な野芝居を見ると、その舞台には既に愛する御新姐が上がっている。そして御新姐と背中合せで立つ、もう一人の自分を、男は見てしまう。現実世界の男と御新姐は互いに手に触れるどころか会話をすることも出来ず、散歩の折に橋ですれ違う時ただ挨拶するくらいだ。互いに触れられなければ、絶対に結ばれない二人には埋められない距離が厳然とある。が、その分だけ強い想いが二人のものになり、肉体を介在しない精神の繋がりが恰も絶対的なもののように書かれる。現実的な肉体の距離と、精神的な繋がりが反比例の関係である。非常にプラトニックな恋愛だ。しかしこの距離も元は世間や社会に阻まれ生じるものであり、現実世界で結ばれるには肉体的距離の解消が不可欠なのだ。いくら精神的絆や観念の世界に逃げても、現実的に人妻とその愛人である二人が引き裂かれている現状は変わらない。よって男は精神的絆だけでは満たされず、また現実も受け入れがたく葛藤する。この二者間の葛藤が、男を分裂させる。その分裂は、舞台上で御新姐と結ばれる男と、それを見る観客の男となって現れる。幻想の内は男の願う世界、舞台上のドッペルゲンガーは男の願望の体現だ。では観客席の男とは何者か。見る男は、願望がありながら未だ現実世界の地に足をつけている男、幻想の外にいて幻想を見ている男、幻視者だ。どちらが本当の彼なのか。男が後に「真個なら其処で死ななければならんのでした」と語ったように、男は舞台上の自分で死にたかった。つまり幻想幻覚の自分で良かった、舞台上の自分でいたかったのだ。しかし、それでは済まされなかった。ドッペルゲンガーの本体である幻視者は、生きている限り現実世界に戻り、理想と懸け離れた現実を引き受け、肉体を引き受けなくてはならない。幻想の自分でいるためには、肉体を捨てるしかない。よって現実世界に取り残された男は、肉体・現実世界を放棄することしかできず、自殺してしまう。

偶像は、木、金、乃至、土。それを金銀、珠玉で飾り、色彩を装つたものに過ぎないと言ふんですか。人間だつて、皮、血、肉、五臓、六腑、そんなもので束ねあげて、是に衣ものを着せるんです。/人には霊魂がある、偶像にはそれがない、と言ふかも知れん。(略)霊魂が何だか分らないから、迷ひもする、悟りもする、(略)。的がなくなつて弓の修業が出来ますか。/偶像は要らないと言ふ人に、そんなら恋人は唯だ慕ふ、愛する、こがるるだけで、一緒にならんでも可いのか、姿を見んでも可いのか。姿を見たばかりで、口を利かずとも、口が利いたばかりで、手に縋らずとも、手に縋つただけで、寝ないでも、可いのか、と聞いて御覧なさい。せめて夢でも、其の人に逢ひたいのが実情です。

 これは「春昼」の前半、観音堂で旅人と僧が交わした偶像崇拝についての会話だ。人と偶像を並べて語り、偶像―神仏の関係に、肉体―精神、実体―非実体の関係をそのまま重ねている。「霊魂が何だか分らないから、迷ひもする、悟りもする、危みもする、安心もする、拝みもする、信心もする」のであり、そのため霊魂に繋がる媒体として仏像や人の肉体がある。ここでは鏡花が恋愛において排除したはずの肉体が、魂の媒体として登場する。結局媒体なしでは人は目に見えないものを信じることは出来ず、また逆に目に見えないものを信じるためにも媒体に縋りたいと思うのだ。精神や観念への極端な偏重は、肉と魂の分離という不自然を生じさせ、人を苦しめる。鏡花の幻視者は、幻想を夢見ながらも同時にその苦しみも知っていた。彼らは、現実を引き受けられない故に幻想に生きたいと願う。現実と理想の分裂・隔絶を統合させることができない故に、幻想を選び、死ぬことで幻想と一体化するのだ。たとえ幻想だとしても愛する二人が結ばれ、それが自身の美学において真実と思えるならば、むしろ現実より幻想を選ぶのが鏡花なのかもしれない。

 「黒百合」の拓が最終的に出した答も、埋められない距離に敗れた形となっている。夢によってお雪との隔絶を自覚した拓は、夢から目覚めた後どうしたのか。お雪、拓、瀧太郎の三角関係は洪水の場面で最終局面を迎え、拓は唯一残された行為に及ぶ。それは雪に別れ告げること、縁切りだった。お雪の枷になっている自分が一人洪水の中に残り死ねば、お雪を自由にしてやれる。死が唯一自分の真情を表現できる行為なのだ。死ぬことで初めて、拓は今まで分裂していたお雪に対する想いと行為を合致させることができる。しかしお雪が拓を諦めるわけもなく、瀧太郎はお雪を助ける為に拓を助け、結局三人の三角関係は崩れない。しかし、この三角関係を一番理解していたのはお雪だった。お雪は、瀧太郎には頬摺を残し、拓には「拓さん堪忍して」と声を残し、自ら水に沈む。ここでも瀧太郎には頬摺という行為、拓には声・言葉だ。この違いにどのような真意があったのか、どちらにお雪の心があったのかは分らない。どちらかを選べ得なかったとも、単純に二人を助けたかったとも取れるが、「黒百合」の結末では明らかにならない。思うに、お雪が瀧太郎を選んでも彼女の心は拓にあり、拓を選んでも行為や身体の次元での溝は残り続ける。だから瀧太郎はお雪を無理に連れ出せず、拓は別れることがお雪のために最善だと思った。結局ここにも神仏―偶像ではないが、心―体、非実体―実体、観念―行動のような分裂があり、お雪には拓―瀧太郎が心―体と同じなのだ。対照的な拓と瀧太郎は実は背中合わせの二人、本来なら二人で一人の人間なのだ。だからお雪はどちらか一人を選ぶことはできなかったのだ。

 しかし何故分裂を解消するには死しか残っていないのか。現実世界に生きながら、隔絶を無くすことはできなかったのか。鏡花には異界や幻想に逃げるか、死ぬほかに方法が見つけられなかったようだ。分裂は分裂のままに、現実を捨てるしかなかったのだ。

おわりに

 初期から晩年まで一貫して、仏教的価値観や固定観念に縛られた〈めくら〉的悪役盲人を書き続けた鏡花。だが、また一方で主役盲人の内部から盲目を描く時、それは幻視者へと深くリンクしていくものだった。盲目を書きながら、その構造は〈肉体―精神〉〈現実―幻想〉〈行動―観念〉〈見る―見られる〉の二元対立を浮かび上がらせた。明治と言う時代的背景もあり前近代的盲目観を強く持っていた鏡花が、なぜこのような構造を書く事が出来たのか。鏡花には〈自意識〉の影などは少しも見えないが、おそらく幻想の作家として〈現実―幻想〉〈可視―不可視〉に対する拘りも強く、恋愛における極端な精神主義からすでに〈肉体―精神〉〈現実―幻想〉の二元対立を内在させていたからこそ、少数であっても主役盲人を書けばこのような構造を作り出す結果となった。かたや非常に前近代的な作家でありながら、現代に通じる感覚があった鏡花の面白さと言える。

  1. 「黒猫」(明二八・六・二二~七・二三「北国新聞」)、「一之巻」~「誓之巻」(明二九・五~三○・一「文芸倶楽部」)、「怪語」(明三〇・七「太陽」)、「山中哲学」(明三〇・十二「太陽」)、「黒百合」(明三二・六「読売新聞」)、「霊象」(明四〇・一「文芸倶楽部」)、「歌行燈」(明四三・一「新小説」)、「貴婦人」(明四四・十「三越」*)、稽古扇」(明四五・二「中央新聞」*)、「三人の盲の話」(明四五・四「中央公論」)、「紅葛」(大三・十二、「中央公論」*)、「桜心中」(大四・一「新小説」)、「天守物語」(大六・九「新小説」)、「鶚の鮨」(大十二・一「新小説」*)、「怨霊借用」(大十四・三「改造」)、「山海評判記」(昭四・七「時事新報」)、「斧琴菊」(昭九・一「中央公論」)。*印のものは、按摩などの脇役で、役割はなく登場だけするもの
  2. ・村松定孝「「心の闇」と「三人の盲の話」について」」(『泉鏡花研究』昭和四九・八)・村松定孝「鏡花全集 解題」(『鏡花全集』昭和五一・三、岩波書店)

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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