これまでの資料収集と
研究について
――森盲天外の資料は、すでに出回っている資料を、人を介して集めるという方法でほとんど収集しました。例えば、海南新聞の記事を検索したところ、盲天外の記事で、大正一一年一一月二三日付の物に、私の知らなかったことを盲天外自身が語っていました。このようにして出ている資料を集めたわけです。
盲天外の事を知っていただく原則といいますか、私は資料が大事だと思ったのです。皆さん部分的にはいろいろ知っているわけです。村長さんだったとか、あるいは天心園を開いたとか、俳句だとかね。そういうことは、ご存じなんですが、元治元年の八月一三日に西余戸村の庄屋の長男として生まれてから、昭和九年四月七日に亡くなる、その七一年間を通しての資料が全然なかったものですからね。
たまたまその、和田茂樹先生が『一粒米・増補復刻版』が昭和五二年に発刊した際に年譜がありました。この年譜は、和田先生が遺族の方(1)にもう少し詳しい生涯がないかというので、苦労して作ったのが最初の資料です。
私が作成した年譜も、いろんな方から資料をもらったり聞き取りをしながら説明を加えたりして作りました。
ですが、生涯を語るというのがいかに難しいか、身にしみてわかりました。人の一生を九〇分やそこらで語るのは難しい。資料だけはつくっておけば、何かに使えるのではないかという想いで作成しました。色々な人の資料を引用しつつ、功績だけではなく、盲天外の人物像もある程度浮かび上がるような詳しい年譜になっています。この中に間違いもありますので、訂正をしなければならないかと思っています。
新渡戸稲造からの手紙とか、余戸の庄屋さん・二神精一さんの息子さんが書いた本がありますが、それを引用しました。柳原極堂が再建した伊予日日新聞(明治三九年―昭和二年廃刊)、その時の新聞記者・曽我 鍛さんは大正二年に記者になって、盲天外と親しい関係だった方で、盲天外の事を目の前で見て話して聞いて、それを新聞記事にしています。新聞記者と盲天外という関係以上に親しかった。 その新聞記事も調べて、スクラップで何冊になったか、膨大な記事がある。それを引用したりしました。
講演二回で、年譜について話しましたが、到底話しきれません。余土村長の事だけでだいたい二時間くらいかかってしまう。全部を入れたら到底話しきれないので、五回二時間くらいに分けて話せればよかった。
いまは、余土公民館長さん(戸井田さん)が余土の事をよく調べられて、パソコンで資料をつくられている。私以上に正確な資料をつくられているので安心しています。
なぜ、盲天外は
村長を引き受けたのか?
――盲目の身で村長という行政職につけるのか?なぜそういう人に村長を託したのか?そしてなぜ盲天外が引き受けたのか?単純な疑問がありました。
色々調べていくうちに盲目の身であっても、余土の人々が盲天外に村長を頼んだという事がよくわかりました。本当に村民から心からの信頼が厚かった。
【余土村の歴史 ――小学校の合併問題】
たまたま余土村、明治二三年から新しい町村制がしかれて、初代の余土村村長が松田さん。この時にそれまで余土地区は三つの村があった市坪村、保免村・余戸むら・それぞれに小学校があった。五つの小学校を一つにする必要があった。新築する必要があった、工事が決まってから余戸むらの方から反対が出た。青木小、ほせん小は市坪なので近くなるけど、余戸村からは遠くなる。小学校の新築場所をめくって余土村が紛糾をした。村が二分されるぐらいに小学校問題が解決できなかった。松田村長の三期の間に解決できなかった。余土村がこのままでは分散するぐらいの危機的状況だった。小学校の新築場所が決まらない限り、余土村は一つになれない(※余土中学校の変遷の話。余土公民館ももともとは中学校だった場所に立っている。もともと校舎が三分割されていて、グランドがとれず野球もサッカーも陸上もできない状況だった。それが今は建て替えられて、良い校舎になっている。ずっと話が決裂していた。小学校の新築問題、その後も中学校の新築問題があった。)
どうにかしないといけないのはみんな判っていたのに、子供が一番可哀そうだった。狭い曙小で、青木小とかほせん小とかは分校で、新しい校地もできて早くしたいけど、できなかった。松田村長も大変立派な人だったけれども、生まれてからそこにずっと住んでいる人たちの感情が難しくて、その感情を治めるに至らなかった。そういう感情をおさめるのは、元庄屋の森恒太郎、この人しかいない。そういう強い村民の想いがあった。盲人だとかそうではないとか、そういうのは問題外でして、人物的にこの問題を解決してくれるのは盲天外さんしかいない。それは、余土地区の総意。まあ反対する村会議員さんはいました。盲目の人にそんなことができるのかという人もいました。
公民館のところに、頌徳碑があるでしょう。その真ん中のところに森盲天外で、そのむこうに鶴本房太郎さんという方がある。その房太郎さんの父・鶴本多次郎さんという方が、盲天外さんの事をもう心から「この人は余土村の柱だ」といって、多次郎さんの一言で満場一致で村長に決まった。鶴本房太郎さんが京都へ行って、盲天外が一粒米の悟りを開いて修行しているところへ、頼みに行ったわけです。ですけど、普通は「はい」とは答えられませんでしょうね。いくら盲天外が、能力がある優れた人といえども。で、まあ、盲天外はその時には断るわけです。その後、まあ一回京都の修行を終えて、こっちに帰ってきたときに、村会議員とかそういう方々が再度盲天外さんのところへ村長要請に行きました。村議会で満場一致で決まってますから。
それで、「なぜ村民が盲天外さんに頼んだか」という謎は解けました。
では、なぜ盲天外さんが、村長を引き受けたのかと。この疑問の一番目は、森盲天外さんが西余戸村の庄屋の長男として生まれて、お父さんが七歳の時に亡くなりますから、当然庄屋職をやらなければならない。庄屋職が廃止になるのが明治五年ですから、二年くらいは庄屋職をやっているわけですよ、八歳、九歳で。で、そういうこともあって、森盲天外さんが余土村を愛するという心が非常に大きかったのではないかな、と。自分が生まれたところをね。
森盲天外の「庄屋魂」とは
――庄屋職というのは、一方から見たらその藩の奉行の使い走りみたいな庄屋さんもいた。上から言われた通りそのままの。でなくて、村民の側、農民の側に立ってする庄屋さんもいた。森恒太郎さんのところの庄屋さんは代々、みな村民の側に立って庄屋さんだった。ただお米を集めて奉行所に収めるだけの仕事ではなくてね。
【盲天外の頭脳について】
――(森さん)森盲天外の原点だと思いますが、八歳で庄屋職を、実際には七歳から庄屋職を引き受けているわけですけど、年齢的に考えたら普通じゃ不可能ですよね。森盲天外さんのこれがすべてだと思うのですが、一つは非常に優れた頭脳の持ち主、もうこれは天分の、生まれつきの頭脳だと思います。もう記憶力、判断力、すべてですね、すごい能力の持ち主。これは盲天外の一つの大きな側面です。その中で記憶力というのは、これはコンピューターに勝るとも劣らないくらいの記憶力を持っていました。そういう優れた、多彩な才能をもっていた。先生も森盲天外の俳句を、視覚障害者として初めての文学者じゃないかといわれてますけど、文学でも何でもできる人だった。だから、ナポレオンではないけど、できない事は一つもないくらいの人物であったと。
【幼少期の庄屋職体験】
それから、庄屋を七~九歳という二年半ほどやったというこの体験ですね。なぜできたのかというと。まあ、おじさんがいた。ゲンロクおじさんという。この方が、庄屋職ですから、伊予郡の二四か村ある庄屋さんとのお付き合いで松前に行くことが多かったわけです。その途中、このゲンロクさんがまだ八歳の子供だから連れていくわけですね。その途中で、田んぼの水が漏れていたら、誰の田んぼかわからないけど、漏れないように裾をまくり上げておじさんがやっている、そういう姿を目の当たりにしている。そして一番大きかったのは、義農作兵衛の墓に連れて行って、義農作兵衛のことをまだ八歳ですからわかるかわからないかどうかわからないけど、盲天外に話したんですね。それがもう盲天外の心に大きく響いたんだと思います。作兵衛の話。命を賭して村民を救ったという話を。そのゲンロクさんの体験的な庄屋としての、また作兵衛の精神。
【盲天外が帝国大学に進学しなかった理由】
――盲天外さんがなぜ東京へ行かなかったのか。当時変則中学校で、県立の町の中学ではなかったけど。大体中学を出たら、東京へ行って、予備門に入って東大なんです。で、東京に出たがる。明治時代は、だいたいそういう時代だったわけですね、地方では活躍の場がなかったから。みんなが東京に行くのに、森盲天外さんはそういう大学を目指さずに、中村敬宇という同人社に行っているわけです。その謎は私にも何年かありました。あれだけの能力を以て才能をもった盲天外さんが、なぜ東大に行かなかったのだろうかと。これは、謎が解けました。盲天外さん自身が、自分の言葉で語っているのですが、私は地方でこういう風にお悩みや相談をなげられて、その解決のために走ると、その運命は自分が庄屋の生まれに生まれた、そのことが地方の為に活動するのだと。なにも中央に行って活動することだけが人間の活動ではないと。
だから、東京へ行ってたら、総理大臣くらいになるくらいの人だったと思いますよ。それだけの能力があります。ある人が、「森盲天外さんは松山・愛媛だけで活動して、東京では知らんのんやないか」と。そうではなくて、実は、地元よりも、東京の方が森盲天外の人間、盲天外の名前が有名だった。むしろ有名だった。だから、東京の内務省とかそういうお役所は、盲天外の力を見ていましたから。村長やめて、内務省からその民育を嘱託講演に従事してますね。盲天外が余土村の、自治の村の第一番に掲げたのは、公民的な意識だった。だけど、それが村民にはなかったわけですね。「民」の方の意識はある、自分さえよければいいと。ところが、「公」の方の意識、例えば道が壊れていたら、そこに行って修理すると、これ「公」ですね。そういう意識が全然ないので。そういう公民意識をもって自分たちの村を自分で治めると、そしてみんなが豊かに暮らす、共存共栄と、そういう村づくりをされたわけですね。
だから庄屋の家で生まれたということ、で、庄屋をやっていた、公の仕事をしていた点ですね。また、小さいころから余土で遊んでるし、小学校もいっていたずらもしたんだろうけど、余土をこよなく愛していたと。それが、目が見えなくても村長を引き受けた理由。そして、その引き受けた裏側には、彼の能力――森盲天外さん自身が意識していたかどうかわからないけれども――それはもう抜群の能力ですよ、目が見える見えないは関係ないくらいの能力。それで引き受けられたと。これが一番の根本的な問題ではないかと。
そういうところを見てみると、盲天外さんのスケールの大きさ、能力の大きさ、才能の豊かさ。そしてなによりも庄屋をやっても村民の為にやっていこうと、そういう人のために役に立つという意識が、盲天外の大きな人物やないかと。
【草間時福からの影響について】
――草間時福との自由民権思想についてですが、草間時福は慶應義塾と言ってますけど、じつは同人社にいて、それで中村敬宇の教えをうけて、それで福沢諭吉のところへ行っている。だから、なぜ森盲天外が慶應義塾へ行かずに同人社に行ったかというと、草間時代氏自身が中村敬宇の教えをうけて、同人社で学んでいるからです。そうですね、森盲天外の人生を変えたのは、草間時福かもしれませんね。出会わなかったら、中学をでてあとはどうしたかわかりません。ま、草間時福が同人社からきておると、まあ、そういう大きな出会いであったことはたしかですね。
政治家・森盲天外の起点
【石手川の氾濫、県との交渉を解決】
――明治一七年に同人社にはいり、明治一九年出ているわけですね。その出てからのことについては、諸説紛々で、わかりません。くわしいことは。ですが、九月に自宅に帰ったのは間違いない。で、帰ってすぐぐらいだったんでしょうね。石手川が氾濫した。これは、和泉村というのがあります。そこの土手が二〇〇間きれて、だからまあ、テレビで見るような洪水氾濫が、あの当時水が津波のように来たのです。余戸はなかなかそういう水害はなかった。市坪は石手川のつけかえで、水難の村というくらい水害がおおいところだった。明治一九年の洪水は余戸にまともにきたんですね。和泉ですから、和泉村、保免村、余戸村と、津波のような水がきたわけですから、家は流される、馬牛は流される、人の死体までながれると、それが明治一九年で盲天外が二三歳の時ですよね。で、庄屋をしてましたから、すぐさま被害の状況をみてます。それがもう庄屋魂と言ったら庄屋魂ですよ、被害の状況を見ている。そして早急に決壊した堤防の復旧工事をしないといけない。これは県がやるわけですが、県は上流の二〇〇間のそこをさき(すると)。じつは石手川の、余戸の南の方も二.三か所決壊して、そこからも水が来ていたわけです。だから、県の方は、上の和泉村の二〇〇間を先に工事をする、それが終わったら余戸のほうをするといった。それをやられたら、今度洪水があったときに氾濫するのはどこかと言ったら、もう余戸のほうなんですよ。上の方は先にできてますから。特に、堤防が決壊したらは垣生地区まで及ぶんじゃないかと思うですが。で、県が上流の方を先にするという、で、余土村(当時の余戸村、保免村、市坪村)としては、大反対。同時にやってもらわないと。同時着工が、余土村民の願いだったんですね。で、盲天外さんも庄屋やってましたから、県と交渉する一人に選ばれたわけですね。で、県の交渉で、盲天外さんは同時着工をやらないと意味がないということを言ったんですね。そして、認めさせた。それをやったのが、やっぱり庄屋魂だったんですよ。なんでも村の世話をしてないわけですから。それで余土村の村民の信頼があったと。しばらく余土村からは離れとったわけですから。それが若干二三歳の森盲天外が県の交渉をして解決してくれたと、同時着工になりましたと。
【伊予郡二四か村 共有田問題を解決】
――そのあと、明治二三年に新しい現在のような町村制がひかれるようになりますが、伊予郡の二四か村は、重信川から北側に五つ村があったんですね、伊予郡に。市坪、保免、余戸、西垣生、東垣生。で、共有田があったんですね。町村合併していって、伊予郡がもっている共有田をどう処分するかという問題が、伊予郡村会ででました。で、余戸村は、それは売ってわけたらいいという考えだった。しかし、松前などは、残したほうがいいではないかと考えた。町村合併があっても、そこは何かに使えるからまあ、公共的なものとしてと。で、その論争が、伊予郡村会で起こりました。余戸村は売却・配分。正岡子規の友達の武市倉太は庄屋さんしていたから、この方は非売却、おいておくほうの意見だった。これが郡村会で、どちらにするかと言う審議になった時、ものすごい論争だったわけです。ふたりが(武市倉太と森盲天外の二人)。それに、それぞれ支持する人がおりますね。おもしろがったわけですね。旗を立てたりして。もう大騒動で、その問題が議論された。
森盲天外さんは余戸村の郡村会の代表になっていました。理事かなんかにですね。明治一九年の大洪水の時で信頼を受けたわけですから、当然余土村民は伊予郡村会に盲天外を送ったわけです。で、盲天外さんは村の意向をうけて売却論をやりました。ですから、そのときには、演説は学んでいたからもう滔々と。で、結局議論をしたすえに、採決をとったら、売却論のほうが多かった。武市倉太さんの非売却論のほうは裁判になって、その裁判の結果も売却論の方に軍配があがった。で、この余戸村の人々はですね、森盲天外さんへの絶大な信頼、それがまあ村長になる大きな根拠になった。
なかなかそれだけの信頼を受けるという人は、そりゃ偉い人はいっぱいいたでしょうけど、心から信頼されるというのはなかなかないと思いますね。その二つが若き盲天外の時の大活躍。
【県会議員へ出馬 なぜ温泉郡から出馬だったか】
それから自分は地方で県会議員に、明治二三年ですから二七歳で、それも伊予郡でありながら温泉郡から出馬したんですよ。なぜ温泉郡から出馬したかというと、それは、窪田節次郎という庄屋さん。この人と憲法発布の時にですね、改進党の地方党を愛媛で立ち上げた時に、窪田節次郎さんが仲間に加わってくれていた。そういう付き合いがあったんでしょうね。その窪田さんが伊予郡から出馬するというので、あ、自分は伊予郡から出たら駄目だと。その頃、生活本拠地でない温泉郡からどうして立候補できたのかね、わからないのですけど、温泉郡から立候補して当選しているんです。県会議員として二六年まで活躍します。が、この間にちょっと行き過ぎたというか。県会議員の議員活動というのは、議員会館はないわけですから、もう料亭になります。で、毎晩毎晩こうやってやると。盲天外さんの家も、七〇町の田んぼを持っていました。その七〇町分の田んぼをほとんど失った日には、もう若いですから、もうどんちゃん騒ぎ。
【大きな運命の動き 失明】
で、明治二七年に広島に大本営が移った際に明治天皇を奉迎にいって、ここから大きな運命(の動き)ですね。あの時は二九歳だったかな。そのときは薬店・三樹堂院というのを作って、二、三か月のうちに県の代表として広島に行って、広島で左目がおかしくなって、すぐ東京に行って東大で目を見てもらうんだけど、回復しないと。翌年(愛媛に)帰ってきますが、帰ってまたしばらくして右目がおかしくなったんですね、明治二八年。そのうちまた東京へ行く。東京行ってもそれはだめで。網膜剥離で、眼底出血。両目失明したのは明治二九年ですから。で、そこから一粒米の本の話が始まりますけど。
だから、盲天外さんの人生は庄屋に生まれたことと、草間時福との出会い、そして三三歳で両眼失明した。一番大きいのは、この三三歳。で、人生がもう本当に変わってしまった。
もし盲天外が
失明しなかったならば……
――「もし」という言葉が使えたら……「もし盲天外が失明しなかったならばどうなっていただろう」と。
これはね、俳諧からはじまって、明治二四年に俳諧がもう堕落してしまっとったんでね、結社がだいぶできて、松尾芭蕉の俳諧ももうどこ行ったかわからないので、俳諧文学なんていう「はせを影」を作ったのが二四年ですよね。で、正岡子規が二八年に「俳諧大要」をまとめあげて、「俳句は文学の一部なり」という。たった四年間ですよね。その間、 森盲天外はなにをしていたんだろうというと、まあ、政治活動に熱中しています。俳諧をわすれて。ところが両目を失って、自分は今まで俳諧の事ばかりやっていたのに、こんどは俳句、正岡子規に没頭するんですね。すごいでしょ。俳諧の松尾芭蕉を再興しようなんていって、一生懸命、新聞社・海南新聞にまで入って、蕉詠吟社なんていう結社まで作って、松尾芭蕉の俳諧をやろうなんて言って。その四年後にはもう子規派の俳句に没頭しているんだから。普通の人には。その四年間の、竹田美喜先生(子規博物館館長)に聞こうかなと思うのですが、明治二四のことまでの事は詳しく話していただくんですけど。明治二五~三〇年とあって、三〇年にホトトギスに、盲天外は六句ほど投句をしますよね、承露盤ですけど、新俳句の。たった数年間で、俳諧から俳句へ一八〇度転換している。ということは、感性の変化か、そこはちょっとわたしには(わからない)。政治活動に没頭していたから忘れていたのか。それにしても、あれだけ俳諧の松尾芭蕉にこだわりながら、なぜ一八〇度転換して子規派の俳句に没頭していったのか。
失明後の俳句や書について
沼田 真里失明してからも、必要があって掛け軸に俳句を書いて残してますが、あれは目が見えなくなってからも俳句を作っていたのでしょうか。どうお考えですか。
――森盲天外が書を書いているのは、目が見えなくって、それも村長さんになってからですね、扁額や掛け軸を書いている。
それもなぜ書いたかというと、大正一二年に天心園を作った。二万円借金したんですよ、土地から建物から自己資金で。で、当時の二万円ていったら、今のどのくらいですかね、二億円まではいかないと思うけど(笑)、相当なお金ですけど、それを個人で借金した。そう、返す当てもない。あったかどうかわからない。でも、盲天外の晩年の夢が天心園だったと思います。その二万円の借金を返すために、奥さんと三男のお嫁さん二人が、八重垣という旅館を切り回して必死でやってるのをみて、これは自分もやらねば……とそれでまあ半切へ書いて、売れたらというのでもう書きまくった。ですけど、最初失明した頃はわりとその草書・楷書のような字なんですね。それが大正一二年といったら、失明してからでも相当の年月が経ってますよね。ですから書体が全然変わっていて、もう筆がこう持てないわけですから。毛筆を。
奥さんに最初の出だしだけ指で押さえてもらって、そこから俳句を三行に書くわけですよ、全部三行になっておるわけですね。五七五かな、全く同じ。で、署名と落款を押しています。それを売ろうとしたわけですが、全然売れなかったわけです。二〇〇枚くらい書いたそうですけど。もらった人も、こんなものいるかと……(捨ててしまった)。たまたま大事にどこかにしまってあったのが、今でてきていると。
【盲天外の書への評価】
鴻池楽斎さんは、盲天外のあの折れ釘のような独特の書体は、中国の王羲之の書の基本をきちんとおさえた書き方だと。鴻池楽斎は、これは芸術、美術といってもいいくらいだと。で、楽斎さんは盲天外の書の一冊の本を出しておりますけど。あの非常に、盲天外さんで注目を浴びているのは、やはり盲目の身で書いた半切の字です。目が見えないのにどうしてあんな字を書いたんだろうかと。それはもう、盲天外の盲天外たるゆえんだと思います。誰もこんなことは絶対しない。見れば見るほど味がありますね。それも書の基本を忠実に守って書いた字だというから、恐れ入りますよ。だから、子規博に何点か半切があるんですけど、やはり見た人は良いとおもいますよね。公民館にも掛け軸がある。俳句は二本くらいですか?



二つですね。漢詩が多いですね。俳句も、盲天外の目が見えなくなってからで、孤鶴のものがないんですよ。



やっぱり目が見えなくなってから、必要が……。



目が見えなくなってからの書が多いです。孤鶴のころはあまり書いてないんだと思いますね。
――あの、森盲天外さんの遺産といいますかね、書き残したものが、いろんな、新渡戸稲造からいただいた手紙もそのまま残っておるんですけどね。
新渡戸稲造の松山事件
有名な事件で、新渡戸稲造が日本におれなくなってアメリカに行って、バンクーバーで亡くなったんですけど。その横浜出向する直前に森盲天外にあてた手紙が、「森大兄へ 新渡戸」と書いてあります。この直筆の手紙が子規博にあります。まあ、そういうものもあると。



盲天外の書の書き方も、お聞きできてよかったです。
――以前まであった旧余土公民館では、階段を上がって二階の踊り場の正面に木の扁額がかかっている、木彫りですけどね、。そこへ森盲天外が書いた字が彫られているわけですけど、これ、大きな字ですよ、一つの字がこんなほど。なんと書いてあるかというと、教育勅語にある言葉を四文字で書いてるですよ。それはすごい字ですよ。日露戦争の戦役記念で、余土の誰かが頼んだんでしょうね。余土村にだれか木彫りの名人がおったんでしょね。その彫刻も立派ですし、書いてる字が失明してまだ間もない村長時代ですから、あんまり変わっていない。これはすごい字です。あの掛け軸に書いている字と、迫力もある。
小作保護と頭陀袋



小作保護をしていた頃の森盲天外の写真が一番有名ですが、その頃のお話を伺えますでしょうか。


(※実際の森盲天外の写真)
【渋沢栄一と森盲天外】
――あの余計な話かもしれませんが、渋沢栄一が新一万円札の肖像になった理由は、ただ経済の話だけではないですね。私が渋沢栄一を尊敬するのは、あの人も社会福祉のことをやった点です。東京都が公で困窮者を救護所みたいなものをやって、それを税金でやっていけなく なって、反対も多くあって、もう止めるとなった時、あの渋沢栄一が「私が個人でそこを経営する」と言ったわけですよ。個人で経営するといっても、それはべらぼうなお金がいるわけですよ。で、寄付金を集めていくんですね。で、盲天外の場合は、地主さんから頭陀袋で米一升を集めていった。渋沢栄一は鞄をもってですね、会社の社長のところへ行ったら、それを開けて「あの……寄付をしてください」と(笑)、それを渋沢栄一鞄というとか(笑)。まあ、そういうところは共通しているんですよ。だから、相当な会社を訪問してますからね。最初はわずかだったけど、ものすごいお金を集めた。それで、あらと思いました。
【小作保護、小作争議】
まあ、小作というのは明治になって問題になった。江戸時代は小作と地主がいましたけど、もう奉行所の取り立てが厳しいので、小作人と地主はだいたい同じような目にあってますからお互いに理解しあえた。争いなんてなかった。ところが、明治時代になって土地の売買が自由になった、所有も認められたと。そうすると地主さんは今までの土地を売ったりして、小作人関係が崩れますから関係が新しくなっていく。そんな関係で、地主と小作人の対立が明治時代からできてきた。これは大正時代が、一番ひどかったんですね。小作争議といったら昔の百姓一揆みたいになった。
【共存共栄のために 地主と小作の壁を壊すために】
盲天外さんの頭のいいところは、明治三一年に村長になって、まず解決をしなくてはいけないのは、余土村は農村ですから、当然地主さんと小作人さんがいます。ここでやはり江戸時代のなごりで、意識的に、小作人さんと地主さんとの間は、やはりwinwinの関係ではない。地主さんはちょっとでも良いコメをとる、小作さんは良いコメを出さずに悪いコメを出す。そういう地主さんと小作人の関係では、絶対に公民的な意識とか自治の村とか、共存共栄ははかれない。根本問題は、余土の九割を占めている農民、地主と小作人さんの壁を壊さない限り、自分がいっている余土村是七つは実行できないだろうと。ということで、明治三四年から小作人保護会というのを自分で作った。そして、頭陀袋をいうたら皆さんわからないかもしれませんが、前垂れに「小作人保護」と書いて、首から下げて、で、小作人さんの肥料代とかいろんな費用を買うお金を集めると。小作人さんにそういうお金がないから。それを地主さんの方で寄付して助けてあげる。お金をあげるんではなくて、お金を小作人さんに貸す資金を作ることを、考えたんですね。それはもう人に言ったってなかなかできないから、自ら頭陀袋をかけて、地主さんのところを一軒一軒たずねて、田一端について米一升を出してくださいと。そういう風に訪ねていくわけです。
明治三四年一二月ですよね。早いですよね。三三年の四月に余土村是をまとめあげ、市町村資料を。そして七つの余土村是を定めて、早や翌年に一番難しい、これが村是七項目の中で一番難しい、人間と人間とのことですから。それを自らやっていったんですよ。
まあ、これが明治三五年だったですかね、二年ほどありますけど、これは村議会でそのお金はプールして、盲天外さんがいう趣旨を果たそうという風になりましたら、二年ほどで止めてますけどね。目が見えない、杖を突いてですね、今みたいなアスファルト舗装していない田んぼ道を、まず最初は一人で歩いて行って、お米を集めて。それは当然、反対の地主もいますよね、それから誹謗中傷。渋沢栄一も「鞄泥棒」て言われたんですよ、集めたお金をこうすると。盲天外も当然集めたお米を自分のものにするとか、誹謗中傷がひどかったんです。ですけど、森盲天外さんが青年教育に取り組んでいて、青年たちが何人かまずついてきた。そのうち、地主さんもついてきて、翌年からは複数の人で回るようになった。
【盲天外の知恵と交渉力】
もう考えてみたら小作保護というのは、全国で真正面から取り組んだのは、この明治三四年というのは、余土村が初めて。たぶん、よその地区でもなかなか手が付けられなかった。森盲天外さんが村長をやめてからでも、小作争議がほうぼうで起こっているとき、解決に来てくださいと、鳥取の大山かどこかにいったらしいんです。盲天外さんが言って何をしたかといったら、一週間、泊まり込んで、地主さんの言い分、小作人さんの言い分を十分聞いてあげて、で、自分の経験を話したと。だから、やりかたがすごいですよ。まず聞き取りをする、まず自分の論をぱっというんではなくて、両者の言い分を十分聞いて上で、その事情を把握して、その上で自分の体験談を話す。まあ、小憎らしいくらい。私だったらすぐこういっちゃうけど。私が盲天外さんをすごいところだと思いますよ。だから大正の小作争議をみたら、もっと早く手をうっておったらそんなこと起こらない、余土村の真似をしていたらそんなこと起こらなんだと思うのに、大きな騒動が起こりましたね。
【盲天外の精神・相互扶助 余土村は四〇年続いた】
だから余土村は盲天外から昭和二八年まで、四〇年近く続いたんですね。そんな村ないでしょうね。村長さんが変わったら、また村もまた変わるという風になる。だから、盲天外がつくった村づくりを、代々の村長さんも受け継いでいったのも立派だった。で、余土村民も、相互扶助、助け合いの精神もそれもずっと続いてましたから。私も余土村歌の「共同一致」というのは今でも忘れない、余土村歌に歌われていますから(2)。要するに助け合っていくと。



とても納得しました。貴重なお話をありがとうございました。
【註】
(1)春日園を経営されていた森健一さん、奥さんの森カネさん、三男やすしさんの奥さん・いせさんもいれて、遺族からの聞き取りがもとになっている。
(2)余土村歌・二番
「都の風に あこがれて 荒める人の 多き世に
共同一致 つつましく 倦まずたゆまず 献身の
努力は今や 現れて その名かがやく 余土の村」とある。


