『一粒米』は、失明の境涯に在る著者・森盲天外翁が口述されたものを筆録し、成稿された作品です。 自序に曰く、「書中の一字一字は、ほとんど苦心と困難の結晶にして、滴々の涙痕を残すものなり」とあり、また「前後の文章を繰り返して見ること能わざる悲しみの痕を留む」とも記されております。
本来、斯の如き作品は、原文のまま拝読し、その筆致に滲む痕跡を直に汲み取ることこそ、最も望ましき鑑賞の在り方です。 しかしながら、明治期の文語体は、現代の読者にとって理解の困難を伴う箇所も少なくありません。
本訳におきましては、原文の風韻を損なうことないよう細心の注意を払い、可能な限り削除を避けつつ訳出いたしました。 ただし、語彙の変遷や、仏教・儒教に基づく思想的背景の理解を要する部分につきましては、意訳をもって補いを試みております。
本資料が、盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。
※本稿においては、原文の思想的・文学的価値を損なうことなく、そのままの言葉遣いを尊重しつつ意訳を試みております。なお、本文中には現代の価値観に照らして不適切と受け取られかねない表現が含まれておりますが、これらは当時の社会的・文化的背景に根ざしたものであり、差別や偏見を助長する意図によるものでは決してございません。本稿の目的は、歴史的文脈における思想の真意を汲み取り、時代を超えてその精神的・哲学的意義を伝えることにあります。
意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
◆第四章 人生の最大目的◆
第1節 人の世とは何か
人生の最大目的を論じるための根本的な前提として、「人の世」と「宇宙」の関係性を明らかにする哲学的考察である。
筆者は、人の世と宇宙は見かけ上は別個のもののように見えるが、実体としては不可分の一体であると説く。地球は宇宙の一遊星であり、そこに生きる人間や動植物もまた宇宙の構成要素である。人間の生活は、衣食住をはじめ、熱、水、空気、動植物、国土など、宇宙的要素に依存して成り立っており、宇宙なしには人の世は成立しない。
したがって、「宇宙」と「人の世」は、視点の違いによって呼び分けられているにすぎず、実質的には同一の存在である。この認識を持たなければ、人生の最大目的や最大要務を理解することは困難である。人生の目的は「全一」であり、要務は「絶対」であるため、宇宙と人の世の一体性を認識することが不可欠である。
筆者は、宇宙と人の世の関係を俯瞰的に捉えることで、真の自己=真我の実現に至る道が開かれると結論づける。
人の世とはどのようなものを言うのでしょうか。
そもそもこの前提を与えなければ、進んで人生の諸問題を解決できないでしょう。宇宙なる語に対して、人の世なる語があります。
しかし宇宙と人の世とは、個々別々のごとくであってしかも、その実体は一つであることを知らなければなりません。宇宙と言うのは、宇宙そのものの見地からして、これを宇宙と言うのみです。広く眼を放って宇宙をみよ、無窮無限の大宇宙は私の宇宙です、宇宙の私です。独り私を宇宙の別体とすることができないのです。
だから私自身も宇宙の一部であることを知ることができるはずです。なぜならば私が住居する地球も、なお太陽系統内の一遊星ではありませんか。秩序ある統一の下に支配され、日々夜々回転し、三百六十五日を経て、太陽を一周している一遊星ではありませんか。それでは私たち人間が仰いで宇宙と称している天体そのものと、私の地球が同体なのではないでしょうか。燦爛たる遊星が宇宙のそれであるといえば、私が存在する地球もその一つなのです。だから地球上に寄生する私たち人類はもちろん、動植物の一切が皆、宇宙のものであることを知ることができるはずです。
これをもって見れば、我が地球も、天体も共に宇宙そのものであって、また人の世というものが存在しないわけです。結局、宇宙そのものの見地からして、そのように称するのです。翻ってこれを人の世の見地から見るときは、我が人の世は単独に私たち人類をもってのみ成り立っているものではありません。
試しに思ってください、私たち人間は人の世にあって生を遂げるには、衣服もなければなりません、食物もなければなりません、住居もなければなりません、これら衣食住を得て、生活の一方便としなければならないのですから、獣畜、魚介、草木、国土があって、初めて私たち人間生存の目的を達しているのです。
ただこれらのみではありません、熱もなければなりません、水もなければなりません、空気もなければならないのであって、したがって私たち人間が見て「宇宙」と称する一切のものがなくては、一日も生存することができないのです。それでは、人の世は単独に私たち人類のみをもって成り立っているのではありません。また我が地球と人とのみをもって成り立っているものでもありません。宇宙がなくては人の世というものは存在することができないのです。これをもって見れば、人の世というものは、人と土地とのみでなく、宇宙もまた人の世の組織の要素です。
だから別に宇宙が存在するわけがありません。人の世といえば、宇宙も自然にその中に存在して成り立っているのです。結局、人の世そのものの見地からして、このように言うのです。宇宙と言い人の世と言うのは、ただそれ宇宙という見地からしてこれを宇宙と言い、人生の見地からしてこれを人の世と言うのです。その名は二つであって個々のごとくであっても、その実においてはただ一つです。
人の世の組織がまさにこのようなることを認識しておかなければ、人生の最大目的も、人生の最大要務もまた理解困難に陥ろうとするのです。なぜならば、人生の最大目的は必ず全一のものでなければならないのです。人生の最大要務は必ず絶対でなければならないのです。
すでに全一であって絶対の一を得なければならないものとすれば、宇宙と人の世とそのものが異なっていてしかも一つであることを知得しておくのは、最も必要な案件でなければならないのです。
まして人生問題を解決するには、過去と、現在と、未来を通じて洞察するところがなくてはならないことにおいてはなおさらです。ただそれ人の世は宇宙を離れて、別個体のものと誤解すべきではないでしょう。
宇宙もまた人の世を離れて、別個体のものと誤解すべきではないでしょう。人の世を説けば、宇宙はその中にあり、宇宙を説けば人の世もまたその中にあります。ここにおいて初めて私は人の世を俯瞰して観じ、宇宙を俯瞰して観じて、自我の実現である真我を得るのではないでしょうか。
第2節 人の世は無常なり
人生の本質を「無常」という視点から捉え、変化こそが人間の生の根源であり、進化と向上の原動力であることを明らかにする哲学的考察です。
筆者は、人生を構成する一切の事物が常に変化し続けており、同一の状態にとどまるものは何一つないと説きます。自然界の現象——雲の流れ、太陽の燃焼、季節の移ろい——すべてが無常であり、人間の肉体や精神もまた、時とともに変化し、老い、死に向かっていく。無常は驚くべきことではなく、むしろ人の世の「常態」であり、そこにこそ生命の躍動と発展の可能性があると筆者は強調します。
無常であるがゆえに、人の世は停滞せず、活動し、進化し、向上する。もし変化がなければ、成長も繁殖もなく、生命は意味を失う。したがって、無常は人生の悲しみではなく、希望であり、趣味であり、安心立命の源である。
筆者は、無常を嘆いて厭世に陥る人々に対し、それは無常の本質を誤解しているからだと指摘します。無常を正しく理解すれば、人生の味わいと意味を深く知ることができ、死ではなく生の連続として人生を肯定できる。
この章は、仏教的な「諸行無常」の思想を土台にしながら、それを悲観ではなく肯定へと転換する力強い思想的宣言であり、人生の最大目的を語るための精神的な準備を整える章でもあります。
人生を組織している一切の事物は、千差万別であって、決して同一なるものはありません。同一でないがゆえに、また常態もないのです。時々刻々に変じてはまた変じ、化してはまた化して、ほとんど際限がありません。
およそ人生を時間的に見るならば、生滅もあり、老幼もあり、長短もある、これらの変異が時間をなして、そしてまた無限の延長をなしています。だから自然に常態がない理由です。試しに仰いで天空を望めば、青雲があり、白雲があり、霞があり、霧があって、あるいは止まるかと思えば動き、動くかと思えば消え、消えるかと思えばまた生じて、この一瞬を常態にすることができないのです。
太陽もまた日々その軌道を進んでいる、地球もまた共に動いているのですから、寸時たりとも、その位置において常態なしと言わなければなりません。また太陽が四方を照らして、日々変わることがないかのようですが、仔細にこれを言えば、その燃焼物は、時々刻々にこれを減じているのです。このように無窮無限であるという宇宙における現象が、なお変化が極まりないのですから、短い時間を有する私たち人類の一身において、どうして無事を得られるでしょう。今日の私は決して昨日の私ではありません、すでに一日を過ごせば一日を老いて、その死期に近づいています。またかつて明らかに物を見ることができた私の両眼も、立志という年齢に至って、たちまち明るさを失ったというがごとき、無常の甚だしいものではありませんか。
私たち人間の日々の眺めの底において、寒来暑往、花咲くかと思えば散り、葉を生ずるかと思えば落ち、風吹き雨降りて、ただ眺めの底の一瞬を、無常にせざるを得ません。これを人間社会の常態とするのです。
無常であるのがすなわち人間社会の常態です。すでにその常態であることを悟れば、無常も別に驚くに足りないのです。人間社会はそれ無常であればこそ、初めて人間社会の発展を得るわけではないでしょうか。
活動に活動を加え、変化に変化を重ねて、静止するところがなければこそ、進みつつあるのではないでしょうか。このような活動は、人間社会が生きる理由であって、また進むべき理由です。進化と言い向上と言うも、すなわち動いてまた動き、しばらくも停止することがない状態を言うのではないでしょうか。それでは人間社会は無常でなければならないのです、無常であるといって驚くには足りません。かえって無常は人間社会が常態であることを悟って、その生まれる理由、その進む理由を知らなければならないのです。変わっては変わり、化しては化すればこそ、人間社会は生きるものでしょう。
私たち人間は生まれて、そして哺乳時代のそのままに止まるものとすれば、実に困ったものです。また生まれてそして死することがないものとしても、また困ったものです。
あの一粒の米ももみ殻がもみ殻に止まって、繁殖しない、また食べられもしないものであったら、米が米である目出度いところはないのです。この理由から人間社会である理由は、無常であることに存在しなければなりません。無常でなければ、進化もない向上もない、ちょうど弦のない琴のそれと同じです、無常でなければならず、人間社会は無常でなければならないのではありませんか。世間ではしばしば無常を観じては、人間社会のはかなさを嘆き、厭世に陥るものが少なくありません、これは無常が何であるかを理解しないことに因るのです。
無常を悟って、その内に趣味があることを知らなければ、人間社会は到底理解できないことに終わるのです。このようなことに終わっては、人間社会もまた冷やかであって、死するより外ないのです。
世の人が厭世に陥るものは、結局、無常を見て、そして無常に終わるがためのみです。無常がすでに常態であることを悟れば、このような浅ましい考えも起こらないでしょう。
無常は世を停滞させません、かえって活動させるのです。よくこれを悟れば、人間社会の趣味が多いことを知って、安心立命を得るのです。これに至れば、無常はかえって無常ではありません、進化そのものと一つであって、向上を得る理由です。
第3節 人世の統一
この節「人世の統一」は、人生の根本的な安定と安心を得るためには、現象と実体の区別を明確に理解し、現象の背後にある不変の実体を認識することが不可欠であると説く、深い形而上学的考察です。
人生における失望や煩悶の多くは、変化し続ける現象を実体と誤認することに起因する。現象は仮有であり、夢や幻のように捉えどころがなく、常住不変ではない。その背後には、変化に左右されない「実体」が潜んでおり、それこそが人生の真の支えであると筆者は説きます。
この実体は、石や水、空気などの非生物にも内在しており、表面的には静止していても、内には自ら動く力を秘めている。また、死もまた仮有の現象にすぎず、たとえば一粒の米が砕かれ煮られて人間の生命となるように、実体は死を超えて生命を連続させる力を持っている。人間もまた、生者必滅という現象の背後に、常住不変の実体を有している。
この実体とは何か——筆者はそれを「魂」と呼び、人生の大秘密であり、すべてを支配する根源的な存在であると位置づけます。現象に惑わされず、実体を見極めることで、死もなく生もなく、常住不変の「大安心」を得ることができる。これこそが人生の統一であり、人の世の帰趣であると筆者は結論づけます。
この章は、仏教的な「色即是空」や「諸法無我」の思想とも響き合いながら、人生の不安定さを超えて、霊的な統一と安心を得るための思索を深める、極めて精神性の高い哲学的宣言です。
世実体と現象とは、よくこれを区別しなければなりません。
しかし、現象が存在するところには、必ず実体が存在すること、ちょうど物と影のごとくです。影があるところには、必ず物があるかのごとく、実体と現象は常に離れず、一つであってしかも二つでなければならないのです。これをもってしばしば、実体と現象とを誤るものがあるのです。
現象を見て実体であると認めるものがあるために、人間社会を失望し、煩悶するようになるのです。なぜならば、現象は元より仮の存在です、だから常住なくして変異が激しく、夢のごとく幻のごとくであって捕捉できないのです。
それだからこそ、現象を見て実体であると思う人がいたずらに無常を観じて、人間社会が頼りにならないと思い、さらに私たち人間が大安心を得ることができなくなるのは、結局、実体と現象との区別を明らかにして、実体の実在を認めないからです。仮の存在という現象に伴うところの実体は、その奥底に横たわる秘密であるから、単に現象を見て実体を認識できるものではありません。現象が仮の存在であることを知って、その秘密に立ち入らなければ、到底理解不可能に終わるのです。この秘密の実体は、そして常住不変であって、仮の存在という現象の道理に存在しています。
だから変異が激しい現象に接しても、実体さえ認識すれば、自然に常住不変の大安心を得るに至るのです。もしこれを認識せずに仮の存在を頼みにすれば、どうして失望がないことがあるでしょうか、落胆がないことがあるでしょうか。生物と非生物について、人はよく動き、鳥は飛ぶ、見て生があるものとします。
石はよく止まり、水はよく静まる、見て無生であるとするのです。
しかし、石ははたして生がないのか、水ははたして生がないのか。石もまた人のごとく自ら動くものではないでしょうか。石が高いところから低いところに落下してそして地上に静止するのは、石がよく自ら落下する力を失ったのではありません、地がこれを支えるからです。そうすれば、たとえ地上に静止するとも、自ら動く力は、なお依然として存在するではありませんか。水もよく流れ、よく動く、小波となり怒涛となって、よく奔流しています。その静かな時においても、それが自ら動くべき力を失ったのではありません、四辺がよくこれを支えるからです。
そうすれば、たとえ一所に静止するも、自ら動く力は、なお依然として存在するのではありませんか。
ただ石と水とには限りません、空気も、土塊も、その他のもの一切の非生物も、皆、人のごとく、鳥のごとく、自らよく動く力を持っています。この力は各個体が共通して持っているところのものであって、仮の存在という現象の中に潜むところのものです。生があれば必ず死ありといって、私たち人間は早晩来るべき死滅の時期を自覚しています。
しかしながら、生あるものははたして死滅してしまうものでしょうか。試しにあの一粒の米を見てください、それは粉に砕かれ、釜に煮られています。すでに砕かれ、煮られて食い尽くされたとすれば、あの一粒の米は、全く死滅したのでしょうか。すでに死滅したものとすれば、私たち人間の血液となり、栄養となり、生命となって、なおよく活動することができるのが疑問です。
死は虚無です。虚無なるものが、なおよく私たち人間の血液となり、栄養となり、生命となって、活動できる道理はありません。その砕かれ、煮られ、食べられて死滅してしまったと思うのは、仮の存在という現象であって、その実体に至っては、生もなく死もなく、永久であってかつ絶えることのない生命を有しているのです。
私たち人類といえどもなお同様です。生者必滅は、これは仮の存在という現象に過ぎません。実体そのものに至っては、無始以来常住不変であって、さらに生滅があることがないことを知ることができるはずです。
これによってこれを観れば、現象と実体とは、よくこれを区別して、現象が仮の存在であることを知り、実体はその奥底に横たわるところの秘密であって、万物がよく生まれる理由のものであることを知らなければなりません。これを知れば、すなわち死もなく、生もなく、常住不変の大安心を得て、まさに人間社会の目標を明らかにすることができるのではありませんか。
それならば、実体はそもそもどのようなものでしょうか。スピリチュアルと言い魂と言うものは、すなわち私たち人生の大秘密であり、実体です。そして人生の一切を支配して、一瞬も離れないところの実体です。これを人生の統一とします。
第4節 大自観
筆者は、魂は形も声もなく、目に見えず耳に聞こえないが、それは単なる空虚や無ではなく、確かな道理に基づいて存在する実体であると主張します。現象が存在するのは「生」があるからであり、「生」があるのは魂があるからである。したがって、魂の存在は否定できず、その認識は自己の内面に向かう「大自観」によってのみ可能であると説かれます。
天体の距離を測るには足元の位置を基準にするように、魂の実在を知るには自己の内側から出発しなければならない。梅の酸味や塩の辛味を他人の感覚で知ることはできず、自ら味わうことでしか理解できないように、魂もまた自己の体験と内観によってしか認識できない。
この内観が極まれば、過去・現在・未来、自他の区別を超えた「絶対の我」に至り、魂の全一性を悟ることができる。この「無我の境地」は、実は宇宙と一体となった「大我」であり、造化の秘密に触れる力そのものである。魂は分離された個ではなく、宇宙の一部であり、造化の分身である。
筆者は、極小の人間の身体と極大の宇宙が理学的にも一致すべきであると述べ、内観の極みに至れば、小と大の区別を超え、宇宙の大観心と合一することができると説きます。百尺の竿の先にさらに一歩を進めることで、竿を離れ、十方世界に遍満する「大虚の我」に至る。そこでは大小の区別もなく、魂の真の姿が現れる。
この章は、魂の認識を通じて人間存在の根源に迫る壮大な霊的探求であり、人生の実体を「大我」として捉え直すことで、宇宙との合一と安心立命を得る道を示しています。筆者の思想は、仏教的な「無我」や「遍満」の境地と響き合いながら、個の内面から宇宙の全体性へと至る精神的飛躍を描いています。
人間社会がすでに魂の統一に帰するものとすれば、魂はそもそもどのようなものであるかを定めなければなりません。そして認識しなければなりません。
しかし魂そのものは、形なく、声なく、これを捉えようとして捉えることができない、これを聞こうとして聞くことができません。ただ私たち人間の目でよく見、耳でよく聞くものは、仮の存在という現象に過ぎないから、どうしてその実体をよく捉え、よく聞くことができるでしょうか。形なく声なきものとすれば、すなわち空無であって、ついにこれを認識することができないのでしょうか。
そうです、形なき声なき空無であるには相違ありませんが、しかし空は空であっても、ぼんやりとした空ではありません、無は無であっても軽率な無ではありません、実体は必ずその道理に存在するのです。疑ってはいけません、そもそも現象が存在するのは、生があるからです。
すでに生があるのは、魂が存在する理由です。すでに魂が存在するものとすれば、どうしてその実在を認識できない理由があるでしょうか。それではどうしてこれを認識しようとするのか。天文学者が天体を測定するにあたっても、万億兆の距離は、これを自己の足下に求めるのでなければ、測り知ることができないではありませんか。
天空を仰いで、ただ太陽を見、月を見、あるいは一つの遊星を見るも、この距離を測るのに自己の足下を忘れては、求めることができないのです。これと等しく魂そのものの実在を認識しようと欲すれば、そもそもまた自己に向かってこれを求めなければなりません。そうです、自己自身の大自観によらなければならないのです。梅は酸っぱく、塩は辛い、一切の人が皆そうとするでしょう、しかし人が梅を酸いとし、塩を辛いとするも、私においてその人の酸いと、辛いとを知る方法はないことでしょう。ただ私が梅を食って、そしてその酸いを覚え、塩を嘗めて、そしてその辛いを覚える自覚が、人もまたこのように酸く、かつ辛いのであると思うほかはないのです。だから魂を外に向かって求めるとも、到底不可能でなければなりません、必ずこれを内に向かって自己に求めなければなりません。そうでなければ、実在を認識することはできないのです。
魂は形なく、声なく、目をもって見ることができず、耳をもって聞くことができなければ、すなわち空であり、無であると言うものは、非常にぼんやりしています、軽率です。
結局、自己に向かって求めないからです。ただ天空を仰いで、天体の距離を測ることができないのと同じです。梅や塩を見て、酸辛を知ることができないのと同じです。これをもって魂の実在を認識しようとすれば、必ず自己に向かって求めなければなりません。そうです、自観によらなければなりません、大自観によらなければなりません。私がもし魂そのものの大自観をなし得たならば、過去もなく、現在もなく、将来もなく、また自もなく、他もない絶対の我を認識できるでしょう。
ここにおいて初めて心霊が全一であることを認識できるでしょう。
そのような時に、私たち人間の内観は、宇宙と言わず人間社会と言わず、魂の全一に帰して、また我があることがない状態に至るのです。この無我の境地は、取りも直さず大なる我です。人生の実体と異ならない根底にある大我なのです。これをもって天地を呑み吐き、造化に肉薄する我となることができるのです。だから自観しなければなりません。大自観しなければなりません。自観して初めて魂を認識するのですから、我を自己に求めて、そして自分だけの我のみと誤認してはなりません。魂は全一であって、創造主の実体です。魂は元より一体の不可分であるから、我はすなわち創造主の子です。
分身です。その自観は人間社会統一の魂に帰するのです。
どうして自分だけの我であるに止まるでしょうか。それならば知ってください、私たち人間の大観心は、造化の秘密また人間社会の秘密を窺うことができて、力の力、生命の生命を得るに至るのであることを。極小と極大とは一つに帰するものです。
私たち人間の自分の体は小の小です。無窮の宇宙は大の大です。
だから自分の体の極限と、宇宙の極限は、共に一致すべきです。
これはまさに理学上そうあるべき道理ではありませんか。そうであるから、私たち人間が内に向かって自観すれば、まさに宇宙の大自観となり得るのでしょう。小の小の極、大の大の極というその極限に至っては、小を離れまた大を離れなければなりません。そうでなければ両端と両端とが相等しいことができないのです。その極限に至らないのは、なお大であるのみ、小であるのみです。
私たち人間が自観しようとするのは、その極限に至ろうことを求めるのです。その極限に至って自観したものは、すでに絶対の我となって、小を離れているのです、ここにおいて宇宙の大我と一致するのです。
百尺の竿の先端に一歩を進めては、すでに竿の先端を離れて竿があることを認めないのです。もし一歩を進めて竿の先端を離れなければ、なおこれは竿の先端の人であるのみです。竿の先端を離れずして、どうして一歩を進める余地があるでしょうか。よく竿の先端を離れなければなりません、離れればすなわち十方世界に全身を現して、大虚に遍満する我となることができるのですから、大もなく小もない境地となって、ようやく魂の大観心を得るに至るのです。
魂は必ずしも形なく、声なきものではありません。自観する人は必ずこれを見るでしょう、大自観する人は必ずこれを聞くでしょう。
第5節 人生と数理
この節「人生と数理」は、数の構造と哲理を通して、人生の本質と魂の統一性を照らし出す深遠な思索です。
筆者は、数が「一」から始まり「十百千万億兆」へと無限に展開するように、人生もまた無限に連続し、複雑な階層と変化を伴いながら円満に進化していくと説きます。数の根底には「一〜九」の基数が繰り返されており、これは人生の根源的な原理と一致している。
数の始まりと終わりには「零」があり、これは無始無終の象徴であり、数の統一原理であると同時に、人生における魂の象徴でもある。人間の生と死は、数の循環と同様に、零に帰して新たな生命を生む。零は数の万有であり、魂は人生の万有である。
さらに筆者は、数の表面的な個体(1, 2, 3…)は仮有の現象であり、その背後には「陰数」と呼ばれる対の数(1に対して9、2に対して8など)が潜んでいると述べます。この陰数との関係によって、数は円満な実体を保ち、人生もまた肉体と魂の統合によって円満な存在となる。
このように、数理の構造は人生の霊的構造を映し出しており、数の陰陽、始終、階層、円満といった概念は、人生の生死、変化、統一、進化と響き合う。筆者は数理の中に宇宙的秩序と人間存在の意味を見出し、魂の全一性と人生の無限性を証明する手段として数理を用いている。
この章は、数という抽象的な体系を通じて、人生の霊的構造と魂の普遍性を解き明かす、壮大な哲学的試みである。
およそ数が一に始まって、十百千万億兆と、無限無窮であるかのごとく、人生もまた無限無窮なのです。人生が複雑な万物をもって組織され、その間に多くの階級があって、離合集散が常でないにもかかわらず、そしてもよく生命の連続をなして極まりがないかのごとく、数そのものもまた階級があって、離合集散が常でなくして、そしても生命の連続を無窮にしているのです。
一から九に至る基数は、数の一つの階級であって、十百千万億と限りない数も、要するに一から十の基数を繰り返しては繰り返し、積み重ねるに過ぎないのです。だから数の組織が、すでに人間社会のそれと等しくて、千差万別の数の個体は、階級に階級を重ね、生命を連続して、波形のごとく進んではまた進み、無窮無限の大円満を成しつつあるのです。
すでに無窮無限の数は、一から九に至る基数を繰り返して相積み相重ねるものとすれば、この基数は数の一つの小さな生涯であるに相違ありません。まず試しにこの生涯について言えば、一は数の始めです。九はすなわちその終わりです、一の始めを極めれば、無垢の零(ゼロ)というものを認めるのです。
また終わりである九を極めれば、十となって、上位の一を生ずるもすでにその位置において零となります。よって始終の両端は、零のそれに一致して、円満不二の実体を示しているのです。これを人生の私の一個体に比してみると、私はそもそもどのようなところから来たのだろうかという無始の実体と、私は死してそしてどのようなところに帰するのだろうかという無終の実体と、過去と未来との実体を、数そのものの零というもので、よく証明しているのです。
いわゆる魂がどのようなものであるかを証明しているのです。それでは私たち人間が、生死が一つに帰して、生命の連続をなし無窮無限であるそれと異ならないのと同じように、基数そのものの生涯が、九に終わって零に帰するかのごとく、その零に帰すると同時に、一階級上位である一の数を生じて、生命の連続をなしているのです。だから零は際限ない数個体を、統一するところの魂であることを知らなければなりません。これを知ると同時に、また人生の魂というものが際限ない数を統一する零のごとく人生を統一するものであることを知らなければならないのです。
すでに無始無終の零が一体不可分であって、人生統一の魂そのものと異ならないとすれば、一と言い二と言う数個体の道理に、零というものもまたよく実在するでしょうか。この点においてはたして零は万有なのでしょうか。もし数個体の道理に実在する万有でなければ、魂そのものが全一であるのと異ならざるを得ないのです。よくこれを説明しなければなりません。
一と言い二と言う個体は現象です。仮の存在です。それゆえに数そのものの道理に潜んでいる大秘密を捉えてくるのでなければ、その実体を認識することはできないのです。
一という現象は絶対の一ではなくて、相対の一でなければなりません。もし一が絶対であるとすれば、数というものの計算をなすべき必要がないのです。これは一が絶対でないということを証拠立てている理由です。したがってまた仮の存在という現象であることを、証拠立てているのです。
これと等しく二もまた絶対ではなくて、相対でなければならないのです。三も、四も、五もあるいは十、百、千、億の数すべてが、皆そうでなければならないのです。それでは数個体のその内面に潜んでいる大秘密は、そもそも何でしょうか。
この秘密を捉えなければ、数そのものの実体を認めることができません。結局、数個体は現象であって、仮の存在だからです。だから数個体のここに潜める大秘密に接触しなければなりません、人の心身相互の関係のごとく、相互に離れるべきものではないから、その秘密は数個体の現象と、相互に離れるべきではない関係があるのです。それならば、数個体の内面に潜んでいる数は何でしょうか。この数を称して、陰数といいます。一に対して九、二に対して八、三に対して七、四に対して六、五に対して五というがごときです。この陰数は現象の個体に、必ず潜んでいるところの数であって、物と影のごとく、離れないものです。なぜならば、数そのものの現象は、円満に生じて円満に終わろうとしているので、決して仮の存在が絶対なのではなく、内に必ず相対の数を潜めて、初めて円満の実体を保っているので、人が肉体と精神とをもって、円満の実体を保っているのと同様です。
精神なき人は、すでに人ではありません。
円満ではありません、土偶です、木像であるのと同じく、数そのものがこのように円満な実体を保てばこそ、仮の存在という現象でも円転滑脱の妙用をなしているのです。これをもって現象の数に必ず陰数が伴っています。そしてその現象の数と陰数とは、常に円満な実体を保っています。すなわち一に対して九は内に潜んで、一と九と離れない、その離れないところがすなわち円満な実体です。一と九との和は十となるのです、十はすでに言うがごとく円満の大極で、心霊の全一であるそれではありませんか。また二に対して八という数が潜んで、円満の実体を保っています。二と八との和はすなわち十という円満の実体であって、心霊の全一であるそれです。三に対する七、四に対する六、五に対する五、皆これと同様であって、いわゆる円満の実体は、常に数個体の現象そのものに存在しているのです。
ここにおいて初めて数の実体が円満な零そのものであって、零は数一切の万有であることを知ることができるでしょう。
第6節 天真の面目(本来の真の姿)
筆者は、人間の本質である魂(天真の面目)は、宇宙と人世の内外に遍満し、常に存在していると説く。しかしその姿は形も声もなく、容易に捉えることはできない。真我を悟るには、深い内観「大観心」によって、理を超えた力と覚悟をもって臨まなければならない。
この不可視の魂の実在を証明するために、筆者は数学上の「零」に着目する。零は数の始まりであり終わりであり、無垢でありながら円満の極でもある。零は他の数と関わりながらも変化せず、常にその本質を保ち続ける。これは魂の常住不変性と一致しており、零の性質を深く理解することで、魂の実在を認識することができる。
零は「無」でありながら「断無」ではなく、無限の数を生み出す根源的な力を持つ。このように、零の妙用は魂の働きと重なり、人生の無常や変化の中でも失望せず、安心立命を得る鍵となる。
筆者は、花咲き鳥囀る一瞬の眺望にも天真が宿るとし、日常のすべてが魂の顕れであると語る。真我を悟れば、万物が燦爛と光を放ち、人生は無限の光明に包まれる。魂の実在を認めることこそが、人世の真価を知り、力の力、生命の生命を得る道であると結論づける。
人間社会と言わず、宇宙と言わず、その内外に遍く満ちて、しばらくも離れることのないものは、すなわち魂そのものです。私たち人間もまた常にこの性質を持っていて、決して離れることがないのです。
それゆえにこの本来持っている性質を捉えてくれば、自然に本来の真の姿(天真の面目)を悟り終えるのです。それゆえに一大観心をなして、この面目を悟り終えなければならないというのです。しかし、本来の真の姿である真我(天真の面目)は、空であるかのごとく、無であるかのごとくであって、これを捉えようとして簡単に得られるものではありません。
またこれを言おうと欲しても簡単に言えるものではありません。ほとんど手を近づけることができず、ほとんど親しく窺うことができない深いところのものです。それゆえに本来の真の姿である真我(天真の面目)を悟り終えるには、大観心という理を超えた絶大の理をもって、力を超えた絶大の力をもってしなければなりません。
実に天地を打ち破る勢いをもってしなければなりません。そして初めて悟りを得るのです。悟りを得た人はぼんやりと終わってはなりません。軽率に終わってはなりません。
もし証拠するところがなければ、かえってまだ悟っていない人です。得たと思うのはただこれ一睡の夢に過ぎず、早くもすでに失い去るのです。これをもってこれを証拠することは、古来非常に難しいとされてきました。私にどのようにこれを説かせようか、また後日どのように人に示そうかなどと、古人が恨みを呑んでいる理由です。月に対して我が心の清らかさを思い、山の景色を見て清静の身を覚る、この時の境地もまた説き難く、示し難いとは、寒山も、東坡も、共に悶え苦しんでいるところです。まして未だ悟らない人においてはなおさらです。それでは、真我(天真)を悟り終えても、その境地は説くことができないのでしょうか。示すことができないのでしょうか。
肉体の上に一つの無為の真人があり、常にあなたの顔から出入りする、もし証拠しない者は看よ観よと叫んでいます。空であり無であると言うとはいえ、真我(天真)は常住であって、決して減るものではありません。
私の呼吸に従って出入りし、私の視線に従って映し出されているのです。
得てそしてこれを証拠しなければ、一大観心もまた無駄な労力に属するのです。数学上の零(ゼロ)は、すなわち本来の真の姿である真我(天真の面目)そのものを証明しているのではないでしょうか。
零はまだ起こらない無垢の実体であって、また数の円満に達した大極ともなっているのです。この理由から零は心霊そのもののように不可分であって、千差万別な数そのものの個体に実在して、しばらくも滅しないところのものです。ただそれが顕在と潜在とがあって、顕在となっては、零の本質を実現し、潜在となっては、数個体のその内に隠れるのです。それゆえに顕在となる場合は、人がよく零があることを知るけれども、潜在となる場合は、数個体に隠れるために、人がよくこれを知りません。このようになるのは、まだ零が零である理由を知らない人です。
現象の数がその内に陰数を蔵して、常に円満な実体を保っています。
すなわちここに零の零たる実体を保って、一瞬も離れないことを知ることができるのではないでしょうか。顕在というも潜在というも、その実体を捉えてくるならば不二(一つ)なのです。顕在に居ては潜在に居り、潜在に居ては顕在に居る人でなければなりません。これと同じく零が零である実体を捉えてくれば、万億兆の数も皆不二です。零に居ては万億兆の数を思い、万億兆の数に居ては零を思わなければなりません。このようでなければ、二と二とを合わせて四となることが、動かない数理であることを知ることができないのです。したがって自我を実現する人となることができないのです。だから零は数学上の万有であって、心霊そのものに異ならないのです。これをもって実に数個体が、自我を実現できるのです。
試しに思ってください、零にどのような数を加え、どのような数を減じ、どのような数を乗じ、また除しても、零の能動的本質は常に零であって、これによって増減があることはありません。またどのような数に零を加え、また減じ、乗じ、除しても、受動的な数は依然として増減があるものではありません。能動的にも受動的にも、このようにその本質を変えないのが、すなわち零が零である理由であって、初めて知ることができます、零の実体がいかに無窮無限の大であり、いかに無窮無限の小であるかを。
その大といい小というも、共に絶大の大です。絶大の小です。それでは零はよく億々兆々無窮の数を入れ、また最小単位に隠れて変わらないのです。結局、始めなく終わりなき心霊の実体と異ならないからです。だから本来の真の姿である真我(天真の面目)はどのようなものであるか、得てこれを説き、これを示すことができないかのようですが、数学上の零そのものを究めれば、本来の真の姿である真我(天真の面目)もまたこれを説き、これを示すことができるのではないでしょうか。
零は無です、無であっても断無(絶対的な無)の無ではありません。
数学上、零というものは必ず実在でなければならないのです。いわゆるゼロとナッシング(何もないこと)とは異なっているのです。もしゼロがナッシングのように断無の無であったならば、数というものの展開をすることができないのです。零が一を生じ、進んで十の円満に至っては、また零に帰して上位の一を生むのです。このようにして生じては進み、進んではまた生じて、際限なく数の展開が自在に得られるのは、おそらく零の妙用であって、その実在する理由です。だから本来の真の姿である真我(天真)そのものに至っても、ただ空無であると言うべきではありません。そうでなければ人間社会の真価もない、向上もない、非常に冷やかな人間社会となり終わってしまうのです。ただよく本来の真の姿である真我天真の実在を認めなければなりません、これを認めないで内観も何もあったものではありません、これを認めるのがすなわち証拠するのです。人間社会が生きる理由を知るのです。
このように零というものが、よく実在して数の実体となり、百千万億と無数の現象をなして、あるいは現れ、あるいは隠れ、あるいは広がり、あるいは狭まり、出没自在で妙用が至らないところがないのは、零が零であるところで、また本来の真の姿である真我(天真の面目)そのものです。花咲き鳥囀る眺めの底の一瞬が、皆この本来の真の姿である真我でないものはありません。常住不変であって生なき死なきの奇跡です。人間社会が生きる理由のものが全くここに存在します、これを力の力、生命の生命というのです。
もしこの力を得た私となることができれば、時が移り事が変わり、人間社会の無常に接しても、決して失望もなく落胆もないのです。だから安心立命を得るのです。よくこれを悟り終えなければなりません。一旦悟り終えれば、万事万物が燦爛として無限の光明を放つに至るのです。
第7節 人世の最大目的はどこにあるか
この節は、筆者が人生の苦悩と迷いを経て、一粒の米の光明に導かれながら、人世の本質的な目的を「徳」に見出していく過程を描いた、深い精神的・哲学的探究です。筆者は人生の波乱に翻弄され、失望と煩悶の果てに人世を厭うようになったが、一粒の米の象徴的な光明によって暗闇を照らされ、人世に趣味あることを悟る。しかしなお、「何のために生まれ、何を目的に生きるのか」という人生の最大目的は明らかでなかった。
この問いに答えるには、人世を創造した存在——すなわち「創造主」や「神」に接触する必要があると筆者は考える。そしてその接触は、人間の深い内観「大観心」によってのみ可能であり、そこにおいて神の言葉、造化の声を聴く境地が開かれる。
筆者は明治天皇の勅語「国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり」に触れ、皇祖皇宗が国家を築いた目的が「徳」であることを悟る。これは天皇陛下が一大内観を通じて皇祖皇宗の心境に接し、天真の面目を覚り了された結果として示されたものであり、筆者はこの言葉に人生の最大目的の答えを見出す。
「徳」は魂の功であり、万象の用であり、絶対の善・絶対の功である。魂そのものや万象を人生の目的とすることは、空無や皮相に陥る危険があるが、「徳」はそれらを統合し、人生の進化と向上の帰趣を明らかにする力を持つ。
筆者は、倫理学的な狭義の徳ではなく、魂の実体と一体であり、行わずとも具足し、施さずとも功を成す「絶対の徳」を人生の最大目的と位置づける。国家の構成要素——国土と人——すべてがこの徳を目的として存在しており、河川や山々、草木や虫類までもが皇祖皇宗の実相として徳を体現している。
結局、人生の最大目的は「徳」にあり、それは人間の内観によって造化と接し、魂の本質を悟ることで明らかになる。徳は人世の自然の進化と向上の中に遍在し、人生の真価と安心立命の源であると筆者は確信する。
この章は、個人の精神的覚醒から国家的・宇宙的秩序へと視野を広げ、人生の目的を「徳」という霊的原理に統合する壮麗な思想の結晶です。
私は人間社会の波乱に巻き込まれて、あるいは沈み、あるいは浮いては、ほとんど人間社会は予測できないものだと思い、そして失望し煩悶し、ついに人間社会を厭うようになりました。
しかし一粒の米が放つ光明によって、初めて私の暗闇を照らされました。ここにおいて人間社会に趣味があることを悟ることができましたが、なお私は人間社会の最大目的を明らかにして、私は何のために生まれたのか、何を目的に生きるのかを究めることができなかったのです。進化と言い、向上と言う場合も、はたしてこの最大目的に向かって進化し向上していくものでなければ、これを進化とも言うことができないでしょうし、向上とも言うことができないでしょう。むしろ退化となるかもしれません、下降となるかもしれません。生きて私が存在する以上は、よくこの最大目的を明らかにするのでなければ、その拠り所を知らないわけです。
それならば、人生の最大目的は何でしょうか。こ
れを知ろうとすれば、そもそも人間社会を創造したものに問わなければ、知ることができないのでしょうか。そうです、造化か、神か、ともかくも人間社会を創造したその者に頼らなければ、明確に知ることはできないのです。だから造化に接触し、神に遭遇して、初めてこれを知ることができるでしょう。ここにおいて私たち人間の一大観心が明確な認識を得なければなりません。
これはすなわち創造主に接触し、神に遭遇する境地です。この境地を得て、人間社会の最大目的ははたしてどのようなものであるか、これを具体的にどのように認識できたでしょうか。造化の声、神の言葉はどのようにしてこれを聞くことができるでしょうか。明治二十三年十月三十日の勅語に「朕惟うに、我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり(私が思うに、我が皇祖皇宗は、国を創始されることが広大で遠大であり、徳を立てられることが深く厚い)」と仰せになっています。
私は勅語を拝読して、開巻第一にこのお言葉があるに至って、人間社会の最大目的がどのようなものであるかを知ろうと思うのです。畏れ多くも皇祖皇宗が国を創始されたのは、徳を立てることを最大目的とされるものであることが知ることができるでしょう。だから徳は、すなわち皇祖皇宗が国を創始される目的であって、皇祖皇宗はすなわち国を創始された神々です。神の御心、神のお言葉は、徳を最大目的とされることを明らかにされているのです。しかし、これは神聖なる我が天皇陛下が、虚心をもって一大御内観をなされた境地です。皇祖皇宗の御心を得られた心境です。この境地によってこの心境を具体的にお示しになられたものです。現に「朕惟うに」と仰せになることによって、御自身の観察によるものであることを推察すべきでしょう。
それでは陛下の御内観が、皇祖皇宗に接触なさって、この神聖なる言葉となったのです。私たち人間で臣民である者もまた何をためらうことがあるでしょう。だから私は確信するのです、人間社会の最大目的は、徳そのものに存在するものであることを。たとえ私たち人間が大観心をなして、明確な実体の認識を得たとしても、これを具体的に言い表すことができなければ、人生の最大目的を知ることができたとすることはできないでしょう。思うに魂の実体は、体と相と用との区別をすることができるのです。すなわち魂は実体であって、万象は実相です、徳はその功用です。しかし、万象も徳も皆、魂の実体を離れないものであって、これを区別するけれども究めればすなわち一つなのです
。しかし、人生の最大目的を決定するにあたり、実体そのものをその目的とすれば、魂そのものは円満な実体であって、無差別の境地であるから、自然に空無に陥る弊害があって、かえって人生の目的を誤らせることが多いのです。また万象を人生の最大目的とすれば、万象は千差万別であるだけでなく、生滅が予測できないものがあるから、自然に表面的な見方に陥り、人を失望落胆させるようになるのです。これをもって二者ともに人生の目的を誤らせることが多いのです。
徳は魂の功、万象の用であるから、絶対の善、絶対の功です。
これを目的として初めて人間社会の進化、人間社会の向上も、その帰着するところを明らかにすべきでしょう。徳といっても倫理学派の浅薄な徳ではありません、徳そのものを究めれば、魂そのものの実体と一つであって変わることがないものです。我が天皇陛下が勅語によって、この目標を明らかにされたことは、そもそも偶然ではありません。深くこれを味わわなければならないことでしょう。さらに進んで勅語の御趣旨を詳しく説明しておかなければなりません。
倫理学者は徳を狭義に解釈して、徳なるものは人倫の上にのみ存在するものとしています。勅語に仰せられた徳はこのような狭義のものではないと思うのです。なぜならば、一大御内観による皇祖皇宗の心境だからです。魂そのものの働きだからです。明らかに勅語の文句によって証明することができるでしょう。「我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり」と仰せられているではありませんか。それでは皇祖皇宗の古今変わらない実体は、どのあたりに存在するのでしょうか。
統治される国のことごとくに、天地とともに永遠に鎮座されては、すなわち国家という実相を体現されているのです。それゆえに河も、山も、草も、木も一切すべて、皇祖皇宗の実相であることを知らなければなりません。そしてその国家が日々眺める中で発展し、推移するところに、功徳は存在しているのです。だから徳なるものは、決して倫理学派が言うところの狭義の徳ではないことを知らなければなりません。さらに詳しく言えば、皇祖皇宗が国家を創られる目的は徳であるから、国家そのものも一切がまたこれをその目的としているのでなくてはなりません。なぜならば、国家は人の身だけで単純に組織されるものではないからです。
国家の要素は国土と人とによって組織されているのです。図をもって説明すれば国家…国土と人
国土…山川、河海、草木、禽獣、虫などの一切
人…主権者と臣民
臣民…老幼、男女、貧富
国家の組織はこのようなものであるから、国とはすなわち国家の意味であって、独り私たち人間の臣民のみを仰せられるものでないことは明らかです。また国を創始するのに徳を立てることを目的とされるのであるから、したがって徳なるものも、また倫理学派が言うところの狭義の徳でないことを、記憶しておかなければならないことです。
ここにおいて人生の最大目的は、徳に存在するものであることを知ることができるでしょう。結局、陛下が一大御自観をなされて、天真の面目を悟り終えられたお心境を具体的に示されたものに外ならないのです。
だから徳そのものは狭義の徳ではなく、まだ行わないのにこれを備え、まだ施さないのにその功を成就している『根底の徳』です。
そうでなければ、人生の最大目的とする価値があるものではありません。これをもって勅語はさらによくこの意義を証明されているのです。まして人間社会の自然が、私たち人間の眺める中で進化し、向上して、その目標を明らかにしているものであることにおいてはなおさらです。
第8節 明德が最も尊い
人生の最大目的を「明徳」に見出し、それが国家の根本、魂の働き、そして宇宙的秩序と一致する絶対的原理であることを、勅語の言葉を通じて深く考察した章です。
筆者は、明治天皇の勅語にある「億兆心を一にして…」という言葉に、皇祖皇宗の御一心と国家の統一、そして人世の最大目的の「一」が示されていると読み解く。この「一」は忠や孝といった人倫の徳目に限らず、すべての徳の根源である「明徳」を指す。明徳は皇祖皇宗の御心であり、国体の精華であり、教育の淵源でもある。
明徳は円満なる実体であり、時空を超えて常に一であり続ける。それは魂の働きそのものであり、進化や向上の根本原理でもある。進化向上が自然の大法であるならば、その帰趣を明らかにするためには、明徳の一なる所以を究めなければならない。さもなければ進化は空論に終わり、向上は退歩に転じる。
人世の円満は人間だけでなく、万物すべての自然的・霊的な希望であり、造化の意志でもある。明徳を理解し、求めることは、天に従い、栄を得る道であり、神の希望に応える行為である。明徳を信じ、実践することで、造化と神を超えて、自我の実現に至る。これこそが人世の円満の所以であり、人生の最大目的である。
勅語にある「咸その徳を一にせんことを庶幾う」という言葉は、すべての臣民がこの明徳に帰一することを願うものであり、筆者はこの聖意に深く共鳴し、人生の根本的な指針として明徳の尊さを確信する。
この章は、国家・自然・人間・魂のすべてを貫く「明徳」という霊的原理を中心に据え、人生の目的と進化の方向性を明確に定める、壮麗な思想の頂点です。
さらにまた勅語に「我が臣民は、よく忠義を尽くし、よく孝行を尽くし、億兆の民が心を一つにして、代々その美徳を成し遂げてきたのは、これが我が国体の精華であり、教育の源泉もまた実にここに存在する」とあって、億兆の民がその心を一つにして、有史以来代々その美徳を成してきたというのは、千古不変の一つの心を説かれたものでしょう。すなわち皇祖皇宗の御一心が、国家全体のものであることを説かれたものでしょう。
さらに進んで言えば、人間社会の最大目的である「その一」を説かれたのでしょう。それでは、その「一」とは何を言うのでしょうか。
忠でしょうか、孝でしょうか。「よく忠に、よく孝に」と仰せられるのは、ただ人倫の大きな綱領を挙げて示されたのです。上は君主に対するのを忠といい、下は父母に対するのを孝といいます。これを人倫の大綱とするのです。兄弟の友愛、夫婦の和合、その他一切すべてもその徳にあるのです。
だから「一」とはただ忠孝それだけを言うのではありません。忠も徳であり、孝も徳であり、その他一切すべてが徳です。徳は一つであるのみです。そもそも明徳は、皇祖皇宗が国家を創始された、その御一心なのです。だから我が国体の精華であり、教育の源泉なのです。勅語を拝読する者は、謹んで深く聖意の存在するところを推し量り奉って、「一」が「一」たる理由を明らかにしなければならないことです。
人間社会がよく活動して、進化し向上しては、明徳の一大円満を成就しているのです。明徳は円満な実体であって、常に一つのものであるから、自然に現象世界の道理に存在して、決して物を離れることはないのです。場所と場所が異なって背くこともなければ、時代と時代が異なって変わることもないのです。
魂の実体がまた全体として一つであるように、明徳がどのようなものであるかを究めれば、全体として一つに帰しているのです。結局、明徳は魂の働きなのですから、帰するところは一つでなければならないのです。それゆえに常に円満を備えています。これをもって勅語にも「これを古今に通じて誤らず、これを中外に施して悖らず(これは古今を通じて誤ることがなく、これを国の内外に行っても道理に背くことがない)」と仰せられているのです。これは明徳が一つの「一」たる理由です。このように明徳が一つであって、円満に備わった本質であるからこそ、進化の天の法則も、向上の天の法則も初めて実行されるのです。進化・向上は自然の大法則であるとはいえ、その進化し向上しようとするには、どのような目標に向かって進化し向上すべきでしょうか。
その目標を明らかにしなければ、大海に船を浮かべて、その到達すべき彼岸が、どの地点であるかを定めないのと同じです。だから明徳という目標を明らかにして、ますます進化し、ますます向上し、進んでは進み、上っては上り、無限無窮の性格を作らなければなりません。
進化を説き、向上を説いて、ただそれが宇宙の大法則であると言うだけに止まっては、なお絵に描いた餅に等しいのではありませんか。私たち人間を満足させることができません。ここにおいて人生の最大目的を理解し、自然の大法則に従って、進化・向上しなければなりません。そしてよく人間社会を円満にしなければなりません。
この理由から、明徳が一つであることを知って、人間社会の最大目的を明らかにしなければ、進化と言い、向上と言っても、かえって退歩となり、下降となるに至るでしょう。よく明徳が一つである理由を究めるべきではありませんか。人間社会が円満であることは、私たち人間と物との区別なく、万物一切が自然の希望です。
また創造主(天地創造の働き)の希望です。すでにこの希望を満たそうとするならば、円満に備わった明徳を知らなければなりません。それゆえに明徳はまた万物自然の希望であって、創造主の希望です。天に従う者は栄え、天に逆らう者は滅びます。万物自然の希望に背き、また造化の希望に背いて、どうして私たち人間は永久の事業を得ることができるでしょうか。明徳をよく理解し、明徳をよく求める者は、すなわち栄えを求める道です。よく明徳を求めなければなりません。これは必ず万物自然の希望です。創造主の希望です。神の希望です。これを信じてこれを実行しなさい。
創造主は私たちの目の前にあるのです。これに至れば創造主もなく、神もなく、自我の実現を得るに至るのです。これはすなわちその明徳が一つである理由であり、また人間社会が円満である理由です。これをもって勅語に「朕は爾臣民と共に拳拳服膺して、咸その徳を一にせんことを庶幾う(私は汝ら臣民とともに心に銘記して、皆がその徳を一つにすることを切に願う)」と仰せになる理由です。
◆第5章 人の世の最大要務◆
第1節 実践方法
この節は、人生の最大目的が「明徳」であるとするならば、それを実現するための具体的な手段=実践方法が不可欠であると説く、修養と行動の哲学的考察です。
筆者は、人生の目的を「明徳」と定めるだけでは不十分であり、それを実現するための具体的な実践方法を知らなければ、目的は空論に終わると強調する。進化や向上は自然の法則であるが、それを人間の生涯において確実に成就するには、意識的な努力と方法が必要である。
例として、アメリカ合衆国に到達するには地図を見て目的地を知るだけでなく、実際に行動し、船に乗って渡航しなければならないように、人生の目的も知るだけでは足りず、実践を伴わなければ意味がない。目的地を知っても行動しなければ、なお自宅に留まっているのと同じである。
また、楠正成と足利尊氏の例を挙げ、両者が「覚了」した人物でありながら、正邪が分かれたのは、実践方法の有無によると論じる。悟りを得ても実践方法を誤れば、かえって邪に陥る危険がある。ゆえに、悟りと実践は不可分であり、真に価値ある人生を築くには、明徳に向かう具体的な行動指針が必要である。
筆者は、人生の最大目的を知った者こそ、その目的に向かって歩むための方法を研究し、日々の行動に落とし込まなければならないと説く。これを怠れば、悟りも空しく、人生は退化や向下に陥る可能性がある。実践こそが人生の価値を決定する鍵である。
この章は、明治期の修養思想を背景に、目的と手段の一致、知と行の統合を強く訴える内容です。
私たち人間は、一度この世に生まれて、その死に至るまでの生涯において、いったい何をなすべきなのでしょうか。いや、何をしなければならないのでしょうか。
すでに人生の最大の目的は、明徳そのものであるとしても、その明徳を得るための手段や方法を知らなければならないことでしょう。その手段や方法は、私たち人間が生まれて死ぬまでの間に、何をしなければならないのかという問題に答えを与えるものでしょう。そして私たち人間を進化させ、向上させて、円満な明徳を成就させるものでしょう。だからこの手段や方法を、人間社会における一大実践方法と呼ぶべきものであって、最大の目的を成就する方法なのです。進化と言い、向上と言っても、それは自然の大きな法則であることに違いありませんが、どのようにすれば進化となり、向上となり得るのでしょうか。ただ進化・向上は自然の大法則であると言って、あえて実践方法を求めず、これを成り行き任せに放任して、はたして人間社会の最大目的を成就できるでしょうか。
ときどき進化ではなく、退化となる者がいます。向上ではなく下降となる者がいます。
結局、進化・向上の大法則を自然に任せて、手段や方法という方便を明らかにしないことによるものです。だから私たち人間は、人間社会の最大目的を理解すると同時に、どのようにしてこの目的を成就できるのかという実践方法を研究しなければなりません。この大きな実践方法さえ研究できたならば、私たち人間は生まれてから死ぬまでに、いったい何をしなければならないのかという重要な課題を解決できるのです。ある人が、アメリカ合衆国に行こうとする際に、まず地図を開いてこれを見れば、西半球に南北の二大陸があり、北を北アメリカといい、南を南アメリカといいます。私が行こうとする合衆国は、その北アメリカの中央部に存在することを知ることができるでしょう。
すでにその目的地がどのような位置にあるかを知ることができたからといって、その人は合衆国に行こうとする目的を達成したと言うことができるでしょうか。ただこれは机上の空論に過ぎないのではありませんか。その目的である合衆国に到着するには、その身を起こし、家を出て、船に乗り、太平洋を横断して、その地に到着するべき実践方法を実行しなければ、どうしてその目的を達成したと言うことができるでしょうか。たとえ人生の最大目的を明確に理解したとしても、これをもってその目的を成就したとするものではありません。その目的に向かって一致すべき実践方法を選ばなければなりません。
そして私たち人間が一つ一つの行動、行住坐臥(日常の立ち居振る舞い)すべてにおいて、この実践方法に適合し、円満な目的を成就することに努めなければならないのです。あの地図を開いて、合衆国に行こうとする者が、合衆国がどのような位置にあるかを知り、そして後に家を出て、海を渡って、その地に到着するのと同じです。もしこの順序に従わず、実践方法によらず地図を見ただけで、すでにその目的を達成したと言うことができるでしょうか。その身はなお家にあって、目に触れるところのものは皆、我が国の山川であって、合衆国の山川でないことが分かるではありませんか。この理由から、人生の最大目的を理解したとしても、実践方法を知らなければ、その人はすなわち一つの空論に陥って、まだ悟っていない愚か者と同じなのです。聞いたことがありませんか。
建武の昔、楠木正成は、忠勤に励んであの逆賊・足利尊氏と戦い、ついに国難に殉じました。正成と尊氏は、一方は正義、一方は邪悪であって、天と地ほどの相容れない隔たりがあるのです。しかるに正成も禅に参じて、悟りを開いた人であると、尊氏もまた同様であると、二人とも悟りを開いた人とされています。そ
れなのにこのように正邪を異にし、天地ほどの隔たりがあるのは、そもそも何のためでしょうか。
一方は悟って実践方法を得て、一方は悟っても実践方法を得なかったことによるものではないでしょうか。実践方法の大道を得なければ、かえって邪悪をなすに至るのです。
だから悟っても実践方法を得ない者を「断無の外道」といいます。
実に恐ろしいことです。それゆえに人生の最大目的を成就すべき実践方法の研究をしなければなりません。この研究をして、そしてこれを実行して、初めて人生に価値があると言わなければならないのです。
第2節 差別と無差別
この節「差別と無差別」は、徳の本質が無差別である一方で、現象世界の秩序と円満を実現するためには、差別(区別)を明確に認識しなければならないという、深い哲学的洞察を展開しています。
筆者は、徳が本質的に一であり無差別であるとしながらも、人間社会は千差万別の現象に満ちており、円満な秩序を築くには差別(区別)が不可欠であると説く。天と地、有と無、長と短など、対立と相違があるからこそ秩序が生まれ、系統が整う。差別を明らかにすることは、真の無差別(普遍性)を実現するための道である。
人と馬の例を挙げ、両者の本質は徳において一致しているが、現象的には明確な違いがある。人間がその価値を保つには、こうした区別を認識する必要があり、単なる平等論では社会の複雑さを理解できず、かえって混乱を招く。
筆者は、山水画の例を用いて、遠近・高低・大小の違いが絵の価値を生むように、現象界の差異もまた徳の円満を構成する要素であると説く。絵の紙面が平等であるからこそ、差異が描かれ、絵としての意味が生まれる。差別と無差別は対立ではなく、同体であり、互いに支え合う関係にある。
孔子の言葉「絵は素を後にす」を引用し、区別があるからこそ素が立ち、素があるからこそ差別が明らかになると述べる。人間社会の現象もこのように、区別相違によって秩序が生まれ、徳一が成就される。
結論として、人生の最大目的を達成するには、区別相違を明らかにし、それぞれの存在がその法に従って役割を果たすことが必要である。進化や向上も、この区別を誤れば退化や混乱に陥る。統一普遍だけに偏れば、人世の複雑さを見失い、真の円満には至らないと筆者は警告する。
徳というものは一つであり、そして無差別(区別がない)ものです。
しかし、人間社会の組織は千差万別であって、その千差万別なものが、一つの円満な状態を実現しようとしているのですから、差別(区別)もその中に存在しなければならないのです。天があれば地があり、有があれば無があり、長があれば短があって、実に千差万別であるのが現象世界の常です。この複雑な現象について、相互の関係を明らかにし、その秩序と系統を整えなければ、現象世界の混乱や転倒を免れることはできないでしょう。だからこそ、明確な差別(区別)をしなければならないのです。
この区別や相違は、秩序を正すためのもの、系統を整えるためのものです。すでに秩序を正し、系統を整えて、差別が明らかになれば、自然に無差別で円満な徳の一つの境地を得ることになるわけです。
言葉を換えて言えば、差別を明らかにすることは、すなわち無差別を得る方法なのです。
それでは、徳は一つであるとして、単純な統一や普遍性だけで終わるべきではなく、必ず区別や相違を明らかにしなければなりません。そうでなければ、人間社会もまた混乱に陥り、さらなる混乱を招くほかはないのです。
人と馬には、明らかな区別や相違があります。
しかし、本来持っている実体に至っては、統一的で普遍的であり、人と馬に区別や相違するところはないのです。すでに人間社会においては、両者ともに徳の一つの円満を実現しようとしているのです。もし本当にそうならば、人と馬に区別や相違するところはないのでしょうか。人は馬よりも優れているとは言えないのでしょうか。あの先哲が「人は万物の霊長である」と言ったことも、また一つの戯言なのでしょうか。
たとえ今、徳は一つで統一的・普遍的であるとしても、人と馬に差別するところがなくては、私たち人間に価値があるとは言えないのです。もし無理に人と馬は同一であると言えば、私たち人間はそれに満足できるでしょうか。心の中でどれほど不快を感じることでしょうか。
そうです、私たち人間には納得できないのです。このようになるのは、統一や普遍性を知っていて、区別や相違を知らないからです。統一や普遍性の見方に陥って、歴然とした区別や相違が存在することを知らないためです。区別や相違するところがなければ、かえって真の統一や普遍性を理解することができないのです。
人と馬が、どうして区別や相違なくして済むでしょうか。人と馬だけではありません。一切万物すべてが区別や相違なくして済むべきではないのです。
あの山水を描いた一幅の絵を見てください。山があり、川があり、草木があり、人家があります。一見すれば、その遠近、高低、大小などの区別や相違を明らかにすることができるではありませんか。絵として遠近、高低、大小などの区別や相違が整然としていなければ、絵とするに足りないのです。だから絵としてこの区別や相違がなければならないのです。
しかし、この絵は一枚の紙面に描かれているものです。その描かれている紙面は平面であって、遠近もなく、高低もなく、大小もないものです。すでにこの遠近もなく、高低もなく、大小もない平面の紙の上に描かれた絵が、明らかにこれら遠近、高低、大小の区別や相違を存在させているのです。区別・相違と統一・普遍が、実に同じ紙の上に併存して、そして明確なのです。
だから差別と平等は同じ本質であって、統一・普遍の本質はよく区別や相違を現し、区別や相違はよく統一・普遍の本質によって現れているのです。このことから見れば、区別や相違がなければならないのです。区別や相違は紙を飾る絵であることを知らなければなりません。
そしてまた、平等な紙面は、遠近、高低、大小の山水を円満に成就させているのです。平等であって区別や相違がなければ、あの山水の絵も、ただの一枚の紙に過ぎず、もはや絵としての価値あるものではありません。
孔子は「絵は素を後にす(絵は白地があって初めて成り立つ)」と言いました。
そうです、区別や相違があって素地が立ち、素地があって差別が歴然とするのです。人間社会の千差万別な現象も、ただこの区別や相違によって、初めて秩序があり、系統があって、徳の一つを成すに至ることは、一幅の絵のそれと異なりません。
ここまで述べてくれば、人間社会の最大の目的を成就するためにも、適切に区別や相違をしなければならないことが明らかになります。人には人の法則があり、禽獣には禽獣の法則があり、それぞれその法則を守って初めて徳の一つを実現するのです。差別は、すなわち統一・普遍の円満を実現させるのです。
区別や相違というものは、千差万別な現象世界を客観的に見て、これらの秩序を正し、系統を整えて、混乱や本来の目的を見失い、小さな事柄にとらわれてしまう状態がないようにするためのものです。人間社会における方便も、すべてこの区別や相違に存在するものです。進化と言い、向上と言っても、この区別や相違を誤れば、かえって進化とはならず、向上とはならず、むしろ退化となり、下降となるのです。
だから人間社会の最大の目的を成就するには、この区別や相違を明らかにして円満に至らなければなりません。もし単に無差別(区別なし)で終われば、複雑な人間社会は混乱に陥り、本来の目的を見失い、小さな事柄にとらわれてしまう状態を招くに至るのです。
第3節 果して人は万物の霊長か
人間が「万物の霊長」と称されるにふさわしい存在であるかを、万物の進化への献身と比較しながら深く問い直す、鋭い自己省察の章です。
筆者は、米や麦、牛や馬など、万物が日夜進化と向上のために粉骨砕身している姿に触れ、人間もまた同じように実行しているかと自問する。一粒の米が焼かれ、食べられ、生命となって人間に貢献するその勇猛さに比して、人間の行動は怠惰でわがままであり、恥ずかしさを覚えざるを得ないと述べる。
人間は「万物の霊長」と称されるが、実際には食物や衣服を目的化し、生活の手段を忘れて快楽に溺れ、労働を厭い、季節の変化に身を委ねて業を忘れるなど、進化向上の手段を怠っている。筆者は、こうした姿勢が一粒の米の献身と比べていかに劣っているかを強調し、人間の価値を疑問視する。
進化向上は人世の最大目的であり、その実行こそが優劣や貴賎を分ける基準である。にもかかわらず、人間の意志はわがままで、行為は怠惰であり、万物の霊長と呼ぶに値しないのではないかと筆者は問いかける。
結論として、筆者は「人ほど弱点の多きものはない」と述べ、先哲の「人は万物の霊長なり」という言葉さえも戯言に過ぎないのではないかと疑念を呈する。人間の価値は、進化向上の実行によってのみ証明されるべきであり、それを怠る限り、霊長としての尊厳は空虚な称号にすぎないのだ。
万物はみな進化律の下に支配されて、向上を遂げている、これは人間社会の大円満を成就するためであって、人間社会自然の大法則となっています。それでは、米と言わず、麦と言わず、牛と言わず、馬と言わず、一切のものが、日夜もって進化し向上しようと、その手段を尽くしつつあるのです。その手段を尽くすにおいて非常に勇猛に非常に強剛に努めています。あの一粒の米が、僅かの時間において私たち人類とまでの向上を遂げています。私たち人間はこれら勇猛な、強剛な向上の実行者に接触して、はたしてどのような思いを感じるでしょうか。進化向上をなし、人間社会の最大目的を円満にしようとするのは、独り私たち人類のみの目的ではありません、人間社会を組織している、一切のものの目的です。それゆえに一粒の米もまた粉骨砕身、その身を焼きその身を食べられて、人の肉体に入り、栄養となり、生命となって向上を遂げているのです。
しかし翻って私たち人間を顧みれば、彼らが勇猛に、強剛に、この手段を遂げているように、私もまたこれを実行しているのでしょうか。眺望の底に接触するところの、万物一切のごとくなるのでしょうかということに至っては心中いささか恥ずかしいものがないことを得ないのです。人は万物の霊長であると称えられています、私もまた普く考えています。しかるに、進化向上の手段を実行するにおいて、いささか恥ずかしくないことを得ないとすれば、そもそもまた人ははたして万物の霊長なのでしょうか、疑わざるを得ないのです。
私たち人間は生活の方便として、食物を求め、衣服を得ています。しかしその目的を誤って、生活はかえって食物を求め、衣服を得る方便のごとく思わせることがあります。食物のためにその腰を折り、衣服のために生涯を費やすもの少なくないのです。殊に食物を得ては、甘いの甘くないのと、わがままにわがままを重ね、その多きとその甘きを貪れば足るもののごとく考えて、栄養への供給の方便であることを忘れています。衣服を得ては良いの悪いのと、小言に小言を重ね、華美に華美を競うをもって目的のごとくして、衣服が肉体保全の方便であることを忘れています。また業に従い、労に服しては、すぐに厭きすぐに変わって、あえて精励しません。桜花紅葉の節来れば、野に山に遊び暮らして、日を空しく過ごしています。
夏期炎熱の時到れば、暑さまた堪えずとして緑陰を求め、水辺を尋ねて、ほとんど業を忘れています。冬期寒冷の時到れば、寒さに堪えずして、炬燵を抱いてなすこともなく過ごしています。このように私たち人間が、わがままな意志をもって、のらりくらりとのみしているものを、あの一粒の米がその身を粉にし、その身を焚き、もって食べられ消化されて、向上を遂げようとする勇猛な実行に比べれば、同日の論ではないでしょう。進化し向上するのが人間社会の務めであって、その手段を実行しなければならないことは、論を待たないことでしょう。それにその実行の点において、私たち人間は多くの欠点を持っています。意志のわがままなる、実行の怠惰なる、あの一粒の米の勇猛なるかつ強剛なるに比して、恥じることなしとするでしょうか。
私と物とこれを比較して、はたしていずれがよく、向上の手段を実行しているや否やを究めれば、私たち人間がいかにも怠惰に、いかにもわがままなるに驚かざるを得ないのです。進化向上のいかんは、人間社会の最大目的を成就するとしないとに関わるものであって、これが功を奏して、初めて優劣が定まり、貴賎が分かれる理由でしょう。しかるに私たち人間の意志はわがままに、行為は遊惰に、一粒の米のそれのごとくならずとすれば、いずれのところに人は万物の霊長であることを得るのでしょうか。
ただこの点より見れば、人ほど弱点の多きものはありません。かえって万物の劣等とも言わなければならないような心地がするのです。それならば、先哲が人は万物の霊長であると言ったことも、一つの戯言となり終わるのでしょうか。こうては人が人たる価値は、いずれのところにあるのでしょうか。私はこれを疑わざるを得ないのです。
第3節 果して人は万物の霊長か
人間が「万物の霊長」と称されるにふさわしい存在であるかを、万物の進化への献身と比較しながら深く問い直す、鋭い自己省察の章です。
筆者は、米や麦、牛や馬など、万物が日夜進化と向上のために粉骨砕身している姿に触れ、人間もまた同じように実行しているかと自問する。一粒の米が焼かれ、食べられ、生命となって人間に貢献するその勇猛さに比して、人間の行動は怠惰でわがままであり、恥ずかしさを覚えざるを得ないと述べる。
人間は「万物の霊長」と称されるが、実際には食物や衣服を目的化し、生活の手段を忘れて快楽に溺れ、労働を厭い、季節の変化に身を委ねて業を忘れるなど、進化向上の手段を怠っている。筆者は、こうした姿勢が一粒の米の献身と比べていかに劣っているかを強調し、人間の価値を疑問視する。
進化向上は人世の最大目的であり、その実行こそが優劣や貴賎を分ける基準である。にもかかわらず、人間の意志はわがままで、行為は怠惰であり、万物の霊長と呼ぶに値しないのではないかと筆者は問いかける。
結論として、筆者は「人ほど弱点の多きものはない」と述べ、先哲の「人は万物の霊長なり」という言葉さえも戯言に過ぎないのではないかと疑念を呈する。人間の価値は、進化向上の実行によってのみ証明されるべきであり、それを怠る限り、霊長としての尊厳は空虚な称号にすぎないのだ。
万物はみな進化の法則の下に支配されて、向上を遂げています。
これは人間社会の大いなる完全さを成就するためであって、人間社会における自然の大きな法則となっています。それでは、米と言わず、麦と言わず、牛と言わず、馬と言わず、一切のものが、日夜をもって進化し向上しようと、その手段を尽くしつつあるのです。その手段を尽くすことにおいて非常に勇猛に、非常に強く勤勉に努めています。あの一粒の米が、僅かの時間において私たち人類とまでの向上を遂げています。私たち人間はこれら勇猛な、強く勤勉な向上の実行者に接触して、果たしてどのような思いを感じるでしょうか。進化し向上をなし、人間社会の最大の目的を完全なものにしようとするのは、独り私たち人類だけの目的ではありません。人間社会を組織している、一切のものの目的です。それゆえに一粒の米もまた粉骨砕身、その身を焼きその身を食べられて、人の肉体に入り、栄養となり、生命となって向上を遂げているのです。
しかし翻って私たち人間を顧みれば、彼らが勇猛に、強く勤勉に、この手段を遂げているように、私もまたこれを実行しているのでしょうか。眺めの中に接するところの、万物一切のようであるのでしょうかということに至っては、心中いささか恥ずかしいものがないことを得ないのです。人は万物の霊長であると称えられています。私もまた広く考えています。しかるに、進化し向上する手段を実行することにおいて、いささか恥ずかしくないことを得ないとすれば、そもそもまた人は果たして万物の霊長なのでしょうか。疑わざるを得ないのです。
私たち人間は生活の方法として、食べ物を求め、衣服を得ています。しかしその目的を誤って、生活はかえって食べ物を求め、衣服を得る方法のごとく思わせることがあります。食べ物のためにその腰を折り、衣服のために生涯を費やすもの少なくないのです。殊に食べ物を得ては、甘いの甘くないのと、わがままにわがままを重ね、その多さとその甘さを貪れば足りるもののごとく考えて、栄養への供給の方法であることを忘れています。衣服を得ては良いの悪いのと、不満に不満を重ね、華美に華美を競うことを目的のごとくして、衣服が肉体保全の方法であることを忘れています。
また仕事に従い、労働に服しては、すぐに飽きすぐに変わって、あえて精励しません。桜の花や紅葉の季節が来れば、野に山に遊び暮らして、日を無駄に過ごしています。夏期の炎熱の時が到れば、暑さにまた堪えないとして木陰を求め、水辺を尋ねて、ほとんど仕事を忘れています。冬期の寒冷の時が到れば、寒さに堪えないとして、炬燵を抱いて何もせずに過ごしています。
このように私たち人間が、わがままな意志をもって、のらりくらりとのみしているものを、あの一粒の米がその身を粉にし、その身を焼き、それによって食べられ消化されて、向上を遂げようとする勇猛な実行に比べれば、同じ日に論じるようなものではないでしょう。進化し向上するのが人間社会の務めであって、その手段を実行しなければならないことは、論を待たないことでしょう。
それにその実行の点において、私たち人間は多くの欠点を持っています。意志がわがままであること、実行が怠惰であること、あの一粒の米の勇猛であるかつ強く勤勉であるに比べて、恥じることがないとするでしょうか。私と物とこれを比較して、果たしてどちらがよく、向上の手段を実行しているや否やを究めれば、私たち人間がいかにも怠惰に、いかにもわがままであるに驚かざるを得ないのです。進化し向上することがどうであるかは、人間社会の最大の目的を成就するとしないとに関わるものであって、これが功を奏して、初めて優劣が定まり、貴賎が分かれる理由でしょう。しかるに私たち人間の意志はわがままに、行為は怠惰に、一粒の米のそれのようでないとすれば、どこに人は万物の霊長であることを得るのでしょうか。
ただこの点より見れば、人ほど弱点の多いものはありません。かえって万物の劣等とも言わなければならないような心地がするのです。
それならば、先哲が人は万物の霊長であると言ったことも、一つの戯言となってしまうのでしょうか。
こうしては人が人である価値は、どこにあるのでしょうか。私はこれを疑わざるを得ないのです。
第4節 人間として優れた点は何か
この節は、人間が他の万物に比していかに卓越した天賦を持ち、それを巧みに用いることで人世に貢献すべき責任を負っているかを明らかにする、深遠な人間論です。
筆者はまず、人間が多くの弱点を抱えていることを認めつつ、それは優れた天賦を持つがゆえに現れるものであり、決して劣っているのではないと説く。人間は「知・情・意」の三識と、完全な生理機能を備えており、これらを巧みに用いれば、無限の功績を人世に残すことができる。
知識は筋力を補い、視力を超えて天体を測定し、情は博愛を広げ、意は義勇を発揮する。このように、人間は他の万物に比して圧倒的に優越しており、「万物の霊長」と称されるにふさわしい存在である。
しかし、優越した天賦も、巧みに用いなければ意味をなさず、むしろ乱用すれば罪悪を生み、人を害し、物を損ね、自己さえ傷つける「悪魔」と化す危険がある。ゆえに、人間はその天賦を正しく用い、人世に貢献する責任を負っている。 筆者はさらに、創造主が人間にのみこの優越を賦与したのは、偶然ではなく深遠な意志によるものであると述べる。他の万物は不具であり、進化の手段を持たないが、人間はそれを補い、導く使命を持つ。この創造主の意志を理解し、それに従って天賦を活かすことこそが、人間の本質的責任である。
私たち人間には多くの弱点があります。
そのため、進化し向上していくための手段を実行する際に、あの一粒の米が見せるような、勇敢で力強い実行力を発揮することができません。しかし、私たち人間は米などの他の生物に比べて劣っているわけではありません。人には人としての生まれながらの才能があります。その才能は、あらゆる生物に勝る優れた点があります。その優れた点を明らかにすれば、自然と人間としての価値も理解できるでしょう。いわゆる「万物の霊長」と呼ばれる理由も分かるでしょう。
この優れた生まれながらの才能を持っているからこそ、かえって弱点が現れてしまうのです。明確に優れている理由を知り、そしてその責任を誤らないようにすれば、これらの弱点を防ぐことができるのです。それでは、私たち人間が優れている点とは何でしょうか。人は知性、感情、意志という三つの意識を備えています。
この三つの意識は、他のあらゆる生物と比べて類を見ない優れたものです。また、人は完全な生理的器官を持っています。これもまた他のあらゆる生物と比べて類を見ない優れた点です。すでに三つの意識と完全な生理的器官を得ているので、これを巧みに使えば、ほとんど限りない成果を生み出すことができます。体力は筋肉の力に限定されていますが、知識を加えれば、わずかな筋力でも、千万斤もの重さを支え、猛獣をも防ぐことができます。目の力は視力に限界がありますが、知識を加えれば、千万里も遠くの天体さえも測定できます。感情は博愛を多くの人々に及ぼして、ほとんど限りがありません。意志は正義と勇気をもって公に尽くし、至らないところがありません。このように人は三つの意識と生理的器官によって、無限の成果を収め、人間社会に貢献できるのです。
このことによって人は最もよく進化した存在となるのです。また「万物の霊長」と称されるのです。つまり、人が人であるのは、この生まれながらの才能が他のあらゆる生物に比べて優れているからです。この点は少しも疑う余地がありません。しかし、私たち人間がその優れた生まれながらの才能を享受していても、これを上手に巧みに使わなければ、優れているということも優れていることにならない場合があります。
人が最もよく進化した存在でありながら、また弱点をよく現してしまうのは、全く生まれながらの才能の巧みな使い方を誤ることによるものです。意志が我がままになるのも、行動が怠惰になるのも、自分の才能を頼りにして、さらに巧みな使い方に努めないからです。ただ知性、感情、意志の三つの意識を濫用し、鼻、目、耳、口の生理的器官を乱用して、省みることがなければ、ただ罪悪を作る悪魔となってしまうのです。
人を害し、物を損ない、果ては自分さえも傷つけるようになってしまうのです。こうなってはせっかくの生まれながらの才能も優れているところはなく、したがって人間としての価値も存在しないのです。この理由から、私たち人間は優れた生まれながらの才能を巧みに用いて、人間社会に貢献しなければならないのです。生まれながらの才能を巧みに用いて人間社会に貢献しようと思うならば、私たち人間に優れた才能を与えた創造主の意志が、果たしてどこにあるのかを理解しなければなりません。
ただ単に創造主が私たち人間にこの優れた点を与えたわけではないでしょう。動物、植物、その他一切のものは、その進化の上で私たち人間に比べると、非常に大きな違いがあります。
彼らは私たち人間のような知識もなく、感情もなく、意志もなく、また目もなく、口もなく、手もなく、足もないのです。あるものはわずかにこれらを持っていても、人に比べれば、その及ばない程度は非常に大きく、彼らと私たちを比較すると、彼らは意識もなく手もなく足もない不完全な存在です。
このように他の一切の生物には与えられていない優れた生まれながらの才能を、独り私たち人間だけに与えたことは、そもそも意味のないことではないでしょう。必ず創造主の深い意志があるはずです。
果たしてそうであるならば、創造主の意志はどこにあるのでしょうか。これを知らなければなりません。
これを知ることが私たち人間の責任でしょう。これを知って、生まれながらの才能を巧みに用いることも、また私たち人間の責任でしょう。
第5節 人は万物の向上を助けるべきである
人間が天賦の知性と身体機能を活かして、他の万物の向上を助けることこそが創造主の意志であり、人世の最大目的であると説く、壮麗な倫理的・霊的宣言です。
筆者は、万物がそれぞれ天真を発揮して人世の円満を目指している点において、人と物の間に本質的な差はないと述べる。しかし、万物は人間のような知・情・意の三識や生理機能を持たないため、自ら向上の手段を実行することができない。そこで人間は、優越した天賦を巧みに用いて、万物の向上を助ける責務を負っている。
一粒の米が人間の食となり、血液や生命となるには、人間の手によって臼に入れられ、釜に炊かれなければならない。稲の繁殖も、農夫の手によって苗代に蒔かれ、水を与えられ、害虫を駆除されることで実現する。光線でさえ、瞳孔や眼鏡によって調整されなければ、視覚の向上に寄与できない。これらすべてが、人間の助長によって万物が向上する例である。
人間同士においても、老幼・賢愚・強弱の差があり、向上の手段を欠く者が存在する。その不足を補い、互いに助け合うことが社会の本質であり、専門性が進むほど他の面での不具が生じるため、相互補完が不可欠となる。筆者自身も盲目という境遇にあり、他者の同情と支援によって向上の機会を得ていると述べる。
このように、人間が優越の天賦を享受するのは偶然ではなく、創造主の意志によるものであり、それを巧みに用いて万物の向上を助けることが自然の命令である。これを果たさなければ、人間としての価値は失われ、進化した存在とは言えない。
万物はすべて等しく、人間社会の最大の目的を完全なものにしようとして、天から与えられた真の姿である魂の本質を発揮することに努めています。その点において、人間と他の生物との間に何の差別もありません。
しかし、私たち人間以外の万物は、私たち人間のような知性、感情、意志という三つの意識を備えていません。また私たち人間のような生理的器官を備えていないのですから、私たち人間から見れば、彼らは目が見えず、耳が聞こえず、話すことができず、手がなく、足がなく、また無知なのです。このように不完全で能力がないものとすれば、彼らが人間社会に向かって、より多くの向上を遂げようとしても、自分自身でその向上を遂げることができない点があります。これはやむを得ないことであり、また理解すべきところです。
ここにおいて創造主は、私たち人間に知性、感情、意志の三つの意識を与え、生理的器官を完全に備えさせて、それによって他の万物が自分自身ではよく向上できない不足の点を補わせようとしているのではないでしょうか。異なるものが互いに寄り添い、長所と短所を補い合うのは、自然の法則です。
私たち人間が優れた生まれながらの才能を享受していて、万物の中にその才能が不完全なものがあれば、これを補うのは自然の道理ではありませんか。
創造主は必要があって、私たち人間に優れた点を与えたのではないでしょうか。天は必ず無用なものを造らないでしょう。あの一粒の米が、その身を粉にし、その身を煮て、人の食べ物となって、よく血液となり、生命となり、進化し向上していますが、彼らはこの向上の手段を自分で遂げることができないのです。一粒の米は手もなく足もないものでしょう。自分から臼に入って粉になり、釜に入ってご飯になることはできません。
それゆえに私たち人間は一粒の米を運んで臼に入れてあげる、釜に入れてあげる、またこれを粉に挽いてあげる、ご飯に炊いてあげる、食べてあげるのです。こうして初めて一粒の米は向上を遂げることができるのではありませんか。また一粒の米が稲として成長し、実を結ぶにしても、一粒の米が自分で子孫の繁栄をより多くすることはできません。これを野生のまま放置しておいたならば、今日のような米の進化はないのです。
そして、その苗代から本田に植え替えられて、実を結ぶに至るにも、適当な場所を選んで一粒の米が自分で移動することができません。乾燥や湿度を適切に調整することができません。栄養を豊富に回すことができません。害虫を駆除することができません。彼は手もなく足もない不完全な存在だからです。それゆえに農夫は苗代を整え、もみを蒔いてあげる、また本田に移してあげる、水を注いであげる、また乾かしてあげる、草を取ってあげる、栄養を与えてあげる、害虫を駆除してあげる。こうして彼は子孫を繁殖してより多くの向上を遂げるのです。
草も、木も、鳥や獣も、虫や魚も、皆このようでないものはないのです。あの光線のようなものに至っても、なお同様です。光線は物に応じて増減の必要があります。
その必要に応じて、特に向上を遂げるものと言わなければなりません。しかし、光線は自分でこれを増減することができないのです。たとえば私たち人間の目は、光線が入らなければ物を見ることができません。そしてその光線が入る量は、その人の生理作用に応じて光線が自分で増減することはよくできないのです。
それゆえに私たち人間の目は、その光線を調節すべき瞳孔を持っています。この瞳孔がその窓を大きくし、あるいは小さくし、光線の量を増減しています。また老眼と近眼は、光線の量が違っているのです。瞳孔の力だけではその増減を調節するのに十分でないから、眼鏡をもって必要な量を調節しているのも、皆光線そのものが自分自身ではよくできないために、私たち人間が優れた生まれながらの才能を巧みに用いて、光線そのものを増減させているのです。結局、万物一切の事物が、向上を遂げる際に、自分自身でその手段を実行できないから、私たち人間はこれを助け育てるべく努めるのです。人は人と互いの間においても、なおその向上を助け育てなければならないことです。
人はその境遇によって様々に異なっています。
老人と子供、賢い人と愚かな人、強い人と弱い人の差があって、向上を遂げるのにその手段を実行することができない人がいます。この人は、その手段を遂げるのに十分な人に比べて、不足の点があるのです。不完全な点があるのですから、これを補い助けて、その向上を遂げさせなければなりません。
老人を養ったり、子供を助けたり、貧しい人を恵んだり、病人を憐れんだりするのも、皆この理由によるものでしょう。私のような盲目の身となって、物を見ることができなければ、取ることもできず、行くこともできず、したがって私たち人間の責任を果たすのに不都合です。
したがって向上を遂げる便宜を欠くことが少なくありません。
それだからこそ常に世の人の同情を得て、これらの不便を補っていることが少なくないのです。あえて世の同情に頼るものではありませんが、真にこの同情が全くなかったならば、私は実に困るのです。少しの向上をもなすことができないのです。これは独り私のような盲目者に限るのではありません。目があって健康な人も、才能や学問がある人も、ある時間とある場合においては、必ずしも向上の便宜を欠かずにすむことができません。私たち人間単独では、社会をなすものではありません。
一家と言い、一村と言い、一県と言い、一国と言い、社会という限りは、必ず互いの長所と短所を補い合うところがなくてはならないのです。社会が進めば進むほど、ある一面に発達しますが、ある一面に欠ける人を生じるのです。専門の学問がますます盛んになればなるほど、その専門家その人は、専門以外において不完全な者とならざるを得ないのです。結局、ある一部分において超越して、人間社会という大きな団体の完全さを図ろうとするからです。だからいずれにしても、長所と短所を免れることができないのです。それゆえに人と人とは、また互いに向上を助け育てなければならないことです。私たち人間が優れた生まれながらの才能を享受するのは、何も偶然ではありません。
必ずこれを巧みに用いて、人間社会の最大の目的を完全なものにすべく努めなければならないことでしょう。そのこれを完全にしようというには、長所と短所を補い合って、万物の向上を助け育てなければならないのです。そうでなければ進化した人ということができません。
したがって私たち人間としての価値を存しないのです。
創造主が人間社会を造り、また私たち人間を生じさせ、これに霊妙な知性、感情、意志を与え、巧妙な生理的器官を完全に備えさせています。そのこれを与え完全に備えさせている理由を考えれば、まさにこのようでなければならないことを知ることができるはずです。
これを創造主の意志と言わなければなりません。だから私たち人間が優れた生まれながらの才能を巧みに用いて、万物の向上を助け育てるのは、創造主の意志に従うものです。自然が命じるところなのです。
第6節 何を人生の最大の務めというのか
この節は、人生の本質的な使命を「万物の向上を助けること」と定め、その行為が真に意味を持つためには、向上の目的に根ざしていなければならないと説く、倫理的かつ霊的な指針の集約です。
筆者は、人間が天賦の知識と肉体を巧みに用いて、万物の向上を助けることが人生の最大要務であると説く。これは人間の本来の性質を発揮することであり、米や樹木、土や鉄などの万物もまた、それぞれの天性を活かして人世の円満に貢献しようとしている。
しかし、万物は自らの力だけでは完全に向上できず、人間の助長を必要としている。人間がその向上を助けることで、万物は本来の真の姿を発揮し、人世全体が円満に向かって活動する。ゆえに、人間は互いに、そして万物に対して向上を助ける責務を負っている。
ただし、助長の行為は向上の目的に基づいていなければならず、形式的な行為では真の助長とは言えない。筆者は平重盛の忠孝の葛藤を例に挙げ、向上を果たさない行為は忠でも孝でもなく、むしろ誤った判断であると批判する。一方、西郷従道が兄隆盛を討伐した行為は、国家と兄の両方の向上を助けたものであり、真の助長と評価される。
親の子への愛も、向上を助けるものでなければ、かえって害となる。欲望を満たすだけの愛は、子の健康を損ね、向上を妨げる。すべての行為は、向上の助長に出でなければ、善にも利にもならない。
万物の向上を助けることで、人間は真我を全うし、自他の区別を超えて徳一の円満に至る。人世の一切が本来の真の姿を持ち、向上を目指している以上、その助長を通じて人生の最大目的が成就される。
すでに私たち人間は万物の向上を助け育てなければならないものであることを論じました。
これはおそらく私たち人間の本来の性質を発揮するに過ぎないのです。私たち人間が生まれながらに持つ性質を享受して、その本来の性質を発揮しなければならないことは、当然の務めです。
知識があり、肉体があっても、これを巧みに用いることをしなければ、生まれながらの才能もまた無用に終わって、私たち人間の本来の性質に少しもその光明を発しないのです。だから生まれながらの知識及び肉体を巧みに用いて、万物の向上を助け育てるのに努めるのは、本来の性質を発揮する理由です。ただ私たち人類のみではありません。万物一切も皆その生まれながらの才能を巧みに用いて、本来の性質の発揮に努めているのです。彼らもまた自己の向上に努めて、人間社会の完全さを得ようとしているのです。
一粒の米が人の食べ物となり、樹木が建築用の材料となり、土が瓦となり、鉄が刃物となるのも、皆その天から与えられた真の姿を発揮して、自己の向上を遂げ、それによって人間社会の完全さを期待しているのです。これらのものが生まれながらの性質を全うすることにおいては、私たち人類といえども、またよくできないところがあるのです。米となって栄養を与え、樹木となって建築用の材料に耐え、土となって瓦となり、鉄となって刃物となるようなことは、結局私たちのできることではありません。生まれながらの性質が本来の性質を発揮することにおいて、ほとんど私と物と異なるところがありません。
しかし、彼らはこの天から与えられた真の姿を発揮し、本来の性質を発揮して、人間社会の完全さを成就するには、彼ら自身ではよくできないところがあるのは、彼らにとって残念なところでしょう。
よって私たち人間はこれらのものに、本来の性質を発揮させるべく努めるのです。そのような時は人間社会の一切が、すべて皆本来の真の姿を放って、人間社会の大いなる完全さを成就すべく、活動に活動を加えるのです。
だから人は人と互いに万物の向上を助け育てることをもって、人間社会の最大の務めとしなければならないことです。人間社会の最大の務めは、向上の助長にあるとすれば、その助長する行為が、必ず向上の目的によらなければならないことを忘れてはなりません。もしそうでなければ、助長ではありません。
したがって人間社会の目的を完全なものにすることができないのです。たとえば一粒の米が、自分で臼に入り、釜に入ることができないといって、これを入れてあげるにも、必ず良い粉にし、ご飯にして、彼の向上を遂げさせてあげるようにしなければなりません。
ただ臼に入れ、釜に投げ入れるだけで、彼の向上がどうなるかを顧みないようなことは、助長ということができません。したがって最大の務めを果たすものと言うことができません。行為そのものについては、善であるか悪であるか、人をしばしば迷わせることが多いです。結局、向上させるべく助け育てることができないからです。平重盛が「忠義を尽くそうとすれば親孝行ができず、親孝行をしようとすれば忠義を尽くせない」と言って自ら死を祈ったようなことは、重盛のその心中を理解すべきところがあるようですが、いかに心中に理解すべきところがあるといっても、その行為自身が、向上を助け育てることから出ていなければ、これを忠義とも親孝行とも言うことができないでしょう。
父を諫めて聞かなければ、重盛は何故にその父を殺さなかったでしょう。子として父を殺したならば、これを親不孝というでしょうか。必ずしも親不孝ではないでしょう。いや、この場合において、平重盛が清盛を殺すとしても、決して親不孝ではないでしょう。なぜといえば、平清盛が自分を欲しいままにして、恐れ多くも帝をお悩ませ申し上げるような逆道を行って、千年の歴史に汚点を残しているのではありませんか。平清盛は非常に大きな不忠を行っています。この不忠の行いを遂げさせて手をこまねいて何もせず、自ら死を祈るような重盛に至っては、共にその責任を引かなければならないことでしょう。たとえその父を殺しても、上の天皇のお心を安らかにし申し上げ、国家を泰平の安らかさに置かねばなりません。このようにすればその父に不忠を遂げさせず、千年の後までも汚名を残させなかったでしょう。父に不忠を遂げさせず、千年の汚名を残させないのが、かえって親孝行と言わなければなりません。
それをここに至らなかった平重盛は、忠義も親孝行も二つながら全うしなかったのです。これは忠義と親孝行の見解を誤ったので、要するに向上を助け育てる務めを、果たさなかったことによるのです。近くは明治の歴史に、西郷隆盛が乱を起こしました。
この時、弟の従道は天皇の軍に加わって兄の隆盛を討伐したではありませんか。弟が兄を討つ、兄弟の友愛を破るものとするでしょうか。従道は、兄に対して、非常に友愛があるものです。これを討伐して、彼の反逆を遂げさせないように努めたのです。すなわち兄を討ってもその功績をもってこれを償い、一つには国家を平安にし、一つには兄に逆賊を遂げさせないように、二つながらこれを全うしたのです。よく向上を助け育てる行為に出たものと言わなければなりません。重盛の迷いに比べて、同じ日に論じるようなものではないでしょう。忠義と言い、親孝行と言うも、向上の助長から出ていなければ、かえってこれを誤るようになるのです。
たとえばまた親が子を愛するも、その愛を施すことにおいて、子たるものの向上を助け育てることから出ていなければ、愛はかえって子を殺す鬼となるのです。その子が求めるままに食べ物を与え、子の欲望を満足させるだけが、親の愛と思ってはなりません。与え過ぎては消化器を損ない、健康を害するに至るのですから、かえって愛は子のために向上の助長とならないのです。
よくこれらの理を理解して、私たち人間の行為が必ず向上の助長から出ていなければ、善ともならず、利益ともならないのであることを思わなければなりません。このように万物の向上を助け育てれば、自然に本来の真の姿である真我を全うするのです。
本来の真の姿である真我は自分もなく他人もなければ、自然に一つに帰するのです。それでは、自然に徳が一つになった完全さをなして、人生の最大の目的を成就するに至るのです。なぜならば、人間社会の一切が、本来の真の姿を持っており、その向上を遂げようと努めているのですから、その向上を助け育てて、進めば進むに従って、人生の最大の目的を成就し、完全な大いなる極みに至るのです。それでは人間社会の最大の務めは、万物の向上を助け育てて、徳が一つになった大いなる完全さを成すものと言わなければなりません。
第7節 我々人間の責任
この節「我々人間の責任」は、万物の犠牲によって生かされている人間が、自然と社会の秩序を維持し、生命の向上を果たすために果たすべき倫理的・霊的責任を深く掘り下げた章です。
筆者は、天体の秩序が太陽の統一によって保たれているように、人世の秩序も人間の統一的な支配と助長によって成り立っていると説く。人間は万物の主宰者として、光・熱・水・土・植物・動物などの自然要素を活用し、その効用を全うさせる責任を負っている。これを怠れば、人生は混沌に陥り、破滅に至る。
人間の生存は単独では成り立たず、食物・衣服・住居など、すべての物質的基盤は他の生命の犠牲によって支えられている。米は煮られ、樹木は切られ、綿花や獣毛は削がれて人間の生活を支えている。これらの犠牲は、人間の快楽のためではなく、人世の円満と向上のために捧げられている。
ゆえに、人間はその犠牲に対して責任を負わなければならず、もし責任を果たさなければ、犠牲は殺生に転じ、人間は「鬼」と化す。筆者は、犠牲に対する懺悔の心を持ち、生命の継承者として向上を果たすことが人間の本質的責務であると強調する。
生命は一体不可分であり、連続性によって向上が可能となる。人間は食物や衣服となった生命を継承している以上、その向上をさらに高める義務がある。これは単なる道徳ではなく、魂の実体に根ざした霊的な責任である。
結論として、人間は万物の長であると同時に、万物の犠牲を受ける存在として、人生の最大要務——すなわち人世の円満と徳一の実現——を果たす責任を誓って担わなければならない。これが人間の価値であり、天分を全うする道である。
仰いで天の様子を望めば、燦然と輝く無数の星は、太陽を中心に、その周囲を回転しています。
回転していて乱れないのは、太陽系統の秩序に従っているからです。人間社会を組織している万物も、ほとんど無数無限で、天体における星の無数無限であるのと同じです。そしてこの万物が時々刻々に活動しているのも、天体が運動しているそれに変わらないのです。そしてまた人間社会の万物が自然の性質を発揮して乱れないのは、私たち人類の大いなる完全さによってそうなのでしょう。ちょうど太陽が天体を支配する、それに異ならないのです。なぜならば、私たち人間は人間社会に生まれて、独り優れた生まれながらの才能を享受し、これを巧みに用いて万物の向上を助け育て、これを支配して完全なものにしようとしているのです。光線と言い、熱と言い、水と言い、人と言い、土壌と言い、植物と言い、動物と言い、皆私たち人間の助長すなわち支配によって、その効用を全うしているのです。この助長、この支配がなければ、一切のもの、混沌として、また人間社会に貢献するところがないのです。それゆえに人間社会の大いなる完全さを成就しようとするならば、一切の事物は、私たち人間の支配を受けなければなりません。支配し支配されて、初めて人間社会の完全さを遂げるのです。
私たち人間にしてもしこの支配をなさなければ、万物がその功を全うさせることができないだけでなく、私たち人間もまた功を全うすることができずして、ほとんど物と私と共に生存することができないのです。
こうしては人生の破滅に終わるのです。これをもって人は万物の主宰者たる責任を有しているのです。すなわち人生の最も大きな務めを行うべき責任を有しているのです。この責任は人間社会の組織と共に、生まれながらの責任です。そうでなければ人間社会も成立しない、私たち人間もまた生存し得ないのです。私たち人間は人間社会の中心となって、万物に心と霊の全体が一つになることに帰させるべく、支配しなければなりません。
これを支配して人間社会の完全さを遂げるのです。あの太陽が天体を支配して、統一の責任者となっているのに少しも変わらないのです。人間社会は私たち人間の単独な生存を許さないのです。私たち人間の生存には、温かさもなければなりません、光線もなければなりません、土地もなければなりません、植物もなければなりません。水があり、空気があり、食べ物があって、これを飲み、これを呼吸し、これを食べなければなりません。もしこのようでなければ、私たち人間は一日の生を保つことができないのです。それゆえに人間社会は単独な私たち人間の生存を許さないのです。私たち人間は生まれながらにして、よく生存するものではありません。それでは私たち人間が生存することにおいて少しの力も、人間社会の一切の事物と、離れることができないのです。太陽が無数の星と、互いに引く力によって、初めてその位置を全うするのと少しも異ならないでしょう。太陽もし単独のものであったならば、天体にその位置を得ることができないでしょう。
だから私たち人間は人間社会を組織する一切のものがあって、初めて生存することができるのです。
これら一切のものが私たち人間の犠牲となって、よく私たちを生存させています。あの一粒の米はその身を粉にし、その身を煮られて、人の食べ物となっているではありませんか。あの樹木は切られ、裂かれて、私たち人間の住居となっているのではありませんか。あの綿花、繭の糸、獣の毛の類が削がれて、私たち人間の衣服となっているではありませんか。これらの犠牲によって、私たち人間はよく生存しているのです。私たち人間の肉体は、実にこれらの犠牲によって保っていると言わなければなりません。すでにこのようになるものとすれば、私たち人間はまたこれらの犠牲に対し一つの責任がなければなりません。
もし責任がないとすれば、すなわち人は物を殺し、食う鬼となってしまうのでしょう。なおまた彼ら万物が犠牲となるのは、何に向かって犠牲となるのでしょうか。単に私たち人間のために犠牲となるのではないでしょう。
すなわち人間社会に向かって犠牲となることを甘んじているのです。なぜならば一切の事物は進化し向上する自然の法則に従って、人間社会の最大の目的を完全なものにしようとしているのです。独り私たち人間だけの腹を肥やし、体を養うことを目的としている訳ではありません。
よって犠牲の目的は人間社会の完全さを期することにあるものと言わねばなりません。私たち人間もまた共に人間社会の完全さを期さねばならないことです。
それゆえに、私たち人間が万物の主宰者たる位置にあって、万物の向上を助け育て、この助長の責任を果たすために、一切のものがよく私たち人間の犠牲となっているのですから、私たち人間は飽くまでもその犠牲の意志を継続すべき責任を有しています。この責任を有して初めて人が人である価値が生ずるのです。
しかしながら、私たち人間は人生に向かって貢献することなくして、無責任のものとなってしまうならば、ほとんど人である面目を失うのです。そして彼らの犠牲は犠牲ではなくして、私たち人間の殺生に終わるのです。私たち人間また責任なくして済むべきでしょうか。必ず人生に向かって最も大きな務めを実行する責任を果たさねばならないことでしょう。生命は一体で分けることができず、よく連続するものです。この連続があるために、よく向上をなし得るのです。だから、向上は生命に生命を連続させているものと言わねばなりません。私たち人間の食べ物となり、衣服となる多くの犠牲は、その生命を向上して、私たち人間の肉体に宿っています。だから、私たち人間はこれらの犠牲となるものの生命を継承しているのです。よって、私たち人間はますます向上に向上を加え、彼らより継承した生命の向上を、ますます向上させなければなりません。
元来、犠牲の精神は、私たち人間のために犠牲となるものではなく、人間社会に向かって向上するための犠牲ですから、私たち人間もまた向上の責任を全うせねばなりません。
そうでなければ、生命の継承をなしてその甲斐のないことと言わねばなりません。私たち人間にしてこの責任を全うしなかったならば、私たち人間の食べ物となった一粒の米も、恨みの声を発することでしょう。私は煮られ食べられて、生命の向上を遂げ、ますます向上に向上を加え、人生の最大の目的を成就しようと思っているものを、せっかく人に向上しても、その人は責任を果たさない、功を修めない、実に無用の人に食べられて残念である、煮られ食べられた甲斐のないことであると恨みはしないでしょうか。宗教家がよく懺悔の方法を説いて、懺悔せよと言うごとく、人は犠牲者に向かって、潔く懺悔せねばなりません。これを懺悔して私たち人間の責任を思わなければなりません。
宗教家がよく懺悔の方法を説いて、懺悔せよと言うごとく、人は犠牲者に向かって、潔く懺悔せねばなりません。これを懺悔して私たち人間の責任を思わなければなりません。
私たち人間は実に犠牲となった多くの物の生命を継承しています。これを継承してますます向上を果たさなければならないことは、正に私たち人間の責任でしょう。
私たち人間はそれこのような責任を有しています。この責任があって初めて人が人である価値があるのです。
ただに私たち人間は万物の長ではありません、万物の主宰者ではありません。人間社会の大いなる完全さを成就させるよう努めなければならないのです。
結局この責任を果たすのは私たち人間が人間社会に処する理由であって、自己の天分を全うする道ですから、私たち人間は誓ってこの責任を果たさねばなりません。
この責任を果たすのは、人生の最も大きな務めを実行するということです。
第8節 自利と利他の統一という思想
この節は、人生の最大要務とは、自己の利益(自利)と他者の利益(利他)を対立させるのではなく、両者を円満に統合することで人世の調和と徳の実現を目指すべきであるという、深い倫理的・哲学的考察です。
筆者は、人間の使命は万物の向上を助け、人世の円満を成すことであるとし、それは一見「利他」のみに見えるが、実際には「自利」も含まれていると説く。利他のみでは理想的だが現実には成り立たず、自利のみでは人世の調和を損なう。ゆえに、自利と利他が一致し、互いに補い合う円満な行為こそが人生の最大要務である。
一粒の米が人間に栄養を与えることで米自身も向上するように、自然界の営みや人間の活動(農業・工業・商業・家庭・社会関係)すべてが、自利と利他の統一によって成り立っている。他者を助けることは、同時に自己の徳を高め、人格を磨くことでもあり、結果として自利利他の円満をもたらす。
筆者は、徳は一にして分かつことができず、自他の区別はあっても、根源は魂の一体性にあると説く。水を例に挙げ、桶・井戸・川と名は異なれど、混ざれば分けられないように、人間も本質的には一体であり、他人を蔑視すべきではないと語る。
俗諺「水の他人」「あかの他人」も、誤解されがちだが、本来は水のように分かちがたい存在としての他人を意味しており、「一視同仁」「四海同胞」と同様に、人世の自然な理を表している。
結論として、人生の最大要務を果たすことは、自利と利他の円満な統一を実現することであり、それによって自我の真の実現が可能となる。利は一にして通じ合い、行動の一挙手一投足にその道理が宿るのである。
私たち人間は万物の向上を助長して、人の世の円満を成さねばなりません。これを人生の最大要務とするのです。こう言えば私たち人間の要務は他の向上を助長するのみであって、いわゆる利他に限られているようです。ほとんど自利ということは無視したものと言わねばならないようです。
しかし、他の向上を助長する要務が、必ずしも利他のみと限られるのではありません、自利もまた自ら存在しているのです。思うに人間社会は利他のみでも、また自利のみでも決して完全のものではありません。
利他のみ計るということは、最も美しいもののようですが、利他のみということが決して行われるものではありません。また功利派の言うごとき、自利のみということは、かえって人の世の円満を妨げることがあります。自利と利他とが、共に相一致するようにならなければなりません。自利すなわち利他でなくてはなりません。
そうでなければ、人の世の円満を致すことができないのでしょう。
私の言うところの人生の最大要務は、決して利他のみではありません、自利利他の円満な行為を言うのです。私たち人間は万物の向上を助長して、人の世の円満を成さねばなりません。これを人生の最大要務とするのです。こう言えば私たち人間の要務は他の向上を助長するのみであって、いわゆる利他に限られているようです。ほとんど自利ということは無視したものと言わねばならないようです。
しかし、他の向上を助長する要務が、必ずしも利他のみと限られるのではありません、自利もまた自ら存在しているのです。思うに人間社会は利他のみでも、また自利のみでも決して完全のものではありません。
利他のみ計るということは、最も美しいもののようですが、利他のみということが決して行われるものではありません。また功利派の言うごとき、自利のみということは、かえって人の世の円満を妨げることがあります。自利と利他とが、共に相一致するようにならなければなりません。自利すなわち利他でなくてはなりません。
そうでなければ、人の世の円満を致すことができないのでしょう。
私の言うところの人生の最大要務は、決して利他のみではありません、自利利他の円満な行為を言うのです。人生の最大要務が、どのようにして自利利他の円満をなしているでしょうか。
あの一粒の米が私たち人間の助長によって、煮られ、食べられ、人間とまで向上する彼の利益は、すなわち私たち人間肉体の栄養となって、私の利益となっているのですから、自利すなわち利他となって円満なのです。
樹木が切られ、削られて、家屋となって向上している、その向上の利益は、また私たち人間が住居の利益となって、自利すなわち利他の円満をなしています。土地が私たち人間の助長によって、耕耘され、植物を成育して、その向上を遂げている、その利益は、私たち人間生産の利益となって、自利すなわち利他の円満をなしています。その他工業と言い、商業と言い、農業と言い、人間社会要務の行為が、悉く皆自利すなわち利他の円満をなしているのです。また人と人との間においても同じことで、君に対して忠であれば、名をなし家を興して、君を利するところに自己の功を修めて、すなわち自利利他の円満となっています。
父母に孝であれば、身修まり家整って、父母を利するところに自己の功を修めています。すなわち自利利他の円満をなしています。朋友の信、兄弟の友、夫婦の和、皆そうなのです。なお不幸薄命の者を恵むがごとき、ほとんど自己の利益を心中に置いて、これを恵むのではありません。けれども、自利利他となっているのです。
あの病者や孤独の不幸を憐れんで、これを加護してやるに、彼の向上の便がないことを憐れんで助長するのです。これを憐れむ行為は、その人の性格を高めるのですから、徳化なのですから、病者孤独が受ける利益と共に、これを恵むものの利益も存在しているのです。すなわち自利利他円満なのでしょう。そもそもこのようにして、人間社会の最大要務を実行すれば、その結果は自利利他の円満をなしていることを疑わないのです。自と言い、他と言うの区別は、明らかに存在するのですが、徳は一つであって分つべからざるものです、それゆえに自も他も共に、その功をなして徳一に帰するのは、人間社会自然の致すところです。徳は孤ならず必ず隣ありと言うも、それはこれを言うのでしょう。
要するに人の世の根源が、魂の一体に存在して、自となり他となっているのですから、自も他もその元とは一つに帰さねばならないのです。
たとえば水のようなものです。水は元より一体でしょう。しかし、桶の水、井戸の水、川の水とその場所によってその名を異にしていますが、もし桶の水を取って、これを井中に投ずれば、桶の水と井戸の水と分つことができません。また井戸の水を取って、これを川の水に投ずれば、井戸の水と川の水と分つべからざるに至るのです。これは水そのものが一体であるためです。人生の最大要務が、自利利他の円満に帰するのも、この理に外ならないことです。ここに一つの面白い俗諺があります。「水の他人」・「あかの他人」と言う言葉があります。
これは世間においてよく耳にするところですが、しばしばこの言葉の意味を誤解しているものがあります。水の他人とは、見ず知らずの他人と思われ、あかの他人とは、真赤の他人、真の他人と誤解されています。これは誤りの甚だしいものでしょう。水の他人とは、すなわち水のごとき他人だというのでなくてはなりません。あかの他人ということも、また水の他人ということでなくてはなりません。
あかというのは梵語の水ということです。俗間に水をあかという語は沢山使われています。
あか瓶とか、あか棚とか、あか杓とかといって、水瓶、水桶、水杓のことを言っているのですから、あかの他人は、すなわち水の他人のことでしょう。なぜに水の他人、あかの他人というかと言えば、人は自己を離れて、皆他人ですが、すなわち水のごとき他人です。水の元とは一つであって合して分つことのできないものです。
人の元とも一つであって、その体を別々にしていますが、水のごとき他人ですから、他人を他人として、蔑視してはならないという意味でしょう。一視同仁と言い、四海同胞と言うのも、同じ意味のようです。一視同仁(いっしどうじん)とは地位や身分、貧富の差などに関わらず、すべての人に対して分け隔てなく慈しみの心で接することを表します。四海同胞(しかいどうほう)とは世界中の人々は皆兄弟である、という意味です。
俗諺においても、すでによくこのような意味を言い現していて、人間社会自然の理を尽くしているものと言わねばなりません。これによって考えるも、人生の最大要務を行えば、その効果は自利のみでもなく、また利他のみでもない、自利利他自ら円満にならざるを得ないのです。結局、利は一つであって、その通じるためでしょう。
それだからこそ一投足、一挙手の道理に、自我を実現し得ると言うのでしょう。
もし共通円満の利でなかったならば、到底自我を実現することができないのです。
◆第6章 人世の楽観◆
第1節 一粒の米の輝き
この節は、筆者が失明という絶望の中で、一粒の米に触れた瞬間に人生の意味と真理の光明を悟り、暗黒の境涯を照らす希望を見出した体験を通じて、日常の微細な事物に宿る哲理の尊さを讃える深い省察です。
筆者は、ニュートンが林檎の落下から重力を、ワットが湯気から蒸気力を発見したように、日常の眺望に潜む事物が真理の契機となることを説く。重要なのは、事物に触れた刹那に「覚り」があるかどうかであり、それが天地を破砕し、真理の光明をもたらす。
筆者自身も、失明による厭世の極みにあったとき、膝の上に落ちた一粒の米によって旧天地が破砕され、人世の趣味と最大要務を悟った。この米は微細な存在でありながら、筆者にとっては無尽の常灯であり、人生を照らす光彩となった。
この体験を通じて筆者は、自然界のすべての事物——季節の移ろい、渓声、山色、鳥や魚の営み——が真我を発揮し、真理の教師であることを深く感じる。万有は理教であり、万巻の書に限らず、日常の眺望の中にも真理は宿る。
ただし、これらの真理に触れるには「一大観心」が必要であり、因縁に従って深い内観を行うことで、大悟徹底の境地に至ることができる。筆者はニュートンやワットのような偉人ではないが、一粒の米によって得た覚りは、彼らのそれと同じく真理の光明に浴するものであると確信する。
結論として、一粒の米は微量であっても軽んじるべきではなく、筆者にとっては無上の良師であり、暗黒を照らす常灯であった。その光彩は天地と等しく、人生を根底から照らす力を持つと讃えられる。
ニュートンがリンゴが地上に落ちるのを見て、たちまち重力を発見し、ワットが鉄瓶の湯気を見て、たちまち蒸気の力を発見したように、私たち人間が日々に接する眺めの中の事物が、きっかけとなって、一つの大きな真理を発見させる例は少なくないのです。
あのリンゴが地上に落ちるのを見るようなことは、ニュートンだけが経験するのではなく、誰もがよく経験するところです。そして彼ニュートンのようにならないのは、そもそも何のためでしょう。
あの鉄瓶の湯気を見るようなことも、ワットだけが経験するのではありません。誰もがよく経験するところです。そしてワットのようにならないのは、そもそも何のためでしょう。ニュートンがリンゴが地上に落ちるのを見て、たちまち重力を発見し、ワットが鉄瓶の湯気を見て、たちまち蒸気の力を発見したように、私たち人間が日々に接する眺めの中の事物が、きっかけとなって、一つの大きな真理を発見させる例は少なくないのです。
あのリンゴが地上に落ちるのを見るようなことは、ニュートンだけが経験するのではなく、誰もがよく経験するところです。そして彼ニュートンのようにならないのは、そもそも何のためでしょう。
あの鉄瓶の湯気を見るようなことも、ワットだけが経験するのではありません。誰もがよく経験するところです。そしてワットのようにならないのは、そもそも何のためでしょう。ニュートンと言い、ワットと言い、この経験をして、重力または蒸気の力の発見をしたのは、普通の人と同じ経験ではありません。これを経験する瞬間に、一種の悟りがあったものでしょう。
すなわちこの時において、一つのリンゴは、ニュートンの古い世界観を打ち砕いたのでしょう。一個の鉄瓶は、ワットの古い世界観を打ち砕いたのでしょう。ここにおいて初めて、ニュートンもワットも悟るところがあったのでしょう。
昔から流れる水を見、落ち葉を観じて、生死の大事を解決し、それによって大いに悟り徹底した例があるように、一つの悟りがあったものに違いありません。そうでなければ、普通の人の見方と、あえて異なるところがないのです。故に、一つの悟りがなくてはなりません。もしそれこのように大きな悟りを得るならば、ニュートンだけではなく、ワットだけではなく、大きな真理の光明を浴びることでしょう。私が失明後における失望は、ついに世を厭う極みに陥りました。
この時、ただ一粒の米が膝の上に落ちて、私の古い世界観を打ち砕いたのです。たちまち私に人間社会の趣があることを知らせたのです。あの一粒の米は僅かに1.6立方センチメートルに過ぎない小粒です。2センチグラムに足りない重量です。このような小粒、このような微量が、たちまちよく私の世界を打ち砕いたとは、実に驚くべきことではありませんか。この小粒も、この微量も、これにおいて天地と同じものではないでしょうか。一粒の米が私の世界を打ち砕いて、既に死に損なっていた私を救い出して、よく人生の最も大きな務めを悟らせたとは、一粒の米は、実に私の将来の永い世界となったのです。私が暗黒の境遇を照らす尽きることのない常夜灯となったのです。それでは、一粒の米の輝きもまた大きなものと言わねばなりません。
私はこの境地に接して、ますます深く感じるところがあります。私たち人間の眺めの中に、冬が去り夏が来て時が移り変わる様子を見ても、またいかなる小さな断片やわずかな量が変化するのを見ても、これを軽んずることができないということを深く感じたのです。
私たち人間を取り囲む一切の事物は、必ず本来の真の姿である真我を発揮して、大きいも小さいもなく、常に私たち人間の心に徹底を与えるべく、きっかけをなしているのです。谷川のせせらぎもまた広く長い舌を振るっています。山の色もまた清らかで静かな姿を現しています。それ故に万物はすべて教えなのです。よろしくこれらの万物に接して、その中に真理の光明を認めなければならないでしょう。これを認めれば、一切すべてが私の良い師です、私の良い友です。人間社会は期待できないとして失望することもなく、煩悶することもありません。
大地は私に文章を託しています。花に鳴く鳥、水に住む魚、生きとし生けるもの、歌を詠まないものはありません。自然の真理は、必ずしも多くの書物の中に存在するだけではありません。普通の眺めの中の道理にもよく存在しているのでしょう。しかし、ただよくこのようになろうとすれば、きっかけに従って大いに心を観察しなければなりません。大いに心を観察して大悟の徹底をなせば、初めて天地が正しく位置し万物が育つ境地を得るに至るでしょう。
私はニュートンのごとく、ワットのごとくなることはできないといえども、彼らが地上に落ちるリンゴを見、鉄瓶の湯気が吐き出されるのを見て悟ったごとく、一粒の米のただ一つの小粒によって、私の世界は打ち砕かれ、真理の光明を浴びたこの境地は、あえて変わるところがないのです。
私はニュートンのごとく、ワットのごとくなることはできないといえども、彼らが地上に落ちるリンゴを見、鉄瓶の湯気が吐き出されるのを見て悟ったごとく、一粒の米のただ一つの小粒によって、私の世界は打ち砕かれ、真理の光明を浴びたこの境地は、あえて変わるところがないのです。
一粒の米、一つの小粒だからといっておろそかにすべきではありません。
一つの微量だからといっておろそかにすべきではありません。その体積、その重量もまた天地と同じものがあるのです。
何といっても一粒の米は、私にとって最上の良い師でした。私の暗黒を照らして、遺憾のない常夜灯でした。
実に一粒の米の輝きもまた大きなものと言わねばなりません。
第2節 真理の無限性
この節「真理の無限性」は、一粒の米の驚異的な繁殖力を通して、真理とは尽きることのない無限のものであり、人間はそれを追い求め続ける存在であるという、壮大な哲学的洞察を展開しています。
筆者は、一粒の米が年々繁殖し、わずか五年で国の米生産量の何十倍にも達するという事実を示し、その生命の連続性と拡張力に驚嘆する。この無限の繁殖力は、人世の無窮性を証明するものであり、同時に真理の本質もまた無限であることを示している。
真理は、一度「得た」と思っても、それはほんの数歩に過ぎず、常に新たな誤りや未完成を含んでいる。筆者は、誤りや偽りを恐れず、それを正すことで真理に一歩近づくことができると述べる。仏陀が「未だ真実を説かず」と語ったのも、真理の無限性を示す逆説的な表現である。
真理は無限であるがゆえに、人間もまた無限の探究を要する。実験や経験は、真理を求める道場であり、そこに尽きることのない趣味と味わいがある。一粒の米が生命を継ぎ、遺伝を重ねて無限に広がるように、人間もまた真理を辿り続け、向上し続ける存在である。
筆者は、真理の探究こそが人間の生命であり、栄養であるとし、それを尽くすことは不可能であるが、尽くそうとする営みそのものが人間の本質であると結論づける。
一粒の米のもみを取って、これを地上に置けば、彼はよく発芽し、分けつして、花咲き、実を結びます。
もしよくこれを培養してその法を得れば、この一粒のもみは一年において、少なくとも茎数十五本となり、一茎また百粒を生ずるのです。このようにして二年、三年これを培養し、繁殖させれば、その数ははたしていくらとなるでしょうか。
ただ一粒のもみをよく繁殖させて、遺伝に遺伝を重ね、生命に生命を継がせれば、無数無限の数を生ずるのです。一粒のもみが初年次において、すでに十五茎となり、一茎百粒を生じて千五百粒を産するのです。
二年次に至れば、その千五百粒は各々千五百粒を生じて、すなわち二百二十五万粒となるのです。こうして三年四年五年と、繰り返し繰り返して繁殖させれば、その数は次のようになるのです。年次…生産
初年…1,500粒
2年…2,250,000粒
3年…3,375,000,000粒
4年…5,062,500,000,000粒
5年…7,593,750,000,000,000粒
このように五年次に至って、その数は7593兆7500億粒の多きに至るのです。
これを石数に改算すると、実に15億1875万石となるのです。
我が国の米の生産高が平年4千万石であるとすれば、ほとんど40倍の産額を、五年次の一年において産出するのです。ただ一粒のもみが僅かに五年次において、繁殖してこのような多数に至るとは、驚くべきことです。
もし十年次にも至れば、その数は576650390625000000000000000000000粒となり、その石数は115330078125000000000000000石となって、これを口に称するのも容易ではないのです。
三十三間堂の仏の数を計るがごとき比ではありません。これが繁殖して二十年三十年となれば、その数はこれを計算するさえ容易ではなく、口に称することもできないようになります。それこのようになるとすれば、一粒のもみも、無限の繁殖力を有しているものと言わねばなりません。このように繁殖すべきものであることは、現在私たち人間がこれを培養して、疑わないところの経験です。一粒のもみが遺伝に遺伝を重ね、生命に生命を継いで、このような無限の増加を致しているのは、人間社会もまた無窮無限であることを証明しているのです。
したがって真理もまたこのように無限であって、これを究めてもよく尽くすものではないでしょう。
私が一粒の米に心打たれて、ここに真理を確得したようですが、これを確得したと思うのはかえって誤りでしょう。
真理が無窮であって、ただ一粒のもみが繁殖して無窮無限となるのと同じですから、これを追ってもよく及んでしかも及ぶものではありません。これに達してもよく至ってしかも至るものではありません。もしこれに及び、これに至るならば、真理もまた無味なきものと言わねばなりません。
真理とは決してそのような無味のものではありません。人間社会の無窮無限は、真理の無窮無限を蓄えているのです。だから私が上来叙してきたところのものは、ただこれ真理の数歩に過ぎないことです。決して真理を確得し、真理を尽くしたものではありません。ただ誤りと偽りを叙したに過ぎないかも知れません。
否、誤りとなり、偽りとなり終わらんことを望むのです。これを誤りとなし、偽りとなして、正す時があるならば、私は真理の上に一歩の進みを得たのです。だから私は偽となり、誤りとならんことを希望してやみません。
真理は尽きて尽きないものだからです。仏陀が四十余年未だ真実を説かずと言ったのも、かえって真実を説いたのでしょう。真理は無窮です。
無窮であるがゆえに、私たち人間はまた無窮の研究を要するのです。
実験するところは、実に無窮の真理を求める道場となり終わるのです。もって極まりなきの無窮の趣を得、尽きることない無窮の味を得るのです。一粒のもみが遺伝に遺伝を重ね、生命に生命を継いで極まりないがごとく、私たち人間もまた極まりなき真理を辿らなければなりません。
私たち人間が人間社会に向かって向上する理由のものは、全くここに存在するのでしょう。
無窮の真理は私たち人間の生命です。私たち人間の栄養です。それは尽きることのないものでありながら、尽くそうと究めるべきものといえるのではないか。
第3節 永遠の命という死生観
この節は、筆者が盲目という苦境の中で生と死の意味を深く問い直し、仮有の現象としての生死を超えて、魂の向上による「永遠の命」の実現こそが人間の本質的な生き方であると悟る、壮大な霊的・哲学的省察です。
筆者は、生あるものに必ず死が伴うという現実に苦悩し、盲目の境遇から死を安らぎと見なすようになったが、やがてその考えが生の本質を知らないことに起因すると気づく。生を愛し、死を憎むだけでは、生は苦しみに変わり、死も恐怖となる。生死の現象に執着する限り、人間は真の安らぎを得られない。
そこで筆者は、生死を超えた魂の実体に目を向け、深い内観(大観心)によって「依って来り、依って去る」存在の根源を悟ることで、永遠の命を自得する道を示す。生も死も仮有の現象に過ぎず、魂の向上によって生命は無窮無限となり、死後もなお生き続ける。
楠正成の例を挙げ、彼の短い生涯が忠義の精神によって永遠の命となり、歴史と人々の心に生き続けていることを示す。このように、短い生でも最大要務を果たし、魂の向上を遂げれば、それは永遠の命となる。
筆者は「朝に道を聞いて夕に死すとも可なり」という言葉を引用し、一日の生命でも真理を悟り、要務を果たせば永遠の命に通じると説く。寿命の長さではなく、魂の向上こそが生の価値を決定する。
結論として、生は愛すべきものであり、死は憎むべきものではあるが、魂の実体に帰すことで、生死を超えた境涯に至り、恐れも執着もなくなる。人間の本質は永遠の命であり、日々よく働き、よく勤めることによって、その命を実現することができる。一日の生もまた永遠の命となり得るのである。
生きているものには必ず死があります。死は生きるものが免れ得ないものです。
しかし、生死を繰り返しながら悟るところがなければ、人間社会における私たち人間の立場は、一日の安らぎを得ることができないのです。もし生を愛して死を惜しむだけであったならば、生はかえって苦しみとなってしまうのです。結局、生を愛するが故に死を憎むのです。死を憎むが故に生の苦しみとなるのです。それ故に生死を離れて、別に悟るところがなくてはならないことでしょう。私は盲目の身となって、人間社会に失望し、煩悶し、むしろ死を安らかなものと思いました。
生は私を苦しませるだけです。死ねばこの苦しみを逃れることができるだろうと思いつめたことです。
何故に生がこのように苦しいのでしょうか。何故に死をそのように安らかなものと思うのでしょうか。
死んだらといってどのような楽土が存在するのでしょうか。死ねばただ冷たい肉体を残し、感覚もなければ意識もなくなって、屍は棺の中に納められ、暗い箱の中に釘付けとなり、そして恐ろしい猛火の中に投げ入れられて、茶碗一杯の煙となってしまうか、あるいは哀れにも土中に埋められて、肉が腐り骨が朽ちる最後を迎えるのです。私は死んでこのようになるものとすれば、恐ろしくもまた哀れです。
いったいどこに楽土が存在するのでしょうか。
それを私が生を厭って、死を得ようものと思ったのは、何のためでしょう。生きていて、そして生きる理由を知らないがために、生きているながらも、ほとんど私の生命が存在することを悟らないがためではないでしょうか。それ故に、生の楽しいことも苦しみと変じているのです。
実にこの時の私は、生死を繰り返して、哀れにもまた恐ろしい境遇に沈んだのです。結局、生死の境遇を悟らないがためでした。すなわち生きている理由を知らないがためでした。人として生きる理由を知らなければ、生の愛すべきこと、死の惜しむべきことをも知ることができないのです。私たち人間はどこから来て、どこに去るのでしょうか。
生と言い、死と言うも、仮のものである現象ではないでしょうか。
その仮のものである現象に執着して、生死を脱せず、情愛を離れないでいては、到底私たち人間がどこから来て、どこに去るかを知り得ないのです。
私たち人間は生死や憎しみ愛しみの念を打破して、魂について大いに心を観察するならば、自然とどこから来て、どこに去るかを、明白に認識することができて、それによって永遠の命を自分のものにするでしょう。
こうすれば生もなく死もない。それ故に生として愛すべきでもなく、死として憎むべきでもない。もし真にこの境地を自分のものにすれば、したがってまた生の愛すべきことを知るでしょう。私たち人間は人間社会に生まれて僅かに五十年、もしこれ以上の寿命を得ても、百年二百年に過ぎません。
これを人間社会の無限なるものに比べれば、一瞬です。このような短い時間において、私たち人間は生を終わるものとすれば、実に心細いものと言わねばなりません。
しかし、私たち人間はこのような短い生命に限られるものではありません。
生命は生命の向上をなして、無限なものです。死後なお永遠の命を有するのです。
生は結局、仮のものである現象に過ぎません。仮のものである現象に過ぎないといえども、生はすなわち生命の向上をなさせるための生です。生まれてそしてよく働き、よく務めれば、自然と生命の向上を遂げて、人間社会の徳が一つになることに帰するのです。故に、向上した生命は、人間社会と共に無限なのです。あの楠木正成が、僅かに四十二年の歳をもって、湊川で殉死しましたけれども、正成の寿命は、果たして四十二年の短い時間に限られているでしょうか。
彼の生命の向上は、忠義の神となって、今なおよく生きているではありませんか。私たちが歴史を読んで、正成が、千早、金剛山、湊川と奮闘苦心し、それによって国家に忠義を尽くした事跡を読むに至れば、感激が一層深く、血が湧き肉が躍ることではありませんか。このようになるのは、正成がよく生きている理由でしょう。彼の忠義の魂は歴史と共に存在して、私たち人間の生命に受け継がれているがために、なおよくこのようにさせるのでしょう。それでは、私たち人間が五十年の生命も、また短いとするに足りません。
短い五十年がすなわち永久の寿命を現し、生命に生命の向上を遂げさせるのです。生きて一日の生命を長くし、よく働きよく務めて、死後なお永久の寿命を保たねばなりません。
生命は生と死を通じて永久なのです。ただ仮のものである現象にのみ頼って、生死を繰り返すようなことは、根本の意義を悟らないのです。これを悟れば、生は永久の寿命を現す生であることを知り、自然と生の楽しく愛すべきことを知って、死もまた惜しむに足らず、現在も将来も共に楽土である境地を得るのです。これをもって私たち人間は一日の生命を長くして、人間社会に向かってよく働き、よく務めねばなりません。
よく働き、よく務めるのは、生命の向上を遂げて、無限の寿命を実現しようとするのです。生を欲するものはよろしくここに依らねばなりません。
故に一日たりとも、一瞬たりとも、私たち人間の生を保たねばならないことです。
しかし、ただ寿命を長くすれば、それで足りるものと思うのは間違いです。寿命が長ければ恥も多い。生の長さを得たからといって、人生の最も大きな務めを果たして、生命の向上を遂げなければ、ほとんど生きる価値を存しないのです。むしろ恥の多いものを残すのです。それ故によく働きよく務めて、人生の最も大きな務めを尽くせば、たとえ短い時間に終わるとも、その数年あるいは一日は、永い生命となるのです。先哲が「朝に道を聞いて夕に死すとも可なり」と言ったのは、一日の生命は、よく永久の生命であることを自覚せよと言ったのです。ただ百年二百年の生命を保つとしても、向上に向上を遂げて、永遠の命を実現するのでなければ、ほとんど生きて甲斐のない人と言わねばなりません。要はただ人間社会の最も大きな務めを実行することにあるのです。
ああ、生は愛すべきです。ああ、死は憎むべきです。
しかし、生の愛すべき理由を悟れば、自然と永遠の命を実現して、死もまた惜しむに足らないことを自分のものにするのです。これに至れば死も生もなく、愛も憎もなくして、さらに恐れるところがないのです。
元来、私たち人間はどこから来て、どこに去るべきものでしょうか。これを究めれば、ただそれ魂の実体に帰するのですから、既に生もなく死もない境地です。私たち人間の実体が既に元より永遠の命なのです。
それだからこそ、生きてよく働き、よく務めて、生命の向上を遂げ得る理由です。魂は人間社会の仮のものを離れずして、仮のものはすなわち魂の存在するところですから、私たち人間の一日の生は、永遠の命となる訳です。
おそらく生きている理由のものは、永遠の命を実現しようとするための生です。また一日を長くしてこれを愛さなければならないことです。
第4節 暗闇の中の光明
筆者が盲目という境遇の中で、一粒の米が放つ象徴的な光明によって人生の意味と喜びを再発見し、人世の要務を果たす勇気と安心を得た過程を描いた、深く感動的な回想と哲学的省察です。
筆者は十四年間盲目の境遇にありながら、一粒の米が放つ光明によって人世の意味を悟り、暗黒の中に鮮明な希望を見出した。物理的な視覚を失っても、魂の光は万人に等しく与えられており、盲目であっても人世の快楽と真理に触れることができると筆者は確信する。
聴覚・触覚・嗅覚などの感覚が補完し合い、音響や風、空気の圧力などから空間や物体の性質を把握することで、筆者は数学的・幾何学的な系統を感じ取り、日々の生活に深い趣味と哲理を見出している。視覚に頼らずとも、世界を多面的に捉えることが可能であり、むしろ視覚に制限されない自由な洞察が得られると述べる。
道を歩む経験からも、筆者は「大もなく小もなく、ただ両足の地あるのみ」という真理を発見し、それを人生の歩みにも重ねる。盲目の境遇は不自由であるが、そこから得られる発見と喜びは、哲学書を読むような深い充実感に満ちている。
余土村村長としての職務や日常生活においても、筆者は盲目であることを理由に退くことなく、むしろ困難の中にこそ美しい成功があると語る。すべての行動の根底には、一粒の米が放った光明があり、それが筆者に安心と勇気を与え、人世の要務を果たす力となっている。
最後に筆者は、失望や煩悶に沈む人々に向けて、無尽の光は常に人世を照らしていると語りかける。一粒の米の光明は、盲目の筆者にとって千万燭光の電灯に勝る灯となり、誰もがその光を見出すことで、人生の暗闇を照らすことができると力強く締めくくる。
四面ただ暗黒に閉ざされて、手の届くところも見分け得ないという暗夜に、もし一点の灯明を輝したならば、その灯明はいかに鮮明でしょう。暗黒であれば暗黒であるだけ、その灯明は鮮明であって、紛れることがないのです。
私たち人間が人間社会に処して波瀾があり、失望があり、迷いに迷いを重ねて、人の世の暗黒に彷徨することの多きものは、人の世を悟って、一点の光明を発見しないからです。もしこれを発見すれば、暗夜の灯明のように、実に鮮明な光を得て、迷いなきを得るのです。
私は十四年来盲目の境遇にあって、四辺ただ暗黒に閉ざされています。
一つの灯明を輝かすも、たとえ千万燭光の電灯を輝かすも、私においてはさらに一つの光明を認めることができません。しかし、人間社会の灯明は無尽です。魂の輝く光は無限です。人間社会を照らして隈なき灯明です。
もしこの灯明を認めれば、たとえ私のような盲目の暗黒も、その光明に浴することができるのです。私はただ一粒の米の放てる光明によって、初めて人間社会の光を認めて、ちょうど暗夜の灯明のそれのごとく、非常に鮮明に感じ、延いて人間社会の楽しきことを知り、我が身が盲目であるのを忘れ得たのです。
盲目の境遇は、必ずしも人の世に処し得ない者ではありません。たとえ両眼の明るさを失っても、人間社会の光明は、盲と明眼とを区別しません。魂の光明は、人間社会一切の共有です。盲目の私、どうして独り取り残される者でしょうや。だから、両眼の明るさがなくとも、また人の世に処して、人の世の快楽を得ることができます。
目を失えば聴覚や、臭覚や、触覚が意外に発達して、その足りないを補っています。
道を進むにも、各種の音響が、私の行くべき方向を教えます。音そのものは一つの波動です、波動は波形をなして来るのですから、曲がり角があれば、音響は必ずその方向より来て、壁に当たり家に支えられて、必ず角度を造るから、自然に方向を得るのです。また空気の圧迫、風の方向が、曲がり角や、建築物、その他電柱、車体等の障害物の存在を知らせます。物がいかなる物であるかも、音を聞くと、分子運動によって原子が、その性質を言い現してくれます。物を書くにも、読むにも、指の頭においてするのですから、触覚が視覚の不足を補うのです。
また音響や、風の方向、空気の圧迫に一つの正しき系統があって、これを求め探れば数学もその内にあり、幾何学もその内にあるのであって、頗る趣味を感ずるのです。目のある人は道を行くにも、ただ前面の物のみを見得るが、私は側面も、背面も、同時にこれを見るのです。
車が後より疾駆し来れば、その音響によって、すでにその距離をも測定し得るのです。
また室内にいて目のある人は、障子や壁に支えられて、眼界に制限され、障子一重をも見透すことができませんが、私はこれらの障壁を透して、千万里を洞見することができると思えば、盲目の眼界もまた狭くないのではないでしょうか。否、かえって見え過ぎるに困るのです。牛と思えばたちまち牛が躍り出ます。犬と思えばたちまち犬が飛び出ます。その他溝川と言わず凹凸と言わず、思いに従って物体が見え来るには、かえって困るようなことがあります。だから盲目の境遇もまた人間社会の楽しみがないではありません。
境遇そのものより一種の系統を見出し、また一大真理を発見することも少なくないのです。
私が小さい道を歩むとき、人は小径であるから、危いとしてしきりに庇ってくれます。
その同情は、私の手を強く握りつめ、果ては体を抱きつめて、ほとんど私は進退の自由を得ないまでになります。そして大道に出ずると、ここは道幅五六間もあれば、「大丈夫目なくとも行ける」といって、さらに庇ってくれないことがしばしばあります。私はこの時に思いました、道を行くにはただ両足によって行くのです。だから両足が踏むべき地があれば、もって足るのではありませんか。大道であるとて、私が踏むところの足幅が大となるのでもないから、小径とさらに選ぶところなく、両足が踏むところは同じことです。
殊に私のような盲人は、道の両端を求めるに注意せねばならないのです。たとえ両足によって行くものとしても、道路の両端の線に並行して、一歩二歩を進めなければ、線外に墜ちるのです。よって小径を行くには、道路の両端が足下にあって足先にてもよくこれを知ることができるから、かえって便なのです。
大道に出ると、両端の並行線が遠くて、常に多くの注意を払わねばなりません。
もし迂闊に進むときは並行線に交叉して線外に落ちることがあります。それゆえに大道を行くには、中高の道であれば、足を地に引いてその高きを回り、もしそうでなければ、一端に寄って、並行線を探りつつ行くのですから、大道はかえってこれを小にして歩んでいます。結局、道を歩するに大もない小もない、ただ両足の地があるのみということを覚えたことです。これはただ道路を歩むのみの真理ではないでしょう。これを味わえば、人生もまたこの真理によって解釈されるものでしょう。
このように私が盲目の境遇において、物に触れ事に当たって、様々の真理を発見することがしばしばです。だから私の境遇は目にこそ見ね、数多の哲学書や、心理書や倫理書、理化学書を読んでいるような心地して、一日一刻がまた愉快です。このようになれば何事をなしても、人の世の要務を果たし得ないものではありません。
私は失明後まだ経験に乏しく、実に盲目の子供でしたが、明治三十一年、私の郷里の人は、私をして村長の職に就かしめました。廃物を利用した、村の人の心中ははたしてどのようなことを期したでしょうか。
私はこの職に就いて、十年村治に関わって見ました。しかし、やってみればやれないこともありませんでした。
十分な治績を挙げることはできませんでしたが、あえて人後に落ちるようなことはなかった積りです。
また私は家にいて飯も炊き、衣類も畳む、手紙をも書く、何でも大抵の用は弁じ得ます。不自由の内にこのことを遂げるのがかえって愉快です。困難が多ければ多いほど、成功が美しい。暗中の光は、実に鮮明なものではありませんか。
結局、私がこの境遇に処して、そしてこのように楽しく、人間社会の要務を果たそうというのは、ただ一点の光明を得たからでしょう。これによって暗黒を照らされて、もって人間社会に処する安心を得ているからでしょう。
この安心を得なければ、また一日の生を全うすることもできないのです。それでは一粒の米より発射した光明が、眼なき私のために、人間社会の暗を照らし、無尽の灯となって、千万燭光の電灯に勝る無尽灯となりました。盲目の境遇においてすら、なおこの光明を認めることができます。
もし世の目ある者にして、それこの無尽灯を発見すれば、盲目の境遇に勝る、最も大なるものがあるでしょう。
世に失望し、煩悶する人よ、決して自ら棄ててはなりません、無尽の光は常に人間社会を照らして、燦然として輝いているのです。一粒米 完結
参考文献
[1] 『一粒米 付俳句俳論・天心園』愛媛文学叢書刊行会編、青葉図書〈愛媛文学叢書 2〉、1990年6月、復刻増補版。


