森盲天外著 未発表原稿「盲人の読書難」を読む

「盲人の読書難」は、長らく余土公民館の資料庫に眠っていた未発表原稿をもとに、近年になって初めて翻刻・公開された貴重な文章である。


盲天外は、点字書籍がほとんど存在しなかった時代に、「知りたい」「学びたい」という強い願いを抱きながら、読書がいかに困難であるかを自らの体験を通して記しました。

他人に読み上げてもらう負担、誤読を瞬時に補正する精神的疲労、難解な漢字や新語を耳だけで理解する苦痛――。盲天外は、読書の自由が奪われた盲人の現実を鋭く描き、社会に点字書籍の整備を強く求めました。

本稿は、近代日本における盲人の教育・文化アクセスの問題を示す、貴重な記録です。

今回の意訳は、原文の語り口や思想的背景を尊重しつつ、現代の読者にも理解しやすい形で再構成したものです。盲天外の思想に触れ、その深奥を汲み取る一助となりましたならば、編者としてこれに勝る喜びはございません。


意訳:井上雅史 (一粒米の会 会員)
                                             

目次

 ◆盲人の読書難◆

私のような盲目の境遇では、いわゆる普通の文字を読むことができません。
そのため、点字の本を指先で探りながら読む以外に方法がありません。
点字とは、盲人のために用意されたもので、この点字の本さえあれば、盲人であっても普通の人と同じように読書の自由を得ることができます。

しかし、わが国にはまだ点字の本がほとんどありません。ほぼ全く無いと言ってよいほどの状態です。
そのため、本来なら読書できる自由があるのに、読むことができないのは非常に残念なことです。
そこで、やむを得ず私は普通の文字の本を読まなければなりません。
しかし、それを読むにはさまざまな困難と苦痛を感じます。
ここでは、その経験を述べて、盲人にとっての読書がどれほど困難を伴うものかをお話ししたいと思います。

私の境遇から言えば、いわゆる普通の文字というものは存在しません。
文字の形を見ることができないので、私には文字が無いのと同じです。
だから、文字の無い私の境遇では、本来読書の資格が無いと言わざるを得ません。
その資格の無い私がここで読書について語るのは無駄のようにも思えますが、当時は国語や漢字について世論が騒がしい時期でもあり、何か参考になるかもしれないと思うのです。

さらに、私たち盲人の境遇には普通の文字は無いとはいえ、この世の中は盲人だけではなく、多くが晴眼者です。
この多くの晴眼者と共に生きていこうとすれば、どうしても普通の文字との関わりが生じ、無関係ではいられません。
いや、それどころか、普通の文字を読み、知っていなければ盲人の独立も不可能です。
そのため、読書の資格が無い者でも、必要に迫られて読書をせざるを得ないのです。

境遇が変わると不思議なもので、世の中のことを知りたいという気持ちが強くなります。
また、知らなければ社会の中で生きていくこともできません。
そこで私は、目が見えていた頃よりもさらに読書癖が強くなりました。
毎日の新聞や雑誌、書籍を読むことが何よりの楽しみなのです。

見えない境遇で、無理にでも見ようとするのは、いわば「盲目の垣間見」とでも言うべきでしょう。
私は毎日この欲望を満たすために苦しんでいます。
しかし、この欲望を満たすには、人の目を借りなければ読むことができません。
そのため、新聞一枚を読むにも多くの費用がかかります。
新聞代や本代は実に安いのですが、「目の借り賃」に多くのお金がかかるのです。

その費用はまだお金で済むから良いのですが、他人の目を通して読書する間に、どれほど私の脳力を消耗するか、そしてその結果どれほど健康を害するか、分かるでしょうか。
他人の目を通して読む私は、目で読むのではなく、完全に耳で読んでいるのです。

新聞や雑誌、書籍を読むとき、読んでくれる人は疑問があろうとなかろうと、とにかく読み進めます。
声は生まれた瞬間に消えていきます。
その一瞬の間に、私はさまざまな疑問が湧いてきます。
「私立」と読めば、それは「わたくしりつ」なのか「しりつ」なのか。
「書簡」と読めば、それは「しょかん」なのか「しょかん(暑寒)」なのか。
頭の中で置き換えて考えます。

同時に、見えない私の目の前に、その文字の画数や形を思い浮かべなければなりません。
また、読んでくれる人が発音を間違えることもあり、たとえば「堅固」を「健康」と読んだりします。
すると、前後の文脈から、先ほど聞いた「健康」は間違いで、「堅固」だと判断し、正誤をつけていきます。
そのたびに文字が頭に浮かびます。

このように、疑問が生じて文字を入れ替えたり、正誤を判断したりしている間にも、声はどんどん進んで消えていきます。まるで活動写真(映画)のように、次々と流れていく中で、これほど複雑に脳を働かせ、瞬間ごとに多くの余裕を保たなければならないのです。

さらに、当時流行の新しい熟語が次々と作られ、非常に困ります。
「墺塞の紛乱」(おうさいのふんらん)だとか「誰それの渡印」などと聞くと、なおさら分かりません。「墺塞」(おうさい)とは、よく調べると「墺地利(オーストリア)」と「塞爾比(セルビア)」のことだったり、「渡印」とはインドへ行ったことだったりします。
頭をひねって一つの語を作り出したようなもので、西洋の奇形児を見るような感じがします。

私は明治三十二年に一切経を購入しましたが、これも読書癖のせいです。
その時、友人から笑われました。
晴眼者でも一切経のような大部のものは簡単に読み切れない。
それなのに盲人の身でこれを買い、読もうとするのは愚かではないか、と冷笑されました。
家族からも反対されましたが、私はついに決行しました。
それからは暇さえあれば読み続けています。
しかし、この一切経を読むには、例の「目の借り賃」が少なくありません。
最初に高いと思った書籍代よりも、さらに何倍もの費用を払わねばなりません。

そのうえ、一切経の無点本で、梵語や陀羅尼がたくさん入った漢字の行列を読める人はなかなかいません。
僧侶でも田舎では読める人は非常に稀です。
たまに読める人がいても、私のために読んでくれる人はいません。

そこで京都や比叡山まで出かけて読んでもらったり、家では読書力の乏しい者を捕まえて読ませたりしますが、非常に苦しそうで捗りません。ただ汗を流して「うん、うん」と言っているだけで、私は癇癪が起きてきます。
ついには読むのを諦め、やむなく相手の手のひらに文字を書かせて読んだりします。

このようなことをしても、なお読書の欲望を満たそうと努めています。
その間、どれほど脳力を使い、健康を損なうか分かりません。
こうした経文を読むと、後で頭の中が何とも言えない状態になり、ついには熱湯が煮え立っているような感覚になって、食欲もなくなるのです。

さらに、文字の習慣とは恐ろしいものです。
耳で読む私は、文字への執着が離れません。
聞いているうちに、その文字が一つ一つ目の前に浮かんできます。
盲目の境遇には文字の形は無いはずなのに、脳の働きによってこのように現れるのですから、流れる水に数を書くよりも儚い思いがします。
だから、このように文字を思い浮かべることをやめたいと思っても、難解な文字や新しい熟語が多いため、そうせざるを得ません。
意味を理解するためには、どうしても文字を思い浮かべる必要があるのです。
目の前に現れる文字を払いのけ、消し去ろうとしても、紙に書かれた文字ではないので、払おうとする手にまとわりつき、消そうとする手にまた現れ、払っても払っても消えません。
このような困難を犯しても、私は読書の欲望を満たそうとしています。
これは、不自由な盲目の境遇が生み出す反動でしょう。
その反動が強い欲望となり、やめることができません。

時にはあまりの苦痛に耐えかねて、もう断念しようかと思うこともありますが、断念できません。
しかし、盲人に対する社会の設備が整い、点字の本が多く供給されるようになれば、このような苦痛もなくなるだろうと思うことがあります。

けれども、わが国の社会設備はなかなか進歩しません。
前途はまだ遠いように思われ、失望せざるを得ません。
たとえその時期が来たとしても、今日のように漢字が盛んに使われている状況では、点字だけで理解しきれないことが多く、結局は現在も将来も永久の失望と言わざるを得ません。

西洋ではアルファベットの符号がほとんど世界共通で便利であり、どんな書籍も大抵点字で供給されているといいます。
そのため、私は十五、六年間もやめていた英語を、最近また学び直すようになりました。
かつて目で学んだ弊害は今も残っていますが、さらに耳から学ぼうと考えています。

もともと語学は耳で学ぶのに適しているのでしょう。
目はかえって妨げになります。
目が妨げるから完全な発音ができないのです。
最近の経験では、語学を学ぶには私の境遇はむしろ都合が良いように思えます。
目が見えていた頃よりも上達する確信さえあります。

しかし、十五年間もやめていた英語を、不自由な身で耳から学ぼうとするのは、他に理由があるわけではありません。
英語なら、どんな種類の本でも点字で供給されています。
点字の本なら自由に読むことができる。
その自由を得て、読書の欲望を満たしたいという一念にほかなりません。

もし日本の社会設備が整い、日本語の点字書籍が十分に供給されるなら、なぜこの不自由な身で今さら英語を学ぶ必要があるでしょうか。
ただただ、自由への切実な願いと、読書趣味の欲望を満たしたいだけなのです。

私はすでに十年以上の経験から、読書の困難を深く感じています。
少しでも世の同情を求め、わが国十万の盲人に幸い読書の自由が与えられることを切望せざるを得ません。

参考文献

[1]  新出資料・森盲天外の「盲人の読書難」について」(『新居浜工業高等専門学校紀要』58巻、新居浜工業高等専門、2022年1月)

【付記】
本研究は、科研費の助成金によって作成されました(JSPS科研費 22K00357)。
This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 22K00357.

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